自転車とのかかわりはふつうに皆さんと同じころからです
小学校低学年頃から非常に興味を持つようになりまして いつも乗りまわしておりました
3、4年生の頃だったかフラッシャー付き
(当時はデコトラみたいに指示器がでるやつが流行ったんで)
の新車を買ってもらいました 身長もまだそんなないんで24インチでした
今でも、自転車屋さんに取りに行ったときの事を鮮明に覚えてます
とにかく乗りまくりでした
5、6年になるとちょっと違う楽しみ方に目覚めました そう!サイクリングです
3歳上の兄貴の影響が大きかったかな 雑誌のサイクルスポーツの影響も
サイクリング車が欲しい!
でも自分ちは そんな裕福では無いと分っておりました
ので自分で自転車の改造を始めました
とりあえずフラッシャー類を全部とっぱらい
キャリヤなんかも いらない物全部はずしました
最後に剥離剤でフレームの色を剥ぎ 缶スプレーで真っ赤にペイントしました
たしかフロントバックつけたかな
それで兄貴ランドナー(太いタイヤに積載能力抜群のキャリアついた旅仕様)
と初めて長距離のサイクリングに志摩半島一周に出発・・・そして完走しました
途中、中学生の兄貴に必死に
(体力の差はもちろん、24インチの重い自転車で)
ついていった時の苦しさは今でも覚えてます
これが妙に自信につながり 中学生ではブリジストンのランドナー購入
同級生と県内ですけど そこらじゅう行きました
そして3年生の時 母親の内職の手伝いで必死に貯めたお金で
とうとうセミオーダーのロードレーサーを購入しました
きちんとチューブラータイヤ履いたやつです
友達の野球部キャプテンのKくんも同じように母親の内職してロードレーサー買いました
それからはサイクリングも速度がずいぶん上がり
一日200Km走ることも平気になってきました
当時は野球も好きでしたけど自転車の魅力にはかないませんでした
(自分で遠くへ行けるなんて凄いことでした)
高校生になると体力もついてきて競輪選手見つけては
追っかけたり 車抜いたりもしてトレーニングしてました
Kくんと休みになると遊んでて音楽と自転車 この二つで生きてた感じでしょか
そして二年生の夏休みにはKくんと信州まで行きました
とにかく自転車のパーツを買っちゃうんでお金が無い
でも行きたいんで僅かなお金と米、飯ごう、梅干をリュックに
サドルには昔の三角テントをくくって(ロードではあんまりいないでしょ)
行ってきました 真夏に一日250Kmほど走るんで熟睡出来そうな寝床探しは必死 (でも所詮世間知らずの子供)
一日目は扉峠近くの橋の下 テント張ったら 農家の人に
「ここは雨降ったらながされるでな 気をつけて」と言われましたけど
まっいいかと 疲れてるんで熟睡 雨も降らず
それから霧が峰 その他行き ビーナスラインから南下 富士宮 御前崎と
で二日目、死にそうに腹が減って でも固形燃料が僅か
これはやばいと Kくんと固形燃料売ってないかと店を探すが無いし
とうとう日も沈み 腹ペコで体力も無いし
で 目に付いたのが公民館のプロパンガスボンベ
ここならガスコンロがある
もう思考能力の無くなった僕たちは
ガスボンベ>ガスコンロ>飯炊ける>満腹 みたいな回路となり
入り口のドアに手を掛ける と 開いてる!
入ってみると当たり前にガスコンロがあり 僕らはすぐ火をつけ飯ごうをセット
沸騰した頃だったか 外でおばちゃん達の話声が聞こえ
不法侵入>泥棒だ>捕まる と 逃げた 火だけ消して 熱い飯ごう持って逃げた
(泥棒>捕まる>取調べ>カツ丼 となればやばいですね)
入り口で入ってくるおばちゃん達と鉢合わせた
でも何も言えずに米汁を撒き散らかして 逃げた (ごめんなさい)
自転車に飛び乗って とにかく漕いだ
隣町まで逃げて 広い川の橋の下に隠れ
ここで もう寝ようという事になり 準備しようとして気づいた なんか雰囲気が変
暴走族の名前のペイントだらけ なんか暴走族以上のものも
でも まぁいいか と思考能力の無い僕らはテントを張り始め
と、 ライトが何台かこちらまで降りてくる 「うわー」 と思ってると 予想どうりかな
外車数台でした こっちにライトあてて 人が降りてきました
けどライトでちゃんと見えません
近づいてきました なんか言いました
「ここで寝たらいかんよ 危ないから マムシおるから 違うとこ探したほうがいい」
と いい人たちでした でも本物の方々でした
仕方ないんでまた走り出し なんかさっきの出来事で興奮して元気が出たのか
数十キロは走ったと思います
とうとう小学校がいいという事で小学校を見つけ
静かな裏のプールサイドで僅かな固形燃料で米を炊きなおし食べました
食べてたら真横が線路で電車が来てびっくりしました
見られたぞ って思いましたけど そんな悪い事してないし まぁいいか と
テントも張らず渡り廊下でそのまま寝ました
このあとも日本坂トンネルに入ろうとして怒られたり
伊良子から鳥羽まではフェリー乗りました
そこで裸になって洗面所でTシャツ洗ったら
すごい色の絞り汁が出ました
後は何とか無事帰ったんですけど
この旅のことは一生忘れません 当時の僕たちにとっては大変な出来事ですから
また京都、奈良と行ったときは京都>奈良は雨で大変でした
白線でチューブラータイヤは凄く滑るんでしょっちゅうスリップ
パンクも何度かしました 予備タイヤは持ってたんですが修理
(チューブラーはタイヤが糸で縫ってありそれを切って専用パッチで貼りまた縫って
リムセメントでリムと固定しセンター出しする 因みにエアー圧は9キロ位)
でしないと足りなくなって 何も考えずにスーパーの前で修理してると
「大丈夫か 何処から来たんや」と まず、たこ焼き屋のおじさんから差し入れ
続いて惣菜屋さんから肉団子の差し入れなど 凄い人気ぶり
これに味しめてそれからはパンク修理はスーパーの前ですることとなりました
帰り道ではもう家まで30キロほどの所に来たんですが思ったより遅くなってしまい
小雨振る中 暗いライトで走っていると
何処からとも無く野犬が5,6匹ほど出てきて襲われました
Kくんが足かまれてるのみてぞっとしたんですがズボンのみで
何とか私も血の出るような噛まれかたはしなくてラッキーでした
この時は殺されると思ったんで全開でこぎました
まだまだ いろんなエピソードはありますが
自転車のお陰でいろんな所へ行き いろんな勉強しました
メンテナンスの大事さ、体調の大事さ もちろん人との関わりとか
今、バイク乗ってるのも 多分同じ線の上なんでしょうね
もうロードも随分前に処分してしまいましたけど
また余裕できたらロードなんとかしたいなと思ってます
いずれにせよ二輪からは平衡感覚あるうちは離れたくないなぁ と思っております

