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既に説明したように、タケツノミは八咫烏ことアヂスキタカヒコネのことです。つまりタケツノミの父親が大国主というわけですね。しかも母親は、スサノオとアマテラスの政略結婚で生まれた宗像三女神の長女タギリヒメです。秦氏が渡来するずっと以前の人物です。ですから一見、秦氏と関係ありそうな人物はいません。ところが、奇妙なことが一つあります。記紀神話では、大国主ことオオナムヂの出自はまったくわからないように書かれていることです。『古事記』にはスサノオの六世孫などと書かれていますが、スサノオの娘スセリビメの婿になったのがオオナムヂなのですから、この系譜は完全に破たんしています。正統竹内文書の口伝継承者である第七十三世武内宿禰こと竹内睦泰氏は、「正統竹内家の口伝をもってしてもオオナムヂの出自はわからない。多分ユダヤ人」と話しています。ユダヤ人だったかどうかの確証はありませんが、オオナムヂは古代シュメール(スメル)と関係があった可能性は高いと思います。というのも、『古事記』に記されたオオナムヂの物語の大半はシュメール(スメル)神話に登場するドゥムヂという神の物語のパクリだからです。ナムヂとドゥムヂで名前まで似ています。それにオオナムヂの別名である「葦原色許男(あしはら・しこお)」という名前もシュメール(スメル)っぽい響きがします。シュメール人は自分の国のことを「キエンギ」、すなわちキが大地で、エンは主人、ギが葦ですから「葦が主の国」というような意味で呼びました。それと同じように記紀神話の天孫族は「葦原中国」と自分の国のことを呼んでいましたね。これは偶然でしょうか。それについて書かれた本がこちらです。シュメール文明が栄えたメソポタミア南部は葦が生い茂る肥沃な大地が広がっていました。つまり「葦原」はメソポタミアの地を指していたのかもしれません。そうだとすると、『古事記』でスサノオが、娘が連れてきたオオナムヂを一目見ただけで、「こいつは葦原色許男だ」と看破した理由が納得できます。オオナムヂが西アジア・中近東系の顔をしていたからではないでしょうか。オオナムヂがエキゾチックな顔立ちであったならば、スセリビメをはじめとする女性たちが、一目ぼれしてしまうのもわからなくはありませんね。しかしながら、同じ葦原族、つまりシュメール(スメル)出身の一族であっても、オオナムヂは、スサノオ系の出雲族、アマテラス系の日向族でもなかったわけです。もう一つの葦原出身の部族がいたことが、記紀の神話からわかります。それがツクヨミ系の月氏族です。(続く)
2018.08.31
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京都の西と東の雄とも呼べる秦氏と賀茂氏。一体、秦一族と賀茂一族の間にはどのような関係があったのでしょうか。その説明をする前に、話を脱線させて、私と秦一族との思い出を語りましょう。私が共同通信社の経済部で旧大蔵省(現財務省)担当の記者をしていたときのことです。当時の経済部長が長宗我部友親(ちょうそがべ・ともちか)氏でした。とても人気のある部長さんで、「長さん」と呼ばれて、部下から慕われていました。私も一度だけ、「長さん」の猫屋敷に呼ばれたことがあります。部下の面倒見がとてもいい部長さんでした。当時も長宗我部家の当主であるという話は聞いていましたが、そのときはあまり名門家の家系には興味がなく、また半ば冗談として聞いていたので、詳しく聞くこともありませんでした。で、「長さん」は、2004年に共同通信社を辞められたわけですが、その後長宗我部家17代目の当主として『長宗我部』という本を出版しました。その本の巻頭に「長宗我部氏系図」が掲載されていますが、長宗我部氏は何と秦始皇帝の末裔だというのですね。秦始皇帝の五世~十世孫・孝武王の孫である弓月王の直系であると書かれています。弓月王とは、応神天皇時代に来日したとされている弓月の君のことですね。弓月の君の系譜から普洞王、酒君、秦河勝が出て、長宗我部氏や羽田氏へと血統が続いたといいます。かつて日本の首相を務めた羽田孜氏も秦氏の子孫だとされており、「神皇紀(宮下文書)」の取材で「日本徐福会」の会合を取材したとき、会場でお会いしたことがあります。さて、そのように古代から日本の政治の中枢とも深い関係があった名門の一族である秦氏が、なぜタケツノミを秦一族であるかのように伝えたのか、という問題に戻りましょう。一見荒唐無稽に思えるこの主張ですが、思い当たるご先祖さまが一人います。それが後に大国主と呼ばれる葦原色許男ことオオナムヂです。
2018.08.30
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賀茂氏と秦氏の関係について、まず秦氏から事情聴取をしてみましょう。と言っても、本当に事情聴取するわけではありません。『秦氏本系帳』に何と書かれているのか見てみましょう、ということです。『秦氏本系帳』には次のように書かれています。「初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を灌濯す。時に一矢あり、上より流下す。女子これを取りて遷り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。……戸上の矢は松尾大名神これなり。……而して鴨氏人は泰氏の婿なり。」松尾大明神のオオヤマクイと秦氏の女子との間に男児が生まれ、こうして賀茂氏は秦氏の婿となったのであると書かれていますね。でもちょっと待ってください。秦氏の祖先である弓月の君は4世紀後半から5世紀前半の応神天皇の時代の人です。一方、オオヤマクイはオオトシことニギハヤヒの息子ですから、西暦1世紀頃の人です。どう考えても、時代が合いません。しかもタケツノミが秦氏であるとも伝えていますね。一体どういうことでしょう。一般的に解釈すると、秦氏の権威付けをするために、丹塗り説話に便乗して、秦氏の娘とオオヤマクイが結婚して賀茂氏が誕生したかのように系図を後から付け足したのではないか、となります。でも、果たしてそうでしょうか。もしかしたら、本当にタケツノミが秦一族と関係がある一族であった可能性はないのでしょうか。それをこの次に解説いたしましょう。
2018.08.29
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三嶋大社の鳥居です。三嶋大社のご祭神である「近畿のコトシロヌシ」と、賀茂氏の関係も整理しておきましょう。賀茂氏の祖神が八咫烏ことアヂスキタカヒコネ、亦の名をタケツノミであることは前に説明しました。大国主と宗像三女神の長女タキリビメとの間に生まれた王子です。出雲のコトシロヌシとは異母兄弟ということになりますね。別の言い方をすると、国譲り神話の中でアヂスキタカヒコネが出て来なかったのは、正妻スセリビメの子ではなかったからです。タキリビメをお妾さんにしてしまうくらいスセリビメの地位が高かったということを示しています。ちなみに『古事記』では母親が隠されている諏訪大社のご祭神タケミナカタもスセリビメと大国主の間に生まれた、出雲国の王位継承権を持つ王子です。で、これはあくまでも推測ですが、この賀茂の祖神であるアヂスキタカヒコネの娘タマヨリヒメが近畿のコトシロヌシと結婚して生まれたのが、神武の正妃となるイスズヒメと、後に神武の右腕となる「鴨王」こと天日方奇日方(アメヒカタクシヒカタ)です。どうしてそのように推測するかというと、『山城国風土記』逸文に、タケツノミの娘タマヨリヒメが鴨川で遊んでいたところ、川上から丹塗り矢が流れてきて、その矢を持ち帰って近くに置いたところ懐妊し、賀茂別雷(カモワケイカヅチ)が生まれた、と書かれているからです。賀茂別雷が天日方奇日方だとすると、丹塗り矢は大物主(ニギハヤヒ)の分身(息子)であるオオヤマクイですから、記紀の記述と辻褄が合います。実際に『秦氏本系帳』には、丹塗り矢がオオヤマクイであると書かれています。さらに、日吉大社のご祭神は、オオヤマクイと大国主ことオオナムヂですが、摂社にはちゃんと鴨玉依姫(カッモタマヨリヒメ)が祀られています。大国主の孫であり、オオヤマクイの妃であることから祀られているのだと考えると、合点がいきます。日吉大社山王祭も、大山咋神(オオヤマクイ)と鴨玉依姫(タマヨリヒメ)の結婚と出産を再現しているとされていますものね。もちろん生まれた子供というのは、長女イスズヒメと、長男で鴨王ことアメヒカタクシヒカタ、別名・賀茂別雷というわけです。「雷」は火雷神の別名を持つオオヤマクイからもらっています。なぜオオヤマクイに「火雷」があるかというと、おそらくミホツヒメと天火明(ニギハヤヒ)の子だからです。ミホツの「ホ」にも「火」が入っています。また「ホツ」は、本当は「フツ」で、雷とも関係がある火神であるフツヌシから来ていると私は考えています。ですから鴨王には、「天」(日向族)と「奇」(ニギハヤヒの大和族)の血が入っています。「天日方奇日方」にはそういう意味があるのです。ということは、賀茂氏にとって三嶋大社で祀られている三嶋大明神とは、賀茂氏の娘婿オオヤマクイ(近畿のコトシロヌシ)であったという可能性が強いということになりますね。「山の王(山末之大主神)」の異名があったことから、「オオヤマツミ」としても祀ったと思われます。次はその賀茂氏と秦氏の関係に迫って行きましょう。そこに出てくるのは、三島大明神の御子(あるいは子孫)であるというモノイミナノミコトです。(続く)
2018.08.28
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昨日はかなり足早に説明してしまったので、ここで一息ついて問題点を整理しておきましょう。まず、出雲のコトシロヌシから始めましょう。このコトシロヌシは間違いなく大国主ことオオナムヂの息子です。ではその母親は誰だったかというと、『古事記』ではカムヤタテヒメ(神屋楯姫)となっています。では、このカムヤタテヒメとは誰でしょうか。この名前に隠されているのは、スセリビメです。スサノオの末子で、出雲国の正統な王位継承者です。どうして、スセリビメであるとわかるかというと、神という名前が最初に付いているからです。『先代旧事本紀』を見てもわかるように、スサノオも神という名前が最初に付きますね。出雲族の正統な継承者、もしくは王族だから付けることができるのです。これに対して日向族の王族に付けられたのが「天」です。このことをわかってていないと、なぜ大国主が国譲りを迫られたときに、我が子コトシロヌシに聞いてみないとならないと答えたのか理解できません。コトシロヌシが正統な王位継承者である女王スセリビメと内閣総理大臣である大国主との間に生まれた正統な後継者だからですね。で、『古事記』によると、正統な王位継承者であるコトシロヌシは日向族を呪ったうえに、船を転覆させて隠れてしまったということになっています。つまり亡くなったわけです。コトシロヌシ(「事代主」)はおそらく内閣総理大臣という意味の「大国主」を補佐する右腕に相当する役職です。国譲りでコトシロヌシが亡くなり、大国主が隠居することになった以上、出雲国は事実上滅ぼされてしまいました。しかし、他にも王がいましたよね。大国主の国作りを助けてあげた大和国の王ニギハヤヒ(大物主)です。三輪山の神として祀られています。別名オオトシ(大年)と呼ばれていることは、『古事記』に三輪山の神の物語の後にオオトシの神裔が挿入されていることからも明明白白の事実です。スサノオの四男です。オオトシにもたくさんの子供たちがいました。有名なのは天香久山、ウマシマジがおりますが、その中でオオトシ(ニギハヤヒ)を補佐する役職についていたとみられるのが、オオヤマクイなんですね。別名鳴り鏑を持つ神、山末の大主神とも呼ばれています。鳴り鏑とは朱塗り矢のことです。ですから、オオヤマクイが三島ミゾクイの娘のところに船で通ったという「コトシロヌシ」であったという解釈はまんざら外れてもいないわけです。すると三嶋大明神として祀られているオオヤマツミって、もしかしたらオオヤマクイのことなのかもしれないとも思えてきますね。オオヤマツミとは山の神様です。オオヤマクイも「山末之大主神」ですから山の神様。二柱の神は同一神であった可能性もあるのではないかと思っています。次回は賀茂氏と三島大社の関係について考察しましょう。写真は三島大社の金木犀です。
2018.08.27
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三嶋大社のご祭神である三嶋大明神(オオヤマツミとコトシロヌシ)と賀茂氏の関係は謎に包まれています。三嶋大社の写真です。最初に問題となるのは、コトシロヌシとは、どのコトシロヌシのことなのかということです。『日本書記』では神武の正妃となったイスズヒメの父親がコトシロヌシということになっていますが、『古事記』ではイスズヒメの父親はニギハヤヒ(オオモノヌシ)の息子のオオヤマクイであるかのように書かれています。『日本書紀』の記述は単純省略系です。コトシロヌシは国譲り神話の際に、日向族にニギハヤヒと共に帰順したことになっています。で、コトシロヌシが「ワニ」と呼ばれる比較的速い船に乗って、大阪府三島郡にあるミゾクイに通って、そこの娘と結婚して生まれた子がイスズヒメだという説明をしています。ところが、『古事記』の物語ではそう簡単にはいかないのです。というのも、コトシロヌシは国譲りの際に、日向族に嫌々屈して、最後は海中に没してしまっているからです。つまり、再登場できない。そこで朱塗り矢(オオヤマクイのメタファー)の伝説を持ち出して大物主の息子であるオオヤマクイがあたかもイスズヒメの父親であるかのような書き方をしたわけです。では、真実はどちらなのか。大国主の息子のコトシロヌシがイスズヒメの父親か、それともニギハヤヒの息子のオオヤマクイなのか。この両方の説を両立させるのが、コトシロヌシが官職名であるという説です。つまりオオヤマクイがコトシロヌシという官職についていたとすると、一応矛盾が解消されるんですね。この場合、日本書記が言うコトシロヌシは、出雲のコトシロヌシではない近畿地方のコトシロヌシということになります。その決め手となるのは、地形です。オオヤマクイの本拠地はおそらく松尾大社のある京都の嵐山辺りでしょう。そこから大阪府三島郡のミゾクイ村に船で通うには、出雲から通うよりもはるかに通いやすいですものね。桂川、木津川、淀川と下って行けばいいのです。地図を見ると、もう目と鼻の先であることがわかります。それに出雲から来るのなら、当然陸路になるはずです。ただし、ここでは二つの仮説が成り立ちます。出雲のコトシロヌシは国譲りの際にも生き延びて、近畿地方に引っ越していたという説。もう一つは、国譲りの際、出雲のコトシロヌシは亡くなったので、コトシロヌシの役職をオオヤマクイが引き継いだという説です。私は後者の説をとります。というのも、この説なら大方の系図を説明できるからです。どういうことかというと、賀茂別雷大神(上賀茂神社のご祭神)の父親がオオヤマクイであるという俗説も説明できます。ニギハヤヒ(大物主)の子であるオオヤマクイが、タケツノミの娘タマヨリヒメと結婚して生まれたのが、賀茂別雷大神というわけです。おそらく賀茂別雷大神こそ、鴨王ことアマヒカタクシヒカタ、イスズヒメの兄です。神武とは義理の兄弟ということになりますね。「上賀茂神社のご祭神が義理の兄弟である賀茂別雷大神と神武天皇である」とする正統竹内文書の口伝とも一致することになります。次回はこれを前提にして、賀茂氏と秦氏の関係について説明いたしましょう。
2018.08.26
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河合家に伝わる伝承によると、三嶋歴は、宝亀年間(770~781年)頃に、奈良から河合家の先祖が山城賀茂より三島明神(現、三嶋大社)を勧請して、三島に移住し、暦を作り始めたのが初めとされています。鎌倉時代まで関八州(関東地方の一都六県)で用いられていました。と、この伝承だけで、かなりのことがわかります。まず暦は、京都の賀茂氏からもたらされた可能性が高いことです。実際に河合家の伝承では、当初は賀茂性を名乗ったとも言われています。賀茂氏と言えば、陰陽師ですね。「三嶋暦師の館」で暦について説明してくれた案内人の方も、江戸時代の暦の作成は伊勢・京都・奈良・会津・三島の5ヶ所のみで認められており、暦はどれも陰陽師によって作られていたと話していました。河合家の庭の一角にも、暦算のために天文台が設置されていたそうです。『新撰姓氏録』によれば、賀茂氏の始祖である賀茂建角身(カモタケツノミ)は神魂命(カミムスビノミコト)の孫で、大和の葛木山を統治していましたが、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導して勝利に貢献したとされています。すなわち賀茂氏の始祖のタケツノミとは、『古事記』で言うところの 迦毛(賀茂)大御神ことアヂスキタカヒコネと同一神(人物)です。大国主ことオオナムヂと宗像三女神のタキリビメとの間に生まれた、スサノオとアマテラスの直系の孫でもあります。神魂命とは、スサノオのことであったこともここでわかります。『先代旧事本紀』を呼んでもわかりますが、スサノオは「神族」であり、アマテラスは「天族」と呼ばれていました。それはさておき、大和の葛木(葛城)山にいたタケツノミの賀茂一族はその後、山城(京都)の賀茂に移住します。そしてさらにその一部は、伊豆の三島に移住したわけです。それが今日、河合家として知られる人たちであると思われます。この賀茂一族の集団移住は地名を見ればわかることは既に紹介した通りです。大和の葛城山と同様に伊豆の葛城山があります。大和地方と伊豆地方では、賀茂という地名や賀茂川もあれば、三島や淡島・淡路島などかなり地名に類似点があることがわかりますね。実際、京都の陰陽頭の土御門(ツチミカド)家は使者を三島宿に派遣し、京都の暦と交換していたという記録が残っているようです。陰陽師の賀茂一族によってもたらされた三嶋暦は、1872年(明治5年)11月9日に政府が突然、太陰太陽暦から太陽暦へと暦を改める布告を出す前までは、関東地方における定番の暦だったそうです。この布告により、翌月12月3日が明治6年1月1日にすることが決まったと言いますから、大混乱したに違いありませんね。その混乱はしばらく続き、三島歴はその後も人々の間で受け入れられていましたが、やがて太陽暦が主流となったのはご存知の通りです。三嶋暦も 700年に及ぶ頒暦(はんれき)に終止符を打ちました。三嶋暦師河合家も50代で廃業して、51~53代と公職、サラリーマンと続いて現在に至っているそうです。ただし、「三嶋歴の会」では「現代版三嶋歴」を今でも発行しており、私たちも購入することができます。問い合わせ先は、三嶋暦師の館、055-976-3088です。ご参考までに。三嶋歴の版木です。次回は三嶋大社のご祭神と賀茂一族について考察しましょう。
2018.08.25
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お盆も終わり少し人出も収まったかと思って、8月21日は静岡県三島市に行ってきました。この日の富士山は、雲の綿帽子を被っていました。で、今回の目的地はこちらです。三嶋暦師(みしまごよみし)の館(やかた)。写真は、道順を示すために道路にはめられたプレートを撮影したものです。三角印の山の方角に進めという意味です。8世紀から作られているという太陰暦の三島暦を展示している暦博物館が三島にはあるんですね。前回三嶋大社に参拝したときに、地元の人から暦博物館のことを聞きました。三嶋大社から歩いてすぐのところにあります。三嶋歴を代々継いできた河合家の邸宅を博物館にしたんですね。その暦博物館の中の展示物です。方位と干支(時刻)の関係などを示す円板がありますね。周易とも関係が深いことがわかります。上の写真は天保15年(1844年)に刷られた三嶋歴です。1867年にはインフレで前年の二倍に高騰したと書かれています。この三嶋暦はとても面白いので、次回はもうちょっとこの暦のことを考察して見ましょう。(続く)
2018.08.24
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実質的な最終日の6月4日。この日もロンドンの中心部に出掛けます。一日パスを購入して地下鉄やバスを乗りこなします。この日の主要目的地は大英博物館です。とにかくここは、世界中から集めたすごい遺物が展示されています。まず最初に見に行ったのはこちらです。何だかわかりますか?実はこれがザ・ハーラーズ・ストーンサークルの複合体遺跡の「リラトンの円墳」から出土した「リラトンの黄金カップ」です。高さわずか9センチの小さなカップです。その隣に展示されているつぶれたカップは、やはり同時代の紀元前1700年ごろ作られた「リングルメアの黄金カップ」。2001年にケント州サンドウィッチのそばのリングルメア古墳から出土しました。かなり離れた場所から同じようなカップが見つかったことになりますが、同じような形のカップはドイツ、スイス、フランスなどからも見つかっているそうです。古代の金製品。新石器時代の土偶。日本の土偶だと言われても納得してしまいますね。セルビアのヴィンカという場所から出土したと書かれているようです。そして、こちらは。「16菊花紋」の深皿です。何と紀元前5000~6000年ごろに作られたとみられ、イラク北部のアルパチヤで発掘されたと書かれています。シュメール文明の菊花紋のまさに原形が8000年前には既にあったことになります。アルパチヤは、イラク戦争の激戦地であったモスルの近くです。そのような重要な場所が戦争で破壊されてしまったことは、人類の大損失であったことは間違いのない事実ですね。さて、これでこのシリーズも終わりです。またどこかに出掛けたら、同じように旅のご報告をいたしましょう。
2018.08.23
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翌6月4日月曜日。イギリス滞在もこの日を入れてあと三日となりました。5月22日の火曜日にヒースローに到着しましたから、この日でちょうど二週間が経つことになります。前日ちょっとしたトラブルがあり、この日はその雑用から活動が始まります。前日、ボーンマスにある老舗デパートで買ったジャケットのボタンが取れていることがわかったんですね。そこでその老舗デパートに品物を交換してもらう必要があったわけです。デパートの開店は確か午前9時半か10時でしたから、それまでボーンマスの商店街をぶらぶら歩いて時間をつぶします。商店街の建物もレンガ造りが多く、古くから海辺の保養都市として栄えていたことがわかります。デパートでは結局、同じサイズの在庫がないことが判明したので、品物を返品して払い戻しをしてもらいました。ボーンマスからはロンドン近郊キュー・ガーデンズそばの宿泊施設へと車を飛ばします。御昼過ぎごろには到着したので、チェックイン時間までは、その宿泊施設でお昼を食べて過ごしました。チェックインを済ませて、荷物を置いたらロンドンの都心へ向かいます。ところが、駅に向かって歩いているときにいつものように古本屋に捕まって、そこで一時間ほど買い物をすることになります。このときも結構いい本を購入できました。買った本を一度宿屋に戻って置いてきてから、再びロンドンを目指します。地下鉄を使って、ロンドンの劇場街へ。この日は『噂のジェイミー』というミュージカルを鑑賞。評判通りに結構楽しめる作品でした。
2018.08.22
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ボーンマスは英国でも屈指の海辺のリゾートです。実は10代のころ一度だけ遊びに来たことがあります。一人旅をしたのも、イギリスが最初でした。飛び乗った列車では、内側からの扉の開け方(窓から手を伸ばして外側についている取っ手を回す)がわからず、焦りまくったことを今でもよく覚えています。親切な方がちゃんと助けてくれましたけどね。そのような思い出の地がボーンマスです。海岸に出ます。まるで南国の島のビーチみたいですね。実際この日の温度は、おそらく30度を超えておりました。遠くにピアが見えますね。アイスクリーム屋などの出店が出ており、大賑わいでした。ビーチの散策や街中でのショッピングをした後、ホテルに戻ります。ホテルは出窓から海が見える部屋でした。午後9時にはとっぷりと日が暮れて・・・静かな夕闇の風景が広がっておりました。
2018.08.20
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今回の取材旅行では、オックスフォードやダラムなど結構町中に宿泊しました。ドーチェスターの宿泊施設も町の真ん中にあります。小さなホテルですが、非常に便利でした。町中に泊まるときは駐車場があるかどうかが決め手となりますが、ここも近くにプライベート駐車場があったので問題はありませんでした。その宿泊施設のダイニングです。さて、翌6月3日。この日は、南部のリゾート地ボーンマスに向かいます。ただしその前に、一か所古代遺跡を巡りました。ここです。クリアベリー・リングです。鉄器時代に作られたヒル・フォート(丘を加工した要塞)ですが、旧石器時代の手斧がこの遺跡から見つかっています。同時にこの丘は、ストーンヘンジ、オールド・セイラム、フランケンベリー・キャンプといった古代遺跡を結んだ直線(オールド・セイラム・レイライン)上にありますから、新石器時代の5000年前くらいから重要な拠点として使われていたのはほぼ確実でしょう。実は同一線上にあるフランケンベリー・キャンプにも訪れたかったのですが、何キロか歩かないとたどり着けないと言われたので、今回は断念しました。この日は早目に、次の目的地である海辺の町ボーンマスに到着しました。宿泊したホテルからの風景です。(続く)
2018.08.19
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この日は本当によく晴れていました。空にはこのような雲が・・・まるで陰と陽のシンボルが交差しているように見えますね。で、実は昨日紹介したノウルトンのヘンジと教会は、巨大な複合体遺跡の中にあります。それを表したのが、次の地図です。ウィキペディアから拝借しました。チャーチ・ヘンジと書かれているのが、昨日紹介したヘンジと教会ですね。その右隣にグレート・バローと書かれているのが、これも昨日紹介した円墳のことです。さらにチャーチ・ヘンジの北西にも北のサークル・ヘンジがあったわけですが、やはり何と言っても存在感があるのが、チャーチ・ヘンジの南に横たわる南のサークル・ヘンジです。チャーチヘンジの四倍くらいありそうですね。ただし、この南のサークル・ヘンジはかなり破壊さています。道路によって分断されているのはもちろん、ヘンジを壊すように農場の建物があるからですね。私有地なので中には入れませんが、道路からそのヘンジの面影を見ることはできます。真ん中にある木が立っているところが盛り上がっていますが、これがヘンジの盛り土です。これがリング状にぐるっとこの地域一帯を囲んでいるわけです。上の写真で言えば、中央左奥の木があるところがヘンジの土手が続いているところです。このサークルの直径は約250メートル。エイヴベリーやドーチェスター・ヘンジほどではないですが、それに次ぐ規模のヘンジです。この日の取材はこれで終わり。ドーチェスターの宿屋に戻りました。
2018.08.18
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モームベリー・リングを見た後、再びドーチェスターの町中に戻ります。これがドーチェスターの商店街です。結構賑わっていますね。これで大体午後3時ごろです。まだ夕刻には時間があったので、ドーチェスターから車で30分ほど離れた場所にある古代遺跡を見に行きました。ノウルトンという場所です。ここには新石器時代の紀元前2500年ごろ建造されたヘンジと、その内側には中世に建築されたノルマン人の教会があります。現存する教会は14世紀に改築されたものです。右側の土手がヘンジの盛り土です。別の角度から撮影します。土手の内側には溝が掘られています。で、このヘンジのすぐ外側には円墳も作られています。こちらがその写真。日本の円墳とほとんど同じですね。その円墳と教会とヘンジを同時に撮影。中央左奥に見えるのが円墳です。ヘンジの中では、子供連れの家族がピクニックをしておりました。
2018.08.17
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タヴィストックの次は、ドーチェスターに向かいました。滞在するホテルは街中にあります。ホテルのそばの駐車場に車を止めて、先にチェックインを済ませます。ホテルで情報を集めて、早速町中にある巨大な古代遺跡を徒歩で見に行くことにしました。最初に訪れたのは、こちら。ドーチェスター・ヘンジです。と言っても、現在ではスパーマーケットの壁に上の地図と簡単な説明が書いてある案内板があるだけです。でも、見てください。サークルがヘンジがあった場所を示していますが、直径380メートルの巨大なヘンジです。まさにエイヴベリーの大ヘンジに匹敵する大きさです。1984年にスーパーマーケットを建設する際、ほぼ1メートルの等間隔で木柱の穴が掘られている5000年前の跡が見つかり、同時に堀が円形に張り巡らされていることがわかりました。この穴には樫の木の円柱が立っていたのだといいます。つまり、イギリス最大級のウッドヘンジが建造されていたというんですね。ストーンヘンジのそばのウッドヘンジどころの大きさではありません。エイヴベリー級のウッドヘンジです。このような新石器時代の巨大構造物が1984年まで知られていなかったというのも凄い話です。ドーチェスター・ヘンジはほとんど残っていませんでしたが、ドーチェスターの町のすぐ外れにあるモーンベリー・リングは原形がある程度残っています。これも同時代(紀元前3000年)のヘンジで、外観はこのようになっています。その案内板はこちら。案内板を見ればわかるように、ちょっと変わった形をしています。ローマ時代の円形闘技場に似ているんですね。それもそのはず、イギリスを支配していた古代ローマ人が西暦60年ごろ、既存のヘンジを改造して自分たちの円形闘技場に変えてしまったのです。ですから、ヘンジの中はこうなっています。ヘンジの土手に観客席を作って、楕円形の闘技場に改造しました。出入り口も拡張して、非常に均整のとれた形に変身しました。今では絶好のピクニック・ハイキング場になっています。(続く)
2018.08.16
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タヴィストックのそばの定宿の場面に戻りましょう。ここではいつも、宿屋の女主人の手料理を頂きます。今回初めて、女主人は私と同じくらいの年齢の方であることが判明しました。旦那さんは気さくな方で、非常に話し上手です。息子の一人は南アフリカで働いており、時々夫婦で孫に会いに行くのだと話していました。定宿の夕食では、ブリストルのそばで会社を経営している老夫婦と一緒でした。米国フロリダに別荘があり、冬の間はいつもそちらで過ごしているとのこと。職業を聞かれたので、作家であると答えました。どんな本を書くのだと聞くから、私の処女作で一番わかりやすい『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』について説明しました。すると、旦那さんの方がケネディはマフィアに殺されたのだという説があると突っ込んできました。そこで私が、丁寧に時系列を追って、カストロによる1959年のキューバ革命で米国のマフィアがキューバの賭博場利権を失って以来、カストロや、キューバに対して弱腰のケネディを恨んでいたことや、キューバの賭博場利権を持っていたチンピラの一人がオズワルドを殺したジャック・ルビーであったこと、そして1960年の米大統領選の最中、当時大統領になるのは確実であると思われていたニクソンと亡命キューバ政府代表との間で密約が交わされ、後にピッグス湾事件として知られるキューバ侵攻が決まったこと、などを説明。さらにケネディ暗殺の本当の動機は、カストロがケネディを暗殺したことにして、世論をキューバ侵攻に駆り立てることだったのだと解説すると、大変驚いていました。ケネディ暗殺・キューバ侵攻作戦は半分だけ成功しました。ジョンソン大統領はカストロがケネディを殺したのだというCIAの報告を信じたのですが、キューバを侵攻してソ連を刺激すれば第三次世界大戦になることを恐れたジョンソンが、ケネディ暗殺事件をオズワルドの単独犯行にしてうやむやにしたからです。この老夫婦は、ピッグス湾事件やミサイル危機など当時のことをよく知っていたので、話がしやすかったです。ただし、私の解説を信じたかどうかはわかりません。でも、それは私にとっては、それほど重要なことではないのです。この事件に関して、真実は一つですから。滞在12日目となる6月2日。定宿を後にして、タヴィストックへ。タヴィストックの商店街です。タヴィストックの古物マーケットでも買い物をします。お土産用に古物の天秤を買って、次の目的地に向かいました。(続く)
2018.08.15
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ザ・ハーラーズのストーンサークル複合体遺跡で説明し忘れていたことがありましたので、再び地図を使いながら解説します。ここで注目すべきなのは、緯線(横の直線)です。わかりづらいと思いますが、左の写真枠外に書いてあるのは、50・5149という数字です。これは北緯50・5149度のことで、この緯線と左から二本目の縦の線との交点に黒丸がつけられています。これがザ・パイパーズという二本の立石がある正確な場所ですね。既に説為瞑したように、下の写真がザ・パイパーズです。このザ・パイパーズのほぼ真北に見える丘の山頂付近に、チーズリングという奇岩があります。近くで見ると、このような岩山になっています。頂上にある奇岩。今度は奇岩のそばに立って麓のストーンサークルのある方角を見ると、こうなります。本当に見晴らしが良いことがわかりますね。で、この奇岩から三つあるストーンサークルの真ん中のストーンサークル(中央サークル)の中心を結んだ直線上にトレスビー・クオイトと呼ばれるドルメンがあります。そのドルメンの写真がこちら。しかもチーズリングとトレスビー・クオイトを結んだ直線は、三つあるストーンサークルの一番南にあるサークル(南サークル)の接線にもなっています。再び北緯50・5159度の緯線に話を戻すと、この緯線も実は南サークルの接線になっているんですね。しかもこの緯線は、ラリトンの円墳とロングトムを結んだ直線と、チーズリングとクオイトを結んだ直線の交点を通ります。つまり交点Pには、三本の意味のある直線が通っていることになるわけです。さらに注目してほしいのは、ラリトンの円墳とロングトムを結んだ直線が一番北にあるサークル(北サークル)の接線になっていることです。以前お話ししたように、エイヴベリーの複合体遺跡においても、約9キロ離れたシルベリー・ヒルとマーリンの丘は秒数まで一致する完璧な緯線の接線で結ばれています。作り方が似ているでしょう。古代ブリトン人は間違いなく、円の接線を使って測量しながらストーンサークルや円墳を建造しています。接線というのは、円の中心から接点に引いた直線とのなす角度が直角になるということですから、三角関数を知っていた可能性が出てきます。そう、三角測量をしていた可能性が極めて高いのです。しかも完璧な緯線を引く技術を持っていたこともわかります。それを端的に表しているのが、冒頭で紹介した地図というわけです。(続く)
2018.08.14
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二本の立石の向こう側に丸い丘が見えるという構造は、他にもあります。これは今回の旅行ではなく、前回のスコットランド旅行で北の島オークニー本島で撮影したものです。二つの立石の間の向こうに円墳があることがわかります。ミーズハウという羨道古墳です。手前の立石は、ステンネスの立石群の中にある門柱です。紀元前3200年ごろの立石群ですから、古代ブリトン人たちは本当に最初のころから、こうした構造が宇宙にあることを知っていた、あるいは気づいていたことになりますね。この日はザ・ハーラーズの取材の後、セント・マイケルズ・マウントに向かったのですが、子供たちの休日と重なって道路は大渋滞。途中で引き返して、この日の宿泊先であるタヴィストックのそばの定宿に向かいました。いつものようにクリーム・ティーを頂きます。その定宿の部屋からの風景です。遠くには、聖マイケルライン上にあるブレント・トールが見えます。約12キロ離れた場所からでもこんなにはっきりと見えます。昔から測量山として利用されていたことがよくわかります。狼煙の丘として使われたという言い伝えが残っています。
2018.08.13
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この度発売された『Lシフト』(ナチュラルスピリット刊)で共著者の秋山氏が説明していますが、二本の立石には意味があります。二本のゲート(門)の柱という意味です。二本の柱は、対極のものを意味します。陰と陽、好きと嫌い、太陽と月、男と女、東洋と西洋、始まりと終わりーーそういった対極のものですね。秋山氏によると、好き嫌いとか異なるものへの恐れがあると、このゲートは見えないし、先に進むこともできないといいます。昨日の写真をもう一度見てみましょう。言われてみると、同じような立石でありながら、それぞれの立石はかなり違うことがわかりますね。秋山氏は言います。「大事なのは、対極のもの、つまり反対側を恐れないということです。実はそれがゲートの意味です。反対側を嫌わないと、一つだったゲートの柱が二本見えてきて、その間をくぐれるのです。反対側を恐れたり嫌ったりしているうちは、ゲートの柱の片方がわからないのです。すると、ゲートは見えません。だからスペース・ピープルは、最初は柱の一本しか見せないのです」そして、このゲートがくぐれるようになり、その向こうの世界に入ると、そこには絶対的な、理想の自分がいる一本の塔が立っているというのですね。それが二本の立石の間に見える丘の上の石塔(チーズリング)という図式で表現されているということです。つまり古代人は、秋山氏がスペース・ピープルから教えてもらった宇宙哲学を既に知っていた可能性が高いことがこの古代遺跡群の配置からわかるわけです。スイスのデニケン氏が古代文明には宇宙人が科学技術的に介入していたとして宇宙考古学という分野を開拓しましたが、ある意味それは正しいことがわかります。しかしながら、そうした表層的な面だけを見るのではなく、もっと深く、宇宙哲学的にスペース・ピープルが影響を与えようとしたと考えたほうがより正しいのではないかと思います。一本の立石(ロング・トム)だけでは、視界の悪いときに、理想の、絶対的な塔がどこにあるのかわからず道に迷ってしまいます。しかし二本の立石(ザ・パイパーズ)を理解していれば、視界がたとえ悪くなっても、大体どの辺に理想の、絶対的な塔があるかがわかるのではないでしょうか。そのことをザ・ハーラーズの古代遺跡群は教えてくれているように思いました。
2018.08.12
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リラトンの円墳のそばには、チーズリングという奇岩や「ザ・ハーラーズ」とも呼ばれる三つのストーンサークル、そして「ザ・パイパーズ」と呼ばれる二本の立石があります。その位置関係を端的に示したのが、こちらの地図です。私がグーグルの衛星写真を使って丁寧に場所を特定して作成したものです。この地図を使って、私はリラトンの円墳を見つけました。チーズリングが一番上にある青い丸点で、見えずらいと思いますが、その右下に3と書いてあるのが、リラトンの円墳です。さらにその右下の青い丸があり、英語で「heritage center」と書いてありますが、それが一昨日のブログで紹介したインフォメーション・センターのことです。この地図からわかるように、そのインフォメーション・センターとチーズリングを結んだ直線上にリラトンの円墳があったわけです。で、中央に2と書かれた場所がザ・パイパーズの立石がある場所で、その右のPがストーンサークルのある場所です。肝心なのは、この点Pが他の直線との交点となっていることですね。1のチーズリングと、今度写真でお見せしますがクオイトというドルメンを結んだ直線と、3のリラトンの円墳と4のロング・トムを結んだ直線の交点にストーンサークルがあります。しかも、3と4を結んだ直線はそのままザ・ハーラーズの三つのストーンサークルを射抜く直線になっているのです。そのPを拡大したのが次の図となります。黒い丸が三つのストーンサークルで、左にある黒い交点がパイパーズの立石です。三つのストーンサークルを射抜く斜めの線がロング・トムとリラトンの円墳の中心を結んだ直線です。で、こちらがそのロング・トムという立石です。別角度で(南南西の方角から)撮影したのがこちらの写真。立石左奥の地平線にポコッと膨らんだ丸い丘が見えていると思いますが、それがチーズリングのある丘です。その丘は二つの立石である「ザ・パイパーズ」の間から見える丘でもあります。その丘の上には次のチーズリングが鎮座しているわけですね。円いチーズを重ねたような奇岩です。この最後の写真二枚は、本日発売の『Lシフトーースペース・ピープルの全真相』の207ページに掲載されている写真と同じものです。ここにはどのような意味が隠されているのか、それを次に説明いたしましょう。(続く)
2018.08.11
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持参した地図を頼りにリラトンの円墳を探します。途中、黒い毛の羊に出くわします。まったく道も案内板もないところですから、まさに手探りで探し出すしかありません。このような荒野を自家製の地図を頼りに探すわけです。そしてようやく見つけました。よほど注意して歩かないと見逃してしまうような場所にありました。上の写真の丘がその円墳です。何の変哲もない丘に見えます。地元の人も気がつかないはずですね。こちらがその円墳の入り口。ちょっと回り込まないとわからないようになっていました。リラトンの円墳は青銅器時代の古墳です。1837年の発掘調査によって、ここから高さ9センチの「リラトンの金杯(gold cup)」が出土しました。紀元前1700年ごろに作られた金杯でないかと考えられています。この金杯は王室の所有物となり、しばらく英国王がカフスボタン入れとして使用していましたが、1936年になってようやくその価値が再評価され、大英博物館で展示されることになりました。この返り道。最初に道を尋ねた、犬の散歩をしている地元の女性に再会しました。無事見つけることができたことを報告すると、「今度私も見つけてみるわ」と話しておりました。
2018.08.10
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英国滞在11日目となる6月1日。この日は、英国の南西に向かって車を走らせます。シャーロック・ホームズの『パスカビル家の犬』で有名なダートムーア国立公園を越え、ボドミンムーアのハーラーズ・ストーンサークルを目指しました。ところが高速を降りた後、途中の小さな村で迷子になってしまいます。迂回したり道に迷ったりすると決まって目の前に現れるのが、不思議にも目立つ山です。ダート・ムーアにあるブレント・トール並みに目立つ山ですね。絶好の測量山です。ノッタ―・トールという岩山かもしれませんが、残念ながら山の名前はよくわかりませんでした。ちょっとだけ道に迷いましたが、ほどなくハーラーズ・ストーンサークルのあるミニオンズの村に到着しました。いつものようにミニオンズの喫茶店で紅茶と一緒にスコーンにクロテッド・クリ―ムを付けて食べる「クリーム・ティー」を頂こうと思ったのですが、お昼時で混んでいたので、今回は取材を優先することにしました。今回の取材の目的は「リラトンの円墳」の写真を撮ることです。ちょうど地元の人が犬の散歩で通りかかったので、どこにあるのか聞きます。ところが、地元の人でも「見たことがない」というのですね。インフォメーション・センターに行けば何かわかるかもしれないというので、そのセンターに立ち寄ることにしました。その前に私たちを出迎えてくれたのは、こちらの羊ちゃんです。ハート型に寄り添っています。もうラブラブですね。で、インフォメーション・センターはその羊たちの脇に立つビルでした。この建物の中に入ると・・・中は無人で、パネルや模型の展示場になっておりました。パネルでは、ミニオンズが銅の産出地として栄えた鉱山の歴史が説明されていました。しかし残念ながら、リラトンの円墳に関することは何も書かれていません。そこで、そんなこともあるかと思って自分で作った地図を頼りに、円墳を探しに行くことにします。果たして見つけることができるでしょうか。そんな私たちを心配して、羊が椅子の上からこちらを見ていますね。この子も番羊なのでしょうか(笑)。(続く)
2018.08.09
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さて、羊が寝ずの番ならぬ、寝ながら番をしているモノが一体何かという話でしたね。実はこれが、キリストの聖杯伝説とかかわってくる聖なる木の切り株です。イエスの遺体を引き取りに来た使徒として知られるアリマタヤのヨセフが西暦一世紀に、グラストンベリーに聖杯(十字架に架けられたキリストの血を入れたとされる杯)を持ってやってきたとき、グラストンベリー・トールがよく見えるウェアリアル(ウィラル)の丘に自分の杖を突き刺しました。すると、そこからサンザシの木が生えてきて、一年に二度、冬と春に花を咲かせたというんですね。このサンザシはグラストンベリー・ソーンと呼ばれ、毎年クリスマスには、花を咲かせた枝が歴代の王に送られたそうです。ジョゼフが植えたサンザシの木は「聖なるサンザシ」として、接(つ)ぎ木によって増やされ、キリスト教徒の信仰の対象となりました。ところが、ジョン・オーブリーが生きた、あの十七世紀のイングランド内戦のときに、サンザシの木は迷信の産物だとして切り倒されて、焼かれてしまったのだそうです。その残った切り株が今でもこうして、「聖なる木」として崇拝されているわけです。その「聖なるサンザシ」からは、グラストンベリー・トールが見えます。ここがグラストンベリー・トールの遥拝所でもあったことがよくわかりますね。このウェアリアルの丘の軸も、聖マイケル・ラインの軸と同じ方位角を持っています。面白い偶然の一致です。このあたりから雨が強く降り始めて来たので、急いで丘を下ります。この後グラストンベリー・トールにも登りたかったのですが、今回は断念します。この日は宿屋でゆっくり過ごしました。
2018.08.08
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聖エドモンドの丘に来ているうちにチェックインの時間になったので、宿泊先に向かいます。そこで手続きを済ませて、その宿泊先のすぐ裏手にあるウェアリオールの丘に登ることにしました。ここが入口です。この羊が放牧されている丘をひたすら登って行きます。振り返ると・・・グラストンベリーの町が遠くに見えます。さらに先を進むと、ウサギが現れて道案内。やがて着いたのは、この場所です。二頭の羊が番をしていますね。よっぽど大事なものに違いありません。テコでも動かないという感じで寝ています。この羊が守っているのは何なのか?それは次回のブログで説明いたしましょう。
2018.08.07
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これがニコラス・マン氏の書いた『グラストンベリー・トール』です。いい写真ですね。上から撮影すると、グラストンベリー・トールが七段の階段構造になっているのがよくわかります。「階段ピラミッド」あるいは「階段スフィンクス」と言えるような人工構造物であることは、ほぼ間違いないと思われます。で、マン氏が2005年12月21日の午前8時49分に聖エドモンドの丘のマウンドから撮影した写真がこちら。この年のイギリスの冬至は22日だったと思うので、冬至には一日早い日の出ですが、見事に斜面の麓から昇る太陽を捉えています。冬至の22日に撮影すれば、写真で言うともうちょっと右から太陽が昇るはずです。それをマン氏が説明したのが、こちらのイラストです。斜面の角度の沿って太陽が昇って行くんですね。さらにそれを紀元前3000年ごろに見えたであろう冬至の太陽の昇り方を示した図がこれです。日の出から大体30分で丘の頂上まで太陽は昇って行きます。その間、七段の階段構造によって、七回太陽が頭を出す仕組みになっていたのではないかとマン氏は言います。このマン氏の説が正しいとすると、なぜグラストンベリー・トールが七段の階段構造を持ち、斜面の角度が太陽の昇る角度と一致するのかが非常によく理解できるわけです。そのほかにもマン氏はこの冬至の日の出ラインが、先史時代の集落遺跡であるグラストンベリー湖村を通るだけでなく、先日ご紹介したキャドベリー城も貫く直線であると指摘しています。それを示したのが次の図です。私も正確に緯度経度から測る方位角でこの直線を調べてみましたが、まさにキャドベリー城を指し示す直線であったことが確認されました。これだけを見ても、古代ブリトン人がいかに測量・土木技術に優れていたかがわかるわけです。(続く)
2018.08.06
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スピ系の人たちの聖地グラストンベリーにやってきました。この町のゲストハウスがこの日の宿泊先ですが、チェックインには時間があったので、昼食をとった後、町中を散策することにしました。本当に古い建物ですよね。いかにも異次元世界への入り口のような・・・。この町には、スピ系の古本屋が集まっていて、いつも何冊か買って帰ることになります。買い物の後、再び車に乗って、ちょっと郊外の住宅地に向かいます。着いたのはこちら。聖エドモンドの丘のマウンドです。どうしてここに来たかと言うと、ニコラス・マン氏の書いたガイドブック『グラストンベリー・トール』によると、この丘のマウンドこそ、グラストンベリー・トールの古代拝殿跡であるというんですね。では、この丘のマウンドに登って、グラストンベリー・トールがどのように見えるか見てみましょう。ああ、見えますね、はっきりと。建物がなければもっとわかりやすいですが、間違いなくこの場所です。マン氏によると、冬至の日の朝、この場所からグラストンベリー・トールを見ると、太陽が左の斜面を登って山頂で輝く姿を拝むことができるのだそうです。当時の人々にとっては一大イベントであったことは間違いありません。グラストンベリー・トールの七段の階段は、まさにその太陽が斜面に顔を出すように計算して建造された構造物であったというマン氏の説には非常に説得力があります。次回は、このマン氏の説について、解説しましょう。(続く)
2018.08.05
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キャドベリー城の頂上付近はなだらかな傾斜の草原となっています。よく見ると、その草原は土手によって囲まれています。縁のところが盛り上がっているのがわかりますね。アーサー王の時代よりも古い鉄器時代のヒル・フォートです。もしここがアーサー王の宮殿があるカメロットだとしても、既にあった城塞を再利用したことになりますね。で、この原っぱの緩やかな傾斜地を登って行くと・・・頂上付近になにやら構造物があるのが見えてきました。それがこちら。近づいてみると、方位と、その方角に何があるかを示す案内板でした。この真正面が、グラストンベリーの方角(北西の方角)です。目を凝らして見ましたが、グラストンベリー・トールを確認することはできませんでした。ただし本当に晴れていれば、お互いに丘が見えるはずです。グラストンベリー・トールから見ると、ここは冬至の日の出ライン上にあります。南の方角を見ると・・・ここにも目立つ山がありました。山の名前はわかりませんが、グラストンベリー・トールのミニチュア版のように思われました。さあ、ここからそのグラストンベリーへと向かいます。わずか17キロほどの道のりです。
2018.08.04
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キャドベリー・カッスルの登山道に向かう途中、民家の屋根を見上げると、何と犬がキツネを追いかけています。もちろん屋根の飾りですが、なかなか面白いデザインです。こちらはキジ。こちらは登山道の入り口ですね。このゲートを越えて、ドンドン歩いていきます。森の巨木。その森を抜けると・・・広い原っぱのような場所に出ました。
2018.08.03
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ウィルトシャー州の最高峰ミルク・ヒルに登っているときに、面白い雲を撮影しました。手が太陽を捕まえようとしているように見えますね。そのミルク・ヒルの全景です。なだらかで頂上付近が平坦な山であることがよくわかりますね。ミルク・ヒルを後にして、次に向かったのは、この丘です。一見普通の丘に見えますが、よく見ると土塁が周囲に張り巡らされています。そう実は、キャドベリー・カッスルと呼ばれる丘で、かつては城塞として使われていました。麓の村に車を止めて、丘の頂上まで歩きます。カッスル・レインと書かれていますね。ここがキャドベリー城への入り口です。で、誰のお城かと言うと・・・伝説の王アーサーのお城ではないかとされているんですね。ということは、ここがアーサー王の宮廷があったという伝説の町カメロット?本当にアーサー王の宮廷があったのでしょうか。(続く)
2018.08.02
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