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2008年01月19日
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カテゴリ: 天璋院篤姫
NHK大河ドラマ「篤姫」の第2話には、調所広郷(平幹二朗)が島津斉興(長門裕之)の側室・お由羅(涼風真世)と組んで斉彬(高橋英樹)の子どもたちの呪詛調伏を企んでいるという噂や、さらには薩摩藩士の一部が島津斉彬(高橋英樹)の四男が亡くなったことに怒って「調所一派の悪行」を書き連ねた密書を作り、それが藩主の斉興を隠居させる計画と関連があると見なされ、大量の人々が切腹させられるという話が出てきます。

 これらの話は「お由羅騒動」としてよく知られています。斉彬の子どもたちが次々と夭折したことに対し、薩摩藩士の一部がお由羅たちの呪詛によるものだと考え、お由羅やその息子の忠教(後の久光)の暗殺を企て、そのために少なからぬ人々が酷刑に処せられたようです。これらのことは歴史的事実のようですが、この「呪詛調伏」などという妖しげな話がからんだ騒動の背後には、もしかしたら当時の薩摩に内在する深刻な問題があったのかもしれませんね。

 それで、手許の本で「お由羅騒動」を調べなおしていましたら、原口虎雄『幕末の薩摩』(中公新書、1966年4月)にこの騒動についての興味深い事実が書かれていることを気付きました。なお、この本では、斉興の別邸だった花倉お仮屋で「斉興と調所は、大胆にも偽金造りを始めた」としていることに対しまして、これはどうも史実として確証できないようだと私は書きましたが、「お由羅騒動」についての指摘は検討に値すると思いました。同書は、調所の財政改革が城下士族に及んだときの状況をつぎのように書いています。

「調所の改革が、借金の整理や黒糖専売などにとどまっている間は、虫けら同然の百姓町人だけにかかわることだと、無関心ですまされた城下士族も、改革の鉾先が農政や軍制にまで向けられてくると、足元に火がついたような危惧を抱いた。なにしろ、家禄の収納は減る、役得はなくなる、過上高は吐き出さねばならない、これまでの武芸は無用化してしまうといった、空前の社会革命だったからだ。しかも改革の担当者たちは、茶坊主上りの家老をはじめ成上り者、ことに癪にさわるのが町人たちの抜擢であった。ノド元過ぎれば熱さを忘れるの諺の通り、財政改革で一息つくと、それが誰のお蔭でもたらされたかを忘れ、欝積した不平が爆発した。調所の執政のように、二十数年の長年月にわたる独裁は、まず史上類例が少ないのだから、人心の倦むのも無理はない。そこに虚実とりまぜ大小無数の噂が飛び、非難が生まれた。」

 しかし 、「反調所派がどんなに虚をうかがっても、調所に落ち度はなく、また斉興の信任は小ゆるぎ一つするものではなかった」 ので、反調所派は世子斉彬が襲封し斉興が隠居することを期待するようになったのですが、斉興はなかなか家督を斉彬に譲ろうとしません。

 原口虎雄の同上書は、そんな中で 「もともと格式が厳重で、おまけに男専女卑のうるさい尚武の国で、一介の江戸の下町娘が側室となり久光を生んだことそれ自体、すでに不幸の影がまつわりついていた」 とし、さらに斉興が「士踊」(さむらいおどり)という武士の調練をかねた勇壮な踊りを 「由羅はじめ奥の女中たちを側にはべらせて見物した」 ことや、「 由羅の兄が武士にとりたてられて岡田半七利友と名乗り、小納戸頭取を勤めていたが」、「湯治先で酒に酔って乗馬で小児を踏み殺したのを、由羅が金を出して内済にしてくれたという事件」、「由羅が側用人伊集院平に頼んで貨殖をしているという噂があったが、これは事実であった」 こと 、「時には奥向から政事に口出しすることも多かったらしい」 「わが子久光を家督にすえようとして斉彬の廃嫡を企み、調所や二階堂志津馬・島津将曹・伊集院平などを語らって、斉興に斉彬のことを讒言しているという評判であった」 らしいことから、斉形もこの噂には動かされて不安がっていたとしています。

 反調所派のこのようなお由羅への反撥と斉彬への期待が「お由羅騒動」の背後にあったとする指摘は正鵠を射ているように思われます。





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最終更新日  2008年01月19日 23時22分04秒
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