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紅白歌合戦事始紅白歌合戦も終わり、時間的には新年を迎えているのですが、夜明け前では新年の気分が出ませんので、31日付けにしました。皆さん、今年一年大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。先程、年賀状を書きあげ、ポストに投函してきましたので、今年の仕事は、このブログで終わりです。忙しい1年がやっと終わり、ほっとしています。以下は、2年前の大みそかにアップしたブログの再録(部分的な手直しあり)です。昨日30日のテレビで、紅白が大晦日に行なわれるようになったのは、第4回の1953(昭和28)年からと伝えていましたが、その辺のいきさつを記します。第1回紅白歌合戦は、第4回紅白の3年前、1951(昭和26)年の1月3日に、NHKラジオが午後8時~9時までの1時間番組として、当時のNHK(東京放送会館)の第1スタジオから生中継放送されました。スタジオには約300名の観客が招かれました。正月なので、劇場等は正月公演でイッパイなため、自前のスタジオしか利用できなかったのです。出演は紅組白組各7名の14名でした。出演者は白組は、キャプテン藤山一郎、林伊佐緒、近江俊郎、東海林太郎、鶴田六郎、鈴木正夫、楠木繁夫の7名。紅組はキャプテン渡邉はま子、菅原都々子、菊地章子、二葉あき子、暁テル子、赤坂小梅、松嶋詩子の7名でした。歌われた曲は、長崎の鐘、湯の町エレジー、紅い燃ゆる地平線、桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン、上海の花売娘、星のためいきなどでした。曲名を聞くと、子供の頃の歌だけにメロディーが浮かんできます。第2回では、紅組白組各12名に出演者が増え、伊東久男、霧島昇、岡本敦郎、灰田勝彦、笠置シヅ子、越路吹雪らが、初出演しています。このうち越路吹雪は、松嶋詩子のピンチヒッターでした。今では考えられないことですが、出場予定の松嶋詩子が、本番会場に向うタクシーで交通事故に遭って緊急入院、NHKは大慌てで代役を探し、自宅で宴会中だった越路吹雪に代役を頼み、越路は急遽NHKホールに駆けつけ、代役を務めたというのです、かなり飲んでいたそうですが、本番は無事務めたというのですから、さすがプロですね。さて、第3回まで正月の3日に行われていた紅白歌合戦が、なぜ第4回から大晦日に変更になったのかというと、それはNHKがテレビ放送を始めたからなのです。NHKは、1953(昭和28)年の2月に、テレビの本放送を始めました。そこで第4回を迎える紅白歌合戦を、ラジオだけでなくテレビでも放送する計画を立てたのです。当時はビデオで録画して後に放送するという技術はありませんから、テレビは全て生放送でした。そこで、どうせならなるべく大勢のお客様に見ていただこうと、大晦日の晩の日劇のホールを借りて、公開放送としたのです。なぜ1月3日でなく大晦日になったのか。それは日劇のような大ホールは、正月は全て正月公演のために満杯で、入り込む余地がなかったからです。大晦日は、どの劇場も公演はなく空いていました。そこで大晦日に実施することになったというのが真相です。ところが大晦日の実施には、とんでもないプラスがありました。それは第3回までは、正月公演で時間がとれず、出演を辞退していた大物歌手たちが、大晦日なら都合がつくと、次々に出演してくれるようになったことです。淡谷のり子や小畑実が出演するようになったのは、この第4回紅白からでした。思わぬ効果に喜んだNHKは、以後紅白歌合戦を大晦日に固定したのです。大晦日の風物詩は、こうして誕生しました。この日の放送時間は、21時15分~22時45分までの1時間30分でした。ところで、この1953年は1月2日に、第3回の紅白歌合戦が行なわれています。そして大晦日に第4回を開催しました。1年に2回の紅白があったことになります。過度期の産物ですが、これも1回きりのことでした。 皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。
2014.12.31
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クロニクル 丸の内に三菱1号館竣工1894(明治27)年12月31日110年前の丸の内は雑草生い茂る錬兵場の跡地でした。この地にこの日、日本で最初のオフィスビルとなる、赤レンガ造り地上3階、地下室ありの三菱1号館が竣工しました。4年前に同地を購入した三菱は、「丸の内建設計画」を立案、1892年1月に1号館の建設に着手、ほぼ3年を費やして、この日竣工を迎えたのです。設計はイギリス人建築家のコンドルと、彼の弟子の日本人曽禰達蔵でした。面白いのは、ビルの賃貸区分で、フロア毎に貸し出す形式ではなく、建物を縦割りにして、夫々に出入り口を設ける棟割長屋形式が採られていたことです。イギリス風の赤レンガ造りであることに加え、明治政府の殖産興業政策の成果で、産業革命の始期にさしかかっていたこともあって、このビルは人気を呼び、入居希望が殺到しました。三菱の思惑は見事に当たったというわけです。その後、1911(明治44)年までに丸の内にはレンガ造りの三菱ビルが18棟建設され、いずれも満室の盛況でした。丸の内オフィス街と三菱村の誕生秘話で、今年のクロニクルを終えることにしました。皆様良い年をお迎えください。
2014.12.31
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クロニクル フセイン処刑2006(平成18)年12月30日8年前のことです。この日、サダム・フセイン元イラク大統領が、「1983年にイラク中部のドゥジャイル村で、住民140人以上を殺害した罪」で、処刑されました。サダム・フセインは確かに独裁者でしたが、彼の支配の下で、イラク国内の党派対立(スンニー派、シーア派、クルド人グループ)は抑え込まれ、一定の平和と秩序は保たれていました。この独裁下の安定をぶち壊したが、2003年に始まるアメリカのイラクへの攻撃でした。国連の反対を押し切って、強引な介入を試みた米軍の攻撃によって、イラクの政治秩序は破壊され、フセイン大統領も、2003年12月13日に逮捕されました。そして、アメリカの傀儡として誕生したマリキ政府は、自らの求心力を高めるために、上に記した罪状で、フセイン元大統領を起訴し、処刑に持ち込む方針を固めたのです。こうして2006年10月19日に、バクダードの高等法廷で初公判が開かれました。死刑判決を出すことが、事前にすりあわされている裁判は、猛スピードで行なわれ、1審は11月5日に、2審も12月26日に、死刑判決を出し、判決確定の僅か4日後に、絞首刑が執行されたのです。それは、辛うじてイラク人の手で行われたましたが、当時のマリキ政権は、アメリカの強い肩入れを受けて、成り立っていた傀儡政権であり、強引なフセイン処刑を批判されて、その後政権の座を追われました。そのイラクと、その後にアメリカがアサド政権の打倒を唆して、国内を混乱の極に追いやってしまったシリアでは、新たなイスラム過激派の「イスラム国」が誕生し、益々混乱が深まっています。懲りないアメリカの責任は重いですね。
2014.12.30
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クロニクル 清水トンネル貫通1929(昭和4)年12月29日清水トンネルは、上越線の群馬県と新潟県の県境にある谷川岳を貫通する全長9,702mのトンネルです。1922(大正11)年に着工し、85年前のこの日貫通しました。その後、線路の敷設等の工事を行い、上越線の上野~新潟間の直通運転が始まったのは、1931(昭和6)年の9月1日でした。清水トンネルの開通以前、関東と新潟を結ぶ路線は、碓氷峠を越える信越本線の長野、直江津を経由するルートがメインで、とても不便だったのです。1914(大正3)年には、郡山と新潟を結ぶ磐越西線が全線開通し、東北本線経由の迂回路が出来ましたが、やはり遠回りには替わりありませんでした。工事は、トンネルの掘削区間を出来るだけ短くするように工夫され、谷川岳の中腹を貫通する形で進められたのですが、東海道線の丹那トンネルと違って、地層が硬い岩盤となっていたため、掘削部分の崩落の心配がなく(地層が軟らかいほど、トンネルは掘りにくいそうです)、工事は順調に進みました。トンネルの開通によって、上野~新潟間は距離にして98km、時間にして4時間短縮され、新潟と首都圏の交通事情は、大幅に改善されました。「国境の長いトンネルを越えると、雪国だった」と書き出された川端康成の『雪国』が執筆されたのは、トンネルの開通から数年経った1935(昭和10)年のことでした。
2014.12.29
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クロニクル 学校身体検査事始1888(明治21)年12月28日明治21年のことですから、126年も前ということになりますが、この日文部省は、翌明治22年から、毎年4月に、学校で学生・生徒・児童の活力検査を実施するよう、訓令を発しました。活力検査とは、当時の用語で、健康調査のことです。ここに、内科、歯科の健診を含む、身長、体重、胸囲、座高をはじめ、握力、背筋力、肺活量などの身体検査が、はじめられることになりました。学校での4月の健診、明治時代から続いているのですね。
2014.12.28
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クロニクル ソ連軍アフガンに侵攻 21979(昭和54)年12月27日35年前のこの日、アフガニスタン(以下アフガンと略します)で親ソ派のクーデタが発生、クーデタ派の要請を受けたとしてソ連軍は直ちにアフガンへの侵攻を開始しました。アフガンでは、前年4月に親ソ派政権が誕生、土地改革など社会主義寄りの政策をとったのですが、これに不満を持つイスラム系勢力が反政府活動を続け、この年9月に親ソ政権を打倒、民族主義色の濃い政府が誕生していたのでしす。それだけにこの日の親ソ派のクーデタは、ソ連の丸抱えによるものと推測されました。イスラム系に多い民族主義諸勢力はジハード(聖戦)を合言葉に山岳地帯でゲリラ戦を展開、大軍を展開できない山中のゲリラ戦で、圧倒的なソ連軍の武力を無力化してゆくことに、次第に成功して行きます。10万人に及ぶ兵力を展開してなお、情勢の悪化を防げず、消耗しきったソ連軍は、10年後、ゴルバチョフ政権の下でアフガンから撤退することになります。当時「アフガンは、ソ連にとってのヴェトナムだった」と言われ、ソ連社会主義崩壊の原因の一つに数えられました。ところで、ソ連軍撤退後のアフガンでは、諸勢力の権力争いで国内が混乱し、血みどろの闘争が展開されました。この混乱を収拾したのが、徹底的に汚職と腐敗を排除したイスラム原理主義勢力のタリバンでした。タリバン政権にも問題はありましたが、ソ連侵攻後、20年以上に及んだ戦乱と社会的混乱を収拾し、アフガンに平和と民衆生活の安定を齎し、庶民の支持を得ていた政府だったことは確かです。9/11を理由にアメリカはこのタリバン政府を倒し、再びアフガンを治安が劣悪で、安心して生活できない地にしてしまったのです。日本では、カルザイ政権のプラス面のみが、誇張して伝えられましたが、政権側の安定した支配領域は首都カブールの一部のみに、限られています。しかも汚職にまみれた政権とその側近たちに、国民の支持はゼロに等しいのが現実です。財政難に陥った米国は、イラクから撤退しアフガンへの関与も最小にしたいために、無人機による攻撃を増やしていますが、うまくいっているとは言い難い状況にあります。米国は、アフガンに足を獲られ、ソ連と同じ失敗を犯しつつあるように見えます。
2014.12.27
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クロニクル 最初のプロ野球チーム発足1934(昭和9)年12月26日ちょうど80年前のこの日、日本初のプロ野球チームとして大日本東京野球倶楽部の創立が発表されました。 選手は、沢村栄治、スタルヒン、三原脩、水原茂等19名での発足でした。同年11月に、正力松太郎読売新聞社主の招きで、べ-ブ・ルース等全米大リーグ選抜が来日しました。3年前の前回の来日では早稲田・慶應ら東京六大学の選手らが善戦したのですが、その後学生とプロとの試合が禁止されたため、今回の来日では、急遽社会人選手で全日本選抜チームを編成、対戦することになったのです。 試合は日本チームの全敗に終りましたが、結果としてプロチーム編成の機運が高まり、この日東京巨人軍の前身、大日本東京倶楽部が発足することになったのです。 しかし、1チームでは試合は出来ません。翌1935(昭和10)年12月10日に大阪タイガースが、さらに36年に入ると、1月、2月の間に名古屋、東京セネタース、阪急、大東京、名古屋金鯱と7チームが揃い、37(昭和12)年から、7チームと変則ながら、正式に公式戦が始められたのです。 正力松太郎氏がプロ野球の生みの親とされるのは、この辺の事情によるのですね。因みに最初のシーズンは春と秋の2シーズン制、春季はジャイアンツが、秋季はタイガースが仲良く制したようです。なるほど巨人・阪神戦は伝統の一戦になるわけですね。
2014.12.26
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クロニクル 大正天皇崩御1926(大正15)年12月25日88年前のこの日、午前1時25分、葉山の御用邸で病気療養中の大正天皇が、逝去されました。48歳でした。少年時代から病弱で、即位後も健康にすぐれず、1921(大正10)年からは、皇太子(後の昭和天皇)が摂政を務めていたのですが、この年秋から気管支炎と肺炎を患い、葉山の御用邸で療養中でした。12月に入って病状が悪化、宮内省(現宮内庁)は15日に「天皇陛下御異例」を発表して、国民に病状を公表しました。快癒を祈る国民は遊興を自粛し、歌舞伎座や帝国劇場などが、相次いで興行を中止したほどでした。新聞各社はこぞって号外を発行、その日の内に皇太子殿下の即位が公にされ、若槻内閣は、新元号を「昭和」と発表しました。余談になりますが、このため、昭和元年は5日しかありません。私の最年長の従姉妹は、たまたま1926年の12月26日生まれなものですから、同級生達と会うと、「私は大正なのに、あなたは昭和なのよね」と羨ましがられたと、半分嬉しそうに話していました。確かに昭和と大正では、ぐっと響きに違いがありますね。ところで、近年大正天皇研究はグンと進み、再評価の機運が高くなってきています。原 武史『大正天皇』(朝日選書)2000年刊がお勧めです。
2014.12.25
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クロニクル 本邦初のチョコレート発売を予告1878(明治11)年12月24日明治は遠くなりにけりですね。もう136年も前のことになります。この日、東京は両国若松町の米津風月堂が本邦初の貯古齢糖(チョコレート)を明日から販売する旨の販売広告を、なかよみ新聞に掲載しました。この広告は大評判となり、翌日25日には、同店前に大行列が出来たと記されています。これもまた、文明開化の一齣でしたが、いったいどんな味の貯古齢糖だったのでしょうね。タイムスリップ出来るなら並んで買って、食べてみたいですね。皆さんも一緒に並びませんか。
2014.12.24
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クロニクル 東京タワー完成 1958(昭和33)年12月23日 今やすっかり東京スカイツリーに話題を取られてしまったようですが、『三丁目の夕日』に出てくるように、我々世代にとって、東京タワーは一種特別のものです。そうです。56年前の今日なのです。12月23日は、この年11月27日に正田美智子さんとの婚約を発表した皇太子(現天皇)の誕生日でもあります。ちょうどその日に合わせたのでしょうか、この日東京港区芝公園内に建設中だった東京タワーが完成しました。高さ333mは、パリのエッフェル塔を抜き、当時世界一。 東京にある7つのテレビ局(NHK2局に民法5局)の発信、中継の拠点として使用されたのですが、テレビ時代のシンボルとして、東京の新名所になりました。そしてまた、成長の道を歩み出した日本経済の躍進を示すシンボルでもありました。
2014.12.23
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クロニクル ルーマニア革命始まる1989(平成元)年12月22日フランス革命の開始から200年目にあたる1989年は世界史的な出来事の多い年でした。6月の天安門事件、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ブルガリアと相次ぐ東欧諸国の政変と自由化の進展、このブログでも取り上げたベルリンの壁崩壊……そして12月初旬の米ソ首脳のマルタ会談による冷戦終結宣言の発表。こうした一連の動きの総仕上げが、東欧で最後に残ったチャウシェスク独裁体制下にあったルーマニアの革命でした。25年前のこの日、ルーマニアで革命が始まりました。早朝から首都ブカレストで市民のデモが始まり、次第に人数を増して、正午前には数10万人の規模に達しました。午前11時過ぎ、チャウシェスク大統領は戒厳令を発し、国軍に治安回復を命じましたが、国軍兵士は命令を拒否、その大半がデモ隊側に就きました。勢いを得たデモ隊は、共和国広場を占拠して、共産党本部に殺到、放送局を含む主要機関を手中に収めるに到りました。ここに頑強を誇ったチャウシェスク政権は崩壊、ヘリコプターで官邸を脱出した大統領夫妻は、まもなく捕らわれの身となり、非公開の軍事裁判で死刑を宣告され、25日に夫妻とも銃殺されました。ここに東欧革命の連鎖は一応の終結を見ました。
2014.12.22
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クロニクル 日本郵船「八坂丸」撃沈1915(大正4)年12月21日 99年前のことです。この日、地中海を航行中の日本郵船所有の「八坂丸」が、ポートサイド付近でドイツの潜水艦Uボートの無警告雷撃によって撃沈されました。前年7月28日に開始された第1次世界大戦に、日本は日英同盟を理由に参戦を決定、同年8月23日にドイツに宣戦を布告して参戦しておりました。 ドイツは優勢なイギリス海軍の海上封鎖により、物資の輸入が滞り、劣勢に陥っていた状況を打開しようと焦り、完成したばかりの潜水艦Uボートを投入、15年5月にはイギリスの豪華客船ルシタニア号をアイルランド沖で撃沈、国際的非難を浴びていたのですが、劣勢にあせる軍部は、今度は日本の客船を撃沈するに至ったのです。幸い乗員・乗客は、全員フランス海軍の駆逐艦に救助されて、無事でした。このドイツは、さらに劣勢が強まった17年2月から、国際的非難覚悟で無制限潜水艦作戦を決行、アメリカ合衆国の参戦を招くことになります。
2014.12.21
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クロニクル 米軍施政下のコザ(沖縄)で反米暴動1970(昭和45)年12月20日沖縄の日本復帰前、44年前のことです。この日、米軍政下の沖縄コザ市(現沖縄市)で、大規模な反米暴動が起きました。暴動のきっかけは、この日午前1時過ぎに市内の路上で起きた米陸軍医療隊員による交通事故でした。隊員運転の車輛が市民をはねたのです。幸い怪我は軽傷で済んだのですが、事故処理にかけつけた憲兵隊員が、怪我人をそのままにして加害者を連れ去ろうとしたところから、事故を知ってかけつけた市民と対立するところとなったのです。いかにも事故処理の仕方がまずかったのですね。日頃から、米軍兵士の横暴に鬱屈した感情を持っていた市民の複雑な感情が爆発したのは、自然の成行きだったと言えましょう。 応援要請を受けた憲兵隊は20人を派遣、群衆が投石すると威嚇射撃で応戦したものですから溜まりません。市民に銃を向けるとは何事だと、激高した5千人に達する市民が、米軍車輛、嘉手納基地内の小学校・雇用事務所などに放火する騒ぎとなりました。 米軍は催涙ガス弾を使用し、双方合わせて約80人の負傷者を出し、市民20人が逮捕・連行される騒ぎとなりました。 68年11月の、最初の主席公選で当選した、屋良朝苗主席は激しく米軍に抗議し、参議院では、米兵犯罪に対する裁判権を日本側に移管すべしとする決議が採択されるなど、沖縄を巡って日本国内の反米感情は大きな高まりを見せ、この事件によって、本土復帰運動は最高潮に達しました。
2014.12.20
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クロニクル 竹やりでちょいと突き出す2分5厘1876(明治9)年12月19日138年前の話です。三重県飯野郡(伊勢)の一部で18日に始まっ地租改正に反対する農民一揆は、この日伊勢地方全体に広がり、各地で区戸長の家屋敷をはじめ、支庁、警察、学校、郵便局などを襲撃しました。学校が入っているのが、いかにも当時らしいのですが、貧農たちにとって、6歳~10歳(当時の義務教育は4年間です)の子供達が立派に労働力だったことを示すエピソードです。この伊勢暴動は、地租改正の規準米価算定をめぐる(高めに設定すれば、地租は高くなります)県当局と農民の対立が爆発したものでした。同じ事情は各地にあり、西日本では、岐阜、愛知、堺(大阪)に、東日本では茨城、栃木などに拡大、全国化の兆しさえ見せ始めました。ここに政府は、多発する士族叛乱と農民一揆に挟撃されることを怖れて、農民層への譲歩を決断(何よりも、徴兵制に基づく兵士の中核が貧農だからです)、77年1月に地租を地価の3%から2.5%に引き下げました。「竹槍でちょいと(どんと突き出すという言い方もあります)突き出す2分5厘」と当時話題になりました。この地価ですが、当時において地価は土地が生み出す収益(この場合は米に換算した収穫高)の過去3年間の平均を20倍した額でした。平均利子率を5%で計算したのですが、当時は日本でも地価の計算に収益還元法を用いていたことが、ここから分かります。この方法は1810年代のプロイセン農民解放や、1860年代のロシアの農奴解放など、農民に有償で農地を分与する際に採られた方法で、日本も同じ方式を採用したことが分かります。こう見てくると、3%は年間収益の6割、2.5%でも5割となりますから、農民の負担は極めて高く、一揆が起きるのも当然だったという感じを受けます。
2014.12.19
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クロニクル スミソニアン合意なる1971(昭和46)年12月18日あれから43年ですか、1971年は、ニクソンショックに揺れた年でした。7月、翌年2月に中国を訪問するとの発表で、日本の政界に激震を起こし、約1ヶ月後の8/15には、金・ドル交換停止を発表して、戦後のブレトン・ウッズ体制(金とドルをリンクさせた金・ドル本位制)の終焉を告げ、世界に衝撃が走りました。各国が状況の落ちつくまで、為替市場を閉鎖した中、日本のみが1ドル=360円の管理為替相場の維持を狙ったのか、市場を開き続け、各国の投機業者に手持ちのドル売りと円買いの好機を与え続ける愚を犯したのです。しかし大勢に抗し難く、数ヶ月に及ぶ交渉の結果、この日、ワシントンのスミソニアン博物館で開かれていた先進10ヶ国蔵相会議において、ドルの大幅切り下げによる多国間通貨調整に合意、辛うじて固定相場制を続けることになりました。円は対ドルで16.88%の引き上げとなる、1ドル=308円に切り上げられることになり、20日から新レートが適用されることになりました。当時のマスコミの論調は、産業界の声を代弁したのか、輸出が大打撃を受け、大不況が到来するとの大合唱でしたが、これで輸入品が安く買える、必要な洋書が買いやすくなるからと、円高大歓迎だった私などは、もっと切り上げれば良いのにと、お気楽なものでした。ところでスミソニアン合意はつぎはぎの一時的なものに過ぎず、アメリカ経済にはドル中心の固定相場を維持する体力は既に無く、1年2ヶ月後の73年2月には、円は早くも277円を記録し、この値を始め値として、2/14から現在に繋がる変動相場制に移行したのです。この間、今日までの変遷で感じたことは、自国通貨が高く評価されることは、即ち国家の経済力の強さを示すものであり、基本的には良いことだ。円高は誇るべきことだということです。その証拠に100円を切るどころか、70円台に入っても、ちゃんと日本経済は持ちこたえたではないですか。黒田日銀の異次元の金融緩和とGPIFを利用した外貨資産の大量購入を二本柱とした、円安誘導政策は、決して日本経済のプラスになるものではなく、日本の富を毀損する極め付きの愚策だと、私は考えています。。
2014.12.18
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クロニクル 改正衆議院議員選挙法公布1945(昭和20)年12月17日敗戦の年の年末のことです。タイトルでは何が問題か分りませんよね。憲法の改正は、考えられていたのでしょうが、まだ話題になっていません。実は、この選挙法の改正で、その後の日本に関係する大きな変化が実感されました。この選挙法改正に基づいて実施されたのが、翌1946年4月10日に行われた、戦後最初の衆議院選挙なのです。そうです。日本女性に初めて選挙権と被選挙権が付与されたのです。そのことを定めた選挙法が、69年前の今日、公布されたのです。男女平等の精神が、初めて具体的な1歩を踏み出した日なのですね。この日成立した改正選挙法から、翌年4月の選挙まで4ヶ月もなかったのですが、選挙権と被選挙権を認められた女性のなかから、立候補に踏み切った人も多く、この選挙で誕生した女性議員数は、39名を数えました。。現在は小選挙区制に替わっていますが、この日定められたもう一つの変化が、1選挙区の選出議員数を3名から5名とする中選挙区制としたことでした。
2014.12.17
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クロニクル ルーマニア革命始まる1989(平成元)年12月16日1989年は、東欧革命の年でした。その白眉は11月の「ベルリンの壁」の崩壊でした。チェコにおける「ビロード革命」の進展とプラハの春の功労者の復権など、嬉しいニュースが続きました。その1989年の最後を飾ったのが、このルーマニア革命でした。25年前のこの日、ルーマニア西部の都市・ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲して、多数の死傷者が出たのです。このデモは、人権活動家で、民衆の信頼厚いテケーシュ・ラースロー牧師の国外退去処分に対する抗議デモでした。この弾圧事件がきっかけとなって、全土に民衆の抗議デモが広がり、20日になると、軍部もまたデモ隊に対する支持に傾き、チャウシェスク独裁に対して、国民と軍とが共同戦線を張って対立する形になったのです。軍の多数がチャウシェスク独裁に反旗を翻した結果、21日チャウシェスク政権は崩壊、逃亡を図った独裁者夫妻は23日に捕えられ、25日に特別軍事法廷で死刑判決を受け、即日処刑されました。
2014.12.16
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クロニクル 全国の製糸業者一斉休業へ1929(昭和4)年12月15日米国発の世界恐慌が始まった85年前のことです。この日から、日本全国の製糸業者は2週間の一斉休業に入りました。中小の業者を含めて、全国の業者が一斉に休業するのですから、業界団体の力で出来ることではありません。商工省(現在の経済産業省)の音頭取り、強力な指導で実現したものです。 米国発の世界恐慌は、10月末に姿をあらわにしたばかりでしたが、世界的な生糸相場の下落はとどまるところをしらず、この日からの一斉休業入りとなったのです。年末年始の正月休暇を経て、1月4日に生産は再開されますが、生糸相場は回復せず、05年4月には、家族主義的経営で知られたカネボウ(当時は鐘淵紡績)までが、大幅な賃金削減に(実質23.6%の削減と報じられました)踏みきりましたが、解雇でなく賃下げで対応するのは、さすがカネボウ、超優良企業の名に恥じないと評価されたと言いますから、当時の経済状況の深刻さが偲ばれます。
2014.12.15
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クロニクル 最後のSL定期運行列車走る1975(昭和50)年12月14日SL(蒸気機関車)、懐かしい響きがありますね。電化の進行によって、次第に姿を消しつつあったSLは、1974年11月に本州から、そして75年3月には九州から姿を消しました。それより早く四国からも姿を消していましたので、この時点でなおSLが運行されていたのは、北海道だけとなりました。その北海道のSLも、39年前の今日、定期列車を運行する最後の日を迎えました。この日、「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57によって室蘭本線の長万部 - 岩見沢間の定期列車が運行されて、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消しました。それから10日後の12月24日、夕張線(現在の石勝線)でD51による石炭列車が運転され、本線上から蒸気機関車は、消滅したのです。年が明けた1976年3月2日に追分機関区で9600形による最後の入換え列車が運転され、国鉄(現在のJR各社)から蒸気機関車は全て姿を消しました。現在では、保存並びに観光目的として、数台のSLが各地で細々と保存・運行されています。
2014.12.14
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クロニクル 『兼高かおる世界の旅』1959(昭和34)年12月13日『兼高かおる世界の旅』という番組、覚えておられる方も多いと思います、日曜日の朝9時からの30分間番組として、TBS系列で全国放送された長寿番組です。まだテレビが白黒放送でしたが、普及率が上がってきた55年前の今日が第1回の放送でした。それから30年10ヵ月に渡る超長寿番組(最終放送は1990年9月30日でした)の誕生でした。番組ではジャーナリストの兼高かおるさんが、プロデュースからリポーター役、さらにはナレーション役まで兼ね、時にはカメラを回すことまで担当していました。全放送回数は1586回、歩き回り飛び回った総延長距離は721万キロメートルに達したそうです。海外旅行が高嶺の花だった時代に、休日である日曜の朝に、庶民にささやかな夢を提供するのが、当初の役割であり、見られ方でした。それが次第に、世界にはこんな所や町があるんだ。いつか行ってみるかといった見られ方に変わっていったからこそ、30年を超える長寿番組になったのでしょう。放映開始から20年余にわたり、パン・アメリカン航空(PAA)が協賛会社だったのですが、80年代に入って同社の経営が傾きはじめたため、協賛会社はスカンジナビア航空(SAS)に変わりました。また、番組のテーマ曲には、最初の頃は映画『80日間世界一周』のテーマが使われていました。カラー放送開始後も、しばらくは白黒での放送が続きましたが、1967年4月2日放送分から、カラー放送となりました。今年86歳になられた兼高さん、マスコミへの露出は減りましたが、現在もお元気で、日本旅行作家協会の会長をお務めになっていらっしゃいます。テレビでは1昨年7月、フジテレビが全国放送した「兼高かおる 沖縄の離島を巡る」という3回シリーズの番組で、元気な姿を見せていました。
2014.12.13
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クロニクル 張学良、蒋介石を軟禁1936(昭和11)年12月12日78年前のことです。時に満州事変の5年後、日中戦争が始まっておよそ半年が経過した頃です。この日、シーアン(西安)を訪れた中国国民政府の蒋介石は、東北軍指導者張学良によって逮捕軟禁され、共産党との内戦を停止し、抗日統一戦線を結成を結成することを求められました。世に言う西安事件です。当時の中国では、満州事変後も続く日本の侵略に対し、国民党軍と共産党軍が一致して抗日戦争を戦うべきだという世論が高まっていたのですが、蒋介石は頑として共産軍の弾圧を優先して、抗日戦争は後回しとする姿勢をかえようとしなかったのです。張学良は、蒋介石のこの姿勢を改めさせようと強硬手段に出たのです。逮捕、軟禁した蒋介石に対し、彼は、内戦の停止、愛国的指導者の即時釈放、救国会議の召集などを訴えました。 張学良の実力行使を知った共産党の周恩来が仲介に立ち、最初は頑なだった蒋介石も、張の要求が全国民的基盤に立っていることを認めたため、和議が成立、25日にようやく釈放されるに至りました。やがて国民党と国民政府は、国共内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を確認、翌年2月第2次国共合作が成立するに至ります。 日本の理不尽な侵略行為がなされなかったとしたら、当時劣勢だった共産党軍は、国民党軍との戦いに敗れ、蒋介石による中国統一が実現していたと私は考えています。隣国中国における共産党政権の誕生は、日本の中国侵略が齎した側面ももっているのです。日本では、こうした観点からの議論、反省が少な過ぎるような気がしてなりません。ところで、西安事件後の張学良は、どうなったでしょう。日中戦争期~その後にかけて、張学良のその後については、何の情報もなく、日本では処刑されたのだろうと、誰もが受け止めていたのですが、1981年に台湾のマスコミのインタビュー記事が世界に発信され、張学良がなお生きていたことが、驚きをもって迎えられました。西安事件後、長く国民党政府によって軟禁状態に置かれ、国共内戦に敗れた国民党政府が、台湾に逃れた時も、一緒に台湾につれて行かれ、当地でも軟禁が続いたのですが、1975年の蒋介石お死去後、次第に台湾における民主化が浸透するに連れ、軟禁状態は緩められ、80年代と共に、マスコミの前に姿をあらわすようになりました。90年には、NHKテレビに出演し、元気な姿を我々も目にすることが出来ました。1991年にはアメリカ合衆国のハワイ州のホノルル市に移住、2001年ホノルルにて、100歳の大往生を遂げました
2014.12.12
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クロニクル 民政党、若槻礼次郎内閣総辞職1931(昭和6)年12月11日83年前になります。この日、民政党の若槻内閣が、閣内不一致で総辞職しました。 背後に民政党の内紛があったのですが、その内紛の原因まで遡ると、当時の日本の政治・社会をめぐる大きな混乱に突き当たります。1923(大正12)年9月の関東大震災と震災処理が原因で起きた1927(昭和2)年の金融恐慌に始まり、その傷が癒えぬうちに巻き込まれた1929(昭和4)年の米国発の世界恐慌と、ダブルパンチに見舞われた日本経済は、井上準之助蔵相の財政運営のまずさもあって、財政破綻の状態に陥っていました。また外には関東軍の暴走による満州事変の拡大と、内外に危機的状況を抱えておりました。この事態は、民政党単独の若槻内閣で乗りきれるものではなく、野党の政友会との大連立(挙国一致)内閣の実現が待望されておりました。しかし、与党民政党の大物、井上蔵相や幣原喜重郎外相の強硬な反対で、この計画は実現できず、この日若槻内閣は閣内不一致を理由に総辞職し、13日に政友会総裁の犬養毅を首相とする、政友会単独内閣が成立する運びとなったのです。しかし、挙国一致が求められる状況において、少数与党の政友会内閣では事態が打開できるはずもなく、犬養首相は翌年5月、5・15事件の凶弾に倒れ、大正デモクラシーの大波の中で、ようやく誕生した政党内閣の時代は終わりを告げ、軍部とその息のかかった内閣の時代が幕を開けるのです。政党の、或いは政治家のエゴが政党内閣の時代を短命にて終らしめたと言えましょう。非妥協的な共和党の反対で、何も決められない米国の政治、アベノミクスや安倍内閣の外交姿勢に疑念を持つ国民が多いにも関わらず、自公連立内閣への対抗軸となる、野党の統一戦線を作れない野党勢力の四分五裂の状態を見ると、なぜかこの時期の日本政治の混迷が、思い出されてなりません。悪い予感は当たってほしくないのですが…
2014.12.11
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クロニクル 田中正造、足尾鉱毒を直訴1901(明治34)年12月10日113年前になります。この日、前衆議院議員田中正造は、第16回帝国議会開院式から還御途中の明治天皇に対し、足尾鉱毒事件に関する直訴を試みようとして、警備の警察官に取り押さえられました。正造は検事の取調べを受けたのち、その日の夜には釈放されています。彼は1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙に栃木県から立候補して当選(当時は財産による制限選挙制であり、被選挙権者は、当時の一握りの富裕層、地方名望家に限られていましたから、彼自身も有力な地方名士の1人だったのです)、1891年の第2議会で、古河財閥の足尾鉱山鉱毒事件を取り上げ、以後毎議会で政府を追及しておりました。1897(明治30)年以降、地元農民が4回にわたって上京、各方面に請願・陳情を行うに際しては、積極的に斡旋役を務めています。しかし、政府は誠意ある対応を見せず、請願運動の弾圧をも試みるありさまでした。1900(明治33)年にいたって、被害農民が裁判に訴えると、ようやく世論も足尾鉱毒に注目し始め、演説会の開催や義捐金の募集、現地調査などが行われるようになり、下流にあたる渡良瀬川流域の荒廃振りが広く明るみに出されました。こうした情勢の下で、1901年10月、正造は直訴を決意して議員を辞職、機会を待っていたのでした。後に公表された直訴状は、実情の訴えと被害土地の原状回復を政府に措置させるよう、要望するものでした。彼の直訴事件後、足尾鉱毒問題への支援は一層高まり、政府も翌年には国としての調査委員会を正式に発足させるに至ります。正造の直訴は、日本の公害史の大きな1ページをなす出来事でした。
2014.12.10
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クロニクル ワレサポーランド大統領誕生 1990(平成2)年12月9日 もう24年も経ったのですね。この日ポーランドで大統領選挙が行われ、自主管理労組「連帯」のワレサ委員長が、初代大統領に当選しました。共産党の組織を離れた自主管理労組として「連帯」が誕生したのは、1980年のことでした。翌年ポーランド政府は、先行きを憂慮したソ連政府の強い圧力の下で、連帯の活動を制限、弾圧を強めました。こうした厳しい試練に耐えた「連帯」は、次第に勢力を盛り返し、89年6月には、東欧革命の先陣をきって自由選挙が行われました。そして9月には、共産党を排除した形で、「連帯」中心の連立政府が誕生していました。こうして憲法改正後に行われた最初の大統領選挙で、「連帯」の運動を有形、無形に推進したワレサ氏が、仲間達に推されて大統領選への出馬を表明、この日、大差で当選を決めたのです。
2014.12.09
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クロニクル 新宿コマ劇場開場1956(昭和31)年12月8日58年前のことです。日米開戦の1941年から、ちょうど15年。『経済白書』が「もはや戦後ではない…」と書いてから1年。盛り場の賑わいも戻っていた頃ですね。新宿歌舞伎町の外れに、コマ劇場が建設され、58年前の本日めでたく開場の運びとなりました。コマ劇場は、演歌の殿堂として名を成し、演歌歌手は、いつかコマ劇場の客席を埋め尽くしての、リサイタルや座長公演を行なうことを夢見て、修行に励んだことで、知られました。また「アニーよ銃を取れ」「努力しないで出世する法」「南太平洋」など、コマ劇場を日本での初演の地に選んだミュージカルも、少なくありません。ドリームジャンボの抽選会の開場にも使われていましたね。そんなコマ劇場も、次第に大入りの続く人気公演が少なくなり、業績の悪化から、6年前2008年12月31日、「第41回年忘れニッポンの歌」の生中継を最後に、取り壊されることになりました。しかし、歌舞伎座と違って、コマ劇の跡地は再開発計画の作成に手間取り、劇場の取り壊しが始まったのは、閉館から2年以上経った2011年3月のことでした。解体は、隣接する新宿東宝会館と共に行われ、同年7月、ようやくコマ劇場と新宿東宝会館の跡地を合わせ、地上31階建の複合インテリジェントビルとして、「新宿東宝ビル」を建設すると発表、2015年の完工を目指して、現在工事が続けられています。しかし、このビルにはコマ劇場のような演劇場は、収益が見込めないという判断から、設けられないことになっているようです。
2014.12.08
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クロニクル 東京タワー プレオープン 1958(昭和33)年12月7日東京スカイツリーに人気が移っているこの頃ですが、東京タワーにのぼる人も相変わらずかなりの数になっています。そんな東京タワーのプレオープンが56年前の今日でした。着工は、前年1957年の6月でした。地鎮祭が行われたのが、6月の29日、定礎式が同年9月21日です。これだけの建物が1年少々の期間で作られたのですから、驚きです。塔頂に80mのアンテナを取り付け、工事が竣工したのは、58年10月14日のことでしたから、地鎮祭から1年3ヵ月半で完成したのですね。その後、最後の点検が行なわれて、56年前の今日がプレオープン。完工式が12月23日に行なわれて、この日が正式オープンとなりました。一般公開は翌日のクリスマスイヴ、午前9時からとなりました。粋なクリスマスプレゼントといえそうですね。この年は、4月にジャイアンツから長嶋選手がデビューして、プロ野球人気が沸騰し、11月には皇太子(現天皇)の婚約が発表され、そして12月に東京タワーのオープンと、めでたい1年になったのでした。60年の池田内閣の登場で本格化する、高度経済成長の助走が始まった時期が、まさにこの頃だったのです。
2014.12.07
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クロニクル 日ソ通商条約調印1957(昭和32)年12月6日57年前のことです。この日,モスクワにて日ソ通商条約が調印されました。前年10月の日ソ共同宣言で、両国の国交が回復したことを受け、岸信介内閣の下でソ連側との交渉が進み、この日の調印となりました。実は、通商条約の調印はもっと早く合意できるはずだったのですが、北方4島の帰属を巡って、2島の返還で合意する意思を持っていた日本側が、途中から歯舞、色丹の2島だけではなく、国後、択捉の両島を含む4島の返還を要求したため、話し合いがこじれて、調印が遅れていたのです。結局領土問題を棚上げする形で、この日の調印に漕ぎつけました。あれから半世紀以上が経過した今も、未解決なのですから、政治家も政治家を助けるべき外務官僚も、いったい何をやっているのやら…
2014.12.06
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クロニクル 牛肉とオレンジ1978(昭和53)年12月5日36年前のことです。この日、日米農産物交渉が妥結しました。牛肉とオレンジの輸入自由化を求めるアメリカ側が、強気で押し、日本側は防戦一方の交渉でした。70年代に入って、円の対ドル交換レートの切り上げと通貨フロート制への移行の頃から、日米間の貿易不均衡に対する米側の突き上げが厳しくなり、70年代前半は、繊維交渉が、続いて農産物の輸入自由化が話題となり、80年代前半は鉄鋼製品、後半には自動車摩擦が大きな政治問題になりました。その農産物の輸入自由化問題が、牛肉とオレンジについて、特に激しくタフな交渉が行われました。その結果、この日、「日本側は牛肉とオレンジの輸入枠を大きく拡大する。対して米側は、牛肉とオレンジについて、日本側に自由化時期を明示するよう要求することを取り下げる。」という合意がなされたのです。それにしても、日本の農政は遅れていますね。TPPが大問題となっている36年後の今も、全く同じような騒がれようなのですから…。自由化阻止よりも自由化を受け入れ、替わって生産品ごとに所得保障を行う欧米式に切り替える方が、合理的であり、効果も高いと思うのですが… これも皆、農家を票と考え、票をとりやすい保護策をとり続けてきた政治屋さんたちと、農水省の無能のせいなのでしょうねぇ。
2014.12.05
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クロニクル 平安京に遷都794(延暦13年11月8日)年12月4日4年前に平城京遷都1300年祭の催しが行なわれました。それから僅かに84年後には、北の平安京に都は移り、北の京都に対して、南都と呼ばれるようになりました。この南都と引っ掛けて、710年を覚えるために、小中学生は「なんときれいな平城京」と、そして平安京遷都の794年は、「鳴くよ鶯平安京」と、暗誦するようですね。そうなんです。1220年前の今日、桓武天皇の発意となる平安京への遷都が行われたのです。この平安時代、晩年は乱れますが、日本史上、徳川時代以上に長く続いた平和な時代だったこと、この時代に世界では他に例がないのですが、死刑制度が存在しなかったこと(それだけ、平和で安定していたのですね)の2点で、世界に誇れる時代でした。安倍総理、歴史に学ぶのでしたら、どうぞ日本が、時に戦乱の時代を孕みながらも、平安の昔から世界に冠たる平和国家であったことを、しっかり学んでください。
2014.12.04
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クロニクル 個人タクシー登場1959(昭和34)年12月3日 もう半世紀を5年も越えたのですね。55年前のこの日、東京・大阪・名古屋などの大都市において、個人のタクシー営業が初めて認可されました。東京では173人の個人に、個人タクシーの営業認可書が交付されました。足の悪い私の友人の1人は、良くタクシーの世話になるのですが、もう30年来、タクシーは個人タクシーにしか乗らないという頑固者です。昨今はこういう頑固者が我を通せる程に、個人営業のタクシーが増えているようですね。
2014.12.03
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クロニクル アラブ首長国連邦(UAE)誕生1971(昭和46)年12月2日43年前の今日、ペルシャ湾岸の6つの首長国とオマーン湾岸に面した1つの首長国が連邦を組み、アラブ首長国連邦(UAE)が誕生しました。アラブ首長国連邦は、7つの首長国の連邦と言っても、実質は豊富な油田を持つアブダビと、アラブ世界の金融中心地になったドバイの2つの首長国が中心となって運営されています。他のシャルージャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラ、ラアス・アル=ハイマの5首長国の存在感は、大変薄いままです。よほどの好事家でないと、この5つの首長国の名前は、知らなかったでしょう。実は私も知らなかった1人です。砂漠気候のため、年間を通じてほとんど雨は降らず、ドバイの年平均降水量は、僅かに60mmです。またペルシャ湾に面して海岸線が長いことから、気温の日較差が小さく、特に冬季は、平均気温が20℃前後で安定しており、大変過ごしやすく、滞在型の観光客が多いことで知られます。ただし夏場は、平均気温が40℃を超え、しかも海岸に近いため湿度が80%近くと大変高いため、冬季と違って大変凄いにくいことでも、知られています。さて、バブルに踊ったドバイ、アブダビなどの支援を受け、一息ついてはいますけれど、昔日の栄光を取り戻すことが出来るのかは、まだまだ予断を許さない状況が続きそうです。
2014.12.02
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クロニクル 椎名裁定下る1974(昭和49)年12月1日ちょうど40年前になります。田中金脈問題に揺れた田中角栄首相は、この年11月26日に辞意を表明、同日以降自民党では後継総裁選びが本格化しました。しかし、世論の金脈批判が盛り上がりをみせている時期に、実弾飛び交う総裁公選を実施すべきではないとの判断が多数を占め、総裁候補である派閥の領袖達は、一致して椎名悦三郎副総裁に新総裁の指名権を委ねたのです。本命は2年前の公選で敗れた福田赳夫氏、対抗馬が大平正芳氏とされる中、この日、椎名副総裁は「天に祈る気持で、三木武夫君を新総裁に指名する」との、有名な椎名裁定を発表したのです。椎名裁定は、マスコミ注視の中、総裁候補たちが一致して裁定に従う旨を宣言していた中での発表でしたから、発表を受けての本命と目された候補たちの苦虫をかみつぶしたような、幹新総裁への祝福の弁も。聞きどころに満ちていました。この裁定を受け、挙党一致の三木内閣が発足したのは、12月9日のことでした。
2014.12.01
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