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ロサンゼルス国際空港(LAX)では、アメリカの航空会社以外はほぼターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)から発着している。そのうえ、発着便が集中する時間帯もあるようなので、余裕をみて早めに滞在先を出発し、空港に向かった。幸いフリーウェイの渋滞はほとんどなく、搭乗時間の4時間くらい前に空港に着いた。ターミナルBに入り、まずはスーツケースを預けてしまおうと、航空会社(ANA)のカウンターに行ってみると「出発の3時間前に窓口は開きます」との表示があって、スタッフの姿はなかった。「あと1時間か…」と、つぶやきながら少しぶらついてみたが、搭乗手続きのフロアには飲食する場所やトラベルグッズのお店くらいしかない。ここで何もせずに時間を潰すのももったいないので、帰国便もスーツケースを機内に持ち込むことにした。小さなスーツケースでの旅は、こういう時に楽だ。だけど、預けるつもりだったスーツケースにペットボトルの水を入れていたことを忘れていたので手荷物検査で引っ掛かり、ペットボトルは未開封のまま没収された。反省…。出国手続きを終えて搭乗口のあるフロアに入ると、ブランドショップやお土産のお店などが並んでいた。とはいえ、どのお店も品揃えは豊富とは言えない。気の利いたお土産が買いたいなら、空港に来る前に買うのが正解だと思った。ここで僕は、免税店でお土産のチョコレートをいくつか買った。それから搭乗口に向かう途中で、蒸しパンのような大きなパンと、野菜ジュースのようなソフトドリンクも買った。搭乗口の近くに座って、パンを食べたり荷物の入れ替えをしながら搭乗までの時間を過ごした。不慣れなアメリカひとり旅も、あとは飛行機に乗るだけ。しかも飛行機は日本のANA。そう思うと、僕の心は一気にゆるゆるになり、至福の時間になった。意外なことに、アメリカからの出国に際して、LAX空港に着いてから飛行機に搭乗するまでパスポートを一度も使わなかった。特に搭乗口では、チケットも使わず、顔認証でゲートが開いた。(念のためパスポートとチケットを手に持っているようには促されたものの、使うことはなかった。)こんなに簡素化しても乗客の誤進入や悪意のある侵入を防げているのだからすごい、とひたすら感心しながら機内に向かった。
April 27, 2024
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柳町(やなぎまち)仙台藩祖・伊達政宗公と共に仙台に移り住み、代々伊達家に仕えてきた商人や職人の町。いわゆる政宗公お抱えの、由緒ある商人や職人が住む町は「御譜代町」と呼ばれ、柳町は、仙台城下に6つある御譜代町のひとつでした。かつて柳町だったエリアは、今、仙台市青葉区一番町一丁目、片平二丁目のそれぞれ一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕柳町の東端には大日如来があり、境内に辻󠄀標「柳町/教楽院丁」が建っていました。辻󠄀標では「柳町」を次のように解説しています。「伊達氏の御譜代町で茶の税が免除され、裏には茶畑があったという。初めは元柳町に置かれ、寛永初年南町と北目町の間に移され奥州街道筋となった。商人と御職人の町で田善銅壺屋は最も古い店の例である。」(辻󠄀標10番。昭和53年設置。設置場所:大日如来境内)そして、辻󠄀標が建つ大日如来の説明板には、御譜代町の説明がありました。「仙台の大町、立町、肴町、南町、柳町、荒町の6ケ町は伊達政宗公に従って、米沢から岩出山、仙台と移ってきた町人町で、昔は御譜代町と称した。柳町は初め元柳町の地に置かれ、寛永の初めころここに移って今柳町と称した。」辻󠄀標に記されている「田善銅壺屋」は今も「タゼン」として柳町にありました。「タゼンの初代善蔵は、慶長元年、伊達政宗公により御飾職(銅の彫金工)として大阪は田中の在から召し抱えられました。仙台の町づくり、仙臺城築城に際しての功労により柳町(現一番町一丁目)に住まいを賜りました。それ以降当社は〝昔からの銅屋〟としてこの地にて創業を続けております。」(タゼンHP「会社概要」より)かつての柳町は、広い道路(五ッ橋通)で分断され、仙台駅側の柳町には今も商人の町の雰囲気が漂い、一方、広瀬川に近い側を歩くと、学都っぽい静かな雰囲気が漂っていました。横切っている広い道路が五ッ橋通。奥には再び柳町があり、突き当りには広瀬川が流れています。かつての柳町は、概ね赤いラインの範囲。地図上で「片平二丁目」とある一角には東北大学の研究施設が並んでいます。
April 20, 2024
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ロサンゼルスは車社会。だからロサンゼルス国際空港からはレンタカーで移動するのが一番便利、と言われている。だけど、自分がアメリカで車を運転していたのは20年以上も昔のこと。この国の交通ルールにすぐには順応できないことも自覚しているし、道路を逆走しない自信もない。なのでレンタカーは諦めよう、と決めた。かと言って、今回は現地の知り合いに送迎を頼めない。一方でUberのような身元が良くわからない人の車に乗るのも不安。ということで、今回は現地の知人の勧めでカーメル・シャトル・サービス(Karmel Shuttle Service)という会社に、空港から目的地までの往復を頼んでみた。使ってみて感じたメリットは、①空港から乗り場までの移動が不要で、ターミナルを出てすぐに車に乗れたこと。(ターミナルに車を直付けするライセンスを持っているらしい)。②乗り合いではないので、どこにも寄らずに目的地まで運んでくれたこと。③予約時にチップを込みでカード払いしていたので、ドライバーさんとのお金のやり取りが一切なかったこと。④ドライバーさんの身なりも振る舞いもしっかりしていて、到着まで不安を感じずに乗っていられたこと。予約にあたり少し迷ったことは、費用。今回はフリーウェイを1時間以上走る遠い場所が目的地だったこともあり、チップを入れて運賃が片道だいたい300ドル。円安なので日本円で約45,000円。日本の旅行会社で送迎を手配するよりは安いとは思ったが、正直、少し高いかなと思い、迷った。結局、「安全をお金で買おう」と割り切って予約を入れた。次回に向けて対策が必要、と思ったのが、空港に着いてから車に乗るまでのドライバーさんとのやり取り。本来であれは、飛行機の到着と同時に会社からショートメールが届き、そのリンク先に出発準備が整ったことを入力すると、ドライバーさんからショートメールで合流場所が知らされる、という簡単な仕組み。だけど、アメリカ以外のスマホにはこのリンク先が届かないらしい…ということに、LAXに着いてから気がついた。事前のメールに「リンク先が届かない時は、この電話番号にショートメールを送るか、電話を」とあったので、今度はショートメールを送ってみたが、アメリカの電話番号への送り方が良くわからず、送信は失敗した。仕方がないので勇気を出してシャトルの会社に電話をかけて「空港にいるがリンクが届かない」旨を懸命に話したら、「あなたの電話番号はわかっているから、ドライバーから電話します」と言われて終了。しかし、5分くらい待っても電話は鳴らず、「このまま空港に放置されてしまうのでは」と、勝手に不安に陥った。今にして思えば、電話で言われた通りドライバーさんからの電話をおとなしく待っていれば良かったのだけど、この時の僕は目の前の不安に勝てず、空港のインフォメーションデスクのおじさまに状況を伝え助けを求めていたところ、待望の電話がかかってきた。「ターミナルの出口(B6)に車が行く」と告げられ、僕の服装の色を聞かれた。B6と書かれた柱の下に立っていたら、無事、僕を目指して1台の車がやってきた。ドライバーさんと予約名と目的地を確認した後、全身の力が抜けるほどホッとした。十分な語学力があれば何の問題もなかったと思うが、そうではない僕には電話での会話は厳しかった。武勇伝をみやげ話にするために海外に行ったわけではないし、テンパってる僕の姿はかなり傍目に見ても滑稽だったに違いないので、次回はもっと爽やかに送迎の車に乗り込める人になりたい、と思った。
April 13, 2024
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1945年に広島と長崎に投下された原子爆弾を開発した、理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの物語。ユダヤ人への虐殺を続けるナチス・ドイツを倒すために原爆の開発を急いだオッペンハイマー。だけど、実用化に向けた最終段階で、ドイツは降伏。日の目を見ることはなくなった、と思われた原爆はアメリカの政権によって目標が変えられ、未だ敗北を受け入れずに抵抗を続けていた日本の地方都市に落とされた。原爆の投下は、広島と長崎に暮らすたくさんの市民に、余りにも悲惨な事態をもたらした。原爆が完成した時には、仲間と共に喜びに浸っていたオッペンハイマーの心は、原爆が実際に大量殺戮兵器として使われて以降、勝利に酔いしれるアメリカの民衆から離れ、孤立を深め、病んでいった…。…という映画を観ながら、「国家が敗北を認めるきっかけ」について考えていた。この映画を観ても、日本がドイツより早く降伏していれば広島と長崎に原爆が落ちることはなかったのに、と残念に思わずにはいられなかった。自分の知識が正しければ、ドイツが降伏するよりずっと前から日本の敗北は決定的だったのだからなおさら…。だけど、当時の日本は、今のロシアがおそらくそうであるように、「国民は国のためにある」と政権中枢が考えている国家だったから、国民が何万人、何十万人、何百万人殺されようと、戦争の首謀者たちが降伏を考えるきっかけにはならなかったのだろうと思う。もしも「国民のために国がある」と考える人たちだったなら、戦争を辞める理由はいくらでも見つかったに違いないけれど、当時の日本には、一億総玉砕をスローガンに掲げるような軍事政権が居座っていた。アメリカの人たちはおそらく今でも、原爆の投下が戦争の終結を早めた、と思っていて、それは当時の日本を覆っていた狂気に鑑みると、間違いとは言えないと思う。ただそれは、どうしても原爆でなければならなかったのか。たまたまそこにあった原爆を使っただけなのか…。繰り返しになるが、戦争を終わらせる方法は本当に原爆しかなかったのか。このことについては、やはり今の世界の状況も見ながらしっかりと考えなければいけない。今、ストーカーのようにウクライナに復縁を迫るロシアの大統領に、何をどうすれば行動を改めさせることができるのか。攻撃の手を休めると国が消滅すると、強迫観念に支配されているイスラエルの政権に、何をどうすればガザでの争いを終わらせることができるのか。それがわからないからみんな苦しんでいるんだよ、ということなのだけど、やっぱりちゃんと考えなければいけない、とこの映画を観て強く思った。
April 6, 2024
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