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ザビ神父の証言
第一次世界大戦(11)~(22)
秘密外交…1
総力戦は様々な局面での、各国の外交努力にも現れ、種々な秘密外交となって現れました。その一例を記します。
トルコがドイツ側に立って参戦したことは、ただちにスエズ運河の通行の安全にとって脅威となりました。そこで、スエズを使えないとなると、イギリスのアジアにおける拠点、インドとの連絡に大きな支障が生じます。そこでイギリスは、ただちにトルコ領アラブの独立の唆し、アラブ世界に対し、対トルコの戦いに立ちあがるよう要請します。
陸相キッチナーは、「戦争においてイギリスを支援するならば、アラビア人の要求を認めようとするものである」と述べています。
こうしたモロモロの摺り合わせの上で、イギリスがアラブの太守ハーシム家と結んだのが、1915年6月のフサイン・マクマホン協定でした。「戦後におけるアラブ世界の独立を認める」とする協定の内容は、良く知られているところです。この協定を受け、イギリスによって装備・訓練されたアラブ兵の対トルコ蜂起は、1916年6月に始まります。
日本でも有名なアラビアのローレンスは、アラブ支援のためにイギリスから送り込まれた人物ですが、彼の活躍は、16年秋からのことになります。
問題は、イギリスの秘密外交、二枚舌外交がこの地で結んだ協約は、1つではなく、他にも二つあったことです。
第一次世界大戦(12)
秘密外交…2
フサイン・マクマホン協定で、戦後におけるアラブ世界の独立を約束したイギリスは、トルコやアラブ人には勿論、イタリアにも内密にして、1916年5月、ロシア、フランスとの三国でサイクス・ピコ協定を結びます。
これは、トルコ領アラブを三国で分割する協定でした。フランスにシリアを、ロシアに黒海東南地方を、そしてイギリスが南メソポタミアを領有するという内容です。まさに帝国主義の本質をあからさまに示している協定でした。イタリアにも秘密にしていたのですが、16年秋になって、イタリアが国内の反戦運動に手を焼き、単独講和に傾きはじめると、繋ぎ止めのために、新たにイタリアとも協定を結び、アラブ分割の際には、イタリアにも領土を割り当てることを約束しています。
さらにイギリスは、長引く戦争における財源難に対応するため、連合国に居住するユダヤ系の資金に着目し、1917年11月、アラブ人の居住地ながら、ユダヤ教徒も平和的に混住していた、パレスティナの地に、戦後におけるユダヤ国家の建設を認めるという、国王特使バルフォア卿の宣言(バルフォア宣言)を秘密裡に発して、ユダヤ系資金の導入に活路を開いています。
ここに記した三つの協定や口約束が、相互に矛盾する内容を持つことは、明白です。独立を認めた地を、分割し、かつまた流浪の民に、勝手に他人の土地での国家建設を認めて、どうするというのでしょう。今日に続く、アラブ地域の混乱は、この時のイギリスの勝利のためには手段を選ばないという、悪辣で巧妙な、汚らしい外交術が出発点となっているのです。
とはいえ、1948年のイスラエルの建国に関しては、それはイギリスというよりもアメリカにより大きな責任があります。第一次大戦後、イギリスは欧米在住のユダヤ系住民によるシオニズム運動(祖先の地、シオンの丘に帰ろうという運動)の高まりに、驚き慌て、国家としての関与を止め、手を引いてしまうのです。替わって登場したのがアメリカで、アメリカはアラブ地域の石油資源に目をつけ、この地にユダヤ国家という楔を打ち込むことで、アラブの分裂を図り、有利に石油資源を利用しようとしたのです。
第一次世界大戦(13)
イギリスの陸軍
第一次世界大戦が始まると、イギリスもまた大陸での会戦を想定して、弱体な陸軍力の強化が考えられました。そこから、アスキス内閣は、慣例を破って議会外から、キッチナー元帥を招いて陸相に据えました。
閣議に出席したキッチナーは、軍人らしい率直さで、戦争が長期戦になるだろうという、見通しを述べました。
「世人は一般に、戦争が短時日に終るものと予測しているが、過去において多くの戦争が、予想外に拡大したように、この大戦も長期にわたるものとして、準備しなければなるまい。このような長期戦は、海上や海軍だけに頼って決することが出来るものではなく、大陸における数度の大会戦によって、決せられるものである」と。
最も早く、戦争が長期戦となることを見通し、海軍力に頼るイギリスで、陸軍力の強化の必要を訴えた、卓越した眼力に裏付けられた主張でした。余談ながら、キッチナーは、1916年物資不足に悩むロシアの現実を視察すべく、海からロシアを訪れようとして、乗船した軍船が、ドイツ軍の敷設した機雷に触れて爆発、戦死しています。この時期海相を務めたのは、第二次大戦でイギリスを指導することになるチャーチルでした。
このキッチナーの提言を受けて、当時僅か15万人の規模しかなく、開戦時は僅かに歩兵4師団、騎兵1師団しか大陸に派遣できなかったイギリスは、1915年秋には、西部戦線に27個師団を送るまでに、陸軍を増強したのです。
当然志願兵では足りず、16年1月には、独身者に対する義務兵役を施行、同年5月には妻帯者への拡大に踏みきったのでした。
それのみか、インドやエジプトといった植民地での徴兵にも踏みきったのです。
第一次世界大戦(14)
塹壕戦
西部戦線では機動戦が終ると、両軍とも敵軍の後方に回り込んで包囲殲滅することを考え、互いに陣形を横へ横へと伸ばし合い、遂に大西洋岸のフランドルから、スイス国境に到る長大な陣地戦、塹壕戦となりました。
イギリス軍は、当初1ヶ月25万袋の塹壕用土嚢を用意したのですが、15年の半ばには、前線からの要求は、600万袋にまで達したのです。
ドイツ軍が縦に深い防禦システムを整備した16年以降、幅5キロから10キロ程度の前線地域に、三重の塹壕線が作られ、塹壕の深さも時には20メートルにまで達しました。
即ち、塹壕線とは1種の要塞戦であり、兵士達が自ら穴居人と称したように、前線生活の大部分は半地下生活となったのでした。当然、衛生環境が整えられるわけはなく、不衛生な生活環境の下での、多人数での集団生活は、各地で伝染病の蔓延を生まずにはおきませんでした。19世紀末にはコッホやパスツールらの努力により、いくつもの細菌が発見されておりましたが、なお治療法の開発は十分でなく、まして医療用薬剤が圧倒的に不足する状況にあっては、戦死以上に戦病死が兵士や軍幹部を悩ましたのでした。
しかし、両軍の指導者は、作戦や戦術を変えることはありませんでした。司令官が交代する事はありましたが、後任の司令官もまた、同じ軍事思想しか持ち合わせませんから、変わり映えすることは、何もなかったのです。兵員と兵器の量を増やす事と、作戦計画を展開する地域を変えるくらいがせいぜいでした。
事情は東部戦線でも同じでした。
新兵器の投入も両軍で続けられましたが、それも戦局転換の切り札にはなり得なかったのです。
戦争は益々、金食い虫で、あらゆる武器・弾薬を浪費する、長期に及ぶ消耗戦となっていったのです。こうなった場合、国家としての持久力(体力)と継続への気力が衰え、戦争の継続が叶わなくなった側がギブアップするまで、戦いは継続するのです。まさに総力戦と言われるゆえんがここにあるのです。
第一次世界大戦(15)
ロシアの状況
世界大戦が長期戦、総力戦となると、経済の近代化、とりわけ重工業化に難があり、資本の蓄積が不十分なロシアは、困難に直面しました。前線の軍司令部が求める量の砲弾や兵器を、十分に提供できなくなったからです。
人口の多いロシアでは、兵力の増強のみは可能でした。開戦時530万人とされた兵員数は、16年末には、1400万人と3倍弱にまで膨らんでいました。しかし、増大する兵士に十分な兵器が提供できないのですから、兵士の増強は、いたずらに戦闘での死傷者を増やす結果にも繋がりました。16年末までの、ロシア軍の戦死者は53万人、負傷者は230万人、捕虜及び行方不明(脱走含む)者は251万人に達していました。動員兵士の3分の1以上が失われたのです。
こうした状況で、緒戦は優勢だったロシア軍は、次第に劣勢になって行きます。緒戦でオーストリア領のガリツィア地方(本来はポーランド領)を占領したロシア軍は、砲弾不足からこの地を維持することができなくなり、15年7月には、占領していたガリツィアから撤退するしかなくなり、やがて、ロシアの支配下にあったポーランド全土を失うにいたりました。
これは軍の失態とされましたが、希望する量の兵器や砲弾、弾丸の提供を受ける事が出来ないのですから、全てを軍の責任に帰するのは無理がありました。総力戦体制に即応できないロシア経済の遅れにこそ、問題があったのです。
資本不足に悩み、フランス資本を導入して工業化を進めていたロシアにとって、開戦によってフランス資本の導入が途絶えたのは、大きな痛手でした。1917年3月初旬、ロシアで革命が起こったのは、戦争遂行のための総力戦体制を、構築出来なかったツァーリの政府を、軍部や資本家が見限り、戦争に勝てる政府をつくろうとしてのことでした。
総力戦体制を十分に構築できなったロシアでは、ついに革命による政府の転覆に繋がったのです。
第一次世界大戦(16)
オーストリア
世界大戦のきっかけを作り、ドイツの支援をとりつけて好戦的になったオーストリアはどうしていたか。ハプスブルグ帝国の栄光は、ナポレオンの没落後に権勢を振るったメッテルニヒの時代には、マリア・テレジア(フランス王妃となったマリー・アントワネットの母です)の時代ほど、輝けるものではありませんでした。
そして、イタリア統一戦争におけるサルデーニャへの敗北、普墺戦争の敗北など、オーストリアの栄光は過去のものとなっておりました。にもかかわらず、オーストリアの政治・経済・軍事の改革は進んでいませんでした。
普墺戦争の敗北後、ハンガリーの事実上の独立を認め、オーストリア・ハンガリー二重帝国(オーストリア皇帝をハンガリー王とする同君連合)を構成しても、クロアティア、スロベニア、ボスニア,チェコ、スロバキア、ガリツィア等多言語・多民族状態の中で、諸民族の離反を防ぐのに忙殺されていたのです。
この状況のオーストリア軍は、人員・兵器・士気・軍命令の伝達方式など、どれをとっても,列強の一員とはいえないほど弱体でした。厳しく言えば,近代戦を戦う能力など、皆目持ち合わせていなかったのです。
それゆえ、初戦におけるバルカンの小国セルビアへの侵攻すら失敗に終り、8月末にはセルビア全土から撤退する破目に陥り、ロシアとの戦闘では1ヶ月で30万人の死傷者、10万人の捕虜を出してガリツィア東部を占領されたのです。
オーストリアの国民1人当たりの軍事支出は、イギリスの30%強、フランスの40%弱であり、フランスは兵役該当者の8割を、ドイツは5割弱を実際に召集していたのに対し、オーストリアの召集は3割を下回る水準で止まっていたのです。こうしてオーストリアはドイツの支援を受けない限り、何も出来ない状態に陥り、開戦1年後の15年半ばには、早くもドイツ軍のお荷物と化しておりました。
15年末にようやく実現した小国セルビアの占領は、事実上強力な援軍を派遣したドイツ軍の力によるものでした。イギリス軍の海上封鎖に悩むドイツが、ペルシャ湾で陸揚げした荷の鉄道輸送を可能にするために、ベルリン・イスタンブール間の鉄道の確保を、何よりも優先した事情がそこにあったのです。
この15年末、事実上、オーストリア軍は、もはやドイツにとっては、ないも同じ状態に陥っており、攻撃戦力としては存在しなかったと言える状態にあったのです
第一次世界大戦(17)
ヴェルダンの消耗戦
東部戦線やバルカン半島での戦いは、古典的な機動戦が行なわれたため、オーストリア軍の大きな被害にも関わらず,ロシアとイタリアを相手に、ドイツ側がやや有利な状況にありました。
ところが塹壕戦となった西部戦線では、武器補給能力からいっても、ドイツ軍の勝利は望み得ない状況に陥っていました。そこで、ドイツ軍参謀本部は、ドイツが負けない戦いを続け、敵の戦争継続意志を挫いて、大きなマイナスなしに戦争を終結する道を模索し始めました。
そのための目標に,ドイツ軍が選んだのが、フランス軍が戦略的に重視する防衛拠点ヴェルダンの要塞でした。ドイツ軍参謀総長ファルケンハインは、ヴェルダン要塞を占領する必要はなく、フランス軍に多大な出血を強いる事ができれば、フランスの継戦意志を挫く事が出来るので大成功である。その目安は、両軍の損害比率が、フランス軍を100とした時に、ドイツ軍が60程度であれば良いと、計算していました。
こうして1916年2月、ドイツ側から仕掛けられたヴェルダンの会戦が始まりました。ドイツ軍は1200門の砲を揃え、100万発の砲弾を撃ち込んだ後、火炎放射器部隊を先頭に、フランス軍に向って突撃しました。しかしフランス軍の堅塁を抜くことが出来ずに、両軍の犠牲は、ほぼ対等のまま時間ばかりが経過する消耗戦となったのです。
11月までの9ヶ月間、幅30キロメートル、奥行き7~8キロメートルの狭い地域で、両軍の凄惨な戦闘が絶え間なく続けられました。両軍が毒ガスや飛行機を使い、使用された砲弾は、両軍合わせて2000万発を超え、136万トンに達したと言われます。
ドイツ軍の思惑は、見事に外れたのです。ファルケンハインは,4月には作戦の失敗を認めていたようですが、メンツに拘って次々に新手の軍を戦場に送り出したのです。ヴェルダンの戦いは、ドイツ軍が出発点に戻ったことで、年末になって終結しました。
この戦いでのフランス軍の死傷者は36,2万人、ドイツ軍の死傷者も33,7万人を数えたと言われています。一次世界大戦(18)
ソンムの会戦
ヴェルダンの消耗戦の最中の7月1日、ヴェルダンから約200キロほど離れた(ということは、東京~静岡間くらいでしょうか)ソンム川沿いの地域で、イギリス軍を主体とした連合軍側の攻勢が仕掛けられました。
攻勢に出る5日前から、イギリス軍は大掛りな砲撃を行ない、敵陣は砲撃で破壊し尽くしたと過信したイギリス軍総司令官ヘイグは、歩兵は破壊された敵の陣地を徒歩で占領するだけだと、思い込んでいました。
そう言い聞かされたイギリス軍将兵は、快晴の無人地帯を無防備に前進しました。ところが、ドイツ軍は敵の攻撃を予測して、塹壕深く身を隠し、砲撃を避けて敵の前進を待ち構えていたのです。
横一列で前進してくるイギリス兵は、恰好の標的でした。この1日の攻勢でイギリス軍は6万人の死傷者を出し、出陣した兵士の半数、将校の75%を失いました。
砲弾でデコボコになり、死臭が立ち込める戦場は、秋雨の影響で泥沼と化し、塹壕内も水溜りと化した。ネズミが跳梁し、シラミに苦しめられる兵士達は、伝染病にも苦しめられることになりました。
こうした無益な攻防が4ヶ月も続き、ドイツ軍は150万人を、連合軍は250万人を繰り出し、イギリスは完成間もない戦車まで繰りだし、ようやく、62万人もの犠牲と引き換えに、約10キロの荒廃した地域を獲得したのでした。
ヴェルダンとソンム、それはこの大戦における、西部戦線の物量戦の象徴でした。
第一次世界大戦(19)
戦時下の国民生活…1
第一次世界大戦は、人的にも物的にも、犠牲の大きい戦争でした。何よりも軍需物資の生産が優先され、また働き盛りの男性においては、兵士となることが優先されました。それゆえ、どの国においても日常的に必要な工業生産物や食糧生産の不足が目立ってきます。
しかし、海軍力において圧倒的に優勢なイギリスとフランスは、広い海外植民地を持つ利点を生かして、海外から必要とする物資を調達することが出来ました。また同盟国日本や、友好国アメリカから、優先的に必要物資を回してもらうことも出来ました。そのため、イギリスもフランスも、大戦末期には食糧配給制を取り入れたものの、物資を求めての店頭の行列などは、ほとんど見られず、危機には遠い状況にありました。
それに対してドイツは大変でした。元来プロイセンはユンカーと呼ばれた貴族まがいの大地主が支配する農業国家でしたから、穀類や畜産の生産も活発で、食糧は自給可能と多寡を括っていたのです。しかし現実には家畜の飼料や化学肥料の多くは、その30%以上を輸入に頼っていたのです。その上、過度の召集によって、農村の労働力は極度の不足に陥り、農耕用の馬も軍馬として徴用されるなど、大戦後半には食糧生産は半分に落ちていたのです。
イギリス・フランスの海上封鎖にあって、工業原料の輸入ままならず、衣料・靴・石鹸などの物資不足も深刻となり、1915年後半からは、配給制が厳格に実施され、パンに小麦粉以外のジャガイモなどの混入が義務付けられ、やがてはトウモロコシやカブまでが混入されるようになったのです。
それでもパンがあるうちは、まだ良かったのです。16~17年の冬には、数週間もカブしか配給されない時期が続き、「カブラの冬」と呼ばれたのです。
事情はオーストリアでも同じでした。同君連合のハンガリーという農業国が控えていましたが、ガリツィアからハンガリーにかけてが戦場となったため、食糧輸入が途絶してしまったからです。
それでも、ロシアよりは恵まれていました。ロシア軍の食糧事情はさらに悪く、ドイツ軍の捕虜から解放された兵士達は、口々に,ドイツの捕虜時代の方が、食糧の配給が多かったと、グチをこぼしていたそうです。そのドイツ軍の食事は、成人男性が1日に摂取する必要があるとされるカロリーの、30~40%程度の、摂取量でしかなかったそうですから、ロシア軍の食事はさぞかしだったのでしょう。
これでは、革命が起きるのも、むべなるかなというべきでしょう。
第一次世界大戦(20)
戦時下の国民生活…2
青年男子の大部分が兵士として軍に動員される状況ですから、当然軍需物資や生活物資(食糧を含む)の生産も、大きな影響を受けることになります。しかも軍需産業は、増産に次ぐ増産で肥大化の一途を辿っています。15年春のことですが、ドイツ軍と対峙する西部戦線の首脳部が、「ドイツ軍を押し返せない原因は、砲弾の不足にある。それは政府の支援態勢が十分でないからだ」と、公然と政府を批判しました。砲弾スキャンダルとして、有名になった出来事です。
世論の避難を浴びて、アスキス内閣が軍需省を創設したのはこの時でした。以後の経過は既に記しました。ここでは、開戦時に45,000人ほどだった、フランスの軍需産業の従業員が、大戦末期には200万人に達していたことをあげておきます。当然ながら、各国とも深刻な労働力不足に陥ったのでした。
兵役についていた熟練労働者を、急ぎ工場へ送り返すなどの対策も、各国でとられましたが、これでは焼け石に水です。種まきと収穫の時期に、期間限定で兵士を農作業に派遣することも行なわれました。
こうした苦境にあっても、イギリスとフランスは、海外植民地を持つ強みをいかんなく発揮しました。1つは植民地からの輸入であり、もう1つは植民地人を労働力として導入したことです。イギリスはインドから100万人以上、エジプトからも50万人を導入しています(イギリスはインド人兵士をもヨーロッパの戦場に送り込んでいます。その数は200万人を超えたとも言われます)。フランスもアルジェリアから50万人、仏領インドシナからも30万人を動員しました。何やら太平洋戦争中の朝鮮人強制連行の構図が思い出される図式です。
しかしドイツやロシアはこうはいきません。ここでは戦争捕虜に強制労働を科して、切りぬけようとしたのですが、おのずと限度がありました。
結局大戦下で、最も頼れる労働力はどの国でも女性でした。男性労働者が比較的多く残されていた軍需産業ですら、各国とも女性労働者の比率は4割を超えていましたから、他産業では女性労働に全てがかかっていたと言っても過言ではありません。鉄道部門や郵便事業といった公共部門でも、女性労働者が運転や配達の業務を受け持っていました。
しかし、この戦時中における女性労働者の活躍を、すぐに女性解放運動史の輝かしい1ページとすることはできません。戦後には、また女性の職場は狭まり、男性優位の労働環境が、なお当分の間続いていくからです。それでも、男性の職域と思われた領域の仕事を、女性達が立派にこなしたという事実は変わりません。この事実は、男性優位の社会が続く中で、女性達に密やかな自信を植え付け、女性の権利獲得に向けての、地味ながら息の長い運動の地下水脈の役割を果たしていったのだと、私は受けとめています。
第一次世界大戦(21)
挙国一致内閣の登場
長引く戦争、食糧や日用の生活物資の不足、戦場でも砲弾は勿論、軍服・軍靴・医薬品の不足、食糧の不足が目立つとなると、兵士や国民の不満は、沸騰点に達します。
ここではとりあげませんが、経済構造が最も脆弱だったロシアでは、ツァーリの政府は、この苦境乗り切ることが出来ず、ロシアは革命の嵐に巻き込まれてゆきます。
新兵器が次々に登場し、機関銃や野砲が幅を利かす,工業化された近代戦では、肉体的な武勇は問題になりません。長引く塹壕での滞在にウンザリし、物不足に悩まされる両軍の兵士達は、共に戦争を呪い、早期の講和を願って、上官の無能と横暴に唾棄しながら、しぶしぶ軍律に服し、命令に従っていましたが、16年に入ると、次第に物言う兵士達に変貌を遂げて行きます。
彼等は、抗議行動を通じて、無益な死傷者を増やすだけの突撃を止め、休暇などの面での待遇の改善を要求したのです。ここには、勝利のために,自分達にも納得できるような、確かに勝利のために戦っているという実感を得たいという、強い希望も含まれていました。
こうした兵士達の期待に応え、その欲求を汲み取り、後方にある兵士達の留守宅を保護することが出来るか否かは、兵士達の士気に直結しました。こうなると、旧来からの政党間の争いを、戦争の終結まで1時棚上げして、挙国一致に内閣を作る事が出来るかどうかが、重要になってきます。
軍需産業の増産や効率化には労働者や労働組合の協力が不可欠です。総力戦体制の中で、労働組合の地位もまた、次第に高まっていったのです。
こうした環境変化を経て、イギリスでは1916年末にロイド・ジョージを首班とする挙国一致内閣が成立し、今までの批判勢力、非協力勢力をも全て網羅した戦時内閣が登場して、強力に戦争を指導する体制を作り上げました。
フランスでも相互の非難合戦を超えて、政争を超えた強力内閣がクレマンソーを中心に組織されたのです。イタリアでもまた、軍人に対する政党や政治家の優位が英・仏と同じように確立して行きました。
これに対してドイツでは、戦局厳しき折りから,政治家がリーダーシップを取る事を嫌い、軍部独裁が成立します。対ロシアのタンネンブルグの戦いに勝利したヒルデンブルクとルーデンドルフのコンビが参謀総長と陸相として、独裁的権限を握って、戦局を切り開こうとしたのでした。
しかし、強圧的な軍部独裁によって、力で国民を抑えつけざるをえない体制では、国内のあらゆる勢力を巻き込み、一致点を見出して戦争の勝利へと邁進する挙国一致体制との間に、兵士や国民の士気の点で、大きく水を開けられていることは、間違いありません。この点でもまた、ドイツの劣勢は明らかでした。
ドイツにとって、唯一の明るい材料は、世界資本主義の最も弱い輪であったロシアが、革命によって連合国体制から抜け落ちてくれたことだけでした、しかし、それもまたドイツ兵の中に、強い望郷の念と、戦争忌避の感情を強めたというマイナスの要素も、持っていたのです。
第一次世界大戦(22)
無制限潜水艦作戦
総力戦の持続は、当然ながらドイツ・オーストリアグループとロシアの戦争継続にとって、次第に大きく響いてきます。
物資の不足が、軍需物資の生産にも響いてきますし、食糧や生活物資の不足は国民生活を直撃し、国民の間には、次第に厭戦気分が広がって来たからです。
ドイツ軍部は、英仏による海上封鎖こそがドイツの物資不足の原因であるからと、ようやく完成した潜水艦を使って、通商破壊作戦を実行に移しました。1915年5月のことでした。この月、早くもアメリカ人の乗客100名以上を乗せたイギリス船ルシタニア号が、ドイツ潜水艦の攻撃を受けて撃沈されます。100名を超える民間人の犠牲をみたアメリカ政府は、ドイツ政府に強硬な抗議を行なっています。なお、昨年12月21日のクロニクルに記した、日本郵船の八坂丸が撃沈されたのも、ドイツの潜水艦によるものでした。
ドイツ政府も、アメリカの参戦を恐れ、以後攻撃前に警告を発する旨を約束して、この時は収まったのです。物資の欠乏に悩むドイツは、16年12月に、アメリカ大統領ウィルソンを通じて、連合国に休戦を申し入れて拒否されると、追い詰められたドイツは、1917年2月に、イギリス・フランス向け航路内の全船舶を、無警告で攻撃するという無制限潜水艦作戦に踏みきりました。英仏、特にイギリスを屈服させるための最後の手段という、触れ込みでした。
実は開戦当初、大いに期待されたドイツ海軍は、イギリス海軍と相打ちの健闘を見せた16年5月のユトランド沖開戦を除けば、一方的な防戦に終始して、港に釘付け状態となり、英仏による海上封鎖を受けていたのです。それ故に、海軍はこの作戦でイギリスを屈服させ、汚名挽回を図ろうと張り切っていたのです。
2月に作戦を開始すれば、イギリスは海上からの穀物輸入の道を閉ざされ、収穫直前となる8月までに、屈服するに違いないと、考えてのことでした。ドイツは、イギリスやフランスが自国船だけでなく、世界の船舶を利用できることを計算していなかったのです。
こうして無制限潜水艦作戦は、一定の成果は上げましたが、戦局を左右するような起死回生の成果をあげるなどということは、望みえなかったのです。8月には作戦の失敗は明らかでした。そして、この無謀で、やけっぱちのような作戦は、それまで中立を保っていたアメリカをして、遂に連合国側に立って参戦する事を、決意させてしまったのです。
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