多重債務者の交差点

多重債務者の交差点

(40)M.沙の場合


受け持ちの仕事はハードでいつしか推間板ヘルニアにかかり、
やむなく平成4年帰鹿、手術を3回したのです。
治療費は40万ほどかかりましたが紡績でためたお金でたすかりました。
その後は自宅療養、
元気をとりもどした平成7年4月から2年2ヶ月、ふたたび親元を離れ長野の志賀高原で勤務、
給料は13万円、それなりに青春していました。

平成9年7月、◯で受付勤務、1年で退職。
平成10年8月、水俣の消費者金融「Aco」から50万円借り入れ。
これが最初の借金、破産への幕開けでした。
使途は10月(契約日11/1)現在の住所(Hアパート)に友人と同居、
借室賃借契約を結ぶための経費(前家賃、敷金2ヶ月、引っ越し費用、生活費)でした。
このとき2人の約束は私が金策を、友人が貸借人ということでした。

さぁこれから仕事をさがしてというときに推間板ヘルニアが再発、
あげく足らない生活費のため同月22日(Pro)から10万円借り入れたのです。

平成12年3月から県立◯病院パート(手取り92.000円)勤務。
平成13年9月29日、布団ムートン(推間板ヘルニアのため)を
(Ori)ローンで契約、加え(Ori)カードで50万円借用。
平成13年12月、車購入に(Ko)信販でローン。
平成14年7月23日、生活費のための(Sa)信販から10万円借用。

なぜこうも借金がつづくのか。
それは推間板ヘルニアから結婚にこぎつけなかった人間関係の傷心。
体重40キロを80キロにまでさせたウツ。
そこからくる一連の情緒不安定が原因です。
にもかかわらず同年12月25日、生活費のために(Si)クレジットから30万円借用。
とうぜんこのような借金の積み重ねは地獄を招くのは明らかなのに、
まだ目覚めない私の精神異常は平成15年6月、
ふと目にとまった雑誌「ケータイ無料待ち画面2003初夏号カタログ」掲載の◯にまでダイヤルしたのです。
上記2社は俗にいう買いとり屋で、
私は(Ko)信販と(Ako)のカードを使ってパソコン2台(30万円×2)を買い2社各1台づつ送ったのです。
6月16日(Yu65.000円)と7月10日(Ibe69.370円)の振り込みがありましたが、
高額手数料をとられなにをやってるのか自分自身がなさけなく涙ながしたことでした。

しかし泣いて解決できることではありません。
やがて借金は坂を転げ、歯止めもきかず同年8月19日ふたたび
(Si)クレジットに借金返済のための増額願いで10万円を借用。
県立◯病院パート勤務でありながら契約書に自営業者のごとく、
他店借り入れも4件100万円(添付書類参照)と
虚偽記入を強制され実母まで連帯保証を負わされたのです。
(Si)クレジットは日掛けですから返済の悩みは並ではありません。
借りる私も悪いが貸すほうもいい加減でした。

そして借金の流れは危険なヤミ金まで手を汚したのです。
(To)部保証協会、(Fa)、(So)カード。
3社すべては東京の暴力団でした。
世間に報道されてる、あの恐怖が私の身辺でエスカレートしたのです。

被害届をだした現在、
◯警察署(09○5-2○-○110)刑事部長の◯の協力を得、◯県警中央署
(0○3-2○4-○110)刑事課長◯と合同捜査中であります。

私は、やっとこのヤミ金の恐怖で目がさめたのです。
もうこんな借金地獄はいやです。
今日まで自分自身をコントロールできずお金を使うことでストレスを発散してきた私の人生はなんだったんでしょう。
もちろん自業自得で今日を迎えたわけですから後悔はしませんが、
このままでは生きてはいけません。
手始めにこの9月マイカーを処分、
母の車を借り新たな職場◯で心機一転やり直しを決めました。

現在16件520万円の借金を給料10万円では返済できません。
それには過去を清算、一からやり直すという願望を基に自己破産しか方法がないのです。
お願いします。
もう一度出直しのチャンスをください。

(その後M.沙は◯を辞め名古屋に行ったそうです。たぶん地元で生きることに抵抗があったのでしょう。でも苦しくても逃げてはいけないのです。立ち直るにはイイ意味で他人の目を気にし「なにくそ」という根性でなければ再び性格の弱さから失敗を招く可能性があります。そうならなければいいが、と心配です)


上記はM.沙が「初めて借金をしてから破産手続開始申立てをするまでの経緯」
の真実をfiction的に要約転記したものです

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