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二律背反協力会議協力会議といふものができて民意を上通するといふ。かねて尊敬してゐた人が来て或夜国情の非をつぶさに語り、私に委員になれといふ。だしぬけを驚いてゐる世代でない。民意が上通できるなら、上通したいことは山ほどある。結局私は委員になつた。一旦まはりはじめると歯車全部はいやでも動く。一人一人の持つてきた民意は果して上通されるか。一種異様な重圧がかへつて上からのしかかる。協力会議は一方的な或る意志による機関となつた。会議場の五階から霊廟(モオゾレエ)のやうな議事堂が見えた。霊廟のやうな議事堂と書いた詩は赤く消されて新聞社からかへつてきた。会議の空気は窒息的で、私の中にゐる猛獣は官僚くささに中毒し、夜毎に曠野を望んで吼えた。
2019.08.31
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恐ろしい空虚母はとうに死んでゐた。東郷元帥と前後してまさかと思つた父も死んだ。智恵子の狂気はさかんになり、七年病んで智恵子が死んだ。私は精根をつかひ果し、がらんどうな月日の流の中に、死んだ智恵子をうつつに求めた。智恵子が私の支柱であり、智恵子が私のジャイロであつたことが死んでみるとはつきりした。智恵子の個体が消えてなくなり、智恵子が普遍の存在となつていつでもそこに居るにはゐるが、もう手でつかめず声もきかない。肉体こそ真である。私はひとりアトリヱにゐて、裏打のない唐紙のやうにいつ破れるか知れない気がした。いつでもからだのどこかにほろ穴があり、精神のバランスに無理があつた。私は斗酒なほ辞せずであるが、空虚をうづめる酒はない。妙にふらふら巷をあるき、乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、アメリカ屋のトンカツを発見したり、十銭の甘らつきようをかじつたり隠亡と遊んだりした。隠亡 火葬場で死者の遺体を荼毘に付し、墓地を守ることを業とした者を指す語。「おんぼ」という地域もある。Wiki。
2019.08.30
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蟄居美に生きる一人の女性の愛に清められて私はやつと自己を得た。言はうやうなき窮乏をつづけながら私はもう一度美の世界にとびこんだ。生来の離群性は私を個の鍛冶に専念せしめて、世情の葛藤にうとからしめた。政治も経済も社会運動そのものさへも、影のやうにしか見えなかつた。智恵子と私とただ二人で人に知られぬ生活を戦ひつつ都会のまんなかに蟄居した。二人で築いた夢のかずかずはみんな内の世界のものばかり。検討するのも内部生命蓄積するのも内部財宝。私は美の強い腕に誘導せられてひたすら彫刻の道に骨身を削づつた。
2019.08.28
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デカダン彫刻油画詩歌文章、やればやるほど臑をかじる。銅像運動もおことわり。学校教師もおことわり。縁談見合もおことわり。それぢやどうすればいいのさ。あの子にも困つたもんだと、親類中でさわいでゐますよ。鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら私はどこ吹く風かといふやうに酔つてゐる。酔つてゐるやうにのんでゐる。まつたく行くべきところが無い。デカダンと人は言つて興がるがこんな痛い良心の眼ざめを曾つて知らない。遅まきの青春がやつてきて私はますます深みに落ちる。意識しながらずり落ちる。カトリツクに縁があつたらきつとクルスにすがつてゐたらう。クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた。
2019.08.27
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反逆親不孝狭くるしい檻のやうに神戸が見えた。フジヤマは美しかつたが小さかつた。むやみに喜ぶ父と母とを前にして私は心であやまつた。あれほど親思ひといはれた奴の頭の中に今何があるかをごぞんじない。私が親不孝になることは人間の名に於て已むを得ない。私は一個の人間として生きやうとする。一切が人間をゆるさぬこの国では、それは反逆に外ならない。父や母のたのしく待つた家庭の夢はいちばん先に破れるだらう。どんなことになつてゆくか、自分にもわからない。良風美俗にはづれるだけは確である。 あんな顔して寝てるよ。母は私の枕もとで小さくささやく。かういふ恩愛を私はこれからどうしよう。☆「一切が人間をゆるさぬこの国」。パリから帰った光太郎は、この事を痛感するようになる。 しかし同時に、「あんな顔して寝てるよ 母は私の枕もとで小さくささやく かういふ恩愛を私はこれからどうしよう」とも思う。家族はゆりかごであり、桎梏でもある。
2019.08.26
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パリ私はパリで大人になつた。はじめて異性に触れたのもパリ。はじめて魂の解放を得たのもパリ。パリは珍しくもないやうな顔をして人類のどんな種属をもうけ入れる。思考のどんな系譜をも拒まない。美のどんな異質をも枯らさない。良も不良も新も旧も低いも高いも、凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。パリの魅力は人をつかむ。人はパリで息がつける。近代はパリで起こり、美はパリで醇熟し萌芽し、頭脳の新細胞はパリで生まれる。フランスがフランスを超えて存在するこの底無しの世界の都の一隅にゐて、私は時に国籍を忘れた。故郷は遠く小さくけちくさくうるさい田舎のやうだつた。私はパリではじめて彫刻を悟り詩の真実に開眼され、そこの庶民の一人一人に文化のいはれをみてとつた。悲しい思で是非もなく、比べやうもない落差を感じた。日本の事物国柄の一切をなつかしみながら否定した。
2019.08.25
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転調彫刻一途日本膨張悲劇の最初の飴、日露戦争に私は疎かつた。ただ旅順口の悲惨な話と日本海々戦の号外と、小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、そのくらゐが頭に残つた。私は二十歳をこえて研究科に居り、夜となく昼となく心を尽くして彫刻修業に夢中であつた。まつたく世間を知らぬ壷中の天地にただ彫刻の真がつかみたかつた。父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。職人以上のものが知りたかつた。まつくらなまはりの中で手さぐりに世界の彫刻をさがしあるいた。いつのことだか忘れたが、私と話すつもりで来た啄木も、彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずにすつかりあきらめて帰つていつた。日露戦争の勝敗よりもロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。註ロヂンとある。最初に読んだ時、「ロダン」ではないかと思った。明治43年{1910年)に発行された『白樺』の第8号は「ロダン号」と称され、ロダンの特集が組まれている。有島武郎、高村光太郎らが寄稿している。(Wiki)ゲーテが、「ギョエテ」「ガーテ」と記されたように、ここは、「ロダン」だと考えたい。「魯迅」ではないだろう。選集6の331ページには、「ロダン」と出ている。
2019.08.24
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楠公銅像まづ無事にすんだ。父はさういつたきりだつた。楠公銅像の木型を見せよといふ陛下の御言葉が伝へられて、美術学校は大騒ぎした。万端の支度をととのへて木型はほぐされ運搬され、二重橋内に組み立てられた。父はその主任である。陛下はつかつかと庭に出られ、木型のまはりをまはられた。かぶとの鍬形の剣の楔が一本、打ち忘れられてゐた為に、風のふくたび剣がゆれる。もしそれが落ちたら切腹と父は決心してゐたとあとできいた。茶の間の火鉢の前でなんとなく多きを語らなかつた父の顔に、安心の喜びばかりでない浮かないものがあつたのは、その九死一生の思が残つていたのだ。父は命をささげてゐるのだ。人知れず私は後で涙を流した。
2019.08.23
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建艦費日清戦争は終つても戦争意識はますますあがつた。次の戦争に備へるために軍艦を造る費用を捻出するのだ。陛下が一ばん先に大金を下され、官吏は向う幾年間か、俸給の一部かを差し引かれた。父はその事を夜の茶の間で母や私にくはしく話した。遼東還付とかいふことで天子さまがひどく御心配遊ばされると父はしんから心おそれた。だからこれから光も無駄をするな。いいか。註 「遼東還付」とは、日清戦争後に、仏、独、露の参加国の圧力によって償金と引き換えに遼東半島を 清に変換せざるを得なくなったことを言う。「三国干渉」とも。ロシアに対して敵意をかきたてる 意味で「臥薪嘗胆」という言葉が流行した。
2019.08.22
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御前彫刻父はいつになく緊張して仕事場をきれいにして印材を彫った。またたくまに彫り上げてみんなに見せ、子供の私にも見せてくれた。本桜の見ごとな印材のつまみに一刀彫の鹿が彫つてあつた。あした協会にお成りがあるので御前彫刻を仰せつかつたと父はいふ。その下稽古に彫つたのだ。父は風呂にはいつてからだを浄め、そのあした切火をきつて家を出た。天子さまに直々ごらんに入れるのだよ。もつたいないね。 どうか粗相のございませんように。母はさういつて仏壇を拝んだ。子供のわたしは日がくれてもまだ父が帰らないのでやきもきした。おかへりといふ車夫の声に私は玄関に飛んで出た。
2019.08.21
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日清戦争おぢいさんは拳固を二つこしらへて鼻のあたまに重ねてみせた。これさまにちげえねえ。原田重吉玄武門破りの話である。古峯が原のこれさまが夜でも昼でも往つたり来たり、みんな禁廷さまのおためだ。ありがてえな、光公。私はいつでも夜になると、そつと聞耳を立てて身ぶるひした。たしかに屋根の上の方に音がする。羽ばたきの音が。註。原田 重吉(はらだ じゅうきち)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。(Wiki)古峯神社御祭神の使者である天狗は災厄を除災するとして古くから信仰を集めており、別名「天狗の社」とも呼ばれ、境内では大小様々な天狗さまに逢うことが出来ます(Wiki) ここでは、天狗が天皇に統率された日本の将兵たちの活躍を支えていると大人たちは語り、子どもはそれを信じたのでしょうか。光公とは光太郎の事でしょう。 大人たちが何を語り、そして子供たちの心に何が刻まれていったか。
2019.08.20
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郡司大尉郡司大尉の報效義会のお話を受持の加藤先生が教室でされた。隅田川から出発した幾艘かのボートがつい先日金華山沖で難破した話である。ボートで千島の果までゆかうとするその悲壮な決行のなりゆきを加藤先生は泣いて話した。生徒もみんな泣いてきいた。下谷小学校の卒業生が遭難者の中に一人まじつてゐるといふことが下谷小学校の生徒を興奮させた。身を捧げるといふことのどんなに貴いことであるかを、先生はそのあとでこんこんと説いた。みんな胸をふくらませてそれをきいた。註 報效義会(ほうこうぎかい)。 郡司成忠は、1888年海軍大学校に入校したが北辺警備の観点から千島開拓の必要を感じ,93年海軍大尉で予備役に入り,報効義会を組織,同年3月20日35人がボートに分乗して東京を出発,19人は青森県鮫沖で死亡,16人がシュムシュ(占守)島などに上陸,越年中に10人が死亡,96年さらに60人余りの同志を募り,シュムシュ島付近の漁場の開拓に成功した。(Weblio百科事典)…
2019.08.19
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ちよんまげおぢいさんはちよんまげを切つた。-旧弊々々と二言目にはいやがるが、まげまで切りたかねえんだ、ほんたあ。床屋の勝の野郎がいふのを聞きやあ、文明開化のざんぎりになってしまへと、禁廷さまがおつしやるんだ。官員やおまはりなんぞに何をいはれたつてびくともしねえが、禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、おれもかぶとをぬいだ。公方さまは番頭で、禁廷さまは日本の総元締めだ。そのお声がかりだとすりや、なあ。いめえましいから、勝の野郎が大事さうに切つたまげなんぞおつぽりだしてけえつてきた。
2019.08.18
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『高村光太郎の戦後』中村稔 青土社 2019年6月 は、光太郎と、茂吉の両者の「戦後」を描いた作品で、茂吉の発言と短歌が数多く引用されています。さらに、光太郎については日記、手紙、詩が多数引用されています。以前から書名のみは知っていた「暗愚小伝」を読みたくなり、図書館から借り出しました。 散文かと思っていたのですが、詩の形でした。 数日間かけてご紹介したいと思っています。引用作品はすべて、『高村光太郎選集⑥』春秋社 です。 土下座誰かの背なかにおぶさつてゐた。上野の山は人で埋まり、そのあたまの上から私は見た。人払をしたまんなかの雪道に騎兵が二列に進んでくるのを。誰かは私をおぶつたまま、人波をこじあけて一番前へ無理に出た。私は下におろされた。みんな土下座をするのである。騎馬巡査の馬の蹄が、あたまの前で雪を蹴つた。箱馬車がいくつか通り、少しおいて、錦の御旗を立てた騎兵が見え、そのあとの馬車に人の姿が二人見えた。私の頭はその時、誰かの手につよく押さへつけられた。雪にぬれた砂利のにほひがした。-眼がつぶれるぞ-
2019.08.17
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