全31件 (31件中 1-31件目)
1
クロニクル 学童疎開の実施決まる1944(昭和19)年6月30日この時期は、太平洋戦争も南方各地の戦線で、日本軍が次々に壊滅的打撃を受けて、次々に敗退していた頃にあたります。しかし、その事実は国民には固く伏せられたままでした。6月15日の米軍のサイパン上陸を受けて、本格的な本土空襲が行なわれるであろうとの予測が高まり、この日政府は、国民学校初等科(つまり小学校)児童の疎開を促進する学童疎開実施要綱を閣議で決定しました。国民学校高等科以上の生徒は生産労働の担い手になりうるため、勤労動員の対象とされましたが、小学生は労働人口たりえないため、疎開の対象とされたのです。この日の閣議決定により、京浜、阪神、北九州、中京など工業地帯の国民学校初等科3~6年生のうち、縁故疎開先の確保できない児童が、強制的に集団疎開させられました。1~2年生は、親元を離れての集団生活はまだ難しかろうと判断されたのです。対象となった児童、およそ40万人が、先生たちに連れられて全国およそ7千ヶ所の受け入れ先へ送られ、厳しい規律の下で、乏しい食事に耐える生活を送ったのです。しかしその後、米軍に依る空爆は益々激しさを増し、翌年3月には、遂に1~2年生の縁故疎開の強化と授業の一時的な廃止が、閣議で決定されることになりました。
2015.06.30
コメント(14)
三豊百貨店の倒壊今晩は。クロニクルに記した「三豊百貨店の倒壊」のいきさつを、少し詳しく記したいと思います。この事故は、手抜き工事などという生易しい言い方では、正確な表現にならないほどの、いい加減な工事に原因がありました。1995年の当時、94年10月の聖水大橋崩落事故(ソウル市内)や95年4月の大邱市の地下鉄工事現場ガス爆発事故など、大型の建築災害が続いており、一時は「北朝鮮」による破壊工作との噂が、まことしやかに囁かれもしたのですが、いずれも施工業者や施主による手抜きに原因があることが分かり、事故翌月の95年7月には、「災難管理法」が成立することになりました。ところで三豊百貨店の工事は、当初は地上4階、地下4階のオフィスビルとする予定で、宇成建設が三豊百貨店の親会社から受注したものでした。ところが基礎工事の段階で、施主側が4階建てのオフィスビルから、5階建てのデパートへの設計変更を要求し、柱の強度からして5階部分の荷重に耐えられないとして変更に反対する宇成建設と揉め、基礎工事終了の時点で、宇成建設との契約を解除してしまったのです。その後工事を請け負ったのは、三豊百貨店の親会社に当たる三豊建設でした。こうなれば、グループ創業者の意のままに、工事は進みます。先ずは火災予防の観点から、売り場に防火シャッターを設置するため、ビル中央部の柱を4分の1分取り除きました。また店の中央部分に、エスカレーターを設置するため、吹き抜け構造を作り、その部分の柱をここでも25%程度削っててしまいました。 そこへ、計画になかった5階部分の継ぎ足しが行なわれます。この部分に使用されたコンクリートだけで3千トンに達していたことが、明らかにされています。その上、屋上に80トンの給水タンクが設置されます。総重量87トンの大型冷房装置も、屋上に取り付けられました。明らかに重量オーバーです。良くぞ5年以上も持ちこたえたというべきでしょうか。事故の前日6月28日に、5階の従業員が天井のひび割れに気付き、翌朝にはひび割れが大きくなっていたために、上司に報告しています。報告を受けた経営陣は、緊急会議を開きますが、この間も臨時休業を選択する意志は見せませんでした。社長に呼ばれた三豊建設の建築士は、閉店後の補強工事で大丈夫と楽観的な見通しを報告しました。以上がおよその事故までの流れです。事故は明らかな人災でした。この結果、施行にあたった三豊建設だけでなく、三豊百貨店の経営陣も業務上過失致死傷害罪で逮捕され、懲役の判決を受けました。最高責任者の会長は、懲役7年8ヵ月、全財産没収の判決を受け、2003年に獄中で死亡しています。またソウル市長が、三豊側から賄賂を受け取り、建築申請を厳しく審査していなかったとして、これまた逮捕されています。事故による補償総額は約4000億ウォン(日本円で約550億円)に及びました。
2015.06.29
コメント(10)
クロニクル ソウルの百貨店倒壊す1995(平成7)年6月29日20年年前の出来事ですから、ご記憶の方も多いと思います。この日の午後5時55分頃のことでした(ちなみに、日本時間と韓国時間には、時差はありません)。この日の6年前、1989年に開業したばかりの、韓国の新興デパート三豊百貨店で、大惨事が起きたのです。特に地震があったわけでもありません。それなのに、ソウルの中心街にある5階たての三豊百貨店の半分が、轟音を発して崩れ落ちたのです。死者502人・負傷者937名・行方不明者5名という世界的にも珍しい大惨事でした。その後現場はしばらく空き地のままでしたが、現在は高級マンションとなっています。
2015.06.29
コメント(8)
クロニクル ヒマワリ6号本格運用へ2005(平成17)年6月28日ちょうど10年前のことです。。気象観測衛星ヒマワリ6号が、この日から本格的に運用されるようになり、気象観測データが、刻々と送られてくるようになりました。確かにこの頃から、天気予報の精度が格段に向上してきたのは、日々の実感として、私も感じ取っていました。皆さんはいかがですか。最近の天気予報、雲の動きなどまで登場して、悪天候が続く時など、ウンザリさせられることも多いですね。こんなことを言うのは贅沢だと分かってはいるのですが…
2015.06.28
コメント(8)
クロニクル 中国プロレタリア文化大革命を全面否定1981(昭和56)年6月27日34年前のこの日、中国共産党は胡燿邦の主席昇格を発表すると共に、1966年8月からのプロレタリア文化大革命を全面的に否定する声明を発表しました。時に文化大革命当時の毛沢東主席が、1976(昭和51)年9月に死去してから5年が経過していました。文革の10年が、中国の経済・文化・市民生活・教育そして政治に残した傷の回復に、どれだけの時間が必要だったかは、今後も検証を続けないと明らかにできないように思いますが、少なくとも、文革なかりせば、中国経済は、今よりも相当先を走っていただろうことだけは、確かなようですね。
2015.06.27
コメント(10)
クロニクル 日本のビール事始1877(明治6月26日)「明治は遠くなりにけり」と言われて久しいですが、今年は昭和元(1926)年生まれの方が89歳を迎えられます。というわけで、今日の話は138年前のことです。この日、北海道開拓使は、札幌で製造したビール1箱を明治天皇に献上しました。これが新聞でも報じられ、天皇ご自身が「これは美味しい」と語られたと言う話が、まことしやかに伝えられ、一般庶民の間にも、そもビールとは何ぞやと、大いに関心が高まったのです。頃や良し、気を良くした開拓使は、ビールを北海道の産業として興すべく、秋には大瓶1本を16銭で、一般にも売り出したのです。そういえば、ラジオ時代のコマーシャルソングにありましたね。「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー、うまいビールの合言葉…」という、サッポロビールの宣伝が…サッポロビール、最近は勢いがありませんね。何とか元気を出してほしいのですが…
2015.06.26
コメント(10)
ロニクル 有権者1億人突破2000(平成12)年6月25日15年前ですから、20世紀の最後の年になります。この日、第42回衆議院議員選挙が行なわれました。与党は後退しましたが多数を確保し、他方で当時の民主党もまた議席数を伸ばして、躍進しました。ところで、この選挙で特筆すべきことは、選挙人名簿の確定の結果、名簿に登載された20歳以上の有権者数が、初めて1億人を超えたという事実です。総人口は1億2千万人台でしたから、いかに少子化が進んでいたかが分かりますね。そして今年、選挙権を18歳以上に拡大する法案が可決成立しました。有権者はさらに増えることになるのですが…
2015.06.25
コメント(8)
クロニクル 昭和の歌姫 美空ひばり死去1989(平成元)年6月24日昭和が平成に替わった年でしたね。美空ひばりは1937(昭和12)年の12月生まれ、私の兄と同年の生まれです。まだ51歳という若さでした。11歳で歌手デビュー。数々のヒットを飛ばした歌姫は、若い頃は良く映画にも出演していました。しかし、そうした仕事の忙しさ、ストレスからくる飲酒などが、徐々に彼女の身体を蝕み、26年前のこの日、遂に病魔が彼女の命を奪っていったのです。彼女の死後、内閣は女性初の「国民栄誉賞」を贈っています。
2015.06.24
コメント(14)
クロニクル 国際オリンピック委員会誕生1894(明治27)年6月23日121年前になります。日本国内では、日清戦争がはじまる32日前にあたります。この日パリのソルボンヌで、国際オリンピック委員会の設立が決議されました。決議を主導したのは、皆さん御存知のピエール・ド・クーベルタン男爵です。男爵は、「オリンピックを通じて、世界平和を実現しよう」と熱弁をふるい、その第1回大会を2年後の1996年に、ギリシアの首都アテネで開くことも、合わせ提案しました。男爵の熱弁は、拍手をもって迎えられ、この日の国際オリンピック委員会(IOC)の設立に繋がりました。なおIOCの本部はスイスのローザンヌにおかれ、現在は204の国と地域が加盟しています。
2015.06.23
コメント(10)
クロニクル 1ドル=100円を突破1994(平成6)年6月22日21年前のこの日、ニュヨークの外為市場で、史上初めて1ドルが100円を突破しました。細川・クリントン会談で、日米貿易摩擦に対する日本側の反応が鈍いことにいらだった米側が、円高ドル安を容認する姿勢を見せたことが、きっかけとなりました。この後も円高は続き、遂に翌95年に1ドル=79円台まで円高が進み、そこで天井を打って円安に転じ、やがて100円台に戻り、日本の金融危機と不良債権問題の闇が意識された2002年当時には、1ドル=140円近くまで円安が進みました。この事情は、サブプライムローンのメッキが剥げ、アメリカやヨーロッパの金融危機が深刻化するにつれて、再度逆転、1ドル=80円前後と、円高というより、ドル安ユーロ安の状況が続きましたが、黒田日銀総裁の就任と共に、異次元の金融緩和という、日銀による国債の大量購入(現在は年間80兆円もの国債を、終期を定めずに買い続けています)によって、事実上の円安誘導を続け、1ドル=120円台という、庶民泣かせの円安になっています。私はどんなに円安にぶれても、1ドルは100円を超えないことが望ましいと考えています。他国通貨との交換比率は、基本的に国家の総合的な実力、国の信用によって決まると考えているからです。
2015.06.22
コメント(10)
ロニクル ILOとユネスコに加盟1951(昭和26)年6月21日64年前のことです。この日、いずれも国際連合の機関であるユネスコ(国連教育科学文化機関 United Nations Educational Scientific and Culural Organization 本部パリ)と、ILO(国際労働機構 International Labor Organzation 本部ジュネーヴ)は、相次いで日本の加盟を承認しました。 ここに戦後の日本は、最初の国際社会復帰を果したのです。しかし、当時の首相吉田茂が、自ら主席全権を務めたサンフランシスコ講和条約の調印式は、5ヶ月近く後のこの年11月であり、講和条約の発効は翌年4月28日でしたから、この時の日本は、なおGHQによる占領下にあり、非独立国が加盟を認められた点で、疑問の余地が残る決定だったのですが、国内では大いに喜ばれました。当時小学生だった私達にも、ユネスコ(UNESKO)の名は、国際赤十字の名と共に、大切な国際機関として印象づけられたものです。 ところで、日本の国連加盟はソ連との国交回復後の1956(昭和31)年まで待たされることになりました。国連本体は、なかなか日本の参加を認めなかったのですが、補助機関はいともあっさりと、日本の加盟を承認したわけですから、まさに国連内での諸機関の独立独歩振りが眼に浮かびますね。
2015.06.21
コメント(8)
クロニクル 米ソホットライン協定締結1963(昭和38)年6月20日52年前のことです。この日、米ソ両国は、クレムリンとホワイトハウスを結ぶ、直通電話(ホット・ライン)回線を設置することで合意、協定書を作成して、ただちに発表しました。 前年10月のキューバ危機に際して、あわや3回目の世界戦争勃発かと、大いに心胆を冷やしたのですが、米ソ両首脳は、相互の話し合いを密にする必要を感じ、直通電話の設置を共に了承したのです。 ここに、東西両陣営の緊張緩和策が日の目を見ることになり、キューバ危機の教訓が、大きく生かされたと言えましょうか。誰もがいくらかホットした瞬間でした。
2015.06.20
コメント(6)
クロニクル 安保条約自然承認1960(昭和35)年6月19日安倍首相の祖父、岸信介首相の下で、米国と結ばれた日米安全保障条約の改定版を巡って、国内では日本が戦争に巻き込まれる危険が高まると、強い反対運動が起きていました。その安保改定を巡る騒動が、この日、最後の局面を迎えたのです。5月19日深夜に、自民党の強行採決によって衆院を通過した改訂版安保条約は、この日午前零時をまわったところで、自然承認となりました。 それは憲法の規定で、予算案と条約については、衆院の議決を参院が否決した場合は、衆院の議決が議会の決定となること、また参院が衆院の議決後1ヶ月以内に何の決定もしない場合、衆院の議決通りに決定したものと見なすことになっていたからです。これに対し、予算審議と条約審議を除く、その他の法案審議においては、衆・参の議決がことなった場合、衆院は2/3以上の多数で再可決しない限り、その法案は否決されたとみなされることになっています。参院の審議期間は2か月が確保され、しかも参院が衆院通過後2か月以内に議決しなかった場合は、法案は否決されたとみなされるのです。 10年前に小泉首相(当時)が、郵政法案が参院で否決されると、ただちに衆院解散に打ってでたのは、衆院で2/3以上の多数で可決することの困難を睨んだからのことでした。安保に戻ります。安保条約は日米2国間の条約であり、外交案件でしたから、参院の審議期間は1ヶ月、採決がされない場合は承認と見なす規定が生きてきます。 こうして55年前のこの日、33万人を越えるデモ隊が何重にも、国会を包囲する中、遂に自然承認という事態を迎えたのです。4日前の15日、樺美智子さんの死というショッキングな事件を受け、自民党内にも岸首相のやり口に批判の声が強まる中、岸首相は安保条約の成立を花道に辞任することを約束、総理の椅子を差し出すことで、反主流派の了解をとりつけ、マスコミに退陣表明をすることで、ようやく党内の反対を抑え、この日の自然承認となったのです。 この後安保反対派の陣営は、あれだけの盛り上がりを見せた反対運動を展開しながら、安保改訂を阻止し得なかった事実に、挫折感を深めます。知識人は「言論は空しいか」といった論陣をはリ、反体制運動はしばらくの沈滞期に入ったのです。しかし、今に至って考えてみると、あれだけ強い反対運動があったからこそ、日本政府はもちろん米国政府もまた、改訂した新安保条約の運用には、慎重の上にも慎重を期す必要があることを認め、腫れものに触るような慎重な行動をとらざるを得なかった事実があります。今回の安保法制を巡る議論では、現憲法の下で集団的自衛権の行使を容認しようと言う無理難題に対する、我々国民あらの反対の意志表明が、まだまだ弱いように思えてなりません。もっと政府を追い詰める必要があるように思うのですが… さて、何をなすべきか。
2015.06.19
コメント(8)
クロニクル 豊田商事会長刺殺1985(昭和60)年6月18日金のペーパー商法を利用した豊田商事の詐欺事件を、ご記憶の方も多いと思います。会社が契約者に金を売るのですが、実物の金を持っても仕方がないでしょうと、その金を会社が預かることにして、預り証即ち証券を渡すのです。実際の金を会社が保管していれば、それは詐欺ではありません。しかし、その金を保管していなかったとすると、これは立派な詐欺になります。この詐欺がばれて、約3万人の被害者と2千億円と言う被害金額、詐欺にあった人たちの大半が1人暮らしの老人であったことなどから、大きな社会問題となりました。その豊田商事の会長永野一男が、ちょうど30年前のこの日、夜10時過ぎにTV中継中のカメラの前で、彼の住まいのマンションにガラスを割って侵入した男に刺殺されました。その1部始終がTYでナマ中継されたのです。警察が捜査中の事件の容疑者が、各局のTVクルーがカメラを構え、レポーターがしゃべっているその前で、刺し殺されたのです。2人の争う声も収録され、そのままTVに流れました。カメラもマイクを持ったレポーターも、誰一人機材を置いて止めに入ることをしなかったのです。これはマスコミの姿勢として、当時大きな問題となりました。また責任者の死亡で、集めた資産をどこにどう隠したのか、或いは使ってしまったのか。社員にいくら渡したのかといったことが、わからなくなってしまったため、被害者に返却できる金額が、非常に少なくなってしまうという、残念な結果にも繋がりました。マスコミの姿勢が問われた事件でした。
2015.06.18
コメント(12)
クロニクル ウォーターゲート事件発覚1972(昭和47)年6月17日43年前のこの日、ワシントンの民主党全国委員会本部に、盗聴器を仕掛けようと侵入した5人の人物が逮捕されました。現職大統領の犯罪として、ニクソン大統領の辞任に繋がった、世に名高いウォーターゲート事件は、この比較的些細な事件がきっかけとなって、世界を揺るがせた大事件へと広がっていきました。あの当時、米国のマスコミ、輝いていましたね。
2015.06.17
コメント(8)
クロニクル 新潟地震発生1964(昭和39)年6月16日東京オリンピックの年のことです。この日、私は教育実習中で、東京北区の岩淵中学校におりました。お昼を食べ終えて教員室に戻り、指導の先生と午後の授業の打合せをしていた時でしたから、12時50分前後だったと思います。大きな揺れを感じました。教員室においてあった金魚鉢(当時エアポンプ付の水槽なんて、見かけたことはありませんでした)の水がこぼれおちましたから、かなりの揺れでした。居合せた教生や先生方は,全員大急ぎで教室へ行き、生徒の無事を確認しました。なるほどこんな時は、こう動くのかと良い勉強になりました。 夕方になって、震源は新潟で、新潟市内に大きな被害が出ていることが分かりました。ここから後日談です。この頃、ゼミの合宿を毎年新潟県の阿賀野川沿いの津川の町に近い、麒麟山温泉で実施していました。別のゼミでしたが、親しい友人が新潟市内に住んでいて、見せたいところがあるから、合宿の帰路、新潟に寄れというのです。そこで、ゼミのメンバー全員で、帰路新潟に立ち寄りました。駅の改札を出て、先ずビックリです。当時駅前に大型のホテルが出来ていたのですが、そのホテルが見るも無惨な姿をさらしていたのです。横長のホテルでしたが、中央部が2階部分まで地下に陥没して、両サイドは逆に浮きあがるように変形していました。信濃川にかかる橋のうち、古い橋はビクともしていなかったのですが、前年の国体用に作られたばかりの新しい橋は、完全に倒壊していたのです。国体のメーンスタジアムしかりです。 国体がいかに、地方ゼネコンの儲け仕事であったのか、おそらく政治家にも相応の金額を贈って、儲けを分け合っていたのでしょうが、国体翌年の大地震は想定外だったのでしょうね。手抜きの欠陥工事であることは、新旧の橋のコントラストが、雄弁に物語っていました。 ゼネコンと政治家の癒着の決定的証拠がここにあるんだと、その友人は力説していましたが、確かに良いものを見せてもらいました。 あの印象は強烈で、今でも鮮明に脳裏に浮かびます。
2015.06.16
コメント(12)
クロニクル 三陸大津波死者2万7千人1896(明治29)年6月15日119年前のこの日、岩手県の三陸沖約200kmの海底で、マグニチュード7,6の地震が発生、地震に伴う津波が岩手、宮城、青森の海岸を襲い、死者約2万7千人という大被害を齎しました。当時の記録によると、地震の発生は午後7時32分、震度は2程度の弱震で、当初の被害はありませんでした。しかし、地震から約40分後に到達した津波は大きく、一瞬の内に三陸海岸の町や村を飲み込みました。最大の津波は、後に調べたところ、気仙沼郡の綾里村で38,2mに達したとされています。この年は、日清戦争終結の翌年でしたから、この日岩手県の大槌町では、浜辺で出征兵士の凱旋を祝う花火大会が行なわれていました。お祭り騒ぎの中、小さな地震は当然無視されます。そこへ午後8時10分頃、皆の歓声を打ち消すような大轟音と共に、襲ってきた大津波によって、一瞬の内に浜にいた人達が飲み込まれました。村の全戸が流出した地域も数多くありました。流出家屋のみで、3県合わせて8891戸にのぼったと記録されています。被害の程度は、2011年3月11日の東日本大震災の被害に匹敵する大津波でした。
2015.06.15
コメント(12)
クロニクル 南北共同宣言発表2000(平成12)年6月14日前日の続きの記事になります。大韓民国(略称 韓国)の元首として、初めての朝鮮民主主義人民共和国(略称 北朝鮮)訪問を果した金大中大統領は、金正日朝鮮労働党総書記(北朝鮮の元首)と勢力的にトップ会談を行ない、この日南北統一問題の自主解決などを盛り込んだ「南北共同宣言」に調印し、両首脳揃って、にこやかに共同発表の場に現れました。1950年~53年にかけて行なわれた朝鮮戦争は、休戦協定が結ばれたままでしたから、形式的には現在も、両国は戦争状態のままでした。従って、両首脳による南北共同宣言の発表は、抗戦状態が形式的に継続している両国の間で、今後は南北対話を継続しながら、統一問題は話し合いで解決してゆこうという強い意志を、表明したものとなりました。この功績を認められ、金大中大統領は、10月、ノーベル平和賞を賦与されました。しかし、その後の動きは、期待を裏切り続けていますね。今後どのように動くのか、現時点では予測不可能のように感じています。
2015.06.14
コメント(12)
クロニクル 金大中韓国大統領、北朝鮮を訪問2000(平成12)年6月13日11年前のこの日、金大中韓国(大韓民国)大統領が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪問、金正日総書記と会談しました。同じ朝鮮族の兄弟国家でありながら、1950~53年の朝鮮戦争以来、首脳同士の相互訪問は絶えてなかっただけに、両国関係の改善に向けての一歩でした。南北ヴェトナム、東西ドイツと冷戦の申し子だった分断国家が、次々と統一国家建設を進めていただけに、最後の分断国家である南北朝鮮の統一が待たれるところです。とりわけ、この国の分断は、日本の降伏の遅れによって、齎されたものであるだけに(45年8月8日のソ連参戦以前に、ポツダム宣言を受諾していれば、日本の植民地朝鮮が分断されることはなかったのです。)、何とか早く南北の統一が実現して、日本の植民地支配以前の状態に戻ってくれると良いのですが…。 そして、そのことが拉致問題の全面的解決を可能とする唯一の道だろうと、私は考えています。しかし、今の南北の様子を見ると、残念ながらまだまだ時間がかかりそうですね。
2015.06.13
コメント(8)
クロニクル 大平首相死去1980(昭和55)年6月12日35年前のこの日未明、選挙戦の最中に心不全で倒れ、虎の門病院で療養中の大平首相の病状が急変、手当ての甲斐なく不帰の人となりました。行年70才でした。大平正芳首相は、幹事長当時の1978年に、自民党が初めて実施した全党員・党友参加の総裁予備選に出馬し、ライバルの福田赳夫首相に圧勝。第8代自民党総裁に就任、同時に首相になりました。大平首相は、財政再建に執念を燃やし、79年に大型間接税としての付加価値税の導入(後、中曽根内閣で売上税、竹下内閣で消費税と名を変え、10年後の1989年に、ようやく実現を見ました)を提起したのですが、79年10月の解散総選挙で歴史的な大敗を決し、無所属議員を追加公認して、辛うじて過半数を確保しました。ここに付加価値税導入を断念、自民党は福田・大平の因縁の対決が再燃、40日抗争の果てに、辛うじて政権を維持したのですが、80年5月16日に、野党の社会党が提出した大平内閣不信任案が、党内の反主流派が賛成票を投じたために、可決成立をみたのです。大平首相は、この挙に応じて、ただちに衆院を解散、初めての衆参同日選挙に訴えました。前年の借りを返すべく、解散後、告示前から全国を遊説、無理をしすぎたのでしょうね。選挙戦の最中に倒れたのです。心不全との発表でしたが、政治家の病状は、実際より軽いと発表されるのが常のこと、実際は心筋梗塞だったのでしょう。この日未明に息を引き取りました。選挙は弔い合戦の様相を帯びて、自民党が圧勝。まさか可決する事はあるまいと考えて、不信任案を提出した社会党は、判断ミスが祟って、大敗を決しました。なお、後任首相には、党内に敵の少ない、同じ大平派の鈴木善幸総務会長が就任しました。
2015.06.12
コメント(10)
クロニクル 南ヴェトナムで抗議の焼身自殺1963(昭和48)年6月11日63年は東京オリンピックの前年でした。52年前の今日、衝撃的な写真が世界を巡りました。そうです。敬虔な仏教徒の多い南ヴェトナムで、多くの仏教徒の尊敬を集めていた老齢の高僧、クワン・ドゥック師が、政府の仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺を遂げたのです。抗議の焼身自殺は、事前にマスコミ等に報じられており、官憲の妨害を避ける意味もあって、仏教寺院の僧侶から一般の市民まで、6千人を越える人々が、老僧のクワン・ドゥック師を守って、大きな円を描いて、ドゥック師と共に念仏を唱えながら、焼身自殺の1部始終を見守りました。それは異様な光景でした。ドゥック師は袈裟姿で、静かに路上に座ると、手ずからガソリンをかぶって、火をつけ、正座のまま、手を合わせて、祈りを捧げながら、自ら命を断ちました。このニュースは外国通信社や特派員の手によって、ただちに世界各地に打電され、日本の夕刊各紙には、手を合わせた姿のまま、黒焦げになって横たわった老師と、涙ながらに見送る群衆の写真が、掲載されました。それは、何よりも、1954年のフランスとヴェトナムとのジュネーヴ協定の約束を無視して、一方的に居座りを策した南ヴェトナムのゴ・ジン・ジエム政府と、ジエム政府を支え続ける米国政府にとって、大きな打撃となった出来事でした。52年前のこの日は、南ヴェトナムには米国の傀儡政府があり、その政府がとんでもない圧政と国民弾圧を行なっている事実が、広く世界中に知れ渡った1日となったのです。
2015.06.11
コメント(12)
クロニクル ハガチー事件1960(昭和35)年6月10日60年安保の話ですから、55年前のことになります。ハガチー氏は、時のアメリカ大統領アイゼンハワー(愛称アイク)の新聞係秘書でした。そのハガチー氏が、アイゼンハワー大統領の訪日を控えて、露払い役として、この日来日したのです。 我々、60年安保世代には有名な話です。安倍元総理の母方の祖父に当る岸信介首相は、サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約が、米軍と米国が一方的に日本防衛の任を負う内容だった事を改め、極東の範囲内において、駐留米軍が攻撃された場合、日本の自衛隊が米軍と共に、共同で防衛の任に当るという双務的内容に書き換えた安保条約改定案を米国と結んだのです。これが新安保条約、60年安保です。この改訂に対し、国内では日本が戦争に巻き込まれる危険性が強まるとか、極東(far East)とは一体どこまでなのかが曖昧なままでは困る。範囲を限定せずにいては、なし崩しに範囲が拡大し、東南アジアにまで広がってしまうことも考えられるなどと、強い反対論が唱えられました。衆議院での白熱した議論の模様は、当時普及期に入っていた白黒テレビや新聞、雑誌で連日のように報道されていました。国会も今と違って、勉強家の議員たちがしっかりと新安保条約を勉強して、その問題点を次々に追及したのです。実に面白い国会中継でした。そうした衆議院での論戦が続く中、通常国会の会期も迫ってきます。今と違って強行採決などタブーの時代だったのですが、自民・社会両党の激突(当時は公明党も民社党もなく、2党以外には共産党が僅かな議席を持つだけでした。)の中で、自民党は5月19日未明、遂に新安保条約の強行採決に踏み切ったのです。これが中立系の人々をも反対運動の環に押しやりました。民主主義とりわけ議会制民主主義は、議論を尽すことで、少数意見をも尊重するものだと考えた大勢の国民が、この日以降、安保反対の陣営に積極的に参加したのです。強行採決に民主主義の危機を感じとったのです。こうした国民の政治的感度も、今とは違って鋭いですね。こうして「安保反対」に「民主主義を守れ」のスローガンが加わったのです。 国鉄労働者の時限スト(朝9時までとか、正午までが多かったように記憶します。多少不確かですが)には、出勤に遅れる会社員たちから、「頑張れよ」の声が数多く寄せられたのもこの時です。米国大統領のアイクは、新安保条約の調印後、この新安保の成立を待って、歴代米国大統領として初めての、そして15年前まで、激しく戦った国の大統領としても初めての訪日を実現して、2期8年の任期を間もなく終えるに当っての花道にしようと考えていたようです。ところが日本側の様子がおかしい。大使館情報では、大統領訪日を歓迎する雰囲気など日本側には無いという。下手に訪日して傷を負う愚は避けたい。こうした思いが19日に予定されていたアイク訪日をおよそ10日後に控えた時点での、ハガチー新聞係秘書のお忍びでの訪日となったのです。日本の実情視察が、彼の使命でした。しかし、この情報が事前に漏れ、羽田空港周辺は、ハガチー帰れのシュプレヒコールに埋め尽くされ、空港周辺の道路はデモ隊で埋まり、通行困難の状況になっていたのです。 午後3時過ぎ、都心に向かおうと羽田空港を出発したハガチー氏を乗せた車は、一歩空港外に出た途端に、立往生してしまい、全く身動きできなくなってしまったのです。身の危険を感じたハガチーは、空港に引き返し、米軍立川基地に救援ヘリの来援を要請、ヘリで立川基地に降り立ち、そこに一泊することになったのです。翌日に延期された日本政府要人との会談は、結局実現できないまま、彼は翌11日、米軍機で帰国する破目になりました。その翌日、岸内閣は「警備に万全を期す自信が持てないから…」として、アイク訪日を日本側から辞退したのです。米国大統領に恥をかかせるわけにはいかない以上、やむをえなかったのでしょうが、岸首相はさぞ、悔しかったでしょうね。でも、当時の日本人の多くは、ハガチーが実質的に日本の土を踏んだと言えない状態で、ホウホウのテイで逃げ帰らざるを得なかったことに、してやったりと快哉を叫んだのでした。高校3年生だった私もその中の1人でした。当時は新聞も元気でした。国民のチェックが厳しく、マスコミにも勇気と気概があれば、菅官房長官を筆頭とする政府の言論会への露骨な介入は、跳ね返せるのでしょうが、世論にもマスコミにも、まだその元気が足りませんね。それが残念です。
2015.06.10
コメント(6)
クロニクル ウィーン議定書締結1815(文化12)年6月9日1814年、ナポレオンの退位と地中海のエルバ島への隠棲を受けて開始された、ナポレオン後のヨーロッパの体制を定めるためのウィーン会議は、喧々諤々の各国の主張が入り乱れて、何事も決まらないマラソン会議となりました。その有様は、会議の主催国オーストリア宰相メッテルニヒをして、「会議は踊る、されど決まらず」と言わしめたと伝えられ、名作映画『会議は踊る』を生み出したことは、ご存知の方も多いと存じます。この何も決まらなかった会議が、急に動き出したのは、この年3月ナポレオンがエルバ島を脱出、フランスに戻って、瞬く間に皇帝の座を回復してしまったからでした。ここに会議は急進展し、ナポレオンとの決戦が迫る中、この日遂に合意に達し、ウィーン議定書が締結されたのです。そこでは、フランスは革命前の所領を保証され、オーストリアはベルギーをオランダに譲る替わりに、北イタリアのロンバルディア平原(中心地ミラノ)とヴェネツィア共和国などを獲得、イギリスはオランダからケープ植民地を獲得すると共に地中海のマルタ島を得るなど、海洋帝国の地歩を固めました。議定書の締結から10日後、ベルギーのワーテルローで行なわれた、両軍の会戦は連合軍の勝利に終り、ここにウィーン体制と呼ばれる時代の幕が上がりました。
2015.06.09
コメント(12)
クロニクル 日本競馬史上最高の珍事発生1929(昭和4)年6月8日福島競馬場は、1918(大正7)年に完成した、中央競馬の競馬場です。その年6月28日から競馬が開催されていますから、史上最高の珍事が発生したのは、それから11年後ということになります。86年前のこの日、笑うに笑えない珍事が起きました。この日のレースが進み、第5レースがスタートした直後でした。何に驚いたかスタートした馬たちが突然暴れだし、馬上の騎手たちが1人残らず落馬してしまったのです。騎手がいなくなった馬たちは、てんでに動きますから、もはやレースにはなりません。かくてレースは、騎手全員落馬により不成立という、非常に珍しい事態を招きました。世界ではどうかは、調べていませんが、日本競馬史の上では、最初で最後の珍事でした。
2015.06.08
コメント(14)
クロニクル 長崎造船所、三菱へ1887(明治20)年6月7日128年前のこの日、明治政府は、官有の長崎造船所を、三菱に払い下げました。官有物払い下げの一環でした。払い下げを受けた三菱は、やがて社名を三菱造船所に変更、客船・貨物船・海軍の軍船などの建造を手がけました。この三菱造船所は、やがて三菱財閥の中核企業の1つに成長します。そこからさらに、三菱重工の主力部門にまで上りつめ、三菱のドル箱部門として活躍しました。戦後、しばらくは苦難の時期を過ごしましたが、朝鮮戦争が追い風となり、それまでに蓄積した高い造船技術が米軍に評価されて復活、60年代に入ると大型タンカーの受注が相次いで活況を呈しました。その後、大型の豪華客船ブームが起きると、次々に豪華客船を受注するようになり、一方での自衛艦の建造と収益の二本柱になっています。2002年10月1日のことですが、建造中の豪華客船ダイヤモンドプリンセスが火災を起こし、2003年7月に決まっていた施主への納入期限が大幅に遅れそうになった事故が起きました。テレビで大々的に報じられましたから、御記憶の方も多いと思います。この時同社は、隣のドックで建造中のサファイアプリンセスを、急遽ダイヤモンドプリンセス仕様に改装することを決め、僅か7ヶ月遅れで、施主に納入するという離れ業を演じ、世界の海運関係者並びに造船業者仲間の称賛を浴びたのですが、こちらはほとんど報じられることはありませんでした。なお、被災したダイヤモンドプリンセスは、同社の別の造船工場に移され、焼損部分を完全に取り除いて、今度はサファイアプリンセス仕様に改装し、2004年5月にデビューを果たしています。
2015.06.07
コメント(12)
クロニクル レッドパージ序曲1950(昭和25)年6月6日65年前のこの日、GHQ(連合国日本占領軍司令部)司令官のマッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、日本共産党中央委員24名の公職追放を指令しました。時に、朝鮮戦争勃発が同月25日でしたから、その19日前でした。米国が国民党の勝利を信じて疑いもしなかった中国の内戦は、前年10月1日に共産党の勝利で終りました。この事実が、GHQをして、反共への傾斜を強める結果に繋がったのでした。
2015.06.06
コメント(8)
クロニクル 池田屋騒動1864(元治元)年6月5日幕末の話です。この日の京都は、祇園祭の宵宮で深夜まで華やいでいる日でした。その京都は三条河原町の旅篭「池田屋」で、尊皇攘夷派(以下尊攘派)の志士20名が、密かに集合して謀議を凝らしていた所を、約30名の新撰組隊士が襲撃しました。当時の新撰組は、江戸及び近在の浪士の集団で、京都で尊攘派に打撃を与えることで幕府に認められ、幕臣に取りたてられることを狙っていた一旗組でしたが、皆剣の腕には自信のある集団でした。新撰組は、この日朝の内に、尊攘派の志士の1人で商人に化けて様子を探っていた人物を捕らえ、彼を拷問にかけて、尊攘派の天皇拉致計画を自白させたと称して、京都所司代に援軍を要請すると、所司代兵の到着を待たずに、夜10時頃、密偵の情報で掴んでいた、池田屋を襲撃したのです。戦いは約1時間に及び、尊攘派の志士は半数が切り死、半数が捕縛されました。この日池田屋には、長州の大物桂小五郎が来合わせていたのですが、幸いなことに、彼は対馬藩との打合せの為に、席を外していて助かりました。後日談です。この後、危険を感じた桂は、しばらくの間四条の橋の下に、乞食に変装して身を隠していたこと、その彼の下に日々食事を届けたりして、彼の身を守ったのが、愛人の芸子幾松(後の桂夫人)でした。一方、この活躍で新撰組隊士は、全員念願の幕臣に出世し、特に隊長の近藤勇は3千石の旗本に、取りたてられました。身分制度が網の目のように張り巡らされていた封建社会では、素浪人がいくら手柄を立てても、千石取りに出世することはあり得ないことでした。近藤の異例の出世は、既に幕府のタガが緩み、軍事部門の人材が不足していたことを示して余りあります。
2015.06.05
コメント(10)
クロニクル ミッドウェー海戦始まる1942(昭和17)年6月4日73年前ですか。この年10月生まれの私は、まだ母のおなかの中にいた頃です。日本時間では5日にあたりますが、この日、6月4日から7日にかけて、ミッドウェー島をめぐって日米の海戦が行なわれました。戦闘は、同島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で行なわれました。日本海軍はこの海戦で機動部隊の中核をなしていた主力空母4隻と、その艦載機を一挙に失い、これ以降戦争における主導権を米軍に奪われたのでした。なお、この海戦ではアメリカ海軍もまた、空母1隻と多数の艦載機を失い、ミッドウェー島の基地機能に打撃を受けるなど、かなりの損害を出したのですが、物量に勝る分、戦局は米軍優位となっていったのです。
2015.06.04
コメント(4)
クロニクル 札幌ドーム開場2001(平成13)年6月3日14年前の今日、札幌ドームが開場しました。施設の所有者は札幌市。管理運営は市も出資する第三セクター、株式会社札幌ドームが行なっています。2001年というのは、翌年に迫った日韓ワールドカップの前年です。そうなんです。札幌ドームは、札幌でのワールドカップ開催を目指して、開催条件となっていたスタジアム建設を、将来を見越して、プロ野球の開催やその他のイヴェント開催とリンクさせて、建設に漕ぎ着けました。そのため、サッカー用の天然芝グラウンドと野球用の人工芝グラウンドの併用が可能になっています。現在は、サッカーのコンサドーレ・札幌とプロ野球パ・リーグの日本ハムファイターズが、ホームスタジアムとして使用しています。
2015.06.03
コメント(12)
クロニクル 本能寺の変1582(天正10)年6月2日今日のこの日は、史上に名高い本能寺の変を取り上げました。春に甲斐の武田氏を滅ぼし、日本統一の可能性を着実に進めた信長は、中国地方の平定を進め、備中松山城を包囲した羽柴秀吉の要請を入れ、備中出陣のため、京都本能寺に滞在していました。 丹波亀山で、備中への出陣を準備していた明智光秀は、前日の午後6時頃、およそ13,000人と言われる兵を率いて京へ向い、この日未明から、本能寺の信長勢を攻撃しました。家臣のクーデタを受けた信長は、多勢に無勢の状況を把握すると、寺に火をつけ自害して果てました。世に名高い、本能寺の変です。時に信長49歳。桶狭間の戦いに際して「人間50年…」と吟じながら舞った通りの、50歳に近い生涯でした。 昨今、この本能寺の変については、様々な解釈が加えられていますが、部下が裏切りを決意したならば、少数の兵での行動を厭わなかった信長を襲撃するチャンスは容易に掴み得たことから、光秀も天下を狙って行動を起こしたという解釈で、良いように思います。433年前の出来事でした。 見事に成功したクーデタの例としては、大化の改新の蘇我一族の誅殺と双璧をなすと,私は考えています。 もう少し長生きしたなら、どんな国造りをしたのかが、楽しみに思える、日本史上の英傑の残念な死ですが、歴史にも「たら、れば」は残念ながらありません。
2015.06.02
コメント(12)
クロニクル 日比谷公園オープン1903(明治36)年6月1日112年前のこの日、午前11時より日比谷公園の開園式が行なわれました。 公園建設計画は4年前に本格化したのですが、設計案がなかなか具体化せず、ようやくにしてこの日開園に漕ぎつけたのです。公園は本邦初の洋式公園として、ドイツ形式を模した公園でした。広い道路と西洋花壇を配し、アーク灯やガス灯など夜間照明を整備したモダンな設計が、人気を博したと当時の新聞は書いています。翌年には、公園中央に洋風喫茶店の松本楼がオープン、翌々1905(明治38)年には野外音楽堂が竣工、さらに1908(明治41)年には日比谷図書館が開館し、市民の文化センターとしての機能も果すようになってゆきます。
2015.06.01
コメント(12)
全31件 (31件中 1-31件目)
1