多重債務者の交差点

多重債務者の交差点

(01)N.ichの場合 


昭和36年5月から37年12月まで地元の◯会社で事務として勤務しました。
たしかこの頃の給料は1万円もなかったと思います。

翌38年になり仕事もなく実家でぶらぶらしてましたが、
なにを思ったか24才の時、友人と大阪に家出、よくある落ちる人生、
それも6年もの間、足を踏み入れてしまったのです。
まだこの時期、幸いなことに借金という恐怖には無縁の私でした。

昭和46年、私にとって第2の運命というのでしょうか、◯と知り合ったのです。
やがて私は彼の叔父が経営している会社(飯場)に転がり込み居候生活を始めたのですが、
長男を身ごもり◯の実家(沖縄)で昭和48年9月19日出産したのです。
昭和50年7月3日長男、昭和53年12月13日次男と産まれました
生活の方は◯が◯自衛隊の◯射撃場管理人をしてたせいもあり、
苦労はさほどありませんでした。
そのうえ私個人も酒と雑貨をかねた◯◯商店まで引き受け、
売り上げもそれなりに順調でした。
しかし、
◯◯地区にデスカウントショップが立ち並ぶようになってからは売り上げは日に日に落ち込み、
平成6年には初めて借金する羽目になりました。

昭和63年9月から平成9年2月まで自営の間、債権者は◯信用組合、借入金は100万円。
さらに友人から70万円、◯農協◯支店から130万円。
この借金の流れは全て私個人の商いのためでしたから、◯には内緒、
とうぜんは保証人にはなっておりません。
だが借金が300万円になると夫婦である以上、
◯に相談しなければ自分一人では返済はできません。
だのに◯は聞く耳もたず
「お前が勝手に作った借金だから俺には関係ない」と大喧嘩、
この件を境に別居となったのです。

平成9年3月、ネギ製造「◯商会」勤務するも体不調で8月に退職。
平成9年9月、◯水産に給料8万円でパート勤務。
こうした渦中、平成10年1月◯と協議離婚しました。
◯が高校2年の時でしたが、慰謝料、養育費、財産分与はなしでした。

次男の家出くせがついたのは18才の頃で、
高校中退後は寂しさを紛らすため150万円で車を購入、
月々3万円の契約でCFJとローン契約したのです。
親として断れない立場、保証人はやむえないことでしたが、
平成14年夏、慣れない運転は事故をおこし、
弁償金256600円を◯信販から借りたのです。
もはやブラックであるからには私の名義貸しもしかたないところでした。
次男が私の若い頃と似て仕事欲がなく、
どこにいっても尻の座らない状態は月々3万円の未払い続きとなり、
あげくこの借金も私が払わねばならなくなったのです。
家出くせのついた◯と◯(嫁)との結婚も先が見えてました。
つごう◯ら2人が作った借金は300万円にもなってました。
くるべくして◯ら2人に借金地獄が始まったのです。

取立から逃げるための生活がどれほど惨めなものか、
それでも2人が働かないこの現実に保証人として私の立場は危うく、
ついに借金のための借金をするようになったのです。

平成13年1月18日、◯信販から40万円。
平成13年3月5日、「ア◯ム」から30万円。
そして平成14年10月26日、ふたたびf夫婦が家出したのです。
気になった私は◯警察に捜索願いを提出したのですが、
今日現在まで消息は判っていません。

私のこれまでの人生はなんだったんでしょう。
私が歩んできた過ちを今また◯らが歩むとは、
あまりに悲しすぎて気が狂いそうです。
長女と孫2人に囲まれていても◯も離婚した身、
昼は◯薬局、
夜は不慣れなホステスを時給1000円でやりくる四苦八苦の生活費はもはや限度、
これ以上の精神的苦脳は親子四人無理心中でしか消せないのでしょうか。

確かに債権者数8件、
負債額173万円は大きな数字とはいえません。
しかし私の収入8万円で6万円近い
(F支払分省く)月の借金支払いは不可能です。
これからだってどれだけ◯ら3人に迷惑かけるか。
◯2才。
◯1才。
目に入れても痛くないほど可愛い孫におもちゃの一つも買ってやれないこの現実。
食卓の飾るおかずがどんなものか、それを判らず黙って口にする孫らが可愛そうで、
涙が切れません。
もうこんな家族状況なんていやです。
こんな苦しみなんてもういやです。
できるものなら一から出直したい。
これから先、何年生きられるか。
許されるならずっと生き孫の成長を見届けたいのです。
助けてください。
お願いします。 

その後 相談者の談話
「のんびりお茶を飲めるようになりました」とのことでした。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: