3月12日早朝 「なるべく早く病院に来て欲しい」と看護婦さんから連絡が入った。
腹水が溜まり始めた。。。
母は一昨年の手術前と同じ状況になっていた。
翌日腹水を抜いてもらう事となった。
久しぶりに見た腹水。母のお腹に太く大きな針が刺さりビーカーへと流れ出る。
3500cc抜いた。
私はこの頃から転院を考えていた。
いや、再発が分かった時から色んな病院、そして治療方法を調べていた。
私は医者じゃない。看護婦でもない。素人だ。
でも私は母の娘だ。何としてでも助けたい。
3月14日。前回より少し量を減らして抗癌剤が投与された。
母が再発した頃、同じく闘病仲間であるWさんも再発した。
Wさんは国立、いわゆるガンセンターに転院した。
母がWさんの様子を見てきて欲しいと言った。
国立に転院したWさんを見舞ってビックした。
たくさんの管につながれていたけれど、決して弱音を吐くことなく
「お母さんにも、もう一度一緒に頑張ろうねって言ってて」と私に言付けた。
急いで母にこの言葉を伝えた。
3月17日 私は転院の話を母と研修医にした。
けれど母は「ここがいい」と言った。
とっても良くしてくれる看護婦さん達がここにはいて、ここでもう一度頑張りたい、と。
私は初めて激しく反論した。
しかしこの日、母の意志は変わることは無かった。
初めて反論し、母が病気になって初めて私は母の前で泣いた。
母は泣いている私を抱き寄せ「し~ちゃん☆の気持ちは良く分かってるから、有難う。お母さん頑張るから」と言った。
父は自営業の為、大阪と松山を行ったり来たりした。
この頃はもうほとんど松山にいることが多かった。。。
3月18日 またも腹水を2000cc抜いた。
この日から私は母の病院へ泊まる事となった。そうしたかった。
3月22日 腹水2700cc。
腹水が溜まるスピードがどんどん速くなってきていた。
私はあせった。腹水と病状の悪化が比例する事を知っていたから・・・
3月24日 芸予地震。
突然の出来事に、ベッドで横たわる母へタオルをかけ私が覆いかぶさった。
何故タオル・・・・意味無いし・・・(笑)
抗癌剤投与中でなくて良かった・・・と私は不幸中の幸いと思った。
私は毎日病院で寝泊りした。
夕方2時間だけ祖母と交代し、その間に家へ戻り洗濯・お風呂・犬の散歩を済ませた。
ゴムエプロンをして調子の良い日は母をお風呂に入れた。
腹水で膨れたお腹を見ては「カエルみたい・・」と母が呟く。
夜になると熱も出るようになった。
貧血の為、増血剤をも処方された。
もう母の体は薬漬けになり始めていた。
3月29日 またも腹水2800cc。
翌30日、胸のレントゲンを撮り胸水が溜まっていることが分かった。
K先生は私を呼んだ。
私はメモとペン、そして得意の本を片手にナースステーションへ入った。
K先生はどうして胸水・腹水が溜まるのかなどと色々説明してくれた。
ホワイトボードに図まで描いてくれ、私が納得いくまで説明してくれた。
私は食い入る様にK先生の話を聞きメモをとった。
母には胸水まで溜まりだした事は黙っていて欲しいとお願いした。
もう母の体は限界に近づいていたであろう。
吐き気・熱・便秘。抜いても抜いても溜まる腹水。
4月3日 吐き気止めの注射をし、解熱の坐薬を2回入れるが効かず。。
背中まで痛いと言う母は「お母さんはもうアカンと思う・・・」と泣いた。
涙を堪えながら私は「そんなことないよ。し~ちゃん☆結婚もしてないし子供もいてないのに、お母さん今おらんなったらどうすんのよ。
ばぁちゃんもおんねんで~」と笑い話をするかのように母の背中をさすりながら返事をした。
「そうやね。。し~ちゃん☆の子供が今いてたらお母さんこんなところで寝てる場合じゃないよね」と言った母。
この時ほど独身で子供がいなかった自分を責めたことは無い。
4月4日 CT検査。
いったん家に戻って病院へ行くと酸素吸入をしている母がいた。
寝れないという母に強力な睡眠剤が打たれた。
何分、いや何秒もしないうちに眠りについた母。
驚いて母の様子を伺う私に「大丈夫よ。し~ちゃん☆!!薬が効いただけやから。寝てるだけやから。
し~ちゃん☆。いつもお母さんの事一人で全て抱えずいつでも相談しておいで。電話しておいで。」 と看護婦さんが言った。
私はその言葉が嬉しかったのか安心出来たのか、スヤスヤ眠る母の横で涙を流しながら頷いた。
4月5日 大阪へ戻っていた父が来た。
担当医から父へ話があった。
かなり厳しい状況だと言われた・・・・
もって一ヶ月でしょう・・・・と。
テレビでしか見た事のなかった“死へのカウントダウン”を私達はされた。
この日は腹水を3000ccも抜き、それと同時に抗癌剤を局部投与した。
もう点滴で全身ではなく、癌の塊に直接いくようにと・・・
激しい吐き気と痛みに襲われた母は「もうラクにさせて~」と泣き叫んだ。
どうにか、どうにか母を少しでもラクにさせてやって欲しい。。
モルヒネが投与され始めた。
4月6日 父とガンセンターへ行った。
最後の最後の望みをかけて・・・・
けれどその思い虚しく希望は絶望へと変わった。
母に何て言おう。ガンセンターにお願いしてくるから待っててねと言って出てきたのに。。。
ガンセンターを出た私と父は頭が空っぽだった。
「電話をかけてくる」と言った父が戻ってきた目は赤く腫れていた。
「ガンセンターの先生もY先生(担当医)の治療が一番いいやって。
ここへきても同じ治療になるから、もう少し元気になって動けるようになったら転院しておいでやって」
と、私は母に嘘をついた。大嘘をついた。
本当は「もう手遅れです」と言われたから・・・
本で探した腹水に効くといわれる“タヒボ茶”が届いていた。
給油室で何時間もかけて煮出し、スポイドで母に飲ませた。
鵜こっけいの卵がいいと知り、毎日1個ずつ母に食べさせた。
駄目でもいいからとK先生に“丸山ワクチン”を打って欲しいと相談した。
果物なら口に入りやすいかと、すいか・びわ・メロン、たくさん買ってきた。
たかが口をゆすぐ為にだけでも海洋深層水を買ってきた。
それらは母の口にいったんは入るものの、数秒後には吐き出された。
もう何も喉を通らない。通っても戻ってくる。。
4月9日 個室へ移してもらった。
骨々しくなった母の肩の下に大きな針が刺さった。
もう口から栄養を摂れない母、静脈より栄養を入れるしかない。
腹水3600cc。
4月13日 腹水2700cc抜き、輸血が始まった。
毎日毎日、モルヒネの量も増えていった。効かなくなってきていた。
母の体中、管と薬でいっぱいだった。
4月16日 私は大阪へ向かった。
東京の日本医科大学付属病院へ丸山ワクチンを買いに行く為だ。
時間が決められており、松山からの飛行機では時間が合わないので、大阪から東京へ飛ぶことにした。
17日早朝友達が空港へ送ってくれ、一便で東京へと向かった。
9時半に病院へ着き、お昼1時半まで抗議があった。
丸山ワクチンを手にした私はそのまま東京から松山へ飛んだ。
そして23日より丸山ワクチンが投与されることになった。
腹水を抜いては輸血。それの繰り返しでもあった。
私は色んな物を買った、調べた。
ビタミン投与がいいと載っていればその病院に電話し、K先生にお願いした。
駄目だと言われ、経口から摂らせようと薬局でビタミン粉末を購入した。
免疫療法がいいと載っていれば、横浜や神戸の病院にも電話した。
もちろん松山のガンセンターにも電話した。
電話に出た看護婦さんなのか事務員さんに「何それ?」と鼻で笑われた。
愛媛県医科医師会にも電話した。
もう母を転院させる、動かせることは無理だと分かっていたけれど。。。
温熱器がいいと載っていれば購入した。
結局温熱器は1度しか使えぬまま押入れに封印されている。
4月28日 担当医より「ここ1~2週間でしょう。会わせたい人がいれば今のうちに会わせて下さい。」と宣告された。
すでに母にはもう話す力があまり残っていなかった。
4月29日 モルヒネのせいでついに幻覚症状に陥った。
「コーヒー牛乳が飲みたい」と言う母の為にコーヒーと牛乳を別で買ってきた。
いつもはブラックで飲んでいた母。
コーヒーが飲めない私がもたもたしていると「貸してごらん」と自分で作り始めた。
し~ちゃん☆は子供だからお母さんじゃないと出来ないね、みたいな母親らしい行動だった。
ビールなんて飲まない母が「ビール飲みたい」と言ったり「炭酸飲みたい」と言ったり、まるで子供のようだった。
鏡を見ながら「上等~最高~」と言った。
テレビの音楽に合わせて寝ながら踊っていた。
そんな母を父は優しくなだめ優しくあやし優しく撫でていた。
もう、母が母で無くなっていた。
それでもよかった。このまま生きてさえしてくれれば・・・
この日は大阪や奈良から母の友達が来ていたので、父が病院へ泊まり、私はその友達と家へ帰った。
父から夜電話があった。母が私を探しているという。
電話に母が出てきた。
「し~ちゃん☆どこにいてるの?」
「家やで。もう夜やから寝なあかんよ。明日朝から行くからね。」
「まだ眠たくない~」
「パパがいてるから大丈夫やね。」
「はぁ~い、分かった。明日来てね~ばいばい~」
母と娘の立場が逆転した会話だった。
私は眼鏡を病室に忘れていたので、取りに行こうか迷った。
結局行かなかった自分に今でも後悔が残る。
翌早朝、病室へ行くと昨日とは違った母がいた。
昨日はかなりのハイテンションだったが今日はおとなしい。
「お母さん、誰か分かる?」と聞いた。
「し~ちゃん☆」と壊れそうな声でそう言った。
ゆっくりベッドに座らせた母は一人で座る力が無く、立っている私の体にもたれた。
私はいつまでも母をこの手で包んだ。