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厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと聖徳太子とつながることになったのは、11月のことでした。友人の娘さんが法隆寺で音楽を奉納することになり、奈良に向かったのは、11月17日でした。ちょうどその日東京で同窓会があったのですが、高校時代の国語の先生が私の著作に興味を持ってくださり、古代史の話になりました。その中で先生は、明治維新と大化改新はどこか似ている、聖徳太子の憲法17条の制定から始まる改革の動きは明治維新の動きと酷似しているのではないか、という話をされました。私はそれまで聖徳太子から大化改新までの歴史に特に興味があったわけではなかったのですが、このようにシンクロニシティが始まると、そうは言ってはいられなくなります。ほとんど予備知識なしの状態ですが、18日の法隆寺の音楽の奉納に立ち会い、夢殿や五重塔を見学したことは既に紹介した通りです。その法隆寺の音楽の奉納で浮かび上がってきたのは、蘇我氏と物部氏の壮絶な戦いの歴史でした。時代は聖徳太子の母親の用明天皇の時代です。物部守屋は仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼きました。その後、用明天皇の死後、穴穂部皇子を奉じて兵を挙げましたが、587年には蘇我馬子に滅ぼされています。事実上の天下を握った蘇我馬子は、馬子に反発する崇峻天皇を592年に暗殺するなど権勢をほしいままにします。その最中の607年に法隆寺は聖徳太子によって創建されたわけですが、法隆寺を創建した背景には、滅ぼした物部氏に対する鎮魂の意味もあったのではないかとされているんですね。確かに法隆寺が建造された場所を見ると、物部氏の祖神とされるニギハヤヒの君臨地です。鎮魂でなければ、大阪の四天王子とともに物部氏を封印したということになるのかもしれません。ただし歴史はここではおわりませんね。非常に複雑な様相を呈してきます。(続く)
2018.12.30
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日本海の荒波を見た後、前日閉館日で見学できなかった丹後古代の里資料館を訪れます。何鹿(いかるが)郡という地名があるのですね。聖徳太子と関係があることが想起されます。おそらくここが、スサノオと袂を分かったオオドシ(天火明・ニギハヤヒ)が最初に大船団を引き連れて降臨した地だったのではないでしょうか。竹内氏の口伝から推測すると、和平派のオオドシは、出雲・因幡を支配するオオナムジ(大国主)と、大和地方を支配するナガスネヒコの争いを仲介して、丹波と大和を含む近畿に大王国を建国しました。その子・天香山は、紀伊国に住む伯父・オオヤビコ(イタケル)の後を継ぎ、熊野・大和、それに紀伊半島と日向を結ぶ海上ルートを支配しました。オオドシの別の子であるオオヤマクイ(山末之大主神)は山城の国を統治、タケツノミとの関係を強め、河内・三島から葛城までを影響下に置いたのかもしれません。オオドシの別の子であるウマシマジは、大和地方を伯父(ナガスネヒコ)らと統治していた可能性があります。そこに広く台湾辺りから紀伊半島までの制海権を持つ海族・琉球族(オオワタツミ)が娘のタマヨリヒメを出雲族と日向族の王室の嫁に行かせることによって参入して、大倭連合が誕生したのではないかと私は見ています。ですから丹波というのは、大和王国を作った大本であるとも言えるわけですね。上の系図は、大和(大倭)王朝が建国された後、丹後国から竹野姫や日葉酢媛(ヒバスヒメ)といった皇后を輩出していることを示しています。それだけ丹後国は重要視されていたことの傍証となりますね。それゆえに、丹後国は避難地でもありました。聖徳太子の母親が蘇我氏と物部氏との争いが激しくなったときに一時的に避難して丹後国に来ていたと書かれています。法隆寺と丹後がこれでつながりましたね。鬼退治の話でも聖徳太子とのつながりがありました。この辺りに歴史にもう少し光を当ててみましょう。(続く)
2018.12.25
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宿泊したのは京丹後市久美浜町の旅館で、7年前に来たときもこの旅館に泊まりました。なにしろここのカニ尽くしの夕食には驚かされます。カニはズワイガニですが、山陰地方(日本海の丹後半島から島根県沖の日本海)で水揚げされるものは松葉ガニと呼ばれます。翌12月5日。その松葉ガニが採れる日本海を見に行きます。風の強い中、海岸へと続く道をしばらく歩くと、すぐに海が見えてきます。12月の日本海らしい風景です。ニギハヤヒが見た冬の日本海も、このような風景だったのでしょうね。(続く)
2018.12.23
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神明山古墳を見た後、近くにある「丹後古代の里資料館」に立ち寄る予定だったのですが、火曜日は定休日でした。案内板だけ撮影します。そこで予定を変更して、翌日再び資料館を訪問することにして、この日は道の駅で情報収集することにしました。そして道の駅で見つけたのは、こちらの本。丹後には大和政権によって歴史から抹殺された古代王国があったとする本で、共著者の方が道の駅の案内所にいたので話し込みます。結局、ニニギよりも先に天孫降臨したニギハヤヒの存在が邪魔だったわけですね。しかもスサノオの四男のオオドシが事実上の初代統一王ニギハヤヒでした。そこで系図からオオドシの痕跡を消し去り、天火明という名前にして日向族の系図に組み込んだというのが真相のように思われます。まあアマテラスの娘(イチキシマヒメ)と孫(高照光姫)と政略結婚していますから、婿養子になったとみれば、間違いではありませんね。この日の日程はこれで終了。カニを食べに宿泊先に向かいました。(続く)
2018.12.22
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竹野神社に参拝した後、すぐ隣にある神明山古墳を訪れることにしました。神社から古墳へは250メートルと書かれていますね。古墳はすぐに見つかりました。林の先には後円部の丘がありました。手前が前方部で、奥が後円部ですね。丘の上に到着。案内板もあります。丘の上の石碑。全長190メートル。網野銚子山古墳(京丹後市網野町網野)・蛭子山1号墳(与謝郡与謝野町加悦・明石)と合わせて「日本海三大古墳」と総称されているそうです。製造年代は四世紀末から五世紀はじめです。倭の五王の讃とか珍の時代(応神~反正天皇の時代)ですね。丘(後円部)の上からは日本海も見渡せます。中央奥に見えるのが立岩。麿子親王の鬼退治の岩と書かれています。また、用明天皇つながりです。これについても後日、お話しいたしましょう。(続く)
2018.12.21
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次に向かったのは、竹野神社です。竹野と書いて「たかの」と読ませます。綺麗に整備されていますね。とてもすがすがしい神社です。黄葉もたけなわ。門をくぐって神域へ。御祭神は竹野姫(たかのひめ)。丹波(旦波)の大県主ユゴリの娘で、第九代開化天皇の后となり、ヒコユムスミを生みました。そのヒコユムスミの子が大筒木垂根王(おおつつきのたりね)で、その子が、あの『竹取物語』のモデルになった加具夜姫です。このように竹野から始まって大筒木垂根、かぐや姫へと系図を進んで行くと、それだけで物語が生まれます。筒とは星のことです。夕筒と書けばそれは宵の明星・金星です。大筒は大きな星のことですから、UFOの母船が想起されますね。ですから、竹林(竹野)があったのでしょう。そこへ大きな星(大筒)が木から垂れるようにやって来た(木垂根)と読めます。そして、その大きな星(UFO)から生まれた(出てきた)のがかぐや姫というわけです。現実(歴史)の世界では、そのかぐや姫は第11代垂仁天皇と結婚し、ヲザベを生みました。いずれにしても、このころ丹波の国の女性が重要な地位を占めていたことがわかりますね。こちらは本殿ですね。ここからは写真撮影禁止となっています。(続く)
2018.12.20
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天橋立のそばでお昼に海鮮丼を食べた後、丹後郷土資料館へ足を運びます。途中、空を見上げると、「未知との遭遇」のような空になっていました。ほどなく郷土資料館に到着。丹後地方の古墳など古代遺跡分布図です。川沿いにドンドン勢力を広げていったことがわかりますね。スサノオと袂を分かったオオドシ(天火明)も、最初はこの付近を支配していったのかもしれませんね。珍しい土笛なども展示されておりました。(続く)
2018.12.19
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12月3日から6日にかけての丹後の旅についても記録しておきましょう。3日はひたすら車で京都へと走ります。足柄、浜名湖、岡崎、土山などで休憩を取って、京都市内の宿泊所に着いたのは夕方五時ごろでした。その日は骨董品屋さんで買い物。翌日は少し雨が降る中、丹後半島を目指しました。丹後の籠(この)神社。主祭神は天火明。正式名称は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ですから王の中の王という感じの神です。竹内氏の『帝皇日嗣』ではスサノオの息子オオドシのことであるとされています。私も同意見です。見事に隠しましたね。籠神社の奥宮である真名井神社へと向かいます。奥山はすっかり紅葉しておりました。真名井神社の鳥居のそばに民家には・・・スズメバチの巣の残骸が残っておりました。本殿へと続く道の途中で見つけたのが、先日紹介した紅葉です。そして真名井神社に到着。主祭神は豊受大神。山の名前は藤岡山(天香語山)と書いてあります。天香語山は天火明の息子の名前でもありますね。ここから神域。さらに奥へと進みます。奥の宮・真名井神社。一伝に元伊勢大元宮と言われているそうです。写真撮影ができるのはこの辺りまでです。7年前に来たときは、撮影可だったので、当時の写真が見つかれば、社殿奥のご神体岩を御紹介しましょう。さて、お参りを済ませて、車を止めた籠神社に戻ります。そのとき見えた天橋立と光のカーテン。なかなか幻想的でいい感じでした。(続く)
2018.12.18
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アマテラスとスサノオの政略結婚(誓約)によって生まれたとされる宗像三女神の末子タギツヒメはスセリビメのことではないかと考える私の説を裏付けるようなことが、実は『勘注系図』に記されています。その部分を書き出しましょう。オオナムジは多岐津姫(タギツヒメ)、亦の名、神屋多底姫(カムヤタテヒメ)を娶り、屋乎止女命(やおとめのみこと)、亦の名、高光日女命(たかてるひめのみこと)を生む。タギツヒメがカムヤタテヒメであったと明確に記されています。カムヤタテヒメは『古事記』では「神屋楯比賣」と書かれています。カムヤタテヒメとは、国譲りの際に海に隠れた出雲の事代主の母親ですね。つまり出雲族の正式な王位継承者のスセリビメのことであることは間違いありません。前日のブログでタギツヒメはアマテラスの娘ではないのではないかと書きました。スセリビメの母親はクシナダヒメではないかと思っていたからですが、確かにスサノオの末子とされるスセリビメの母親のことはどこにも書かれていません。もちろんアマテラスの系図にスセリビメを組み込んだ可能性もありますが、カムヤタテヒメがタギツヒメであるというのなら、むしろ本当にアマテラスとスサノオの子がスセリビメであるのかもしれませんね。また高光日女とは、高照光姫のことでまず間違いありません。タカテルヒメもタギツヒメの娘ですから。このような系図のからくりを読み解いていくと、すべての系図は宗像三女神につながっていることがわかってきます。長女タギリヒメはオオナムジと結婚して、後に「神(族)」を捨ててタケツノミとなるアジスキタカヒコネを生みます。後にスエツミミと「耳」に成るタケツノミは八咫烏のことで、イスズヒメの父親である可能性がありますから、完全に神武の大和政権誕生の最大功労者です。賀茂族の祖神(迦毛大御神)とされるわけですね。次女のイチキシマヒメ(アメチカルミズヒメ)はオオドシことニギハヤヒと結婚して、松尾の猛霊・丹塗り矢のオオヤマクイを生みます。オオヤマクイは形式上のイスズヒメの父親で、賀茂別雷神こと鴨王(天日方奇日方命)の実父でもあります。その鴨王は神武政権下においてはウマシマジとともに神武を補佐する側近(元祖大臣職)になったと『先代旧事本紀』に書かれています。鴨王と神武は兄弟のように親しかったのではないかと推測されます。上賀茂神社では同格で祀られるわけですね。そして三女のタギツヒメことスセリビメ。末子相続の出雲族の王位継承者であるタギツヒメはオオナムジと結婚して、事代主とタカテルヒメとタケミナカタを生みます。出雲の国譲りで事代主は海に隠れ、タケミナカタは諏訪の地に封印されますが、タカテルヒメはニギハヤヒと結婚して「大神」となり、大香山こと天香山を生みます。天香山はもしかしたら神武の父親ですから、まさに天香山いなければ神倭磐余彦火火出見尊(神武天皇の正式名称)の誕生はなかったわけです。おそらく元祖彦火火出見(ひこほほでみ)である山彦は天火明(ニギハヤヒノミコト)のことです。その子ウガヤフキアエズが天香山。彼もまた彦火火出見。その名称がその子神武にも引き継がれたということですね。まさかまったく関係ないはずだと思われる読者も多いでしょう。しかし、『先代旧事本紀』によると、ウガヤフキアエズには弟・武位起命(たけくらいおきのみこと)がいることをご存知でしょうか。この「位起」を「イタテ」と読み替えることができますよね。そうアメノイタテこと天村雲が天孫族の系図に組み込まれた「武位起命」である可能性が高いのです。そして天村雲から息子ウズヒコが生まれたように、武位起命からは息子シイネツヒコが生まれたと考えられています。ウズヒコとシイネツヒコは同一人物であることは、多くの研究家が認めていますね。つまり、ニギハヤヒ(天火明)の系図を天孫族の系図にすり替えたことをカモフラージュするために、あるいは善意で考えれば後世の人が気づくことができるように、天香山―イタテという縦の系図を横の系図に作り変え、それとなくそのヒントを隠しているのです。同様なことが誓約で生まれた五皇子の系図にも言えるわけです。縦の系図を横に並べ変え、横の系図を縦に置き換える--複雑怪奇な煙に巻きながらも、それを読み解くヒントを残していきます。竹内氏が口伝継承したという『帝皇日嗣』の系図がそのヒントを解くカギを握っていたというわけです。竹内氏の『帝皇日嗣』は非常に面白いと私が思う理由はそこにあります。これでこのシリーズは終わります。
2018.12.16
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このように日本最古の系図とされる「古代海部氏の系図」を読むと、かなり古代王たちの系図が読み解けてきます。ただ残念ながら「古代海部氏の系図」だけでは十分ではないんですね。というのも、同系図は天火明がニギハヤヒであるとしている点では『先代旧事本紀』同様に評価できるのですが、いかんせん『古事記』や『先代旧事本紀』と同様に天火明を天忍穂耳の息子にしてしまっています。竹内氏の『帝皇日嗣』によると、ニギハヤヒはスサノオの子のオオドシです。それを『古事記』等がオシホミミの子にしているのは、ニギハヤヒを天孫族(アマテラス)直系の娘、すなわち高照光姫(天道日女)やイチキシマヒメ(アメチカルミズヒメ)と結婚させて、婿養子にしたと解釈しているからにほかなりません。同様なことは『古事記』や『日本書紀』がオオナムジでやっていますね。本当はスサノオにとって娘スセリビメの婿養子なのに、スサノオ直系の六世孫であるかのように系図を装っています。アジスキタカヒコネをタケツノミに、大香山を天香山に変えたように、オオドシを天火明という名前にして日向族(天孫族)の系図に組み込んだだけなのです。婿養子を直系の系図に組み込むのは、非常に効果的な手法でもあるわけです。名前を変えて系図に組み込む手口は、ほかにも散見されます。竹内氏の『帝皇日嗣』によると、誓約で生まれたとされる五柱のアマテラスの男神は、オシホミミがアマテラスの戦死した夫で、他の四人はその子であるとのことでした。で、そのほかに私が特に怪しいと思っているのは、同じ誓約でもアマテラスとの政略結婚で生まれたとみられる宗像三女神の正体です。私には、一人はアマテラスとの子ではないように思われるんですね。おそらく末子タギツヒメは、スサノオの末子スセリビメではないでしょうか。次回はこの疑惑について解説しましょう。今日の写真は籠神社の奥宮である真名井神社。主祭神は豊受大神。食物を司る神なのですが、オオゲツヒメから類推される月の神、すなわちツクヨミ系の神なのかなということに今回の旅行で気づきました。真名井神社の案内板には「ここ真名井原は、天上においては日神(天照大御神)と月神(豊受大神)が密かに結ばれた契りを、尊くもこの地上において化現された霊跡である」と書かれておりました。(続く)
2018.12.15
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『勘注系図』の注目事項を一つ一つみていきましょう。私が考えている系図に近いです。・火明はオオナムチの娘・天道日女を娶り、天香語山が生まれる。火明は天火明。すなわちニギハヤヒ(大物主)ことオオドシのことですね。オオナムジの娘とされる天道日女には複数候補がいますが、一番可能性が高いのはタギツヒメから生まれた高照光姫(たかてるひめ)です。対抗はオオナムジとタギリヒメから生まれた高姫こと下照姫ですが、この二人の姫は同一人物である可能性もあります。ニギハヤヒと高照姫が結婚して生まれたのが、天香語山。天香山のことですね。『古事記』のオオドシの神裔では「大香山戸臣神」として登場する「大香山(オオカグヤマ)」と同一人物だとみられます。当然の帰結として、大香山の母とされる香用姫(かぐよひめ)と高照光姫、それに天道日女も同一人物ということになります。母からは「香」という名をもらったというわけです。すべて辻褄が合いますね。竹内氏の『帝皇日嗣』から推測すると、この天香山がもちかしたらクマノクスビであり、ウガヤフキアエズであり、神武の父なのかもしれません。そうだとしたら、なぜ高照光姫の正式名称が「高照光姫大神(たかてるひめのおおかみ)」と「大神」になっているかも納得できますね。さらに言えば、なぜ山幸彦が海幸彦を差し置いて、日向族の王になった(ならざるをえなくなった)のかという疑問の答えも見えてきたように思えます。日向族はこの段階で事実上、分裂状態になっていた可能性があります。イワナガヒメを返したニニギに対して言い放ったオオヤマツミの予言が的中したと見ることもできます。たとえば一つの可能性として、天火明がヒコホホデミと入れ替わったか、あるいは天火明を日向のホホデミ王朝に組み込まれたのかもしれません。・火明は佐手依姫を娶り、穂屋姫が生まれる。・佐手依姫の別名は市杵嶋姫(いちきしまひめ)、亦の名を息津嶋姫(おきつしまひめ)、亦の名を日子郎女(ひこいらつめ)という。穂屋姫の母・佐手依姫(さてよりひめ)は、実は宗像三女神の一人である市杵嶋姫であったと書かれています。市杵嶋姫の別名は狭依毘売(さよりびめ)ですから、佐手依姫という別名があったとしてもおかしくありませんね。ただし、穂屋姫の母親に関して私は異なる説を採っています。本当の母親はナガスネヒコの妹であるミカシキヤヒメであったのではないかと思うんですね。というのも、新潟の弥彦神社に行けばわかりますが、穂屋姫のことを熱穂屋姫(うましほやひめ)と呼んでいるからです。「うまし」が名前に付く神はほかにもいましたね。それがウマシマジです。ミカシキヤヒメとニギハヤヒの間に生まれた息子です。同じ母親から生まれたからウマシホヤヒメと名付けたのではないでしょうか。なぜ、それを隠したのか。それは何度も説明したように、ミカシキヤヒメはイツセを殺した「賤しき奴」であるナガスネヒコの妹だからです。・天香語山は異母妹の穂屋姫をめとり天村雲が生まれる。穂屋姫がミカシキヤヒメの娘なのか、イチキシマヒメの娘なのかは別にして、天香山と異母妹であることに変わりありませんね。この異母兄妹の結婚で生まれたのが、天村雲(あめのむらくも)、別名天五多手(あめのいたて)。『勘注系図』によると、天村雲とイカリヒメの間に生まれたのが、倭宿禰(やまとすくね)です。同系図には別名として、天御蔭命(あめのみかげのみこと)、天御蔭志楽別命(あめのみかげしからきわけのみこと)があるとされていますが、神武東征の際に水先案内をした「珍彦(うずひこ)」ではないかとみられています。(続く)
2018.12.14
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この度の丹後の旅では、古代丹波国の重要性を再認識するとともに、7年前の山陰地方の旅を思い出すことになりました。特に重要だったのは、七年前に購入にした『古代海部氏の系図<新版>』(学生社刊)を読み返したことです。「海部氏(あまべし)の系図」は、1960年代からその存在が知られるようになり、1976年に国宝に指定された、天橋立で知られる京都府宮津市に籠(この)神社という古い神社の宮司家に伝わる日本最古の系図です。9世紀の記された系図であるとみられています。具体的には『籠名神社祝部氏系圖』(こみょうじんしゃはふりべうじけいず)と『丹波國造海部直等氏本記』(たんばのくにのみやつこあまべあたえとううじほんき)の二つの系図があります。前者を略称『本系図』、後者を『勘注系図』と呼びます。ちなみに先日紹介したモミジの写真は籠神社から奥宮に移動する途中で撮影したものです。『本系図』は、かなり省略された系図です。始祖を天火明命(あめのほあかりのみこと)として、子と孫を飛ばして次に登場するのは三世孫倭宿禰(やまとのすくね)。そして三世孫以降は更に飛んで、次に登場するのは十八世孫建振熊命(たけふるくまのみこと)になっています。かなり大雑把ですね。朝廷の提出命令に従って作成された「表向きの系図」とされています。これに対して『勘注系図』は、「表向きの系図」で省略・削除された部分を補う情報が記されています。海部一族の歴史を系図として記録した物で、当主の他、兄弟等の名や、系譜上の人物に関わる伝承など、膨大な書き込みがあります。その成立には、代々にわたって系譜の追加や考証が行われ、『勘注系図』として今日に伝わる系図になったのは、『本系図』(859~877年)より後の仁和年中(885~889年)とされています。これを江戸時代の初め、海部勝千代という人が書写。現存する『勘注系図』はこの書写された物であるとのことです。『勘注系図』の末尾には「今ここに相傳(あいつたえ)以て最奥之秘記と為す。永世相承(あいうけたまわって)不可許他見(たけんゆるすべからず)」「海神の胎内に安鎭(やすめしずめ)もって極秘」と書かれています。「最奥之秘記」として門外不出の極秘系図として伝えられてきたわけですね。この『勘注系図』の中に、注目すべき記述があります。それが次の記述です。・火明はオオナムチの娘・天道日女を娶り、天香語山が生まれる。・火明は佐手依姫を娶り、穂屋姫が生まれる。・佐手依姫の別名は市杵嶋姫(いちきしまひめ)、亦の名を息津嶋姫(おきつしまひめ)、亦の名を日子郎女(ひこいらつめ)という。・天香語山は異母妹の穂屋姫をめとり天村雲が生まれる。次のブログではこの系図を解説しましょう。写真は籠神社です。(続く)
2018.12.13
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三人の事代主をめぐるもう一つの見方です。京都の松尾大社や賀茂社に行けばわかりますが、京都を守る神様が東と西に鎮座しているんですね。それが「西(松尾)の猛霊」であるオオヤマクイと、「東(賀茂)の厳神」、すなわちタケツノミと賀茂別雷神です。「厳神」というわけですから、「厳の事代主神」が類推されるでしょ。賀茂の神、すなわちタケツノミか賀茂別雷神が「厳の事代主神」である可能性が出てきます。その場合、「虚事代」とは今度はオオヤマクイのことになります。『日本書紀』では、あたかもオオナムジの子である「出雲の事代主」がイスズヒメの父親のように書かれていますが、ただのダミー(虚事代)です。実際はオオヤマクイが「事代主」であるかのように見せかけています。だから、「嘘」がつくわけです。この場合は「玉籖入彦」は上の「虚事代」を修飾します。ウソの事代主である、「櫛玉(ニギハヤヒ)」の血統のオオヤマクイという意味です。でもここには、複雑な親子関係も存在します。鴨王こと天日方奇日方、すなわち賀茂別雷神の父はオオヤマクイ(火雷神)で間違いないと思いますが、イスズヒメの父親はタケツノミである可能性があるからです。つまり最初、タマヨリヒメはオオヤマクイと結婚して鴨王を産みます。その後、タマヨリヒメはタケツノミと結婚してイスズヒメを産むというパターンがありえたということですね。実はこうした結婚は古代ではよくあります。たとえば開化天皇の正妃となったイカガシコメは、最初孝元天皇と結婚して彦太忍信(ひこふつおしのまこと)を産んだ後、今度は開化天皇と結婚して崇神天皇とミマツヒメを産んでいます。実際、神社の縁起のどこを読んでも、オオヤマクイは賀茂別雷神の父であることを示唆する記述はあっても、イスズヒメの父親は「事代主」であるとしか書かれていません。『古事記』においても、イスズヒメの母親であるセヤダタラヒメ(タマヨリヒメ)は最初、丹塗り矢と夫婦の契りを交わしますが、その後丹塗り矢が立派な男性に変(代)わって、丹塗り矢ではなくその男性と結婚して生まれたとなっています。丹塗り矢はオオヤマクイで、オオヤマクイに代わってタケツノミがタマヨリヒメと結婚したのであれば、辻褄が合う話になりますね。おそらくそのような物語・史実が、記紀神話や神社縁起の背景にあったのではないでしょうか。
2018.12.09
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「天事代」「虚事代」「厳之事代神」とはそれぞれ誰のことか――これにはいくつかの解釈が可能です。まず「天事代(あめにことしろ)」ですが、候補は国譲り神話の際に出てきたオオナムジ(大国主)の子の事代主です。事代主神は国譲りを迫られた際、不承不承に日向族(天族)に王統を譲渡、海中に隠れてしまいます。この“功績”によって、「天」の称号をもらったわけですね。あるいは、そのとき昇天したので、天にいる「事代主」なのかもしれません。その場合の「虚事代(そらにことしろ)」は、おそらくアジスキタカヒコネことタケツノミです。出雲の事代主とは異母兄弟ですね。同じオオナムジの子供ですから、急遽不在となった「事代主」の役職に仮(虚)に就任したのかもしれません。すると、この場合の「厳の事代主神」とはオオヤマクイになります。しかも、「厳之事代主神」の前に、「玉籖入彦」という名前が入っています。これが「厳之事代主神」を修飾するのだとしたら、「玉籖」から「櫛」や「玉」が連想されます。これを「櫛玉」と解釈すれば、まさにニギハヤヒの血統であることを示唆します。オオヤマクイはニギハヤヒの息子だから、まさに「櫛」と「玉」の血筋が入った本命となるわけです。『日本書紀』で神武の正妃となるイスズヒメの父親として登場する「事代主神」とは、おそらくオオヤマクイです。『日本書紀』では、イスズヒメの母親は「玉櫛媛」とされていますが、この玉櫛媛がタマヨリヒメで、その父とされる「三島溝杭耳」は、スエツミミことタケツノミということになります。また『古事記』において、オオモノヌシの化身である「丹塗り矢」とは「鳴り鏑の神」ことオオヤマクイということになります。つまり、『古事記』の「丹塗り矢」と『日本書紀』の「事代主」は同一人物となり、記紀の間に存在する矛盾が解消されるんですね。ここまでが一つの見方です。別の見方もありますので、それは次のブログでご紹介しましょう。(続く)追伸お蔭様で『Lシフト』が増刷となりました。ありがとうございました。明日はその姉妹編である『秋山眞人のスペース・ピープル交信全記録』が発売される予定です。今しがた、その本が届きました。編集当時はそれほど感じなかったのですが、秋山氏の「あとがきに代えて--一人のコンタクティーより」を読み返して、思わずホロリとしてしまいました。ここまでの道のりは長かったですね。私もホッとしています。是非何度か読み返して、秋山氏が体験した数奇な人生に思いを馳せていただければと思います。
2018.12.08
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12月3日~6日は京都の北・丹後半島を巡る旅に出ておりました。紅葉、とても綺麗でしたよ。その旅の話も追々いたしましょう。さて、三人の事代主の話でしたね。結論から言うと三人は次の通りです。オオナムジとスセリビメ(カムヤタテヒメ)の子である、いわゆる事代主(くしひこ)。オオナムジとタギリヒメの子であるタケツノミ(八咫烏、大スエツミ、アジスキタカヒコネ)。それに、ニギハヤヒとアメチカルミズヒメ(おそらくイチキシマヒメ)の子であるオオヤマクイ(丹塗り矢)。ただし、誰がどの事代主に対応するかは、いくつかの解釈が可能です。次回はその各論と根拠を説明いたしましょう。(続く)
2018.12.07
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三柱の事代主神(ことしろぬしのかみ)が登場するのは、『日本書紀』巻第九「神功皇后(じんぐうこうごう) 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」の中です。おそらく四世紀後半のことです。秦氏の祖先である弓月の君が来日する少し前の時代ですね。神功皇后の夫である仲哀天皇が神のお告げに従わなかったので急死。皇后はその理由を知ろうと武内宿禰を審神者(さにわ)とし、自ら祭主となり神懸かりします。最初、天照大御神が登場します。そのときの天照大御神の正式名称は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)です。この天疎向津媛は時々、瀬織津媛(セオリツヒメ)と同一神扱いされますが、私は別神であると思います。そのセオリツヒメの最有力候補は、オオドシと結婚したアメチカルミズヒメです。どちらも水の神っぽい名前でしょ。で、このアメチカルミズヒメこそ、ニギハヤヒと結婚したイチキシマヒメではないかと思っています。実際、籠神社では(天火明)ニギハヤヒとイチキシマヒメが夫婦であったとしています(同神社の宮司家である海部家系図による)。イチキシマヒメの系図は記紀では隠されていますが、その記紀の系図でイチキシマヒメに該当するのは「天」が付く、天道日女(アメノミチヒメ)か、天知迦流美豆姫(アメチカルミズヒメ)です。その二人であると仮定して消去法で解くと、アメチカルミズヒメがミホツヒメであり、イチキシマヒメであるということになります。どの名も水と関係する神であり、「ミホツ」と「セオリツ」という名の響きも似ていますよね。でもこの話をすると長くなるので、セオリツヒメの話はまた別の機会にいたしましょう。さて「天疎向津媛(天照大御神)」の後、神懸かりした神功皇后の前に現れたのが、事代主神なんですね。その神は次のように自分の素性を明かします。「天事代虚事代玉籖入彦厳之事代神(あめにことしろ そらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろのかみ)」このように事代主が少なくとも3人いると明かしている部分は、記紀ではここだけです。もっとも事代主の正式名称は、「八重事代主神」ですから、複数(八重)いたことが示唆されてはいます。では、ここで示唆されている「天事代」「虚事代」「厳之事代神」とはそれぞれ誰のことをいっているのでしょうか。しかも「玉籖入彦」とは何なのか。次回はこの謎を解き明かしていきましょう。(続く)
2018.12.02
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このようにスサノオ、アマテラスから崇神天皇までの日本建国史を見ていくと、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる「和を以て貴しとなす」が基本であったことがわかります。聖徳太子は、日本を含む古代史に精通していたのだと思います。おそらく「大いなる和合」が大和の意味です。最初は日向族(アマテラス)と出雲族(スサノオ)の和合(誓約・政略結婚)がありました。次に出雲族の古代イスラエル系(オオナムジ)と徐福系(ナガスネヒコ)、それに出雲族の和平派(ニギハヤヒ)が和睦。さらに日向族・出雲族のハイブリッド(神武)とオオナムジ系・ニギハヤヒ系(イスズヒメ)が合体して大和の統一王朝ができます。最後に開化・崇神天皇の時代にナガスネヒコ系が王朝に加わって、「大いなる和合」が完成します。その中で、徐福系の秦氏とオオナムジ系の賀茂氏が重要な役割を演じたことは疑いの余地はありませんね。徐福系と思われる秦氏には、ナガスネヒコ、ウマシマジ、ウマシホヤヒメ、アメノムラクモ、ウズヒコ、イチシノナガオチといった皇室(王室)の側近として活躍した人たちのほか、ウツシコメ、イカガシコメといった皇后もおり、そこからヤマトトトヒメやヒコフツオシノマコトと言った祭主・祭祀系を輩出、その血脈は現在の皇室や武内家などにも受け継がれています。オオナムジ系の賀茂氏には、出雲族と日向族をつなぐ働きをタケツノミ(八咫烏)が果たしたのをはじめ、神武の皇后のイスズヒメら建国当初から天皇家を支えてきた人たちがいます。その血脈は現在の皇室に、霊脈は陰陽道へと続いています。そこに遅れて参入したのが、弓月の君を祖とする秦氏です。彼らはシルクロード貿易に長けていましたから、日本の皇室にも富をもたらしましたね。このシリーズの最後に、賀茂氏とも深い関係のある「事代主」について考察して、筆を置きましょう。実は事代主には少なくとも三人いることが、『日本書紀』に書かれています。(続く)
2018.12.01
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