ハイネの森

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2025.10.25
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ももしきや 古き軒端の しのぶにも
     なほあまりある 昔なりけり

順徳院

百人一首100番、 順徳院 (1197-1242)の歌。

順徳院は第84代天皇 順徳天皇。
父親は第82代天皇の後鳥羽天皇。後鳥羽天皇は百人一首第99番の作者だ。 (ゆかりの地)

父である後鳥羽上皇(1180-1239)と鎌倉幕府執権の北条義時が戦ったのが「承久の乱」。
「承久の乱」で敗れた朝廷方は、後鳥羽上皇は隠岐に配流、子である土御門上皇は土佐に配流、同じく子の順徳上皇は佐渡へ配流になっている。

後鳥羽天皇から8代にわたって皇居となっていたのは、鎌倉幕府が殿舎を整えた 「閑院(かんいん)」 という場所。

「閑院内裏址」 を一つ目の“ゆかりの地”とした。


二条城の東、ANAクラウンプラザホテル京都のすぐ近く、押小路通と小川通の交差点角に石碑がある。

わかりにくいが、 《此付近 閑院内裏址》 とある。



石碑の後ろ側には西福寺があり、その門の横には、


《豊臣秀吉妙顕寺城跡》の碑と案内板があった。
聚楽第完成までの間、秀吉が政庁としていた場所だ。
この辺りの町名が「古城町」というのは、そのことの名残だろうか。

近くには他の里内裏もある。
すぐ南は百人一首67番の作者、周防内侍の“ゆかりの地”として訪れた 堀河院跡



東三条院跡 がある。


押小路通の西を眺めると二条城の東南櫓が見える。白い大きな建物はANAクラウンプラザホテル京都だ。


順徳天皇は1197年に後鳥羽天皇の第3皇子として生まれ、2歳年上の兄である土御門天皇の後、
14歳で第84代天皇になる。
お兄ちゃんは温和な性格で魑魅魍魎のいる鎌倉幕府と渡り合うには心許ないとお父ちゃんが判断して、剛毅な性格の順徳天皇へと譲位させたらしい。きっと弟のほうが自分(後鳥羽院)に似ていたんだろうね。


佐渡での生活は21年に渡り、1242年に佐渡で崩御する。
崩御後は佐渡の真野で火葬されたが、後に遺骨が都に持ち帰られ葬られたという。

現在、大原陵が順徳天皇陵として治定されている。
その大原陵を二つ目の“ゆかりの地”とした。

場所は大原三千院の北側。



三千院の門を通り過ぎて、

朱塗りの橋を渡って、すぐ右側に入ると、

御陵がある。


後鳥羽天皇と順徳天皇の御陵だ。








向かって左側に、《順徳天皇大原陵》とある。

御陵側から見える眺め

鞍馬のお山の方だろうか。

まだ紅葉には早かったので人出もそれほど多くなくのんびりとした大原。


紅く染まったらのんびりではなくなるな。


佐渡へ配流後に詠んだ歌

いかにして 契りおきけむ 白菊を
​       都忘れと 名づくるも憂し



   ♪    ♪    ♪    ♪    ♪    ♪    ♪

ちょっと気になったのが、、、
後鳥羽天皇と順徳天皇は仲良く御陵が隣り合っているが、土御門天皇の御陵はどこ? と。

承久の乱に関わっていないのに、父が隠岐に配流されたから自分もと、自ら土佐へ配流された土御門天皇の御陵は京都府長岡京市にある。

大原とは離れているね。





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Last updated  2025.10.25 11:57:35
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