本を読めば『道は開ける』

本を読めば『道は開ける』

禅と瞑想 禅の歴史


多くなっている。

そんなわけで、そういう関係の本などを読み直したり
図書館で借りてきたりしている。

あまり沈思黙考するということをしてこなかったので
「禅的なもの」、「瞑想的なもの」を取り入れていくのも
いいかなと思って、そのような本を読んでいくと、自分なりの
面白い発見というのがあったりする。

フリーページにある「韓流最新?情報」や「「精神世界」的な話」に登場する韓国人の女性にヴィパッサナー瞑想を強く勧められた
ので、「やさしいヴィパッサナー瞑想入門」(春秋社)を読んでいた。

読んでいて気づいたのは

瞑想と座禅というのは随分違うものだなあ

ということ。

どちらも同じ仏教から派生していながら似て非なるモノとでもいおうか。

瞑想は自分の問題を見つめ深めていく
座禅は無の境地を目指す。雑念が浮かんでも、それをほおっておく

どちらが好みだろうか?

私は、ヴィパッサナー瞑想の本の内容は、ほとんど自分の中に響いてこなかった。ただ本に書かれていた歩行瞑想は面白そうであり、やってみようと思った。

本の内容は響かなかったが、座禅で悟りを目指すより、
瞑想をして自分を対話する方が、現実的というか実用的
な気はする。

ここで、唐突だが禅の歴史について語りたいと思う。

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禅、正式には禅宗という。

日本の禅宗には、大きくわけると悟るための修行として座禅を
用いる曹洞宗と

公案という、わけのわからない問題を出して
頭を混乱させて、悟らせるという方法を取る臨済宗がある。

その禅宗はどのようにして始まったのだろうか?

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晩年のお釈迦さんが、霊鷲山というところで大勢の弟子達の前で説法をしていた。

この時お釈迦さんは、なぜか何も話さず、突然、近くに咲いていた花をひねり示した。

誰もこのお釈迦さんの行動の意味が理解できなかったが、
ただ一人、弟子の摩嘩迦葉だけが、それを見てにっこりと微笑んだ。

それを見たお釈迦さんは、

「教外別伝、不立文字(お経や言葉にできない教え)、を摩嘩迦葉に伝えた」

と言われた。

これが禅の始まりである。

仏教の中の、お経や言葉で伝えることができない教え、
それが禅である。

文字にできない、言葉にできない教えなので、一体何が
摩嘩迦葉に伝わったのか、全くわからない。

そして、この教えは一子相伝で
摩嘩迦葉から弟子へ、
そのまた弟子へと受け継がれ28番目に伝えられた
達磨(ダルマ)によって、中国に禅宗が伝わることになる。
(達磨まではインドの人)

そして中国で禅宗が盛んになり、宋の時代、日本から栄西、
道元が入宋し、それぞれ、臨済宗、曹洞宗を日本に伝えた。

道元は、お経も何も持ち帰らずに、身一つで帰ってきた。

「ただ眼横鼻直(目は横に鼻は縦についている)を知っただけである」

釈迦から摩嘩迦葉、達磨大使、を経たその教えを、「眼横鼻直」と悟ることにより、道元は日本に持ち帰ったのである。

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