多重債務者の交差点

多重債務者の交差点

(07)O.ryoの場合


両親の事情で◯女子高校中退後、
平成7年4月から◯ャトーに時間制パート給料10万円で働きました。
このころの私は借金なんて知らず、
ささやかでも欲しい品も買え貯金もできるほど余裕がありました。
母も夜の仕事をしながら私たち姉妹を育ててくれました。
平成7年11月ごろから母の知人◯さんと同居する形となり新たな4人の生活が始まったのですが、私が学生時代、母が学費のため作った借金が支払い困難となり平成8年5月23日、
しかたなく私名義でS洋信販から20万円借りたのです。
これが最初の借金で、返済は◯ャトーの給料からでしたが思うように返せず、
取り立てが厳しく住民移動をしないまま◯住宅◯号棟から◯荘5◯3に逃げたのです。
でも結局は捕まり延滞金利を加え20万円は30万円に。
平成8年9月◯ャトーを退職した私にお金はなく◯さんに援助仰ぎましたが家庭環境に嫌気をさされ母とは別れたようです。
その後、
私は平成9年5月、国分の寿司◯に手取8万円で勤務、
その中からS洋信販と母の借金代払いを足し合計月32.000円を頑張ったのです。
母も新しい職場で働き家計を支えていましたが、
寂しかったのでしょうか妹と知人◯さん宅への外泊が多くなり部屋に帰らなくなりました。
平成11年11月、
8万円の収入だは部屋の借金返済のできず、
やむなく母と妹の住む◯さん宅に転がり込んだのです。
平成13年4月、寿司◯退職。
寿司◯で知り合った学生、
◯さんの紹介で平成13年5月、国分の◯センターに手取10万円で働いたのですが、
イジメがひどく3ヶ月でやめました。
私の頭中には常に借金返済のことで笑顔は絶え性格も暗くなりました。
平成13年9月ジャングルパークの◯で7万円で勤務。
◯さんとの付き合いも2年続くと自然の成り行きで恋仲になります。
学生である以上、お金の問題は私にかぶってきますが、お化粧もしたいし洋服もほしい。
でも7万円でなにからなにまではできません。
借金返済のため借金するのは情けないけど道理でした。 
S洋信販の増額借入30万円。
それでも足らず平成14年2月Y.Lから15万円、平成14年5月Pからも30万円。
平成14年9月、
まだ完全に大人になれなかった◯さんと金銭的トラブルが発生、
傷害事件の末、私は捨てられました。
馬鹿な夢を描いた自分が悪かったのです。
これから心機一転、仕事に励み借金返済にと思ったら月々の返済金額は4万円になっていました。
平成14年10月、私生活はぎりぎり、職場でも様々な付き合いで入り用の時、
S信販からキャンペーン中で追加融資50万円、わらをも掴む気持ちで借りたのです。
確実に生きるために50万円の中からYLの15万円を完済したのです。
しかし、どう考えても収入7万円では先が見えてました。
それでも平成15年4月まで頑張りましたがつまずき、
5月にIF30万円、ふたたびYL15万円、6月O信販50万円。
すでに私の借金支払いはつき8万円を超え、
加え平成15年9月Wから30万円と、この1年で175万円の借入になったのです。
7万円というパート手当で私生活と母の代払いを含めた自転車操業はもうここまででした。
あとはファミレスとローソンカードで食料品をぼそぼそ買うのみで、
すでに月々の支払額は12万円になっていました。
利息だけ払っても業者が納得するわけありません。
これから先、どんな解決策があるのでしょうか。
私にはわかりません。
職場への集金にたいし自分の都合で増えた借金だから言い訳はしませんが、
もはや破産して明るく出直せるものならそれも人生だと考えました。
確かに破産という逃げ道を選ぶことに情けなさは覚えますが、
2度と々過ちを繰り返さず幸せな結婚がいつかできるのならと心に誓い、
今回、破産を決意しました。
最後に平成16年1月8日、◯債権整理回収組合からの葉書に恐怖を感じています。

(その後、O.ryoの笑顔は曇りのない爽やかなものでした)


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