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2012.09.15
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1987年5月25日、石川県生まれ。日本航空第二高(現・日本航空石川)、高知ファイティングドッグスを経て、'07年ドラフト7位で千葉ロッテに入団。今季一軍に定着し、打率3割をキープ(8月10日時点)。7月にはオールスターゲームに初出場した。右投左打、180cm、80kg。

辺境に生まれ育ったばかりにプロまで遠回りを強いられた男が、
今季、バットマンとして目の覚めるような活躍を見せている。
朴訥の中に無骨を漂わす角中の、野球人生の原風景をたどった。
 感情表現が乏しい――。ロッテの角中勝也を知る人物は、みなそう口をそろえる。何を考えているか読めないですよ、と。

 独立リーグから這い上がるという異色の経歴を持つ角中は、6年目の今季、競争の激しいロッテの外野陣の一角に食い込んだ。

 5月12日。マリンスタジアムで行なわれたソフトバンク戦で、サヨナラ犠飛を放ったときのシーンが思い出される。角中は、一塁ベース付近でチームメイトにもみくちゃにされ、どう喜べばいいのかわからず困ったような表情を浮かべていた。試合後のヒーローインタビューなどでも、いわゆる「弾ける笑顔」といった顔は見かけたことはない。

 それだけにどんな取材になってしまうのか心配していたのだが、杞憂だった。決して雄弁ではないものの、決して無口というわけでもない。いや、スポーツ選手としては、むしろよくしゃべる方だ。



野球人生で泣いたのは一度、ガッツポーズしたのも二度だけ。
 角中はこれまで野球で一度しか泣いたことがないし、二度しかガッツポーズをしたことがないのだという。

「高校1年の夏は、確か、泣きました。でも3年のときは、まったく泣かなかった。やっと終わった、っていう感じで。最近いちばん泣きそうになるのは『ワンピース』を読んでるときですかね」

 ガッツポーズは、いずれも自然発生的なものではなく、あくまで「確信犯」だ。

「初めてやったのは高2のとき。打ったらみんなガッツポーズしてるんで、自分もやってみようかな、って。あとはマリン(スタジアム)で1回やりました。打ててないときだったので、清田(育宏)さんに『今度打ったら、こっそりやります』って言ってたんです。ただ、思わず出たってことはないですね」

 感情の引き出しが極端に少ないというのは、どうやら真実のようだ。

高校時代の角中は「透明人間みたいに目立たなかった」。
 角中は日本航空第二高校(現・日本航空石川)時代、石川県内でも準決勝にさえ進んだことがなく、甲子園は遥か遠い存在だった。その頃のコーチで、現在は監督を務める市川雅通が思い起こす。

「スーパー無名ですよ。何にも載ったことない。『野球小僧』もないな。チーム内ですら、透明人間みたいに目立たなかった。バッティングはよかったですけど、正直、プロは厳しいだろうなと思っていました」

 ところが高校を卒業した角中は、四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグス入団1年目に、大学社会人ドラフト7位で千葉ロッテから指名を受ける。5年目の昨年までは頻繁に一軍と二軍を行き来していたが、今季は一時、首位打者に立つなど好調を維持。首位争いをするチームの「5番・レフト」に定着した。

 高校まで「スーパー無名」だった男が、だ。日本球界において、独立リーグ経由でここまで登り詰めた選手は例がない。



生まれ育ったのは「甲子園に出られたら十分」の奥能登、七尾。
 ひとつ目は、出身地だ。角中は1987年5月25日、「さいはての地」と呼ばれる奥能登、七尾で生まれた。年代的には、ダルビッシュ有(レンジャーズ)の1つ下、田中将大(楽天)の1つ上である。

 同じく七尾出身で、金沢市内の高校に進み、小さい頃からの夢だった甲子園出場を果たしたある人物がこう話していたことがある。

「七尾から金沢の高校に行くだけでも大変なこと。その上、甲子園に出られたら十分ですよ。それ以上先の世界は描けなかった」

 そういう場所で生まれ育った選手が、なぜ、ここまで大きくなれたのか。


 もうひとつの「なぜ」。それは、高校卒業後に入団した四国ILの高知である。当時も今もそうだが、独立リーグに所属するということは、つまりは、社会人チームからも、大学からも声がかからなかったということだ。独立リーグとは、言ってみれば、プロでは通用しそうもない選手たちがプロ入りだけを目指すという矛盾をはらんだ組織でもある。


 そんなチームにいた選手が、なぜ。

 それらの「なぜ」を解く鍵は、喜怒哀楽を表さない角中の性向の中にある。

 角中は、こう弁明する。

「人見知りする方なんで、感情を出すまでに時間がかかるんですよ」

 それも間違いではない。しかし、そうした傾向は、それ以上に角中のもっと奥深いところ、幼少期の経験が大きく関わっているように思われる。

 今の角中を構成しているのは、半分は資質で、半分は生まれ育った環境だ。

 そこに野球があったから――。登山家のジョージ・マロリーが発言したとされる「そこに山があったから」ではないが、角中が野球を続けてきた理由も、端的に言えば、そういうことになる。

「子どもをプロ野球選手に」という、父・稔の執念の結晶。
 角中は、ある意味、父・稔の執念の結晶と言っていい。

 七尾にある角中の実家で稔に話を聞き、思わず「角中選手の原点は、ここにあったんですね」と感嘆すると、稔はすかさず訂正した。

「ここじゃない、僕が原点。僕がおらんかったら、普通の子ですよ」

 角中のことを語るとき、稔は時折、挑みかかるような口調になる。

「生まれる前から、子どもをプロ野球選手にしたいと思うとった。だから、仕込む前から、男つくらにゃって思っとったもんね」

 稔の目は、甲子園を飛び越え、最初からプロ野球に向かっていた。

「そのぶん、金も、時間も、かかったわい。ここまでする親、どこにおるね」

ただひたすらに、バットを振った野球漬けの少年時代。
 稔は角中が3歳になり保育所に入ると、毎日、1kmのロードワークを課した。本格的に野球の指導を始めたのは小学校に入ってからだ。車庫の2階でティー打撃をさせた。半年もすると、惚れ惚れするような振りをするようになった。両脇を極端に締める角中独特のフォームは、このとき身に付けたものだ。

「1、2年生の間は、1日100球前後。でも毎日やらせた。正月も休んでない。僕がいないときは自分でスイングしとけ、って。9時頃家に帰ってきて、家内に『しとらなんだわ』って聞いたら、布団まくったよ」

 稔は自宅で織物を織る仕事をしている。だが、母・久美は「あの頃は、野球が仕事やった」と笑う。

 角中が小学4年生に上がるとき、自宅の隣にあった仕事場を室内練習場に改造した。照明を設置し、ネットを張り、50万円のバッティングマシーンを購入した。

「中にあった織物の機械、14台もスクラップにしたわ。息子の野球の方が大事やと思って」

 稔が宝くじを買わなくなったのも、この頃からだった。

「息子に賭けて、こいつが1億円プレーヤーになる確率の方がはるかに高いと思ったからな。人にもそうやって言っとった」

◇   ◇   ◇

息子をプロ野球選手に、という父の信念の下でバットを振り続けた角中。
厳しい環境でも野球を続けたのは「好きだから」ではなく、意外な理由だった。
そんな角中が頭角を現したのは、高校卒業後に入団した四国IL・高知。
打撃面でのある意識改革が、持ち前の勝負強さに磨きをかけていく――。






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最終更新日  2012.09.15 06:01:32
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