ザビ神父の証言

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「日の丸」こぼれ話



1853年のペリー来航の話は、クロニクルに書きました。

鎖国の禁が解かれた時、幕府は外洋を航海できる大船の建造を禁じてきた禁止令も一緒に解除しました。

この時いち早く大船を建造したのが薩摩藩で、薩摩藩が藩船「昇平丸」の船印として掲げたのが「朱の丸」のはしりともいわれます。

もっとも鎖国時代から、幕府は城米廻船に「朱の丸」を用いていましたので、外洋航海の船舶の国籍を明示するための日本の総船印には、別の印を考案しては…という意向も、当時は働いていました。

それが、「日の丸」となったのは、老中安倍正弘名による「日本国総船印の布告」(1854年)によるのです。正式には、幕府の遣米使節団が乗り込んだ「咸臨丸」(幕府がオランダに発注し、引渡しを受けた船でした)に掲げられたのが最初とされています。時に1860年のことでした。

ところで、明治維新期の戊辰戦争においては、薩長中心軍(いわゆる官軍)も幕府軍も、共に自軍の旗として「日の丸」の旗印を用いていたのです。上野の山の彰義隊も、会津の白虎隊も、函館五稜郭の榎本武揚らも「日の丸」を使っていましたし、「官軍」もまた天皇家の家紋である菊の花をかたどった「錦の旗」の外に「日の丸」をも用いていたのです。さぞややこしかったでしょうね。

こうしたいきさつを経て、本日のクロニクルに記した明治3年、1870年の太政官布告が出され、「日の丸」は「商船国旗」に定められたのです。

日の丸こぼれ話(2) 旗のサイズ

1870(明治3)年の太政官布告第57号が「商船国旗」として定めた「朱の丸」の寸法は、実は大・中・小と3種類ありました。

縦横の比は、横10に対して縦7、日章の直径は縦に対して5分の3と記していますが、長さは最も小さなものでも横6尺、縦4尺2寸ですから、あくまで商船用で、地上用ではありませんでした。

ここから混乱が始まります。同じ年5月の太政官布告第355号(余談ですが、この年に入って、いくらか明治国家の統治体制が整ってきたことが、ここから分かります。5ヶ月弱で300本もの布告が次々に出されているのですから…)が、今度は「陸軍御国旗」に関する定めを発表したのです。

サイズは横5尺に横4尺4寸と正方形に近い形でした。「朱の丸」は横の直径の3分の1と小さくし、その周囲に16条の旭光が伸びた「旭日旗」です。後陸軍の連隊旗となったものの原型です。

こうなると海軍も黙っていません。同年10月、太政官布告第651号で、「海軍御国旗」が定められます。縦7尺8寸、横1丈1尺7寸と2:3の比率に、縦の5分の3の紅の日章というものでした。大きい事も大きいのですが、「商船国旗」とは縦横の比率が違っていました。

商船用、陸軍用、海軍用と夫々の用途に応じてサイズ等が違っているのですから、明らかに使用目的に応じて機能的に異なる寸法、デザインが混在していたのです。

当然、混沌の中から、次第に明治国家の輪郭や方向性が見えてくると、このままでは具合が悪い、何とか「国旗」の1本化をという議論が出てきます。

その点に移る前に、当時の「朱の丸」の利用状況を辿ってみる事にしましょう。

日の丸こぼれ話(3) 「朱の丸」旗の使用を巡って

1870(明治3)年は、商船用「国旗」、陸軍用「国旗」、海軍用「国旗」と制定が続いたのですが、翌1871(明治4)年になると、兵部省所轄の船を除く一般船では、「朱の丸」旗の掲揚は西洋式船に限られ、和船は大小を問わず、領海内での旗の掲揚を禁じられます。

政府自身、まだ船舶用の国籍表示旗の概念が良く飲みこめていなかったからの、混乱だったのだろうと、私は推測しています。

しかし、翌1872(明治5)年になると、開港場を持つ各県庁に対し、祝日には商船用の大旗、平日には同じく中旗を掲揚するようにとの、太政官通達が出されます。ここに、「朱の丸」は陸上でも掲揚されることになりました。

同じ頃、当時の東京府知事から、「一般国民にも、『日の丸』を掲げたいとの希望があるが、掲げてもよろしきか」というお伺いが出されたのですが、それに対する回答として、「日章国旗の旗型を相掲げ候は苦しからず…」と許可されています。

ここからは、「国旗」というものは、政府の印であるから、一般国民が勝手に作ったり、立てたり出来ないものであるという感覚が、政府にも民間にもあったことが読み取れます。

明治5年の12月3日をもって、大陰暦から太陽暦に改暦することとなり、12月3日が、明治6(1873)年の1月1日とされたのです。東京府知事のお伺いは、この改暦による新年への戸惑いを払拭し、お祝い色を盛り上げようとする計らいだったのです。

答えは、本物の「国旗」の雛型なら掲げても苦しゅうないということだったのです。この頃はあまり見かけなくなりましたが、元日に国旗を掲げる習慣が出来たのは、この時からだったようです。

以後、政府は明治天皇の誕生日である天長節(11月3日)や紀元節(2月11日)など、新政府の国策に合う祝日に、国旗の掲揚を認める一方、伝統的な五節句やお盆といった行事での掲揚は、これを認めない姿勢を貫きました。そのため、伝統重視派の不満を増幅することにもなりました。

ここでは、明治政府がいまだ国旗の扱いに慣れず、試行錯誤を続けながら、官公庁への掲揚や、祝祭日における一般家庭への掲揚に進んで行くには、なお時間を要したことが見て取れます。

それに、家庭に掲げられるのは、「国旗」の雛型であって、本物ではありません。商船用の小型の旗でも、陸上のしかも家庭用には大き過ぎたからです。どれが本物の「国旗」の寸法なのか。全てが本物なのか。ここにも解決すべき問題が残っていました。

日の丸こぼれ話(4)  「大日本帝国国旗法」余話から

最初のうち、「朱の丸」と表記されていた日章旗は、次第に「日の丸」と称されるようになります。明治10年を過ぎると「朱の丸」という表現は、極端に少なくなっていったようです。

1877(明治10)年に入ると、洋式船、和式船を問わず、外国に航行する船舶全てに対して、日章旗の掲揚が義務付けられます。「日の丸」は諸外国に対する国籍表示旗として、日本国旗の意味を正式に果たすようになったのです。

やがて、当初は禁止されていた「日の丸」旗の製造と販売が、業者に許可されるようになります。天皇制国家と明治政府のシンボルとして、国民の間にも日本の旗のイメージが浸透したのでしょう。鹿鳴館時代になると、国旗商人の広告が、新聞などにも掲載されるようになりました。

しかし、「日の丸」旗の陸上用の寸法、日の丸の割合、そして色は何も決まっていませんでした。旗寸法に対する日の丸の割合は、おおよそ縦の5分の3となっていたようですが、その縦、横の寸法はマチマチでしたし、何より日の丸は、朱だったり、紅だったり、橙がかったりしていたのです。

陸・海軍も異なった寸法を押します。こうして「日の丸」は日の丸でも、どれが正式のものなのか、長く論争が続いたのです。こうして長い論争の果てに、1931(昭和6)年、満州事変の直前の時期に、政府は「大日本帝国国旗法」という法律を帝国議会に提出しました。

しかし、議会も寸法を巡っては意見の一致をみることが出来ず、政府提案の「国旗法」は結局廃案となってしまいます。色については朱や橙を押す勢力は弱く、紅色が定着して行くのですが…。

こうして、公式的には議会で「国旗法」が流産したことから、「日の丸」の旗は国旗ではないといった、レトリックが一応は成り立つことになります。しかし、この議論は形式論に過ぎず、国民意識と大きくズレていますし、何より、国籍表示旗として日本国籍を現してきたこと、「日の丸」を押したてた日本軍や日本人がアジア・太平洋の各地で植民地支配と侵略戦争を続けてきたことなどを顧る時、「日の丸」国旗説を否定する議論は、私は間違っていると考えますし、日本の歴史の負の面を正視していないように考えます。

日の丸こぼれ話(5) オリンピックと日の丸

さて、本日はオリンピックの日の丸の話です。霞ヶ関の官庁街を通って、役所の屋上やポールの日の丸を見ると、祝日でもないのに何故と違和感を持つことは、私にもあります。「そこまで宣伝に努めなくても良いじゃないか」といった感じを持つからです。

公立の小・中・高校の入学式や卒業式の式場の壇上に校旗と並んで日の丸に鎮座されると、これはもうグロテスクとしか言いようがない気持になります。ある学校の入学式では校長以下普通壇上に並ぶ担任の先生なども、壇下に並び、登壇する度に日の丸に恭しく拝礼してから、マイクの前に進む姿を見て、このアナクロニズムで現代っ子の教育が出来るのかいな?と寒気に襲われました。さすがに在校生代表や新入生代表は、日の丸には知らん顔で登壇していましたが……

さて、そんな私や現代っ子たちも、オリンピックの表彰式で日の丸が掲揚されるのを見るのは大好きです。例え、メーンポールでなかったとしても…。
白地に紅の日の丸は、シンプルで他国の国旗よりも祭典に良く似合うと誇らしくさえ思います。

そのオリンピックの日の丸ですが、皆さんよーくご覧になっていらっしゃいますか。実はあの日の丸、通常の日の丸というか、市販されていて官庁街や学校や、家庭で祝日などに掲げられる日の丸とは、日の丸のサイズが違っているのです。

日の丸の部分が大きくなっているのです。通常は縦径の5分の3なのですが、オリンピックに持参される旗は縦径の3分の2に拡大されているのです。実は1964年の東京オリンピックの時から、このサイズとされているのです。各国の国旗と並べて見ると、日の丸の部分が小さいと貧相に見える。そこで、東京オリンピックの組織委員会がデザイナーに協力してもらって,作成したものが、右翼などの反対をかわして、以後使われているというのが、真相だそうです。

皆さんも表彰式の日の丸をご覧になって、違和感など感じられませんよね。とても素適に見えませんか。

日の丸こぼれ話(6) 日の丸弁当

ところで、国旗としても日の丸は、縦、横の幅は違っても、およそ縦径の5分の3とされていました。この日の丸が最も小さいのが「日の丸弁当」の梅干です。

ご飯の中央に1個の梅干。物資の欠乏と戦地の兵士を思いやって、困苦欠乏に耐える精神を養おうとして、富裕層の家庭から言い出された言葉でした。東京の学校などでは、戦時中「日の丸弁当」以外は禁止という日も増えたそうです。私の長兄の懐旧談ですから、間違いはなさそうです。

ところが、この「日の丸弁当」米飯に梅干ですから、米飯を弁当箱いっぱい食べられるなんて、とヨダレを流して羨望の眼差しを向ける階層の人々も、当時の日本には大勢いたのです。現在を遥かに凌ぐ格差社会だったからです。

戦後の食糧難の時期、私達子どもにとっても、銀シャリに梅干の日の丸弁当、それに沢庵の古漬でもついていたら、大変なご馳走でした。戦後の農地改革で、小作農のほとんど全部が自作農か自小作農に代わりました。その時代に低賃金労働をどう確保するか。政府と産業界が知恵を絞って考え出したのが、低米価低賃金政策でした。

日本人の主食は米飯です。米をたらふく食えるなら文句は出ない。だから戦時中の食糧統制を残して、米は政府が農家から全量買い上げ、それを米穀商を通じて安く売るなら、賃金が低くても米が食える。米が食えるなら日本人は文句を言わない。財政は苦しくとも、憲法で戦力不保持をうたった日本は、国防費の負担から解放されていましたから、この程度の負担は何とかなったのです。

昭和30年代の初め、各地で失業対策として道路工事等が行われました。この日雇い労働者の賃金が、1日240円だったところから、彼等はニコヨンと言われました。雨の日は仕事がないのですが、米飯と梅干の食事なら1ヶ月に20日程度日雇い仕事があれば、家族数人「日の丸弁当」程度の食事は出来たのでした。

「日の丸弁当」それは、いろいろな意味で近・現代の日本の1時期を見事に表現する言葉でありました。

日の丸こぼれ話(7)  親方日の丸

日の丸弁当と並んで、良く耳にする言葉が「親方日の丸」です。日の丸弁当と違って、こちらには懐かしいといった感覚はなく、ただ腹立たしい言葉ですが……

この「親方日の丸」という言葉、調べて見ますと太平洋戦争が始まった頃から盛んに使われるようになったようです。「徴用」によって軍需工場に強制的に就労させられた手に職のある人達は、元は自営業者だった人が多かったのです。景気の良い時はともかく、不景気の多かった当時にあって、零細自営業者の苦労は並大抵のものではありません。

軍需工場での労働は、そんな自営業の苦労に比べれば、ただ言われた通りに働けば良いのですから、楽なものです。未熟練の技術のない下働きの労働者と違って、彼等は腕に覚えの熟練労働者ですから。日頃の苦労から解放された彼等は、軍隊特有の「要領」や「辻褄合わせ」のコツを飲み込むと、そんな仕事振りを「親方日の丸」と呼んで揶揄したのです。

「日の丸」のひるがえる工場に通う身には、倒産の恐怖は関係ないのです。やれと言われた仕事だけをちゃんとやっておけば文句も言われません。親方や職人さんにとって、それは何とも気楽な気分になれることだったのでしょう。

親方日の丸、それは今でしたら、親方トヨタとか、親方ナショナル(近くパナソニックになりそうですが、ナショナルの方が国内では通りが良いですね)となるのでしょうが、当時は日本政府や軍隊だったのでしょうね。

最近は、この言葉も聞かなくなりましたが、公共事業や政治の保護にぶら下がっている業界の幹部にとっては、今でも親方日の丸なのかもしれませんね。

日の丸こぼれ話(8) 白地と寄せ書き

審判問題から再試合になったこと、アジア連盟が分裂含みだったことから、すっかり有名になったハンドボール。強化練習に呼ばれながら試合の登録メンバーから外れた選手達が、「日の丸」の国旗に寄せ書きして出場選手に贈った話が紹介されていました。

戦時中に出征する兵士達に、「祈武運長久」とか「祝出征」などの文字と共に、人名を書き連ねた国旗を渡して激励したことが起源のようですが、日本人は抵抗なく国旗に文字を書く、世界でも珍しい風習の持ち主です。

というのは、国旗を神聖視する風習が根付いている国では、国旗に物を書く行為は、国旗を冒涜する行為と捉え、寄せ書きであろうと何であろうと、それは国旗を汚す行為であるとして、忌み嫌われるからです。

国旗を神聖なる物として捉えるなら、例え、何かを書き易い白が地色であったとしても、そこにビッシリと文字を書くなどという発想が生まれることはありえないですね。それは私にも分かります。

日本人は、日の丸の国旗に愛着を持ち、日の丸の旗のシンプルな美しさに日本らしさを見て取って、誇りに思っている。そして愛着を持って、好ましく思ってもいる。しかし、国旗は愛すべきものであって、神聖視するものではないとも感じている。だからこそ、平気で国旗に寄せ書きをして悪びれず、オレの分もガンバレよとなるのです。

私は、この感情を良い事だと思っています。ですから余計に、愛すべきものであっても、神聖なものとは国民が感じていない、人格を持たない壇上の国旗に、深深とお辞儀をした上で登壇する校長や教頭に対し、その時代錯誤とアナクロニズムに暗澹たる気持にさせられるのです。

こういうことをさせる=強制するのが、今の教育委員会なのですね。この姿勢は何とかしたいですね。
                           完

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