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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
dz14
よくこれだけのものを監訳しましたね。素晴らしいです。
多角的に大変濃密なやり取りが出来て皆さん凄かったと思います。それも東西文明を横断する清水さんの懐の深さの効果でしょうが(笑)
ティム・モードリン『物理学の哲学入門 空間と時間』先ほど読了。この本自体もその翻訳紹介も画期的な仕事。
参考 岩波文庫 田中美知太郎訳 「ソクラテス 従って、僕の感覚というものは僕にとっては真なのだ。なぜなら、それはいつでも僕にとっての有を感覚させるものなのだから。すなわち僕は、プロタゴラスの言う通り、僕にとってのあるもの、あらぬものの、あるということ、あらぬということの判別者なのだ。」
実存は風間くん問題にも把捉出来ない。それは特異性という一般者ではない。
特異性一般(特異性は特異性一般でしかあり得ない)は、風間くん問題つまり累進構造の圏内を永遠に循環する。
10272025
言語の問題は、言い換えれば哲学/形而上学の記述可能性問題(可能な記述表現と不可能な記述表現がある )
これは論理形式に典型的な「言語の問題」であり、その点を押さえないと深刻な誤解が生じる。
言語の問題は、言い換えれば哲学/形而上学の記述可能性問題(可能な記述表現と不可能な記述表現がある )
実存と言語の交錯点問題
量子状態AとBの「重ね合わせ」状態は、**「AでもBでもない」**と言えるのが適切な表現。Grokの回答だがこのレベルの基本的な問いへの回答には原則として間違いはないと判斷できる。
ナーガールジュナが決定的な形で(つまり古典的な四句分別の論理形式ではないものとして)リニューアルした第四レンマ「Aでも非Aでもない」
昨日千葉駅コンコース沿いの『PERIE MARCHE&GOHAN』にて。私の姉が撮った。
「量子状態AとBの重ね合わせ状態は、「AであれBであれどちらでもよい」でもない」
論理形式としての「AであれBであれどちらでも」は古典状態に対応する。
昨日の佐原カーザ・アルベラータのオーナーシェフ並木常吉氏のThreads投稿 「大阪万博に、発酵をテーマにした千葉県ブースが今日から4日間始まりました!香取市も出展してまして、当家に伝わるイカの糀漬けも香取市の発酵食品として出品されています!」
私も動画のラスト近くでこれ以上ないほど重要な(笑)コメントをしています。
佐原へは亡父母の墓参に。永澤家は父親の真の母親の家系で、亡き父親(非嫡子)は生まれてすぐ永澤家に託されて養育された。永澤家は佐原の酒造業や醤油醸造業を興したが、昨日アップしたリストランテカーザ・アルベラータは、伝統的に佐原に伝わる発酵技術と和食&イタリアンを融合している。
実在論的に「量子飛躍」は解決不可能なのは明らか。しかし「サイコロの事前知識を何も持たないアリスにとっての、サイコロの目の確率分布と、偶数の目であることは教えてもらったボブにとっての、サイコロの目の確率分布は、異なります」といったヘイズ量子主義によって解決不可能なのも明らか。
論点① 「「 波束」、つまり波動関数とは、物理的な実在波ではなく、物理量の確率分布で数学的に定義をされた情報の集まりに過ぎません。そしてこの情報とは、どの系の何に関する情報であると指定するだけではなく、「どの観測者にとっての」ということも指定しないと一意に定まらない概念です。たとえば、サイコロの事前知識を何も持たないアリスにとっての、サイコロの目の確率分布と、偶数の目であることは教えてもらったボブにとっての、サイコロの目の確率分布は、異なります。同じサイコロの目でも、観測者によって異なり得るのが、情報としての「確率」という概念なのです。」量子飛躍は物理学の未解決問題か?|Masahiro Hotta
「重ね合わせ状態は連続的に時刻tを変えれば、波動関数としては異なる連続的な状態を辿るのです。ただしt=+∞まで待たずに、ある時刻tで観測をすると、確率分布の収縮としての波束の収縮が起きて、離散的な下のエネルギー準位に非零の確率で粒子が見つかるのです。」
②「観測者がいつスピンのデータを読み出すかには、自由度があります。SG装置に観測者が始終張り付いて、じっとSG装置の結果を時間的に追い続けても、波束の収縮によって特定の図11のようなデータがもちろん得られます。しかし、各時刻のSG装置の結果を記録する量子記憶装置をN個用意して、実験が終わった後に、N個全部の記憶装置を一気に観測者が読みだしても、その時点で波束の収縮も全体系で一気に起こり、図11のような、特定の量子飛躍のグラフが得られます。)」
③「 ベル不等式の破れから、結局量子飛躍の途中の道筋を辿れる局所実在は全て否定をされるのです。それでも量子飛躍の途中の道筋に拘泥したいならば、非局所的な実在論を採用するしかありません。しかし、それも非常に不自然なシナリオしか残っていません。たとえば、人間や他の物理現象の相対論的な因果律には一切影響を与えずに、ベル不等式実験に使われる粒子だけには「超光速」の影響が出ると仮定をしたり、また宇宙の始まりから世界の運動は一意的に決まっていて、観測者には自由意志はなく、ちょうどベル不等式を破るように無意識に粒子の実験準備を毎回してしまうという「超決定論」を仮定したりするシナリオです。」
10262025
芳源マッシュルームと白トリュフの自家製ニョッキは日本随一 佐原 リストランテカーザ・アルベラータ
これほど構成要素と組み合わせが複雑で豊かだったものは無かった。金蜜芋と紫芋とトンカ豆のドルチェ
つい先ほど注文したが、これが二年前に漸く出たということは、ライプニッツについては殆ど何も知られていなかったに等しいということですね。ライプニッツ デカルト批判論集 (知泉学術叢書 26)
3I/ATLASの地球最接近予定日は2025年12月19日。この日地球から約2億7,000万kmの距離に接近すると予測。これは地球-金星間の最大距離にほぼ等しい。ただし3I/ATLASが地球外生命体関与操作物体ならこの予測通りにはならない可能性がある。
10252025
「「アリス自身にとっての、アリスの波動関数」という概念は、量子力学にそもそも存在していない」→クリプキが『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で提起した問題
「この理論では、観測者を構成するM個の量子ビットが、状態ベクトル空間で無数の基底に展開されるため、観測者には連続無限個の「意識」が同時に存在していることになります。これが「量子的多重人格者」という問題を指しています。」
「超越的存在などを想定しない限り、線形性だけでは「意識基底の選択問題」を解決できません。この点が多世界解釈の致命的な弱点です。」
「時空はつぶつぶで出来ている」時空の量子化または量子化されたものとして創発する時空(時空の幾何学的量子化)と『ティマイオス』のプラトン立体の途轍もない先見性 &ライプニッツの無限小の(プランク時空以下の)瞬間運動における異なる形相性への移行
「ここで量子力学の矛盾のない理解で重要となるのは、「この<私>にとっての、<私>の波動関数や状態ベクトル」は存在していないという点です。たとえば、マクロ量子系であるアリスという観測者の波動関数は、飽くまで外部の他の観測者に対して定義をされるものであって、「アリス自身にとっての、アリスの波動関数」という概念は、量子力学にそもそも存在していないのです。」 量子力学の<私>の視点から見たときの「気持ち悪さ」は、解消するのか?|Masahiro Hotta
これはまさに『風間くん問題』だね。「問題は、どの基底系で展開しても、意識があるとみなせる展開成分を抜き出し、それを再規格化する操作を行うと、どの基底系においても独立した意識が存在してしまう点です。この理論では、観測者を構成するM個の量子ビットが、状態ベクトル空間で無数の基底に展開されるため、観測者には連続無限個の「意識」が同時に存在していることになります。これが「量子的多重人格者」という問題を指しています。」永遠のトートロジーという宿命を負う、量子力学の多世界解釈理論|Masahiro Hotta
「特定の意識基底系を決定できないにもかかわらず、多世界解釈を支持するならば、いくつか不自然な仮定が必要になります。たとえば、宇宙の外に存在する超越的な存在が観測者の素粒子に特定の基底系を指定し、その基底で展開された状態の中から唯一の意識を選び出す、というような仮定です。このような超越的存在などを想定しない限り、線形性だけでは「意識基底の選択問題」を解決できません。この点が多世界解釈の致命的な弱点です。」
量子力学の多世界解釈の『風間くん問題』
かなり昔から予想されてきたハンドラの箱がそろそろ開く。「本来ならばAI同士は人間の使う言葉に縛られる必要はないはずだ、というテーマが議論されてきました。研究者らは、この先の超人的なAI同士の集合知を実現するためには、こうしたAI独自のコミュニケーション様式を確立する必要があるのではないかと考えています。」
このことの哲学的な破壊力に誰か気づいてるのかな? とんでもないことになってるよ(笑)
『テアイテトス』という偉大な作品については二年前に論考を書いている。さまざまな論点をアポリア提示として締めくくる力を持った例によって驚異的なプラトン作品で、このアポリアからアリストテレスが如何に能天気だったかが照射される。言語と実存のアポリアをソクラテスが語って現在にまで至る既存のあらゆる知識仮説をあらかじめ解体している。これも例によってその真意は殆ど埋もれてきた。
10242025
動画や著書だけでなく論文(「空」の数学的定式化)もあり面白いですよ。以前これについてツイートしました。 また彼は天台宗徒を公言してますが、著書を読むとむしろ空海ですね。
吾有時ですね。
昨夜届いたが、予想を遥かに超えるわかりやすさに驚愕。さすがブンゲン先生だ。米田の補題についても全体の締めとして詳しく導出している。 はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門 (ブルーバックス B 2313)加藤文元さんから直々にいいねとRT頂いたのは光栄の至りです。
永井氏の回答② 質問者が定義した「他者と共通して了解できるもの」としての「世界」のことを『世界』と書く」の「 『世界』は、自他の違いという現にある違いを説明することを省略しているようです。」 これは質問者の定義上も当然そうなるのだが、その『世界』がその言葉を使う人間にとって実感になってしまうのが「人間たち」つまり「私たちの世界」=『世界』のあり方である。
時空はつぶつぶで出来ている。そこに重力がどう関係しているのか。究極の謎
清水高志氏が言うライプニッツの無限小の運動と静止の接合の話とダイレクトに関係する(西田幾多郎の言うシュバンクングとも)。もちろん私自身の最重要探究テーマでもある。
10232025
このサイトには関孝和がライプニッツに10年先駆けて行列式を発見したとあります。これはかはり有名な事実ですが。関孝和とライプニッツはほぼ同時代人で人類の最先端数学を競っていたということですね。今ちょっと調べましたが、行列式に限らず関孝和の全ての業績がニュートンやヤコブ・ベルヌーイをも超えた人類最先端だったようです(100人以上早く現代数学に先駆けたものもある)。海外の人間にはまだまた知られていないようですが。弟子の建部弘もレオンハルト・オイラーをも15年先取りした業績があるようです。
理論物理学は、時空を不可欠とする限り、何らかの超越論的要請から逃れることはできない。つまり時空構造に関する要請
この要請(幾何学自体の超越論的条件)を探究するのがメタフィジックスである(自覚的にそれを遂行したのがプラトン以降はアリストテレス、デカルト、ライプニッツ、カント、大森荘蔵)。
10222025
ただし第六章「一般相対論」の特にブラックホール周辺の議論は既に目を通した。
「私」の「置き移し」や「他人」についての説明って、『カントの誤診1 』で意外にも一番難解な箇所(の一つ)かもしれないと感じる。これは本当に難しい(もしかして理解し得ない)ことを語っているなと思う。なぜならこれが分かれば何もかも分かるはずだ(が何もかも分かるとは思えない)から。
10212025
時間の合い間を縫って、ティム・モードリン『物理学の哲学入門Ⅰ 空間と時間』35頁ライプニッツ・クラーク論争の入口に漸く到達した。(全体をざっと概観はしているが。)この論争は永井哲学の独在性と入不二哲学の現実性が交差する地点に介入している。
単に理由の地平ではなく理由(究極の根拠)自体が(そこで無根拠に)生成する地平と書いたのは、〈そこ〉が世界の開闢点だからだが、そこからさらにその開闢をメタフィジカルに「料理する」ことができる。
ライプニッツが「数学からも独立した」形而上学の次元/場として哲学史上初めて剔抉した「現にそうでありそうであるほかない」(理由自体が生成する)地平
仰ることは『手天童子』なんかには(緻密に構成されていながらそうなのが興味深いですが)当てはまると思いますね。『デビルマン』にはどうかと思いますが。私にとって思い出深い(唯一無二の)永井豪作品を挙げるなら『キッカイくん』です(笑)
10202025
こちらが『中論』動画におけるリニューアルされた相互限定記号の導入場面
この動画のこの場面の直前あたりから観れば相互限定記号がこの場面のものにコメント付きでリニューアルされているのがわかる。
確かに、この「すでにして」を理解できる(瞬時に直観できる)かどうがすべての鍵ですね。メタフィジカルな次元/場の直観は、瞬時に生起するほかないと思われます(理論物理学者や数学者の直観を含めて)。その直観の生起は、私たちの通常の世界の時間の流れの「内部にのみ」存在するものではないので。
わざわざ「内部に」ではなく「内部にのみ」(存在するものではない)としたのが最重要ポイント。「内部に存在しない」と言ってしまうと躓くことになる。
この関係を清水氏はかねてから「⇄」で表記している。近々YouTube動画として公開される横浜講演のスライドでもキーポイントで使用。私の言葉では「界面/インターフェイス」の次元/場の働きになる。
足の指に石が当たって出血し激痛が走った瞬間「尽十方世界」――この私からあらゆる方向へと開かれる全宇宙――は「一顆明珠:一粒の明るい丸い玉」だと直観した玄沙師備(835-908)は、不世出の理論物理学者南部陽一郎の「転がりながらワインの瓶底へと落ち着く球体」の直観と同じメタフィジカルな次元/場に出会った。
通常彼に関して知られているエピソードは、足の指の出血と激痛で「体は存在しないのに、この痛みはどこから来るのか?」という問いが生起して悟ったというもの。さらに、「達磨大師は中国に来なかった。二祖慧可大師もインドに行かなかった。」という「なぜ諸方の師を訪ねて修行しないのか」という師の雪峰義存への応答。
10182025
小山信也氏の一般向けの素数についての解説は驚異的です。ABC予想・コラッツ予想・チェビシェフの偏りから深リーマン予想まで進んでいく凄さ。伝承された素朴な物語の様な比喩に到達してその「数の物語」を締めくくっています。
確かに、この「すでにして」を理解できる(瞬時に直観できる)かどうがすべての鍵ですね。メタフィジカルな次元/場の直観は、瞬時に生起するほかないと思われます(理論物理学者や数学者の直観を含めて)。その直観の生起は、私たちの通常の世界の時間の流れの「内部にのみ」存在するものではないので。
ネオ高等遊民さんも超難解さをかねてから言ってますが、アリストテレスの『形而上学』はどうしても容易には分かり得ない立派な(笑)理由があると思います。さらに言えば、通常のテキストまたはテキスト的な解釈が壁になっていると思われます。探すべきところとは全く違うところで探すことを誘導されてしまうという風に。
10152025
「(この思考実験が)できるともできないとも言えない」つまり「可能でも可能でなくもない」というのは、ナーガールジュナがリニューアルした第四レンマの形式の少なくとも一つに還元される。
すなわちこのリニューアルされた第四レンマ「八不」は、独在性の「矛盾」の運動の中枢に除去不可能な形で組み込まれている。
同じ日に私の『形而上学 この私が今ここにあること』の最終的な執筆作業が完了したのは、何かとても大きな力が働いていると感じる。
10142025
約三年前から観測しているが、この思考実験が「できるともできないとも言えない」という二重性は誰も語っていない。
新たに素晴らしい欄外の附記を二か所付加した。両箇所ともに、互いに対をなす「四つの類似概念のセット」を巡るもの。つまり「互いに類似する四つの概念のセット」が二つあり、これら二つのセットAとBはそれぞれの要素概念が逆機能的に対応している。A=「a,b,c,d」とA-1=「a-1,b-1,c-1,d-1」
「-1」は右肩にあるインバース記号 :インバース記号は元の関数(操作)と逆の操作を表す。逆機能の力/働き
X上でもそれ以外(著書など)でも哲学に強い執着を持つ(よい意味でだが)方々の殆どが「 死に対する非常に強い恐怖/タナトフォビア」をカミングアウトしているのはいったい何故なのだろう。
10122025
奇跡的なことに、仏陀入滅後長期にわたって聴覚主体の口伝でしたね。大乗になってからは集団的な歌と踊りによる身体的記憶が凄かったのではないでしょうか。一つ一つは短い聴覚塊でも長大にセリー化しているという形で。
「テトラレンマcatuṣkoṭi」は、リグ・ヴェーダ(Rigveda)のナサディヤ・スークタ(Nasadiya Sukta、10.129)にその原型が見いだされるようです。かなり古い起源ですね。
つまり私は永井均氏に反して無内包次元/場の最初の発見者は少なくともカント&ショーペンハウアーに遡り得ると言っていることになる。そのうえで、カントはそれを否認または隠蔽的に純粋理性批判から排除したというのが私の主張(という点で永井氏と重なる)
決して並列的には(ABCDのうち「〈ぼく〉だけが」というかたで)語れない(思考できない)はずなのに、既にこうして思考し語って(書いて)いる。言い換えれば、哲学書あるいは形而上学は「いかにして可能か」という問い。
ウィトゲンシュタインが最後までショーペンハウアーか切り開いた地平に留まったことは(その事自体は実に自然なのだが)幸いなことであった。
『論考』においてウィトゲンシュタインが語る「意志」は、ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』で語る「意志」である。ショーペンハウアーは20歳そこそこでこの「意志」を直観した。つまりウィトゲンシュタインの語る「意志」は、ショーペンハウアーを経由して彼が継承したカントの〈超越論的自由〉に行き着く。この「意志」は無内包の力/働きとして現実を創出する。すなわち、それはウィトゲンシュタインの語る(ゲームの内部では全く余計な)チェスの駒に被せられた冠に他ならない。
10112025
やはり先日述べましたように、入不二哲学の「Any-ness/任意性」と永井哲学の「累進構造」は対応するポジションにあると思います。あらゆる次元における「風間問題」の無限生成の構造-運動として。永井哲学の累進構造も始発点と不可分でなければ累進構造にはなり得ない(として始まり得ない)ので。
そういう意味では、『世界の独在論的存在構造』の方が、そういう意味で完璧に説明し尽くそうとして実際に完璧に説明し尽くしている様に見えますがなお密かな否認や隠蔽などが残る『純粋理性批判』より遥かに「わかりやすい」ことは間違いないと思います。もちろんこの密かな隠蔽や否認こそが独在論哲学で問われる(私自身も予てから問題にしている)最重要ポイントなわけですが。
10092025
時間の合間を間欠的に縫って、ようやく『数学ガール リーマン予想』を読了 シリーズの集大成に相応しい実に素晴らしい作品だ。リーマンはゲッティンゲン大学でディリクレの後任だったらしい。専門的なことは理解が難しいが、ディリクレは「ディリクレ境界条件」(開弦の端点がDブレーン上で固定される固定境界条件)のディリクレのソースで、超弦理論の先端部Dブレーン理論の起源でもある。つまりリーマンとDブレーン理論には深い繋がりがある。
いえこちらこそものすごく大助かりです。リーマン予想という人類の至宝の輪郭が、ここ迄クリアかつ重要な横断領域の殆どすべてとリンクする形で描き出されているのに驚きました。特にこれで初めて解析接続、関数等式、素数明示公式という骨組みが輪郭だけでもわかったのが凄いと思います。もちろん自力だけは無理でしばしばAIに詳しい計算過程とロジックを教えてもらいましたが(笑) いえこちらこそものすごく大助かりです。リーマン予想という人類の至宝の輪郭が、ここ迄クリアかつ重要な横断領域の殆どすべてとリンクする形で描き出されているのに驚きました。特にこれで初めて解析接続、関数等式、素数明示公式という骨組みが輪郭だけでもわかったのが凄いと思います。もちろん自力だけは無理でしばしばAIに詳しい計算過程とロジックを教えてもらいましたが(笑)
10062025
野村氏の「唯一の観測者」理論による無限の有限化によって多世界解釈が有限化(唯一世界化)され量子情報理論と接続可能になるという見方です。つまりその地平ではもはや両者は矛盾対立していないのではないかということです。
「「ヌル」としての唯一の主体である<この私>が世界を直覚しているだけだと諭し、そして記号として宙に浮かぶ様々な「私」を、ひとつひとつ救済していく物語である。」 ⇒「ヌル」とは〈空〉または〈空性〉と言い換えられる。
10052025
結局作業の最終段階で、院生時代以来(さらにその原型を遡れば卒論時以来の)のテーマである無限反復的な振動を孕んだ『瞬間における触発』のアポリアへと回帰することになった。つまりこの探究上の問題設定は、ここ数年に始まったことではなく、遥か昔から生き続けている笑)
寓意詩との関係というのはクリエイティブでたいへん興味が湧きますが、このアポリアは清水さんの言う『第四レンマの今』のアポリア――私の表現では無限反復的な振動を孕んだ『瞬間における触発』のアポリア――に最終的には行き着くと思います。そこにミシェル・セールが形而上学に最も接近する、あるいは極めて高い次元におけるセール的形而上学への通路が開けているのではないでしょうか。以上は清水さんの横浜講演での私のコメントの言い換えでもあります。
10012025
グレゴリー・チャイティンという著名な数学者(哲学者でもある)は、アラン・チューリングの計算可能性理論を進化させ、「チューリング完全な言語でのランダムなプログラムの停止確率を表す実数 」〈Ω〉を発見しました。〈Ω〉は〈非-計算可能〉な知り得ない数で、「数学の十分性原理(principle of sufficient reason)の崩壊」を示す例です。これは、計算可能な数では説明できない「計算不能な実数」の存在を示しています。
09262025
結論的に述べると、永井哲学における動的な循環構造化の運動として見た「累進構造」(当然そう見るべきだが)は、入不二哲学における「任意性」の運動に対応するポジションを占めている。
09252025
先にIdeiさんのコメントに関連して「任意の指差しによって到達不可能な特異性の目的地は特異性それ自体」「この特異性は現実性と言語の隔たりの運動それ自体なので現実性の力によっても減算/消去不可能」というテーゼが浮かびました。ここからさらに色々と考えられますが、「自ら以外のどこにも向かわない再帰性」としての再帰性からも逸脱する次元/場が焦点になると思います。
これはカントのアンチノミーにダイレクトに接続する問題でもありますね。第三アンチノミーだけではなく全てのアンチノミーに。
つまりその次元/場は、任意の「このこれ」すなわち任意の「現実性が作用した任意性」の場ではないということが決定的に枢要
任意の「このこれ」なら風間くん問題が発生してしまう。
つまり「このこれ」が転落した任意の「この私」にも風間くん問題が発生する。
この観点から見ると「再帰性」問題は永井哲学の「累進構造」問題になる。
ゼロ割についてはかつて書いたことがあるが、数学の操作の殆ど全ては「ゼロ0割」の回避にあると言えるな。つまり無限それ自体に直接対峙することの回避だ。
09212025
日本人哲学者の主要登場人物は道元、永井均、入不二基義、清水高志、大森荘蔵、清水将吾です。同様に枢要な位置を占めるのが、禅僧の澤木興道と物理学者の南部陽一郎です。南部陽一郎は哲学者としても最高の存在で、どの様な経路であの様な地平に到達したのか外部からはまったく理解できません
09202025
言い換えると「意」⇒「移」変換によって、入不二哲学全体を(それに対して対極的なポジションから見ると)より限定的/限局された方向へと「移行」させる効果がありますね。つまり「移」変換は入不二哲学の現状の/特定の方向性をさらに推し進める極限操作に相当します。(以上様々な重要論点を抽象して述べています。)
入不二哲学のAny-ness(任意性)の訳語による誤った連想をさせてしまう問題だが、いっそうのこと同音で「任移性」などのように新しい日本語の哲学用語として作っちゃば良いと思っている。「移」であればAny-nessの力としての働きや時間推移との関連性から「意」よりはAny-nessを少しは表現できるの→
「移」へのつまり「任移性」への変換が極限的な限局性をもたらすとは極めてパラドクシカルな事態だな。
Xで細かい議論をするつもりはないが、この移行は一種の最終的な踏み絵になるということ。簡単に言うと体系の最小限の二重性を完全に捨て去るかどうかの選択を迫る。
もちろんその立場で「移」への移行が入不二哲学と対極的な方向から見ると限局されたものになるというパラドクシカルな事態です。
ネタバレ的にはっきり言えば(笑)永井哲学の方向またはポジションから見て。または超越論哲学の極限化のポジションから見て。私自身はあえて両面性のポジションです。
現実性の力は定義上「現に出現している全てのもの/ことに現に副詞的に働いている力」なので当然そうなります。一見メタレベル的に見える言語行為を含めて。言語行為を含めて現に出現している全てのもの/こと自体の働きはそれとしてそのまま働くことには変わりはないとも言えます。
もちろんその立場で「移」への移行が入不二哲学と対極的な方向から見ると限局されたものになるというパラドクシカルな事態です。
ネタバレ的にはっきり言えば(笑)永井哲学の方向またはポジションから見て。または超越論哲学の極限化のポジションから見て。私自身はあえて両面性のポジションです。
言い換えると「意」⇒「移」変換によって、入不二哲学全体を(それに対して対極的なポジションから見ると)より限定的/限局された方向へと「移行」させる効果がありますね。つまり「移」変換は入不二哲学の現状の/特定の方向性をさらに推し進める極限操作に相当します。
「移」へのつまり「任移性」への変換が極限的な限局性をもたらすとは極めてパラドクシカルな事態だな。
Xで細かい議論をするつもりはないが、この移行は一種の最終的な踏み絵になるということ。簡単に言うと体系の最小限の二重性を完全に捨て去るかどうかの選択を迫る。
09192025
最先端物理学/量子重力理論の先端においても、「観測者の選択行為」が必須だというのは決定的なポイント。観測者は永続するということだ。「 ホログラフィ原理において、「空間無限遠方の境界領域」を「無限遠点=∞の近傍」と言い換える際、観測者による特定の座標系の選択が必須となります。」
09172025
苫米地英人も予てから言っているが、抽象化のコアは目標/ゴールである。ゴールが日常の地平線から離れれば離れるほど高度な抽象化になる。
09162025
私自身の記述記号では〈私/他人〉問題になる。
超越論的図式化機能による「人称カテゴリー」(および「時制カテゴリー」)の生成に先立つ、より基底的-根源的な次元/場の問題。哲学のみならず数学と物理学にとっても(仮にまたは自然に消去されるという形であっても)永続的に残存するであろう問題
09152025
メタフィジカルな事例として、永井均の哲学は、「我々の平板な世界」に矛盾が内在していることの「背理法による証明」を延々と続けていると言えます。
まさにこれをIdeiさんとテーマにしてやり取りしていたわけですが(内容は述べませんが)数学の決定的な定理証明の殆どは背理法ですね。そして極限操作ですがこの二つの根幹をメタ的に(つまりメタフィジカルに)あらためて問うことができないのはそれんやると現実の数学ができなくなるので自然ですよね。だからこそやる意味があるわけですが。
09122025
補足説明 既にアップした投稿などでも述べていますが、①永井哲学は受肉という唯一無二の事実を最初から説明不可能な絶対端緒にしている ②入不二哲学において論じられるであろう現実性と任意性の掛け合わせによる特異性(このこれ&特にこの私)の産出(から特定性)へといたる経路またはメカニズムによっても唯一無二の受肉の事実/特異点は説明不可能だと思われるということです。繰り返すなら、その不可能性は悪いことではなく、むしろ哲学/形而上学探究を生み出す〈永遠の原動力〉なのだということです。
これは私の予想ですがそれは別に悪いことではないと思いますね。先鋭な部類の仏教用語的に言えば「不可得」ですが。
09112025
はい。より正確に上記の入不二哲学解釈を言い換えれば、空集合という次元/場自体を成立または創出させるより基底的な次元/場として空性をポジションすると、それが任意性に極めて接近するということです。
09082025
「この問題を無視しておいて、哲学で他にやることがありうるとは信じられない」 確かにこの問題をスルーした「哲学」(科学ならともかく)は、そもそも何をやっているのか結局わからなくなるだろう。これを敢えて端折って言えば、「私/他人(他者)」の経験という事態の矛盾を孕んだ二重性と(その矛盾に対処する使命を課せられた)「時制」「人称」の同時生成への問いになる。科学ならともかくと言ったが、野村泰紀が取り組んでいる様な最先端物理学の問題にも深く関係する。(参考 野村泰紀『95%の宇宙』
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