多重債務者の交差点

多重債務者の交差点

(14)U.koの場合


鹿児島県立◯高校を卒業、同年5月◯海産に就職しました。
この時、給料は手取り10万円。
住居は町営◯住宅◯号。
家賃1200円というのが常識はずれでした。
そのころは借金に関して問題はなく平穏無事にくらしていました。
昭和61年12月◯海産退職。
昭和63年3月から5ヶ月◯建設。
同年9月から平成12年6月まで◯建設。
平成13年1月から4ヶ月◯テック。
そして同年6月から現在の◯と転職してきましたが、
私が自己破産を考え始めたのは平成15年5月ごろでした。
その過程は、
平成5年6月8日、
実父に名義貸しした消費者金融(Ta)50万円、(Be)から10万円がきっかけです。
そして私個人、はじめての借入を平成6年3月11日(Sa)から50万円借りたのです。
使途は購入額18万円、通勤使用軽自動車の頻繁な故障による下取り交換追い金40万円です。
当時、父と私は同じ◯建設に勤務しており、2人とも雨天は休みときまっています。
ですから雨期時、
2人とも手取り収入12万円くらい落ちる時、父は父なりに四苦八苦で月4万円の支払いを。
私は私で借金340万円の返済は火の車となっていくのです。
このままでは生活苦の一途をたどるだけでした。
父子してなんの贅沢もしていません。
あえて書くなら私の通勤上の車ぐらいのものです。
やがて不運は辞職という形で現れ、
くどい取り立ては会社にもおよび、
平成12年、13年も勤めた◯建設を辞めさせられたことです。
このときばかりは自業自得とはいえ悔しくて涙が切れませんでした。
平成13年、あいつぐ家計苦は(Ta)に50万円の増額「De」に30万円。
◯テックは契約社員だった関係上、給料支払いは60日後。
志布志から日南まで、これではガソリン代もでません。
(De)はしかたない契約でした。
月支払いは2店で32.000円。
しかし半年後には延滞が続き、
この先、大丈夫なのだろうかと不安がつねに脳裏をよぎったのです。

悪いことは続きました。
平成13年8月2日、母が亡くなったのです。
苦労を背負ったまま一言もぐちらず、その瞬間、わらって逝ったのです。
その後、私はめめしくも精神的な立ち直りがおくれ、
あげく平成15年7月現在、債務者10社、借金総額h367万円にまで膨れあがったのです。
本来、楽天家の私が結婚もできず39才まで独身なのは生活苦と長年のうつが原因です。
こんな状態では嫁も取れず、
またそういう機会にも恵まれなかったし、行こうともしなかったのです。
そのうち職場にも取り立てがくるでしょう。
そうなると厳しい社則から再び辞職に追い込まれるのは必至です。
さらには平成12年8月11日契約「K信販」135万円(残116.800)で問題発生、
延滞は保証人代払いにまで発展、2人の関係はもはや修羅を迎えてる有様です。
保証人の特定調停うんぬんもですが、
そのまえに自己破産したらどうなるのだろう、
と私が考えるのは当然の成り行きではないでしょうか。
だが、精神的に参ってる父には内緒の行動です。
私自身を整理すればすこしは父を助けることができるでしょう。
それにしても疲れました。
ため息がでます。
死ねば悩みもなくなりすっきりすることでしょうが、
これも人生あれも人生と悟るなら、
せめても今のうちにもう一度やりなおしてみようの思いはあります。
とはいえ給料手取り平均148.000円で10件、367万円。
月の返済164.200円は今後、支払いは不可能です。
それなら一から出直し、これで第2の人生を歩めるのなら、
いい意味で自己破産しかありません。
以上の経緯からして、今回、自己破産を決意したのです。

(最初U.koはメールでの相談でした。桜島フェリーを利用してなんどか面談したあげく「事件番号 平成15年(フ)◯◯号」で受理されました)

 (14) U.koの場合 終わり

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