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February 3, 2024
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カテゴリ: 仙台の歴史



とはいえ、通り沿いの多くでは昭和50年代に住居表示が行われ、今は仙台市若林区五橋三丁目、新寺三・四丁目、連坊一・二丁目、二軒茶屋(以上昭和57年7月5日住居表示)、木ノ下一丁目(昭和50年5月1日住居表示)という住所になっています。
〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕

地下鉄連坊駅と仙台一高の近くに「連坊小路/長泉寺横丁」と書かれた辻󠄀標もありました。(辻󠄀標35番。昭和58年設置。設置場所:かつてのモリヤ洋菓子店前)
今の住所は連坊二丁目、ですね。


辻󠄀標の資料には、連坊小路についてこんな記載が…

「陸奥国分寺二十四坊のあった木ノ下に通ずるため、この名を持つ。開府の後、足軽町とされ、背後に寺院が置かれた。明治二十年、鉄道が町を横切り、その後、一高・二女高が建った。表通りの商店街も戦災を逃れて活気を増し、近年は道路拡幅が進められて、次第に様相を変えつつある。」
〔仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)より〕

確かに、鉄道(JR東北本線と東北新幹線)が東西に延びる通りを南北に横切っていました。





そして、仙台市のウェブサイト「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」には連坊小路についてこんな記載が…

「東七番丁角から木ノ下薬師堂方面に下る道及び道沿いの町を指す。陸奥国分寺隆盛の頃、門前からこの小路に沿って塔頭24坊が連なっていたことによるという…(中略)。仙台八小路のひとつ。寛永年間に割り出され、足軽や小人が配置されていた。」

同じく仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」にはこんな記載が…

「(前略)連坊小路から六十人町にかけて住んだ足軽たちは禄(ろく、藩から支給される手当て)が少なく貧しかったため、自宅の庭で野菜をつくり、河原町の青物市場で売りさばいたりした。(中略)
内職のためここでつくられる筆は特産品で、町内のほとんどの家が筆づくりをしていたらしい。明治時代には玉光軒という大きな筆問屋が連坊小路と長泉寺横丁角にあり、奈良から職人を講師として迎え、筆づくりの学校を開いていた。今も三百人町などに残る筆屋はここの出身者が始めたという。
明治時代以降は連坊小路小学校や第一中学(いまの仙台一高)、東華中学校(宮城二女高を経て現在の仙台二華中・高等学校)ができて文教地区となった。
また、東北線が通りを横断したため、町が陸橋で東西にわかれ、五橋寄りの西部を上連坊、東部を下連坊と呼んだ。
現在は道路が拡張され車の往来が激しい通りになっている。」

比較的新しい案内板にも「連坊小路」の表示があって、


学校の名前にも「連坊小路」の名前が使われてました。





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Last updated  February 13, 2024 06:06:07 PM
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