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GS現代社会 ①解説プリント まず最初に。なぜ「現代社会」を学ぶのか。 一年生GSの皆さん、初めまして、これから一年間「現代社会」を担当する〇〇といいます。「現代社会」は、授業時間数は年間でだいたい50数時間だと思いますが、現在のコロナ禍のもとで、休校が続いていますから、何時間授業ができるか、それは今のところ誰にも分りません。 そういうこともあって、授業は焦点を絞ろうと思っています。始業式の日に君たちの手元にわたっていると思うのですが、教科書P58から始まる「第二章 日本国憲法と民主政治」(P58からP99)だけを授業では扱おうと思っています。 憲法は、国の最高法規です。つまり、すべての法律の上にある法律です。つまり、憲法に違反する法律は認められないのです。 日常生活で私たちは特に憲法を意識して生活しているわけではありません。しかし、「憲法を物差しにして考える」ということはとても大切なことではないかと私は思っています。 「社会科」という科目は、高校では、「地歴・公民」という名称になります。この教科の特徴は、「はっきりとした「正解」があるかどうかわからない」という面を持っているというところです。幾何のように、一本補助線を引いたらホントにすっきり解ったり、代数でもちゃんと答えがあったりというわけではありません。ただ、大学へ進学して「理学部・数学科」に入学すると、「答えがあるのかないのかまだ証明されていない問題」に取り組むことになるんだそうです。 「社会科」が扱うのは「人間」です。「人間」は実に多様です。「十人十色」という言葉がありますが、人の考えること、行動は、時代によって、国によって、地域によって、性別、年齢などによって実に様々です。そのような多様な人間の社会では、たった一つの「正解」があるわけではありません。 数学や理科が大好きという君たちの中には、「正解がないってところが嫌だ」と思う人もいるかもしれません。しかし、何かの問題について「私はこう思う」という自分なりの意見を確立していくためには、「事実」を基礎にしながら考え、仮説を立て、推測を進めていく必要があります。 その時に、私たちが使うことができる「事実」、「材料」は何なのか? それは、私たちの先輩たちが残してくれた「思考の結果」です。おそらく、山ほどの失敗のあげくにやっとたどり着けた「思考の結果」でしょう。君たちが興味を持っている自然科学の世界は、「山ほどの失敗」の上に築かれているものです。たとえば、「天動説」とか。それは、「社会科学」の世界でも同じです。 さて、本題に入るまでに長々とお話をしてきましたが、「現代社会」、特に「憲法とは何なのか」を考えてみましょう。 では、教科書はP58、「最新図説・現社」(以下、「図説」と略します)のP96を開いてください。 「民主政治とは」とタイトルが出てきました。「民主政」という言葉は、英語では「democracy」です。これは、ギリシア語の「demos」つまり「民衆」の「kratia」、「支配」という言葉に由来しています。この「民主政」、「民主政治」という考え方はもともとはヨーロッパで練り上げられてきた考え方です。 世界の他の地域と同じように、ヨーロッパでもたった一人の王様が人々を支配するという政治が続いてきました。ここである疑問が出てきます。「なぜ王様は私たちを支配し、命令し、税金を取り立てるのだろうか?」 ※たとえば、中国では、「皇帝は天の命令を受けているから」という答えが、日本でも、「天皇は神様の子孫だから」であったり、「将軍は、天皇から、政治を行うようにと命じられた」という考え方(江戸時代)がありました。 その問いに対して王様はこう答えました。「私は、神様の命令によってお前たちを支配する権利を与えられているのだ」。つまり、「王様の権力」は、「神様から授けられたんだ」ということですから、短くして「王権神授説」。「説」というのは、王様に雇われている学者が「私はこう思う」と唱えた「考え方」という意味です。「図説」のP96では、フィルマーとかボシュエという名前が出てきます。 このように、「王の権力は絶対なのだ!」という考え方を「絶対主義」、「絶対王政」と呼びます。 この「説」に対して、「なるほど」と納得する人もいれば、「それってちょっとおかしいんじゃない?」と疑問を持つ人も出てきます。 「おかしい!!」と思う声は、社会の中で様々な役割を果たして人々の暮らしを支えている人たち、日用品を作ったり、流通させたりするような人たち、「市民」と呼ばれるような人たちの中からあがってきました。「私たちにも権利を!自由を!」という声です。「身分の違いで権利が異なるのもおかしい。人間は平等だ!」 イギリスでは1642年の「清教徒革命」(「イギリス革命」「ピューリタン革命」ともいいます)では、国王チャールズ一世がとらえられて処刑され、さらに1688年の「名誉革命」では、国王ジェームズ2世がフランスへと逃亡、市民を中心とする議会の力が強くなります。 1776年にはイギリスの植民地であったアメリカが「独立宣言」(これは、「世界史A」の教科書P84に載っていますから見てください)を発し、イギリス軍を打ち破って1783年に独立を達成します。 そして1789年に始まるフランス革命。「自由」「平等」「友愛」の三つの理想を掲げて始まった革命は多くの血を流し、ナポレオンに引き継がれます。 イギリス、アメリカ、フランスで起こった革命は、「自由で平等な存在である人間」による政治の実現を目指します。 その動きの中で、一つの疑問が生じます。 「私たちが生活している「国家」は、どのようにして生まれたのだろう?なぜ「国家」が必要になったんだろう?」 P58の下に、三人の人物がどんなことを考えたのかが整理してあります。 まずホッブズ。彼は、「もともと人間は自由で平等な存在である」という考え方から出発します。そして、「自由で平等な存在」である人間が、「とにかく私が生き残ればいい」と考え(「自己保存の欲求」)、「そのためには他人からものを奪ったり、殺してもいい」と考え、行動するようになると、殺し合いが始まります(「万人の万人に対する闘争」)。その結果何が起きるか?弱肉強食の恐ろしい社会になります。そんな結果を考えれば、だれもがそんな社会を望むはずがない。そこで人々は、個々人が持っていた「完全な自由」「完全な平等」をあきらめて、たった一人の支配者(「君主」)にそれを譲り渡して、自分たちを支配してもらう道を選んだに違いない。 結果としてこの考え方は、「絶対王政」を支持する結果を生みますが、「もともと人間は自由で平等な存在である」という出発点は、他の思想家に引き継がれます。 ホッブズと同じイギリスの思想家ロック。この人は、「人間はホッブズの言うような本能的に互いに殺し合いを選ぶような存在ではなくもう少し理性的だ」と考えます。もちろん、何の問題も起こらないと考えるのでなく、何か問題が起きる、紛争が起きることは十分に予想できるから、個々人は、自分の持っている「完全な自由」「完全な平等」に執着するのではなく、逆に「自由に」「平等に」暮らすために、みんなの代表者である政府にその一部を渡し、定められた法に従う(これは、「完全な自由」ではありませんね)という道を選ぶのだとロックは考えます。 では、そのようにして設立された政府が、国民の「自由」と「平等」を侵害するような行為を始めたら? ロックは、「そんな政府は取り換えればいい、そして国民の自由と平等を守るような政府を作ればいい」と主張します。これを、「抵抗権」、あるいは「革命権」と言います。 少し前にみてもらったアメリカの「独立宣言」。「どんな形の政府であっても、これらの目的(生命、自由そして幸福の追求)を破壊するものとなったら、その政府を改革し、廃止して・・新しい政府を設けることが人民の権利である」と書いてあります。もういちど、「世界史A」のP84を開けて確認してください。 さて、ルソーです。かれは、人間はもともとは孤立しているけれども、思いやりの情があり、完全に自由であり、自分が必要とする物は自分で作り出す能力を持っていると考えます。そして、個々の人々の利害を超えた「一般意志」に従うことによって真の意味での「自由」を獲得すると説いています。ルソーが考えているのは、何百万人、何億人といった構成員を持つ「国家」ではありません。ルソーは、フランス人のように紹介されていますが(それも正しいのですが)、出身はスイスです。P59の下の写真に載っている「直接民主制」のスイスなのです。ただ彼は身分違いの恋人たちの悲恋を描いた小説などによって時代に影響を与え、結果として「フランス革命の生みの親」という称号を奉られるようになったのです。 「絶対主義から民主政治へ」のところだけになってしまいましたが、これから後は、「学習プリント」と今回のような「解説」を郵送するか、市西のホームページに掲載することになると思います。
2020.06.01
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2020年世界史A 普通科 世界史Aとはどんな科目なのか 世界史Aという科目は、君たちが2~3年で選択する世界史Bの入門科目といった意味をもっています。週2時間、年間で約50時間という授業時数からいって、教科書のすべてのページを扱うことは不可能です。 ですから、さしあたり、教科書80ページの「第三章 ヨーロッパ・アメリカの工業化と国民形成」から授業に入ります。 まず、産業革命。ここでは、なぜイギリスで世界最初の産業革命が始まったのか、そして、現在私たちが生活している資本主義社会がどのように誕生し、資本主義を批判する思想としての社会主義がいかに誕生したのかを学びます。 そして、アメリカ独立革命。アメリカという国の正式名称は、「アメリカ合衆国」です。現在の世界の中で最も有力な国の一つがアメリカですが、その国は、いつ、どのようにして誕生し、どのような制度を持っているのか、それはなぜなのかをまなびます。 アメリカの独立に深く関係し、そのことから大きな影響を受けた国がフランスなのですが、P85からはフランス革命を学びます。君たちのお父さんやお母さんの世代ならご存じかもしれない『ベルサイユのばら』という池田理代子さんの名作漫画があります。宝塚の舞台でも何度か上演されました。興味がある人は読んでみてください。 なぜこの時期に革命が起こったのか、革命はどのように進み、どのような結末を迎えたのか、そして、革命の成果を定着させたのがナポレオン。P88に載っている「ナポレオンの戴冠式」は、彼の得意の絶頂かもしれませんが、彼の一生をたどることで何が見えてくるか。一緒に考えていきましょう。 一応、ここまでは必ず扱うことになると思いますが、P90以降は、担当者の間で考えたいと思っています。 授業を続けていく中で、「世界史」という言葉の意味が徐々に解ってくると思います。それまではある程度の広さをもった地域の結びつきがだんだんと密接になっていきます。例えば、「鎖国」という制度をとっていた日本は「開国」へと舵を切り、そののち、世界の各国、各地域と結びついていきます。列車、車、汽船、飛行機の発達は移動時間を短縮し、人々の往来は激しくなります。それは、移民という形であったり、難民という不幸な形をとったりしますが、それも「世界の一体化」の結果ということになるでしょう。 「世界の一体化」という現実を極めて不幸な形で私たちにおしえてくれているのが、「新型コロナウィルス」の「パンデミック」(世界的大流行)です。 さて、P80に帰ってみましょう。ここには、「国民形成」という言葉が出てきます。「国民」は、古くからあったものではありません。「国民」は、作り上げられたものなのです。では、だれが、どんな必要で作り上げようとしたのか。そしてその動きを人々はどのように受け入れたのか?こんなことも、考えてみましょう。 「歴史は暗記物」という意見があります。もちろん、覚えることは必要ですが、「なぜ?」という疑問を持つことはもっと大切です。 第三章 ヨーロッパ・アメリカの工業化と国民形成 P80 「産業革命」 ではまず、産業革命から入っていきましょう。 「産業革命」も、「歴史的事項」のひとつです。「歴史的事項」は、ある年、あるいはある時期に、ある地域、あるいは、ある国で起こったことを指します。つまり、「産業革命」とは、「イギリスで18世紀から19世紀にかけて起こった諸産業、交通、運輸、経済、社会にわたる大変革の事」と定義することができる。 つまり、フランスでも、中国でも、日本でもなくてイギリスで起きたわけです。当時、世界の中で科学・技術がもっとも発展していた地域は中国の清です。興味がある人は教科書p58~59、特にP59の挿絵「天工開物」、詳覧の114~115をみておいてください。一つだけ例を挙げておくと、「これが産業革命の始まり」とされているダービーによるコークスによる製鉄は1709年ですが、中国ではすでに1270年ごろにはコークスで製鉄を行っているのです。 しかしなぜか中国では産業革命は起きていない。そこで、整理しなければならないのは、「なぜイギリスで起きたのか」ということです。P80をみて、整理してみましょう。 ①豊富な資本 毛織物などの産業が成立していたこと。さらに、アフリカ西海岸からアメリカに黒人奴隷を運ぶ奴隷貿易によって莫大な富を獲得していたこと。 ②労働力 当時「ノーフォーク農法」と呼ばれる極めて効率のいい農法が取 入れられたこと(同一耕地でかぶ→大麦→クローバー→小麦を4年周期で輪作するもの)によって、農業資本家が地主から土地を借りて農業労働者を雇って大規模に農業をはじめ、小さな土地しかもっていなかった農民たちは土地を取り上げられて、生きていくために都市の工場で働く工場労働者にならざるを得なかったこと。 ③広大な海外市場 植民地戦争での勝利によって広大な植民地を獲得し、毛織 物などに代表される国内産業の製品を植民地に輸出し(海外市場)、また資源をえることができたこと。 そして資源(鉄鉱石、石炭)に恵まれた。さらに、自然科学、技術の進歩が新し い生産技術に結びつく、という点もあります。 ただ、ここまで見ても、なぜイギリスで産業革命が起きて、清で起きなかったのかという理由がある程度あきらかになっているのですが、もう少し考えてみましょう。 清とイギリスとの大きな違いは、清の皇帝とイギリスの国王が社会の中で占める地位にありました。 清は皇帝による独裁政治が行われていたのですが、イギリスでは、「市民」と呼ばれる人たちの力が強くなっていきました。 イギリスでは、1640年から60年にかけて「清教徒革命」(「イギリス革命」「ピューリタン革命」ともいいます)が起きて、国王チャールズ1世が処刑されています。その後、1688~89年にかけて「名誉革命」が起き、国王ジェームズ2世はフランスへ逃亡、その後も議会の力が強くなり、議会を足場とした市民たちの活躍の場が広がるということになります。 新しい産業が興り、新しい発明や発見が新しい生産技術に結びついていきます。このような政治体制の違いによって、中国ではなくイギリスで産業革命がおこるということになったのです。 さて、では、P80からP81に書いてある産業革命の具体的な内容に入っていきましょう。 P80の23行目には、「インドや中国などの物産がイギリス人の生活にかかせないものとなっていった」とありますが、一つが「お茶」、そしてもう一つがP81の2行目に書いてある「綿織物」です。P77を見てみると、美しい色の布が目に入ります。これは当時インドからイギリスに盛んに輸出されていた「キャラコ」(カリカットから輸出されていたので)と呼ばれる綿織物です。染めやすく、肌触りもいい綿織物はイギリス国民の人気を博します。 イギリスの伝統的な産業は毛織物ですから、綿織物が流行するのは困ったことなのです。政府は、いったん、「綿織物着用禁止令」を出しますが、効果がありません。ここから、「綿織物を国内で作ろう」という動きが始まります。 そのためにはイギリス国内では産出しない綿花を輸入する必要があります。 綿花の輸入先はアメリカの南部、そしてインドでした。 綿織物工業の最初の発明は、ジョン・ケイによる「飛び杼」でした。「世界史詳覧」(これからは「詳覧」と略します)のP190を見てもらうと、「飛び杼」の図が載っています。織物は、縦糸の間に横糸を通していくことで出来上がるのですが、横糸を効率的に通す発明が「飛び杼」(flyig shuttle)でした。 この発明によって布を織っていくスピードが速くなり、糸が足りなくなります。P81の上の表を見ると、1764年にハーグリーヴズの「多軸紡績機」(ジェニー紡績機)が発明されて、糸の生産が進みます。綿糸は、綿花の繊維をより合わせて作ってあります。興味がある人は、家にある包帯から一本糸を取り出して、反対にひねってみると何本かの繊維がより合わさって一本の糸になることがわかると思います。繊維、「繊」(「細い」「しなやか」)も「維」(「糸」)も両方とも「糸偏」です。 糸がある程度供給されるようになると、こんどは、1785年にカートライトの「力織機」(「power loom」の直訳)が登場します。手織りではない、自動織機です。 これらの機械は徐々に鉄で作られていきます。それに貢献したのが、1709年のダービーによる「コークスを利用した製鉄」です。「コークス」とは、「石炭を乾留(蒸し焼き)して炭素部分だけを残した燃料のこと」です。 さらに、機械を動かす動力も畜力から水力へ、さらに蒸気力に変わります。1712年にニューコメンが、炭坑の中から水を吸い上げるために蒸気機関を利用、さらに1769年にワットが改良、1807年にはアメリカ人のフルトンが蒸気船を作っています。ただ、この船は、両側に水車型の装置を備えて、それを回転させることによってすすむため、「外輪船」と呼ばれています。現在一般的になっているスクリューは、原理はかなり古くから知られていたようですが、実用化されるのは1840年あたりのイギリス海軍によってです。 そして、1825年にスティーヴンソンによって蒸気機関車が実用化されます。 1824年には、ストックトンとダーリントン間、40kmの営業運転を行い、さらに、1830年にはリバプールとマンチェスター間の営業が開始されました。P80のイギリスの地図で確認しておきましょう。「世界初の旅客鉄道」と書いてありますね。 「イギリスで18世紀から19世紀にかけて起こった諸産業、交通、運輸、経済、社会にわたる大変革の事」である産業革命は、社会をどのように変えたのでしょうか?P81「産業革命の影響とその波及」を見てみましょう。 P81では、①大工場を経営する資本家が台頭した。②経済活動を農業中心から工業中心へと転換させた。とまとめてあります。 P82を見ると、③資本主義社会が到来し、都市化が進むとともに、人々の生活や考え方も変化した、ということも付け加えねばなりません。 まず、この部分のキーワード、「資本主義」「資本主義社会」とは何なのでしょうか? 資本主義社会で生産の中心を担っているのは企業(会社)であり、その活動の目的は「商品」を生産し、利潤(もうけ)を得ることにあります。 生産に必要な資本(工場、土地、お金、原料などのことで、「生産手段」ともいう)を持っている資本家が、労働者(社員)から労働力を買う(賃金を支払う)という形で、賃金以上の価値のある商品を生産して利潤を上げることが可能になります。 新しい産業を興し、工場を作り、労働者を雇うためには「資本」が必要です。とりあえずはお金が必要となります。 「こんなことをやれば儲かるぞ!」というアイデアを持っている、でも、十分なお金がない、という場合に、そのアイデアに投資をする人が現れてきます。お金を集める手段として、「株式」を発行して、資金を集めるという方法が始まります。 製鉄のところで、ダービーという人を紹介しましたが、ダービーの孫が、セヴァーン川に全長60mの鉄の橋を架けたのは1781年で、必要な資金は、株式を発行するという方法で集めています。 これが、「株式会社」の始まりです。 さて、会社ができ、アイデアも実現しました。この会社の経営者(「資本家」)は、投資してくれた人に対して、「配当」という形でお金を返さねばなりません。そしてもっと事業を大きくしようと思えば、利益を挙げねばなりません。 どうやればいいか? まず、働いてくれている労働者の賃金をできるだけ安くして、できるだけ長時間働かせる。働いている場所の環境を改善するとお金が必要になりますから、ほったらかしにする。 P82には、向かい合わせになって地下へと降りていく二人の子供の絵が載っています。彼らは何をしに降りていくのか?縦に掘られている坑道の他に左側に三本の横に掘られている坑道が目に入ります。一番下の坑道で石炭を掘ったりそれを運んだりして働いているのは大人の労働者でしょう。でも、一本上の坑道を見てみましょう。本当に狭くて這っていかないと進めないような状態の坑道。ここで働いているのは子供たちです。大人が入ることのできない狭い坑道に入り込んで、石炭を掘り、運び出している様子が見て取れます。石炭を運ぶためのトロッコも見えます。 なぜ子供たちが働いているのか?賃金が大人より安くて済むからです。 女性も工場で働いていたと教科書7行目には書いてあります。自動的に動くようになった機械は、それまでの社会で主流であった「職人仕事」を必要としなくなりました。分野によっては、女性でも、あるいは女性ならではの手先の器用さが求められるようになりました。しかし、女性はその社会的地位の低さから、男性と同じような額の賃金をもらうことはできず、夫が失業し、妻が働きに出るという状態が多くみられるようになりました。 人々の恨みは、自分たちから仕事を奪った「機械」に集中、「ラダイト運動」と呼ばれる「機械打ちこわし運動」が各地で起こりますが、「工場で機械によって商品が生産される」という社会の動きは止められませんでした。 では一体どうすればいいのか?少し先になりますが、P92~93あたりで考えてみたいと思います。 さて、この時代に起こった変化の一つが、都市への人口集中でした。P82の上の表を見てもらえば、その極端さがわかると思います。1801年に7万5000人しか住んでいなかったマンチェスターは、わずか50年後の1851年には人口30万3000人の大都市になっています。ロンドンも人口は倍以上に増えています。P82の「都市環境の変化」のイラストを見てもらってもわかると思いますが、住むところは狭く、上下水道も整備が追い付かないために生活排水も、大小便も、ゴミもすべてロンドンを流れるテムズ川に捨てられて、まるでどぶ川のようになっていたそうですし、「漱石の見たロンドン」では、工場から吐き出される煤煙のひどさが記してあります。こんな状態のところでは疫病が蔓延するのは当然で、ロンドンは何度もペストやコレラに襲われています。 漱石が半分ノイローゼになってしまったロンドンでしたが、イギリスは産業革命を成功させ、良質で安い製品を大量に世界に輸出するようになり、「世界の工場」と呼ばれるようになり、各国は争ってイギリスに追いつこうとして自国でも産業革命を推し進めようとします。 イギリス発の「資本主義」はこのようにして世界に広がっていくことになります。 一方で、産業革命は、「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」というサイクルを生み出すようになり、当時の人たちが予想もしなかった「地球温暖化」という問題をも引き起こすことになりました。
2020.05.31
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☆4月、5月とコロナのおかげで休校になりました。ワタクシ、古稀ではあるのですが、何とか今の高校に勤務できるようになりました。で、下の方にも記しているのですが、学校のHPにこのようなプリントをアップして、生徒諸君の学習の助けになるようにとこの間、あれこれやってきました。 「日本史A」(幕末から)「世界史A」(産業革命から)「現代社会」(憲法)のプリントを見ていただいて、「あっ、こんなことやっとったなぁ」と高校時代を思い出していただければと思います。教科書も資料集もお手元にはないと思いますが、「授業をやっているスタイル」でプリントは作っていますので、お許しください。日本史A その一 4月から「日本史A」を担当します〇〇です。1年生の時に「世界史A」で付き合っていただいた人もいるかと思いますが、よろしくお願いします。 さて、日本全国コロナウィルスでえらいことになっており、高校も5月の連休明けまで休校という措置になっています(結局、5月いっぱい休校、6月に入っても1クラス40人を半分に分けて授業という変則的な形になりました)。ただ、その間、何もしないで過ごすというわけにはいきません。予習ができるプリントを配布したりという方法も並行してやっていこうと思っていますが、本来なら4月からやる予定であった講義をプリントしてみてもらおうと思っています。 日本史Aの教科書を見てもらうとわかりますように、ずいぶんと新しいところから始まっています。「日本史B」の教科書は、旧石器時代とか縄文時代といった大変に古いところから始まるのですが、Aは、いきなり、「ぺリー来航」から始まります。つまりは、1853(嘉永6)年、今から167年ほど。そしてそのわずか15年(君たちの年齢にとても近い)後に、1603年から続いてきた江戸幕府が倒れて明治時代が始まります。 ただ、「1853年にペリーが日本にやってきました」といっても、いくつか疑問がわいてきます。 なぜアメリカ人のペリーがやってきたのか?何のためにやってきたのか?それまでやってきた外国人はいなかったのか? よく、5W1Hと言います。Who(誰が) When(いつ) Where(どこで) What(何を) Why(なぜ) How(どのようにして)ですが、これは、歴史を学んでいくときにも大切な問いなのです。 このころになってきますと、世界の各地域、各国は、それまでの世界よりもずっと密接に結びつくようになっています。現在のコロナウィルスの伝染の状態を見ても、そのことは理解できることだと思うのですが、ペリー来航のころには世界は徐々に一つになり、長年鎖国を続けてきた日本もその中にいやおうなしに引きずり込まれる…ということになるのです。 さて、1853(嘉永6)年のペリー来航について考えるためには、少し時代をさかのぼらねばなりません。本当はいきなりP18から入りたいところですが、そうはいきません。 ではまず、P15を開けて、3行目から、12行目まで目を通してください。 まず、その中で、「イギリス」に関する部分、鉛筆でいいですから、アンダーラインを引いてください。 「イギリスで台頭する、つまり力をつけて自信を持ち始めた市民階級が、17世紀に市民革命を起こした」とあります。中学校で勉強したと思いますが、1840年から49年の「清教徒革命」(「ピューリタン革命」、「イギリス革命」)では、国王チャールズ1世が処刑されています。さらに、1688年から89年の名誉革命、ここでは国王が追放されています。その後、議会が実質的に政治を握るようになり、市民の活動力が十分に発揮される社会が作り上げられるのですが、それを背景として「イギリスでは18世紀後半から産業革命がおこり」ということになります。まず繊維産業(木綿工業)から始まった産業革命は、鉄工業、鉄で機械を製造する機械工業へと広がり、さらに機械を動かす動力として蒸気機関が発明、改良されます。蒸気機関は、蒸気機関車、蒸気船を生み出し、交通事情を大きく変えることになります。 では、イギリス以外の国はどうだったのか? 1776年にはアメリカでイギリスからの独立戦争が起こり、まず、大西洋岸の東部13州が独立を果たします。 大西洋の向こうのフランスでは1789年にフランス革命がおこり、さらにナポレオンの登場によって急速に市民が力を持つ「近代市民社会」へと変化し、イギリスと同じように「産業革命」が始まります。 機械で品物を製造することになると、商品としてそれを売らねばならなくなります。作られる量も多くなりますから、国内だけではなく海外にも市場を広げねばならなくなります。この時に、有利な立場を占めたのは世界最大の植民地を持っていたイギリスですが、他の国々も植民地の獲得に努め、市場と原料の供給地として利用しようとはかります。 このようにして成立するのが、「資本主義社会」です。 資本主義社会で生産の中心を担っているのは企業(会社)であり、その活動の目的は「商品」を生産し、利潤(もうけ)を得ることにあります。 生産に必要な資本(工場、土地、お金、原料などのことで、「生産手段」ともいう)を持っている資本家が、労働者(社員)から労働力を買う(賃金を支払う)という形で、賃金以上の価値のある商品を生産して利潤を上げることが可能になります。 さて、p18に入りましょう。 ここの見出しは「アヘン戦争」となっています。1840年に始まった清と(今の中国)とイギリスとの戦争です。 少し前から、イギリスではお茶(当時は「緑茶」、のちに「ウーロン茶」さらに「紅茶」)を飲む習慣が広がり、清から大量のお茶を輸入することになります。当然イギリスとしてはイギリス産の製品(例えば綿織物)を清に輸出して、輸出と輸入の金額の均衡を取ろうとするのですが、清国政府は、「うちの国には何でもあるからお前の国から商品を輸入する必要はない。一方、お前たちは「お茶を飲まないと死んでしまう」と聞いているので、哀れに思って茶を売ってやっているのだ」という回答で、イギリス製品の輸入には応じませんでした。結果としてイギリスの対清貿易は大幅な赤字となってしまいます。 そこでイギリスは、P18の4行目に書いてある「三角貿易」という方法を考え付きます。 清の茶をイギリスに送り、イギリス産の綿織物をインドに売りつけます。そして、インド産のアヘンを清に持ち込んだのです。 アヘンは当時イギリスでも禁止されていた麻薬でした。煙草に混ぜたりして吸引すると大変幸せな気持ちになるといわれていますが、中毒性があり、量はどんどん増えていきます。そのうち、中枢神経をやられて廃人になるのですが、激しい禁断症状が出てきたときに、なんとしてもアヘンを手に入れようとして金を盗んだり、人を殺したりという犯罪が多発するようになります。 そこで清の役人であった林則徐という人物がアヘンを摘発しようとするのですが、彼はまずイギリスの新聞を翻訳させて、イギリスでもアヘンが禁止されていることを知り、密輸商人が持っていたアヘンを没収し、廃棄します。 これに対して、商人たちは、「私有財産を没収された」とイギリス政府に訴えます。政府はこの訴えを取り上げるのですが、本当の理由は、戦争に訴えてでも清との貿易を行いたいということであったのです。戦争を始めるためには、「この戦争にはいくらかかるか」という「戦争予算」を議会で可決しなければなりません。当然のことながら、「この戦争は正しくない」と主張した議員もあったのですが、結局賛成271票、反対262票のわずかな差で可決され、戦争がはじまります。その様子は「新詳日本史」のP209の下のほうに載っている図を見てください。 清は敗北し、1842年にイギリスと「南京条約」を結びます。 その内容をまとめてみましょう。教科書P19の最初の6行です。 (1)香港の割譲。 (2)上海(シャンハイ)、寧波(ニンポー)、福州(フーチョウ)、厦門(アモイ)、 広州(コワンチョウ)の五港の開港。※つまり、貿易を始めるということ。 (3)賠償金の支払い。 さらに翌年、領事裁判権を認める不平等条約を結ぶこととなります。 さて、領事裁判権とは何でしょうか?「領事」とは、外交官のことを言います。 イギリス人が清国内で犯罪を犯した場合、その犯罪人は、清の法律で裁かれるのか、それともイギリスの法律で裁かれるのか?こたえは、イギリスの法律で、裁判を行うのは外交官である「領事」です。 「治外法権」という言葉があるのですが、その意味は、「ある国の領土に居ながらその国の法律・統治権の支配を受けない特権」ということになります。 今の日本で問題になっているのは、米軍基地の米兵が犯罪を犯した場合、日本の警察権、刑法が十分に適用されない点なのですが、この場合は、「全イギリス人」に「特権」として適用されていたということになります。 ☆実は、現代中国では、麻薬の取り締まりは大変に厳しく、死刑判決が出ることも多いのですが、その理由は、アヘン戦争以降、諸外国から大きな被害を受けるようになったという歴史的な背景があるのです。 また、この時イギリス領となった香港は、1997年の7月にイギリスから、中国に返還されました。社会主義体制を建前としている中国に、資本主義体制の香港が返還されたので、「一つの国の中に二つの経済制度が存在する」という意味の「一国二制度」が約束されたのですが、大きな問題が起きていることは(コロナウィルスの問題で報じられなくなりましたが)知っておいてください。 アジアの片隅で鎖国をしていた日本ですが、教科書P15の下の図を見ればわかるように、完全に国を鎖(とざ)していたわけではなく、いくつかの「窓」がありました。特に長崎の出島にあったオランダ商館の商館長が提出する「和蘭(おらんだ)風説書」と呼ばれる国際レポートのようなものは重要で、幕府はフランス革命やナポレオンのことも知っていたようです。 ところが、その「風説書」の中に、「清がイギリスに敗北した」ということが書いてあったのです。清と言えば、日本が属する東アジアの大国であり、まさかそんなことが起きるとは幕府は予想もしていなかったわけです。 なので、幕政の中心にいた老中水野忠邦は、P16の14行目に載っている「異国船打ち払い令」(なぜこの法令が出されたのかの背景は、教科書を読んでおいてください)を至急緩和する必要に迫られます。下手に砲撃したりして戦争になったらどうするかという判断があったのです。 結局、1842(天保13)年、「天保の薪水給与令」を出して、漂着した外国船には燃料の薪や水、食料を与えることにしています。 「与えること」です。「売りつける」のではありません。ここで、薪、水、食料を「売る」ということになると、それは実質的に「貿易をする」ということになり、教科書P15の下の図で示されている国以外の国と貿易をすれば、それは、長年続いてきた「鎖国体制」を自ら崩してしまうこととなるのです。 ここで先回りして言ってしまうと、P20の「日米和親条約」(1854(安政元)年)でもやはり、「アメリカ船が必要とする燃料や食料などを供給すること」と書いてあり、「通商」にまで踏み込むのは、その4年後の1858(安政5)年の「日米修好通商条約」を待たねばならなかったのです。ですから、「和親条約」の箇所の見出しは「ぺリー来航」ですが、「通商条約」の箇所の見出しは、「開国」となっているのはそういう理由があるのだと押さえておいてください。 さて、とりあえず、こちらから砲撃をして戦争になるという事態は避けられたのですが、その2年後の1844(弘化元)年、オランダ国王が幕府に対して「開国したほうがいいよ」という親書(天皇や国王、元首などの手紙のこと)を送ってきます。手元にある「新日本史史料集成」のP284を見てもらうと、赤字で書いてある部分が、教科書P19には書いてないことに気が付くと思います。赤字の部分だけ訳すると、「イギリスと清とが戦争してどうなったかは、すでに「風説書」でお知らせしてますから、ご存じのことだと思います」。で、問題は最後です。 「今の日本はとても幸福な土地ですが、戦争によって焼け野原になりたくなかったら異国の人を絶対に入れない、つまりは鎖国をゆるめたほうがいいですよ」。 この手紙を読んで、幕府(老中・阿部正弘が主導)は、これを拒絶、オランダに対して二度とこのような勧告を行わないようにと通告しています。(「史料」) この阿部正弘は、P21に記してあるように、「安政の改革」を実行した人物なのですが、この間に何があったのか、興味をひかれるところです。
2020.05.30
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『熱源』川越宗一 文藝春秋 2019年8月初版 第162回の直木賞受賞作。10ページほどの序章は、ラストと絡んでくるから、もう一回読み直して深く肯くことになる。 ある地域で、昔ながらの暮らしを守って生きている人々がいる。欧米の「先進国」の人々は、そのような人々に対して「遅れている」「野蛮」「土人」といった言葉を投げつけ、蔑視する。それは、ただ単に「我々とは生活様式が違う」というに過ぎないことであるにも関わらず、その人々を征服し、土地を侵略することを合理化する言葉でもある。 アメリカ合衆国では、西部開拓の時代に、「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」なる言葉が生まれている。白人が、西部を「開拓」し、先住民から土地を奪って彼らを「居留地」へと放り込み、大平原を埋め尽くしていたバッファローを狩り、毛皮だけをひん剥いて後は肉塊として放置した所業を白人に与えられた「天命」とうそぶいている。 ヨーロッパでは、アジア、アフリカの「土人」「遅れた連中」を教化し、文明の精華に浴させることが「白人に与えられた重荷」と表現されている。 そして、欧米の「文明」なるものが極東の島国に及んだ時に、その島国の指導者たちは、欧米に右へ倣えをすることが自国の進む道であると信じ、欧米人の価値観をそのまま受け入れ、はるか北の大地で独自の生活様式、独自の文化をもって生活していた人々に、「野蛮」「土人」なる言葉を投げつけ、さらに「お前たちは、今の遅れた生活を捨てなければ早晩滅びることになる」として、「善意」で、同化政策を繰り広げる。「善意」は、恐ろしい。ためらいがない。 主旋律は、ヤヨマネクフ(山辺安之助)、シシラトカ(花守信吉)という二人のアイヌによって奏でられる。そこに、ロシア皇帝暗殺を謀ったという罪でサハリン(樺太)に流刑となったポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキという人物が絡む。彼は、流刑囚の運命を甘受するだけでは生きられないと思い、たまたま出会ったギリヤークの狩人を訪ね、その生活、言葉、習俗を記録し始める。つまり、「民族学者」のするようなことを始めたわけである。 彼に対して、「君のやっていることを学問としてやりたまえ」とアドバイスする男が登場する。レフ・ヤコヴレヴィチ・シュテルンベルグ。 「民族学と人類学は植民地を持つ列強諸国で栄えている。支配の大義名分になるからだ。知性や文化が優れたヨーロッパ人種が他人種に優先するという名分を科学的に保証させたいのだ」とシュテルンベルグは語り、「将来有望な民族学者を冤罪めいた微罪で不自由を強いていることがしれたらまずいのだ。だから私も研究し、論文を協会に送っている」と説明し、自分のことを「ユダヤ人であり、「ナロードニキ」」と規定する。「ナロードニキ」とは、ロシアの後進性を打ち破るためにはまず農民を啓蒙しなければならないとして、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」をスローガンとして農村へと入っていった若者たちのことを言う。彼らの多くは貴族の家庭に生まれている。しかし彼らの「自由」、「理性」といった理想は、農村共同体のしがらみの中で生きている農民たちには理解されない。絶望の果てに皇帝暗殺に走るものもあらわれ1881年にアレクサンドル二世が暗殺されるが、それは弾圧を一層強めることにつながってしまう。転向する者もいる。しかし、志をもち続けた者もいる。 シュテルンベルグは、ブロニスワフを、「君は「人民の中へ」の理念をもってギリヤークと交流していた」と評価する。 ブロニスワフに心を開いてくれていたギリヤークの人々は、彼らが読むこともできないロシア語で書かれた契約書に「署名」させられて土地を取り上げられる。「茶と砂糖の受け取り証だからサインしてくれと」言われて。どんな「字」を書いたのだろうか。ブロニスワフは、ギリヤークの人々にロシア語の読み書きを教えなかったことを後悔する。 ヤヨマネクフも同様のことを考えていた。五弦琴(トンコリ)の名手であったキサラスイと家庭を持った彼は、「文明の世、アイヌというだけで蔑まれる世界で新しい家族を背負って立つ力」を持ちたいと切に思っている。「俺たちがこれから生きていく日本という国を知りたい。俺たちが生きる世界を知りたい」。「自分たちは何に呑み込まれようとしているのか」知りたい。彼は、商店で働き,そこが潰れると,鰊や鮭、鱒の漁場で働く。 1886(明治19)年に村はコレラに襲われ、さらに痘瘡に襲われて、ヤヨマネクフは、キサラスイを失う。和人たちが公言している「人口僅少、心身薄弱なアイヌは滅びゆく定めにある」のか。ヤヨマネクフも友人シシラトカもそれにあらがって生きていこうとする。 第三章、舞台はサハリンのアイ村に移る。村の頭領バフンケが熊送り(イヨマンテ)を行おうとしている。そこに、ヤヨマネクフ、ブロニスワフがやってくる。ブロニスワフは、ヤヨマネクフの仲間である太郎治に言う。 「文明の中で自立するには、知恵や知識が必要だ。その最初の一歩が識字能力だ。学校は呑み込まれようとする異族人たちの光となるはずだ」。 イヨマンテののちの宴会で、イペカラという少女がトンコリを披露し、チュフサンマという美女がユーカラを歌い始める。 「ユーカラ」には、「神謡」という言葉があてられていると思っていたが、ここでは「即興歌」があてられている。 ヤヨマネクフは、太郎治から「識字学校」の構想を聞き、「ロシア語なんか覚えてどうする。俺たちに、ロシア人になれっていうのか」と反発する。それに対して太郎治は言う。「理不尽の中で自分を守り、保つ力を与えるのが教育だ」。 太郎治の横にいたブロニスワフは、「人類学は優劣のあるグループ間で生存競争が続いているというが、私はそうは思わない」と言い、「劣っている人など見たことがない」と自身の出自と辿ってきた道のりをヤヨマネクフに語る。 ずっと以前に、ある教育学の本の中に、生徒に育てる必要のある力として以下の三つが記してあったことを思い出す。「騙されない力」「手をつなぐ力」「平和を守る力」。「理不尽の中で自分を守り、保つ力を与えるのが教育」という定義と響きあう言葉であると思う。 チェフサンマは、ブロニスワフから結婚を申し込まれる。その時点で彼女は入墨を入れていないが、イペカラに入墨を入れてほしいと頼む。それはすなわち彼女が自分が何者であるかをはっきり示そうと思ったからだろう。 「自分が何者であるのか」を問い続けているのは、ヤヨマネクフも、ブロニスワフも、シシラトカもそうである。 ブロニスワフが録音機を持ち込んで、イペカラのトンコリの演奏を録音しようとする。イペカラは緊張のあまり普段の力を発揮できない。すると、ヤヨマネクフが立ち上がってトンコリと歌を披露する。そして、「私たちは滅びゆく民と言われたことがあります。けれど、決して滅びません。未来がどうなるかは誰にもわかりませんが、この録音を聞いてくれたあなたの生きている時代のどこかで私たちの子孫は変わらず、あるいは変わりながらも、きっと生きています。もしあなたと私たちの子孫が出会うことがあれば、それがこの場にいる私たちの出会いのような幸せなものでありますように」と録音機に向かって語り掛ける。エジソンが発明したこの蝋管蓄音機は、ロシア、そしてソヴィトのある大学に伝わり、その録音されたトンコリ、歌、メッセージを聞いた人物が最初と最後に出てくる。 日露戦争が始まる。ヤヨマネクフたちは、日露という「国」のはざまで翻弄される。 ブロニスワフは、祖国ポーランドの「故郷を取り返し、無用な死と破壊を避け、妻子を守る」ために、ヨーロッパに向かう。日本を経由するときに二葉亭四迷に出会う。大隈重信にも出会う。 大隈は問いかける。「弱肉強食の摂理の中で、我らは戦った。あなたたちはどうする」。ブロニスワフは「その摂理と戦います」と応じる。 物語の後半、金田一京助、白瀬矗が登場する。ヤヨマネクフとシシラトカはどのようにこの二人と絡むのか。そして最後にこの物語はどのように閉じられるのか。もちろんフィクションであるには違いないが、主要な登場人物は実在の人物であるというところにおどろいた。
2020.02.23
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「自炊男子」佐藤剛史 現代書林 2011初版 私は高校生の時まで、料理というものを全くやったことがなかった。大学に進学して下宿先を探してもらった時も、食事付きという条件だった。下宿のおばあさんも、「うちの下宿は家庭的だから」とおっしゃっていた。 「家庭的」という言葉の実態は、引っ越してすぐの夕食で明らかになった。下宿人は全部で10人はいたと思うけれど、10人全員が丸いちゃぶ台を囲んで座り、ちゃぶ台の上には山盛りのご飯と、みそ汁、そして何種類かの缶詰がずらりと並んでいた。下宿の裏には竹藪があったのだけれど、季節になると、荷締めたような色のタケノコが大皿に乗せられて毎日出てきた。缶詰は変わらなかった。 大学の食堂の柱に、「栄養補給のためにもパセリを食べましょう」と書いた紙が貼ってあった。缶詰とタケノコが朝と夕食なんだから、せめて昼ぐらいはビタミンCを摂らないといけないくらいの知識はあったので、定食の皿の上のパセリは必ず食べた。 大学は封鎖されており授業もなく、暇を持て余していた新入生たちは、「連続何時間麻雀ができるか」という記録に挑もうということになり、先輩たちに尋ねると、「30時間」という答えが返ってきたので、「記録を塗り替えよう」ということになり、およそ60時間ほど卓を囲んだと思う。面白いもので、浮き沈みはあっても、60時間もつづけたせいか、各人のプラス、マイナスはほぼ均等になった。 次の下宿を探した。条件としては、「自炊可」。谷を二つほど超えたところに一軒見つかった。まず、食器と調理器具、鍋とかフライパンを揃えた。たしかコープで買いそろえたと思うのだけど、ぶらぶら見ていると、ピーマンが目に入った。その時、ピン!ときた。「ピーマンの中をくりぬいて何か詰めたらいいのではないか」。「詰めるとしたらひき肉かな」。「そうなるとコンソメキューブも買わないといけない」。頭にひらめいた材料も購入して下宿に帰り、百円入れたら三十分使えるガス台で調理した。後になって、これが「ピーマンの肉詰め」だということを知ることになるのだが、人生で最初に作った料理がこれなのだから、「私は料理の天才ではないか」と思い上がるのも無理もない。 閑話休題。 さて、肝腎の本の話だ。司書の先生から薦められた本で、題名だけ見たら、書店で出会ってもまず買わない本である。先生から薦められて楽しい時間を過ごすことができた本との出会い、という実績があるものだから、とにかく読み始めた。 第一章「自炊男子の誕生」は、私の学生時代とかぶるところはほとんどない。なにせ、私の場合は、「いやー、東大には楽々入れたんだけれど、入試がないんだからね、まいっちゃうよ、ハハハ」といえる唯一の世代なので、講義が始まっても実に殺伐とした雰囲気で、学園祭もおかまバーも、同棲も皆無だった。あっ、同棲だけはあった。私にそのチャンスがなかっただけで。 58ページあたりから雰囲気が変わってくる。「食べる」というごくごくアタリマエのことについての体験と考察がつづられ始める。少し先になると、『美味しんぼ』という私もよく読んだ漫画のことが出てくる。私は、小麦粉を水で溶いてフライパンで薄く延ばして焼き、その上に刻みネギを散らして巻き、それを蛇のとぐろのようにぐるぐる巻きにしてもう一回フライパンで焼いて食べる「老餅(ローピン)」を作って家族からの好評を得たのだが、主人公はパスタに挑戦する。「茄子のアラビアータ」に挑戦、試行錯誤の末にレシピを見ないでも作れるようになる。「ミートソース」、「ナポリタン」と定番を作り、「エビとブロッコリーのトマトクリームパスタ」に挑戦しようとするのだが、「エビが高い」「生クリーム余ったらどうする」という問題にぶち当たり、「ベーコンと生ネギとブロッコリーのアラビアータ」に変更。「料理は組み合わせである」「アイデアは組み合わせである」という「発見」に至る。この部分には、私も同意する。そして、「「できない」のではない「やらない」のだ」という結論に至る。大賛成である。私の場合、「ひらめき」と「アイデア」だけでやってきたものだから、「日常のおかず」づくりについては、妻の助けを借りている。 主人公は、「自炊」に目覚める。財布の中のお金が減らないということにも気づく。 そして第二章「自炊男子の成長」。自炊を始めるようになってから、主人公の「世界を見る目」がどんどん変わっていく。同級生たちが「学食のまずさ」をあげつらっている(昔は主人公もそうだった)のをしり目に、学食を作ってくれるおばちゃんたちに、「ごちそうさまでした。おいしかったです」、「ありがとうございました」と言えるようになっていく。アルバイトで行っている焼き鳥屋の中での行動も徐々に変わっていく。 100ページ以降、主人公は、「調理しながら片付ける」ことを意識的に行うようになる。作りながら洗う。作りながら拭く。「美しい仕事」という言葉が出てくるが、流れるような仕事と言い換えることもできる。これができるようになるだけで、下準備、調理、片付けといったサイクルが短くなる。ここの部分は体験済みなのでわかる。 そして、「ボランティア実践講座」に出会った主人公は、有機農業に出会い、「日本の農業」「日本人の食生活」が抱えている問題に次々と気づいていく。すべて「体験」。つまりは体を使っての経験である。 「食」というものがどのような広がりをもっているか。びっくりするような本だった。改めて、「ご紹介いただいてありがとうございます」である。
2020.02.22
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チャー君が今朝亡くなりました。腎臓病でした。最初に獣医さんに診ていただいたとき、血液検査をしていただいたのですが、その時の数値を考えれば、本当によく頑張りました、と言っていただきました。 チャー君は、明石に住んでいるときにうちの仔になりました。もともと、最寄りの駅からずーっと隣の家の奥さんの後をついてきたようですが、家に入れてもらえなかったので、我が家にやってきました。ちょうど夏のことで網戸にしていたのですが、網戸の下の牛乳箱を踏み台にしてジャンプ!!網戸にしっかり爪を立てて大きな声で、「にゃにゃにゃにゃー!!(入れてくれー)!!」と喚いたわけです。で、根負けしてうちの仔になったというわけです。 ものすごい大食いで、たまたま彼を車に乗せていた時に、 「首輪をしているんだから飼い猫だよね」 「なんで捨てられたんだろう」 「それ、絶対に大食いだからだよ」 「じゃ、このまま大食いを続けるんなら、うちも捨てたほうがいいかな」 という会話をしていたら、「捨てたほうが」のところで、ひと声高く「にゃー!」と啼いたのでした。それ以来、我が家では、「チャー君は人間の会話を理解しているんだ」ということになりました。 大食いなものですから、どんどん太っていって、6kgほどになりました。寝ているのを上から見ると、ちょうど「ツチノコ」体形。そのかわり大変に俊敏で、たんなる「太っちょ君」ではなかったのです。私たちが帰宅するときはどうしてわかったのかわかりませんが、ベランダのてすりのところに乗って出迎えてくれるというのが習わしでした。 西宮に越してきてからは、出入り自由なマンションに最初住んでいたのですが、しょっちゅう出ていました。傑作だったのは、下の階の奥さんと妻が話していた時に、 「お宅の猫ちゃんサバ虎ですよね」 「そうですが、なにか?」 「先日、うちの家に来て啼くからご飯をあげまして」 「それはすみません、ありがとうございました」 「いえ、それが、もう一匹いらっしゃって・・・」 つまり、「舎弟」を連れて、「こいつにも食わせてやっちゃくれねぇか」という状態であったと考えられます。 外に出ていくと、いろんなことがあるようで、かなり深い怪我をして帰ってきたことがありました。獣医さん(上の方とはまた別の)いわく、「これほど傷を負っているのなら、相手も無事では済まなかったでしょう」と言ってくださり、チャー君のプライドを守っていただきました。 思い出せば、ほんとにいろんなことを思い出します。でも、お別れです。 残された「あも君」。かなりナーバスになっています。解っているんでしょうね。
2020.02.21
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今日、尼崎で、「猫とじいちゃん」を観てきました。田中裕子さん、小林薫さん、柴咲コウさんと私の好きな役者さんが出ていて、「主演」が、志の輔師匠ということでは、観ないわけにはいきません。二時間ほど楽しい時間を過ごすことができました。 これはもう「岩合マジック」としかいいようがないわけで、「演技をしているように見える猫」を初めて見ました。 タマがちょっと見上げると、そこには妻(田中裕子さん)の遺影がある。見事にストーリーが出来上がっているのです。 タマはもちろんじいちゃんが飼っている猫です。しかし、じいちゃんは同時にタマのしもべでもあるわけで、タマの姿が見えなくなると、じいちゃんはすぐにオロオロして島中を探し回るのです。 飼い猫でありながら、島のあちこちを自由に歩く「自由猫」でもあるタマ。じいちゃんは、発作を起こして倒れてしまうような年恰好になっているために息子にしてみれば心配でならない。「東京でも猫は飼えるよ」と息子は言うのですが、飼われている猫に、もう自由に歩ける自然はないのです。お母さんの三回忌であるにも関わらず、帰ってくるのは息子だけで、嫁も孫も東京にいるわけで、なんかいろいろあるんだなぁと思います。 東京に行って、じいちゃんはじいちゃんらしく、タマはタマらしく暮らせるのか?大いなる疑問符が浮かんできます。 今のマンションに越す以前、猫たちが自由に出たり入ったりできるマンションに住んでいました。明石に住んでいるときは一戸建てで、三匹の仔たちは本当に自由に生活していました。隣近所の方たちには大変な迷惑であったと思うのですが。 今のマンションに越してきた日に、三匹は急変した環境に戸惑い、部屋中を歩き回り、ベランダも、ルーフも出てみたのですが、結局、どこにも外に自由に出ることができるルートがないことに気が付くと、ひと声、哀しそうに鳴きました。悪いことをしたなと思いましたが、取り返しがつきません。三匹いた仔たちも、今は二匹となり、歳が上の仔も腎臓を患って、いつ亡くなってもおかしくない状態です。 前の住居のように自由に出入りできる状態であれば、おそらく一番上の仔も、二番目の仔も、自分の体調がおかしいと気づいたら、ひっそりと姿を消していたのではないかと思います。そうなったら、残された私たち一家はおそらく必死になって探し回り、「出すんじゃなかった」と後悔したと思います。 いま、閉じ込めて、看病することができるというのは、三匹の自由を奪った結果、私たち家族に与えられた状態に過ぎません。 そのことをスクリーンを見つめながら何度も思い知らされました。 今、病んでいる仔は体重が6キロありました。太っていて、手足が短くて、上から見ると「ツチノコ」みたいに見えたものです。いま、3キロしかありません。体をさすってやると、背骨の一つ一つがわかります。 水を飲んだといっては喜び、少しご飯を食べたといっては嬉しがり、でも、別れが近いことはみんながわかっています。 タマの姿が、今、病んでいる仔の昔の姿に重なってきます。 猫を閉ざされた空間で飼っている私たちは、本当にエゴの塊だなと思うのです。楽しく、そして観終わった後で辛い作品でした。
2020.02.08
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19年12月1日、NHKで放映していた指揮ヤニック・ネゼ・セガン、フィラデルフィア管弦楽団で、ドボルザークの「新世界から」を見た。録画してあるので、もう4~5回再生した。「新世界から」は、中、高生の時に私のお気に入りで、ラジオから流れてくるメロディーをよく聞いた。初めて買ったレコードは、ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の「新世界から」だった。 カーステレオに入れようと思って図書館に予約したら、ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団の「新世界から」が届いた。1959年の録音。運転しているときに何度も再生して聞いている。 ブルーノ・ワルターは、ユダヤ系であるという理由でヒトラー政権下のドイツを追われている。ナチ党員たちとの関係が悪かったフリッツ・ブッシュは妻がユダヤ系であるという理由も重なって「リゴレット」を指揮する歌劇場の切符をナチスによって買い占められ、怒号と罵声を浴びせられて公演を取りやめざるをえなくさせられた。彼の弟アドルフ・ブッシュがよく一緒に公演していたのが、ピアニストのルドルフ・ゼルキンで、ユダヤ人だった。ナチス政権はドイツを代表するゼルキンに「名誉アーリア人」として扱うという取引を申し出るが、ゼルキンも、アドルフもこれを断り、トスカニーニに誘われてアメリカへ向かう。19 33年のことである。 対照的に描かれるのが、当時、ドイツの音楽界の最高位に君臨していたフルト・ヴェングラーである。『戦争交響楽』の著者は、彼のことを「政治音痴」と評している。そのことを典型的に示しているのが、反ファシズムの闘士として知られている。トスカニーニとフルトヴェングラーの対話である。 フルトヴェングラー。 「音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと私は考えます。ワーグナーやベートーヴェンが演奏される国では人間は自由なのです。私は偉大な音楽を演奏し、たまたまそこがヒトラーの支配下にあったとしたら、それだけで私はヒトラーの代弁者になるのでしょうか。偉大な音楽は、むしろナチの無思慮と非情さに対立するものですから、私はヒトラーの敵になるのではないでしょうか」 トスカニーニ。 「第三帝国で指揮をする者はみんなナチです」(p183) フルトヴェングラーが、ただユダヤ人である、あるいは反ナチであるという理由でドイツ国内で活動できなくなった優れた音楽家が多数いることを知らなかったわけがない。彼は、意識的にヒトラーの誕生日の行事に関連する祝祭日に指揮をすることは避け続けている。彼にとっては、それは譲れない一線だったのかもしれないし、そこに、「抵抗者」としての自分を見出そうとしていたのかもしれない。しかし、彼はドイツにとどまってバイロイト音楽祭でも、ザルツブルクでも指揮をしている。 トスカニーニと並んで反ファシズムの闘士であるカザルスのことも取り上げられている。1936年8月1日に開催されるベルリン・オリンピックに先立って7月19日にスペインのバルセロナで「民衆のオリンピック」が開催されることが決まっており、開会式ではモンジュイック宮殿でパブロ・カザルスの指揮でベートーヴェンの第九が演奏されることになっていた。リハーサルが続けられていたが、17日の午後にスペイン領だったモロッコでフランコ将軍をリーダーとする叛乱が起こった。カザルスは、「何があってもいいようにしっかり練習しよう」といって丹念にリハーサルが続き、第四楽章が始まろうとしたときに、文化大臣からメッセージが届き、演奏会は中止となった。 カザルスはその手紙を読み上げて言った。 「我々はいつ再開できるかわからない。別れを言うために今、最終楽章を演奏しようではないか」。合唱が、「全ての人類は兄弟になる」と歌ったとき、カザルスは涙で譜面が見えなくなっていた。演奏し終えるとカザルスは言った。 「この国に再び平和が戻る日がいずれ来る。その日には再び第九を演奏しよう」 (P163) さて、フルトヴェングラーである。ベルリンに滞在していた近衛秀麿は、彼から、アメリカに亡命したいから、ストコフスキーと話をつけてくれと頼まれたという。ストコフスキーは快諾したが、フィラデルフィア管弦楽団の共同監督をしていたユージン・オーマンディーは「ナチスに加担した指揮者をアメリカへ迎えることはできない」と反対した。ユダヤ系であるオーマンディーとしては許せなかったのだろう。(P177) その後、フルトヴェングラーは、「ヒトラー暗殺未遂事件」への関与を疑われ、すんでのところでスイスへと亡命する。1945年2月7日のことだった。 ドイツ敗戦後、フルトヴェングラーは帰国、審理を受ける。結果は無罪。12月17日だった。4日後の12月21日に、ベルリン・フィルハーモニーは、ショスタコーヴィッチの第七番「レニングラード」を演奏する。指揮はチェリビダッケ。ドイツでの初演だった。客席にいたフルトヴェングラーは舞台まで行ってチェリビダッケに、「いい演奏だった」と声をかけて握手。聴衆は嵐のような拍手を舞台上の指揮者とその下にいる前任者へと贈った。(P383) この本は付箋だらけになった。カラヤンのことも、ショスタコーヴィッチのことも紹介したかったが、あきらめよう。『戦争交響楽』中川右介 朝日新書
2020.02.01
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「音楽サスペンス紀行」(20年1月16日 元は19年1月2日)を見た。玉木宏が案内役。対ナチス戦争のさなか、包囲されたレニングラードでショスタコーヴィッチによって作曲された「交響曲第七番」の物語。レニングラードは900日間にわたって包囲され、人々の中には人肉を食べるものまで出るというまでに追いつめられる中で、なぜそんなことが可能だったのか? レニングラードに踏みとどまっていたショスタコーヴィッチは、スターリンの命令で安全な場所に移されて作曲に専念する。完成した曲の楽譜はマイクロフィルムに撮影されてアメリカに送られ、そこで初演される。振ったのはトスカニーニ。反ファシズムの闘士が振るということで話題は沸騰する。 という風なエピソードが生存者の証言を挟みながら展開していく。 月並みだが、「音楽の力」を感じさせる一編だった。 このエピソードが活字になっている本が、『戦争交響楽』中川右介 アサヒ新書。次回はこの本を紹介したい。
2020.01.28
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先日、学生時代の友人たち(全員、国文)と読書会を行った。漱石から始まり、鴎外に移り、前回は『安寿と厨子王』。今回は『阿部一族』。鴎外は、明治天皇の死に「殉死」した乃木希典の事件に触発されて『興津弥五右衛門の遺書』を書き、『阿部一族』を書いている。彼が依拠した資料は「阿部茶事談」というもので、『鴎外歴史文学集』第三巻 岩波書店 に資料は収録されている。ちょっとした心の行き違いによって阿部家の当主弥一右衛門は、殉死を許されなかった。殉死は主君の許しがなければ行えない。しかるに、弥一右衛門のことをそしる声が彼の耳に届き、弥一右衛門は切腹する。一応、殉死者の中には加えられたが、跡目を継いだ権兵衛は、父の禄をそのまま受け継ぐことはできず、兄弟全員に分割されるという憂き目にあう。主君の一周忌、焼香を終えた権兵衛は髻を切って、位牌の前に備えるという行動をとる。彼は、自分がそのまま父の禄を受け継ぐことができなかった不甲斐なさに胸が詰まり、衝動的に行動に及んだというが、主君の勘気に触れて、武士としてはあるまじき縛り首という措置を施される。 阿部一族はもう生きてはいられないと覚悟し、女子供を刺し殺して、屋敷に立てこもる。そして差し向けられた討手と激闘の末に全滅する。 ただ、阿部家の隣人で塚本又七郎という人物は阿部家と懇意にしており、阿部家の悲運に同情して妻を見舞いにやったりしている。しかし、主君から討伐の命が下った。「情けは情け、義は義である」と腹をくくった又七郎は、討伐隊に加わり、朋友の弥五兵衛と槍を合わせ、彼の胸板を貫く。その後、彼はまだ前髪の七之丞に太ももを刺されて昏倒する。 戦いはすべて終わる。 怪我はしたものの命を取り留め、一番手柄を立てた又七郎のところへ親戚、朋友がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀・天正のころは、城攻野合せが朝夕の飯同様であった。阿部一族討ち取りなどは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と云った、とある。角川文庫では、P194。ここに引っかかる。阿部家と親交を結び、妻を見舞いにまで行かせた又七郎は、なぜこんなことを言ったのか?「元亀、天正」とは、1570年から1591年までの間のこと(戦国乱世)で、又七郎はこの時代のことは当然知らない。 試みに、元亀・天正のころの事件を引く。元亀元年(1570)姉川の戦い、元亀2年(1571)信長、比叡山焼き討ち天正元年(1573)室町幕府滅亡。天正3(1575) 長篠の戦 10(1582)本能寺の変 16(1588)刀狩令一言でいえば、「元亀・天正の頃」とは、信長、秀吉のもとで徐々に天下統一が進んでいた時代である。 1600年(慶長5)関ヶ原の戦い 1603年(慶長8年)徳川家康、征夷大将軍になる。1615年(元和元年) 大坂夏の陣 このころになると、天下泰平 元和偃部 身分の流動性は喪失。武士が刀一本では生きられない時代が始まる。「元亀・天正の頃」を振り返って自分がいま生きている時代を批判した人物が大久保彦左衛門。『三河物語』という著書を残している。大久保彦左衛門は、1639年に亡くなっているが、江戸時代も落ち着いた寛永時代(1624~1644)に、昔の戦さ話を将軍をはじめとする高位者に語る「お伽衆」とよばれる人々が登場した。彦左衛門も晩年にはそうした役職になっていたのだろう。『三河物語』ちくま学芸文庫 訳者解説 おそらく、彦左衛門も「元亀、天正のころは・・・」と口にすることも多かったのではないか。『三河物語』本文にはこの言葉はないが、この本は、成立してのちにすぐに写本が流布している。そして、講談などにも取り上げられて、一心太助なども登場人物として加わり、彦左衛門は「天下のご意見番」となっている。又七郎も読んだことがあるかもしれない。講談を聞いたこともあるかもしれない。「元亀・天正の頃」というフレーズから、『三河物語』を想起した侍も多かったのではないか。 彼は、阿部弥一右衛門の生き方(「だがおれはおれだ。武士は妾とは違う。主の気に入らぬからといって立場がなくなるはずはない」)の中に、「元亀・天正のころの真の武士」を見ていたのかもしれない。『三河物語』の中に、以下のようなことが書かれている。 「知行を取れない者には第一に、一つの譜代の主君を裏切ることなく、弓を引くことなく、忠節、忠功をした者は、必ずと言っていいほど知行を取れないようだ。末孫も栄えない。 二つに、武勇に生きた者は知行をとれないようだ。三つに世間体の悪い、付け届けの悪いものは知行を取れないようだ。四つには経理打算を知らない,年を取った者が知行を取れないようだ。五つには、譜代久しいものが知行を取れないようだ。」『三河物語』P271 又七郎が「阿部一族討ち取りなどは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」とだけいったのであれば、わかる。なぜそこにわざわざ「元亀・天正の頃」というセリフを付け加えたのか。阿部一族の族滅は、藩主の二代にわたる失政の結果である。「殉死」という主君に対する最大の忠誠の証が、反乱、そして族滅という悲劇に終わっている。だから、私は又七郎のこの一言を見過ごしにできない。 考えすぎかもしれないし、誤読かもしれないが、今のところ、私は以上のように思っている。
2020.01.27
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中古のパソコンを買って、パソコンに詳しい長女の助けを借りて前のパソコンからデータを移したり、使えるようにしてもらいました。ウィンドウズの10が装備されています。 ウィルスバスターも入れていますから、大丈夫な状態になりました。
2020.01.27
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パソコンの購入は、25日以降になりそうです。2月になりましたら、新しい中古(?)のパソコンを購入しますので、ウィルス感染の危険はなくなると思います。
2020.01.22
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四日ほど前に、ウィンドウズ7のサポートが切れました。現状では、ウィルス感染の恐れがありますので、アクセスはご遠慮ください。 明日、新品か中古のパソコンを購入する予定です。
2020.01.21
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恒例の「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」を聴いた。ラストは「美しく青きドナウ」の後に「ラデツキー行進曲」。画面では、「新しく編集された楽譜が使われた」とテロップが出た。 朝日のニュースを見て、その理由が分かった。 「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が元日のニューイヤーコンサートで演奏するヨハン・シュトラウス1世作の「ラデツキー行進曲」の楽譜が、今年から一新される。アンコールの最後での手拍子は毎年の恒例となっており、クラシックファンにはおなじみの曲だ。楽譜の一新には、ナチスが絡む歴史との決別の意味が込められている。 これまで使われてきた楽譜は、オーストリア出身の作曲家レオポルト・ベーニンガー(1879~1940)の編曲による1914年版。ベーニンガーは32年、隣国ドイツで台頭していたナチスに入党し、党の文化・音楽活動に協力したことで知られる。 楽団長でバイオリニストのダニエル・フロシャウアーさんによると、「ベーニンガーの楽譜を今も使っているのか」という質問を受けることがあるといい、対応を考えるために、楽団が楽譜や記録を詳しく調べてきたという。 その結果、楽譜は戦後になってパートごとに手書きで書き加えられており、打楽器パートがかつてのシュトラウス楽団が演奏した通りになっていたり、いくつかの楽器が演奏されていなかったりすることがわかった。現在演奏されている音楽はベーニンガーのものではなくなり、時を経てウィーン・フィルの音として完成されていた。 そのため、楽団内で話し合い、過去に書き加えられた内容を反映して楽譜を一新することを決めたという。フロシャウアーさんは「ベーニンガーの名前を除くことが重要だった」と語る。ドイツなど欧州では「非ナチ化」として話題になった。楽譜が一新されても、演奏される曲の聞こえ方に大きな変化はないという」 私などは、「聞こえ方に大きな変化」はなかった。 それにしても、「ナチス」という存在に対する警戒、嫌悪は戦後70数年を経ても変わらない。 ナチスと密接な関係にあったとされるワグナーなどは、戦後、数年間かはバイロイトでのコンサートも中止されているし、イスラエルでは、バレンボィムとかメータが指揮をしたときには楽団員の何人かは演奏を拒否したり、観客が退席、あるいはブーイングにさらされている。 音楽は簡単に国境を越えることはできないようだ。
2020.01.02
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今年の最大の収穫は、平野啓一郎さんの『葬送』を読んだことかもしれない。なんのことはない、授業でフランスの七月革命を取り上げることになり、「民衆を導く自由の女神」の作者ドラクロワについての作品があると思いだして、手に取った。ドラクロワとショパンの間に交友があったことも初めて知り、ジョルジュ・サンドの娘との確執についても初めて知った。実に面白く読み終えた。 ここから脳内で飛躍が起きる。 「『カラマーゾフの兄弟』を読んでみよう。『葬送』を読めたんだから」。 手元にある『カラマーゾフ』(原卓也 新潮文庫)は、もう古びていて活字も小さい。古本屋に行ったら、新潮文庫版が上中とあった。活字も大きい。下を本屋で買って読み始めた。一度読んだはずだが、完全に忘れている。とても便利である。ただ、「大審問官」の箇所だけはおぼろげに記憶にあった。 改めて思ったのは、少年たちの描き方の巧みさ、最後の場面が少年の死とそれを送る父と少年たちのエピソードであることに胸をうたれた。 それにしても、なんという言葉の奔流。実は『カラマーゾフ』に取り掛かる前に、『死の家の記録』を読んだのだが、比較にも何にもならない。 その後「百分de名著」で亀山さんが『カラマーゾフ』を取り上げた。こうなると、亀山訳でも読んでみたくなる。購入し、これは新年のお楽しみ。 平野さんの『マチネの終わりに』も読んだ。 作品そのものにも感動したのだが、「バッハは30年戦争の後の作曲家だ」という言葉が何故か強く印象に残り、図書館でロストロポーヴィチの「無伴奏チェロ組曲」を借り出して、カーステレオに入れて毎日毎日聞き始めた。 その後、「蜜蜂と遠雷」のモデルとなった「浜松国際ピアノコンクール」というNHKの番組を見て、『蜜蜂と遠雷』を読んだ。学校の図書館で借りたのだが、返しに行った時に司書の先生から『羊と鋼の森』宮下奈都 文芸春秋社 という本を薦められて、初めてピアノの調律師の世界に触れて、「平均律」という言葉の意味を知った。「羊」の意味も。 今は、『ヨーロッパの略奪』リン・H・ニコラス 白水社 を読んでいる。「ナチスドイツ占領下における美術品の運命」が副題。年越しの一冊になりそうだ。 来年は、学生の時の友人たちとの読書会がある。『阿部一族』を読む。私以外は全員国文なので、参考になる事が多い。まず、何度も読むことが必要となる。 授業は9日から。
2019.12.31
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26日に、知人から電話があった。「母が亡くなりました」。あっけにとられて言葉が出てこない。彼も当たり前だが涙声。「電話しておかないといけないと思って」と彼は言ってくれた。 「母」というのは、知人のお母さんで、私が教師になって最初に持った生徒の一人である。享年65歳。私が明日、古希になるので5歳違い。賀状を交換するようになって、数年前に「展覧会に息子が絵を出品するんですが、見に来ていただけませんか」と連絡があり、会場の阿倍野ハルカスまで行った。卒業以来だから40数年経っているはずなのに、一発でわかった。ほとんど変わっていない。一緒に会場を廻り、喫茶店に。彼女はイチゴパフェ、私は珈琲。「人の声は変わらない」というけれど、まったく同じ、おっとりした喋り方も同じ。 知人から電話があったときに、「どこが悪かったのですか?」と訊ねたら、「母から聞いておられなかったのですか?」と言われた。ハルカスであって後、彼女と電話で話した時には、「ちょっと体調が悪くて今回の個展には行けないのですが」とは聞いていたけれど、癌であるという事は聞いていなかった。心配させてはいけないとの心配りだったのだろうか。 例年になく26日には賀状は完成させていたので、彼女宛のものを棺の中に入れていただいた。 行き帰りの電車の中、会場では全く現実感もなく、感情も動かなかった。今頃になって涙が出てきた。 こんな事なら、生徒に対して、「私より先に死んでは行けない」ともっときつく言っておくんだった。 私もそんなに長くないだろうから、あの世で逢った時に、嫌味の一つも言いたくなるだろうと思う。
2019.12.29
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押し詰まってくると、この一年を「回顧」したくなる。 おそらく、自分の人生の中でも最も腹が立った一年ではないかと思う。もちろん安倍に関することで、私のように「歴史教育」の末席に身を置いている者からすれば、およそ「公文書」の扱いがここまで杜撰な政権は本当に見たことがないと言わざるをえない。 「モリ」「カケ」の際に、「関係があれば辞める」と安倍が口走ったために、各方面の役人たちは、「関係があった」と証拠づける書類を「なかったこと」にしたり、「保管されていない」、という口実で抹消しなければならなくなった。 その頂点が「桜を見る会」の一件。記録を請求されて、記録がバックアップデータとして存在していたにも関わらず提出せず、その後は「復元できない」と言い出した。結局、「復元できないように処理した」という事だろう。 「反社会的勢力」と目される人物を招いていたという事が明らかになると、「反社会的勢力の皆様」の「定義」がハッキリしないとまで言いだした。 嘘の上に嘘を築くという壮大な「砂上の楼閣」を作り上げたということになる。 日米貿易交渉についても、日本政府が公式に発表した「成果」は、米政府が発表した「成果」と照らし合わせてみると、まったくの虚偽であることがはっきりし、ついに日本国民は、「本当の事が知りたければ海外の報道に頼らざるを得ない」という状態に置かれるようになった。 旧ソ連で発行されていた雑誌『ネイチャー』は、元の『ネイチャー』の中から、ソ連よりも外国の科学技術の方がはるかに進んでいると目される論文は慎重に取り除かれていたという。 文書は、その組織が何のためにどんなことをやったかという事を正確に記録し、後世の検証を待つために作られねばならない。 日本政府には敗戦時に大量の文書を焼き捨てたという「前科」がある。安倍政権はその「伝統」を受け継いでいる。 ただ、今、カジノがらみの議員の逮捕と捜査が続いている。現職の議員の逮捕と事務所の捜索は、どこまで波及するか見ものである。 安倍が「任命」した大臣は何人辞めたか?安倍は「任命責任は私にある」というだけで、一向に責任をとる気配はない。 政府が率先して「倫理」と「道徳」を踏み躙っている国で、若者たちはどんな価値観を持つのか。 「とにかく、金と権力を持っていれば何でも許される」という価値観だけは持ってほしくない。 来年の課題は、私にとっては、ゴマメの歯ぎしりを続けることだと思う。
2019.12.28
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若い時から雑踏が嫌いだった。万博でも、アメリカ館、ソ連館はパス。イラン館では、歯の溶けるような甘いデザートを食べ、ドイツ館ではウィルヘルム・ケンプの弾くベートーベンの「皇帝」「コリオラン」のレコードを買った。 そんな私だから、京都の「紅葉を見る雑踏」に足を運ぶ人たちの樹が知れない。紅葉を見るなら、もっと近くにいいスポットがある。芦屋市図書館の近くの谷崎記念館の紅葉、せんじつこれを独り占めにするという贅沢を味わった。 「並んでも見たい」例外は、美術展。若冲、フェルメールはかなり並んだ。それでも収穫は多かった。テレビの方がアップで見せてくれたり、親切な解説も就く。でも、この目で見ることの意味は大きい。 桜も、「名所」にはいかない。どんどんへそ曲がりになっているようだ。
2019.12.02
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「やすらぎの郷」を見ていると、「資本主義」の根幹を揺るがすようなシーンが出てくる。捨てようとか、焼いてしまおうという衣類を端切れにして織っていったり、縄をなったり。役に立たなくなったと言って捨てないで、他の用途に使ったりしている。去年のカレンダーからは、多くの袋が生まれている。 プラスチック、ボール紙、ペットボトル等は「資源ごみ」の日に出して、業者が引き取り、マンションの自治会の収入となっている。 粗大ごみの日には、まだ使えそうなソファなどが置いてある。 もう50年以上前になるか、東京に出て行った高校の同級生がまず下宿(四畳半)を決め、町をぶらぶらしながら、捨ててあった自転車を利用して、ソファから食器棚、食器、鍋、包丁、炊飯器を揃えたと言っていた。 私たちがモノを大切に使うと、商品の流通に支障が出る、というのが「資本主義」の理屈なのだろう。 授業で、「食品ロス」のことを取り上げた時に、例として「恵方巻き」を出した。その日が終われば大量に捨てられる。どうしたらいい?という私の質問に生徒たちは、「予約制にする」と答えた。 消費者は、すし屋、コンビニなどに恵方巻きの本数を告げ、代金を支払う。すし屋、コンビニでは、予約があった本数をきっちりそろえる。 このことによって失われるのは、「消費者がどこの店で買おうが私の自由」という「自由」と、「お店が、他の店より儲けるぞ!と意気込んで恵方巻きの本数を自由に作る」という「自由」である。 スーパーやコンビニ、デパートの店頭にあふれるように商品が並んでいる有様はまことに「豊かさの象徴」といっていい。 しかし、本当にこんな事でいいのだろうか?人口はこの地球上に於いて際限なく増える。現在でも経済化している「過食の地域」と「飢餓の地域」はよりくっきりし、自然災害などによって、あるいは経済政策の失敗などによって「過食の地域」から滑り落ちる地域も出てくるだろう。 実際にそうなってからでは遅い。パニック状態の中で人間は集団として最適な道を見つけ出すことは困難だ。しかし、将来を予測して「その日に備える」ということもまた人間にとっては困難なことであることは歴史が示している。 選択肢はどんどん狭くなっていっていると私は思う。
2019.11.25
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『売り上げを減らそう』佰食屋 中村朱美 株式会社ライツ社 国産牛のステーキどんぶりを百食作る。完売したら営業終了、片づけとか明日の仕込やらやっていても、6時には家に帰れる。 退職してから、二つの高校の講師を掛け持ちした時の事、時間割の関係で、11時半に授業が終了して、12時に校門をくぐった。あの時の何とも言えない解放感は忘れられない。昼の日中、12時に校門を出る!その後はそれが当たり前のペースになったけれど、今でも時々思い出す。 「こうすればもっと儲かる」という道を著者は取らなかった。従業員にアタリマエの生活を保障し、それでも利益をだし、余裕を持ったスタッフによって、「休みにくい」という「空気」も払しょくした。 格差がどんどん拡大し、正社員と非正規との「格差」は、正社員の待遇を非正規社員に合わせることで「解消」しようとしている企業。数百兆円という「内部留保」をため込んで、株主には高配当を約束し、日銀のおかげで株価を維持している大企業。この佰食屋のビジネスモデルが、すべての職種に適用可能とは私の頭では考えられない。しかし、「これぐらいでちょうどいい」という目標の設定は正しいと思う。際限なく、右肩上がり、常に対前年度比を意識して・・の先には何があるのか? 「社員を大切にする」という風潮はいつごろから日本の企業から姿を消したのか? 「アベノミクス」のおかげで、日本の会社員と中小企業は疲弊している。政権にあるものは平気で嘘をつき、文書を処分し、「答弁の変更」というやり方で嘘をついている。そしてそれが許されている。 「歴代最長の任期」などとは、マスコミ、国民の劣化でしかない。 「人間の欲には限りがない」と居直ったところから悲劇は始まる。 私が生きている間に日本はどうなっているのだろう?
2019.11.24
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オリンピックのマラソン会場が東京から札幌に変更になった。IOCは最初っから「変更は決定事項」と言い放った。瀬古氏が言っていた。「テレビのニュースで初めて知った」と。招致委員会は、「東京の八月初旬は「温暖」で、アスリートにとって最高の環境」と。これがまず大嘘。あとは、金をばらまいて「オリンピックを買った」のも周知の事実。見直しの決定打になったのが、カタールのドーハで行われた世界陸上で女子マラソンの選手たちがバタバタ倒れて棄権してしまった事。このニュースを聞いた時に私は「夏のカタールで陸上競技の世界選手権が行われたということ」自体に驚愕した。なぜ世界陸連はカタール開催を認めたのか?ホンマにあほちゃうかと思った。 で、慌てて、「八月の東京はホントに「温暖」なのか?」とIOCは疑問を持ったらしい。調べるだけのアタマもないのかIOC?嘘をついた招致委員会、それを鵜呑みにしたIOC。 結局、現場、選手、コーチ、大会運営に携わる人たちは振り回されたという事だ。 アメリカのテレビ局が巨額のスポンサー料を払って放映権を買い取る。アメリカのプロスポーツの閑散期の八月にオリンピックを持ってくることを飲むIOC、JOC。 私は絶対に観ない。こんなにケチがついた汚れた五輪。テレビは「感動物語」を作り上げて、「感動をありがとう」というセリフがそこらじゅうで蔓延するだろう。あー、あほらしい。これから、オリンピックはアメリカのテレビ局様がスポンサーになってくださるアメリカの都市で順番にやればいい。 センター試験の英語で、民間業者の実施する検定試験を利用しないとなった。きっかけは、あの萩生田の、「身の丈」発言だろう。すでに、曽野綾子の旦那の三浦朱門が、教育の目的は早めに自分の限界を見極めることを手助けすること、という発言をしている。つまり、国民に等しく教育の機会を与え、資源に乏しい日本では、子どもたちを宝物のように社会で育てていかなければならないという「国民教育」の観点ではなく、「教育費をつぎ込む意味のないような馬鹿にはそれ相応の教育でいい」という「費用対効果」の観点でモノを言ったのが萩生田なのである。 ここには、現場の苦労も、様々な家庭環境の中にありながらそれでもがんばろうとしている子どもたちへの共感はゼロと言っていい。 しかし、さらに問題は残っている。国語と数学における「記述式」の導入。 高校の入試は、ほぼ「マークシート」と言っていい様な状態になっている。社会の場合、記号で選択する、単語で答えるようになってきている。 そして、入試を受けた生徒に対して全教科の答案用紙を開示しなければならなくなっている。 数学と国語で、何万人も受けるテストで、「なぜ私の解答は間違っているのか?」と受験生から問われた時に、「はい、これ」と開示できるのか? アルバイトの学生が採点した部分を誰がチェックする? ここでも、置き去りにされているのは生徒、保護者、学校ではないか。 アベ自・公政権はますます末期的症状を呈している。
2019.11.02
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『カラマーゾフの兄弟』を何とか読み終えました。下巻をあとがきも含めて読み終えたのは、午前一時。 いまは「読み終えた」というだけで、「では、読んでどうだったのか」はまとまりません。暮れから正月にかけて再読しようと思っています。 今、切れ切れに頭に浮かんでくる印象のみを書きつけます。 上巻の最後の「大審問官」。キリスト教に止まらない普遍的なテーマだなと思います。「生活」というシロモノの厄介さ。思想を純化し、生き方を正していこうとする熱意を徐々に削り取っていく「生活」。 上巻には、スネギリョフと子どものイリューシャ、そしてアリョーシャの対話の場面がある。ドミートリイが侮辱したスネギリョフを必死になって庇おうとしたイリューシャ。ドミートリイの兄弟と知ってアリョーシャに石を投げたイリューシャ。 カテリーナから預かった二百ルーブル札をアリョーシャの目の前でもみくちゃにして地面にたたきつけたスネギリョフは叫ぶ。 「一家の恥とひきかえにあなたのお金を受け取ったりしたら、うちの坊主になんと言えばいいのです?」 彼は、二百ルーブルあれば何ができるか、貧しい一家にとってどれほどありがたいお金かを熟知したうえで、「自分の名誉を売りはしません!」と叫ぶ。 下巻は、父フョードル・カラマーゾフを殺したのは誰かという裁判が始まり、検察官、弁護士の激しい論戦が繰り広げられる。物事の解釈がどのように分かれるのか、その時の心理はどう分析されるのかが実に面白い。 そして、エピローグ。この大作は、イリューシャの葬儀で幕を閉じる。ドストエフスキーは、子どもとその心理とを実によく描いている。アリョーシャに引き付けられるコーリャ・クラソートキンは大変に個性豊かに、描かれている。 この展開には全く文句のつけようがない。 ドストエフスキーの処女作『貧しき人々の群』は、私が最も好きな彼の作品なのだが、この『カラマーゾフ』の中にその作品が息づいているのを読むのは楽しい時間だった。 再読した時にはもう少しましなことが書けるかもしれない。
2019.10.26
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私は昭和24年生まれなのだが、なぜか、「軍歌」を知っている。「水師営の歌」は、日露戦争の歌。「戦友」も日露か。「勝って来るぞと勇ましく―」、「あーあーあの顔であーのー声で」、とか。 考えて見れば、小さなときに周りの大人たちが歌っていたのを記憶してしまったらしい。小学校や中学校の音楽の時間にそれらしい歌は歌ったと思うけれど、何を習ったのか記憶にない。 紅白歌合戦では歌謡曲全盛のころで、春日八郎の「別れの一本杉」「お富さん」。三橋美智也の「古城」「わーらにまみれてよー育てた栗毛」とか。とにかくあのころは、子どもながらに、「上手いなぁー」と思うような歌手ばっかりだった。 さて、軍歌に還るのだけれど、「水師営の歌」なんて、敵将ステッセルに対する敬愛の心が素直に歌われている。 長谷川伸の『日本捕虜史』(中公文庫 Amazonではまだ安く入手可能)には、ロシア兵捕虜と日本兵士との交歓の場面がある。列車の中で、従軍記者が秘蔵の日本美人の写真を取り出すとロシア兵たちは大騒ぎで、写真はもみくちゃになりそうになる。ロシア兵の方から、ちょっと日本軍の大尉は席を外してほしいと要請があり、何かと思えば、ロシア美人のヌード写真。交換してくれとの申し出。「その裸体なるには少々閉口したけれど、まんざら悪い気もせずに交換した」。これが新聞に載っている。書く方も編集も読む方も全く問題にしていない。その35年ほどのちには新聞も国民も「鬼畜米英」を叫び、捕虜を虐待するようになっている。この間、何が起こったのか?調べてみたいと思っている。 歌ってはいけないとされたのが「戦友」だと、教師になってから知った。歌詞の中に、「軍律厳しき中なれど、これが見捨てておかりょうか しっかりせよと抱き起こし仮包帯も弾の中」とある。「軍律厳しき中なれど」が引っかかったという。その後、兵隊たちは禁じられて後もこの歌を歌い続けたと知った。言い分が振るっている。「これより「戦友」の歌い納めを行う!」とやるんだそうだ。で、少し時がたつと、またまた「歌い納めを行う!」。黙認されたそうだ。 アジア・太平洋戦争の中で生まれた軍歌のなかで、兵の心に寄り添うような軍歌はあったのだろうか?「徐州、徐州と軍馬は進む」の「麦と兵隊」ぐらいだろうか。ただ、不勉強のために、前線で戦う兵たちにこの歌がよく歌われたかどうかは調べがついていない。やはり、「戦友」を越える事は出来なかったのだろうか。
2019.10.25
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ずっとほったらかしにしているのですが、少しだけ。いま、『カラマーゾフの兄弟』を読み進めています。平野啓一郎さんの『葬送』(ドラクロワとショパンの交友を中心に描かれた作品です)を読み通すことが出来たので妙に自信がついて、まず『死の家の記録』を読みました。この作品は私にとってドストエフスキーにはまってしまう第一歩となった作品です。 で、『カラマーゾフ』。手元にある新潮文庫はさすがに字が小さく、新しく買い換えました。同じ新潮文庫です。もちろん、ハズキルーペを使って読み始めました。以前、詠んだはずなのですが、まったく記憶にありません。新鮮な気持ちで(?)読み進めて、とうとうあと200ページというところまで来ました。 登場人物たちのものすごい饒舌さ。『死の家の』とは対極にあります。一つ一つの会話が長く、喋っている人物の心の中がコロコロ変わります。否定したことが肯定され、肯定していたことが否定され、また肯定される・・・。実に何とも圧倒的なエネルギーのもとにおかれます。 最後どうなるのか。あと二日か三日で読み終えるとは思うのですが、自分の中に何が残るのか。時間が経てばまた忘れてしまうのか。 こうやってキーボードを打っていると、書きたいことが出てきそうな気もします。 少しサボらずに書いてみようと思っています。
2019.10.24
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わが詩を読みて人死に就けり爆弾は私の内の前後左右に落ちた。電線に女の太腿がぶらさがつた。死はいつでもそこにあつた。死の恐怖から私自身を救ふために「必死の時」を必死になつて私は書いた。その詩を戦地の同胞がよんだ。人はそれを読んで死に立ち向かつた。その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた。潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。☆「暗愚小伝」を私は写経のようにして書き写していった。「暗愚小伝」は以前から読んでみたいと思っていた作品で、光太郎と茂吉の戦後を描いた作品を読み終えて、『高村光太郎選集⑥』春秋社 を借りた。 茂吉は、「だれでもがそうだった」と、自分の戦争吟を「なかったこと」にした。その一方で、茂吉は「最上川逆白波のたつまでに吹雪く夕べとなりにけるかも」のような素晴らしい作品を戦後、詠んでいる。光太郎のように、「自身の戦中」を掘り下げた人間は何人いただろうか。 今日の作品で、「暗愚小伝」は終わるのだが、「わが詩をよみて人死に就けり」のような作品を書いた人間は本当に何人いたのだろうか? 平泉澄という「歴史家」がいた。青年を煽りに煽って戦場に赴かせ、その多くを死なせたこの男は戦後も反省もすることなく、自栽もせずに、依然として同様のことを書き綴った。 戦前・戦中と戦後とは一方で厳しく断絶している。その象徴が「日本国憲法」であると私は思っている。しかし一方で、人的に、そして心性の面で戦前・戦中と戦後とは見事につながっている。それを観なければならない。
2019.09.08
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山林私はいま山林にゐる。生来の離群性はなほりさうもないが、生活は卻て解放された。村落社会に根をおろして世界と村落とをやがて結びつける気だ。強烈な土の魅力は私を捉へ、撃壌の民のこころを今は知つた。美は天然にみちみちて人を養い人をすくふ。こんなに心平らかな日のあることを私はかつて思はなかつた。おのれの暗愚をいやほど見たので、自分の業績のどんな評価をも快く容れ、自分に鞭する千の非難も素直にきく。それが社会の約束ならばよし極刑とても甘受しよう。詩は自然に生れるし、彫刻意慾はいよいよ燃えて古来の大家と日毎に交はる。無理なあがきは為ようともせず、しかし休まずじりじり進んで歩み尽きたらその日が終りだ。決して他の国でない日本の骨格が山林には厳として在る。世界に於けるわれらの国の存在理由もこの骨格に基くだらう。囲炉裏にはイタヤの枝が燃えてゐる。炭焼く人と酪農について今日も語つた。五月雨はふりしきり、田植えのすんだ静かな部落にカツコウが和音の点々をやつてゐる過去も遠く未来も遠い。
2019.09.07
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炉辺報告(智恵子に)日本はすつかり変りました。あなたの身ぶるひする程いやがつてゐたあの傍若無人ながさつな階級がとにかく存在しないことになりました。すつかり変わつたといつても、それは他力による変革で、(日本の再教育と人はいひます。)内からの爆発であなたのやうに、あんないきいきした新しい世界を命にかけてしんから望んださういふ自力で得たのではないことがあなたの前では恥ずかしい。あなたこそまことの自由を求めました。求められない鉄の囲の中にゐてあなたがあんなに求めたものは、結局あなたを此の世の意識の外に逐ひ、あなたの頭をこはしました。あなたの苦しみを今こそ思ふ。日本の形は変わりましたが、あの苦しみを持たないわれわれの変革をあなたに報告するのはつらいことです。
2019.09.05
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終戦すつかりきれいにアトリエが焼けて、私は奥州花巻に来た。そこであのラヂオをきいた。私は端坐してふるへてゐた。日本はつひに赤裸となり、人心は落ちて底をついた。占領軍に飢餓を救はれ、わづかに亡滅を免れてゐる。その時天皇はみづから進んで、われ現人神にあらずと説かれた。日を重ねるに従つて、私の眼からは梁(うつばり)が取れ、いつのまにか六十年の重荷は消えた。再びおぢいさんも父も母も遠い涅槃の座にかへり、私は大きく息をついた。不思議なほどの脱卻のあとにただ人たるの愛がある。雨過天青の青磁いろが廓然とした心ににほひ、いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する。註 脱卻→脱却 すっかり捨て去る。「新字源」 廓然→廓然大公 心がからっとしてわだかまりがなく、すこしのかたよりもないこと。「新字源」
2019.09.04
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暗愚金が入るときまつたやうに夜が更けてから家を出た。心にたまる膿のうづきにメスを加へることの代りに足は場末の酒場に向いた。 お父さん、これで日本は勝てますの。 勝つさ。 あたし昼間は徴用でせう。無理ばつかし言はれるのよ。 さうよ。なにしろ無理ね。 おい隅のおやぢ。一ぱいいかう。 歯切り屋もつらいや。バイトを買ひに大阪行きだ。 大きな声しちやだめよ。あれがやかましいから。 お父さん、ほんとんとこ、これで勝つんかしら。 勝つさ。午前二時に私はかへる。電信柱に自爆しながら。註 歯切り屋 歯車の歯を切る仕事。 バイト 旋盤や平削盤などでの切削加工に用いられる工具(Wiki)
2019.09.03
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ロマン・ロランひとりアトリエの隅にゐて深く静かに息をつくと、ひろい大きな世界のこころが涙のやうに私をぬらした。やさしい強いあたたかな手が私の肩にやんはり置かれた。眼をあげるとロマン・ロランが額縁の中に今もゐる。ロマン・ロランの友の会。それは人間の愛と尊重と魂の自由と高さとを学ぶ。友だち同志の集まりだつた。ロマン・ロランは言ふやうだ。パトリオティズムの本質を君はまだ本気に考へないのか。あれ程ものを読んでゐて、君にはまだヴェリテが見えないのか。ペルメルの上に居られないのか。今のまじめなやうな君よりもむしろ無頼の昔の君を愛する。さういふ時に鳴るサイレンはたちまち私を宮城の方角に向けた。本能のやうにその力は強かつた。私には二いろの詩が生まれた。一いろは印刷され、一色は印刷されない。どちらも私はむきに書いた。暗愚の魂を自らあはれみながらやつぱり私は記録を続けた。註 ヴェリテ 現実描写。「現実」か?ペルメル はわからない。 ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』は、二回挫折し、三回目で読了した。レマルクとか、今では顧みられなくなった良書が多い。
2019.09.02
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真珠湾の日宣戦布告より先に聞いたのはハワイ辺で戦があつたといふことだ。つひに太平洋で戦ふのだ。詔勅をきいて身ぶるひした。この容易ならぬ瞬間に私の頭脳はランビキにかけられ、昨日は遠い昔となり、遠い昔が今となつた。天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。子供の時のおぢいさんが、父と母がそこに居た。少年の日の家の雲霧が部屋一ぱいに立ちこめた私の耳は祖先の声でみたされ、陛下が、陛下がとあへぐ意識は眩(めくるめ)いた。身をすてるほか今はない。陛下をまもらう。詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台でただしんけんにさう思ひつめた。註 ランビキ 江戸時代に、薬油や酒類などを蒸留するのに使用された器具。Wiki。
2019.09.01
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二律背反協力会議協力会議といふものができて民意を上通するといふ。かねて尊敬してゐた人が来て或夜国情の非をつぶさに語り、私に委員になれといふ。だしぬけを驚いてゐる世代でない。民意が上通できるなら、上通したいことは山ほどある。結局私は委員になつた。一旦まはりはじめると歯車全部はいやでも動く。一人一人の持つてきた民意は果して上通されるか。一種異様な重圧がかへつて上からのしかかる。協力会議は一方的な或る意志による機関となつた。会議場の五階から霊廟(モオゾレエ)のやうな議事堂が見えた。霊廟のやうな議事堂と書いた詩は赤く消されて新聞社からかへつてきた。会議の空気は窒息的で、私の中にゐる猛獣は官僚くささに中毒し、夜毎に曠野を望んで吼えた。
2019.08.31
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恐ろしい空虚母はとうに死んでゐた。東郷元帥と前後してまさかと思つた父も死んだ。智恵子の狂気はさかんになり、七年病んで智恵子が死んだ。私は精根をつかひ果し、がらんどうな月日の流の中に、死んだ智恵子をうつつに求めた。智恵子が私の支柱であり、智恵子が私のジャイロであつたことが死んでみるとはつきりした。智恵子の個体が消えてなくなり、智恵子が普遍の存在となつていつでもそこに居るにはゐるが、もう手でつかめず声もきかない。肉体こそ真である。私はひとりアトリヱにゐて、裏打のない唐紙のやうにいつ破れるか知れない気がした。いつでもからだのどこかにほろ穴があり、精神のバランスに無理があつた。私は斗酒なほ辞せずであるが、空虚をうづめる酒はない。妙にふらふら巷をあるき、乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、アメリカ屋のトンカツを発見したり、十銭の甘らつきようをかじつたり隠亡と遊んだりした。隠亡 火葬場で死者の遺体を荼毘に付し、墓地を守ることを業とした者を指す語。「おんぼ」という地域もある。Wiki。
2019.08.30
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蟄居美に生きる一人の女性の愛に清められて私はやつと自己を得た。言はうやうなき窮乏をつづけながら私はもう一度美の世界にとびこんだ。生来の離群性は私を個の鍛冶に専念せしめて、世情の葛藤にうとからしめた。政治も経済も社会運動そのものさへも、影のやうにしか見えなかつた。智恵子と私とただ二人で人に知られぬ生活を戦ひつつ都会のまんなかに蟄居した。二人で築いた夢のかずかずはみんな内の世界のものばかり。検討するのも内部生命蓄積するのも内部財宝。私は美の強い腕に誘導せられてひたすら彫刻の道に骨身を削づつた。
2019.08.28
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デカダン彫刻油画詩歌文章、やればやるほど臑をかじる。銅像運動もおことわり。学校教師もおことわり。縁談見合もおことわり。それぢやどうすればいいのさ。あの子にも困つたもんだと、親類中でさわいでゐますよ。鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら私はどこ吹く風かといふやうに酔つてゐる。酔つてゐるやうにのんでゐる。まつたく行くべきところが無い。デカダンと人は言つて興がるがこんな痛い良心の眼ざめを曾つて知らない。遅まきの青春がやつてきて私はますます深みに落ちる。意識しながらずり落ちる。カトリツクに縁があつたらきつとクルスにすがつてゐたらう。クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた。
2019.08.27
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反逆親不孝狭くるしい檻のやうに神戸が見えた。フジヤマは美しかつたが小さかつた。むやみに喜ぶ父と母とを前にして私は心であやまつた。あれほど親思ひといはれた奴の頭の中に今何があるかをごぞんじない。私が親不孝になることは人間の名に於て已むを得ない。私は一個の人間として生きやうとする。一切が人間をゆるさぬこの国では、それは反逆に外ならない。父や母のたのしく待つた家庭の夢はいちばん先に破れるだらう。どんなことになつてゆくか、自分にもわからない。良風美俗にはづれるだけは確である。 あんな顔して寝てるよ。母は私の枕もとで小さくささやく。かういふ恩愛を私はこれからどうしよう。☆「一切が人間をゆるさぬこの国」。パリから帰った光太郎は、この事を痛感するようになる。 しかし同時に、「あんな顔して寝てるよ 母は私の枕もとで小さくささやく かういふ恩愛を私はこれからどうしよう」とも思う。家族はゆりかごであり、桎梏でもある。
2019.08.26
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パリ私はパリで大人になつた。はじめて異性に触れたのもパリ。はじめて魂の解放を得たのもパリ。パリは珍しくもないやうな顔をして人類のどんな種属をもうけ入れる。思考のどんな系譜をも拒まない。美のどんな異質をも枯らさない。良も不良も新も旧も低いも高いも、凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。パリの魅力は人をつかむ。人はパリで息がつける。近代はパリで起こり、美はパリで醇熟し萌芽し、頭脳の新細胞はパリで生まれる。フランスがフランスを超えて存在するこの底無しの世界の都の一隅にゐて、私は時に国籍を忘れた。故郷は遠く小さくけちくさくうるさい田舎のやうだつた。私はパリではじめて彫刻を悟り詩の真実に開眼され、そこの庶民の一人一人に文化のいはれをみてとつた。悲しい思で是非もなく、比べやうもない落差を感じた。日本の事物国柄の一切をなつかしみながら否定した。
2019.08.25
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転調彫刻一途日本膨張悲劇の最初の飴、日露戦争に私は疎かつた。ただ旅順口の悲惨な話と日本海々戦の号外と、小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、そのくらゐが頭に残つた。私は二十歳をこえて研究科に居り、夜となく昼となく心を尽くして彫刻修業に夢中であつた。まつたく世間を知らぬ壷中の天地にただ彫刻の真がつかみたかつた。父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。職人以上のものが知りたかつた。まつくらなまはりの中で手さぐりに世界の彫刻をさがしあるいた。いつのことだか忘れたが、私と話すつもりで来た啄木も、彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずにすつかりあきらめて帰つていつた。日露戦争の勝敗よりもロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。註ロヂンとある。最初に読んだ時、「ロダン」ではないかと思った。明治43年{1910年)に発行された『白樺』の第8号は「ロダン号」と称され、ロダンの特集が組まれている。有島武郎、高村光太郎らが寄稿している。(Wiki)ゲーテが、「ギョエテ」「ガーテ」と記されたように、ここは、「ロダン」だと考えたい。「魯迅」ではないだろう。選集6の331ページには、「ロダン」と出ている。
2019.08.24
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楠公銅像まづ無事にすんだ。父はさういつたきりだつた。楠公銅像の木型を見せよといふ陛下の御言葉が伝へられて、美術学校は大騒ぎした。万端の支度をととのへて木型はほぐされ運搬され、二重橋内に組み立てられた。父はその主任である。陛下はつかつかと庭に出られ、木型のまはりをまはられた。かぶとの鍬形の剣の楔が一本、打ち忘れられてゐた為に、風のふくたび剣がゆれる。もしそれが落ちたら切腹と父は決心してゐたとあとできいた。茶の間の火鉢の前でなんとなく多きを語らなかつた父の顔に、安心の喜びばかりでない浮かないものがあつたのは、その九死一生の思が残つていたのだ。父は命をささげてゐるのだ。人知れず私は後で涙を流した。
2019.08.23
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建艦費日清戦争は終つても戦争意識はますますあがつた。次の戦争に備へるために軍艦を造る費用を捻出するのだ。陛下が一ばん先に大金を下され、官吏は向う幾年間か、俸給の一部かを差し引かれた。父はその事を夜の茶の間で母や私にくはしく話した。遼東還付とかいふことで天子さまがひどく御心配遊ばされると父はしんから心おそれた。だからこれから光も無駄をするな。いいか。註 「遼東還付」とは、日清戦争後に、仏、独、露の参加国の圧力によって償金と引き換えに遼東半島を 清に変換せざるを得なくなったことを言う。「三国干渉」とも。ロシアに対して敵意をかきたてる 意味で「臥薪嘗胆」という言葉が流行した。
2019.08.22
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御前彫刻父はいつになく緊張して仕事場をきれいにして印材を彫った。またたくまに彫り上げてみんなに見せ、子供の私にも見せてくれた。本桜の見ごとな印材のつまみに一刀彫の鹿が彫つてあつた。あした協会にお成りがあるので御前彫刻を仰せつかつたと父はいふ。その下稽古に彫つたのだ。父は風呂にはいつてからだを浄め、そのあした切火をきつて家を出た。天子さまに直々ごらんに入れるのだよ。もつたいないね。 どうか粗相のございませんように。母はさういつて仏壇を拝んだ。子供のわたしは日がくれてもまだ父が帰らないのでやきもきした。おかへりといふ車夫の声に私は玄関に飛んで出た。
2019.08.21
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日清戦争おぢいさんは拳固を二つこしらへて鼻のあたまに重ねてみせた。これさまにちげえねえ。原田重吉玄武門破りの話である。古峯が原のこれさまが夜でも昼でも往つたり来たり、みんな禁廷さまのおためだ。ありがてえな、光公。私はいつでも夜になると、そつと聞耳を立てて身ぶるひした。たしかに屋根の上の方に音がする。羽ばたきの音が。註。原田 重吉(はらだ じゅうきち)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。(Wiki)古峯神社御祭神の使者である天狗は災厄を除災するとして古くから信仰を集めており、別名「天狗の社」とも呼ばれ、境内では大小様々な天狗さまに逢うことが出来ます(Wiki) ここでは、天狗が天皇に統率された日本の将兵たちの活躍を支えていると大人たちは語り、子どもはそれを信じたのでしょうか。光公とは光太郎の事でしょう。 大人たちが何を語り、そして子供たちの心に何が刻まれていったか。
2019.08.20
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郡司大尉郡司大尉の報效義会のお話を受持の加藤先生が教室でされた。隅田川から出発した幾艘かのボートがつい先日金華山沖で難破した話である。ボートで千島の果までゆかうとするその悲壮な決行のなりゆきを加藤先生は泣いて話した。生徒もみんな泣いてきいた。下谷小学校の卒業生が遭難者の中に一人まじつてゐるといふことが下谷小学校の生徒を興奮させた。身を捧げるといふことのどんなに貴いことであるかを、先生はそのあとでこんこんと説いた。みんな胸をふくらませてそれをきいた。註 報效義会(ほうこうぎかい)。 郡司成忠は、1888年海軍大学校に入校したが北辺警備の観点から千島開拓の必要を感じ,93年海軍大尉で予備役に入り,報効義会を組織,同年3月20日35人がボートに分乗して東京を出発,19人は青森県鮫沖で死亡,16人がシュムシュ(占守)島などに上陸,越年中に10人が死亡,96年さらに60人余りの同志を募り,シュムシュ島付近の漁場の開拓に成功した。(Weblio百科事典)…
2019.08.19
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ちよんまげおぢいさんはちよんまげを切つた。-旧弊々々と二言目にはいやがるが、まげまで切りたかねえんだ、ほんたあ。床屋の勝の野郎がいふのを聞きやあ、文明開化のざんぎりになってしまへと、禁廷さまがおつしやるんだ。官員やおまはりなんぞに何をいはれたつてびくともしねえが、禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、おれもかぶとをぬいだ。公方さまは番頭で、禁廷さまは日本の総元締めだ。そのお声がかりだとすりや、なあ。いめえましいから、勝の野郎が大事さうに切つたまげなんぞおつぽりだしてけえつてきた。
2019.08.18
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『高村光太郎の戦後』中村稔 青土社 2019年6月 は、光太郎と、茂吉の両者の「戦後」を描いた作品で、茂吉の発言と短歌が数多く引用されています。さらに、光太郎については日記、手紙、詩が多数引用されています。以前から書名のみは知っていた「暗愚小伝」を読みたくなり、図書館から借り出しました。 散文かと思っていたのですが、詩の形でした。 数日間かけてご紹介したいと思っています。引用作品はすべて、『高村光太郎選集⑥』春秋社 です。 土下座誰かの背なかにおぶさつてゐた。上野の山は人で埋まり、そのあたまの上から私は見た。人払をしたまんなかの雪道に騎兵が二列に進んでくるのを。誰かは私をおぶつたまま、人波をこじあけて一番前へ無理に出た。私は下におろされた。みんな土下座をするのである。騎馬巡査の馬の蹄が、あたまの前で雪を蹴つた。箱馬車がいくつか通り、少しおいて、錦の御旗を立てた騎兵が見え、そのあとの馬車に人の姿が二人見えた。私の頭はその時、誰かの手につよく押さへつけられた。雪にぬれた砂利のにほひがした。-眼がつぶれるぞ-
2019.08.17
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映画「マイ・ブックショップ」を、6月5日に売布の「シネ・ピピア」で観た。チラシには以下のように書いてある。 「1959年、イギリス東部の海辺の小さな町。書店が一軒もなかったこの町に、周囲の反対にあいながらも読書の楽しみを広めたいという願いを胸に、今は亡き夫との夢だった書店を開店した一人の女性の物語。」 大分経ってから原作を捜して、神戸図書館で借り、読み終えたのが7月25日。読み終えた途端にもう一度読んでみたくなり読み返した。この歳になると、月に何冊読んだ、などということはどうでもよくなっており、いい本を丁寧に読むことを心掛けなければならないということを思わせてくれた一冊だった。 題名は『ブック・ショップ』。著者はペネロピ・フィッツジェラルド。ハーパーコリンズ・ジャパンから2019年の3月に発行されている。 映画と原作とではもちろん違うところも多い。特にラストは違う。乱暴なたとえをすると、映画は「ヴェニスの商人」、小説は「リア王」かもしれない。 以下は原作について語ることにする。 原作にも映画にも出てくるフレーズがある。 「フローレンスは要するに、”人間は絶滅させる者とさせられる者とに分かれている、いかなるときも前者の方が優勢だ”などというのは嘘だと思いこむことで、自分を欺いてきたのだ。」 フローレンスは、長年買い手がついていなかった「オールド・ハウス」(築500年)を手に入れ、改装して本屋を始めようとした。ところが、町の有力者であるガマート夫人が何を思ったのか、オールド・ハウスを地域の文化センターにしたい、ついては本屋なぞはどこでもできるからオールド・ハウスを諦めてくれと彼女に言い渡す。 フローレンスは以下のように描かれている。 「フローレンスは小柄で、か細くて、しなやかな外見をしている。前から見るとなんとなく影が薄く、後ろから見ても同じく影が薄い。ハードバラ(注 イギリス東部の小さな町)というのははるか彼方に人影が現われればそれが誰だかすぐわかるし、目についたものはすべて噂の的になるような町だが、そんな土地柄であっても、フローレンスが人々の話題にのぼることはめったにない。季節に合わせて着るものを変えることもあまりない。誰もが彼女の冬のコートがどんなものか知っている。長持ちすることだけを考えて仕立ててあるタイプだ。」 しかし、彼女が書店を開くという事は町の人たちを驚かせ、中には彼女の事を以下のように思う人も出てくる。以下、好きな文章なのですこし長く引用する。 「フローレンスはレイヴンの5mほど手前まで近づいたところで、レインコートを貸してくれと頼まれていることに気づいた。レイヴンはごわごわの服を重ね着しているため、脱ぐのが大変そうだ。 レイヴンは本当に必要でないかぎり、頼みごとをするような男ではない。彼は頭を下げてレインコートを受け取ると、フローレンスが寒さを避けようとしてサンザシの生垣の風下に立つあいだに、足音を忍ばせて野原を横切り、じっと彼を見つめる年老いた馬のそばまで行った。馬は鼻の穴を膨らませてレイヴンの動きを逐一追っていたが、彼の手に端綱が握られていないのを見て満足し、警戒を解いた様子だった。最後に、すなおに言うことを聞くかどうかを自分で決めるしかなくなったので、吐息とともに大きく身震いして、鼻先からしっぽまでを震わせた。やがて馬がうなだれたのを見て、レイヴンはレインコートの袖の片方を馬の首に巻きつけた。馬は最後の抵抗のつもりか顔を背け、柵の下に広がる濡れた地面に新しい草を探すふりをした。草はどこにも生えていなかったので、しぶしぶといった足どりでレイヴンを追って野原を進み、無関心な牛の群から離れてフローレンスのほうにやってきた。」 「その馬、どこが悪いの?」 「草を食うことは食うが、栄養にならんのだ。歯が弱ってきてな、そのせいさ。草をひきちぎるだけで、すりつぶすことができん」 「じゃ、なにかしてやれることは?」フローレンスはたちまち馬に同情した。 「歯にやすりをかけてやればいい」レイヴンは答えた。ポケットから端綱をとりだし、レインコートをフローレンスに返した。フローレンスは風のほうに顔を向け、自分のレインコートをはおってボタンをかけた。レイヴンが年老いた馬をひきよせた。 「なあ、グリーンさん、こいつの舌をつかんでくれんかね。誰にでも頼めることじゃないが、あんたが臆病者でないことはわかっとる」 「どうしてわかるの?」 「あんたが本屋を開くと町で噂されているからな。つまり、無謀な挑戦をする勇気があるってことだ」 フローレンスはレイヴンが馬の歯にやすりをかけている間、必死で馬の舌をつ かむということをやってのけた。レイヴンはその代りに、知り合いの海洋少年団の子どもたちをオールドハウスに差し向けて、書棚を作る手助けをさせてくれる。 このように、彼女の書店を応援してくれる人たちもいる。 ブランディッシ氏もそうである。ほとんど外出もせずに屋敷にこもりきりの彼は、書店を始めた彼女に感謝の手紙を書き、貸本屋も始めたらどうかと提案する。 映画では、彼は彼女に対してお奨めの本はないかと訊ね、彼女はレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を彼のもとに届ける。その次はやはりブラッドベリの『火星年代記』だった。 小説では、そのような下りはなく、彼女が彼に対してナボコフの『ロリータ』の評価を訊ね、彼が彼女をお茶に招待するという展開になる。この町では、誰も彼の屋敷に招かれたものはいない。ガマート夫人でさえ招かれたことはない。 彼は、以下のように言う。 「敢えて言わせてもらうと、正しいか正しくないかという観念に、私はあなたほど重きを置いていない。頼まれたとおり、『ロリータ』を読んでみた。いい作品だ。だから、あなたはハードバラの人々に売ろうとすべきだ。連中にあの本は理解できないだろうが、それで構わない。物事を理解すると、精神は怠惰になってしまう」 さらにこうも言う。 「自分で何かを決めるとき、わたしは充分に時間をかけてきた。だが、結論に到達するのに苦労したことは一度もない。わたしが人間のどういう点を尊敬しているかを言っておこう。人が神や動物と共有し、それゆえ、わざわざ美徳と呼ぶ必要もない美徳を、わたしはもっとも高く評価している。それは勇気だ。グリーンさん、あなたはその勇気をふんだんに持っている」 フローレンスは『ロリータ』を250部注文する。店を手伝ってくれているクリスティーンは、学校の成績はともかく、よく働き、気がついて彼女の「戦友」と言っていい働きをしてくれる。 しかし、もめごとは次から次へと起こり、というか、ガマート夫人によって引き起こされ、ついに、オールドハウスは、新しく制定された「法律」によって町によって買い上げられることになり、フローレンスは窮地に追い詰められる。 その様子を知ったブランディッシュ氏は、ガマート夫人に対して、フローレンスの書店に手を出すなと云い渡すが、夫人の屋敷を後にした直後に倒れて亡くなってしまう。彼がガマート夫人に何を言いに行ったかは正反対に捻じ曲げられてフローレンスに伝えられ、さらに周囲の人間たちの実に姑息な裏切りのために、オールド・ハウスに対する補償金の支払いは行われないということになる。フローレンスは店も本も失い、手元には本が二冊残っただけとなる。 「そういうわけで、1960年の冬、重い荷物の発送をすませたフローレンスは、サックスフォードとキングズグレイヴ経由フリントマーケット行きのバスに乗った。ウォーリーがバス停までスーツケースを持ってくれた。ふたたび潮がひきはじめていて、きらめく水に覆われた土地が道路の両側に果てしなく広がっていた。フリントマーケットで10時46分発のリヴァプール・ストリート駅行きの列車に乗った。列車がホームを出るとき、座席にすわったフローレンスはうなだれた。10年近く暮らした町は結局、書店を必要としていなかったのだ。」 この文章で『ブック・ショップ』は閉じられる。 結論はこの通り。恐らく読み始めた人が予測した通りだと思う。しかしそれで も私が奨めたいと思う根拠は一つしかない。訳者の山本やよい氏の文章を堪能してほしいということだ。以上の文章では紹介しきれなかったのだが、実にたくまざるユーモアが各所にちりばめられている。 小説を読む快感の一つは、展開の面白さに酔うことだと思う。しかしもう一つはいい文章そのものを味読するということではないか。喩は突飛かもしれないが、よくできた落語、たとえば「文七元結」などを古今亭志ん朝のような名人が演じるのを何度も聞くようなものではないか。次にどんなセリフが来るかもわかっている、結論も勿論わかっている。しかし何度聞いても新しい発見がある。これはそういう本だ。
2019.07.26
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『葬送』第一部読了。ドラクロワ、ショパン、ジョルジュ・サンドとその娘と夫の人間関係が実に生き生きと描かれている。読んでいて感情移入できる。サンドに対する筆致は厳しいものがある。作者のショパン、そしてドラクロワへの共感から来るものだろうか。もちろんそれは露骨なものではない。できるだけ中立を心がけようとしていても、「事実関係」の記載を通じておのずと登場人物への好悪は浮き彫りになっていく。 一部読了したところで、『ドラクロワ』坂崎坦 朝日選書 1986年1月 に取り掛かっている。とにかくものすごい多産な人であったようだ。65年の一生の中で9182点の作品を残している(油絵835点、水彩画及びパステル画1525点、デッサン6629点、グラビュール24点、石版109点、画帖60点)、他に膨大な日記、1636通以上の手紙。 かなり早い時期に、恋愛と美術とを秤にかけて、美術を選んだという坂崎氏の指摘。ちょっと余人の真似できるものではない。 ※グラビュール 日本では装飾彫刻に相当する、西洋式の彫り。洋彫り、装飾彫刻、洋彫り装飾等…と訳される。 銅板に線を彫ったり酸で腐食させたものに、インクを入れて印刷したものもグラビュールという。 様々な技法があるが、和彫りの技法は(フランスでは)グラビュールではなく、シズルールという。 一般的には彫刻刀(ビュラン、エショップ等)やダイヤモンドポイントで対象物(金属やガラス等)に彫りを施していくことをいう。 石(指輪に留めたりする)にグラビュール同様に彫りを施すことはフランス語ではグリプティックといい、グラビュールとは別の分野になる。wiki
2019.07.22
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『労働者階級の反乱』地べたから見た英国EU離脱 ブレイディみかこ 光文社新書 2017年10月 英国のEUからの離脱の原因について、日本では「移民に対する反感」が報じられ、私もそう思っていた。だが、この本を読んで考え方に少しばかり幅が出来てきた。 第Ⅲ部「英国労働者階級の百年 歴史の中に現在(いま)が見える」から読んだ方がいいと思う。 日本では「階級」という言葉、例えば「労働者階級」、「資本家階級」と言った言葉は日常生活ではほとんど使われず、見なくなっている。私が今使っている世界史Aと現代社会の教科書には、「労働者」、「資本家」という言葉は出てくるが、「階級」という言葉は出てこない。 著者は、「労働者階級」という言葉を使用しながら歴史を振り返り、資本-労働関係、という経済問題が、人種や民族問題にすり替えられた時、「労働者階級」は分断され、逆に、「労働者階級」という意識が強化された時に、「労働者階級」のための政策が実現している事実を列挙している。 1910年の労働党の躍進(28議席から40議席へ)、鎖工場で女性労働者たちがストライキを起こしたこと、「サフラジェット」と呼ばれる武闘派の女性参政権運動の闘士と警察との衝突。 「この時代の労働者たちの闘いと、女性たちの闘いとはリンクしていた。両者はすべての成人男女に参政権が与えられるべきだと主張し、財産の有無や性別によって自分たちが社会から除外されるのはおかしいと声を上げた(そして相手が聞かなければ暴れた)のである。 こうなると為政者のほうでは、下から突き上げてくる抵抗を何とかなだめて食い止めなければならない。1911年には、自由党政権が国民保険を施行し、肉体労働者と年収160ポンド未満の者に、疾病と失業の保険を提供。その対象には召使いたちも含まれていた。これにより、それまでは工場労働者らとの連帯感を感じることはなかった召使いたちに「自分たちも労働者なのだ」という自覚が生まれる」(P171) しかし、上流階級も反撃を行う。第一次世界大戦後に、政府に協力した見返りに安定した職と住宅が得られると思っていた労働者階級が政府に対する不満を爆発させると、彼等に「社会主義者」のレッテルをはり、「非国民」と決めつけるネガティブキャンペーンを行う。その結果、「自らの愛国心を示すために保守党に投票するものも出てきた」、という。P175。 二次大戦前の1926年に起きたことは多くの示唆を与えてくれる。24年の総選挙で保守党が政権を握り、チャーチルが財務相になった。彼は英ポンドを金本位制に戻し,輸出産業に大打撃を与えてしまう。石炭産業では大幅な賃下げが行われ、労働者たちは「自分たちの賃金を下げなくても炭鉱主たちの利益を下げればいいではないか」と考え、それに他の労働者たちも呼応してゼネストが敢行された。参加者は150万人から300万人と言われている。リベラルや左派は「労働者たちの分別の無い行動」と非難、ボールドウィン政権はストに参加した労働者に「非国民」のレッテルをはり、彼らの代わりに働く「秦に愛国的なボランティア」を募集した。これに応えて「中流階級や上流階級の若者たちだった。大学生や若い実業家が労働者の恰好をしてトラックを運転したり、臨時警官として働いた」(P183) さらに政府は警官隊を動員してスト破りを行わせた。労働者たちは、「英国の法は自分たちのような労働者を守るものではない」と気が付いた。また「労働者階級の人たちはこの時の経験により、自分たちの階級より上の人たちはその党派や思想が何であれ、いざとなれば「民主主義」の美名のもとに結束し、自分たちの抵抗を鎮圧するものなのだと学んだ」。 「これは「右」と「左」の闘いではなく、「上」と「下」の闘いなのだという事を彼らは悟った。自分たちのために闘うものは自分たちしかいないのだという事をゼネストの経験で肝に銘じたのだった」。P185 その次に、来るのが、「ゆりかごから墓場まで」で知られる『ベヴァリッジ報告書』に基づいて実施された行き届いた社会福祉政策である。 「1945年のピ―プルの革命が凄かったのは、それが単なる「庶民によるちゃぶ台返し」で終わらずに、「こんな国だったらいいのにな」というピープルの願いが乗り移ったかのような政治家たちが登場し、労働者のささやかな願いを次々に形にして行ったことである」P202 ベヴァンの住宅政策。 「通気性がよく、明るく、バスルームがあって断熱が施され、できる限り裁量の住宅」を労働者階級の人々のために建設しはじめた。 また、「一軒ずつの住宅だけではなく、図書館、博物館、体育館や学校など総合的な街のデザインを視野に入れた文化的なニュータウンプロジェクトが英国のあちこちで進められた」P203~4 しかし残念ながら、このような路線は労働党自身によっても引き継がれず、保守党のサッチャーのもとで「国民みんなでまずしくなりましょう」という「緊縮財政」の結果、格差は拡大した。生活保護受給者は「たかり屋」と蔑視され、保護費の不正受給が取り上げられ、「生活保護費で豊胸手術を受けたシングルマザー」などの記事が大々的に報じられた。キャメロン首相とオズボーン財務相は、福祉削減、公務員賃上げ凍結、付加価値税凍結を発表し、戦後最大と言われる緊縮財政が始まった。 この政権のもとで「国民投票」は行われた。「離脱派」が勝利したのは、政権への反発が一つの理由と著者は言う。「2016年のEU離脱投票ののち、私も離脱派の勝利の背景には緊縮財政があると書いた」(P273) そこへ、「移民」の問題が持ち込まれている。これは、「労働者階級の分断」につながると著者は主張している。 およそローマ帝国の施策以来、「被支配者を分裂させること」は、支配者側の鉄の原則と言っていい。「もはや階級はなくなった」とか、「総中流社会」などはその典型ではないか。 日本でも、「世代間の対立」「公務員は得している」という嘘が公然と語られている。 もう一度、「階級」、そして「労働者階級」という言葉を真剣に考えてみてもいいと私は思っている。 最後に、著者が直接インタビューした「労働者階級の人たち」の言葉を紹介したい。 「俺は、英国人とか移民とかいうよりも、闘わない労働者が嫌いだ。黒人やバングラ系の移民とかはこの国に骨をうずめるつもりで来たから組合に入って英国人の労働者と一緒に闘った。でも、EUからの移民は出稼ぎできているだけだから組合に入らない」(P77) 「労働者の価値観ってあなたから見たらなんですか? 助け合うこと、困っている者や虐げられている者を見てほっとかないこと」 この本には直接関係はないが、保守党の党首が近々のうちに決まる。いまは、「合意無き離脱」も当然アリと言っているボリス・ジョンソンがなりそうだ。どうも私の肌に合わない。橋下を見ているようなのだ。
2019.07.15
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『原発大国とモナリザ』竹原あき子 緑風出版 2013年11月 なぜ「モナリザ」なのか? 著者は二つの例を挙げている。1959年から69年までフランス大統領の座にあったド・ゴールは、「アメリカの軍事的支配を嫌って、NATOから脱退し、エネルギーでも独自路線を走った。そのためにアメリカの大統領だったケネディに対して、核保有国としての暗黙の了解を得る軍事外交の切り札として「モナリザ」をつかった ジャクリーヌ・ケネディが愛していた「モナリザ」貸与を当時文化大臣であったアンドレ・マルローを通してジャクリーヌに提案し、夫に影響を与えたのだ。貸与は1962年12月から1963年3月まで。ド・ゴールは「モナリザ」が、アメリカで公開されている間に、「…フランスは独自の核戦力を持つ事をここに宣言する」と語り、アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となり、国際的な発言力を増した」(P19) もう一つ。 「1973年のオイルショックはすべての先進工業国をエネルギー確保に走らせた。まさにその年に起こった田中角栄首相(当時)のウラニウム購入は忘れてはならない事件だ。田中首相は資源外交と称して英独仏をめぐった。フランスで会ったポンピドー大統領(当時)は濃縮ウラン購入を提案し、その見返りに「モナリザ」の貸し出しを約束した、という」(P18) 「「日米原子力協定」にもとづきアメリカに依存してきたウランをフランスから購入するという契約は、アメリカの核燃料独占供給体制の一角を崩すことになった・・・まもなくロッキード事件に遭遇した田中にとってアメリカの「核の傘」から出たのは彼にとってもあやうい選択だった。ただし、1972年12月には、フランスと日本の濃縮ウランに関するワーキンググループが既に設置されていた」(P18~9) さて、今後はどうなのか?「モナリザ」は再び切り札として使われるのか? 著者は以下のように予想している。 「その微笑みが消える気配はない。なぜならフランス、アレバ社が2012年に生産したウランの量は9,760トンだった。これはこれまでにない生産量だ。ロシアのカザフスタンに次ぎ世界で二位に相当する。福島以後、需要が減ったウラン。たまりにたまったウラン。価格が下がりつつあるウラン。そのストック分を世界中に売りさばかなければならないのだ。シェールガスあるいは水素エネルギーが原発エネルギー戦略を覆す前に、なにがなんでも中東とアジア諸国にババのカードを引かせなくてはならない」(P23) アレバ社は、核燃料棒を生産している。原発の建設がアレバ社なら、アレバ社の燃料棒を使い続けなければならない。燃料棒は1年の間に三分の一から四分の一入れ替えねばならない。さらに出力の落ちた燃料棒は廃棄燃料となるが、その廃棄物からリサイクルして残ったウランとプルトニウムを取り出す技術もアレバは持っている。そしてウランとプルトニウムを取り出した残りをガラスで固めて放射能を含む残滓を発注元に返却する。 しかし、ヨーロッパ、とくに隣国のドイツは脱原発宣言を行い、一時はアレバと組んでいたドイツのシーメンスは、「原子力発電が利益にならない」と判断して再生可能エネルギー開発に舵を切っている。 2011年3月11日以降、私たちは日本のテレビが映しだす、「水素爆発以前の建屋」の映像を何日間も見せられ続けていた。みのもんたの番組に出演していた「専門家」は、「建屋というのは原発を雨風から守っているだけで、無くなっても大したことはないのです」と言っていたことを思い出す。 ところが、「フランスのテレビ局は異常と思わせるほど津波より福島の爆発現場を長時間にわたって報道し続けた。…東京にあるフランス大使館(東京都港区)の窓ガラスをすべてテープでシールドし外気が入らないようにしている」(P45)と報じている。 「日本の関東地域にまで放射能の危機が迫っていることがアレバにわかったのは、現場にいたフランスとドイツの職員からの報告に信憑性があったからだろう。いやヨーロッパは我々以上に事故の重大性を知っていたのだ。チェルノブイリの教訓が残っていたからだ、という。日本にいた日本人だけがそれを知らなかった」(P44) アレバも、再生可能エネルギー分野を拡大しつつある。P48からP54にかけてその概要が年を追って紹介されている。 フランスはドイツに学んで確実にエネルギー政策を転換しつつある。しかし、両国の間には違いもある。 「ドイツの再生可能エネルギーが成功したのは企業の競争力が維持できるように再生可能エネルギーへの投資のほとんどは消費者個人からの出費でまかなった。フランスでは庶民への負担を減らし、つまり再生可能エネルギーへの投資額を電力料金に上乗せせず、なお大規模なエネルギー消費をする大企業の電気料金は優遇しなかった」(P129) さて、この本は2013年発売という事もあって、現在のフランス状況は捉えられていない。 2018年のマクロン政権の選択を配信されている記事で見てみよう。 フランスのマクロン大統領は、国内発電量のうち約70%を占める原子力発電への依存度を50%まで下げるとしてきた目標について、「10年先送りし、2035年に達成する」と明らかにした。再生エネルギーの発電量が伸びていないためだという。27日のエネルギー政策の演説で語った。オランド前政権は「25年」を目標にしていた。 マクロン政権は国内に58基ある原発のうち、14基を順次閉鎖する方針。原発の閉鎖で「雇用がなくなる」との反発が強く、マクロン氏は「原発を諦めるわけではない」とも述べた。 マクロン政権にとっては、燃料税の引き上げに反対する抗議デモが連日続いていることから、マクロン氏が「コストが安い」と主張する原発を急には減らしにくい。一方でマクロン氏の支持層とされる環境意識の高い住民にも配慮し、「50%」の目標は維持せざるを得ないという板挟みの状態だ。(パリ=疋田多揚) 2018年11月29日 朝日 さらに詳しい内容は、https://www.jepic.or.jp/data/w04frnc.html 海外電力調査会に掲載されている。 この本の末尾には「日本のウラン産業」という項がある。P194以降には以下のような記述がある。 「2013年3月26日のロイター通信はこのカメコ社(世界第三位のウラン鉱山会社)の重役のコメントを発表しながら、不可解なことが日本で起こっているという。というのは、福島での事故後、カメコは日本の電力会社すべてに未使用のウラン燃料棒があればそれを買い戻しましょうとアプローチした。そのカメコの申し出に日本の電力企業は一社も応じなかったという。・・・なにがなんでも再稼働、それにしがみつく日本の電力会社の背後に何があるのかを問わねばならない」(p196) 「日経」に7月9日、以下のような記事が載った。概要を説明すると、「原発の安全費が、想定の三倍を超えた」という。関電では、2850億円から1兆250億円、九電では、2000億から9千数百億円に。「17年度の電源構成に占める原子力の比率は3,1%だった。政府のエネルギー基本計画では30年時点でこの比率を20~22%としている」。すでに「海外では太陽光や風力の発電コストが10円を割り込む事例が増え、一部の地域では原発の競争力が揺らいでいる」。 原発は巨大な利権のかたまりである。その利権の前には住民の命も安全も物の数ではない。その利権のかたまりの上に乗っかっているのが、自公政権である。この事はもっともっと知られていい事ではないかと思う。
2019.07.10
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ある方から刺激を受けて、原発と再生可能エネルギーについて学んでみようかなと思った。どうもこういう刺激をいただかないと学ばないというのは生来の怠惰な性格からか。ま、学ばないよりいいだろう。 図書館から、以下の本を借りだした。 『2040年のエネルギー覇権 ガラパゴス化する日本』平沼光 日経出版 2018年1月。『ロラン島のエコチャレンジ』ニールセン北村朋子 野草社 2012年5月 『脱原発からその先へ ドイツの市民エネルギー革命』今泉みね子 岩波書店 2013年3月 『ドイツの挑戦 エネルギー大転換の日独比較』吉田文和 日本評論社 2015年12月 『原発大国とモナリザ フランスのエネルギー戦略』竹原あき子 緑風出版 2013年11月。 まず読んでみたのが、『2040年のエネルギー覇権 ガラパゴス化する日本』。 一読してはっきりするのは以下の部分に記してあることだ。 「原子力発電は。事故リスクやビジネスとしての競争力低下、そして放射性廃棄物処理という難しい問題を抱えている。かつての「原子力ルネッサンス」といわれた時期の勢いはなくなり、世界は原子力発電の扱いに悩む時代に入ったと言えるだろう」(P36) 再稼働をしようと言うときに、どこの自治体が引き受けるのか?また、その「自治体」の範囲はどこまでなのか?町か、県か、周辺の県には発言権はないのか? フクシマの事故は、日本人が想像する以上に海外では深刻に受け止められている。そして、再生可能エネルギーへの転換を国家戦略として進めている。トランプがパリ協定からの離脱を宣言して以降のアメリカでは、自治体、州単位での再生可能エネルギーへの転換の取り組みが進められている。P168以降にその実態が報告されているのだが、アメリカの名だたる企業(アップルからグーグル、スタバ等々)が出しているニュースリリースの題名が傑作。「トランプは気にするな。企業はイノベーションとビジネス機会を推進していく」。笑える。 この本を読んでいくうえでの一つのキーワードが、「限界費用」という言葉。P48で以下のように説明してある。 「限界費用とは生産量の増加分1単位当たりの総費用の増加分。・・発電で考える場合、発電量を1単位(1キロワット時)増加させるのに要する増加費用ということになる。火力発電で考えると、発電量を増加させるため火力を焚き増すのに追加する石炭、石油、天然ガスなどが主な限界費用となる。・・・再生エネルギーの場合、発電に必要な風や太陽光、地熱などはいくら使ってもタダであり、限界費用はゼロとなるわけだ」(P48) そして、著者が指摘しているのは、再生可能エネルギーを巡るめざましい技術革新である。 ここまで書いていくと、「日本のガラパゴス化」の内容は推察できる。 かつて世界を席巻していた太陽光発電産業は失速し、風力発電も依然として停滞している。 著者は、政府の方針の不統一さを紹介している。片方で、再生可能エネルギーの比率を2030年には22~24%とし、環境省が2015年に発表した報告書では2030年の再生可能エネルギーの比率を30~35%としている。 「2030年に再生可能エネルギー比率22~24%という日本の目標は先進各国と比べると消極的である。…欧州ではすでに20%から30%の再生可能エネルギー比率は達成されている」(P190) そして政府のこの消極的な姿勢にならうかのように、日本の再生可能エネルギー分野での凋落が目立っている。 日本の課題について著者は以下のように指摘している。 「再生可能エネルギー固定買取(FIT)制度導入以来、日本においても再生可能エネルギーの導入拡大が観られている一方で、その導入の約9割が太陽光発電という偏った状況になっていることや、FIT制度による国民負担の増加などが課題となっている。こういう課題は・・・欧州各国でも生じており、その対策が進められている。・・太陽光発電に偏った導入を是正する必要があり、・・・現状諸外国とくらべて高い日本の再生可能エネルギーコストそのものを低下させる必要がある。例えば、2014年における日本の太陽光パネル価格19,39万円/kW に対して、ドイツ、スペインは12,32万円/kW。太陽光発電の工事費は、日本12,88万円/kWに対してドイツ、スペインは3,41万円/kWとなっている」(P206) 著者は、送電部門の整備、スマートグリッド(次世代送電網)、AIとビッグデータの活用等の施策を提案している。 利権のかたまりとなっている「原子力村」の解体、」、電力会社の利益優先主義などに消費者が気づかないとこの事態は変わらない。 著者は、「ガラパゴスでも進化の努力はなされている」という何とも皮肉な事を書いている。P239。 まず事実を基盤とした透明性の高い議論を、という著者の提言は読むべき価値があると思った。
2019.07.08
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