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背番号35(その1)
2代目タイガース非公式サイトです
みなさんこんにちは 背番号35の第1回目です 始める前にちょっとお伝えしておくけど タイガースでは戦前に使われた番号は「39」までなのよ
とくに30番台後半の番号は創立当初には使用されてなくて 創立4年目の昭和14年から使われるようになったから 戦前に着けてる人は少ないのね 「35」は1名だけだよ
戦争をまたいでブランクがあって 2リーグ分裂の1950(昭和25)年に復活する番号です 球団数が増えて選手が不足するようになって 急にたくさん入団させたからね
第1回は戦前の1名と戦後の2名を紹介するね 最初の人はもう何度も登場してます でも後のお二人は???
中田金一 捕手・内野手・外野手(再掲)
中田さんは背番号「16」「23」で紹介しているけど 改めて全文を掲載させてもらいます
大阪府の出身で日新商業時代の1938(昭和13)年には一塁手として選抜大会で甲子園に出場している。この年に捕手としてタイガースと契約し、入団当初は背番号「35」を着けた。
163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のような面白さがあり、チーム内の人気者で「金ちゃん」と親しまれていた。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほどだよ」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」とみんなから言われてからかわれたという。
次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように!
実際に笑い話として後に本人が語っているが、主審にグラウンドボーイと間違えられ、試合中に「きみは危ないから隅に行ってなさい」と注意された事実があったという。本人曰く「グラウンドボーイのほうが僕より背が高かった (
笑 )
」。
1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打、打率 . 223の数字を残す。
1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。
帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。
出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率 . 204が通算成績である。
引退後はセリーグの審判員になった。
村田 弘 投手
1950(「昭和25」年に入団し、中田金一が背番号を「23」に変えたことで空いた「35」を着ける。公式戦には一度も出場が無いし、NPB在籍者名簿にも1年のみ在籍という記録しかなく、出身地やポジションなども不明。Wikipediaにもページがないため生年月日などの情報もわからないが、かろうじて投手だったことは判明。
残念だが村田に関してはこれ以上知る術がない。本人を知る人・・・同級生や同僚などが証言してくれないとお手上げである。
辻 嘉美 捕手
福井県出身。NPBの在籍者名簿によると1951(昭和26)年から52(昭和27)年まで2年間在籍したという記録があるが、公式戦の出場はない。「知恵袋」には、退団後は1953(昭和28)年に社会人のツルガセメントに入社したという記載がある。
別の資料を見ると「捕手」と記載されたものは見つかるが、それ以上のことは現状では調べようがない。プロ入り前のことも含めて情報提供を募るしかないが70年以上前のことだけにもう難しいのかもしれない。
まとめ
中田さんはある程度レギュラークラスで働いたこともあるから数字も残ってるし 当時のムードメーカーだったから同僚の証言なども残ってるわ
でもほかの2人はほぼ情報なしね 公式戦にも出ていないから数字も残ってない 残念だけど在籍したということと背番号しか確かな情報はないのよ 背番号30番台の後半はこういう人がたくさん出てきそうね
実際に「35」に限っても 2代目が知る範囲の時代ですぐに思い浮かぶのは才木投手くらい おぼつかないけど坂(さか)さんもそうだったかな?というような程度だから・・・
背番号35-2につづく
タイガース背番号史 35-4 2025年11月14日 コメント(4)
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