全71件 (71件中 1-50件目)
ルイ14世の宮廷生活 (56)ルイ14世の宮廷では、独特の人間観察術、礼儀作法が高度に発達していました。この点もまた、独自の文化と言って良い領域に達していました。こうした人間観察術は、古典主義文学の中核をなす、モラリストの文学を生み出す礎になりました。フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー公爵の『箴言と考察』は、鋭くシニカルな表現によって、人間の内面を実に鋭く突いています。「美徳はほとんどの場合、装われた悪徳である」など、ひねった言い方の中に、彼』独特の鋭い人間観察眼が躍動しています。ラ・ロシュフコーは、宮廷で重んじられる礼儀作法や美徳が、偽善であり結局は自己愛であることに、警句を発しながらも、それがむき出しの闘争心を和らげ、決闘を抑止する効果を顕し、人間関係を円滑に運ぶために、欠かせぬ役割を果たしていることも、認めていました。こうした宮廷における礼儀作法や美徳とされたものが、自己抑制力を身につけ、マナーを心得た近代教養人の典型とされる、「オネットム」の誕生に繋がってゆきます。「オネットム」とは、その精神や言動、振舞いの全てにおいて、品格のある人物に贈られた人物評であり、特に17世紀の後半から18世紀の初頭にかけて、重んじられた人物評でした。ラ・ロシュフコー公爵は、フランス最初の近代小説として、今日に知られる『クレーヴの奥方』の著者、ラ・ファイエット侯爵夫人と親しく、彼女の小説の誕生に際して、公の助言を得て、夫人が何度も推敲を重ね、稿を改めていたことが知られています。また、ラ・ファイエット夫人は、ルイ14世の信任厚い女性の1人で、王自ら親しくヴェルサイユの宮殿や庭園を案内したことも知られています。その彼女の小説は、宮廷生活とどのように関わるのでしょうか。 続く
2012.03.31
コメント(6)
クロニクル 119番通報始まる1949(昭和24)年3月31日今を去る事、63年前のこの日、東京消防庁は、火災通報の119番電話を設置しました。当初は火災通報専用で、救急車は火災で重傷を負った人を病院へ搬送する必要から、遅れて生まれたと聞き及びます。東京消防庁の設置ですから、全国展開はずっと遅れます。疎開先の桐生では、我家が東京に戻る1952年秋の段階で、なお未設置のままでした。当時小学校4年生。東京の小学校での晩秋の避難訓練の時に、消防署の小父さんから、講評と共に119番通報について教えられ、東京は進んでいるんだなァと驚いたことが、今でも強く印象に残っています。しかし、考えてみれば、なお電話の普及率は低く、一般家庭で、電話のあるお宅は、なお例外的な金持ち家庭に限られていましたから、地方都市や農村では、なお火の見櫓で半鐘を打ち鳴らす通報の方が、効果的 時代だったのですね。本日は、意外に最近のことだった 119番の誕生について記しました。
2012.03.31
コメント(14)
ルイ14世の宮廷生活 (55)ところで、父のルイ13世も、息子のルイ14世も読書の趣味はなく、蔵書を収集する趣味もありませんでした。ですから、王室の所蔵図書は、フランソワ1世が蒐集した蔵書を、シャルル9世がパリに移したのですが、移した場所が何処なのかも記録がない状態で、放置されていました。こうしてアンリ4世の登場まで、ごく僅かな蔵書数の増加が見られるだけで、王室としてはお粗末なままでした。アンリ4世の治世中に、宰相シュリーが記録させた王室蔵書目録には、4430点の数字が残されていますが、当時としてもこれでは寂しい限りです。ルイ14世幼少期の大法官セギエや、宰相マザランの個人蔵書は、共に1万点を超えていますから、国王個人ではなく王室としては、お粗末極まりない状態だったと言えます。ブルボン王朝の蔵書の充実は、コルベールや彼と心を合わせた担当者の熱意と、書物の良し悪しを判定する学識と実力によって、計られました。コルベールは、蔵書家の遺産やメッスの教会参事会蔵書、アヴィニョンの教皇旧蔵書などを、精力的に買い集め、フランス中の教会資料や貴族の資料の蒐集に努めました。その上、オリエントやイタリアへも良書の蒐集のために目利きを派遣しています。この時代、納本制度はまだ5割程度しか機能していなかったのですが、1666年にヴィヴィエンヌ街に国王の図書館を移した時には、6千点の写本類と2万点の印刷本が、所蔵されたのです。これが、今日のフランス国立図書館の前身です。移転と共に一般公開も始められ、コルベールの没後も、次々に有力な図書館長が就任して、図書館の充実に尽力した結果、1697年には、印刷本のみで5万5千点を超える堂々たる図書館が誕生したのです。ルイ14世は、図書蒐集の費用の支出を、黙って認めていただけなのですが、結果として、この時期には、君主の私質や好みに関係なく、システムとして王立図書館の充実と活用が可能となったのです。 続く
2012.03.30
コメント(6)
クロニクル 安田火災、ゴッホの「ひまわり」を落札1987(昭和62)年30日ちょうど25年ですから、四半世紀前のことになります。この日ロンドンの美術品オークションで、安田火災海上保険は、ゴッホの「ひまわり」を53億円という高値で落札しました。バブル景気の前半期のことです。この頃からジャパンマネーが海外の美術品や土地・建物を高値で買い漁る姿が目立つようになり、美術品や不動産価格の高騰を招き、顰蹙をかったのですが、バブル崩壊と共に、昔日の勢いを失います。安田火災の「ひまわり」は。現在も新宿の超高層ビルの一郭を占める、損保ジャパンの本社ビルにある美術館で参観者を楽しませてくれていますが、当時の大昭和製紙の会長が高値買いした美術品は、1度も参観に供されることもなく死蔵され、そのうちバブル崩壊による借金の清算のために競売にかけられ、今度は海外勢に安値でさらわれるという、何ともみっともないことになりました。三菱地所が購入したNYのロックフェラーセンターなどについても、同じことがいえそうです。「実るほど、頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」という名言が日本にはありますが、バブルに浮かれて稲穂の精神を忘れるような、ボンクラ経営者が跋扈していたのですから、こうしたボンクラ経営者の全てを追放できたのだとすれば、バブル崩壊後のながぁーい苦難の時期も、大きな意味を持った期間だったといえるのですが、果してどうなのでしょうか。未だ世の社長族も、玉石混淆状態のように見えてならないのが残念ですね。 「悪銭身につかず」といった連中は追放したいものです。
2012.03.30
コメント(14)
ルイ14世の宮廷生活 (54) ルイ14世の親政がスタートしても、ヴェルサイユ宮殿への移転が行なわれるまでは、サロンがフランス文化の中心でした。評判のサロンには、詩人や小説家、劇作家、音楽家、画家、学者らが招かれ、自作を朗読して、サロンの女主人や客人の批評を聞き、その評を受けて、作品の出来を判断し、評価が高まり安定するに従って、作品を世に問うことが珍しくなかったのです。音楽作品も、オペラやバレエもサロンでの演奏や上演で評判を得て、その上で公開されることが多かったのです。フランスバロック音楽の巨星だったラモーも、サロンで自作を発表し、賛辞の嵐を受けてから出ないと、自作を公表しなかったほどでした。劇作では、コルネイユやラシーヌらが、やはりサロンでの評判を足場に、大をなしています。しかし、太陽王と讃えられたルイ14世が、本格的にヴェルサイユに腰を落ち着けると、記述のように貴族たちは、老いも若きも競って王を追ってヴェルサイユに移り住み、王の恩寵に預かって、宮殿内に居室を与えられる特権を得ようと、王の下に日参する日々を送るようになると、パリのサロンは、しばらくの間は成り立たなくなってしまいます。この次期、あらゆるフランスの文化は、全てヴェルサイユ宮殿から発するようになったのです。詩人も小説家も、劇作家や音楽家も、全てヴェルサイユ宮殿に伺候して、宮殿の中庭やホールなどで、コンサートが開かれ、オペラやバレエ、そして演劇などの催しが、開かれたのです。 続く
2012.03.29
コメント(6)
クロニクル 新王子製紙・本州製紙合併クロニクル 1996(平成8)年3月29日16年前のことです。この日、新王子製紙と本州製紙が合併に調印、10月1日に合併し、新会社「王子製紙」に移行することを、正式に発表しました。ここに、新王子製紙は、日本製紙グループに奪われていた業界首位の座を、再び取り返すことに成功しました。王子の執念が実った合併劇でした。
2012.03.29
コメント(16)
ルイ14世の宮廷生活 (53) ルイ14世の宮廷、国王の統治に戻ります。フランスの宮廷、特にブルボン朝の宮廷では、広く国民の前に国王自らが姿を晒し、親愛感を持たせることで、王の統治に対する求心力を高めるのが常でした。そうはいっても、フランス国内を隅々まで巡幸することは不可能です。そこで廻りきれない主な都市や、新に征服などによって国土に組み入れた所領などについては、ルイ14世の銅像を建てるのが常でした。また16世紀後半から急速に発達した印刷術を利用して、ルイ14世の肖像画を印刷し、王の様々な絵姿を各地で配布したのです。国王の肖像まで、統治に利用されたのです。コルベール以外にも、ルイ14世には、知恵者の腹心が揃っていたのですね。ではこの時代、前代に誕生し次第に隆盛に向かっていたサロンは、どうなったのでしょうか。文化の問題を含めて、記して行く事にしましょう。 続く
2012.03.28
コメント(4)
クロニクル 神仏分離令出る 1868(慶應4)年3月28日1868年は明治元年にもあたりますが、一世一元制を定め、それに伴い明治と改元したのは、9月8日でしたから、3月の28日は、まだ慶應の内でした。144年前ですね。西郷と勝が、江戸の無血開城で合意したのが3月14日、官軍の江戸城受け取りは4月11日ですが、ここではもう明治政府を新政府と呼んで良い事にします。この日、新政府は神仏分離令を出し、仏像を神体とすることを禁止し、神社からの仏像・仏具の追放を命じました。これによって平安朝以来の日本の伝統であった神仏習合の伝統が破壊され、神社内の神宮寺、寺社内の鎮守神の分離独立、八幡大菩薩や熊野大権現などの習合神からの菩薩や権現号の剥奪が行われました。比叡山の延暦寺にある、日吉天王社では、武装した神官が神殿内にある貴重な仏像・仏具・経典などを焼き捨てました。奈良の興福寺では、僧侶が一山還俗し、春日社が独立、五重塔だけが残る異常事態となりました。こうした神仏分離の強引な推進により、仏教は大打撃を受け、神道もまた新しい神々を戴く事になりました。数年後、行き過ぎを察知した政府は、軌道修正を図りましたが、国家神道の編成は、一層大々的に行われてゆきました。
2012.03.28
コメント(8)
クロニクル スリーマイル島の原発事故発生1979(昭和54)年3月28日33年前になりますね。この日、米国ペンシルヴェニア州、スリーマイル島の原子力発電所で、大きな事故が起き、初動が遅れたために大量の放射能漏れが発生し、大きな社会問題になり、かつ政治問題にも発展しました。事故原因の調査の結果、原発の安全性に関する慎重論が強まり、この事故以降、米国は長期にわたって、新規の原子力発電所の建設を凍結する決定を下しました。皆さんもご存知の通り、米国での原子量発電所の建設再開を認める新法は、ようやく6年前に議会を通過し、原子力発電所建設の凍結解除、新規建設が動き出したのは2008年になってのことでした。昨年のフクシマダイイチの複数機のメルトダウンに比べれば、ずっと小さな事故だったにも関わらず、アメリカでは原発の専門家が、きっちりと警鐘を鳴らしたのですね。原子力村に取り込まれ、魂を売ってしまったような日本の政治家や御用『学者」たちと、なんと違うことでしょう。
2012.03.28
コメント(8)
ルイ14世の宮廷生活 (52) デュマの主張にあるルイ14世の入れ替え説を認めるには、しかし大きな問題があります。ルイ14世の親政の開始は、1661年です。然るに、仮面の男の誕生は、「仮面の男は1669年に、財政総監コルベールからピネローロ監獄の監獄長サン・マールに預けらました」とあるように、その8年後になるのです。この8年のタイムラグをどう説明したら良いのでしょう。デュマはこう説明します。拉致誘拐され、捉えられた国王は、やがて双子の弟が自分に代わって玉座にあることを知ります。国王の入れ替えを実行した面々は、捉えた王が運命を受け入れ、返り咲きを諦めるまで、王を座敷牢に監禁して、運命の受容を迫ったというのです。8年のタイムラグは、双子の兄に当たるルイ14世が、自らの運命を甘受しようと、心境の変化をきたすまでの時間だったのだと。もはや、朕こそ本物の国王だと、大声で騒ぎ出す心配はないと判断したからこそ、コルベールは腹心のサン・マールに預け、仮面の男として、牢舎内に限って、行動の自由を与えた。これがデュマの主張です。彼の『三銃士』3部作の最終編『ブラジュロンヌ子爵』では、国王の秘密に気づき、仮面の男の救出を策すアラミス大司教に、伯爵となったアトスらが協力し、国王の軍隊を率いるダルタニアン元帥は、友情と王命の間で揺れる形で、物語は進展するのですが、現実の仮面の男が獄舎で息を引き取っていることから、遂に救出は成功しないまま、物語は終るのです。以上が、ルイ14世双子説と仮面の男の実在とを結びつけた話のあらましです。歴史学は事実を語らなければならないのですが、歴史に題材をとった逸話の紹介は許されて良いだろうと、私は考えています。ここに記した「仮面の男」の存在は、確認された事実です。しかし、ルイ14世双子説は、傍証は沢山ありますが、確実に事実だと断定する確証はありません。まして、入れ替え説は、良く出来た筋立てですが、さらに証拠の薄い話です。「仮面の男」は誰だったのか。これはタイムマシーンで時空を遡ることが出来ない限り、永遠の謎として、残すしかないようです。 歴史のロマンと受け止めていただけると幸いです。同じ伝で、邪馬台国の謎も、永遠のロマンであってほしいと考えるのですが、皆さんはいかがですか。明日から、また、本筋に戻ります。 続く
2012.03.27
コメント(8)
クロニクル 日本、国際連盟脱退1933(昭和8)年3月27日79年前のことです。この日、ジュネーヴの国際連盟本部に、内田外相は日本が国際連盟を脱退する旨を通告しました。2月24日の国際連盟本会議において、連盟が満州(現在は中国東北地方)に派遣したリットン調査団の報告(いわゆるリットン報告、具体的には満州の事態を、日本の侵略と断定したもの)を、42対1で、承認したことに対し、日本の全権代表松岡洋右は、対日勧告の採択に抗議して退場していたのですが、その事態を追認し、政府全体としての抗議の意志表示として、脱退を選択したと説明されました。ここに日本は国際的な孤立状態に陥っていくことになります。この時、政府首脳の多くは、国際連盟からの脱退に慎重だったのですが、新聞各社はそろって脱退論を唱え、全国132の新聞社が、「満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる事情があろうとも、絶対に受諾すべきではないことを、全言論機関の名において声明する」という共同声明を発表し、世論を脱退に誘導したのです。新聞各社は、国際関係の実情を知らず、ただ威勢が良いだけの軍人達に引きづられていたのですね。政府首脳もだらしなく、硬派の世論に引きづられて、脱退に傾いたというのが真相でした。 外交下手は、今に始まったことではないようですし、円安誘導や消費増税への誘導など、マスコミが世論をミスリードするところは、今も変わっていないですね。
2012.03.27
コメント(12)
クロニクル 総量規制発動1990(平成3)年3月27日22年前の話です。当時の大蔵省は、この日総量規制を発動しました。収まらない地価高騰への対策として、金融機関に対し、不動産融資総枠の対前年比伸び率をゼロとするように求め、通達を出したのです。実施は4月1日でした。この規制は、総枠の伸び率を抑えるものでしたから、預金量が増え、融資総枠が増えるならば、前年と同じ比率ですから、その枠内で融資を増やすことは可能でした。また大蔵省の管轄下にない農協に融資を紹介する形で、子会社の住専への過剰な融資を継続することは可能でした。結局それが、傷口を広げてしまったのですが......
2012.03.27
コメント(6)
ルイ14世の宮廷生活 (51) デュマの説の特徴は、親政開始の時点で、ルイ14世は双子の弟に入れ替わったという点にあります。大変大胆な仮説なのですが、大胆な仮設を展開するに足る傍証を、デュマは丹念に拾い集めています。その最大のポイントは、成人に達し、親政開始を宣言する頃から、ルイ14世の性格が、大きく変わったという点にあります。それまで、どちらかというと、口数の少ない生真面目な青年の雰囲気を漂わせていた国王が、マザランの死後に親政を宣言した時からは、「若き国王は、威厳と貴賓に満ちていらっしゃる」とか、「王は大変公明で、戯れにも人を軽蔑したり、人の悪口を口にされることがありません」と、評されるように変貌を遂げたことにあります。この点は、ルイ14世に帝王学を伝授する師匠役を果たしたマザランという、国王が頭の上がらなかった偉大な師の死去によって、国王の頭にのしかかっていた大きな重石が除かれたことによる、解放感のなせる技と考えた説もあるのですが、あまりの変化にいぶかしく思った貴族たちも多かったのです。ルイ14世自身、「王様、お変わりになりましたね…」と語りかけられることも多かったらしく、自ら以下のように語られることも1度や2度ではなかったようです。「親政を宣言した瞬間、朕は気力が高まってくることを感じたのだ。朕は、これまで知らなかった物を、自分の中に見出した。 今朕は国王であり、また国王たるために、生まれてきたように思えるのだ。」と。ルイ14世の出生時、産室に伺候していた貴族たちを遠ざけ、ルイ13世妃アンヌは、双子の弟を出産し、その子はリシリューの命を受けたマザランを通じ、パリ市内の市井の市民に預けられました。 マザランは、ルイ14世に万一の事があった場合、この双子の弟を替え玉として使うことを考え、この弟を大事に育てるよう命じたのです。マザランの命により、ルイ14世の弟の見守り役を続けたのが、マザランの死後一時財務卿を務めながら、収賄の罪に問われて失脚したフーケでした。フーケの後を継いだのがコルベールでした。腹心に命じて、フーケの身辺を徹底的に調査したコルベールは、ある時期ルイ14世の弟の存在に気付きます。国王に瓜2つの若者の存在を知ったコルベールは、即座に事情を理解します。密かにこの弟君に接近したコルベールは、その聡明さに驚き、密かに国王の入れ替えを画策したというわけです。ブルボン王家の王族は、誰もが狩猟好きだったことが知られています。フランス革命で処刑されたルイ16世も、国王の逃亡事件を起こした時、狩猟用の愛犬2頭を伴ってテュイルリー宮を脱出したことが知られているくらいですから…。ですから、狩猟の際に国王をかどわかし、そっくりの若者に入れ替えることは、全く不可能ではありません。 続く
2012.03.26
コメント(8)
クロニクル エジプト・イスラエル国交を回復1979(昭和54)年3月26日33年前ということになります。この日、サダトエジプト大統領とラビンイスラエル首相は、平和条約を締結し、1948年の第1次中東戦争勃発以来、犬猿の仲だった両国の国交を回復しました。この結果、イスラエルはエジプトに対し、第3次中東戦争時に占領したシナイ半島を即日返還したのです。この流れが、そのまま継続されれば、中東地域に本格的な平和が訪れたのでしょうが、残念ながら、二の矢、三の矢が続かなかったですね。
2012.03.26
コメント(8)
クロニクル カチューシャ可愛や別れのつらさ...1914(大正3)年3月26日あと2年で100年ですか。98年前のこの日、帝国劇場で芸術座の公演、トルストイの「復活」が初演の幕を上げました。翻案と脚色島村抱月、主演は松井須摩子と山田隆也という顔ぶれでした。当時芸術座は、劇中歌を得意としており、ここでも主演の松井須摩子が「カチューシャ可愛や、別れの辛さ...」と、中山晋平作曲の「カチューシャの唄」を歌って大ヒットを飛ばし、それが評判となって、劇への関心を高めたため、帝劇の舞台もまた連日満員の盛況を続け、大成功を収めました。帝劇後、芸術座は全国を巡演して歩き、新劇の大衆化にも、大いに貢献しました。何しろカチューシャの名を冠した櫛、リボン、絵葉書なども、大変な人気となり、随分売れたそうですから...。主演女優の松井須摩子は、島村抱月との熱愛が発覚したことから、文芸協会を除名され、前年に島村等と共に芸術座を結成、「復活」の大成功と共に、女優としての絶頂期を迎えました。しかし、「好事魔多し」とは良く言ったもので、1918年の11月にスペイン風邪で、島村抱月が急死すると、須磨子は生きる気力を失ってしまい、「カルメン」公演中の1919年1月5日に、後追い自殺で自ら命を絶ったのです。大正期を代表した大女優は、こうしてファンの前から姿を消したのです。
2012.03.26
コメント(10)
ルイ14世の宮廷生活 (50) もう少し、仮面の男について記します。仮面の男は実在しました。ただし、かぶっていた仮面は鉄製ではなく布製でした。この布製のマスクは、人と顔を合わせるときのみ、着用が義務付けられており、看守長には、「もし人前でマスクを取ろうとしたならばば、その場で殺せ」という指示が出されていました。ですから、牢獄で世話をしていた人たちも、仮面の男の素顔を知らなかったとされています。仮面の男は1669年に、財政総監コルベールからピネローロ監獄の監獄長サン・マールに預けらました。財政総監直々の頼みに、監獄長のサン・マール自身が、自ら世話を担当した記録が残されています。以後、サン・マールの転任と共に仮面の男も同じ監獄に移送され、常にサン・マールの監視下に置かれました。こうして、男はサントマルグリット島を経て、1698年にはバスティーユに移送されました。当時のバスティーユの看守は、「囚人は常にマスクで顔を覆われ、副監獄長直々に丁重に扱われていた」と記録しています。仮面の男は、獄舎にありながらも生き延び、サン・マールに預けられてから34年後の、1703年11月19日に死亡したことが記録されています。男の死亡後、彼の所有物などは全て焼却された記録も残っています。「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、これだけでもかなり興味を惹かれる話です。ですから、当時から仮面の男が誰かは、大変な話題になりました。ルイ14世の親政開始(1661年)とイギリスのピューリタン革命の終了(1660年)、王政復古によるチャールズ2世(ルイ14世の年上の従兄弟)の即位(同じく1660年)とが、ほぼ同時期であることから、仮面の男は、チャールズ2世に敵対するイギリスの有力王族とか、革命派の中心人物クロムウェルの」関係者とする説も、いくつも流れました。しかし、圧倒的に多いのは、ルイ14世の母違いの兄弟とする説でした。しかし、18世紀の中頃までは、仮面の男とルイ14世の双子説を結びつける主張はなかったのです。仮面の男と双子説が重なるかもしれないと、両者が繋がるかもしれないことを、最初に示唆したのは、ヴォルテールでした。このヴォルテールの主張を、一つの巨大なスペクタルに仕上げ、壮大な物語を紡いだのが、アレクサンドル・デュマの『ブラジュロンヌ子爵』でした。 レオナルド・ディカプリオの主演映画『仮面の男』といえば、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。デュマのこの作品が、あの映画の原作です。 続く
2012.03.25
コメント(12)
クロニクル 欧州経済共同体(EEC)設立へ1957(昭和32)年3月25日ちょうど55年前のことです。この日、フランス・西ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの西ヨーロッパ6ヶ国は、ローマ条約に調印し、欧州経済共同体と欧州原子力共同体を組織することに合意しました。この2つの組織は翌年1月1日に正式に発足します。このうちEECの狙いは、西ヨーロッパにおける生産物とサーヴィスの共通市場を作りだし、経済活動の相互補完を図ることにありました。農業面では各国の思惑の違いから、例外規定もかなり残りましたが、工業製品の関税障壁は、撤廃されることになりました。6ヶ国はその後も協議を続け、加盟国も次第に増加していきましたが、各国はその後もより密接な関係を構築しようと努力を続けて、1967年7月には、政治関係をも含む欧州共同体(EC)結成に踏み切り、相互の関係をさらに強化したのです。その努力はさらに続き、1992年2月にはマーストリヒト条約を結んで、欧州連合(EU)の形成に踏み切り、99年1月には、加盟11ヶ国2億9千万人が加盟する通貨統合が「共通通貨ユーロ」の導入という形でスタートしました。 この共通通貨ユーロに加盟する諸国は、2011年1月にエストニアが加わり、現在は17ヶ国に増えています。さて、私はというと、各国の主権の1部を大きく制約する共通通貨の導入などとても無理だろうと考えていただけに、ドルとの競争に耐え得る通貨を手にするためならという、特に独仏首脳部の固い決意に気付いて、驚きを禁じえなかったのを、今でも良く覚えています。さて鳴り物入りで登場したユーロ、ギリシアを初めとする南欧諸国の危機で、今や大きく揺らいでいます。これからどうなるか、なおしばし、危機が続くようですね。
2012.03.25
コメント(8)
ルイ14世の宮廷生活 (49) 実は、ルイ14世には、証拠はないのですが、現在まで根強い双子説があります。そして、ルイ14世時代に実在した仮面のまま獄中に留め置かれた、仮面の男(鉄火面)と、この人物を同一人物とする説もあります。少々脇道にそれますが、2,3回この話を記すことにします。事実は2点あります。1点は、1638年の王妃のお産を巡ってのことです。この時は王子の誕生でしたから、当然、誕生と同時に大勢の参内者が産室に入って、王と王妃にお祝いを言上し、喜びに溢れた情景が展開するはずでした。ところがそうはならず、産後の王妃のお具合が悪いからと、数名の側近を除く大多数の王族と貴族が、退出を求められたのです。しかも、王とリシュリュー、そのた数名の側近は、その後数時間産室に篭り。慌しい動きが続いたことが、複数のメモワールから確認されています。しかも、最初の出産から数時間後、王とリシュリューの信頼厚い侍従の1人が大きな荷物を胸に抱えた侍女と共に、慌しく馬車で王宮を後にしたことも知られています。当時は、双子は不吉とされていましたから、この時侍女は、後から誕生した弟君を、人知れずどこかに里子として運んだのだと、考える人たちが出てきたのです。ルイ14世双子説の誕生です。この説を強力に主張したのが、啓蒙思想家として一世を風靡し、フランスのみでなくヨーロッパ世界全体が、啓蒙思想を認知することに貢献した、ヴォルテールでしたから、この説の影響力も半端ではありませんでした。彼の大著『ルイ14世の世紀』がそれです。ヨーロッパ世界で、文筆で財を成し、遂には広い所領を買い取って、領主のような暮らしをしたことが知られるあのヴォルテールです。ヨーロッパ世界で、文筆1本で生活でした最初の人物は、16世紀の中期にかけて活躍したエラスムスだったのですが、彼はやっと食べていける程度でしたから、ヴォルテールは群を抜いていたのです。第2に仮面の男の話です。1661年以降、この男の亡くなる1690年代まで、男は、フランス国内の監獄を、何箇所も移されながら、留置されていました。勿論、仮面は人前に出る時のみであり、牢内に留め置かれている限りは、かぶっていなかったのかも知れません。その点は記録がありません。分かっているのは、男が、牢の所長とも親しげに話し、客のように椅子に座して喫茶を楽しみ、所長の前でも着帽のままだったということです。つまり仮面こそつけていますが、男は牢内で大事にされ、自由に牢内を動き回っていたということです。囚人としては、男は大変な特別待遇を受けていたのです。そして注目してほしいのは、牢の所長の前でも、視察にやってきた警察や政府の役人の前でも。男は着帽のままだったことです。当時の欧州の習慣では、着帽のままでいられるのは、集まったメンバーの中で、最も位の高い人物だけだったという事実です。着帽は、その集団で最も地位の高い人物にのみ、許される特権だったことです。仮面の男が、大変高位の人物であり、その位は獄中にあっても変らなかったことが、ここから理解できます。 続く
2012.03.24
コメント(14)
クロニクル コソボ空爆1999(平成11)年3月24日当時のコソボは、新ユーゴスラヴィア(セルビア+モンテネグロ)の1自治州でした。地理的には、アルバニアとマケドニアに接するセルビアの最南端の地域にあり、アルバニア系住民が7、セルビア系住民が3の割合で混住していました。90年代、旧ユーゴスラヴィアを構成していたスロベニア、クロアティア、ボスニア、マケドニアなどが、次々に独立を達成(それはスロベニアを除けば、民族紛争という大きな困難を伴ったのですが...)すると、セルビア系住民ばかりが優遇される状況に、不満を募らせていたアルバニア系住民によって、コソボ独立運動が始められ、その運動は燎原の火の如くに、広まったのです。セルビア政府は、コソボのセルビア系住民の保護を名目に出兵、アルバニア系住民の運動を徹底的に抑圧、1部ではボスニアで行ったような大量の住民虐殺も行われたと言われます。こうした状況下で、この日NATO軍が、国連安保理の決議も要請もないことを無視して、コソボのアルバニア系住民の保護を錦の御旗にして、セルビア軍及び軍施設に対する空爆を実行したのです。NATOはさらに地上部隊をも派遣して、セルビア軍を圧倒、コソボではアルバニア系住民が優位に立ちました。こうして、コソボの形勢は逆転しました。その後のコソボでは、アルバニア系のコソボ独立を目指す勢力が、次第に支持を拡大し、2007年11月選挙で、遂にコソボ独立を目指す、コソボ民主党が第1党となり、翌年2008年2月にコソボ自治州議会は、セルビアからの独立を宣言、コソボ共和国を名乗りました。セルビアはそれに反発、国内に民族紛争の火種を抱える国々は、自国への飛び火を警戒して、コソボを独立国家として承認することを控えたため、今日まで、独立を承認した国々は、88ヶ国にとどまっており、お膝もとのEUでも、 スペイン、ギリシア、ルーマニアなどが承認に反対しており、EUとしての一致した行動は取れないでします。このためコソボの将来は、まだ不透明な状態にあります。
2012.03.24
コメント(2)
クロニクル 上海で列車事故1988(昭和63)年3月24日24年前のことです。この日、中国上海方面を修学旅行中だった高知学芸高校の引率教員と1年生生徒を乗せた修学旅行列車が、貨物列車と衝突、1年生生徒と引率教員を合わせ、27人が死亡する惨事となりました。この事故の結果、当時流行していた西日本を中心とした高等学校の中国への修学旅行は、1時期下火となりました。
2012.03.24
コメント(10)
ルイ14世の宮廷生活 (48)いつの頃からか、フランス王室の王妃のお産は、国王を初め、王族や貴族の立会いの下で行なわれる習慣が出来上がっていました。当時は誕生前に、生まれる子が男児か女児かは分かりません。ですから、誕生する子は、次の国王になるかもしれないのです。次期国王の誕生は、王族・貴族が揃って祝うべき慶事ですから、大勢が産室に入って、誕生を待ち受けるのが常となったのです。といっても、王妃のベッドの周りには、衝立が立てられ、特別な人以外は、衝立の中には入れないようになっていましたが…そして、国王も王妃も、それが当然と考えていました。こんな逸話が残っています。アンリ4世妃マリー・ド・メディシスが、後のルイ13世を産んだ時のことです。跡継ぎの誕生を待ち望んでいた王族・貴族がなんと200名も詰めかけ、人いきれで室内の温度が上がり、王妃が苦しそうになったのです、見かねた付き添いの女官が王族以外の貴族たちに、遠慮がちに退出を促したことがあったのです。この時、世継ぎの誕生を心待ちにしていたアンリ4世自身が、その女官を制止して、「生まれる子は、万民の子なのだ。皆の者は朕と共に案じ、喜ぶために来ておるのだ。余計な節介をするでない」と、諌めたというのです。王としての覚悟、王妃としての覚悟の程が、ここに読み取れます。これ以後、お産の公開はさらに進みます。何度か流産した末に、30代の後半になって、ようやく出産に漕ぎ着けます。1638年の9月上旬、後のルイ14世の誕生です。国王は勿論、宰相リシュリューを初めとする国王側近の人々、王族・貴族は共に大喜びで産室に詰め掛けます。この時、パリ市長を初め、パリの主だった人たちがお祝いに駆けつけ、平民代表も王妃のお産に立ち会ったのです。この結果、王妃のお産の公開はさらに進み、平民の多くがお産直後の産室を、お祝いのために訪問するようになったのです。1778年、ルイ16世妃マリー・アントワネットの最初のお産の時のことです。助産婦が「王女さま御出産」と声を上げると、産室の外で待ち構えていた大勢の見物人が、どっと産室に入り込み、あまりの人いきれに、出産直後で疲れきっていた王妃は、気を失う事態になりました。室内は大勢の人で身動きも出来ず、一目国王の赤子を見ようという人々は、王妃の失神もなんのその、部屋を出ようともしません。さすがにこれではまずいと、この時を最後に、王妃のお産の公開は、打ち切りになったのです。このお産の公開があったことから、後世に謎として残されたのが、ルイ14世の誕生秘話なのです。有名な鉄火面の話ですが、この部分は明日の話とさせて戴きます。 続く
2012.03.23
コメント(4)
クロニクル 興安丸舞鶴へ1953(昭和28)年3月23日59年前のことです。この日朝、京都府の日本海に面した港町舞鶴へ、中国からの引揚げ者2009人を乗せた興安丸が入港しました。中国大陸からの引揚げは、一応1946年中に完了したことになっていましたが、なお数万人に及ぶ旧軍人や民間人が残留していると見られていました。ところが、社会主義の中華人民共和国の成立。敗北した国民党が台湾に亡命政府を組織して、中国の正統政府を主張したこと。米国がこの台湾政府を支持、後援し、日本政府もそれにならったことなどから、大陸中国と日本との関係は断絶、残留日本人の帰還事業は暗誦に乗り上げていたのです。 この事態は、日本赤十字社と中国紅十字会という民間同士の話し合いという形をとり、人道的見地による解決が測られ、この日の第1回帰国に漕ぎつけたのでした。第2陣の高砂丸も夕刻、1959人の引揚げ者を乗せ舞鶴に入港しました。舞鶴港はソ連のナホトカからの引揚げ者の入港地でもあり、興安丸はソ連からの引揚げ者の運搬船でもありました。中国からの引揚げ者は、ソ連からの引揚げ者に比べ顔色も良く、元気そうでしたが、中国での生活については,固く口を閉ざして語ろうとはしなかったと、記録されています。「きょうも暮行く、異国の丘に、友よ辛かろ、せつなかろ...」と歌われる『異国の丘』はロシアに抑留された仲間の兵士をしのぶ曲ですが、中国からの引揚げ者の間でも、瞬く間に口ずさまれるようになったそうです。
2012.03.23
コメント(14)
ルイ14世の宮廷生活 (47) フランスの国王が、都市民衆を含む国民から隔絶した存在でなかったことは、今までの記述で、御理解いただけたものと存じます。太陽王と称されたルイ14世の時代にあっても、民衆は誰でも自由に王宮に出入りできたのです。秘密のヴェールに包まれている日本の皇室とは大きな違いです。特に王宮がパリにあった時代は、朝から晩まで入れ替わり立ち代りに、市民たちがやってきて、大賑わいだったといいますから、排泄物は余計に盛り上がったのでしょうね。どうしてこうだったのかというと、王宮のみでなく、王や王の家族は国民の大切な所有物という観念が、普及していたからなのです。国王は、この観念を逆手にとって、自らと家族を露出することで、王及び王家に対する民衆の支持を固めたのです。そんなわけですから、民衆は王宮のみでなく、王や王の家族の日常を見物することも出来たのです。王と王家の昼食大膳式は、大勢の貴族に公開されていたことは、既に記しましたが、日曜日の昼食(大膳式)は、庶民にも公開されていました。ルイ14世は、崩御される1週間前の日曜日の食事まで、公開の席で食事を取ったことが知られています。また、ルイ14世の曾孫にあたるルイ15世は、ゆで卵の食べ方が実に鮮やかだったようで、王宮を訪れた庶民達は、「王の典雅な振る舞いよりも、卵割りの手先に感動して帰った」と、貴族たちは記しています。このように開かれた王室は、庶民に愛されましたから、王家の慶事特に王太子の結婚や王妃の出産は、国民の喜びであり、逆に王や王族の訃報は国民の悲しみになっていたのです。ですから、庶民達は危篤の王を励まそうと、臨終間近であろうと構わず王宮にやってきます。ルイ13世の臨終の際には、衛兵の制止も間に合わず、大勢の群衆が王の寝台近くに群がり、ルイ13世は苦しい息の下から、「皆のものをもう少し遠ざけ、もっと空気を入れてほしい」と付き人に頼んだことが、知られています。王妃や王女達の着付けや化粧も、公開の場で行われたことが知られています。それでは、庶民にとっても最大の慶事に当たる、王妃のお産はどうだったのでしょう。ここだけ非公開というのは、考え難いですね。 続く
2012.03.22
コメント(12)
クロニクル 上九一色村のオウム施設捜索 1995(平成7)年3月22日もう17年が経ったのですね。この日、警視庁は2日前の地下鉄サリン事件に関連して、山梨県上九一色村の広大な敷地にあるオウム真理教の教団施設を中心に、関連の 25施設を一斉に捜索しました自衛隊の毒ガス防御作業班の防御服を借用し、その防御服に身を包んだ警視庁の捜索班の姿は,何とも異様で、おどろおどろしく見えました。サティアンと呼ばれる信者の修行兼宿泊施設や、実験棟などから、大量の薬品等を押収、その後の捜査を含めて、逮捕者は400人以上に及び、起訴された人数は185人に及びました。
2012.03.22
コメント(16)
ルイ14世の宮廷生活 (46) 16世紀のフランソワ1世以降のフランス国王は、国民に対して自らの姿を見せることを、統治の手段としてきました。国内巡行もまた、その一つの手段でした。まず、国王登位を宣言するためのランスの大聖堂での成聖式(戴冠式)があり、その後に王国行脚と主要な都市への入市式が続きます。その後、高等法院に自ら出向いて、採決を行なう親臨法廷があります。このシステムは、高等法院が反対の姿勢を崩さない勅令や法案に対し、国王が通過を命じて高等法院の会議に親座したなら、高等法院は不承不承でも、勅令や法案を認めなければならない決まりでした。ルイ14世は、入市式はあまり行わなかったのですが、代わりに戦勝や王家の慶事を祝う式典を頻繁に行い、自らの存在を印象付けることを怠らなかったのです。 続く
2012.03.21
コメント(4)
クロニクル 高松塚古墳で......1972(昭和47)年3月21日ちょうど40年前のことです。この日、奈良県明日香村の高松塚古墳の発掘調査中に、極彩色の壁画が発見されました。古墳内部の石室に、白虎や青竜、金箔の星座や男女の像が色鮮やかに描かれていました。明日香村の依頼で、調査を担当していた橿原考古学研究所が発見、発表したのです。当時の考古学界では、近畿地方には装飾古墳は無いとする考え方が、定説の地位を占めていましたので、この発見は、定説を覆す大発見として、当時の考古学会及び、日本の古代史学会に大きな波紋を呼び起こし、好事家を巻き込んで古代史ブームが盛り上がったのは、この後のことでした。しかし、この高松塚古墳の主は、いったい誰なのでしょうね? 実は現在でも謎のままで、埋葬者が誰かは、皆目分かっていない,古代史の謎のままです。そこがまた古代史のロマンなのでしょうね。
2012.03.21
コメント(18)
ルイ14世の宮廷生活 (45) ヴェルサイユ宮殿にはトイレがなかったという話が広く流布していますが、なかったというのは、正しくありません。正確に言うと、ルーヴル宮殿にはトイレはなかったのです。ルイ14世がルーヴル宮を嫌ったのは有名ですが、その理由はフロンドの乱のトラウマばかりではなく、ルーヴル宮の不潔さにもあったのです。王宮の階段の下、廊下の隅など、多少なりとも物陰になっているところなどは、悪臭物で盛りあがるほどになっていたと伝えられています。きらびやかな衣装をまとい、上品な振る舞いに徹する老若男女が、物陰で平然と排泄する姿は、少々想像し難いのですが、当時の一般的な習慣だったのです。ですから、誰もが当然のように、自然の欲求を満たしていたのです。パリ市内の宮殿は、何処でも同じだったのですが、ヴェルサイユに移ると、多少事情は改善しています。国王や王妃や子ども達は勿論、貴族たちに恩寵として下賜した部屋にも、オマルが備えられていたからです。しかし、高貴な男女達の習慣がそう簡単に改まるわけではありません。庭園での園遊会など、野外の楽しい行事の時など、誰も離れた部屋まで戻って、、用を足そうなどとは考えません。誰もが、木陰で用を足します。召使達もオマルを空にするときに、ワザワザ遠くまで運びません。近くの物陰で処理してしまいます。ですからあの独特の肥溜めの臭いは、ヴェルサイユ宮殿でも、大いに漂っていたようです。後日の話です。1818年頃と言いますから、フランス革命とナポレオン時代を経過した王政復古の時代ですが、ある日ヴェルサイユを訪れ、庭園を散策した老婦人画、鼻をつまむ真似をしながら、「ああ、楽しい時代を思い出すわ」と、同行の人々に話したという記録が残っています。およその事情が察しられますね。 続く
2012.03.20
コメント(8)
クロニクル スモン患者公表1970(昭和45)年3月20日42年前になります。この日厚生省(当時、現厚生労働省)は、国内のスモン病患者を2669人と発表しました。スモンは整腸剤キノホルムを原因とする薬害でしたが、そのキノホルムの販売と使用の中止が通達されたのは、さらに半年近く遅れた9月7日のことでした。薬害エイズ,薬害肝炎以前にも、同じような薬害に対する対応の遅れは、常態として存在していたことが、この事実からも確認出来ます。
2012.03.20
コメント(14)
ルイ14世の宮廷生活 (44) ルイ14世の宮廷に私生活がなかったこと、王が自らの姿を見せることを、積極的に統治の手段として利用したことは、反面では王自身、こうした儀礼から自由になれないことも、意味していました。日々のスケジュールからも御理解いただけるように、全てが公開の中にありました、そんな環境に身を置くルイ14世には、王族は勿論、臣下の貴族やその家族のプライバシーに配慮する意志はありませんでした。この点は、ヴェルサイユ宮殿の構造に特徴的に現れています。見学された方は、奇異に感じられたと思うのですが、この豪壮な宮殿には、実は廊下がほとんどありません。宮殿に部屋(住まい)を下賜され、国王と同じ屋根の下に済む特権を待望する貴族は、ひきも切らないのです。その状態を知る国王は、当初は計画に合った廊下を潰して、次々に居室のスペースを増やしたのです。その結果ヴェルサイユ宮殿から、廊下と呼べる空間はなくなってしまったのです。するとどうなるか。誰もが宮殿内を移動する時は、互いに失礼と声を掛け合いながら、次々に人の部屋の扉を開けたり閉めたりしながら、続きの部屋を抜けていくしかなかったのです。現在の我々とは、大きく感覚が異なる時代ではあったのですが、それにしても理解し難い感覚ですね。トイレの問題は、明日にします。 続く
2012.03.19
コメント(4)
クロニクル 日本住宅公団、入居者募集1956(昭和31)年3月19日56年前になります。この日、日本住宅公団が、最初の住宅団地の入居者募集を始めました。千葉県稲毛市の公団稲毛団地です。2DKの5階建て。マッチ箱と揶揄されましたが、首都圏人口の急増時代の入口にあたっていましたから、入居希望者は多く、以後各地に住宅団地が作られてゆきます。森繁久弥・伴淳三郎・フランキー堺らが主演した「喜劇駅前団地」の撮影は、我家に近い、小田急線百合丘の公団第1団地で行われましたが、それは、この数年後のことと聞いております。稲毛団地も希望者は多く、抽選で入居者を決めたそうです。入居が開始されたのは、5月1日のことでした。。
2012.03.19
コメント(14)
ルイ14世の宮廷生活 (43) 昨日記したルイ14世の日々のスケジュールから、読み取れることは多々あります。先ずは、朝食をとらずに1日が2食であること。これは19世紀中期までの西欧では、何処でも同じでした。朝食の習慣は、工場での苛酷な労働が一般化する、19世紀半ばの労働者階級から始まります。次に日に2度の食事といっても、メーンとなるのが昼食であって、夕食ではなかったことです。その夕食も夜食と言っていいほどの遅い時間で、昼食とはかなり時間が空いています。逆に言うとそこまで時間が空いても文句が出ないのですから、如何に昼食のボリュームが凄いものかは想像がつきます。だからこそ、ご膳職は早朝からの準備が必要となるのですね。このシリーズのしばらく前に、サロンの誕生の話を記しました。サロンは午後から開かれますから、1日のメーンの食事を終えてから集まり、夜食の時間前に終るのが常で、途中で軽いティータイムというか、コーヒーにお菓子ぐらいの軽いつまみが出される程度だったのです。 18世紀に入ると、軽い夜食を提供するサロンも出てきますが…ところで、ルイ14世の日々のスケジュールから読み取れる、最も重要なポイントは、国王のプライヴァシーが、全くと言って良いほど、存在しない事実です。常に衆人に見られているのですね。これは溜まらぬと思うのが、現代人に共通する思いでしょうか。 続く
2012.03.18
コメント(6)
クロニクル グリコ社長誘拐1984(昭和59)年3月18日28年前のことです。この日、江崎グリコの江崎勝久社長が、自宅で入浴中を、怪人21面相を名乗る犯人グループに誘拐されました。犯行グループの要求は現金10億円に金塊100kg。これが後にグリコ・森永事件と言われた、奇怪な事件の発端でした。江崎社長は、どういうわけか3日後に独力で脱出しましたが、犯人はグリコ製品に毒物を混入すると脅迫。3億円を要求してきました。こうして事件は、毒入り菓子の恐怖が世間の家族や子どもたちを困惑させる、あの厄介な事件に変質していきました。
2012.03.18
コメント(14)
ルイ14世の宮廷生活 (42) ルイ14世は、対立する2派の宮廷人のみでなく、国民全体に自らの姿を見えやすくすること、公開性を高めることで、自らの求心力を高めることを常としていました。そのためにルイ14世は、自らの生理的な営みから政務に至るまで、等しく衆人が見守る中で行なって、わが身を晒すと共に、ドア1枚の差、眼差しの一顧で寵愛や不興の意志を、廷臣たちに示したのです。そんな状況にありましたから、戦場に出ている時や、狩猟に出ている時を除くと、国王ルイ14世の全ての行為は、いずれも儀式化されていました。何度か登場したサン・シモン侯は、「どんなにヴェルサイユ宮殿から離れていても、暦と時計さえ持っていれば、国王が今何をしておられるか、だいたい分かる」と記しています。手元に1684年4月の、とある1日におけるルイ14世の行動を記した、国王側近のダンジョー公爵のメモワールがあります。年代によって、王の1日は、少しづつ違っているのですが、大枠は変わリませんので、ここに記す日課表が、長きに』わたる王の行動を示していると考えて差し支えありません。王の1日は、およそ次のようになっています。7時 寝室にて起床の儀 準備開始 近侍が起床して火を入れ部屋を温める 7時半 王の目覚めの儀式 医師、老乳母ら入室 脈をみる8時頃 (時間は季節変動あり) 小起床の儀 子女・王族など入室し挨拶 鬘選び等8時半 寝室にて大起床の儀 職務上入室を許された約100程の貴族入室 この時国 王は小卓のついたビロード張りのおまる付き埜の椅子に着座 9時 寝室 軽食・着替え・お祈り 軽食は薬湯のみ 着替えの間係りは王の前を隠す9時半~12時半 会議の間 政務 日曜 最高国務会議、 月曜 最高国務会議と内務諮問会議(交互に隔週開催) 火曜 財務諮問会議、 水曜 最高国務会議、 木曜 なし(時に臨時召集あり) 金曜 宗務会議、 土曜 財務諮問会議12時半 礼拝堂 ミサ 王族・廷臣ら競って参列 国王の目にとまる機会 モンテスパン夫人訪問13時 王太子の控えの間 午餐(大膳式) 王族が伴食する 大膳職は明け方から準 備。15人以上の行列に守られて、料理が運ばれる。大勢の貴族、食事を拝見。 時に小膳食として、国王が1人で召し上がることもあるが、貴族の拝見は同じ14時半 戸外 着替えの後 狩猟か散策19時 大アパルトマン 火・木・土の集い ビリヤード、舞踏会、音楽会、観劇などの宴 大アパルトマンのない日は、マントノン夫人の部屋で政務を見る22時 王太子の部屋 夕食23時半 寝室 就寝の儀 進行は起床と逆の順で行なわれる実際の入眠は、12時半~1時頃毎日、毎日、判で捺したように、この日課が守られていたのです。皆さんどうお感じになりますか。 続く
2012.03.17
コメント(12)
クロニクル 東京ドーム完成1988(昭和63)年3月17日もう24年になるのですね。この日、日本初の屋根付き球場として、東京ドームが完工しました。この日は完工式典のみで、こけら落しは翌日のオープン戦でしたが......このドーム付き球場、その後は次第に増えて、今日に至りますが、困ったことにドーム球場もドームなしの球場も含めて、プロ野球の使用する球場の多くが人口芝を採用しています。当然選手の足腰にかかる負担も大きく、選手の怪我も多くなり、多くの優秀な選手たちの選手寿命を縮めてしまっています。優秀な選手達が次々と海の向こうの大リーグへと去って行く一因に、この人口芝問題があることも事実です。イチローも松井も他の選手達も、異口同音に天然芝の感触を激賞しています。
2012.03.17
コメント(10)
続・モロ前イタリア首相暗殺事件イタリアのモロ前首相の誘拐・暗殺事件は、謎の多い事件で、78年当時のジュリオ・アンドレオッティ首相の関与や、米国CIAの関与が噂されています。このうちアンドレオッティ首相の関与については、その可能性が極めて高いとされています。いかにもイタリアらしいのですが、なんともやり切れません。誘拐とその後の流れを簡単に記しますと、およそ以下のようになります。アルド・モロ氏は、1963年~68年までと74年~76年までの2回7年強に渡って首相を務めた、左翼ウィングの政治家でした。1978年の3月16日、ローマの自宅から車で議会に向かう途中、市内中心部のマリオ・ファーニ通りで、左翼テロリスト集団の赤い旅団に誘拐されました。赤い旅団は、投獄中の仲間の釈放を要求、ローマ教皇を含めたイタリア政界上層部と、赤い旅団との間で数度にわたる交渉が行われました。ローマ教皇の権威もあり、交渉はまとまりかけたのですが、モーロ前首相とと対立関係にあったジュリオ・アンドレオッティ首相率いる内閣が、赤い旅団の関係者の釈放要求を断乎として認めなかったのです。このためモロ前首相は殺害され、5月9日にローマ市内に停車中の車の荷台の中で、死体となって発見されたのです。モロ前首相は、当時議会を追われていたイタリア共産党の、議会への復帰を働きかけていましたので、彼が解放されると、イタリアの共産党勢力が勢いをつける(当時イタリアでは共産党は第2位の支持率を誇っていました)と懸念したCIAが、アンドレオッティ首相に圧力をかけた疑いがあるという報道も、当時根強くなされました。このうち、当時のアンドレオッティ首相の関与については、色濃い疑いが残っています。まず、事件後、アンドレオッティ首相の暗殺事件への関与を疑い、彼の闇の部分を暴こうとした雑誌編集者、ミーノ・ ペコレッリが殺害されています。この事件について、アンドレオッティ自らに依頼されて、仲間がミーノ記者を殺害したと、複数のマフィアが証言がとれています。このため、アンドレオッティは、2002年11月に一度は殺人罪で懲役24年の有罪判決を受けたのです。しかし、不可解な理由で、翌年の10月には逆転無罪とされたのです。アンドレオッテッィについては、複数のマフィア幹部との親密な交際がフォーカスされており、彼とマフィアとの黒い関係については、いくつ物事実が暴露されています。そして、90歳になる現在でも、終身の上院議員として、なおイタリア政界に隠然たる勢力をもっているのです。こうした闇の部分を、現在もなお抱えているのがイタリアです。それだけに、この先何が飛び出すのかについては、「一寸先は闇」としか申し上げられないというのが、正直なところです。
2012.03.16
コメント(4)
ルイ14世の宮廷生活 (41) こういう状況でしたから、宮廷に出入りする人たち(以後宮廷人と記します)は、自分の身分や相手の序列に応じて、使い分けることが必要な、微妙な要素を含む礼儀作法を弁えなければなりませんでした。国王や王妃たちに対しては、この心配りは最高に発揮されなければなりません。このためルイ14世時代の宮廷では、礼儀作法が極度に発達し、定式化したのです。こうした振舞いは、まさしく宮廷文化そのものであったのですが、身につけるにはかなりの修練を必要とします。それゆえ、ごく若い時期から宮廷に出入りし、宮廷社会の空気の中で過ごすことが、必要とされたのです。一方でルイ14世は、最高国務会議の構成員には、世情に明るい人物のみを抜擢していましたから、メンバー全員が平民出身の法服貴族ばかりとなり、武門の貴族は締め出されていました。そうであっても、国王といえども、武門の貴族を無視することは出来ません。武門の貴族、法服貴族の双方に、国王に対する忠誠を競わせるには、両者のバランスをとることが何よりも重要なことを、王自身良く承知していたからです。ですから国王は、官僚制と共に、過大なほどの(ということは、財政にとってのかなりの負担を伴うことになります)常備軍を組織し、武門の貴族に軍事上の役職を確保し、その体面を保てるようにしたのです。平民出身の新貴族を、官僚として重用したとしても、彼らが国王の恩恵の下に現在の職にあること、国王の恩恵の枠内にあってこそ、地位に留まれることを、常に意識させることが必要だったのです。伝統の貴族制度の上に乗る国王にとって、貴族制度を廃棄することは考えられず、新旧の貴族が、国王の恩恵を必要としたのとは別の意味で、国王にとっても、貴族制度の存続は、必要かつ不可欠なものだったのです。 続く
2012.03.16
コメント(4)
クロニクル イタリアで前首相誘拐事件発生1978(昭和53)年3月16日34年前のことです。この日、イタリアの左翼過激派「赤い旅団」は、首相在任時に仲間を逮捕・投獄したモロ前首相を誘拐し、仲間の釈放を求めました。しかし交渉は決裂し、モロ前首相は、5月9日に射殺死体となって発見されました。今でもマフィアの跋扈する国だけに、やることも派手ですね。はたして、こういう国で長期に渡る緊縮財政政策を、とり続けることは可能なのでしょうかネェ。モンティ首相、頑張っているようですが、なにしろ物騒な国だけに、人事ながら心配になるこの頃です。
2012.03.16
コメント(8)
ルイ14世の宮廷生活 (40) こうした事情がありますから、宮廷内においては、男性も女性もにこやかに社交の笑顔を振りまき、あれこれの会話を交わしながら、誰もが周囲の人々の心理を読み、状況を把握することに留意していました。家門が自慢の帯剣貴族は、成り上がりの法服貴族(法服貴族は、生まれながらの貴族ではなく、金の力で上級の司法官や行政官の職を買って、爵位を授与された人々を指します。これが絶対王政にとっては、重要な収入源でした。法服貴族は経済や法に明るく、官僚とし優秀でしたから、彼らの数は、時代と共に増えてゆきます)を。心の底から軽蔑していましたが、一方で国王に重用される彼らを、ひたすら妬み、羨んでもいたのです。こうした心情や、人間関係の機微は、誰にも口にして漏らすわけには行かないのですが、一方でどこかに吐き出さずにしまっておいては、身体の中に毒素がたまって良いことはありません。こうして、文章に明るい家門の貴族たちは、自らの観察や心情をメモワール(備忘録)として、書き残したのです。夫人達もまた、同様でした。私がここにルイ14世当時の宮廷生活を覗き見したような記事が書けるのも、サン・シモン侯やラ・ロッシュフコー公爵、セヴィニェ夫人らが残してくれたメモワールや作品によるのです。 続く
2012.03.15
コメント(8)
ランドセル事始 (2) 昨日の(1)に記したように、当時のランドセルは今のリュックサックに近いものでした。現在のようなしっかりとした箱型ランドセルが誕生するきっかけとなったのは、明治20年の後の大正天皇の学習院ご入学でした。この時内閣総理大臣だった伊藤博文が、皇太子の学習院入学を祝して、特注で作らせて献上したのが、現在のものに近い箱型ランドセルだったのです。しかし、当時のランドセルは、どちらかといえば都会の中産階級までの家庭の子女をターゲットとした商品とでした。都市の下層階級は勿論、地方では教科書やノートを風呂敷に包んで通学するのが一般的でした。全国的にランドセル通学が普及し、日本の小学生にランドセルが欠かせないものとなったのは、高度成長期を迎える昭和30年代中頃のことでした。 完
2012.03.15
コメント(8)
クロニクル 金融恐慌勃発 1927(昭和2)年3月15日85年前のことです。前日14日の衆議院での質疑において、片岡直温蔵相が危ない銀行についての質問に関する答弁の中で、「東京渡辺銀行が危ない...」と,、うっかり口をすべらせ、それがマスコミに報じられたからたまりません。この日朝から、東京渡辺銀行は取りつけ騒ぎに巻き込まれ、またより危ない銀行として噂に上っていた「あかぢ銀行」もまた取りつけ騒ぎに巻き込まれました。両銀行は、休業を選択、全国の中小銀行に、取りつけ騒ぎが広がりました。世に言う金融恐慌の始まりでした。
2012.03.15
コメント(10)
ランドセル事始 (1)3月も中旬を迎え、卒業式シーズン真っ盛りのこの頃です。昨年は3,11以降卒業式を中止した学校も多かったようですが、今年は無事に卒業式が行われているようです。良かったですね。卒業式が済むと、慌しい春休みをはさんで、すぐに4月の入学式シーズンです。ピッカピカの1年生のランドセル姿は、なんとも愛らしいですね。なんだかランドセルが歩いているような姿が、やがてランドセルが似合う体型に変わり、卒業する頃には、ランドセルは小さく見えてと…。先ほど地震のニュースにテレビをつけたところ、コマーシャルで、A4サイズが入る大型のランドセルが宣伝されていました。公文書がB5版やB4版からA4版に替わったのは、1990年代でした。いよいよ小学生もA4版のファイルを用意する時代が来たのでしょうか。そこにどんな経済戦略が働いているのか、ちょっと気になりました。そこで、日本における、ランドセルの歴史を紐解いてみました。「天使のはね」HPによれば、ランドセルの歴史は、つぎのようになります。ランドセルの歴史は古く江戸時代に遡ります。。幕末の日本は西洋式の軍隊を導入しました。その時に、布製の「背のう」も同時に輸入され、軍用に使われました。これが日本のランドセルの事始めに繋がってゆきます。明治10年10月に開校した学習院は、明治18年に児童・生徒の馬車や人力車での通学を禁止するとともに、軍用の「背のう」に学用品類を詰めて通学させることにしたのがです。この「背のう」はオランダ語で「ランセル」と呼ばれていたのです。そこからやがて「ランドセル」という言葉が生まれ、それは通学用の背負いカバンを意味するようになり、現在にいたるまで受け継がれたのです。何せ華族学校の学習院が取り入れたのです。私立を手始めに、東京中の学校に普及するのに、そう時間はかかりませんでした。これが現在のランドセルのルーツです。 続く
2012.03.14
コメント(8)
ルイ14世の宮廷生活 (39) ルイ14世は、こうした貴族たちの一喜一憂を十分承知していました。ですから、1人の貴族をじっと眺めるようなことはせず、次々になるべく大勢の顔を見るように、絶えず視線を動かしていました。そして国王は、貴族たちの手元不如意についても知っていました。国王は好んで貴族たちに頼られる国王を演じるように務めました。それが貴族の反乱を防止するための最善の策と心得ていたからです。そこで国王は、宮廷内に実にこまごまとした儀礼的な職を作り、そこに貴族たちを配置したのです。例えば、王に薬湯を捧げる係、水を捧げる係、ハンカチを差し出す係、王や王妃の寝台に燭台を運ぶ係、排便に付き添う係まで作って、そこに男女の貴族を配したのです。しかも、こうした職にはおのずと位階があり、係ごとの上下の位階もおのずと定まっていたのです。従って宮廷内の序列を巡る貴族同士の暗々裏の争いは、大変熾烈でした。国王の寵愛を今現在誰が受けているか、王の嫡出子と婚外子を巡って、或いは王弟妃と王太子妃を巡って、どのような人脈が形成されているか、それに対して自分はどう対処すべきか。こうしたことを慎重に見極め、態度を決めてゆかなければなりません。うっかり間違えると家門の維持が難しくなるからです。当時のヴェルサイユやパリの町にある大貴族の館には、どの館にも館の中心部にあたる中庭の奥に、社交の間がデンと構えられ、そこから両翼に分かれて夫妻夫々の私室や応接の部屋が配置されていました。この事実から、夫人がかなり自由に自分の時間を過ごせたことが分かります。それは、夫人にとって、最も大事な務めは、婚家の家門の維持・発展に社交を通じて協力することだったからです。縁組自体が、家門の維持を最大の目的として、考えられていたのです。 続く
2012.03.14
コメント(4)
クロニクル 大阪万博開幕1970(昭和45)年3月14日あれから、もう42年も経ったのですね。大阪吹田市の千里丘陵で、この日、大阪万博が幕を開けました。前日は春の雪となり、準備に追われていましたが、この日天皇陛下や佐藤首相(当時)を迎えての開会式が行われ、午後1時からは、8万人に及ぶ招待者が入場、翌日からの一般公開に先立ち、会場内を見学しました。前評判の高かったのは、「月の石」などの宇宙展示を競い合った米・ソ両国のパビリオン。早速に長蛇の列になり、早くも入場制限が行われる人気振りでした。会期は9月13日までの183日間、会期中の入場者は、6421万8870人に達し、従来の記録を塗り替えた史上最高の万博入場者数となりました。因みに、最初の万博は1851年にロンドンのハイドパークで開かれました。この第1回ロンドン万博の責任者は当時のヴィクトリア女王の夫君、アルバート公その人でした。会期は5月1日から10月15日までの168日間、入場者数は、約600万人を数えたと言われています。
2012.03.14
コメント(16)
ルイ14世の宮廷生活 (38) ルイ14世の日常については、後日に回しますが、昼のミサのために礼拝堂へ往復する機会や、午後の散策の時間、そして宵の口の舞踏会や芝居の折など、貴族たちが国王の目に留まる機会は、決して少なくはありませんでした。1部の側近や王族達、戦場で共に戦う将軍達といった、国王のそば近く仕える人たちを除く、その他の群小貴族たちにとって、国王と眼があい、自分の目礼を認めてもらうことこそが、先ずもって大事なことだったのです。何かの祝い事や戦勝などのたびに、国王は論功行賞と称して、貴族たちに様々な褒美というニンジンを与えたのですが、日頃国王に接していない場合、「さような者は知らぬ」とか「彼には最近会っていない」と冷たく言い放たれてしまうのです。1度こうなってしまうと、次のチャンスは、なかなか訪れないことになります。そのため、貴族たちは、日々国王の眼に留まることを願って、ヴェルサイユ宮殿の内部や礼拝堂の近く、そして国王の好む散策路に屯して、王のお目に留まることを願っていたのです。国王の寵を得ようとヴェルサイユ宮殿に集まってきた貴族たちの様子について、1人のイタリア人外交官は次のように記しています。「廷臣たちの、国王に認められたいと願う情熱は、信じがたいほどである。王が彼らの中の誰かに一瞥を与えると、その人物は運が廻ってきたと信じ、誇りやかにあちこち吹聴して歩くののです。『王様が私をご覧になった』」と。 続く
2012.03.13
コメント(6)
クロニクル 青函トンネル開業1988(昭和63)年3月13日24年前のことです。この日、42年の歳月と7千億円の巨費をかけた青函トンネルを使用する、JRの津軽海峡線が開業しました。青函トンネルの全長は53.85km、世界最長のトンネルです。ここに青函連絡線は80年の歴史の幕を閉じ、廃業することになりました。「北へ帰る夜行列車、降りた時から、青森駅は雪の中......... わたしは1人、連絡船に乗る...」という石川さゆりの曲の世界を、現実世界で実体験することは不可能となったのです。東京~札幌間は、新幹線を使うと、10時間52分となり、連絡船を使うよりも2時間以上時間が短縮されました。なおこの青函トンネルの中間には、竜飛海底駅があり、消火設備や避難所が設けられているのも特徴の一つです。
2012.03.13
コメント(18)
ルイ14世の宮廷生活 (37) ルイ」14世の移り住んだヴェルサイユ宮殿には、、国王・王妃・王族・国王の寵姫のほか、大勢の廷臣が居室を与えられて移り住みました。そのため部屋数は物凄く多く、しかも宮殿に居室を与えられる恩寵に浴そうと、毎日宮殿に伺候する貴族も多く、国王は改築のたびに廊下を潰して部屋数を増やす決断を下したため、ほとんど廊下のない建物になったといういきさつもあります。そんな改装を繰り返す中で、宮殿の居室は3千を越え、居住者もほぼ同数を数えたのですが、なお数千人の貴族たちが、宮殿に居室を与えられる特権を求めて、ヴェルサイユに移り住み、国王の声がかかるのを待ちわびていたと言います。かつてフランスの帯剣貴族は、所領を保持して、そこから上がる領主地代で家門を維持して、一族郎党を養っていました。ですから、16世紀の間は、フランス各地にいくつも小宮廷が存在し、国王の向こうを張る大領主がいたのです。しかし、度重なる対外戦争と内乱の結果、そして「新大陸」のスペイン植民地からの銀の流入による物価高と商工業の隆盛という経済変動によって、中央集権化の動きが強まり、帯剣貴族の経済的立場は、急速に悪化したのです。それでもユグノー戦争(1562年~98年)の間は、武力が重要であったために、この現実は、ある程度覆い隠されていたのです。しかし、平和の到来と共に、帯剣貴族の地位の後退は、覆い隠しようがなくなったのです。それでも、大半の貴族は家門の名誉を何よりも重視したため、威信を維持するための支出を削ることを恥としていたので、借金ばかりが大きく膨らんでいたのです。彼らにとって、起死回生の方法は、思いがけぬ遺産を手にする僥倖に浴するか、豊富な持参金を約束させて、富裕なブルジョワ家庭の娘を嫁に迎えるか、国王の恩寵を獲得するかしかなかったのです。遺産獲得は稀有な例に過ぎず、ブルジョワとの縁組は何かと不名誉です。そのため、国王の恩寵に期待をかけて、遠く所領を離れて宮廷に出仕する貴族が、次々にヴェルサイユにやってきたのです。 続く
2012.03.12
コメント(6)
クロニクル 小野田元少尉ルバング島より帰還1974(昭和49)3月12日38年前のこの日、小野田寛郎元陸軍少尉(51歳)がフィリピンの離島ルバング島より帰還しました。戦後28年と7ヶ月目のことです。小野田さんは、敗戦直前に、味方の撤収後も敵地に残って敵の諜報活動をするよう命じられ、忠実にその任務を守っていたのです。小野田元少尉は、この年2月26日に世界を放浪中の鈴木紀夫さんと邂逅、ルバング島のジャングルでの生存情報と、帰国の実現には、戦時中に与えられた任務の終了命令を伝達する必要のあることが、厚生省(当時)に伝えられました。こうして、3月10日に旧陸軍の上官が、鈴木さんと共に現地入りして、「作戦行動の停止」を命令、ようやく小野田さんにとっての、戦争が終了し、帰国が実現する運びとなりました。幸いだったこととして、和歌山の実家でなおご両親が健在だったことです。ご両親のお喜びはいかばかりか、こぼれるような笑顔が新聞に載っていたことが思い出されます。帰国後の小野田さんは、マスコミの取材攻勢を嫌い、翌年4月実兄の居住するブラジルに移住しました。 なお。90歳の今も健在で、日本とブラジルを往復する生活をしていると聞き及びます。
2012.03.12
コメント(16)
ルイ14世の宮廷生活 (36)ルイ14世の庭園への思い入れは深く、王自ら『庭園鑑賞法』という書物を著しています。この書物で国王は、ヴェルサイユ宮殿の庭園を散策する人々に対し、いくつかの鑑賞法を推奨しています。例えばこんな風に…「 ラトナの噴水の手前で一休みして、周りにある彫刻をゆっくり眺めよう。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡して、ゆったりした気分を味わってみよう」。ざっとこんな調子です。そうなんです。国王は貴族のみならず、様々な身分の人たちがヴェルサイユの庭園や宮殿を見学することを許していたのです。豪華な宮殿と庭園を造営した国王の偉大さを、貴族や聖職者はは勿論のこと、平民達にもしっかり意識させることに、狙いがあったのです。特に夏場のヴェルサイユでは、涼を求めて野外で、音楽劇やバレエが演じられたのですが、そうした催しは貴族のみでなく、平民にも解放されるのが常でした。ところで、ヴェルサイユ宮殿の造営中、ルイ14世は何処を生活の拠点とし、何処で政務を取っていたのでしょう。この間は、いずれもパリ近郊や市内の宮殿を使っていました。こんな具合です。1661年はフォンテーヌブロー宮に滞在し、62年~66年まではルーヴル宮を使用し、66年以降は、主としてサン・ジェルマンの宮殿に滞在しています。近距離ですが、宮殿を移る場合は、王族、貴族、官僚、外交官が従い、それに衛兵、馬車、馬、従僕らが従う大行列での移動となったことは、16世紀の国王の場合をはるかに凌ぐ、壮大な物でした。ルイ14世が、満を持してヴェルサイユに移り住んだのは、1682年5月のことでした。 続く
2012.03.11
コメント(10)
クロニクル スカルノ大統領失脚1966(昭和41)年3月11日3/11がやってきました。あの時間14時46分から、間もなく2時間が経とうとしています。被災された皆さんに、どういう支援が必要なのか、自分に出来ることは何なのかを、考え試行錯誤する中で、1年が経ちました。東北に仕事場を作る力はありませんので、商品を購入したり、出かけたりすることを増やそうかと、今は考えています。さて、メンテで遅れましたが、今日のクロニクルです。インドネシアのスカルノ大統領と言っても、若い方はご存知ないでしょうが、こう言えばああそうなのと思っていただけると思います。あのデヴィ夫人を第3夫人として寵愛していた、精力絶倫タイプの政治家で、インドネシアの元首相メガワティ女史のお父様です。インドネシアはオランダの植民地でしたが、第二次大戦中、日本が占領していました。その日本の降伏後、再び戻ってきた宗主国オランダとの戦いに決起し、インドネシア独立闘争を指揮した建国の英雄がスカルノでした。彼は敗戦を恥じて、故国へ帰ることを潔しとしなかった旧日本兵を、独立軍に受け入れ、中隊や大隊の指揮を任せて、オランダを圧倒したのです。そのため、大の日本贔屓で、何度も来日しては、銀座のクラブに通い、そこで働いていた女性を第3夫人に迎え、マダム・デヴィを名乗らせたのです。しかし、建国の英雄も1947年からの20年近い支配と、中国の影響による共産党の伸張の中で、次第に政治の舵取りに悩むようになり、特に前年(1965年)の9/30事件以後の共産党におもねるような態度が、保守派の反発を招き、共産党の伸張を食い止めたスハルト将軍へ、軍の支持が集まる仲、軍を背景としたスハルト将軍の圧力により、46年前のこの日、遂に全大統領権限を、スハルト将軍に移譲、事実上の政界引退に負い込まれたのです。 このスハルトも、23年後の1998年に、前年からのアジア金融危機後の 経済混乱に有効な手を打つことが出来ず、国民に見放されて、 四面楚歌に陥り、民衆革命によって権力の座を追われました。 長期の支配には、やはり澱みがたまるものですね。
2012.03.11
コメント(4)
ルイ14世の宮廷生活 (35)ヴェルサイユ宮殿の造営に見られるように、ルイ14世は金遣いの粗い浪費家でもありましたが、勤勉な仕事人でもありました。官僚からあがってくる報告書や相談ごとは勿論、陳情や請願にも、いちいち眼を通し、自らサイン署名決済するタフな政治家でもありました。また、在任中に数度の国際戦争を戦い、フランスの国際的地位の向上にも努めています。そして、戦争はまた最大の金食い虫でもあります。財政総監のコルベールが、商工業の育成を基本とする、財政強化策をとり、如何に国富を積み上げても、ルイ14世はすぐに使い切ってしまう状態にありました。勤勉なルイ14世は、戦時には宮廷を出て、戦場に出るのが常でした。狩りが好きだったことからも想像できることですが、彼は野戦や城攻めに喜びを感じる国王でした。そうした戦地にあるときも、ルイ14世は建築中のヴェルサイユ宮殿に思いを馳せ、戦いの疲れを癒していたのです。戦場のルイ14世の下へも、毎週のように工事の進捗状況の報告がなされ、工事の細部についての相談が寄せられました。「国王はその一つ一つに、嬉しそうに答えられていた」。サン・シモン侯は、こう記しています。庭園担当のル・ノートルは、1677年に始まったフランドル遠征には、国王のお供を命じられ、国王と共に戦地に趣いています。戦闘での疲れを癒すために、国王はル・ノートルとヴェルサイユ宮殿の庭園について、話し合う時間を欲したのです。こんな調子でしたから、国王は宮殿完成以前から、何度もヴェルサイユで、当時語り草になるような、大宴会を開いています。そうした大宴会は、国土の拡大を狙って、ルイ14世が仕掛けた戦争が終ったり、一息ついたりしたタイミングで開かれるのが常でした。王はまた、そうした大園遊会は、地域民衆にも開放されるのが常でした。当時ヴェルサイユ周辺には、宮殿造営のために働く建築職人や造園師、とび職など、多くの親方や職人が働いていましたから、自然に宮殿の近くに、彼らや彼らを相手にする小商店や居酒屋が出来、一つの村が出来上がっていたのです。こうした宮殿関係者から、近在の農民、さらにはパリからやってきた物好きなど、誰もが大園遊会に招きいれられたのです。ルイ14世は、次のように述べています。「この園遊会は、朕の一族のためというより、朕の朝臣や、朕の全ての民のためのものである」と。浪費家では遭っても、君主たるものの覚悟としては立派ですね。 続く
2012.03.10
コメント(6)
全71件 (71件中 1-50件目)