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August 14, 2006
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【昭和歌謡の名曲】

『時には母のない子のように』

昭和44年(1969年)2月21日

作詞:寺山 修司(てらやま しゅうじ)
作曲:田中 未知(たなか みち)
歌:カルメン・マキ(かるめん まき)

● 歌詞




CBSソニー(現在ソニー・ミュージックエンタテインメント)は、1968年に設立されたばかりの新興レコード会社でした。
1969年から邦楽アーティストを発掘し、邦楽レコード部門の制作を開始します。

それまでの歌謡曲の流れを大きく変えることになります。
その中心的人物の一人となるCBSソニーのディレクター酒井政利(さかいまさとし)は、
寺山修司が率いる劇団「天井桟敷(てんじょうさじき)」の劇団員の中の一人の少女に注目しました。
その少女は、日本名を伊藤牧(いとうまき)、本名はMaki Annette Lovelace(マキ・アネット・ラヴレース)と言いました。

彼女は、アイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人の父と、日本人の母との間に、神奈川県鎌倉市に生まれました。
1968年、都内ミッションスクールを高校2年で中退してまもないころ、
たまたま友人に連れられて行った寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」の演劇『青ひげ』公演にいたく感銘し、すぐに入団。
8月に、新宿厚生年金会館にて、『書を捨てよ、町へ出よう』で初舞台を踏んだところを、
当時CBSソニーのディレクターであった酒井政利に認められたということです。

そして、1969年2月21日に、CBSソニーより、カルメン・マキの名前で「時には母のない子のように」で歌手デビューしました。
芸名の「カルメン・マキ」は、「天井桟敷」の舞台の練習中にたまたま思いついたものだといいます。



「地下」を意味するアンダー・グラウンドを略して「アングラ」と言いますが、
これは、1960年代末から70年代に流行した言葉で、反体制、反商業主義、前衛芸術を意味していました。
ベトナム反戦、安保反対、学生運動という激動のこの時代に支持された、詩人で劇作家の寺山修司。
寺山修司はアングラ劇団の「天井桟敷」を率いていて、アングラの中心的人物と言えます。

田中未知なる女性は、作曲を専門にしているのではなく、


カルメン・マキは、この歌を裸足(はだし)で歌い、
17歳とは思えない妖艶な雰囲気と歌唱力、その投げやりな歌いっぷりや、衝撃的な歌詞が話題を呼び、
「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があがったものの、
1969年3月31日から7月14日まで、16週間オリコンチャートのトップ20にランクインし、
最高2位まで昇る大ヒットになり、CBSソニー会社設立以来、初めてのミリオンセラーを記録しました。

当時トレードマークだったストレートのロングヘアは、実はヘア・ピースで、本当はカーリー・ヘアだったと言います。

同年のNHK紅白歌合戦への出場を果たしますが、
カルメン・マキは、紅白歌合戦で、裸足でジーンズを履いて歌った初めての歌手となりました。


「時には母の ない子のように
だまって海を みつめていたい
時には母の ない子のように
ひとりで旅に 出てみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない」

この曲がヒットした当時、
「この歌は放送しないでくれ」という声がテレビ・ラジオ局に寄せられたと言います。
本当に親をなくした子供や、子供をなくした親にとっては、つらく聞こえたようです。

この歌詞は、普通に解釈すると「自分は何不自由のない境遇にいるけれども、
時には幸薄い人間であるかのような気分に浸ってみたい」という歌だと思えるものですが、
本当は、母親からの息苦しい束縛から逃れたいのに逃れられない自分が現実に体験した、
「母(はは)地獄」の歌だということです。

寺山修司の母親は、ほとんど近親相姦のように寺山が好きだったと言います。
結婚した寺山が、妻の女性とアパートで接触しているだろうということに耐えられず、
嫉妬のあまり、毎晩のようにアパートの近くに行き、時にはドアに石をぶつけたりしていたそうです。
彼の母親は寺山を、何が何でも自分が所有していたいという欲望の対象にしていたのだそうです。
そのことから、この歌は寺山の母親に対するメッセージのようなもので、
「僕はお母さんが好きだ。しかし時には母のない子のように一人で、だまって海を見つめていたい。ひとりで旅に出てみたい。」
「お母さんとだけ語るのではなく、誰かに自分の思いをぶつける 長い手紙を書いてみたい。
静かな良い子でいることから抜け出して、大きな声で叫んでみたい。」
男の子というものは、お母さんが大好きでも、時にはお母さんから独立したくなるのだと言いたかったのかも知れません。
しかし最後に「だけど心は すぐかわる。母のない子になったなら だれにも愛を話せない」と、結局は母の下に戻るのです。
この歌の主人公は、時々母親から逃げたくなるけれども、結局、僕はお母さんのものだよと、
息子が好きで狂いそうな母親のお守りをしている歌といった感じがします。

それから、気になるのが、この曲名は有名な黒人霊歌の
「Sometimes I Feel Like a Motherless Child 」(時には母のない子のように)と同じ曲名だということです。
この歌の内容は、
「自分は母親のいる故郷からあまりにも遠く離れていて、ときどき母のない子になったような気持ちになる」というものです。




これ以降も個性派歌手として活動し、
「山羊に引かれて」や、「私が死んでも」、「戦争は知らない」などの曲がヒットしました。

しかし、「時には母のない子のように」のヒットで、
CBSソニーの社長から「ごほうび」としてレコードプレイヤーとLPレコード数枚をプレゼントされた時、
そのLPレコードの中にジャニス・ジョップリンのものがあり、それを聴いたマキは大きな衝撃を受け、
1970年に、突然のロック転向を表明することになります。

1972年に、ロックバンド「カルメン・マキ&OZ(オズ)」を結成します。
1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビューし、
翌1975年1月にはファーストアルバム「カルメン・マキ&OZ」をリリースします。
高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、
「ロックは売れない」と言われていたこの時代に、このアルバムは10万枚を超える大ヒットを記録し、
日本のロック・シーンに大きな影響を与えることになります。
(私事ですが、ちなみに私は「カルメンマキ&OZ」の大ファンでした。)

当時の日本のロックは、日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかったので、
これは快挙とも言えるものです。
また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」とともに、
当時の日本のロックの最高峰とする評価もあります。
特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ曲「私は風」は、
のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中では中森明菜のものが有名です。




● カルメン・マキ(かるめん まき)

本名:Maki Annet Loverace(マキ・アネット・ラヴレース)
日本名:伊藤 牧(いとう まき)
昭和26年(1951年)5月18日、神奈川県鎌倉市生まれ。

アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と、日本人の母との間に生まれる。

1969年2月21日、CBSソニーより、カルメン・マキの名前で「時には母のない子のように」で歌手デビュー。
大ヒットし、CBSソニー初のミリオンセラーとなる。

同年のNHK紅白歌合戦に、最初で最後の出場を果たす。

これ以降も個性派歌手として活動。
「山羊に引かれて」や、「私が死んでも」、「戦争は知らない」などのヒット曲が出た。

1970年に、突然のロック転向を表明する。
ブルース・クリエイションとの活動を経て、ロックバンド「カルメン・マキ&OZ(オズ)」を結成。
1975年にリリースされたファーストアルバム「カルメン・マキ&OZ」は10万枚を超える大ヒットになり、
日本のロック・シーンに大きな影響を与えることになった。

その後は、ロックのライブ活動を中心に行ってきたが、
最近はアコースティックな演奏スタイルも取り入れ、音楽の幅を広げている。





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Last updated  August 14, 2006 02:45:24 PM
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