ハイネの森

ハイネの森

PR

Calendar

2023.12.17
XML
かささぎの 渡せる橋に 置く霜の
      白きを見れば 夜ぞ更けにける
                 中納言家持


風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
      砕けてものを 思ふころかな
                 源重之


かくとだに えはや伊吹の さしも草
      さしも知らじな 燃ゆる思ひを
                 藤原実方朝臣



6番 大伴家持、48番 源重之、51番 藤原実方 の歌。

大伴家持 (718頃‐785)は奈良時代の公卿で、「万葉集」編纂のメンバーだったことで名高い。
お役人としての経歴は波乱万丈で、謀反に巻き込まれ地方左遷の憂き目にあうことが一度ではない。そのため各地に家持の足跡がある。越中、因幡、薩摩、大宰府、陸奥など。最期の地は陸奥国の国府があった多賀城であったという。(平城京で亡くなったという説もある。)

源重之 (?‐1003頃)は清和天皇の曾孫にあたる人物で三十六歌仙のひとり。
地方で官職につき、最後は陸奥国で任官中に亡くなったという。

藤原実方 (?‐998年頃)は平安時代中期の貴族。陸奥守として赴任中に当地で亡くなっている。

ということで、この三首の“ゆかりの地”を陸奥国の国府があった 多賀城跡 とした。


約900m四方の広大な敷地なので、まず一番高台の城跡北側から行ってみた。





高台で仙台平野と仙台湾を一望できる場所なので、行政の中枢を設置するにはむいていたのだろう。


11世紀中頃にはその役目を終えたが、古代期300年余りの間、東北の行政・文化の中心だった場所だ。


南側の駐車場に車を停めなおして城跡の南側を散策した。



多賀城跡で一番有名な史跡であろう 多賀城碑(国宝)




別名「壺碑」。
日本三古碑のひとつ。
大野東人によって724年に多賀城が創建されたこと、奈良の都からの距離などが記されている。
年号は天平宝字6年、西暦762年だ。

多賀城跡南端ではただ今絶賛工事中

南門復元工事が進行している。
復元される南門は8世紀中頃のものとのこと。



想像以上に広く、これだけ広大に保存されていることにとても驚き素晴らしいと感じた。
当時の建物があるわけはなく、残されているものは平面的なものが多い。何か大きなアイコンが欲しくなるのは当然で、それが復元南門なのだろう。

創建1300年のアニバーサリーイヤーがいい年になるといいね。


恥ずかしながら、これまで多賀城市の名前は聞いたことがあったが、歴史的背景がこれほど濃い場所だとは全く知らなかった。百人一首に興味を持たなかったら一生来ることはなかったかもしれない。


多賀城跡
宮城県多賀城市市川





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.01.19 09:59:30
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: