ゆきあけのボヤキ

術後の意気込み


病室へ行くと色んな機械を付けられた母がベッドにいた。

泣いて腫れた顔を見られてはいけないと、私は濃い目の化粧をし帽子を深々と被っていた。

寝ている母の左手を取り俯いた。

ハッと気付くと横たわっている母の右手が私の頭を撫でていた。

「心配かけてごめんね・・・」

小さくかすれた声で母が言った。


今の時代、きっと告知はするだろう。

でもまだ母に知られてはいけない。癌だということを・・・


10日後、病理検査の結果が出た。

間違いなく悪性腫瘍、癌である。

母も薄々、いや、気付いていた。自分が進行癌であることを。

そして告知を受けた。

母は冷静だった。けれどその心の奥ではきっと絶望感に苛まれていたに違いない。

化学治療、いわゆる抗癌剤。

1ヶ月に一度、2種類6クール行うこととなった。

半年・・・・


父が松山にいる間、私は大阪へ帰った。

本屋へ行き、色んな本を買い漁った。

出来物の神様と言われる神社へお百度参りもしに行った。

神様同士が喧嘩するのではないかというくらい、あちこちの神社、お寺でお守りを買った。


買い漁った本の中で、とある病院長の同じく癌闘病日記に目がいった。

今思えば私の自己満足に過ぎなかったかもしれないけれど

その本を読んだ日を境に、私はスパルタ娘と化した。


導尿の管が取れてからは、わざと個室のトイレではなく遠い一般のトイレに連れてった。

まだフラフラ歩きの母を歩行器でゆっくりでもいいからと連れ出した。

傷口が痛むから止めてと言うのに、私は面白いことを連発して母を爆笑させた。

廊下でもどこでもいい。

私は色んな手段を使って母を部屋の外へ連れ出した。

「頑張ってますね」と研修医がいつも微笑ましく私達を見ていた。


“ガンを治す大辞典”という本の中で一つ目に付いたものがあった。

~姫マツタケ~

私はどうしてもそれを手に入れたく、2日間母を一人にさせ大阪へ帰った。

三重県の研究所まで行かなければならなかった。

父の心配をよそに、私は本を片手に一人電車に乗り込み三重県へと向かった。

駅からタクシーに乗り行き先を伝えた。

有名なのであろう。私が降りるとき運転手さんは「頑張りなさいよ!!」と励ましてくれた。

たくさんの、私と同じ思いをしているであろう人達がそこにはいた。

私は研究所の先生の言葉を熱心にメモした。

そして“姫マツタケ”1箱を手にし、大阪へ帰った。

研究所から駅へのタクシーに同乗した私より少し上ぐらいの女の人。

来月結婚式を控えている。お父さんがすい臓癌だという。

何としてでも、これを信じて飲ませて出席してもらいたいと。。

同じ境遇に立たされている私達に“同情”なんて簡単なものは無かった。

ただひたすら「絶対助けようね!」と手を取り駅で別れた。


翌日すぐに松山へ戻った。

個室にいるはずの母がいない。

慌てて部屋を探す私に「し~ちゃん☆こっちこっち」と母の声が聞こえた。

今日から一般病棟に移ったようだ。

一般病棟といっても2人部屋。

個室にいた時とはうって変わり、とても元気になっていた。

そう私には見えた。

そして今日の夜から一般食だという。

夕食が運ばれていた私達は笑った。

“カツカレー”

いくら何でも今日から普通食の母の胃袋にカツカレーは重たすぎるだろう。

結局私がカツカレーを食べ、母には下の食堂でうどんを買ってきた。


早速私は母に“姫マツタケ”を飲ませた。

粉末をお湯に溶かせて食間に飲む。

きのこ独特の何とも言えぬ臭いが部屋に充満した。

私は何故かこれを飲めば絶対助かると信じた。


腹水が溜まってやつれきっていた母を知る他の患者さんが私に声をかけてきた。

「良かったね~お母さん元気になって」

「はい・・・でもこれからが本当の治療なんです・・・」

と、ぼそぼそ言う私の言葉に、癌であるということ、抗癌剤をしなければならないという事が分かったのであろう。

「大丈夫!!頑張ろうね!頑張ってね!!」と力強く励ましてくれた。


抗癌剤投与を1週間後に控えた母に外泊の許可が出た。

とても嬉しそうだった。

いったん大阪に戻っていた父もまた松山に来た。

大阪の親戚も来た。

いつも綺麗な母。おしゃれな母。

化粧品と自分が選んだ洋服を私に持ってくるように言った。

看護婦さん、そして他の患者さんが驚くほど母は綺麗に変身した。

ふんっ、お母さんは今よりもっともっと綺麗なんです!!と私は心で思っいた。




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