平成11年7月31日。
私は松山観光港へ降り立った。
急いで祖父母宅(現、私の家)へ戻り、足早に病院へ向かった。
病室へ入った瞬間言葉を失った。
綺麗だった母の面影を残しつつ、本当の病人となっていた。
母が寝込むところなど今まで見たことの無かった私は足が竦んだ。
「大丈夫?」なんてありきたりな言葉しか出てこなかった。
母の傍へ向かう私の顔は、たぶんかなり引きつっていたに違いない。
驚きとショックで涙がこぼれそうになるのを必死で我慢した。
それと同時に“明るく振舞わなければ”という使命感が出来た。
担当医・研修医・婦長が部屋を訪れた。
私は何より先に担当医の名札を見た。
「娘さんですか?」と担当医が言った。
淡々と今の母の現状を説明された。
部屋から出て行くとき「これから長いお付き合いになりそうですね」
と婦長が私に言った。
この婦長の言葉が後に私達の今後の運命のヒントになっていたなんて当時は知る由も無かった。
そしてこの日から私達の奮闘が始まった。
病院食なんて喉を通らない母。
素麺なら喉を通るかも。
毎日朝素麺を茹で、母の元へ通った。
ううん、母の病院へ行く前に祖父の病院へ寄り、そして母の元へ。
そして帰りにまた祖父の病院へ。
家に帰れば犬の散歩をさせご飯を食べ洗濯。
唯一の救いだったのが祖母がまだ元気で食事の支度をしていてくれたことだ。
自転車で全てあちこちする私をとても気遣い帽子を買いなさいと言った母。
炎天下の日も雨の日も風の日も、私の1日は看病で過ぎ去った。
“きっと良くなる!手術をすれば元気になる”と信じてやまなかった日々。
祖父はもう話す事は出来ない状態だったけど、毎日母の現状を私は祖父に話しかけていた。
祖父の病棟の婦長が母の様子を私によく聞いてきた。
「おじいちゃんの事はこちらに任せて大丈夫だから、あなたが体壊さないようにお母さんとしっかり看てあげて」と。
私からの報告で、婦長さんはもう気付いていたのだろう。
母が余命いくばくもないということを・・・
けれど必ず元気になると信じて疑いもしなかった私。
父が松山に来るということを拒んだ。
「手術の時には来なアカンけど、今はし~ちゃん☆一人で大丈夫」って。
本当にそう思っていた。
手術が近づいたある日、母の担当の看護婦さんが言った。
「手術の説明の時、お父さん来ないの?」
「え?私が聞きますけど。何なら叔母も同席させますけど」
「人数の問題じゃないのよね・・・」
??????本当にその時は??????だった。
この看護婦さんの一言でも、母の病状が思わしくないと気付かせるものだったのにと後々後悔した。
結局、手術前の説明は私と母本人とで受けた。
「良性のものであれば手術は2~3時間。2週間で退院。悪性であれば6時間以上。その後化学治療となります」
「2週間で退院出来るんやって」と私達は喜んだ。
悪性なんてことあるわけないと素直に良性だと信じた。
この時、先生は私達の反応をどう思って見ていたんだろう。。。
先生達はもう母が悪性で助かる見込みは無いに等しいと分かっていたはずだから。。。