多重債務者の交差点

多重債務者の交差点

(03)T.美の場合 


中◯市の◯士紡に集団就職、寮生活をしました。
手取りは5万円でした。
昭和38年◯士防退職、帰省。
その後、兄を頼って上京したことが辛い人生の幕開けだったのです。
◯を知り合い、やがて恋仲は21歳には自然の成り行きでした。
昭和40年4月結婚。
昭和40年8月長男を出産。
でも,
妻として母として苦しい家計は我慢できても夫婦の限度はここまででした。
◯は暴力をふるう酒乱で女癖が悪かったのです。
ある夜のことです。
幼児が寝てるというのにバーの女性を部屋に上げ,
私の前でただならぬ行為をしたのです。
なぜそこまでするのか、話し合いの答は暴力だけでした。
昭和43年10月、慰謝料はゼロで離婚、
私は長男を引き取り実家へ帰ったのです。
昭和50年、両親に長男を預け◯縫製工場に勤務。
昭和51年10月、
長男の将来を考え◯と再婚しましたが、
これを期に体が急変調をし入退院を繰り返すようになったのです。
結局、
妻としての働きができず家庭不和、
あげく昭和52年11月、慰謝料なし2度目の離婚を迎えたのです。
不定期の入退院は
「全身性エリテマトーデス」という病名でした。
平成63年、◯H勤務(手取12万円)
もちろん仕事は思うように働けず両親の援助はしかたないところです。
そんな母が昭和64年他界。
平成3年、父も亡くなる。
それからの私は長男に苦労かけまいと健康のため、
健康食品購入に借金することになるのです。
「全身性エリテマトーデス」は難病でなかなか治りません。
仕事と入院の繰り返しではどうしても生活できません。
ともかく米粒がないのですからこのままでは生きていけません。
サラ金に助けを求めるのに恥も外見もありませんでした。
CFJ、三洋信販、シンキ、ワールド、武富士、アイクの借り入れでなんとか頑張りたい。
サラ金で急場をしのいで立て直したい。
だけど神様は字の世界だけでした。

平成10年、私は脳梗塞で倒れました。
現在も血圧が一定せず些細なことで体調悪化、うまく勤務できません。
借金は減らず枠ができれば返済のための借り入れをする有様でした。
平成13年3月、◯H退職。
平成13年5月、
借金返済相談を某雑誌の◯カンパニーにしましたが、
相談料だけとられ無しのつぶて、後悔だけが残りました。

平成13年7月からH◯勤務(手取9万円)
ホテルを転々とする理由は入退院による勤務打ち切りです。
もちろん正社員でないから退職金はありません。
そんな渦中、
今日に至るまでの債権者数10件、残債務720万円、
約定支払い17万円は支払い不可能の数字です。
借金の原因は不健康からきた経済、生活問題です。

7月21日のことでした。
◯イの「おいこら」取立てにめまいを覚え倒れました。
彼らは怯える私に同僚の◯さんを強制的に保証人欄署名捺印させたのです。
私は芯から震える絶望感に死んだほうがましと何度も悩みましたが、
長男とその孫を考えると泣いてばかりもいられません。
私は決断しました。
自分の人生にいいことはなかったけれど、
もし一から出直すことができるなら生まれ変わった私の笑顔を孫に見せたいあげたい。
そう考え自己破産を決意したのです。


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