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清く正しく美しく @ Re[1]:子育て爺[50]職業を意識させた事件?(01/08) fit463さんへ コメントをいただきまして、…
2006.08.16
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カテゴリ: 出産・子育て




考えてみますと、靖国神社に参拝できる人は、次の方々ではないだろうか。

一つは、戦争してでも日本(自分)の考え方を貫きたい人・・・、つまり、 戦争好き人間

もう一つは、原っぱに犬の糞がある。そのそばで、平気でおべんとうを食べられる人・・・、つまり、 無神経人間


もし、あの ヒットラー と一般戦死者とが合祀されている施設が、ドイツにあって、盛んにお参りがされているとしたら、現在の強力なドイツの軍隊に対して、心配のまなざしを向けるのではないでしょうか。「外国のことだから、関係ありません」と、考えられる人は、平和ボケな人と思われても仕方がないでしょう。


私には、戦争に対する PTSD があるのかもしれません。

おばあちゃん子の私が、おばあちゃんと生き別れになって、遊び友達もいなくて、寂しさに苦しんでいた。この3・4歳の頃、 お隣のお兄さん が、親しく話し相手になっていてくれた。

あるとき、お兄さんから、聞かれた。

「兵隊さんが行進をしている」「空の向こうから、敵の飛行機が飛んできた。」 「逃げなければならない」「どっちに、逃げたらいいかな」「自動車の下と、道の脇の草むらと」

私は、即座に、「車の下」と、答えた。

「飛行機は、車をねらって機銃掃射をしてくるんだよ」「それでも、車の下がいいのかな」

私「うん。車は鉄でできているから、こっちの方がいいよ」「草の上じゃ、飛行機から見えちゃうよ」

「わかった」「じゃ、そうするよ」

これが、お兄さんの、別れの言葉だった。私は、それを、理解していなかった。

「お兄ちゃんは、出征するんだよ」「聞いていないのかい」 母が、言った。

その後の、お兄さんの言葉は、「僕のお母さんが、遊んでくれるから。よろしくな」だった。

出征の日、お兄さんは、白い顔をしていて、別人のようだった。顔面蒼白というのだろうか。

たくさんの人の中で、短い挨拶をしていた。私とは、1回も、目を合わすことはなかった。

わたしは、泣きながら「行かないでよ~」と、大声で、叫んだ。

お兄さんのお母さんが、あわてて、奥に引っ込んだ。向こうで泣いていたのだろうか。

お兄さんは、微動だにしていなかった。

隣組のおじさん(組長さんかも)が、私の頭に、げんこつを食らわせた。

さらに、大きな声で、私は泣きじゃくった。

よそのおばさんが、日の丸の旗をくれて、「さあ、これを持って、送りましょう」

この合間に、聞こえていた言葉は、

「憲兵に報告する!」と言う、私にげんこつを食らわせた男のだみ声。

「子供なんだから」と、それをなだめる声が、二人か三人。


私が、泣きやんだときには、周りには、誰もいなかった。駅に向かって、皆で、送りに行ったのだった。

いつのまにか、夜になっていた。


その後、お隣に行っても、おばあちゃん(お兄さんのお母さん)は、私と眼を会わそうとしなくなった。

おじいちゃん(お兄さんのお父さん)は、私にお説教をするようになった。ポカリとげんこつを食らわせられることもあった。

お兄さんと私は、似ているところがあったのだろうか。後になって、そう、思うようになったけど、当時は、お隣は、もう、とてもじゃないけど、居心地が悪いところに思えたので、遊びに行かないようになっていた。


だいぶたってから、「お隣の、お兄ちゃん、戦死したんだって」と、母から聞かされた。

母は、私が大騒ぎすると思っていたらしい。

私は「ふうん」「どこで死んの」とだけ言う。

「輸送船が、沈没して、死んだの」

お兄ちゃんが帰ってきたら、遊べるんだ、という密かな楽しみが無くなって、「残念だな」と思う反面、私は、内心、ほっとしていた。

「お兄さんが、車の下で死んだとしたら、どうしよう」という、心配を持っていたから。


その後、母が、お隣から帰ってきたときに、ふと、聞いてみた。「戦死したお兄さんは、どこで、死んだの」

「お兄さんは、行軍中に、敵の機銃掃射で、死んだの」「トラックの下で」

私は、あわてて聞き返した。「船で、沈没して死んだんじゃないの?」

「違うのよ」「戦友が来て、詳しくお話しをしていったから、間違いはないわ」

「私がお兄さんを殺してしまったのかな」 私は、一人悩んでいた 。4歳頃のことだ。


その後、母から聞いた。 「戦死した遺族のうちにきて、ウソの話をして、ごちそうを食べていく人がいるんだって」

それからしばらくして、私は思い出した。あの、 車の下に逃げ込むという話は、 誰にも話していないと思っていたのだけれど、実は、 一人だけ、話した人がいた ことを。

知らない人が「この近所に、戦死をしたお兄さんがいるでしょ?」と、近づいてきたのでした。

そして、お隣の家の門の前に二人で座って、お兄さんのことを、いろいろと、お話しをしたのでした。

話し上手で聞き上手な、その知らない人と、楽しく話ができました。

話の内容は、覚えていませんが、たぶん、「僕は、逃げるのなら車の下がいいと言ったんだよ」なんてことも、私が話したことは、間違いありません。そして、その知らない人が、お隣に行って、「お兄さんの戦死の時の作り話」を、話したに、間違いありません。・・・というより、そうっだったと、思いたいのです。

私は、どこがどうと、自分の心を分析をした事はありません。

当時、お兄さんが戦死をしたことで、私は、大泣きをしたこともありません。

ですが、「戦争」と聞いただけでお兄さんのことを思い出します。


私は、ひょんな事から、長崎を訪れ、観光バスで 長崎原爆資料館 の館長さんと話をする機会を得ました。

私は、館長さんに質問をしました。

「なぜ、戦争反対ではなくて、原水爆反対なのですか」

館長さんは、かいつまんで説明をしてくれました。

ところが、そのときに、逆に、私は、質問をされたのです。

「なぜ、あなたは、戦争反対にこだわるんですか」「あなたの近親者に、戦争で亡くなった人がいるのですか」

わたしは、「いません」と、答えます。

さらに、館長さんは、質問を続けます。

「それでは、お住まいの近所の人で、戦死をした人はいるでしょう」と。

私は、内緒にしていた、あの、お兄さんのことを話しました。

涙があふれて、泣きながら、嗚咽しながらの、話になっていたのです。

「あなたは、トラウマになっている。もっと話をしていきなさい」「観光バスなんて、連絡をしておきますから大丈夫です」

そして「タクシー代を、こちらで負担してあげますから」とも、おっしゃってくださいました。

私は、それを堅く辞退をして、観光のグループを、夢中で追っかけていました。

20歳の頃でした。


私は、戦争が嫌いです。戦争責任者は、もっと、嫌いです。


「人生の初志」は、「最後に「楽しかったよ。ありがとう」と言えるような生活をする」ことにしました。


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ーつづくー






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最終更新日  2007.03.11 08:02:19
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