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今日は月に一度の「歴史カフェ」。「育鵬社」系の方たちからは目の敵にされている「まなび舎」の教科書を使用。 三か月ほど参加できなかったので久しぶり。どんどん人が増えている。今日のテーマは、明治の鉄道。私たちが生活している地域(阪神間)の動きが報告されたり、「鉄道唱歌」の事も詳しく説明される。あの、「きーてきいっせいしんばしを・・・」ってやつですな。なんでも、パンフレットは1000万部売れたそうな。地理の勉強にもなりますからね。このころは政府が歌を使っていろんな物事を教えようという時代であったようで、「健康唱歌」などもあったといいます。 これに対して、詩もメロディーももっと質のいいものを、とはじまったのが「童謡」。 鉄道と言えば「鉄っちゃん」ですが、「読み鉄」(鉄道関係の本を読み漁る)を自称されている方が披露される知識が幅広く深くて面白い。いい趣味ですね。 あと、時代の変わり目に生きた人たちのこと。この教科書で初めて知った外山亀太郎。メンデルの遺伝の法則が蚕にも当てはまることを実証し、品種改良に努めた人である事。 文学では、一葉、漱石、鴎外が出ているのですが、藤村の『夜明け前』を強く推す意見もありました。同感。こういう会に参加して知識が広がるのはいいのですが、「あれも読みたい、これも読みたい」となるのは困ったことです。 今はとにかく「源氏」一本でいかないと。
2018.02.03
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知人から、「公民館の講座はなかなかいい」と言う情報を得ていたので、検索してみました。なかなか充実しています。てはじめに、「「論語」と韓非子」と言う講座を受講しました。無料です。講師は高校の国語担当の方で、きっちりした資料も作っておられて大変に参考になりました。『韓非子』は、もう20年くらい以前に角川文庫の現代語訳で読んだことがありますが、ぼろぼろになってきたので中公文庫で買い替え。原文、書き下し文、訳が載っています。 話を聞いていて、マキャベリの君主論を読みたくなりましたが、まずは、「源氏」です。
2018.02.01
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瀬戸内訳『源氏物語』、第六巻「若菜」を読み終わる。昨日と今日と二日で読んでしまった。猫が小道具として使われているのだが、その使い方がなんともうまい。柏木が女三宮を垣間見るところで猫を使い、女三宮の香の香りが移っている猫を偏愛する柏木。ここいら辺りから「ざまみろ」と言う展開になるのだが、源氏の何ともよくしゃべる事。 わが娘を思うあまりに周りの人間たちを振り回す親。またこの親が身分が高いために振り回される方もたまったものではないのだけれど、源氏のスケベ心は健在であり、いかにもいいことをしているという風を装いながら欲望を達成しようとする。 まさか、六条の御息所が再び出てくるとは思わなかった。霊の独白も凄い。 紫の上の「出家したい」と言う気持ちを源氏は拒否する。自らは「出家する心構えはできているのだけれど、あなたを置いて行くわけにはいかない」と言うのだが、瀬戸内さんの解説での指摘通り、「出家してしまったらもう性交ができなくなる」という下心は見え見えである。 紫の上は源氏からかき口説かれて出家できない。 それに比して、とっとと出家してしまい、源氏から「私の事も祈ってください」と言う手紙に、「どうせみんなりために祈るついでにあなたのことも祈ってあげましょう」と啖呵(?)をきるような朧月夜の君。もうこれは近代小説である。もちろん原文では読めないので(谷崎訳でもダメ)、瀬戸内さんの現代語訳は本当にありがたい。
2018.01.31
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以下はワタクシのレポートであります。私以外は全員国文科。丁寧な読みに感服し、今日も「黒字決算」でした。『三四郎』夏目金之助 1867年2月9日(慶応3年1月5日)~1916年(大正5)年12月9日 明治41(1908)年、朝日新聞に連載。9月1日より12月29日まで 翌09年刊。 <世代論> ①「小川君、君は明治何年生まれかな」と聞いた。三四郎は単簡に、 「僕は二十三だ」と答えた。 「そんなものだろう。 先生僕は、丸行燈だの、雁首だのって云うものが、どうも嫌いですがね。明治十五年以後に生まれた所為かもしれないが、何だか旧式で厭な心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、 「僕は別段嫌いでもない」と云った。P72 (1)時代を明治41年とすれば、三四郎が生まれたのは明治18年。「明治15年以後」に生まれている。 (2)明治15年(1882)年とはどんな時代か? 「軍人勅諭」発布。立憲改進党(大隈重信)結成。壬午軍乱(親日派であった閔妃にたいして兵士が反乱清軍これを鎮圧。閔妃は親清派に転換) 日本銀行開業 中江兆民『民約訳解』(ルソー『社会契約論』の訳) 板垣退助刺される。福島事件。政治小説の隆盛。 東大の学生数 法48 理82 文41 医138 古典講習科36 全国人口 3670万118人。 東大の学生数でわかるように、自然科学の隆盛 自由民権運動の活発化 軍隊への波及を阻止するための「軍人勅諭」 日銀開業 産業の本格的発展のきざし ②政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単にこれらの表面にあらわれ易い事実の為に占有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。 吾々は旧き日本の圧迫に堪え得ぬ青年である。同時に新しき西洋の圧迫にも堪え得ぬ青年であるという事を、世間に発表せねばいられぬ状況の下に生きている。新しき西洋の圧迫は社会の上に於いても文芸の上に於いても、吾等新時代の青年に取っては旧き日本の圧迫と同じく苦痛である。 我々は西洋の文芸を研究する者である。・・・我々は西洋の文芸に囚われんがためにこれを研究するのではない。囚われたる心を解脱せしめんが為にこれを研究しているのである。 社会は烈しく揺きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。揺く勢いに乗じて我々の理想通りに文芸を導くためには零砕なる個人を団結して、自己の運命を充実し、発展し、膨張しなくてはならぬ。P144~45 ☆「政治的自由」「言論の自由」を求めるのは過去の事なのか?では、「心の自由」とは何なのか?現実の社会においての活動からの撤退か? この「演説」は、漱石にとって批判の対象として書いているのか、それとも多少は本心の発露なのか? 英文学について、これは、漱石の自論なのか? 時代 戊申詔書 戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は、1908年10月14日に官報により発布された明治天皇の詔書の通称。日露戦争後の社会的混乱などを是正し、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示そうとしたものである。この詔書をきっかけに地方改良運動が本格的に進められた。ウィキ <「滅びるね」という言葉について> 日露戦争の経過について、英米の新聞を読むことができた漱石は、戦争の真の姿を知っていたと思われる。奉天会戦 日本海海戦のような派手な勝利だけではなく、予算は底をつき、「辛勝」の状態であり、けっして賠償金を大きな声で請求できるような実態ではなかったことを漱石は知っていただろう。しかし、新聞は日本軍の勝利を報じて部数を伸ばしただけあって不利なことは書かないし、政府や軍が事実を公表するわけもない。 日露戦後に陸軍がまとめた資料では、何月何日にどこどこの部隊が、どの地点からどの地点へ移動したかは記してあるが、肝腎の「評価」が全く書いてないという(司馬遼太郎)。作戦について記す時に最も必要なのは「評価」であるはずだが、存命のお歴々への配慮からか、記してない。戦争を改めて冷静に分析することが失われた時に、精神論が台頭するのは理の当然であり、その傾向は日中戦争から太平洋戦争に至るまで同じである。 国民は熱に浮かされたような状態で「講和反対」を叫び、日比谷暴動を起こしている。「日本は一等国である」という意識は「日英同盟」締結(1902)より日本人の心に刻み込まれている。※運動会にまで旗が掲げられている。 真の国力を知らぬ国民、知らそうとしない新聞。根拠のない自信と思い上がりは遠からず日本を滅ぼすだろうという漱石の見通し。
2018.01.24
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「トロイ戦争は起こらない」(ジャン・ジロドゥ)を見る。鈴木亮平がトロイの王子エクトールを熱演。 1935年11月22日、パリのアテネ座でルイ・ジューヴェ一座により初演。ヒトラーが政権を握って2年後である。ジロドゥは53歳。第一次大戦に従軍し、その後外務省に勤務していた彼にとって、トロイ戦争に仮託したこの作品はどんな意味を持っていたのだろうか。35年1月にヒトラーはザール地方を併合、3月には再軍備を宣言して徴兵制を復活させている。 1918年にドイツの降伏によって集結した第一次世界大戦から7年経ったこの時期、劇中でトロイの王子エクトールが語る戦争への嫌悪、少し前まで敵を殺し、味方の死者に語りかけてきた言葉は、おそらく作者ジロドゥーの体験と重なる部分があるのだろう。 「戦争は人間を平等に扱う、最も浅ましい、最も偽善的な方法なんだ」という言葉の裏にある数多の「事実」は容易に想像できよう。 エクトールは、獅子奮迅の働きをして戦争を防ごうとする。アフロディテの力を借りてスパルタの宮殿からパリスが掠奪してきたエレーヌ(ヘレネ)をギリシア側に返還する段取りも強引につける。国中の老人たちがエレーヌに夢中になっているのを押し切って。 ギリシアの艦隊の侵攻の様子は明らかに戦争覚悟のそれなのだが、法学者を脅して別の解釈をひねり出させる。 ギリシア側の先遣隊の一員から侮辱されながらそれにも耐え、敵将オデッセイとの対話においても様々な真実が明らかになりつつもかろうじてそれを押え、オデッセイから、エレーヌをギリシアの地に連れ帰り、戦争は行わないという約束を取り付ける。 妻がギリシアの軍人から侮辱されるのを眼前で見、思わず腰の短剣を抜きながら彼は必死で耐え続ける。 しかし最後の最後に及んで予期せぬことが起こり、彼は、「戦争は・・起こる」とつぶやかざるを得なくなる。 第一次大戦の開戦経過を検討したであろうジロドゥは、セルビアとオーストリアとの戦争でおさまるはずであったものが、あれよあれよという間に世界大戦へと発展したいきさつを外交官としての立場から振り返って唖然としただろう。 「経済的にここまで各国が密接に結びついている状況で、戦争など起こりえない」「ヨーロッパ各国の王室はすべて姻戚関係にあり、その事が戦争を防ぐことになるだろう」という見方は実際にあり、戦争が起こったとしてもそれは短期間で終了するだろうという根拠にもなっていたのだ。 事実を隠ぺいする、自国に加えられた侮辱を耐え忍ぶ、ジロドゥにとって、平和の維持はそれほどに重要なものであったということである。 しかし、彼は、人間の努力を越えた時点で起きる偶発的事態の恐ろしさも同時に認識していたと思われる。それがこの劇のラストに凝縮されている。 「戦争反対!」は、どんな試練に晒されるのか。「感情」を煽り立てるような雑誌が平積みで書店に並べられている中で、冷静な判断を広げていく道はあるのか?考え込んでしまった。
2018.01.18
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「日の名残り」をレンタルして観た。アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの演技、重厚感あふれる邸内の様子、さすがという思いを抱く。 大体は原作に忠実に進む。ただ、ラストシーンあたりは原作から読み取ったイメージとは異なっている。 私のお気に入りのパブでのシーンは短くカットされている。その代り、客の一人が、彼の執事と言う立場を計算に入れてだろうが、国際問題、イギリスはどうすべきかなどの質問を、主人の制止を振り切って彼にぶつけ、彼が「その問題につきましてはお役にたてません」と言う言葉を引き出して、「だから一般大衆は愚昧なのだ」と勝ち誇る嫌らしいシーンは忠実に再現されている。 さて、ラストシーンだった。 ミス・ケントンがプロポーズを受け入れ、契約期間よりも早く退職したいという申し出をスティーブンスにする。ちょうど折悪しく重要な会議が開かれていたために、スティーブンスはミス・ケントンの申し出に対して実に形式的な対応をする。彼女は、「このお屋敷に十数年もお仕えした私がやめようというのですよ、ミスター・スティーブンス。それに対する感想が、いまおっしゃったそっけないお言葉だけなのですか?」と言う。 この言葉に対して彼は、再びそっけない対応をする。 その後、彼女は彼に対して、「愚かしい振る舞いをした」と謝る。 彼は、「あなたが言われた事を本気にしてなどしておりません」と言い放ち、自分は忙しい、わが国の大事が進行している、あなたと軽口をたたき合っている暇はないとその場を後にする。 そして、彼は酒蔵に行き、ワインを見つける。映画では一本目を取り落すことになっている。原作ではそうではない。そして彼は、ワインをもう一度探し、彼女の部屋の前を通る。 「心に確信めいたものが湧いてくるのを感じておりました。この瞬間、ドアの向こう側で、私からほんの数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いているのだ・・・と。」(p274) 彼は彼女部屋に入ることなしに居間に戻る。 映画では彼は彼女の部屋に入り、彼女が泣いているのを見る。そして、彼女に対して、他の召使いの不始末を注意しておくようにと言い渡し、部屋を後にする。 彼は、朴念人なのか?朴念人に執事は務まらないだろう。彼は、彼女の心の内を知っている。しかし、必死になって自分の気持ちを抑えつけている。執事と女中頭が恋をして屋敷を同時に去るなどという事は彼には考えられないことなのだ。しかし、恋は恋である。 これこそアンソニー・ホプキンスの演技なのだ。 二人は逢って、昔話をし、そして別れる。別れ際になって、彼女は、彼と一緒になるという道もあったのにともらす。 バスが来て、彼女はバスに乗る。 「最後に視線を合わせた時、ミス・ケントンの目に涙があふれているのが見えました」 映画では、バスに乗った彼女はじっと彼の方を見続ける。すがるような視線を向けながら。 そして、映画のラストシーンは、原作にはない情景となる。 主人と二人でいるホールに、鳩が迷い込んでくる。鳩は結局ドアから外へ抜け出して大空へと羽ばたいていく。カメラは鳩の視線となり、邸宅から遠ざかっていく。 ここにはいろんな隠喩が込められているだろう。 ただ、私は原作のラストの方が好きである。ご主人様のために新しいジョークを考えて驚かせようとしているスティーブンスの方が。 アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの演技を堪能するだけで十分に価値がある映画であった。
2018.01.12
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『日の名残り』カズオ・イシグロ 早川書房 土屋政雄訳 1990年 「執事」という職業は、「ご主人様に忠実に仕え、ご主人様の世間的評価を上げるために全身全霊を尽くして自分がやらなければならない仕事に打ち込む人間」とでも定義できるかもしれない。 彼にとって、身の回りで起こる様々な事には常に優先順位がついている。「まずご主人様のために」であり、父の死も、自分に対して微妙な感情を持っている女性の心根を推察することも、後回しにされる。 執事として彼は新しいご主人様に仕えている。アメリカ人だ。もとのイギリス人の貴族とは大きく違う人格と言動を持っている。しかしご主人様である事には違いはない。彼は、新しいご主人様のために、執事として果たすべき職務の中に「ジョークの習得」を加える、それも大真面目に。ただ、この「ジョークの習得」という事柄は、巻末に至って全く新しい意味を持つようになるのだが、そこがなんとも憎らしいほど巧みな構成となっている。 全く突然に彼は新しいご主人様から、「イギリスを見てこないか」と言われる。彼にとっての「イギリス」とは、前のご主人様のもとに客人として訪れる政界の有力者、それも、数カ国の有力者であった。彼はその人々を「最良の人々」と評しているが、徐々に前のご主人様は対独宥和派であり、イギリスがドイツとの戦いに突入し、勝利したのちには、その「最良の人々」が、対独宥和派であった過去をできるだけ早急に忘れてほしい人たちであることが明らかになる。 この物語は、二重、三重の構造になっている。彼の述懐はのちに柔らかい表現で修正され、そして別の評価に取って代わられる。 彼はご主人様のご厚意を受け入れ、それまでほとんど旅をしたこともない地方へとご主人様のフォードを駆って乗り込んでいくことになる。 旅の目的の一つは、以前共に働いていたミス・ケントンに逢って屋敷への復帰を打診する事だった。必然的にミス・ケントンとの最初の出会いから始まって、意見の対立、息の合った仕事仲間としての二人の事、彼女の彼に対するうっすらとした好意などが語られる。それを読み進めていくことで、彼がどこで彼女とすれ違ったのか、なぜ彼は彼女の気持ちを知ろうとしなかったのか、知ることを怖れたのかが徐々に浮き彫りになる。 旅を続ける彼は、イギリスの「庶民」と出会う。そこで彼は、ずっと考えてきた「執事としての品格」だけではなく「イギリス人としての品格」があるという事実に目を開かされる。この展開は、見当違いかもしれないが、トルストイの『戦争と平和』のなかで、ナターシャとピエールがロシアの「庶民」を「発見」する過程を思い出させてくれた。 数ページにわたって展開される「民主主義とは何か」は示唆に富む。著者は、イギリスのEU離脱を厳しく非難する論説を新聞に載せている。政治的発言が少ない氏にとっては異例と評する向きもあるのだが、彼にとっては、政治的発言でもなんでもないのだろう。生活そのものから発せられる言葉は政治的でもなんでもないのだから。 彼は旅を終えて再びご主人様の待っているお屋敷に帰ることとなる。間違いなく彼は内面的変化を蒙ってご主人様と向かい合う事になるだろう。彼は、ご主人様のよき執事だけではなく、良き相談相手になりそうな気がする。まずジョークの腕を磨いてから。
2018.01.09
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二『エレファントム』ライアル・ワトソン 木楽舎 福岡伸一 高橋紀子訳 『動的平衡』のp238以降に引用されている、象と鯨とのコミュニケーション の場面を読んで、ワトソンの本を読んでみたくなった。 「海で最も大きな生き物と、陸でもっとも大きな生き物とが・・・超低周波音 の声で語り合っている」 この本の副題は、「象はなぜ遠い記憶を語るのか」だ。 まず、ワトソンの少年期の行動が語られる。それは、「仲間の少年たちと自然 の中で暮らす」というもので、象と、オランダ人からは「ホッテントット」(ど もる人)と呼ばれた牧畜を生業とする「コイ」の男と出会う。なんとかコミュニ ケーションをとろうとし、彼から多くのことを学ぶ。この少年期の体験がワト ソンのその後を決定づけている。 以下、「コイ」「サン」の人たちのことが語られ、象の生態、特にアフリカで 暮らす人たちの間で象がどのように崇拝され、扱われたかが記される。 第四章は「象たちの受難」であり、読んでいて胸の悪くなるような人間たち の行為が記される。正に大量虐殺としか言えない行為である。 「ヘミングウェイの生きていた時代には、1000万頭のアフリカゾウがサバン ナを歩きまわっていた。いまでは、その数は50万頭にも満たない。・・象は平 均して65歳まで生きる。65歳になると歯が使い物にならなくなり、飢えて死 ぬ。・・個体の増加数は年にせいぜい4%」。P136 象を楽しみのために撃ち殺す、牙目当てに撃ち殺す輩が次から次へとアフリ カに押し寄せる。開拓の進行は象の棲息地と重なりはじめ、「人間の生活を守る ために」象は殺される。 日本の例を見るまでもなく、動物たちの棲息域にまず踏み込んだのは人間で あって、その逆はない。象殺しは正当化される。 何が起こったか。象たちの牙が小さくなっていったのだ。大きな牙を持った 象が殺され、その遺伝子は伝わらない。牙の小さな象は牙目的の殺戮を免れる。 ワトソンが調査の対象としたクニスナでは、1914年には13頭だったのが、 1918年には17頭までに持ち直している。 なぜか?人間たちが戦争に熱中していたからだ。戦争が終わると象たちの危機 は再発する。象狩りが始まった。 またまた胸が悪くなるような光景。 そしてワトソンは、クロースと云う男に出逢う。彼は、すぐれた象の追跡者 である。 「動物の跡を追う技術は最古の科学である」という言葉をワトソンは紹介し ている。納得する。これは、『野生の思考』で、レヴィストロースが展開してい る論と限りなく近い。「偶然発見された技術」などはないのだ。緻密な観察と推 測、仮説、そのようなものから導き出されるものを私たちは「科学」と呼ぶ。 軽い小噺のようなエピソードもある。 オーストラリアに初めて牛が持ち込まれた。大陸全体に悪臭が発生、地元の 甲虫は牛の糞を処理できなかった。そこで出稼ぎ労働者の手を借りようとアフ リカからフンコロガシが輸入された。彼らは象の糞で鍛えていたので牛の糞を 上手く処理してくれた。P195 クロースとワトソンは象に襲われる。クロースの弟もその象に殺されていた。 象の凶暴な行動は、人間から撃たれて傷ついたり、虫歯になったり、発情期 であったりと様々のようだが、彼らの棲息圏内に入り、大量殺害を引き起こし た人間に責任の大半はありそうだ。 ワトソンの知り合いに、レイモンド・ダートがいる。彼はアウストラロピテ クスの化石を発見、当初は無視されたが、ダートの発見に感激したブルームと いう同志を得て猿人の化石を発見、いまでは高校の世界史の教科書にも載って いる。 ワトソンは動物行動学者の道を選び、様々な人たちと出会い、動物園の象を 観察することから始めている。そしてそこで彼は、デライラという象と出会い、 彼女の行動を子細に観察する。引っ越しをしたデライラは、部屋の中のある一 点に意識を集中しはじめ、干し草の山の中から大きな束を選んで運び、その地 点をすべて覆い隠して緊張が解けた状態になった。飼育係に訊ねると、病気で 体調を崩した象がもう始末するしかないと判断されて銃で撃ち殺された場所だ ったという。 私たちは好んで「超常現象」という言葉を使う。ただそれは、我々人間の感 覚器では捉えることのできない何事かが起きていることかもしれない。私たち は、この地球に棲息している生物のすべてについて完璧な知識を手に入れてい るわけではない。そこに、「生命への畏敬」という心的態度の根拠がある。 人体についての番組をNHKが放映しているのだが、臓器同士が会話を重ねて いるという事実に私は圧倒されている。よくもこんなに精密な仕組みがあるも のだと思う。それだけで「人間に対する畏敬の念」が自然に起きてくる。 新しい年、最初の一冊となった。1月8日
2018.01.08
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カズオ・イシグロ氏の「文学白熱授業」を見た。歴史と忘却、記憶という事を氏は様々な角度から語った。第二次大戦中に多くのフランス人がドイツに協力し、レジスタンスの闘士達を売った。ユダヤ人を告発した。しかし、戦後、ド・ゴールは、「すべてのフランス人が、ナチに対して勇敢にたたかった」という神話を作り出し、フランス人たちはそれを信じた。どこの誰が、ナチに協力し、レジスタンスの闘士を売ったかを知っていながらだ。 キャパの写真の中で、ドイツの将校たちと仲良くしていた女たちがバリカンで(はさみだったかもしれない)髪を刈られてトラックに乗せられているモノがある。 大通りの真ん中を赤ん坊を抱えて丸刈りにされた若い女性が周囲の人たちから罵倒されながら歩いている写真もある。鮮烈である。 しかし、上に記したような事実もあった。 これらのことは「なかったこと」にされた。イシグロ氏は、神話を作り出し、みんながそれを信じたふりをしないとフランスは内乱状態になったかもしれないと語っていた。氏は、冷戦終結の後に起ったユーゴ内戦に衝撃を受け、憎しみを煽る手段として歴史が使われたことを別のところで述べている。 「許そう、しかし忘れない」と言う言葉をどこかで耳にしたことがある。だがこれは、困難なことである。 たまたま読んでいる『法然』(日本の名著 中公)の解説の中で、塚本善隆氏は、法然の父が敵の襲撃を受けて瀕死の重傷を負いながら法然に言い残した言葉を紹介している。概略を記す。 お前は復讐をしてはいけない。これは前世からの私の宿縁なのだ。傷を負って初めて人に与えてきた傷の痛みが分かった。お前が復讐を遂げれば相手の子もまたお前を狙うだろう。それでは際限がない。敵を憎むことを止めて出家してくれ、一段高い立場から敵をも抱いてともに救われる道を求めよ。そしてわたしを弔ってくれ。憎しみの連鎖は、どこかで断たなければ永遠に続く。事が歴史的記憶であるだけに考えさせられる。政治は歴史を利用しようとする。歴史学は自立した学問であり、何かの目的のためにあるわけではない。研究対象も、叙述も歴史家にまかされている。 今年もあれこれと考えをめぐらすことになるだろう。
2018.01.05
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本日、68歳になりました。まさに、「冥土の道の一里塚」でしょうが、この一年を振り返ってみて、全く理解できないことが二つあります。 一つは、日本で、安倍総理が辞任に追い込まれていないこと。状況証拠は完全に黒なのですが、肝腎の記録が廃棄処分されたり、総選挙で国民が自民党に多数を与えてしまったから延命できたという事でしょう。 ひたすら「政治の安定」を求め、そのためには政治倫理もなにも知ったことではないという事なのでしょうか?自らの「決断」が大混乱を引き起こし、結果的に野党共闘を破壊した前原氏は、辞任もしていません。 「小池バブル」もあっという間にはじけました。なぜ何度も騙されるのか。有権者の責任は大です。 もう一つはアメリカのトランプ政権です。政権の重要ポストについている人々が解任されたり辞任したり。駐韓大使も決まっていないと思います。 こんな「政権」を延命させている共和党は何なのか?34%程度の支持者は確かに強固です。何があっても、何を言っても崩れない。狂信者としか見えません。 この人物が、アメリカの最高権力者となっており、歴代大統領が延期を続けてきた「イスラエルの首都はイェルサレムである」という1995年の議会決議を実行しました。アメリカに対するテロは増大する2018年になりそうです。その巻き添えが日本にも来るかもしれません。それが恐ろしい。 福沢の言い方を真似れば、「吾は東方の悪友を謝絶するものなり」であります。日本の安全はトランプ政権から距離を置く所にあるでしょう。
2017.12.30
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「リアル日本人」と言う番組を見ていたら、「暮れの大掃除は妻と夫とどれくらいの割合でやっているか?」という質問に対して、女性側で第一位に輝いた(?)答は、「妻10 夫0」。対して夫の方は「妻5 夫5」。街の声、スタジオの声はたいそう面白かった。男性は、「やってるやってる、オレはやってるよ」と言う系が大半。女性は「5対5」という結果について、完全に上から目線で発言。「普段やってないんだから、たまにやるとやってるように思いこむのよ」とか、「思い上がりよ」なんてお言葉も。 で、私も風呂場と窓の掃除。今日はホントにぽかぽか陽気で助かった。でも、窓を拭いていたら、途中で息が切れてきた。明日は雨模様。
2017.12.30
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この部屋の中で、様々な情報を集めることが出来る。人々の生活状態を知ることも出来るし、その国、地域でどんなことが話題になり、どのように報じられているかも知ることが出来る。半年間ではあるが、現地に滞在することもできる。肌で実感できるとこのシステムは好評だ。 仲間同士で情報を交換し合ったり、意見の交換もできる。なにしろ重大な決定だから、みんな慎重になっている。 ただ、各人の決定までのリミットは約10ヶ月と決められている。これだけは上も譲ってはくれない。いい方にとれば、このくらいの期間の方が決定するにはちょうどいいかもしれない。悩みだしたら果てがないんだから。 「面白いニュースがある」とAが私の方を向いて声を掛けてくれた。 「なんだい」 「この国に新幹線が導入されたんだそうだが、開業式の日に、出発時間が10分遅れたんだそうだ」 「それのどこが面白いんだい」 「まぁ、聞きなよ、問題はマスコミがどう報じたかだよ」 「「開業式の日に10分も遅れるとは何事だ!」って批判が集まったのか?」 「それじゃあ、面白くないだろう。「遅れを10分に抑えるなんてすばらしい!!」とべた褒め」 「なるほど、いいねぇ。候補にするよ、ありがとう」 私に残された日にちはあと十日。ただ、余り焦りはない。大体のところは決まっている。報告に行ってこよう。 ノックをする。 「入りますがよろしいでしょうか?」 「どうぞ」といつもの柔らかい声が聞こえる。 「決まりましたので報告に参りました」 「あと十日あるのに、いいの?」 「かなり自分なりに考えたつもりですから」 「どんなところが決め手になったの?」 「まず第一に美人が多いことです」 「体験旅行の時に気持ちが決まったみたいね」 「そうですね。そして第二に、食べることにみんなが情熱を傾けていることでしょうか」 「食いしん坊のあなたにとっては大切なポイントね」 「人生は楽しむためにありますからね」 「同感よ」 「では、その線でお願いいたします」 「出発は早めるの?」 「できれば、二、三日のうちに」 「そうね。手続きはこちらでやっておくから、準備に入って」 「ありがとうございます。これまでお世話になりました」 身の回りを片付けて、友人に別れを告げる。ささやかなパーティーが開かれる。 カプセルにはいる。カプセル内に水が満たされる。私は、そっと目を閉じて、聴覚に全神経を集中した。声が聞こえる。この声が、これまでの世界と違った世界への扉を開いてくれる。 いきなり、視界が開けた。 「男の子ですよ!!まぁ、立派な唐辛子がついてるわ」 紅潮し、汗まみれの顔が目に入る。泣いてるんだ。気が付いたら私も大きな声を出していた。 「元気のいい子ねぇ。3200g、はい!」 私はやわらかい手から、もう一つの柔らかく、汗に濡れた手に渡された。窓から、体験旅行の時に見たことのある高い塔を持つ教会が見えた。しかし、こんな記憶もあと二時間もしたらきれいに初期化されるはずだ。 こんにちは、スペイン! 「」
2017.12.28
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「現象学」なるものに初めて触れたのは学生の時だから、50年ほど前になる。とにかくわからなかった。皆目わからない。それがトラウマになったのか、倫理を担当するようになっても敬遠していた。意を決してある解説書を読んだのだが、これまた皆目わからない。 書店で『これが現象学だ』(谷徹 講談社現代新書)を買って読んでみた。もちろん、買う前に数ページ読んでみたのだが、買って(800円)みようと思ったのは、「なぜフッサールは「現象学」を構想する必要があったのか」と言う点について懇切丁寧に説明してあったからだ。 言い換えれば、この点の説明がない解説書は、私のような初学者にとっては無用の長物であるという事だ。 古代ギリシア人の思考はまず「自然哲学」と言う形をとる。彼らは自然に向かい合って、その根源(アルケー)を探ろうとした。ある者は「水である」と言い、「数である」、「火である」、「原子である」と言っている。その後、関心はいったん人間に移り、ソクラテス、プラトン、アリストテレスと来るのだが、アリストテレスが「万学の祖」とたたえられたように、その業績は、形而上学、倫理学、政治学、生物学、詩学などと実に多岐にわたっている。 その後、中世スコラ哲学を経て、ルネサンス期に入り、従来まで「哲学」と言う枠の中にあった諸学問が、枠の中から飛び出していく。政治学などはそうだろう。 しかし、19世紀になって哲学を取り巻く状況は一変する。 「論理的であり、かつ実証的でない学問は「学問」の名に値しない」という考え方の元、「自然哲学」は、物理、化学、生物、地学などに分かれて「哲学」から飛び出して行った。数学もそうである。コント(1798~1857)が、「経験的事実によって実際に検証されうる知識だけが本当の知識である」と主張。知識の発展を三段階に分ける。 第一段階は、神学的段階であり、超自然的な神によってすべての現象は擬人的に説明される。 第二段階は、形而上学的(哲学的)段階で、観察が重視されるようになってきてはいるが、いまだ、本質や本性と言った現象の背後にあるものが想定されて、現象は説明される。 第三段階は、実証的段階でここでは経験的事実に即して諸現象の法則が探求される。 コントは本質とか本性と言った「現象の背後にあるもの」を突き止めようとする従来までの「哲学」に「科学ではない」という宣告を行ったことになる。 フッサールは1859年に生まれ、1938年に亡くなっている。彼がまず取り組んだのは数学である。その後、哲学に興味を持つようになるのだが、彼は「ドイツ観念論」を心底軽蔑し、「事象そのもの」にはどうやったら迫ることが出来るかを考えるようになる。それは、「学問としての哲学は可能なのか?」と言う問いと同義語になる。ただ、万能のように考えられている科学も事象そのものを覆い隠してしまうかもしれない。そうなると、判断中止(エポケー)を行いながら、事象そのものが何に根差しているのかと言う確実な根拠となるものを見つけなければならない。その道のりにおいては、「自分で考える」ことが必須であるが、望ましいのは「ともに哲学する」人物と出逢う事である。 ここまでは分かった。そして、「現象学」が、他の学問分野に対しても絶大な影響を与えたという事もわかった。しかし、まだもやもやしている。ここから先が分からない。フッサールが何をやったのかと言う肝心な部分が著者の努力にもかかわらずまだ朦朧としている。 図書館に三冊ほど予約している本が届いているので読んでみよう。まず、門はくぐれたけれど、家の中に入るまでの道のりは遠そうである。
2017.12.27
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免許証の更新に行ってきて、新しい免許証を受け取った。「平成33年01月30日まで有効」と書いてある。 現天皇の退位の日も2019年4月30日と発表された。つまり、「平成」は、31年までしかないわけである。よほどのことがない限り、退位中止、続投という事はありえない。なのに、平気で「平成33年」と記す思考はいったい何なのか? ありえない日付を平気で使用する。この免許証を作成する担当者たちの中には、異論はなかったのか? 「昭和で言えば今年は昭和〇〇だね」と言う言い方はよく聞く。しかし、個人の身分証明書にもなる大切なシロモノを惰性で作っているとしか思えない。 西暦に切り替えるという発想はなかったのだろうか?だとすれば、何か大きなものが欠落しているように思えてならない。
2017.12.25
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NHKニュースを見ていると、今年の日本では134万人が亡くなり、94万人が新しく生まれたと報じていた。 『古事記』で、イザナギ、イザナミの神の話をするときに、イザナミを喪ったイザナギが黄泉の国へ行き、イザナミの「見てはいけませんよ」と言うタブーを破ってついイザナミの無残な姿を見てしまい、驚いて逃げだすと、イザナミが追ってくる。なんとか地上へ逃れることが出来たイザナギは、大きな石で蓋をしてしまう。イザナミが、「一日に千人殺してやる!」と呪いをかければ、イザナギは「なんの、一日に千五百人産んで見せる」と応じ、人口が増えるという事になりましたとさ、と言う話をする。 江戸期は、ほぼ3000万人で人口は停滞し、明治以降は増加に転じる。 それが人口増加は停滞し、減少傾向があらわになってからすでに数年経っている。 一方、軍事費は5兆1911億円が計上され、史上最高だという、イージス・アショアとか巡航ミサイルとかを二つ返事で買うようである。 「国を守る」のだそうだが、その「守るべき国」の姿はどんどん貧相になっている。一方で、「リニア談合」が問題となっている。ゼネコンは、老朽化したインフラを改修し、国民の安心を増大させることには興味がないようだ。私が本当にわからないのが、「東京と大阪を一時間で結ぶ」というキャッチフレーズだ。東京と大阪との間には活断層はないのか?M7.0クラスの地震に襲われた時に、リニアが走るチューブ(といっていいのかな)は絶対に破断しないのか?第一、誰が乗るのか? オリンピックだの万博だのと、1108兆円の借金がある国のやる事とは到底思えない。
2017.12.22
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『魂でもいいからそばにいて』 3・11後の霊体験を聞く 奥野修司 新潮社 柳田國男の『遠野物語』第99に、大津波で亡くなった妻と再会する男の話が収録されている。 私の師は山形出身で、何度か山形のお宅に泊めていただいたことがある。その時はじめて、ここら辺には、お盆という風習がないのです、と教わった。 お盆というのは、亡くなった方たちが西方浄土に行き、そこから帰ってくる期間のことを言いますね。ですから、迎え火を焚いたり送り火を焚いたりするのですが、この辺では、亡くなった人たちは小高い山や丘の上から親しい人を見ていると信じられています。ですから、お盆という風習がないのです、と。 柳田國男の著作を読んで、そのように思われている地域もあるという事をその後知った。 なので、この本に記してある事に対する違和感は全くなかった。 話は少し違う方向に行くのだが、私が大好きな漫画に「夏目友人帳」という作品がある。主人公は、普通の人には見えない「あやかし」が見え、周囲からは気味悪がられ、傷つくことの多かった少年時代をすごす。しかしその後、彼をふんわりと包んでくれるような遠い親戚の人と出会い、「あやかし」を用心棒として様々な困難を乗り越えていくというお話。 「普通の人には見えないものが見える」というのは、本当に異常なのだろうか?嘘つきなのだろうか? 「この天と地の間にはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」『ハムレット』 人間が何を見、聞くか。それは脳の機能であり、神経細胞の機能であると考えれば、両者の機能が百パーセント解明されていない段階で、「見えるはずがない」とか「聞こえるはずがない」と断言することはできないのではないかと思うのだ。 生者と死者との距離が近い東北では、それ以外の地域とは異なった精神風土があるのではないか。 著者は、阪神大震災の時には、霊体験が多くあったとは聞いていないと記し、日本で唯一地上戦に巻き込まれた沖縄では霊的体験をいくつか聞いたことがあると記している。 「集合的無意識のように、人間の奥深いところに組み込まれたもので、強い恐怖が引き金になってあらわれるのだろう。人間が予測不可能な大自然の中で生きぬくための能力だったかもしれない」(在宅緩和医療のパイオニアである岡部健さんの言葉)(P11) 阪神大震災の時も、霊体験はあったかもしれない。しかし、そういう体験をした人は誰にも語らず、語った人は一笑に付されて本人も納得するという形で終わってしまい、結果として世に出なかった可能性はある。 「納骨しないと成仏しないと言われますが、成仏してどっかに行っちゃうんだったら、成仏しないほうがいい。そばにいて、いつも出てきてほしいんです」という言葉がある。死者と生きる空間を共にしたいという思いがこの言葉に詰まっている。 「夜中に目が醒めると目の前に二人がいたんです。マスクをしてしゃがんだ妻に寄り添うようにしながら、娘が僕に手を振っていました。ただ、映像が、テレビ放送が終わったあとの砂嵐のようにザラザラしていて、輪郭しか見えないんです。ああ、妻と娘が逢いに来てくれたんだと泣いて手を伸ばしたら目が醒めたんです」(P25) 多くは夢の話だが、おもちゃが勝手に動いたり、死者からのメールが届いたりと、私の「常識」の範囲では本当に「不思議な話」なのだ。 ライアル・ワトソン『エレファントム』(木楽舎)を読み始めているのだが、この本の冒頭に、すでにこの地上から姿を消してしまった象の姿を「見る」少年の事が紹介されている。 このような「不思議な話」にも、私は惹かれる。 科学を否定するわけではないし、不可知論を擁護するわけでもない。ただ、「今の段階での科学」は完全ではないと思う。聞きかじりなのだが、宇宙には「ダークマター」という物質が存在していることは確かなのだが、まだその物質は観測できていないという。それと同じではないかと思う。 くり返しになるが、脳の機能も神経細胞の機能も完全に解明されているわけではないし、科学は万能であるともいえない。そんな段階で、「不思議な事」を全面否定することはないと思う。 震災に巻き込まれた人がどのような体験をしたのか、そしてその後、どのような体験をしたのか、一読の価値はあると思い紹介する。
2017.12.20
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『動的平衡』福岡伸一 木楽舎 を読了。氏の本はこれまで『生物と無生物の間』『世界は分けてもわからない』『フェルメール 光の王国』と読んできたのだが、今回がもっとも衝撃的だった。 一か所だけ取り上げると、第二章 汝とは「汝の食べたもの」である 「消化」とは情報の解体 という部分。 食べ物をよく噛んで、胃の中に送り込んで、胃の中で胃酸なんかでさらにバラバラにされて、腸で吸収されて私の身体の栄養になってくれる、というのがこれまでの私の考え方だった。 問題は、「バラバラにされて」の程度の問題だった。 「もし、他の生物のタンパク質がそのまま私たちの身体の内部に取り込まれれば、どうなるだろうか。当然のことながら、他者の情報は、私たち自身の情報と衝突し、干渉し合い、さまざまなトラブルが引き起こされる。アレルギー反応やアトピー、あるいは炎症や拒絶反応とは、すべてそのような生体情報同士のぶつかり合いのことである。そこで、生命体は口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。 消化とは、腹ごなれがいいように食物を小さく砕くことがその機能の本質では決してなく、情報を解体することに本当の意味がある。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位つまりアミノ酸にまで分解されてから吸収される 」。P67~68 うーん、「消化という機能の本質」。そこまで考えていなかった。 第八章 生命は分子の「淀み」の中のデカルトの考え方。倫理で何回か取り上げたのだけれど、「物心二元論」「機械的自然観」についての考え方、つまり「人間のパーツは取り替え可能であり、人間は一種の機械である」という考え方への違和感が一気に解消した。 氏が翻訳されている『エレファントム』『思考する豚』は、市立図書館で予約。来週には読めそうだ。また、『動的平衡』の2、3は学校の図書館に入れてもらうようにリクエスト。 周囲が「目から落ちたウロコ」で埋まりそうだ。
2017.12.17
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まろ0301さんへ いつも、このブログからは、たくさんの刺激をいただいています。 改憲、ということですが、人々が無関心に見えることが不思議です。あの戦争でたくさんの痛みを知ったはずなのに、またがyく戻りしようとしている。 私なりに考えてみると、いま、人々は理想に飽きたのでしょう。理想を追ってやせ我慢の暮らしをするより、日々を安楽に生きることが、何より大切になったのでしょう。 ヨーロッパでのネオナチの出現、アメリカの自国第一主義、アフリカの混乱、すべてが、人類の共通の理想から遠くなっていきます。そもそもなションsリズムを超えた理想があったかどうかも、わからなくなりました。 理想の憲法を守り抜く毅然とした生き方より、もっと贅沢したいのですね。理想なんか言ったら、鼻で笑われるご時世です。 釈迦の言葉「真理を捕まえても、とたんにそれは変容する。安心してはいけない」が心に響きます。 個人と社会の関係は、どうあるべきなのか。吉本隆明が死ぬ間際に「民主主義の終わり」と言ったそうです。みんなで知恵を出して、新しい政治系の在り方を追及しなくては。制度疲労を起こしていますね。 また、参考にさせていただきます。 (2017.11.12 11:46:50) ゆうかさんへ 私が私信を出してよかったと思ったのは、以前の職場の先輩が、退職されて後に、靖国を拒否して独自に遺族会活動をなさっていて、そのニュースを送って頂いたことです。時々語られる言葉のはしばしに凛としたものを感じてはいたのですが、まさかそこまでなさっているとは予想外でした。 私が今回の選挙を通じて得た感触は二つの相反する事柄でした。一つは、目の前の事象に振り回され、政治に絶望しか感じない人たちの多さでした。 民主党の失敗ののちに有権者は一斉に自・公へと回帰しました。今回は、都議選での自民党の壊滅的な敗北に希望を見出した人々は、衆院選直前の前原氏の民進党解党・希望の党合流に驚き、小池氏の「全員受け入れる気などさらさらありません」、そして「排除いたします」宣言に愕然としました。結局彼女は都知事の椅子を捨て去ることなく、「首班指名にはだれに投票するのか」という問いに答えられず、失速しました。 ただ、そのカオスの中で、枝野氏が「立憲民主」を立ち上げ、共産が独自候補を取り下げた結果、立憲民主が躍進しました。共産は議席を減らしましたが、「野党共闘」の芽は残りました。 ここには、眼前のカオスの中で、それでもぶれずに物事の本質を探って行こうとする人たちの良識を感じました。 「立憲」という名前は時宜に適したものであったと感じています。しかし、棄権という何とも愚かな選択(「棄権」も一つの選択である、という考え方に私は組しません)をした多くの有権者、またもう一歩進んで共産党へ一票投じるという選択を行えなかった有権者への失望もあります。共産党という政党についてあまりにも知られていないことが多いこと、「次善の選択」の中に共産党が入っていないことが残念でなりません。 ここまで右寄りの「野党」(維新、希望など)が出てきますと、「立憲」「自由」「社民」「共産」についての知識を深める事(それは共感であっても反感であっても)が大切であると思っています。 あと、憲法についての問題なのですが、我々の生活に身近な法律は上位法である憲法に基づいているものであると思います。「憲法裁判」といわれた「朝日訴訟」も25条の「生存権」が争われた裁判であり、その中で生活保護法もより充実してきた経過があります。「憲法を暮しの中に」「憲法を物差しにして考える」ということばは、憲法を現実に合うように切り詰め、改定するのではなく、現実を憲法に合わせて豊かなものにしていく過程と運動を現していると理解しています。 「子どもの権利条約」と「憲法」「教育基本法」、そして生徒と教職員が置かれている実態、それを照らし合わせ、さらに、教育学の知見とを組み合わせて自分の実践を続けていきたいと思っています(さて、あと何年持つかではありますが)。
2017.11.12
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二週連続の週末台風に日本列島全体が振り回された状態ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。 先日は、私信とはいえ、私の政治的信条を述べさせていただき、特定政党、あるいは野党共闘への投票を依頼するという事を行いまして、お心を乱してしまったことと思っております。 結果につきましてはご案内の通り、自民284議席、立憲民主党55議席、希望の党50議席、公明党29議席、共産党12議席、維新の会11議席、社民党2議席、無所属22議席となりました。 希望の党に民進党が吸収されるかと思えば希望の党の小池代表が「排除」という言葉を使ったために大混乱、従来までの「野党共闘」は解体かと思われましたが、共産党が候補者を下して立憲を支援、新しい形の野党共闘がある程度の成果を挙げましたが、その代償として共産党は議席を減らすこととなったのは残念な事でした。 自・公で三分の二を超える形となりましたので、安倍首相の念願でありました憲法改定(私は、「改正」も「改悪」も価値観を含んでいますから、「改定」という言葉を使わせていただいております)、の環境は整ったということになります。 臨時国会は開催されるものの実質審議はわずか三日程度であり、森友、加計の問題が納得のいく形で審議されるとは思えません。森友学園につきましては会計検査院の報告でも、「あまりにも過大な値引き」と指摘されるような案件が、「データを廃棄しました」の一言で闇に葬られようとしています。 加計孝太郎氏も、安倍昭恵氏も国会に喚問もされていません。こんな状態で、「憲法改定」という日本のかたちを変えてしまうようなことを行っていいのでしょうか? 安倍首相も深い関係を持っておられる「日本会議」のなかには、日本憲法の三大原則であります「国民主権」「基本的人権尊重」「平和主義」のすべてを廃棄することを主張されている方もいらっしゃるようですから、私は大変な危惧を持っております。 私自身、七十を目の前にして、大きな反省事項がございます。それは、皆様方と政治のことを話題にしてこなかったという事です。なんとなく、「政治のことを話題にするのは避けよう」と思ってきました一番の理由は、「人間関係を壊さないように」という配慮であったように思います。しかし、政治的信条は人それぞれ違ってあたり前のことであり、それを含めての「人間関係」であると思うようになりました。 「違って当たり前」を出発点として、その違いを埋める努力、率直な提言、疑問の提出がいま必要であると思っております。そのために、パソコンにメールをいただいたり、手紙を交換したり、あるいは直接お会いして意見を交換できればと思っております。 それでは、短い秋が冬に追い立てられようとしている昨今、御身体に気をつけられますように。
2017.10.28
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立憲民主党 枝野幸男氏 演説全文(10月3日)<冒頭> たくさんの皆さんに足を止めていただき、お集まりをいただきありがとうございます。立憲民主党の代表の枝野幸男でございます。今朝、正式に党として届出をさせていただきました。今この国が抱えている大きな課題に、今この国が直面している様々な危機に、政治がしっかりと対応しろ。大きな輪が広がってきています。その声にしっかりと応えていく器が存在しなければならない。そうした器がないならば、自ら作らなければならない。そんな思いで党を立ち上げさせていただきました。<立憲主義> 私たちの社会は、ルールによって規律をされています。みんながルールを守ることで成り立っています。権力といえども、自由に権力を使って統治をしていいわけではありません。憲法というルールに基づいて権力は使わなければならない。ルールなき権力は独裁です。 私たちは、立憲民主党という名前を付けさせていただきました。立憲という言葉は、古めかしい、分かりにくいという意見もあります。しかし、どんな権力でも、憲法によって制約をされる、憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る。この立憲主義というのは、近代社会において、あまりにも当たり前のことだから、特に戦後70年、私たちの国では、あまり言われませんでした。残念ながらというべきかもしれません。ここ数年、立憲主義という言葉をもう一度思い出さなければならない、そんな状況になっている。それが、今の日本です。 立憲主義は、確保されなければならないというのは、明治憲法の下でさえ前提でした。少なくとも、大正デモクラシーの頃までの日本では、立憲主義は確保されていました。戦前の主要政党、時期によって色々名前若干変化しているんですが、民政党と政友会という二大政党と言われていたそれぞれ、頭に「立憲」が付いていた。立憲主義は、あの戦前でさえ、ある時期まで前提だったのです。 ところがどうでしょう。憲法によって縛られているはずの内閣が、自ら積み重ねてきた解釈を勝手に変えた。論理的に整合性のない形で勝手に変えた。それに基づいて、自衛隊は日本の領土や領海を守るけれども、外国に出て行って戦争はしないんだという第二次世界大戦の教訓を踏まえた、先人たちが積み重ねてきた私たちの国是が、変えられてしまっている。これが安保法制です。 憲法に違反した法律は、一日も早く変えなければならない。違憲の部分を廃止させなければならない、主義主張、政策以前の問題であるということを、私は皆さんに強くお伝えをさせていただきたい。そうした力をしっかりと与えていただきたいと思っています。<表現の自由> 立憲主義だけではありません。共謀罪で表現の自由が危うくなっています。その間のメディアに対する有形無形の様々な圧力で、報道の自由度のランクは大幅に下がっています。<情報公開、公文書管理、森友・加計問題> 情報公開、その前提となるべき公文書管理、この24年の間に積み重ねられてようやく一定の水準にきた。良く知っています。どちらの法律も、作るとき、改正するとき、そのチームの責任者を私枝野幸男はやってきました。ところが、積み重ねられて一定のところまできていたはずの情報公開も公文書管理も、森友・加計、自衛隊日報問題、法律はどこにいったんだ。役所が、政府が、法律を守らない。こうしたことを前提にルールは作られていません。公文書管理法も情報公開法も、行政がちゃんとルールを守る、その前提で作られています。それをいいことに、作ってないわけない、捨てるわけない、そういう文書が捨てられた、全部真っ黒けなら、どこがおかしいのか、この先は公開してもいいんじゃないか、そういうことすらチェックできない。こういったやり方で開き直っている。 森友・加計は、スキャンダルではありません。税金の無駄遣いです。小さな問題なんでしょうか。1円たりとも税金の無駄を許さない。党派を超えて言っているはずじゃないですか。それなのに小さな問題ですか。森友学園の国有地の値段は億単位ですよ。国有地が安く払い下げられたら、その分は皆さんの税金が食い物にされたのと一緒です。認められるべきではない大学の設置が認められれば、そこに毎年毎年支払われる私学助成金は皆さんの税金です。森友も加計も、税金の使われ方の問題なんです。単なるスキャンダルではありません。<国民生活、経済> そして何と言っても国民生活。一億総中流。今私は53ですが、私が子どもの頃言われていた日本の社会の姿です。べらぼうなお金持ちも少ないけれども、特別なひどい貧困というのも少ない、そういう社会です。だから日本は経済成長できたんです。今の豊かさが作れたんです。世界一と言われていた治安のいい社会がつくれたんです。 三種の神器。テレビとか、洗濯機と冷蔵庫だったでしょうか。私の生まれるもっと前の話です。3Cと言われていた、カラーテレビ、カー・自動車、そしてクーラー・エアコン。最初は中流の中でもお金持ちしか買えなかったけれども、お隣うらやましいなと思っていると、いつの間にかほとんどのご家庭でそうしたものが手に入る、そうした時代でした、いつの間にかそうした日本社会はどこかに行ってしまいました。 格差が拡大し、貧困が増大している。これで景気が良くなるはずないじゃないですか。年収100万の人は100万しか買い物できないんです。消費できないんです。年収300万の人が仕事を失って、非正規でアルバイトでパートで何とか食いつないで、年収100万になれば、結果200万だけ消費は減るんです。逆に年収100万の人がそこそこの給料の正社員になれて、300万になれば、増えた200万はほとんど消費にまわるんです。貧困格差は気の毒な人を助けてあげましょうという問題であると同時に、そんなことを放置しているから、いくら株価は上がっても景気は良くならない。 格差が拡大をすれば、社会が分断をされます。社会が分断をされて、むしろ政治が対立をあおって、それで本当に日本の社会の未来は作られるんでしょうか。大きな政治の流れを変えていきましょう。<民主主義> 東日本大震災のとき、絆という言葉が使われました。分断をされていた社会が、あの未曾有の災害の中で、お互いに助け合おう、支え合おう、そうした絆が生まれたはずでした。しかしこの5年の間にどんどんどんどんその絆はむしろ弱められている。 しかしその一方で、安保法制をきっかけに、さすがにおかしいじゃないか。それまで政治にあまり関わりのなかった人たちが、ネットワークを組んで声をあげていただけるようになった。この流れを止めてはいけない。民主主義というのは、選挙で多数決で選んで、選ばれた議員が多数決でものを決める、これが民主主義だと思っているから間違えているんです。みんなで話し合って、できるだけみんなが納得できるようにものを決めましょう、それが民主主義なんです。 どうしても決められないときがあります。どうしても意見が食い違うときがあります。そのときに、ここまでみんなで話し合って、それでも一致しないならば、多数決で決めれば、少数の意見の人も、仕方がないですねと納得できる。この納得のプロセスが多数決なんです。 残念ながら、今まで国会で多数を持っている人たちに、この本質が分かっているんでしょうか。選ばれたから勝手に決めていい、数を持っているから勝手に決めていい、こうした上からの民主主義は民主主義ではありません。 俺たちの声を聞け、俺たちの現場を見ろ。そうした草の根からの民主主義こそが本当の民主主義であります。上からの民主主義に歯止めをかけて、草の根の民主主義を取り戻しましょう。 強い者をより強くして格差を拡大しておきながら、いずれ皆さんのところにいきますよ、トリクルダウン、滴り落ちますよ。上からの経済政策はもうやめましょう。生活に困っている人たちから、暮らしから、それを下押さえして押し上げることで、社会全体を押し上げていきましょう。経済全体を押し上げていきましょう。<対立軸、保守とリベラル> 右か左かなんていうイデオロギーの時代じゃないんです。上からか、草の根からか。これが21世紀の本当の対立軸なんです。リベラル新党よくできたと期待を頂いているんです。保守とリベラルがなんで対立するんですか。保守とリベラルは対立概念ではありません。 だいたい今の自民党が保守なんですか。一億総中流といわれて、世界一治安がいいと言われて、お隣近所、地域社会、お互い様に支え合っていた日本社会を、壊してきたのは誰ですか。日本社会のよき伝統を壊している保守なんかあるはずがありません。 私は人それぞれの多様な生き方を認め合う。困った人がいればここに寄り添って支えていく。お互い様に支え合う社会。 リベラル、そのことによって、おそらくここにお集まりいただいている多くの皆さんが育ってきた時代、日本が輝いていたと言われていた時代の、あの一億総中流と言われていた時代の、社会がこんなにぎすぎすしていなかった時代の、みんなが安心して暮らせていた時代の、日本社会を取り戻す。私はリベラルであり、保守であります。 今この国には、そういう勢力が残念ながらなくなってしまいつつある。伝統を、社会のこれまで積み重ねてきたものをぶち壊す、保守なんかではない保守を称する勢力と、その隣に、多様な価値観を認め合い、支え合い、そしてそうしたことが実現をされていた日本の社会を取り戻そうという、こういうぽっかり空いた穴があるんです。私たちは、そうした声をしっかりと受け止めていきます。<守るべきもの> 70年以上にわたって戦争をしなかった。平和を維持してきた。お互い様に支え合う社会で、世界一の豊かなはずの国を作ってきた。この社会を、平和を、民主主義を、立憲主義なんていう言葉みんな忘れてしまう、そのことが許されていた、そんな社会を私は守るために、新しい政治勢力を立ち上げました。 みんなで守りましょう。立憲主義を守りましょう。本当の民主主義を守りましょう。お互い様に支え合って、みんなで豊かになっていく。みんなで安心を作る。そんな日本社会を守りましょう。そのためには、東日本大震災を機に思い出した絆、支え合い。安保法制で気付かざるを得なかった、そこで声を上げざるを得なくなった。この国の主役は私たちなんだ。今国会で数をたまたま持っているから何でもやっていいわけではないんだ。俺たちの声を聞けという、そうした、今まではどちらかというと政治から遠かった、まさに民主主義の主役の皆さんの、そうした皆さんの声をしっかりと受け止めて、前へ進めていく、そういう政党として、立憲民主党は前へ進んでいきます。<まとめ> 生まれたばかりの政党です。生まれたばかりで選挙に突っ込んでいかなければなりません。自分の選挙も心配です。でも今日、何とかちゃんと10月10日に、立憲民主党として届出ができるように、その作業を進めています。 私たちは、私が昨日来皆様にお伝えをしている思いというものを、この国の、本当にこの国の未来を信じている、この国の未来を考えている多くの、これまではサイレントマジョリティだったかもしれない、そうした人たちに、大きな輪を広げていただいて、私たちに力を貸していただける、そう信じて決断を致しました。 まだまだよちよち歩きかもしれません。でも間違いなく、その歩みの進んでいく方向は、皆さんのご期待に応える方向である。そのことを自信を持って皆様にお約束申し上げ、是非力を貸していただき、お育ていただきたいとお願いを申し上げ、立憲民主党の代表として、皆様にお伝えをさせていただきます。本当にたくさんの皆さんにお集まりをいただき、足を止めていただき、ありがとうございます。皆さんのご期待に応えられるように頑張ります。ありがとうございます。
2017.10.04
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ようやく秋も深まり、朝夕は寒さを感じる季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか?普段は賀状のやり取りだけで済ませて頂いておりましたが、本日は最近の政局及び予定されております衆議院議員選挙について私見を述べさせていただき、ご理解を賜りたいと思い、お手紙を差し上げました。 すでに70近い私の人生の中で、これほど腹が立ったことはありません。言うまでもなく、現政権による党利党略解散です。森友学園、加計学園獣医学部新設を巡ってお友達、腹心の友に対する露骨な配慮が行われたことは状況証拠からしてほぼ確実だと思われます。その事を裏付ける書類は処分され、処分した人物は論功行賞として国税庁長官に栄進しました。 露骨といえばこれほどわかりやすいやり方も珍しいところです。 それだけではありません。 歴代の元内閣法制局長官が実名を出して批判をした「集団的自衛権行使」(「戦争法案」と呼ぶ向きもありますが)。これは歴代自民党政権の、「日本を戦争に巻き込まない」「自衛隊はあくまで専守防衛の部隊であり、その事によって国民の理解が得られている」という選択の結果でした。 それを「閣議決定」で変更しました。 続いて、「共謀罪」です。ニュース等で報じられましたが、当の法務大臣がろくに答弁できず、ついには答弁しようとすると制止されるという醜態を伴ったいくらでも拡大解釈可能な法案です。思想、信条の自由、そしてその現れとしての言論、出版の自由にタガをはめようという悪法です。 給料は上がったと報じられていますが、それは正規職員の場合であり、若い人たちが多くを占める非正規雇用の人たちとの格差は一向に縮小しておりません。 現政権が一日でも多くその座にとどまり続けることは日本にとっての不幸に他ならないと考えます。 そして、上に書かせていただいた諸問題と疑惑にすべて蓋をしての解散です。 本来ならば、野党共闘によって現政権を追い詰める絶好の機会であったと思われますが、ここに来て様相が複雑になってきました。それは、小池新党・「希望の党」の誕生と、前原氏による民進党解党です。 こういう職業についていることもあって、政治の動向については関心を持たざるを得ないのですが、小池百合子という人の過去を見るにつけ、あの方は、「自分が総理大臣になるためには、何でもするし、自分以外の人はそのための駒」という姿勢を一貫して貫いてきた人だと思います。 誕生したばかりの「小池チルドレン・都議」たちはどうなるのでしょうか?「育児放棄」と揶揄した方がいらっしゃいますが言い得て妙であると思います。 「希望の党」の構成メンバーは、右派から極右までずらりと並んでおり、解党した民進党のメンバーを小池氏が「選別」するようです。 選挙用に「マニフェスト」を作っているようですが、それは彼女のこれまでの言動を見ますのに、単なる人気取りの包装紙であり、もしも政権をとるようなことにでもなれば、「政治の現実」に合わせていくらでも変えることになるでしょう。消費税引き上げ反対も、原発廃止も、反故にされるでしょう。これは、彼女の経歴と言動を見返してみますと容易に想像できることだと思っております。「天性の詐欺師」とは言いすぎでしょうか? 私は、憲法を守り、それを生活の中に生かすことを望んでいます。戦争はどんなことがあっても行ってはなりませんし、思想信条の自由、そして言論出版の自由、教育の自由は基本的人権の中核をなすものとして大切にされねばならないと思っています。 民進党、共産党、社民党、自由党が地域の人々の要望に押される形で手を組み、現政権の議席を奪い取るというやり方はいったんストップせざるを得ないでしょうが、各地で、この厳しい状況の元でも初心を忘れずに共闘を探っていく動きは確実に存在しております。 選挙区で、野党統一の初心を忘れていない候補者がおりましたら、ぜひともその方に一票を投じて下さらないでしょうか。また、不幸にして共闘が成らなかった場合には、共産党候補に一票を賜ればと思っております。 ここまで読み進めていただいてありがとうございます。投票なさる時の参考にしていただけましたら幸いです。 季節の変わり目の気温の変動の激しい折、御身体を大切になさってください。
2017.10.01
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長年歴史教育に携わってきた人間として反省を込めて書かねばならないのが、「先の大戦で日本がなぜ負けたのかという事が国民的基礎知識として共有されていない」と言う点です。 今年の夏のNHKは、本当に気合の入った番組を製作してくれたと思います。「インパール」では、無謀な作戦を立案した上にだれも責任をとらないという卑劣極まりない旧日本軍の体質を暴露してくれました。 「731」では、はっきりと実名を挙げ。さらに東大と京大が協力していたという事実、参加していた医師は戦後も医学界の重鎮となったこと、取材を申し込んだ東大は「大学として組織的にやったことではない」として協力を拒んだことなど、「今」を照らし出してくれました。 満蒙開拓団がソ連兵に安全を確保してもらうために盾となって我が身を差し出した若い女性たちのその後。自分を守ってくれた姉が子供を産めない身体になってしまったので、自分の子どもを養子として差し出した妹・・・。 「戦後ゼロ年」では、本土決戦のために集積されていた物資を横領し、隠匿してその後の地位を築いた政治家、高級軍人、元右翼。米兵相手の売春組織を立ち上げた笹川良一。 「国民に対する犯罪を犯した彼らをなぜ尊敬しなければならないのか」とはジョン・ダワー氏の言葉。 「法の支配」が近代国家のあたりまえの姿であるのに、それがもろくも崩れていくのは、ドイツでも日本でも同じでした。 そしていま、同じことが行われようとしています。「日本ファーストの会」を立ち上げようとしている若狭氏は、「テロを行おうとしている人間は事前に逮捕しなければならない。裁判所の令状を待っていては遅い」と言いました。これは、ナチがやったことであり、日本でも「治安維持法」が無制限に拡大されて起ったことでした。「日本ファシストの会」と読んだ方が良いと思う根拠です。 朝鮮人虐殺への追悼文を断った小池は、この「日本ファシストの会」の事実上の指導者です。「あの」石原でさえ送った追悼文を拒否した小池は、確信犯としてのファシストであり、歴史修正主義者です。 歴史を学んでほしい、それも近現代史を。切なる願いです。
2017.08.26
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『ナチスの知識人部隊』クリスティアン・アングラオ 河出書房新社 2012 本文だけで430ページある。時間がなくて、内容だけ知りたいという人は、413~430までの「終章」を読めばだいたいの内容はつかめる。 私にとって、この本の新鮮さは、第一章にあった。 「本書で取り上げるグループのメンバーに共通する第一の経験は第一次世界大戦である」(P15)という文章で始まる第一章は、一次大戦でドイツが受け入れねばならなかったヴェルサイユ条約がいかに苛酷なものであったか(英代表団のケインズは、その内容、特に賠償金の支払い額に反対して帰国している)、また、食糧難の経験、肉親を失った経験などがトラウマとなってドイツの若い世代(子どもも含む)に対していかに襲いかかったかが示され、その後も通奏低音のごとく多様な例が引用される。 ドイツは領土を奪われ、文化を踏みにじられ、特に東方地域(ロシア)ではとんでもない残虐行為に曝された、それというのも、ただ「敗者である」という理由だけで、という考え方が国民の心の中にしみわたって行く。そこに、「ドイツは勝利を収めつつあったのに、共産主義者・社会主義者たちの「背後からの一突き」によって敗北を余儀なくされた」という事実に基づかない、それだけにドイツ人のプライドを満足させる「敗北理由」が重なる。そして、「ドイツ人を堕落させたのはユダヤの連中との混血である」というまことしやかな「原因」も付け加えられる。 1923年のフランスによるルール占領はドイツで超インフレ(物価が一兆倍になった)を引き起こし、西のフランス、東のポーランドによってドイツは消滅させられるのではないかという恐怖心を喚起する。 これらすべての「思い込み」は、シュトレーゼマン時代の協調外交と、アメリカ資本の導入による経済復興の時代には、記憶の「下層」に閉じ込められる。しかし、1929年のアメリカ発の世界恐慌はドイツの「復興」を木端微塵にし、ヒトラーの台頭を招く。 そのイデオロギーに共感した若者たちは、大学で学んだ知識を総動員して、以上のような「思い込み」「根拠のない噂」に「学術的な」衣をかぶせていく。 歴史の場合、その初発が1618~48年の三十年戦争であることに驚かされる。(P269~70)この戦争はドイツを戦場とし、人口の三分の一が失われたと言われる。ドイツの歴史は、近隣諸国によるドイツ侵略の歴史であり、ドイツは民族と文化を守るために正当な防衛戦争を戦ってきた、という「論証」から、一次大戦でドイツがこうむった「不当な措置」に説き及び、現在戦われている戦争は、ドイツが殲滅されるか敵を殲滅するかの戦争であると結論付けられる。 人種論も、政治的敵対者に対する容赦ない措置とセットになって「整備」される。ユダヤ人は、「アーリア人の血を汚したもの」として殲滅の対象となり、ロシア人、特にボリシェヴィキも殲滅の対象となる。最悪は、「ユダヤ人のボリシェヴィキ」である。 ヒトラーが権力を奪取して反対派を弾圧し、強制収容所を設立した時も、その事実は隠蔽されることなく堂々と報じられた。 法の概念も「民族主義的」に変えられ、警察に対する考え方も大きく変えられた。 知識人の一人である、ヴェルナー・ベストは、ゲシュタポの使命を以下のように述べている。 「政治警察の予防的警察使命とは、国家の敵を暴き、監視し、時至ればこれを撲滅することにある。この使命を果たすために政治警察は、必要目的の達成に求められるあらゆる手段を自由に使えなければならない。国民社会主義指導国家において、国家意思を実現するために国家と国民の保護を求められる政治警察のような制度は、当然ながらその使命達成に必要な権威、国家の新概念にのみ由来する権威を持ち、いかなる特定の法的正当性をも必要としない」 『ヒトラーを支持したドイツ国民』ロバート・ジェラテリー みすず書房 P49 第二次大戦は、徹頭徹尾「防衛戦争」、「ヨーロッパに散在し、迫害を受けている同胞ドイツ人を救う戦争」「ドイツ人が正当なる生活圏を確保するための戦争」として位置付けられる。 戦争開始とともに、まずポーランド軍によるドイツ人たちの死者がカウントされる。三週間で五万八千人(p233)。そして、ドイツ軍の住民殺害は「治安維持のため」とされる。ここでも殺害は「防衛的なもの」である。 そして、対ソ戦が開始される。1941年6月の事である。「ソヴィエトはナチスにとってユダヤ支配と野蛮なボリシェヴィキの国であり、そこではドイツ社会に内在するふたつの不倶戴天の敵が手を組んでいるのであった」(P235) ボリシェヴィキの野蛮さと卑劣さとは何度も兵士たちに訓示され、「強迫観念に近い考えを浸透させ、戦争の初期から極度の暴力行為を生み出すことになった」(P241)。 占領地域でのユダヤ人の殺害は、その多くが住民(ウクライナの例が多い)の協力を得て行われ、詳しい報告書が上層部に挙げられている。しかし一方で、労働力としてのユダヤ人の確保とユダヤ人の絶滅という問題は占領した地域の行政機関或いは国防軍と親衛隊との確執を生むこととなった。最終的には、「労働ユダヤ人の確保」は暫定的措置となるのだが。 絶滅、ジェノサイドという行為にとって、一つの「障害」が現われる。それは、「女子どもも殺すのか」という問題である。 「我々の子や孫に復讐するかもしれない子どもが育つのを放置することはできない。それはかつて経験したことがないほど辛いことです。兵士も将校も苦しむ危険はあるのです」1943年10月のヒムラーの演説の概略。P263 しかしこの「障害」も、東方のゲルマン化、ナチス千年王国の実現のためには必要なもの、絶対不可欠な条件とされることによって「乗り越えられて」行く。 だが、絶滅、処刑を実行する部隊に問題が生じなかったわけではない。 「大量の人間をいかに効率よく殺していくか」という「マニュアル」を自ら作っていかなければならなかったという事である。「初心者」たちはとまどった。殺すべき人間を一人づつ見つけ、森に行って射殺する。「人が人に暴力を行使する」(P299)という面が強く自覚され、混乱が生じ、処刑者のトラウマとなっていく。その中から、「まず犠牲者に穴を掘らせてから、穴の縁にひざまずかせ、二つのチームが交代に射殺していく」方式が生まれていく。 トラックを利用したガス殺はもっと嫌われた。死体の片づけ、その表情、垂れ流された汚物の処理のために。 最終的解決として、強制収容所に置いて収容者の中から死体を片付けるメンバーを選出し、収容者が収容者を管理するという方式が成立していく。 独ソ戦がドイツの敗色濃厚となり、ソ連軍の進撃が始まるとともに、ドイツの蛮行が知られるようになっていく。強制収容所で何が行われたかも徐々に伝わるようになる。一方で、ソ連の占領地域では、三人に一人がロシア兵から暴行を受けたとみられる。(P367) ドイツ軍は最後の抵抗を試みる。ドイツ軍の戦死者の三分の一以上が終戦直前の数カ月に亡くなった。 ドイツは敗北し、ナチス知識人たちは裁かれることとなる。かれらは、自分の仕事を「学術調査」(P379)に見せかけようとしている。更に、犯罪的命令を知ったのは「ロシアに入った後であると断言」さえしている(P379)。膨大なエネルギーを費やして自らの部局の活動を隠蔽し、自らの責任を小さくし、同僚の無実を証明しようとしている(P391~2) 「いかなる国も単独で罪があるのではありません。国々は生存と将来のために戦っている」(P405)という証言は、当初からのナチのイデオロギーを平穏に表現しているに過ぎない。実際は、言語に絶することが行われ、それは次々と肯定されていったのだ。 戦っている相手を貶め、自分たちとは違った人種であると強弁し、敵を殺害する精神的負担を軽くしようとする行いは第二次大戦参加国のすべてがやっていると言っていいかもしれない。 しかし、だからと言って、ナチスのやったことが免罪されるわけではない。更にもっと重要なのは、ナチスの例を引いて日本のやったことを大したことではないと言い募ることは過去の歴史を直視しない臆病者のやる事であり、そのような健忘症は、再び同じ道を歩む第一歩となることを忘れたくない。
2017.08.18
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「アイヒマン実験」とは、東欧地域のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンが、ドイツの敗戦後にアルゼンチンに逃亡、のちにイスラエルの諜報機関によって拉致されてイェルサレムで裁判にかけられた時(1961年)に、そのあまりにも平凡な容貌と人間像に対して、「普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提出され(『イェルサレムのアイヒマン』(悪の陳腐さ)ハンナ・アーレント みすず書房)、その翌年にイェール大学のスタンレー・ミルグラムによって行われた実験の事である。 実験参加者に対しては、「これは、記憶力を向上させるために罰は必要かどうかを試す実験です」と説明がなされる。例えば、「バナナ」「曲がっている」という一対の単語が複数提示され、生徒役の人物に対して、それを記憶するように指示が出される。時間を置いて、「バナナ」という単語のあとに、四択で単語が示される。続いて別の単語が提示され、また四択の単語が提示される。「生徒」が不正解の場合、「教師」役の実験参加者は、45ボルトから始まり、15ボルトづつ上がっていくスイッチを押して「生徒」に対して電気ショックを与えていく。「生徒」は、スピーカーを通じて苦痛を訴えるようになる。「やめてくれ!!」「早くここから解放してくれ!!」と絶叫する声が響き渡る。「教師」役の参加者は、後ろに座っている白衣を着て権威のありそうな指示者に対して、不安を訴える。指示者は、「続けてもらわなくては困ります」とか「これは社会的に意義がある実験なんです」、「私が責任を持ちますから」と言って、継続を促す。 実験の結果、最大450ボルトまで電圧を挙げた参加者(被験者)は、25人中16人いた(62,5%)。 この実験は、アーレントの著書とともに、「ナチは我々とは関係ない性格異常者の集団である」と思っていた人々に大きなショックを与えた。「我々も状況次第ではアイヒマンと同じことをやるかもしれないのだ」という衝撃が広がって行った。 2015年にオーストラリアのテレビ局が、ミルグラムの実験を検証した番組を作った。「「アイヒマン実験」再考」という題名で放映され、私は8月11日再放送の番組を見た。 方法は同じである。パターンはいくつかある。「生徒」の誤りだけが表示されるもの。マイクを通して絶叫が聞こえるもの。被験者(生徒)が「教師」の隣に座って苦痛を訴えるもの。「権威ある指示者」が途中で退席するパターン。被験者は不安そうに「権威ある指示者」の方を振り向いて見る。「続けてください」「重要な実験なんです」と「指示者」は続行を促す。 「生徒」は、途中で継続を拒否する。「いやだね、加計の様子を見に行く方が先だ」「私には無理、続けられない」と言って。 決定的だったのは、「指示者」が「選択の余地はないのです」と言った時に、全員が、「あるよ。止めることだ」と言ったのである。 番組は、最後に以下のように結論付ける。 一、ミルグラムの実験でも、37,5%の人間は途中でおりているのに、62,5%の方が強調されていること。 二、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』との相乗効果もあって、「私たちの中にもアイヒマンが潜んでいる」という事が強調され過ぎたこと。 三、アイヒマンは、決して「平凡な一市民」ではなく、ナチのイデオロギーを信奉していた確信犯であったことが無視されていたこと。 「ナチは私たちとは全く別の精神異常者である」という考え方に私たちはもはや安住は出来ない。しかし、「ある状況下におかれたら「誰でも」そうなる」という考え方もまた極端であるという事になる。 アイヒマンは、「私は命令されたことをやっただけでそれ以外の選択肢はなかった」とイェルサレムの法廷で語った。 テレビに写される「官僚」たちは、「記憶にありません」「記録は廃棄しました」と言っている。彼らはのちになって自分の発言が真っ赤な嘘であったと白日の下にさらされた時に「私には他に選択肢はありませんでした。命令に従うだけだったのです」と弁明するのだろうか。 72年前の敗戦から何を学んだのか?日本の上級官僚は、ミルグラムの言うところの「権威に従順な人々」なのだろうか。※「生徒」役の人はプロの俳優さんで、実際に電流はながされておらず、自分の目の前にある「今、何ボルト流れているか」の表示を見ながら、それにふさわしい演技(絶叫)をしているのです。 「再考」の番組では、最後にタネあかしがあって、被験者(教師役)は、胸をなでおろすのですが、「指示者」に殴りかかる人はいなかったか心配です。
2017.08.12
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夕食です。タイのかまに少しだけ塩を振って慎重に焼きました。5枚で450円でしたから、いい買い物だったと思っています。あとは定番の味噌汁。鶏と大根の煮つけ。
2017.07.04
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某月某日、某所で開催されました絵の展覧会に行ってきました。ある会の作品展です。古い友人の息子さんが出展されるという事で、行ってきました。 会の偉い方たちも多数お見えのようで、盛会でした。 私は何度か書いたことがあるのですが、「絵を描く」という点については全く才能といったものがないと思っています。半年間療養していた時に、色鉛筆とスケッチブックを買い込んで、「いざ」と出かけたまではよかったのですが、座り込んで大山を見て描きはじめ、10分ほどしてスケッチブックを見て、少し長めの溜息をついて家(故郷の)に帰り、スケッチブックも色鉛筆も机の引き出しの中にしまいっぱなしで今日に至っております。 若冲とかフェルメールの展覧会には人並みに行ったりしてきました。倉敷の大原美術館、神戸の市立美術館にも数回行っています。 私の絵を見る基準は、「部屋に飾っておいて毎日見たいかどうか」につきます。今私の部屋には、幼い時からずっと観てきた「晩鐘」が架かっており、居間には、友人の作品がかかっています。夕日に照らされた田園の風景です。 その基準で作品展を観たのですが、まず驚いたのが、女性像の多さです。年齢は若い女性が多く、初老の女性の絵は一点のみでした。ファンタジー系の作品が多く、まず食傷しました。 ですから、知人の息子さんの風景画の前にたどり着いた時は、本当に心の底からほっとしたのです。ただ、作品の数も多く、まだまだ歳も若いためでしょうか、上下に配置されている絵画の上の部分に置いてあります。そのために照明のため絵の表面がテカテカしており、鑑賞を害う「効果」になっていました。通り過ぎて、少し離れた角度から見ると、てかりも消え、落ち着いた作品として観ることができました。林の中を流れる川、上部に少しだけ空がのぞいているとても落ち着いた作品です。 その後も、ずっと見て回りましたが、心に残る作品は数点しかなく、出口に差し掛かったら、再び取って返して、その絵を見て、心を穏やかにしました。眼を洗わせていただいたというところでしょうか。 以下は、思いつくままの雑感です。 スーパーリアリズムの作品がありました。近くの方たちが、「あっ、血管まで描いてあるわ」と嘆声を挙げておられるのが耳に入ってきました。「写真みたいやなぁ」という声も聞こえました。 ただ、思うのですが、「写真みたい」な絵を目指すのであれば、写真を撮ればいいのではないかと思います。「ここまで描こうと思ったらすごいテクニックと苦労があるんだよ」という声があるのもわかるのですが、結果としての絵に関しては、要した時間も、テクニックも私は関係ないと思っています。「写真みたいな絵」は、「写真」には敵わないからです。ダリの「パンかご」を見た時もそう思いました。 私は、女性の絵が多すぎる事に対して違和感を持ったのですが、その根本にあるのは、現実に街を歩き、おしゃべりをし、喫茶店でイチゴパフェを食べている、あるいは真剣な面持ちでテストに取り組んでいる女生徒の美しさを凌駕している作品が一点もないことです。かろうじて、初老の女性を描いた作品から、とても暖かいものを感じ取ることができました。 何のために絵を描くのか?絵心の全くない私の独断を披露させてもらえば、それは、「現実を越えるもの」を描くことに尽きるように思います。歳のせいとばかりは言えないと思うのですが、足立美術館で一度しか見たことのない横山大観の「那智の滝」は、そのような作品の一つではないかと思います。あと、フェルメールの「デルフトの風景」。女性を描いた作品としては、上村松園の「序の舞」。他にもあるのですが、煩雑になるのでこれぐらいに。
2017.07.03
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6月15日は「国恥記念日」が相当する。一部を除いてマスコミは沈黙して政府の暴挙に手を貸した。 なぜ、「国恥」なのか? まず、戦後、日本国民が築き上げてきた(はずであった)「法の支配」が見事に無視され、「良識の府」として知られてきた参院の「良識」が、自・公・維の泥靴で踏み躙られた日である事。 次に、海外からこのような状況がどのように「評価」されるかという事。国連の報告者の書簡、懸念に対してほとんどヒステリーとしか言いようがない対応をし、このざまである。 私も恥じ入らねばならない。もっとできることがあったはずなのに、やっていなかった。 「これからできること」をやりたいと思う。
2017.06.15
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自由党の森議員が、「公益通報者保護法」について述べたのに対して、義家は、以下のように答えた。「一般論として、当該告発の内容が法令違反に該当しない場合、非公知の行政運営上のプロセスを上司の許可なく外部に流出させることは、国家公務員法違反になる可能性もあると認識している」(6/13)本日「仮に公益通報制度であるならば、それはマスコミに対して出すのではなく、きちっとした手続き制度があるので、大臣・副大臣に「こういうことがあったのか?」と訊くのが当然」。 馬鹿に磨きがかかっているというのはこのことで、「公益通報者保護法」の趣旨は、「これは、公益を侵害している」という判断をした個人、あるいは集団が、身の安全を確保しつつ告発を行うための制度で、「保護」の部分に力点がある。ストレートに上司に言ったとして、まず身の安全が確保されるのか?左遷、嫌がらせは続き、精神的に追い詰められて・・という事もありうるのだ。 「墜ちたなぁ」と思っていたら、まだ底があったという事だ。 彼はどこまで墜ちていくのだろう? 墜ちて行って、最高機密にふれ、その時初めて暴露する・・・なんて、テレビドラマの見すぎの事を考える。 もう一件。去年の11月9日に「国家戦略特区諮問会議」が開かれて、事実上、京産大は没という事になった。で、その前日に、内閣府の職員が、「特区諮問会議の議事次第資料」をよりにもよって今治市の職員に渡していたという事が明らかになり、内閣府は、「不適切な行為」と認めたという。 共謀罪をなにがなんでも通過させたい。国会早く終わりたい、というのはコレか?今度は「内閣府」であり、そのヘッドは安倍君だ。文科省の失態に対して激怒していた足元から煙が立ち上ってきたわけだ。 「キャスト」で、冒頭言っていた。「これだけの事が起きているのに、他の局はなぜ報道しないのでしょうね?」。正解は一つしかない。※目の前に三冊テストが並んでいる。だいぶ採点はしたのだが、採点に専念する環境は与えられない。 これもすべて安倍のせいである。
2017.06.14
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※えー、前もって申し上げておきますが、談志、圓楽、小朝のファンの方はお読みにならない方が良いと思いますよ。 まぁ、読んでいただいても良いんですがね、読んでる途中で台所へ走って行って包丁取り出して、私んチへおいでになられても、切っていただくものと言えば夏大根しかございませんので、なにとぞご容赦を願いたいと。 あー、でもこんなこと書いちゃうと、無性に読みたくなるってのも人の常なんですが、止めといた方が良いですよ。あくまで「個人の感想」なんですからね。 「アナザー・ストーリー」ってえ番組で、古今亭志ん朝師匠を取り上げておりました。ワタクシ、録画してDVDに落としちゃうと、HDDのほうは消しちゃうんですよ。ところが、これは消さない。いつでも、「見たい気分だな」ってえ時に、パッと見れる。これですよ、残り少ない人生での楽しみ。酒は飲めない、タバコは止めたし、パチンコ、麻雀とは縁を切ったし、小指の方とはとんとご縁がございませんので、テレビでこれっ!てえ番組をじっくり見る、面白い本を読む、晩飯をつくる、安くてうまい店に食べに行く、コーヒーのうまい店に行ってブラックで飲む・・・ぐらいしか残り少ない人生で楽しみてぇものがございませんからね。 志ん朝師匠の高座でのお姿は、ほんのちょこっとしか映りませんよ。いや、そこに文句があるてぇわけじゃあない。ワタクシすでにDVDを持っておりますからね。「落語研究会」編集になります上下巻。高座でのお姿はこれで拝見すりゃいいんですよ。 番組は例によって、「複数の視点から志ん朝師匠を見る」って趣で進行するんですが、談志がやけに出てくる。編集して談志のとこだけ削っちゃおうかなってぐらい出てくる。1936年生まれですから、49年生まれのワタクシと、そんなに違わない。「誤差の範囲だよ」って言いたいくらいしか離れてない。ですから、何度か見ましたよ、テレビで。だけど、面白くない。ワタクシ、御幼少のころから気が付けば、古典落語ばっかし聞いていたんですな。志ん生、文楽、圓生。圓生師匠はテレビで「死神」を演じてらっしゃるとこをみまして、サゲのところで震えが来たのを憶えてます。後にも先にもこれっきりの体験でしたがね。で、カセットテープを買い込みまして、車の中で何度聞いた事かわかりません。「文七元結」「鰍沢」、もちろん「死神」も。 ところが、志ん生師匠は違う。二、三度聞いて、「あっ、こりゃ誰にも真似ができない芸だな」って思いましたからね。 文楽師匠の「芝浜」、いいですねぇ。圓生師匠はもちろん。だけど、頑張ったら、何とか近くまでは行けるんじゃないかなって錯覚できそうなところがある。 ところが志ん生師匠は違う。ワタクシが談志が嫌いだってのは、「こいつ、志ん生になろうと思ってやがるな」と思ったからなんですね。で、何かと言うと、志ん朝師匠と張り合ってた。・・・無理なんですよ、どだい。マッチ棒削って奈良の大仏作ろうってなもんでね。それで嫌んなっちゃった。 圓楽はもともと好きじゃなかったんですが、たまたま高座で「浜野矩随」をやってた。おっかさんが息子をいさめるシーンがあるんですが、圓楽は本当に涙をこぼすって演じ方をしてました。志ん朝師匠の演じ方は、「落語研究会」編の「古今亭志ん朝全集」(上)を見ていただくしかないんですが、違う。突き放した言い方んなりますが、「本当に泣いてどうすんだよ、この馬鹿」と思っちゃった。芝居じゃないんだ、落語なんだよ!ってことでしょうね。 あ、小朝。これは短いですよ。聞けたもんじゃない。 あー、すっきりした。日ごろ思ってたことを全部言っちゃいましたからすっとしました。 さて、採点にかかりますか。 えっ、米朝師匠の事ですか?それはまた日を改めてゆっくり語らせていただきます。
2017.06.14
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いま、『源氏物語』を読んでいます。「須磨」まで読み進みました。知人によると、「須磨がえり」とかいって、ここでダウンしてしまう人が多いようですが、私の主目的は、源氏の因果応報(女三宮と柏木)を読んで、「ざまみろ!」と思う事ですから(かなりゆがんだ動機ですが)、こんなところで挫折なんてしておれません。 関連図書で、『「源氏物語」を江戸から読む』(野口武彦 講談社)を読んでいて、「「もののまぎれ」と「もののあはれ」」という8ページほどのエッセイが目にとまりました。「もののあはれ」というのは、「倫理」で扱います本居宣長の重要な論点です。「もののあはれ」で宣長が肯定しているのは、源氏と藤壺の恋の姿です。これを当時の儒学者はどう見たか。中々面白いのであります。 で、図書室に行きますと、なんとも古色蒼然とした本「日本文学研究資料叢書」(有精堂)があり、三巻が「源氏」にあててあります。第一巻の冒頭が、与謝野晶子さんの「紫式部新考」(1928年)。その中に、「もののまぎれに就いて」(山口剛 昭和14年)という短い文章があるのですが、これがまた面白くて、どんどん先が読みたくなるのです。 が・・・明日、自分の試験があります。三冊、120人分。金曜に一冊。趣味の読書は当分お預けとなるのです。
2017.06.12
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普通は、「『忠』ならんとすれば『孝』ならず、『孝』ならんとすれば『忠』ならず」といったふうに使用される場合が多い「忠」と「孝」。 ところが、孔子が使用した「忠」には、「自分を欺かない」と言う意味があります。そして、「人を欺かない」、のちに「上司に献身的に仕える」と言う意味が出て来たようです。 言葉というものは生きているモノであり、どんどん移り変わってゆく、廃れて行ったり、意味が変わったり、時には正反対の意味にもなる、というのは私たちが日常体験していることです。これを日本の儒学者の中で本格的に研究し始めたのが、荻生徂徠。その方法論から影響を受けたのが国学者たちですが、「忠」と言う字に本来「自分を欺かない」という意味があるというのは、まことに現代的なトピックに結びつく要素を持っていると言えます。 「上司への『忠』」を貫こうとすれば、「自分に対する『忠』」がおろそかになってしまう。文科省の現役の職員の方たち、内閣府の職員の方たちの中にもそういう方がいらっしゃるのでは・・・とつい余計なことを考えてしまいます。
2017.06.11
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他策なかりしを信ぜんと欲す」という言葉は、陸奥宗光が、日清戦争の時の外交交渉を回顧した『蹇蹇録』(岩波文庫 p371)に出てくる。 『他策ナカリシヲ信ゼント欲ス』という本は、佐藤栄作に依頼されて、沖縄返還の密使を勤め、この本の出版以後に自死を選んだ若泉敬氏の著作である。 どちらも、政策の形成過程を詳述し、後世に判断を委ねようという意図で書かれている。 世界史でいま、ギリシャを教えているのだが、『戦史』で、トゥキュディデスは、執筆の意図を以下のように記している。 「また、私の記録からは、伝説的な要素がのぞかれているために、これを読んでおもしろいと思う人は少ないかもしれない。しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性の導くところふたたびかつてのごとき、つまりそれと相似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相を見極めようとするとき、私の歴史に価値を認めてくれればそれで充分である。この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべくつづられた」中公クラシックス p25 資料を残すという事は、未来の法廷で裁かれることを前提としている。それは、己の行動に対する自負に裏打ちされている。 然るに最近、省庁において、「資料を残す」ことを軽視する風潮がみられる。財務省では、パソコンの更新とやらで、森友関係の書類が「合法的に」闇に葬られるようだ。防衛省の「日報問題」、文科省の加計学園関係の「メモ」も、政府は依然として「怪文書」扱いをし、前川氏の人格攻撃にいそしんでいる。 敗戦後の数日間、霞が関では大量の文書が焼却されている。今政府がやっていることは、1945年8月15日直後の数日間を再現しているかのようである。そういう意味では、すでに、「戦中」なのかもしれない。 資料が残っていれば、政策の形成過程を追って、評価を下すことは可能になる。しかし、肝腎の資料が失われてしまえば、評価はくだせない。証拠隠滅を図るのは悪党のすることであるという共通認識がなぜ日本では共有されないのか。 森友学園、加計学園、レイプで逮捕される直前に所轄署から警視庁が捜査権を奪い取り、不起訴に持ち込む。すべて安倍首相のお友達である。これはすでに「法が支配している国家」ではない。その認識も薄い。 お友達を優遇する政府は、かつて中南米の独裁国家でよく見られたし、旧ソ連、或いは北朝鮮でも、中国でも「よくある光景」として批判的に論ずる向きもある。しかし、今や日本がそうなっており、国連の人権担当者から事実を挙げての批判が出てきている。政府はそれをも否定している。 司法と立法府が、機能していない国はすでに近代国家とは言えない。 早く引き返さないと、禍根を残す。
2017.06.02
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BSで放映した杉村さんの番組を見て、暫く感慨にふけった。若いころ「労演」に足を運んでいて、名優を何人も見た。特に「櫻の園」のラネフスカヤ、東山千栄子、細川ちか子、杉村春子でみたのは本当に何にも代えがたい財産になっている。 「陳氏の日本夫人」のラストで杉村さんが舞台下手にたたずむ。大きく見えた。「名優は大きく見える」と言う実体験だった。 「女優の一生」「振り返るのはまだ早い」「自分で選んだ道」の三冊を借りた。さすがに、年代を感じさせる。 文学座は数度の危機に見舞われている。大量の脱退者を出して、存亡の危機にまで追い詰められている。杉村さんはもちろん、最後まで残って文学座の旗を守った。 今回読んでみて(「自分で選んだ道」)、三島由紀夫「喜びの琴」を座として上演しないという決定、それに対する三島のほとんど罵倒と言っていい縁切り状、そしてそれに対する文学座・理事の戌井市郎の理を尽くした反論を読めたことは収穫と言ってよかった。怠慢にも、三島の縁切り状の方は目にしたことはあったが、文学座からの反論は初めて見ることが出来たからである。 三島の縁切り状の中に、「諸君を北風の中へ引っ張り出して鍛えてやろうと思ったのに」(P201)と言う部分がある。「鍛えてやろう」である。何様であるのか。三島が、あの事件を起こしたのは1970年11月25日であり、この縁切り状は1963年のものである。 三島に対する本は腐るほど出ていて、その複雑な性格は誰もが指摘するところであり、優越感とコンプレックスがないまぜになっているところは動かせない。この縁切り状を見る限りでは、感情をそのままぶつけたと言っていい駄文であり、ウィキの年譜を見ると、自己顕示欲の塊としか映らない。 事件の後に、文庫になっている作品を通読したが、私にとって意味のあるというか、素晴らしいと思えた作品は『金閣寺』のみであり、あとは、すべて歴史の屑籠の中に放り込まれるような作品だと思った。 閑話休題 杉村さんが、晩年になって、「私は歳を言い訳にしたくない」と言う意味のことをBSの番組の中で語っておられた。杉村さんにして初めて言える言葉なのだけれど、足元にも及ばない私も、時々思い出して、自分にカツを入れないといけないなと思っている。
2017.05.06
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いまさらですが、『源氏物語』を読んでいます。何度か読もうとチャレンジしたのですが、挫折しました。原因は、主人公の「光源氏」にどうしても反発しか感じないのです。「若紫」なんてどう考えてもロリコンだし、高い身分をいいことに片っ端から女を口説きにかかる。自信過剰。あー、やだやだ、というわけで、挫折してきたのであります。 今回読んでみようと思ったのは、知人の薦めで、「薄雲」を読んでみたこと、そして、「源氏の事なんかどうでも良いんです」と言ってもらえたこと。 最初は家にある円地さんの訳で読み始めたのですが、主語、述語の関係が分からなくなるという事態が発生、図書館で瀬戸内訳と橋本治「窯変」を借り出しましたが、橋本「訳」は、ほとんど創作に近く、うっとうしくて生理的にパス。で、瀬戸内訳は、活字の大きさもちょうどいいという事で読み進めています。 無事、「ロリコンの巻」も通過、「末摘花」に入りました。
2017.05.05
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NHK BSで放映していた「趙姫」についてのメモです。趙姫 趙の都・邯鄲の生まれ、踊り子。呂不韋と恋人関係。 邯鄲に秦の皇子・子楚が来る。彼に取り入ろうとした呂不韋は、趙姫を差し出す。 BC260年 長平の戦い 秦、勝利。降伏した趙の兵、40万を生き埋めにする。 「長平の禍」。秦の六国に対する初めての勝利(恐怖心を与える目的)。 その4か月後、趙姫、子楚の子を出産(BC259年1月)。その後も秦は度々、趙に侵入。子楚は、秦に逃亡。趙姫と幼子は趙の人々から迫害を受ける。 BC250年、子楚、秦王となる(荘襄王)。趙姫と子は秦に脱出。 荘襄王死去、13歳で即位(秦王政) 趙姫・太后となる。呂不韋と「密通」。呂不韋、「仲父」と称する(王を導く)。 ☆2006年、趙姫の母,夏太后の墓発見される。神禾ゲン(土ヘンに原)(しんむげん)遺跡。十字のかたち(王族)。墓室は一つ(一人で埋葬されることを希望。それが実現している) 馬も六頭立て 「天子駕六」 秦は、女性が権力を握り、政治を行う環境にあった。 趙姫 自分が政治をとらねばならない。秦のことはよくわからない 呂不韋と頻繁にあっていた=後の世では「密通」 ☆1983年「張家山漢簡」(秦から漢の法令集) 夫が病死して、埋葬も終わっていないのに、棺の前で他の男と肉体関係を持った女。夫の母が訴えた。 (1)有罪 (2)ところが、上役がやってきて、「夫が生きていれば密通だが、死んでしまった後のことについては法には記してないので無罪」※罪刑法定主義 漢 「夫の死後、他の男と肉体関係を持ったら二千里の流刑」 清 「夫以外の男と関係を持つと、夫は妻を切り殺してよい」 秦の法律 夫が妻を殴った 夫は耳を切られるか、指を折られる。 漢の法律 夫は無罪 妻にとって夫は神に等しいから。 嫪アイの乱 呂不韋が趙姫に巨根の嫪アイを差し出す。趙姫、嫪アイにおぼれ、子をなした。趙姫は、その子を皇帝にしようとして政への反乱をたくらんだ。 ☆彗星が時々観測された(不吉)。人々が疑心暗鬼、自分も直接政治を握りたい。 政、先制攻撃。嫪アイは車裂き。呂不韋は追放。しかし服毒死。 嫪アイは、山陽と太原、呂不韋は洛陽に領地を持っていた。いずれも秦の国外。この二人を追い落とそう。罪を着せた? 趙姫は、幽閉 一年後に解放、宮廷へ。BC228年死去。1980年代、東陵発見。 母の死後、政は趙へと侵攻、邯鄲に赴き、母と自分に辛くあたった者を皆殺し。 政が、征服した国に直接足を運んで賞罰に関係したのはこの例のみ。 その後、16年で六国を滅ぼした。 BC210年、40歳で死去。BC206年、秦の滅亡 胡亥 父の後宮にいたもので、子どもがない女性を皆殺し。 宗族を殺し、社稷を破壊、律を焼いた 2014年発見の木簡に記載。 ↓ 大混乱 秦の滅亡 ※「秦」の特異性。教科書では「西方の後進地域」P82 西アジアとつながっている(宮崎市定) 兵馬俑のリアリズム。一代限り。法治主義。 「悪女」と判定されるのは中国史上では、呂后、武則天、西太后などか。評価の変化が、文書や遺骨の発掘を伴って行われているのが面白い。 ぼやぼやしておられない。
2017.03.31
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少し前から、BS朝の7時からの「キャッチ 世界のトップニュース」を録画して、見直すようにしています。今日は、「トランプ大統領が、「温暖化対策見直し」の大統領令にサインしたというニュースが報じられました。「国内のエネルギー生産を妨げるすべての環境規制、政策を見直す」という内容で、石炭火力の使用は勿論、オバマ政権では禁じられていた国有地での石炭採掘も認める方針です。カナダ・テキサスを結ぶパイプラインにもゴーサインを出し、先住民の間から反対の声が上がっています。 大統領は、地球温暖化と二酸化炭素排出の関連性を否定しています。 ただ、昨日の「キャッチ」では、「世界の気候」のコーナーで、北極の海氷面積が昨年は122万平方キロメートル(日本の面積の3倍)減少したこと、そのことによってアメリカを横断して吹く風の軌道が変化し、南部に寒冷な空気が流入し、周りの温暖な空気とぶつかって気候の変動(竜巻・雹など)が多発するという予測を立てていました。 トランプ政権の政策転換は、目に見える形でアメリカ国民自身に降りかかってきそうです。アメリカは、世界第二位の温室効果ガスの排出国なのですが(一位は中国)、国内産業の発展のために規制を取っ払う路線を選択したことになります。「アメリカ・ファースト」「アメリカを再び偉大な国にする」は、結果として、「持続可能な生産システム」と真っ向から対立することになるのですが、この政策に市場はどう反応するのか。私は株価は上昇し、ドル高を招来しそうな予感がします。市場は、この政策を「短期的利益のチャンス」と受け止めるだろうと思うからです。そして、ツケを払わされるのは、異常気象に翻弄される弱者になるでしょう。「資本主義は一定の規制を行わねば生き延びられない」と説いたのはケインズですが、その叡智は忘れられるのでしょうか? あと一つ、これは、29日付の「赤旗」報道ですが、トランプ政権が進めようとしている軍事費増大、外交費削減に対して、現役の軍高官が一様に反対しているという事です。 簡単に言えば「軍事力だけでは駄目だ」ということです。「ISに対する外国人戦闘員の流入阻止、資金源の遮断は国防総省以外が担当している」(ダンフォード統合参謀本部議長) 「今日の午後にでも、ISやボコ・ハラムを皆殺しにはできる、しかし、週末までに(殺されたメンバーの)補充は完了する。貧者が彼らに惹きつけられるのを防ぐには、教育、医療、生活を立て直す手段を提供することが必要だ」(ワルドハウザー・アフリカ軍司令官) これは、世界各地で「テロリストと戦っている」兵士たちの声、実感を反映したものでしょう。国防総省の予算が10%増、国務省、アメリカ国際開発局の予算の28、7%減を受けての発言です。 トランプ政権の現実からの遊離ぶりがうかがえます。
2017.03.29
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『兵士は戦場で何を見たのか』デイヴィッド・フィンケル 亜紀書房 第16歩兵連隊第2大隊が、イラクに投入され、そこで彼らが何を見たか、どんな経験をしたかを描いた作品。著者は、自己の意見を挟むことなく、淡々と兵士の体験と伝聞を記していく。 歩兵大隊は、ハンヴィーと呼ばれる装甲車両で移動する。ハンヴィーのドアの重量は180キロと記してある。一台15万ドル。この装甲車両を、道端のゴミの中に敷掛けてある即製爆弾(IED)が爆発して、鉄の円盤を飛ばし、貫通させる。乗員は重傷を負い、中にあった弾薬は熱せられて爆発する。重傷を負いながらもなんとか脱出できた乗員は、脱出できなかった仲間が焼き殺されるのを視なければならない。 周辺の住民は、おそらく誰が爆弾を仕掛け、どこで起爆装置を押したかを知っている。しかし、その事が米兵たちに知らされることはない。「正義のために」或いは「イラクの人たちをフセインの圧政から解放するために来た」と思っていた米兵たちは、イラクの人々が自分たちのことをどう見ているのかを体験を通して知ることになる。 戦争は殺し合いである。歩兵の場合、テロリストが潜んでいるとあたりをつけた家に突入する。場合によっては一人の男を捕えるために何人もの男たちや女たちを殺さねばならないこともある。そしてその現場を、まだ幼い少女に見られたりしたら・・。少女の視線は兵士から眠りを奪い、悪夢を見させる。タフだと思われていた兵士がPTSDを発症する。「PTSDなんて臆病者のかかるもんだ」という通念はそこで吹き飛んでしまう。 わずかながら米兵に協力する住民もいる。しかし、いったんその道に踏み込めば、毎日が死の危険と隣り合わせとなる。民兵につかまり、拷問されて殺されるという運命がいつ彼を襲うか知れたものではない。 明らかに異なるのは戦闘ヘリの乗員である。 彼は立ち上がって走り出した。「捕えた」と誰かが言った。そしてチマグの姿は新しく舞い上がった土埃の中に消えた。・・二機のアパッチヘリは旋回を続け、乗組員は話しつづけた。 「やったぞ、見えるか」片方が言った。 「了解。もう一度ターゲットを確認しようとしてるところだ」もう片方が言った。 「何人か横たわっているのが見える」 「了解。八人だ」 「間違いなく仕留めた」 「ああ、あの死んだ野郎たちを見ろよ」 「見事な射撃だった」 「ありがとう」(p144) ここで描かれているのは、ロイターのジャーナリストを敵と誤認してアパッチヘリから斉射を行ったシーンである。 地上を攻撃するときに、「ニンテンドーのゲームみたいだ」と喚いている兵士の言葉がテレビで紹介されたことがある。「人を殺している」という感覚はここにはない。 隊長のカウズラリッチは、帰国してのちに、負傷した部下たちを陸軍医療センターに訪ねる。 「最初にダンカン・クルックストンに会う事にした。保護衣を身につけ、保護ブーツを履き、保護手袋をはめて、19歳の兵士のところへ歩いて行った。左脚を失い、右脚を失い、右腕を失い、左の前腕を失い、両耳をなくし、鼻をなくし、まぶたをなくし、わずかに残ったところすべてに火傷を負った兵士のところへ」(p287)
2017.03.28
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4月からの担当科目が決まりました。現代社会(1年)、世界史(2年)、倫理(3年)、総合(「今を考える」2年)。週当たり10時間。のんびりしたいとも思いますが、生徒たちと一緒に学ぶ方がボケないでいいかもしれません。体調管理に気を付けてぼちぼちやりたいと思っています。 ホントに、最近は、「言葉」について考える機会が多くなっています。「言語は思考の形である」という事を私は師から教わりました。ツィッターを始めて以後、そのことをより痛感するようになりました。ブログ形式でも、考え方の異なる人と議論をすることは難しいのですが、ツィッターと言う更に字数制限の厳しいシロモノでは冷静な議論と言うのはほぼ困難です。 自分のことを棚に上げて言うようですが、論理の飛躍、詭弁、さらには論旨の捻じ曲げを体験すると、意見の異なる人たちとの議論には、「共通する言葉」のなさに驚かされます。差別意識むき出し、歴史的事実の捻じ曲げを見ると、呆然とします。 3月11日をめぐる状況についても、考えました。それは、他府県に移住をした児童に対する恐喝の顛末です。恐喝と言う表現はきついかもしれませんが、事実は「イジメ」の範疇を越えています。「補償金が出ているだろう」という脅し方の背後には、同じ言葉を使っている大人たちの姿が垣間見えます。突然の悲劇に見舞われた人たちに対して寄り添う気持ちを表明し、あるいは行動で示した人たちが多くいることは分かっています。しかし、悲劇に見舞われた人たちに対して心を寄せるのではなく、「補償金をもらっている」ことに対して妬みと嫉みとを口に出す人たちもまた数多くいるという日本の現実をどう考えればいいのか。そこに、私は「余裕のなさ」「自らの生活を支えるので手いっぱい」の人たちの姿を見てしまいます。生活保護を受けている人に対するバッシング、そしてそれを見聞きしているが為に生活保護を申請できないでいる多数の人たち。同じ構造です。「私がなぜこんな生活をしなければならないのか」という不満が、政治の歪みに対する怒りに向かわぬ場合、同じような境遇にあるのに自分より得をしている人たちがいるという歪んだ認識へとスライドしていきます。 格差の拡大、貧困は、人々から余裕を奪い、嫉妬の対象を広げます。 保護者の経済的基盤が子供の学歴を決定する社会がすでに始まっています。先日亡くなった三浦朱門は、小学校教育の目的の一つは、「早めに自分に見切りをつけさせる事」と語りました。「自分に見切りをつけた人間」は、「自己責任」と言う言葉を受け入れ、人権と言う言葉を自分とは無縁なものとし、低賃金に甘んじ、人の不幸に心を寄せる余裕を奪われます。 OECD諸国の中で最低ランクの教育予算、一方で、拡大するばかりの予算の無駄使い。 これを亡国の兆しと私は思います。 与党の政治家の法を無視した振る舞いが目に余ります。このまま推移すれば、青少年は、「高い地位に付きさえすれば法に縛られない「自由」が手に入る」と思うでしょう。憲法も、労働三法も、生存権も、自分の欲望の前には邪魔な存在でしかない、そう思うような青少年たちが育っていく国の姿を私は見たくありません。 仕方がないので、ゴマメの歯ぎしりを続けようと思っています。
2017.03.12
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三浦瑠麗氏の「山猫日記」(17/2/13)を見ていて、気になる箇所がある。「部分だけ取り上げて」という声もあるかもしれないので、全文にあたって頂きたいのだが(http://lullymiura.hatenadiary.jp/)、とりあえず強い違和感を感じた部分を下に抜き出してみた。 対話と圧力は、「融和と軍拡」に格上げし、双方の方向で踏み込むべきです。まずは、非道な国家の非道な指導者であることはいったん飲み込んで国交正常化交渉を進める。その上で、中国が抜け穴を提供することでほとんど効果をあげていない経済制裁には見切りをつけて、的を絞ってこちら側も軍拡を行い、かつ軍事的圧力の強化を行うべきです。 21世紀の国際的な勢力図を決定づける「宇宙戦」、「サイバー戦」の分野では、日米が腰を落ち着けて長期的な協力関係を構築する。日本の国防費と自衛隊の役割を段階的に拡大していく。優先して国内的な整理を行うべきは、敵基地攻撃能力の獲得と、非核三原則の見直しと思っています。核武装論自体は、時間をかけて、日本の民主主義が判断すべきテーマです。それとは別に、核を「持ち込ませず」については早期に見直し、NPT体制とも整合する形で核共有に向けて踏み出すべきだろうと思います。 私が氏と見解を異にするのは、(1)軍事的圧力の強化 (2)その具体化としての「敵基地攻撃能力」と「非核三原則のうちの「持ち込ませず」の見直しと核共有」、の部分である。 氏は、「中国が抜け穴を提供しているので経済制裁は有効ではない」という見方のようだが、北が、核兵器の性能を向上させ、飛距離を伸ばす方向に進むのを座視はしていないだろうと私は思う。そして、中国が「保護」していたとされる金正恩の北による殺害である。ここまでメンツを潰されて、依然として中国は「抜け穴」の立場を固守するのか?また、飛距離の向上はロシアにとっても他人事ではないだろう。 経済制裁は、今後重要性を増すと私は思っている。 次に、軍事力を拡大して北と対峙し、いずれは米と核を共有すべきであり、核武装も視野に入れるべきであるという所論についてだが、これは、北が核を「実際に使用するかもしれない」という前提に立っての論であると思う。 北は交渉のカードとして核を使っているわけで、実際に使う事はないと思う。他国の領内に対して発射し、甚大な被害が発生した場合、自国がどうなるかを予想しないほど馬鹿ではあるまい。相手にも理性とか判断能力(我々のそれとは若干異なるかもしれないが)があるとの前提に立つから交渉が成り立つわけである。 唯一の可能性は、体制が危機となり、脱出、亡命も不可能となった時に「死なばもろとも」的な形での発射だろう。 ただ、その場合、核を実際に発射するチームの中に、中・韓・露いずれかの国の工作員が潜伏していて、それも未然に防ぐ手立てをとっているのではないかと思う。半ば空想だが、現実にはあり得ると思う。いつ倒壊するかわからない国家に対して、倒壊した時の被害が最小限で済むように中枢部に工作員を送り込むのは蓋然性は高い。。 日本の軍拡や米との核の共有は、東アジアの緊張を高めるだけになりかねない。ましてや、米が現在進めているような核の小型化=実際に使える核、の開発は、核を共有することの危険性を高めることとなる。 拉致被害者の会は、「見返りを提示しての交渉を」という声明を出している。残された家族の高齢化など本当に切羽詰まった事情がその声明につながったと思うが、現実的ではないかと思う。 軍事力の格差が日本とは大人と子供ほども違う北朝鮮に対して、日本がこれ以上の軍拡を行うのは意味がない。「拉致被害者を帰さなかったら平壌が火の海になる」「核開発を止めなければ、空爆を行う。こちらは真剣だ」とでも言うのか?それは、北と同じことを言っていることになる。
2017.02.20
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1258年 - バグダードが陥落してバグダードの戦いが終結。アッバース朝が滅亡する。 破壊は徹底的に行われ、アッバース朝の故地にはイル・ハン国(フレグ・ウルス)が成立する。 ウィキペディアには以下の記述がある。 「1258年当時のイラクは現在のイラクとは違う。農業は都市の運河によって数千年守られ、バグダードは世界一輝かしい知の中心地だった。モンゴル軍によるバクダードの破壊はイスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。既にイスラム教は保守的になっていたが、バグダードの略奪によって、イスラム教の知的な開花は消されてしまった。アリストテレスとペリクレスがいるアテネが核兵器によって消滅する様を想像してほしい。モンゴル軍がどれだけ残虐であったか理解できるだろう。モンゴル軍は灌漑運河を徹底的に破壊したため、イラクは過疎化し衰退してしまったのだ」。(Steven Dutch)] この地域の農業はカナートと呼ばれる地下水路を利用して行われている。これをモンゴル軍が「徹底的に破壊した」というのだが、これは本当だろうか? カナートを破壊するということはこの地域を無人の地とすることである。砂漠化するということである。 同じウィキペディアには、バグダードを取り囲んだ軍の構成について以下のような記述がある。 攻撃部隊には大規模なキリスト教徒の派遣団がいた。主なキリスト教徒軍はグルジア人だったようで、彼らは破壊活動で活躍した。Alain Demurgerによると、アンティオキア公国からのフランク人部隊も参戦していた。Ata al-Mulk Juvayniは、1000人の中国人の銃の専門家[要出典]、アルメニア人、グルジア人、ペルシア人、およびトルコ人が包囲攻撃に参加していたと述べている。 このような構成の軍が、この地におけるカナートの重要性を認識していないはずがない。バグダードを陥落させ、人を大量虐殺し、財物を略奪して無人の野を作り出すこと自体が目的ではなく、いずれは占領地を統治することを考えねばならない。その場合に、カナートを破壊するか? モンゴル帝国の研究のレベルを一段階も二段階も引き上げたと言っていい杉山正明氏に『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書)という二巻本がある。その中に以下の指摘がある。 モンゴルは、チンギスの征西以来、意図して人々の恐怖をあおる戦略をとっていた。フレグもまた、占領地の民衆を動員し、属下の勢力を押し立てて、自分たちは限りない無量・無類の大軍団であるかのように装った。しかも、いささかでも逆らえば、とてつもない殺戮と破壊を平然とやってのける人間離れした集団であるかのように、ことさら噂を流した。 五百年の都バグダードが陥落した際、80万もの住民が虐殺されたという有名な話も明らかにこの一環であった。P185~186。 モンゴル帝国の成立過程では、この「噂を流して相手を戦わずして降伏させる」という手段がとられている。彼らが流した「噂」はかなり割り引いて考えねばならないようだ。
2017.02.10
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シアトルの連邦地裁のトランプ大統領が出したイスラム圏7か国からの入国禁止大統領令に対する「仮制止命令」「大統領令は、雇用、教育、ビジネス、家族関係、旅行の自由の分野で州民に否定的な影響を与える。公立大学やその他の高等教育機関の活動や使命に損害を与え、州の活動、課税基盤、公的資金に損害を与え、州自体が有害な影響を受ける。連邦政府に対し、大統領令の執行を禁じ、制止する。この仮制止命令は全国を対象としており、すべての米国国境、通関港で大統領令の執行を禁じる。司法府および本法廷の任務は、他の部門の行動がわが国の法律、さらには憲法に合致するよう保証することに限られる。本法廷は現下の状況において、三権からなる政府において憲法上の役割を果たすために介入しなければならず、上記の仮制止命令は必要だと判断した」まさに、「三権分立」の見本、教科書のような「制止命令」。アメリカのデモクラシーは生きている。
2017.02.06
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1936年の今日(2月5日) - チャーリー・チャップリン(1889年4月16日 - 1977年12月25日)監督の映画『モダン・タイムス』がアメリカで公開。 前作は、1931年、トーキー時代にもかかわらずあえてサイレントで撮った『街の灯』。日本での公開は1934年1月13日。 浮浪者と貧しい花売り娘との誤解とすれ違い、そして最後に待っているハッピーエンドのこの映画では、チャップリンは音楽も担当、心の中にポッと灯がともるような映画となっている。 『モダン・タイムス』は、『街の灯』とはかなり趣を異にする。 現代文明を築き上げた「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」のサイクル、そして「人間の生活を豊かにしてくれる科学技術万歳!」的思考が笑いという方法で批判される。 大量生産の現場でねじを締めるだけの仕事に従事する主人公は、仕事が終わっても身体の動きが元に戻らない。前から、ねじと同じ形をしたボタンを付けたドレスを着た女性が歩いてきたら思わずそのボタン(ねじ)を締めそうになる。 食事と歯磨きとを効率よくやることができる機械が発明される。そのぶん、労働時間が確保できるから。実験台は主人公。順調に動くかに見えた機械は暴走を初めて・・。 会場は爆笑に包まれる。・・・でも、、と、ふと考えてみれば、私はその笑われている主人公とどこが違うのか・・・と考え込まされてしまう。 工場に出勤する労働者のシーンは羊の群れが歩いていくシーンと入れ替えられる。 こういう映画を観ると、喜劇の持つ力を感じる。 さらに1938年から1939年にかけてストーリーを制作し、1939年9月、第二次世界大戦勃発後2週間後から撮影を開始し、1940年10月15日に公開されたのが『独裁者』である。チャップリンの自伝の中には、アメリカにかなりの「親・ナチ」がいたことが記されている。 それを実証しているのが、『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社・菅原出 第一次大戦後、英仏は米に対して巨額の負債を返済しなければならなかった。英仏は、ドイツからの賠償金の取り立てによってそれを行おうとし、米はドイツに対して巨額の投資を行って、このサイクルを支えていた。 問題は、米が、ドイツのどのような産業、企業に投資したかなのだが、上記の本によれば、それは軍需産業であり、I・G・ファルベンのような重化学工業の企業であり、結局はドイツの再軍備を助けることとなり、のちにはヒトラーを援助することにもなっていく。
2017.02.05
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レヴィ・ストロース『野生の思考』(みすず書房)を読んでいる。こんな一文に目を開かされた。 「土器・織布・農耕・動物の家畜化という、文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。今日ではもはや、これらの偉大な成果が偶然の発見の偶然の集積であると考えたり、ある種の自然現象を受動的に見ているだけでみつかったものだとする人はあるまい。 これらの技術はいずれも、何世紀にもわたる能動的かつ組織的な観察を必要とし、また大胆な仮説を立ててその検証を行い、倦むことなく実験を反復して、その結果捨てるべきものは捨て、取るべきものは取るという作業を続けてはじめて成り立つものである。 野生植物を栽培植物に、野獣を家畜に変え、元の動植物には全く存在しないか、またはごく僅かしか認められない特性を発達させて食用にしたり技術的に利用したり、不安定で、壊れたり粉になったり割れたりしやすい粘土から、堅くて水の漏れぬ土器を作ったり、土のないところや水のないところで栽培する技術、毒性を持った種子や根を食品に変える技術、逆にその毒性を狩猟や戦闘や儀式に利用する技術、多くの場合長い時間を要するこれらの複雑な技術を作り上げたりするために必要なのは、疑いの余地なく本当に科学的な精神態度であり、根強くて常に目覚めた好奇心であり、知る悦びのために知ろうとする知識欲である。なぜならば、観察と実験のなかで、実用に役立ちすぐ使える結果を生じうるものはごく一部に過ぎなかったのであるから」(p18~20) 『栽培植物と農耕の起源』中尾佐助 岩波新書 に記されている例を挙げれば、バナナを種なしにし、熟すと自然に脱落する穀物の種子を非脱落性に改良したのは誰であり、なぜそのようなことが可能だったのかという事になる。 それらを成し遂げた人たちとは、南アメリカ、太平洋諸島、あるいは北米大陸の原住民と言った、「文明人」からは「土人」と蔑視されていた(あるいは、いる)人たちと同じような生活を送っている我々のご先祖様であり、その人たちが形成している社会、そして抱いている思考は、我々のそれとは種類や様式が異なるものであって、「科学的な精神態度」が存在していることに疑問の余地はないとレヴィ・ストロースは主張している。 彼は、我々とは異なった社会で生活している人たちがどのようにして動植物、その他のものを分類しているかを、広範な例を挙げて説明し、さらに、「トーテム」、「カースト」に言及している。彼らの神話は何を現し、象徴しているのか。それは、彼らの生活形態とどのようにリンクしているのか。面白い。 いまのところ、第四章まで読んでいる。 これからの課題は、(1)本の整理(図書館に持ち込む) (2)読む本を絞る。 この二つ。あれこれ目移りがして、市の図書館に予約するのだけれど、大半はきちんと読めないまま。 また、テレビの方は、録画している番組をちゃんと見て、必要な場合はメモを取る、という事をやっているのだが、これも制限したほうがいいような形勢。消してまた録画できるDVD中心にしているので、DVDに落としたけれど見ないだろうなと思うのは消していっている。 時間と体力とを真剣に考えないといけない年になったという事であります。 まず、『野生の思考』を読み終えること。『OUR REVOLUTION』(サンダース氏の新著)を読むのは少し御預け。 現在、小論文指導している生徒の一人の志望先の過去問を見ると、英文と日本文を読んで答える問題が大半。で、彼は過去問を大半やってしまっているので、「Japan Times」と日本の新聞、あるいは書籍から問題を作って指導中。元・英文科志望(史学科に「転向」)だったとはいえ、40年以上きちんと読んでいない英文に向かうと、己の英語力が赤さびだらけである事を自覚。 良い頭の体操(ボケ防止)になっています。
2017.02.05
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勤務している学校の図書館に、本を持ち込んで引き取ってもらっています。「将来読もう」と思った本なのですが、これから先、おそらく読めないであろう本です。もちろんページが折ってあったり、線を引いたり書き込みがしてない本です。その代り、「これ」という本には線は引くわ書き込みはするわ・・となっていますから、ブック・オフなどには自動的に売れなくなります。今は『野生の証明』(レヴィ・ストロース) お棺の中に入れてもらって一緒に焼いてもらおうという算段です。 私にとって大切な本は、誰にとっても大切とは限りませんから。図書館に持ち込めば、誰かの目に触れる可能性はまだあります。
2017.02.03
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「美術家たちの太平洋戦争」BS 1月8日 を見ました。何となく昔から言われていたことが実証された貴重な番組でした。 アメリカが、敵国の美術品を保護するという任務を持った部隊(「モニュメンツ・メン」)を編成していたという事はなにかで目にしたことはあったのですが、日本を対象とした実際の活動について詳しく知ることができたのはいい事でした。 日米開戦も日本の敗色が濃厚となり、本土爆撃が視野に入った時点で、爆撃から守るべき日本の文化遺産のリストが作られます。中心となったのは、ラングトン・ウォーナー。彼が日本人の専門家も交えての作成したリストの中には、博物館、美術館、寺院だけではなく寺院、神社、そして個人の収集家も含まれていたことに驚きました。東京で26か所、奈良で15か所、京都が71か所。全国で137か所。そして、提出されたリストによって、「爆撃を避けるべき地点」が指定され、実際に137か所のうち8割が空襲の被害を免れています。東京では浅草寺は焼失してしまいましたが、上野公園は戦火を免れました。その中に、靖国神社があるのは何とも皮肉な事です。 また、戦後になって起こった、「美術品を賠償として提供する案」がどのようにして廃案となったかも初めて知りました。 この活動の中心となったのはシャーマン・リーという人物で、ウォーナーの孫弟子にあたる研究者です。彼は、「美術品は不可侵である」という信念の元、正倉院の御物などを賠償品として差し出すことに反対し、極東委員会の当初案を撤回させます。日本人にとっていかに文化財が敬愛の対象になっているかを示そうとして「正倉院展」が始まったとは初めて知りました。 いくつか考えたことを以下に記します。 信仰か文化財かの問題。 興福寺は貴重な仏像を吉野に疎開させました。法隆寺は、万が一の場合は、三体の仏像を池に沈め、私も一緒に池に飛び込む覚悟であったといいます。葛藤はあったでしょう。しかし、法隆寺の救世観音などは、もはや一寺院を離れた貴重な文化財であると私は思います。 また、敵国アメリカの日本美術研究者の手によって被害を免れたこと、賠償の対象とならなかったことは、あの戦争が「文化面での敗北」であったことも明白に示しています。政府は、「貴重な伝統的文化財を組織的に兵火から守る」という事をやっていません。つまりは、「燃えても仕方ない」と思っていたという事でしょう。最後は、「一億特攻」「一億玉砕」ですから、文化財の保護などは、視野に入っていません。恥ずかしいことです。本当に恥ずかしい。 また、日本が侵略の矛先を向けた国々で、軍は、その国の文化財を守るという活動を正式な任務として遂行していたのでしょうか。中国などで盛大に掠奪はしています。掠奪した文化財、特に書籍などを返還するというニュースが流れると、その図書館、博物館に脅迫の手紙が来たり、罵詈雑言を浴びせかける手合いがいると聞いたこともあります。 日本には、「支那学者」は多数いたはずです。しかし、その人たちが軍に働きかけて文化財を戦火から守ろうとして、それを軍も受け入れたという事を寡聞にして知りません。 自国の文化財に対して、他国の文化財に対して、日本人は戦争中に全く敬意を欠いた行動をとったという事になります。 アメリカの「モニュメンツメン」の活動、ウォーナーとシャーマン・リーの活動、フランスのルーブル美術館の美術品の疎開、などを知るにつけ、考えさせられることは山ほどあるのです。 日本の伝統がどーのこーのという手合いが、日本を「戦争ができる国家」にすることに熱意を傾けているというのは、彼らの思考の中に、「文化財をどう守るか、引き継いでいくか」という事が皆無であることをはしなくも語っているという事でしょう。 日本史の図録にも載っている尾形光琳の「燕子花図屏風」は、元は西本願寺が所有していたものですが、売却し、購入したのが根津嘉一郎という人物で、かれが根津美術館を建てたのは1942年。所在地は東京都港区南青山です。ここも戦火を免れています。 実は今日は三年生の最後の授業だったのですが、以上のことをベースにした話をしました。明日はセンター試験。頑張ってほしいものです。
2017.01.14
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『抗うニュースキャスター』金平茂紀 かもがわ出版 2016年 金平さんが、「テレビ・ジャーナリズムを考えるための10冊」の中に、『デスク日記』が入っています。今は、『原寿雄自撰 デスク日記 1963-68』弓立社 として出版されている本です。学生時代に読んで、「新聞記事というものがどのように出来上がるのか」という事をある種のショックとともに知ることができた本です。大正製薬のドリンク剤を飲んで何人かの死者が出ているという事実を、なぜ新聞は書くことができないのかというあたりの消息を今でも記憶しています。 仕事柄、新聞記者の方と話をすることもあるのですが、記者の書いた記事がすべて紙面を飾るわけではない。取捨選択する人がいて、その人のゴーサインが出ないと記事は没になる。そういった話をうかがうと、取捨選択する基準は何なのか?と訊ねたくなります。「いや、いろいろあってね」という答えが「大人の答え」らしくて、よく聞きました。 かなり親しくなると、どの筋から待ったがかかったかを具体的に教えてもらったこともあります。 2015年6月25日、自民党本部で開催された「文化芸術懇話会」において、「マスコミを懲らしめるためには、広告料収入がなくなるのが一番」「日本を過つ企業に広告料を払うなんてとんでもないと、経団連などに働きかけしてほしい」(大西英男衆議院議員)という発言が飛び出し、さすがにこれは報道されました。「文化芸術懇話会」において、「文化・芸術」を真っ向から否定する発言が出るあたり、さすが、「自由」「民主」党の面目躍如です。 NHKの籾井会長の発言は、およそメディアのトップたる資格なしと断ずるに足るものでした。 さて、金平氏が取り上げている多数の例の中から、まず一つ取り上げてみます。 広島テレビの岡原武氏のドキュメンタリー「プルトニウム元年」3部作は、地方の時代映像祭で大賞を受賞するなどきわめて評価の高い作品だ。被爆地・広島の視点から原発問題を直視した鋭角的な視点がきわだつ。 放送前の社内プレビューで社長が「内容が一方的だ。君らこれを放送するんか」と言い放ったという。放映から一年後、岡原氏と上司の報道局長、プロデューサーら4名がそろって営業局に配転された。電力会社はCM出稿をストップした。電力会社の第二労働組合がかなり露骨に局に抗議を申し入れてきたという。…岡原氏はそれから丸十年間、報道現場から外された。以降、広島の地から原発問題を正面から扱う番組はほぼ消滅した。原爆はOKだが原発はNOとされたのである。(P57) 問題は、作品の出来不出来ではなく、電力会社の機嫌をそこねたことにあったという事です。これは、大西発言が、根も葉もない発言ではないことを示しています。 さきほど紹介しました「文化芸術懇話会」のなかで、「福岡の青年会議所理事長の時、マスコミを叩いたことがある」「スポンサーにならないことが一番こたえることが分かった」(井上貴博衆議院議員)と、私の眼から見れば犯罪行為としか言いようのない行為を得々と自慢げに語っている「議員」が所属している政党の事ですから、表に出ていないことをどれほどやっているかわかったものではありません。 この本のおおきな特徴は、著者が、独自に設定している「論点の整理」にあります。「原発事故」のケースを紹介しましょう。 ①今回の原発事故の重大性、深刻さをテレビは伝えることができたか?メディア自身にとって「想定外」だったことはないか?当初の「レベル4」という原子力安全・保安院発表に追随するような「発表ジャーナリズム」に疑義を呈することができていたか? ②事故について解説する専門家、識者、学者の選定に「推進派」寄りのバイアスがなかったか?その一方で、「反対派」「批判派」にたいして、排除・忌避するようなバイアスがなかったかどうか? ③原発からの距離によって描かれた同心円による区切り(原発から何キロ圏内)を設定して、メディア取材の自主規制を行っていたことをどう見るか?さらに、各メディアによってもうけられた取材者の被爆線量の基準は妥当だったのか?一方で、線量計を持参して原発至近距離までの取材を試みたフリーランスの取材者をどのように評価するか? ④「風評被害」の発生について、テレビはどんな役割を果たしたのか?パニックの発生を恐れるあまり、過剰に安全性を強調することがなかったか?安全性を主張する際に、その根拠にまで遡及して報じていたか? ⑤「国策」化していた原子力発電推進について、テレビが果たしてきた役割を検証する自省的視点があったかどうか?電力会社の隠ぺい体質や情報コントロールについて批判する視点が担保されていたかどうか? ⑥テレビにおける過去の原子力報道の歴史を共有できていたか?原発を扱う事をタブー視する空気にどこまで抗してきたかどうか?スポンサーとしての電力会社を「相対化」する視点が、しっかりと担保されていたかどうか? ⑦テレビに限らず、企業メディアにおける科学部記者、専門記者の原子力発電に対する視点、立ち位置が批判的に検証されてきたことがあるか?何よりもテレビにおいて、原発問題に関して専門記者が育成されてきたかどうか?記者が推進側と「癒着」しているような構造はなかったかどうか?(P46~8) この論点の整理、新しいニュースに接した時、大変に参考になると思います。 原発事故が起きて、建屋が吹っ飛んだ時、テレビは長い間その瞬間を伝えませんでした。そして、私が見ていたテレビの「専門家」は、建屋というのは、風雨を防ぐようなもので、吹っ飛んだからと言ってどうってことはありません、と述べていました。その「専門家」はいつの間にか姿を消したのですが、名前を覚えていないのが残念でたまりません。 「ウォッチドッグ」(権力を監視する番犬)か、プードルか? ブッシュ大統領に対して、「ブレア首相はあなたのプードルですか?」と質問したのはブレア首相に同行してきた新聞記者だった。(P106) マスコミの首脳が頻繁に首相と会食し、その事を恥とも何とも思っていない国に私たちは住んでいます。 政府の意に沿わぬジャーナリストを公然と辞めさせろという国に私たちは住んでいます。 言論の自由など歯牙にもかけない権力者が本音を丸出しにして恥じない、そして国民の多数がそれを許容し、あるいは無関心である国に私たちは住んでいます。 私たちにとって必要な情報源はどこにあるのか?どのようにそれを育て、守っていくのか?私たちに問われている問題であると思いますし、それを考えるうえで絶好の一冊であると思います。
2016.12.27
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『中村屋のボース』インド独立運動と近代日本のアジア主義 中島岳志 白水社 2005年 近くのスーパーに行くと、「中村屋」の製品が並べられている。「中村屋のカリー」もある。「カレー」ではなく「カリー」だ。なぜ?という疑問を深く追及することもなかったが、この本を読了して疑問が氷解し、「インド独立運動と近代日本のアジア主義」についても、多くの知見を得ることができた。 話題は少し飛ぶ。現在使用している日本史の図録、自由民権運動の箇所には、日本各地の政社が図示されているのだが、その中に「玄洋社」という政社があり、丸カッコが付けられている。丸カッコの意味は、民権運動の政社として出発した玄洋社が、国会が開設され、政府と民党が予算の使い道を巡って対立し、民党が「民力休養」を主張して軍事予算の削減を主張したのに対して反旗を翻して、「国力強化のためには軍備拡大が必要」と主張するに至ったためであると思われる。 玄洋社は、「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」という社則を掲げていた。 この本の主人公であるラース・ビハーリー・ボース(R・B・ボース)は、イギリスの植民地であったインドで独立運動を繰り広げ、インド総督ハーディングに爆弾を投げつけて負傷させた事件を起こし、イギリス政府からテロリストとして徹底的に追跡されて、1915年に偽名を使って日本に脱出した人物である。 彼が日本を選んだのは、ロシアに勝利し他日本がアジアの諸民族から尊敬のまなざしを受けていたという理由からである。しかし、日本は1902年に日英同盟を結んでいる国でもあった。その日本に渡航し、潜伏し、後に帰化し、妻をめとり、インド独立の旗を日本で掲げ続けることがなぜ可能であったのか。 その理由の一つが、玄洋社の頭山満を筆頭とするアジア主義者たちがR・B・ボースを庇護し、新宿中村屋にかくまう様に渡りをつけたことにある。 日本政府は、イギリスからの再三のボース逮捕を簡単には受け入れていない。しかし、とうとう退去命令が出る。期限までにはアメリカ行きの船便はなく、上海か香港に渡航するしかない。そしてそれは、英官憲による即時逮捕を意味している。これに対して、政府の行為は「国威ヲ失墜セシムルモノナリ」という批判の声が上がり、新聞にもボース(以下、「ボース」と記すのは、R・B・ボースの事であり、チャンドラ・ボースではない)に対する同情と政府の非道を突いて世論を喚起する記事が載る。しかし、決定は覆らない。 そこで、「ボースとグプタ―の神隠し事件」(グプタ―は、ボースの同志、同じく英官憲に追われていた)が起きる。その詳細は実際に本を読んでいただきたいのだが、これをきっかけとして中村屋にかくまわれることとなる。この時、ボースは29歳であった。 主人・相馬愛蔵、妻の黒光は、従業員、女中たちに事情を説明して協力を求める。彼らはそれに同意し、ボースとグプタ―は、かくまわれることとなる。しかし、犠牲も大きかった。黒光は、心労のために乳質が変化、誕生したばかりの赤ん坊を失う事となる。 ボースとグプタ―は、画家の中村彜が出て行ったアトリエ(荻原守衛発案で製作された)に住むこととなる。狭くて閉じられた空間、通じない言葉に堪えかねてグプタ―が脱走し、大川周明の居宅に転がり込むこととなる。大川は、1916年11月に『印度に於ける国民運動の現状とその由来』という著書(大川の処女作)を発行するが、これは、グプタ―、のちにボースから聞いた話をベースにした作品で、貴重な一次情報が盛り込まれていたという。この大川周明という人物にも興味があるが、またの機会としたい。 1916年2月に、イギリスの軍艦が日本船・天洋丸を連行し、乗っていたインド人7名を強制拉致した事件が起きる。外務省は、英政府に強く抗議、同時にボースと、グプタ―に対する国外退去命令を撤回する。 ここにおいて、ボースは三ヶ月半のアトリエ生活に別れを告げる。羽織袴姿であった。 著者はここで重要な指摘を行っている。 中村屋関係者、玄洋社メンバーは、ボースの姿を、「日本人以上に日本的」と評している。彼らの外国人に対する評価基準が「日本的であること」に置かれている点にはやはり大きな問題が付きまとう。ボースのように異文化適応能力の優れたものは友好関係が強固になる方向となり、グプタ―のように時として従順でないアジア人に対しては「日本的礼節を重んじない人物」として冷遇されることが往々にして見られた。このようにアジア人を「日本的か否か」で評価するやり方は、後に中国や東南アジアに対する植民地支配を推し進める過程で大きな問題を引き起こすこととなる(p123~4) そしてもう一つ。 頭山は、思想信条的には相いれない部分があった中江兆民と生涯の友人であり、アナーキストである大杉栄、伊藤野枝にも資金提供している。重要であったのは、思想やイデオロギー、知識の量ではなく、人間的力量やその人の精神性、行動力にあった。心情的アジア主義者たちは、ボースに対して思想的に共鳴したのではなく、インド独立のために粉骨砕身する亡国の革命家の懸命な姿に心情的に共鳴したのである(p129) このような彼らの「心情」は、ボースの中に大きな葛藤を生じる。 とりあえず、ボースの人生を辿ると、彼は、黒光の娘の俊子と結婚している。親元は頭山、後藤新平と犬養毅が保証人になっている。 長男、長女が誕生し、ボースは日本に帰化する。新たに「ボース家」が立ち上げられた。ボースは、帰化日本人には帝国議会の議員になる資格を与えていない国籍法の改正を求めているがこれは実現していない。 1925年に施行された普選も、内地在住の朝鮮人、日本の植民地として法的には「日本人」であるはずの台湾人、朝鮮人には参政権は与えられていない。 そして1925年3月4日、妻俊子が肺炎のために急逝、ボースはその後持ち込まれたすべての再婚話を断っている。中村屋との交流はその後も続き、1927年6月に中村屋が喫茶部を開設した時に、ボースは日本で初めての本格的な「インドカリー」を売り出すことを提案している。西洋経由で日本に入ってきた「カレー」は真の「カリー」ではないというボースの思いが、中村屋の看板メニューを作り出すきっかけとなったわけである。一般的な「カレー」が10~15銭の時、中村屋の「カリー」は、80銭もした。それでも、「恋と革命の味」と称されるようになり、ブランドイメージは向上する。 第四章のタイトルは、「日本での政治活動の開始」となっている。 1922年にボースは、西洋の帝国主義を強く批判し、アジア諸国の独立の必要を説いた。そしてその過程で、欧米と同じ権力的抑圧を生み出してはならないと主張し、以下のように説いた。 「白人とは違ひ、亜細亜は決して、その権力と指導権とを濫用することなしに、人類の幸福の増進と、そして不正と暴力に基礎を置くものではなく、万人の正義と権利とに基礎をおく本当の平和を確立するためにそを利用するであろう」(p165) 彼は、イギリスを主敵とする戦略を進めていたソ連との提携を主張しているが、それと同じ論を展開しているのが、孫文であった。孫文は、日中ソの提携によって中国の利益を侵害するワシントン体制を切り崩すことができると考えていたのである。 孫文は、1924年11月に、日本政府によって中国に突きつけられた二十一カ条の要求撤回を頭山に頼むつもりで会談を申込んだ。しかし頭山は、日本が実力で以て中国の危機を救っている、中国の国情が将来改善された折には日本の「特殊権益」は還付されよう、と答えている。 会談の三日後に神戸高等女学校で、孫文は、日本に対して、「西洋覇道の番犬となるか、東洋王道の干城となるか」の選択を突き付ける講演を行って帰国、1925年3月12日に肝臓がんによって死去する。 この孫文の思いをボースも共有していた。親日主義者の彼の中にも当然のことながら、西欧と同様の侵略的行動を取りつつある日本への批判の心は強まって行く。 1926年11月に開催された「全亜細亜民族会議」の開催と成功にボースは尽力する。しかし準備段階で、中国側と日本側との間に「二十一カ条要求」に対する認識の相違があらわになる。ボースは調停をはかり、「二十一カ条要求」を日本が取り下げるべしという決議文を作成することに成功する。しかし、さらに、日本と朝鮮との間の問題がもちあがるが、これもボースの尽力で調停に成功する。 この会議がボースに与えた影響を著者は、「ボースの現実路線への転換点」と指摘している。そしてその後「ボースは日本での影響力を強め、その代償として日本の帝国主義的姿勢への批判力を徐々に失い、インド本国の独立運動との間に大きな溝を作っていく」(p194)ことになるのである。 彼は、1930年8月に酒田市に講演に赴き、日本海に沈む夕陽を見て、「寂しい」と叫び、慟哭したという。また、朝鮮人の実業家・泰学文とは、生涯の友であり、飲むと必ずお互いの祖国の置かれている状況を語り合い、合い抱いて泣いたという。日本政府に頼らねばインド独立は困難である、という認識と、現実に日本が進めている帝国主義路線との間にボースは引き裂かれていく。 1937年に日中戦争がはじまる。ボースは、「日中対立はイギリスの陰謀」と主張、日本の軍事力によるインド解放を望むようになる。そして彼は、チャンドラ・ボースに期待を寄せ、イタリア、ドイツとの提携を主張する。「敵の敵は味方」という論理である。 そしてついに1941年12月8日、「大東亜」戦争が勃発する。日本は、イギリス軍の配下にあったインド人兵への投降を呼びかけ、「インドの独立を目指そう」という工作をおこない、「インド国民軍」の結成に至る。しかし、参謀本部は、「インドの民族運動が反英から抗日へ転換する可能性」がある事を理由として、インド工作の早期実施を押しとどめる。 期待をかけていたインパール作戦も惨めな失敗に終わる。 1945年1月21日、ボースは58年の生涯を閉じる。息子の正秀は、45年6月16日に沖縄で戦死する。 「アジア主義」は、ついに「アジア諸国の平等」という理念には背を向け続け、「大東亜共栄圏」という美名のもとで資源と労働力の強奪が行われ、「日本的価値観」が押し付けられた。 そして戦後になって、「日本はアジア諸国の独立のために戦った」という事実と実証を無視した「おとぎ話」が創作された。もちろん、「大東亜共栄圏」の理想を信じ、それに殉じ、或いは戦後の独立闘争に身を投じた日本人がいたことは事実である。しかし、そのわずかな事例を不当に拡大するのは「歴史」とは縁遠い思考である。
2016.12.26
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『シビリアンの戦争』三浦瑠麗 岩波書店 2012年 たしか、フランスの首相を務めたこともあるクレマンソーの言葉であったと思うが、「戦争のような重大な事を軍人にまかせるわけにはいかない」という言葉がある。太平洋戦争に至る経過を振り返ると、「軍の暴走によって日本が戦争に引きずり込まれた」というイメージが作り出され、「シビリアン・コントロール」こそが戦争を防ぐ重要な要素であると思い込まされる。 この本は、「必ずしもそうではない」という事を、イギリスのクリミア戦争、イスラエルの第一次・第二次レバノン戦争、フォークランド戦争、イラク戦争といういくつかの戦争を分析することによって明らかにしている。 フォークランド戦争の時は、サッチャーが他の閣僚たちを説得して始めた戦争であったという事は知っていたが、軍が反対であるという事は知らなかった。 7~9章にわたって詳述されているイラク戦争がもっとも参考になった。以下、イラク戦争を中心にしてこの本を紹介したい。 「イラク戦争は本当に必要であったのか?」という問いがまず立てられる。「大量破壊兵器」については、フセイン政権が査察を受け入れたので、戦争の必要はなくなった。では、「サダム・フセインを」取り除く、という目的はどうか?これについては、エジプトを通じてサダムの亡命案が伝えられているから、戦争に訴えるまでもない。 開戦直前の状況について著者は以下のように記している。 「開戦前、軍の戦争反対は公に明らかになっていたが、メディアや議会、国民は戦争支持が多数を占め、イラク戦争を押しとどめる結果にはならなかった」p137。 では、イラク戦争の背景は何か。 「イラク戦争は、湾岸戦争とその後の封じ込め政策が失敗であったという認識のもとに推進された」(p139) 「議会の多数が、サダム打倒とイラク民主化に原則として賛同していた」ことが前提条件となり、「2001年に、父親と異なり民主化や正義、使命に対する強い選好を持つブッシュ(子)が大統領として就任した」(p141)ことが事態を大きく動かした。 2001年9月11日に同時多発テロが起きる。この直後、「各省庁や軍の内部で全世界を対象にしたテロ対策の検討がボトム・アップで試みられたが、そこにイラク戦争という選択肢はなかった。対照的に、9・11直後に主流となった大統領主導の政策形成では、すぐにイラクが標的に設定された」p145 「9・11は、歴史的な使命感を新たにしたブッシュや、イラクを脅威と見るチェイニー、中東民主化を目指すウォルフォウィッツなどの世界観や予断を強化することにつながり、金槌を持つことですべてが釘に見えるような状況が生じていた」p145~6 CIAの立場がどうであったかが取り上げられる。CIAは、アルカイダとビンラディン対策を強化するように働きかけていたが、ライスもチェイニーも、ブッシュも聞き入れなかった。そのくせ、9・11以降は「テロを防げなかった」とやり玉に挙げられた。CIAは追い詰められ、「根拠が薄弱であるにもかかわらず、イラクの大量破壊兵器の脅威を過大に見積もるようになった」(p151) 「イラクはアメリカにとって現実的な脅威であるのか?」という点について、「抑制的であったのはパウエルであり、攻撃的であったのはチェイニーであった」(p154) チェイニーは、「イラクは大量破壊兵器を持ち、真珠湾攻撃のようにすぐに行動を起こさなけれれば間違いなく攻撃される」と煽っている。 そして、それまで「統合参謀本部をはじめ軍幹部をイラク戦争計画の策定段階から締め出していたブッシュとラムズフェルドは、四軍のトップをホワイトハウスに呼んで、作戦案を見せた。シンセキ陸軍参謀総長は兵力が不足していると訴えたが改善はされなかった。軍をひたすら抑え込んだままでブッシュは計画を進めた。 「ところが、メディアを通じて一般国民も退役将軍らの反対意見を知り得たにもかかわらず、世論のイラク戦争支持は、60%台の高水準で推移する」(p160) 国民の間の、そして軍の中のイラク戦争反対の声は抑え込まれ、「ブッシュは3月19日に国民に向け作戦開始を告げた」(p165) それからのちの経過については、よく知られている。大量破壊兵器は見つからず、戦争目的は「フセイン政権の排除とイラクの民主化」にすり替えられ、泥沼化し、イラクの治安はどん底まで落ちた。それに乗じて、イラク北部で「IS」が台頭してきた。 「これら反対意見があったにも拘わらず、イラク戦争の計画段階から初期段階まで、軍に対するシビリアン・コントロールはかつてないほど完全だった」(p192)と著者は記している。 2003年から2009年の間に脱走兵の数は1万5000人に達し、PTSDを発症し、日常生活が満足に送れなくなった帰還兵も多いが、国民の関心は低い。 終章で著者は概略以下のように述べている。 デモクラシーを「共和国」像に近づけることが必要である。政策決定に対する自由な参加、その結果に対する応分の負担、多元的自由主義、ある程度の所得の再分配、安全保障コストの応分負担。 具体的な共和国への道は、緩やかな徴兵制度の復活、予備兵役制度の拡充により、国防にかかわる軍の経験や価値観を一人でも多くの国民が体験することを意味している。現状は、国防の任務の軽視と無関心が、大勢を占める一方で、他方では国民全体に自らのコスト意識なしに専門的な軍を用いて戦争をやらせようという発想がある。この発想がある限り、戦争はなくならない。 「「シビリアンの戦争」は政府の、国民の攻撃的な戦争である。この問題を解決することなしには、平和を目指す国際政治学の試みは成就しえない」p231 著者のこのような提言については、様々な異論が予想されるが、まず私はこの提言をじっくりと考えてみたいと思っている。 個人的な思い出。イラク戦争の開戦と、地上軍の侵攻が報じられたときの授業で、私は「イラクには大量破壊兵器はない」と生徒たちに言った。その根拠は、大量破壊兵器が実戦配備の状態にあるとすれば、侵攻した米軍はその餌食となっている。その場合、使用したフセインに対する憎悪と、みすみす大量の死者を出したブッシュ大統領の責任を問う声が上がってくる。現在のところ、侵攻軍が壊滅したという情報は入っていない。だから、アメリカは、「イラクに大量破壊兵器はない」という確信のもとに侵攻したと言える、と。 あの戦争を世界に先んじて支持したのが日本の小泉政権であった。そして、本家本元のアメリカが、いくつかの失敗点と反省点を挙げているにもかかわらず、依然として「支持したのは正しかった」と言いぬけている。 こんな政権のもとで戦争という選択は、壮大な愚行に終わる。これだけは確信がある。
2016.12.16
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「青い目の人形の涙」16年11月28日放映 NNNドキュメント アメリカで1924年に排日移民法が成立した時、日米関係の悪化を危惧した宣教師のギューリック氏が、1927年、日本のひな祭りに合わせて1万2739体の青い目の人形を寄贈した。費用は寄付によって集められている。 受け取った日本側は、実業家渋沢栄一らが中心となって、同年のクリスマスに合わせて、58体の人形を答礼として贈っている。これも寄付を中心とした運動だったが、90年ぶりに日本に里帰りした「富士山美保子」は、平岡郷陽という人形師としては最初に人間国宝となった人物の手になるものである。 日本側から贈られた人形は、アメリカでは博物館、美術館などで大切に保管された(47体現存)が、日本では事情が異なる。1941年の日米開戦以来、敵愾心を煽る教育が行われ、それは、幼い子どもたちの心にしみ込んだ。 当時の教育は、まるで錐で揉みこむように子どもの心の中にしみ込む手法を使っている。たとえば、国語の時間で「楠正成」を扱う時は、修身でも扱う。音楽の時間でも、「青葉茂れる桜井の・・・」を歌う。図工の時間には、「楠正成父子の絵を描いてみましょう」となる。 1943年2月19日の「毎日新聞」が、ある小学校の児童の、「青い目をした人形をどうしたらいいか?」という問いに対する答えを報じている。 破壊する89 焼く133 送り返す44 目立つところに置いていじめる31。 新聞の見出しは「仮面の使節皆殺し」となっている。 同時に、「家庭にあるキューピー人形も川に捨てよ」という命令も校長から出されたと当時を知る女性は語っている。 ただ、少数であるが、無事に戦争をくぐり抜けた人形もいる。 静岡県浜岡北小の用務員であった山田さんという方は、とても焼き捨てることはできないとヤギ小屋の藁の中に隠し、戦後、人形のことを懐かしむ声が出てきたので、もう大丈夫と、藁の中からだしてきた。小学校では、4月16日を「マーベル・ワレン(人形につけられていた名前)の日」としているそうだ。 また、明倫小では、校舎の解体作業中に、校長室の棚の中から布に包まれた人形が発見されている。当時の小林有悦校長がひそかに隠したものと思われている。 静岡県に贈られた人形は253体。現存しているのは63体である。 演劇部の顧問をしている時に、どのブロックの代表校だったか失念したのだが、アメリカから贈られてきた青い目の人形を破壊するか、守るかというテーマの作品があったと記憶している。 何十年かぶりにこのテーマに出逢えた。
2016.12.01
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『世界は「太平洋戦争」とどう向き合ったか』山崎正弘 Gakken 2012年 著者は「はじめに」で、次のように記している。 「本書は、これまで日本で刊行された数多くの太平洋戦争に関する文献とは異なり、日本を主体または「構図の中心」として描くことをせず、代わりに日本以外の各国(未独立国の場合は各地域)ごとに、戦争当時の事情や国際社会における位置づけを独立した形で検証し、いったん日本とは切り離した形で「彼らにとっての太平洋戦争とは、どのような出来事だったのか」を、わかりやすく整理・解説することを試みたものである」P4~5 これまで太平洋戦争と第二次世界大戦については何冊か読んできたのだが、既読感があったのは第六章「「大東亜共栄圏」の理想と現実」ぐらいで、序章の「チャンドラ・ボースとインド独立運動」から、付箋を多数貼る羽目となった。チャンドラ・ボースについてその人生の概要を知ることができ、ガンジーの事も知ることができた。 「あなた方が中国に対して行った攻撃を嫌悪しています。あなた方は、崇高な場所から、帝国主義的な野心の場所まで降りてしまいました」(1942年7月17日「ハリジャン」に投稿された「全ての日本人に」)P37というガンジーの思いは、「ロシアを破ったアジアの国日本」への大きな期待と尊敬の心を裏切られた失望感に満ちている。 インパール作戦に、ボースの率いるインド国民軍が参加していたことも初めて知った。結果は戦死600人、2000人が飢餓と伝染病で命を失うということとなる。あの戦後まで生き残り、恥を曝した牟田口廉也のもとで。 巻末の参考文献には載っていないが、『中村屋のボース』を読みたくなった。 また、「1941年11月5日の御前会議で最終的に可決された「自存自衛のための対米(英蘭)開戦」という日本側の開戦理由を「正当な動機」として理解した国は、日本の同盟国であったはずのドイツとイタリアも含め、世界中で皆無だった」(P88)という部分は、勉強不足とはいえ驚かされた。完全に見透かされていたということになる。 真珠湾攻撃に対するヒトラーとリッベントロップの見解の違いは、興味がある。リッベントロップの悲観的な見方に対してヒトラーは何も言わなかったというが、ここいら辺は少しあたってみたくなった。 独立を保ったタイ、そしてモンゴルの対応は厳しい道のりであるとともに、「智恵」を感じさせる。タイの場合、剃刀の刃の上を渡るような芸当を演じている。タイの人たちは、「独立国家であり続けてきた」ことに大きなプライドを持っていると知人から聞いたことがあるが、さもありなんと思うとともに、このような智恵で国際社会の荒波を乗り切ってきたタイという国についてもっと知りたくなった。 日本ではほとんど知られていないオーストラリアへの日本軍の攻撃は、忘れてはならないと思う。ダーウィン爆撃、非武装の病院船撃沈、オーストラリア兵1800人を含む2494人が収容されていたボルネオ島のサンダカン捕虜収容所において脱走者6人を除く収容者全員の死亡などは、私もはじめて知った。たしか、『美味しんぼ』にちらっと取り上げられていたので、記憶しておられる方もあるかと思うが、この事実と死者の数はショックである。 そして何度も取り上げられているのが、東南アジア各国の風習に対する日本兵の無知から来る民心の離反である。日本軍の中では当たり前であった平手打ちが、各国では最大の侮辱と思われていたこと、特に僧侶に対する暴行と軽視は、許されざるものであったにもかかわらず、兵に対する何の教育も行われていない。もっぱら物資と資源に対する関心のみ先走りした結果といえよう。この事は、地図一枚もない島に放り込まれて戦いを強いられた兵たちの運命にもつながる。まさに「敵を知らず己を知らぬ」戦いであったことが分かる。 ホントにこういう本を一冊読むと関連書を何冊か読みたくなる。困ったことである。
2016.11.25
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