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雪月花
自白
自白
目が慣れれば明るいからといって、あなたは電気を消した。人影。水音。心と過去の膿が、灰汁になってここに溶け出すことを願う。否、イメージする。もう目は慣れた。だからもう一度目を閉じる。暗闇から、ものの形が浮き上がる瞬間が欲しい。でも。一度慣れた目を塞いでも、瞼の裏にあるのはものの残像。暗闇は失われた。かといって光もない。「お前の光は、今、何処にある」。悲劇の王は何を願った。何を問うた。光、あれ。曰く光と。趙州は問うたか。
ぬるま湯の中で、解いた髪は海草のよう。うっとりと持ち上げた腕に、面で貼り付くのは、髪の重さか、湯の重さか。知らなくてもいいことがこの世には沢山ある。それはいつから本当なのだろう。全てを知りたいと思っていた。きっと今も変わらない。一度光を知った瞼から暗闇が失われたように、未知もまた失われた。存在を証明するのは簡単。
人が何かを求めるのは、求めれば手に入るからか。それとも求めても手に入らないからか。求める相手を考えて求めるのなら、それは計算だ。求める相手を考えずに何かを求めるようになれば、それは崩壊の合図だ。
浴槽に顔を沈めて、内側に耳を付ける。
思いのほか大きな音がする。
胎動。羊水。
昔は苦しくなかったのに。
そういうことか。
私は、寂しいのだ。
それも、物凄く。
そろそろ本当に、誰かを愛したいと思う。色々な人と出会ってきたけれど、結局私が愛したのは、ただのひとり。今でも、首を縦に振りさえすれば迎えてくれる人はいるけれど、そんなのは、もういらない。あの人を失ってから、その再現を求めては、何人かを身に心に受け入れてきた。だけど。違う。意外に一途なんだねと、自分をからかう気力もない。参ったね。
目の前にぶら下がった、心許ない糸。それにすがっていいのかどうか。途中で切れたりしないのか。それも、私をこのところ鬱々とさせている原因の一つだ。私はここ数年、自分で自分に判断をくだすことができない。それ以前は、できていた。正確にいうならば、何も知らなかったから、判断できる気になっていた。今は、知り過ぎてもいるし、知らなさ過ぎてもいる。もし誰かが私の立場だったら、などという仮定の意味は、耳かき一杯分も無い。私が私だからこそのこの状況で、私が私だからこそ今こうして迷っているのだ。「私」とはなんだ。弓の名手は弓を忘れた。私は、何も覚えられないまま、何も忘れられない。積もっていくのは感情。過ぎていくのは時間。まて。時間も積もるのか。それは感情か?果たして感情は積もるのか?
始まりに愛がなければ、全ては嘘なのだろうか。始まりから確信を持って、人は皆選んでいるのだろうか。愛しているから始めるのか。今度こそ愛せるかもしれないという願いしか持てない私に、何を始める資格もないというのか。もうその薄い願いさえ危ういというのに。私のしてきたことは、罪?だとしたら私は今までいくつの罪を犯してきたことになるのだろう。罪の数を手慰みに、湯の中の手の指で数える。だんだんと皮がふやけてきた。ふやけた皮膚独特の、でこぼこした、堅く厚ぼったい鈍さ。私の罪。私の罰。私への罰。誰からの?私に罰をくだす権利を持った人間など。
何を思い出したいわけでもない。何を忘れたいわけでもない。ただ過去に過去らしくあってほしい。それだけなのに。こんなところまで来てしまった。端から見ればいつもと同じ。目に留まる変化などない。それでも私は知っている。私には分かる。ああ、こんなところまで来てしまったんだ。大陸が動くみたいに。手も足もこんなに自由なのに、なぜ後戻りができないのだろうか。
脚で湯を掻くと、太ももがひんやりする。とろりと粘度を増したようなぬるま湯に、鋭い波頭は無い。何も尖らない。切れない。刺さらない。既に刻まれた指紋など無視してふやけていく皮膚の凹凸。
重たい垢と膿とに挟まれて、僅かに息づくこの自意識は、いつ迄持つのだろう。表皮は垢、中身は膿。その接線こそが私のego、そしてes。接線なんて本当は実存しない。ただの概念、イメージ、そして希望。希望の眼鏡で今日も町を見る。昨日も、一昨日も。そして突然外された。あの人の指先でぶらぶらしていた色眼鏡は湯に溶けて、私の垢をまた一塗り厚くする。
浴槽の栓は抜かれたまま。そして蛇口からは人肌のぬるま湯がとろとろと流れるまま。濃度も温度も一定に保たれたこの実験室のような浴槽で、私はいつから暮らしている?あの人はそこに立ったまま。待っている。私の、言葉を。
嘘がばれたのは、私がそれを嘘だと思っていなかったからだった。
あの人が、私を全く信じきっていたからだった。
あの人が、私を全く愛しきっていたからだった。
だから、彼は気付いてしまった。
気持ち悪いくらいの誠実さは、私を居心地悪くさせる。私は確かに愛されたいと言った。けれどそれは、自分からも同じくらいに愛せていたらという時の話。いつでもいいから愛されたいなんて、思ったこともない。私はあなたの上を歩く。あなたは私の上を歩く。私の愛は頼りないから、あなたの堅固な愛を踏めるけれど、私の愛は、あなたの足を支えきれなかった。ずぶずぶと沈み込むあなたの足。あなたは初めて戸惑う。これは、どうしたことか。私は、あなたと同じ、不思議そうな顔を作って困ってみせる。どうしたんだろう。それから丸一日、あなたは私を見つめながら考えた。瞬きもせずに。そして、ため息をついた。萎んでしまうくらいに。信じられないという風に私を見た。それから、私を、初めて、一度だけぶった。その後、あなたの耳は聞こえなくなった。
促されるがままに浴室へ向かい、私は浴槽に浸けられた。あなたは縁に突いた両肘を組んで顎を乗せて、まるで知らない生き物を見る目で私をずっと見ている。時々手で温度を確かめて、たまに私の頭をなでる。そして目で尋ねる。狂ったビー玉のように透明な目で。
何度叫んだだろう。愛している。愛している。愛している。愛している。その度にあなたは私の口が動くのを見つめていたね。もしも神がいるならこんな顔だろうと見まがうような微かな微笑を口元にたたえたまま。そして、少しだけ残念そうに眉を寄せて。あなたは、声を出すこともやめてしまった。音など無いあなたの視界にいる私。私の冷えた肩にぬるま湯をかけて、そしてまた私を眺め続ける。愛している。私はもう一度言う。目で尋ねてから、少し悲しそうに首を振るあなた。聞こえないんだ。顔はそう言っている。
あなたは、何を、待っているの。
これは、ゲームじゃなかったの。
数日が過ぎた。私は弱っていた。埒があかない。本当のことを声にした。ただ一言。
「私は、あなたを愛してなどいなかった。」
明らかに音に反応して、あなたは目をこちらに向けた。そして、満足そうに笑ってうなずいた。私の頭をいくぶん力強く撫でた。終われた。そう思った。彼は依然として言葉を口にしない。あなたは、満足げに優しく笑ったまま、私の頭を浴槽に沈めた。
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