ハイネの森

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2017.06.16
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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の




白峯神宮(京都市上京区)の句碑


百人一首77番、 崇徳院 (1119-1164)の歌。

5歳で天皇に即位し、20代で上皇に。父親である鳥羽法皇との確執は深く、物言える立場になるのをことごとく邪魔され、実の弟の後白河天皇との権力闘争に破れて讃岐に流罪となり、二度と都に帰ることは叶わずその地で亡くなる。人生波瀾万丈の天皇だ。

そんな悲劇的な人生なのに、亡くなってからも怨霊だ祟りだなんて言われ、化け物みたいな姿を描かれてしまう。あまりにも悪いほうに盛られてしまっている。

こんな素敵な歌を詠まはる天皇さんやのに、何とも気の毒なこと


名神高速京都南インターチェンジのすぐ近くにある 『鳥羽離宮 田中殿之跡』


崇徳天皇が上皇となってから住まいとしていたのが田中殿で、ここから白河北殿に入って二週間後に崇徳院は讃岐に流される。この二週間ほどのゴタゴタが 保元の乱


鳥羽から船で下ったとあるので、淀川を大阪まで来たのだろう。

尼崎市に 「崇徳院」 という地名がある。



最寄り駅は阪神電鉄の尼崎センタープール駅。

讃岐に配流される崇徳院がこの辺りで休息したという伝説があるそうだ。

バス停のある道意線を北へ、古くからの阪神ファンにはおなじみの浜田球場を過ぎ、2号線を越してしばらくのところにある松原神社。



この神社は崇徳院を相殿神としている。

崇徳院が讃岐に配流される途中、大風雨を避けてこの地で休息し、村民がもてなしたという伝承があるそうだ。



讃岐へのルートとしては、あながちあり得ない事ではないのかもしれない。

尼崎より西へ移動し、瀬戸内の海を渡ったのだろう。今の香川県坂出市が崇徳院の終の住処となった。

崇徳院が崩御してから約700年後、明治天皇が讃岐にある崇徳院の陵墓へ勅使を遣わし、崇徳院の御霊を京都に戻して創建したのが、堀川今出川にある 白峯神宮



「崇徳院をお祀りしている」という事だけしか知らなかった私は、勝手に寂しい雰囲気のお宮さんを想像していたら、想像とは全然違う賑やかなお宮さんで、修学旅行の若人が大勢いる。次から次へとタクシーに乗った制服姿の小グループがやってくるのだ。

何で?? 崇徳院と中高生って結びつかないのよねぇ。

白峯神宮

舞殿の横には左近の桜(撫子桜)が美しく咲いていた。(4月中旬撮影)
舞殿の中央に、「戦いが始まる」と書かれたサムライブルーの選手たちのフラッグがある。




こんなものもがあった。



だから有名選手が参拝に訪れることもあるとか。



ボールが奉納されていた。

サッカー、野球など各球技ごとのお守りがあって、部活している子たちに人気があるみたい。


崇徳院と球技には直接つながりはないけれど、生きている間は戻る事が許されなかった都で、若い人たちの声が響く賑やかな場所で祀られているのは、少し救いがあるようにも感じた。今は丸いものをテーマにたくさんの歌を詠んでそう


もうひとつ崇徳院をお祀りしているところが祇園にある。

祇園甲部歌舞練場の裏側にあるのが、


「崇徳天皇御廟」 で、崇徳院の寵愛を受けた阿波内侍が、院の遺髪を請い受け弔ったという伝承がある場所だ。

阿波内侍は出家後、大原の寂光院に入寺している。





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Last updated  2017.06.16 11:45:57
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