ゆきあけのボヤキ

2度目の闘い


今回も私は母一人の看病ではなかった。

祖母が腰の手術の為入院していた。

術後数日は病院で寝泊りした。

祖父の時とは違い、祖母が入院している病院は、母の病院と全く別方向だった。

前回同様、午前中は車で祖母の病院へ。

いったん家に戻り車を置いて自転車で母の病院へ。

2月。。寒さで凍えそうだった。


母が入院したその週末は祖父の一周忌法要だった。

祖母を外泊させ連れて帰り、母も外泊の許可が出た。

1人寒い座敷で法事の準備をした。

ミニ祭壇を組み立てるのにかなりの時間がかかり夜中を過ぎてしまった。

朝、母を病院へ迎えにいくことになっていたので寝過ごしてはいけないとコタツで寝た。

寒い中の作業とコタツがいけなかったのだろう。

前の週も高熱を出していたのにもかかわらず、私はまた40度を超える熱を出した。

病院で点滴をしてもらった。

ウイルス性の風邪でなくとも、やはり抵抗力の弱った母には避けたい状況。

母は外泊を取り止め病院へ戻った。

“こんな時に熱が出るなんて!!!”自分を恨んだ。

もしこの時私が熱さえ出していなければ、父と母と家で団欒出来た。

そう、これが後にも先にも最後の団欒のチャンスだったのだ。

なのに私の熱のせいで・・・今でもこの事を思い出すと悔しくてたまらない。


祖父の法事中もずっと寝っぱなしだった。

何とか3日で復活し、父・母・私とで今後の治療の説明を受けた。

再発したということは前回の抗癌剤を今回しても駄目だ。

タキソテール・カルボプラチンの2種類で3クール後CT。

良ければ+3クールで終わり、ということだった。

また半年頑張ればいい!!皆そう思った。

しかし今回の抗癌剤は治験であった。

それでも母はやると言った。

私達は同意書に判を押さなければなかった。


2月14日より抗癌剤投与が始まった。

投与2日後ぐらいから副作用が出てきた。

前回と違う様子に母も私も戸惑った。

そして2週間後、白血球が2400まで減少した為、母は隔離された。

隔離といっても、今いる母の部屋に機材を置き、私達はマスク・消毒して入らなければならない。

母は部屋から一歩も外に出てはいけない状況になった。


「息が詰まる・・・」弱音を吐き出した。

せっかくショートにまで伸びた髪がまた抜け出した。

3日間、白血球上昇の注射をしたせいで数値は13000と上昇した。

そして何とか隔離は解除された。


3月5~7日の3日間、外泊の許可が出た。

白血球は6000強、エコーでも大丈夫。

安心して家へ帰った。

翌日は当時の私の得意のコース、愛媛県南予方面へドライブ。天気も良く最高の1日だった。

けれど翌日の朝、母の体調は最悪なことになっていた。

急いで病院へ連れて帰った。


3月6日。これが母と私の最後のドライブになろうとは・・・

これが母にとって最後の外の空気になろうとは・・・


その後、母が外出出来る事は一度もなかった。



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