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背番号35(その2)
2代目タイガース非公式サイトです
みなさんこんにちは 楽天ブログがサクサク動くようになったね どんな不具合だったのかわかんないけどホッとしました
ということでまた公開していくよ しばらく背番号史「35」を続けてくね
では背番号35の第2回目です 1952(昭和27)年で辻喜美さんが引退して 次の1953(昭和28)年は空き番でした 1953(昭和28)年から「35」を着けるのが長尾旬さん この人も全く聞いたことがない選手です
今回は長尾さんを含め3名の紹介になるけど 多分読んでる皆さんも「・・・」の選手ばかりかなあ でもタイガースの一員だった人たち 今回読んで覚えてあげてね
長尾 旬 投手
静岡県の出身で高校は県立池新田高等学校。特に強豪校というわけではなく高校時代は無名。卒業後社会人野球の東邦レーヨンに進む。
1953(昭和28)年のシーズン途中、大阪タイガースの入団テストに合格して入団している。背番号は空いていた「35」が与えられた。
身長180センチの大型投手だったが体重は68キロと非常に細い選手だったようだ。ただし当時の御園生二軍監督の談話が「 yahoo 知恵袋」に紹介されているので掲載しておく。
長身の長尾(池新田高)のスライダーは、打撃面において常に中心となった最高殊勲選手横山(扇町商)のたくましい打力とともに「まさに一軍もの」
しかし1年目は一軍での登板はなく、2年目の1954(昭和29)年にプロ初登板を果たすが、先発して打者6人に対して3安打1四球で3点を失い1イニング持たずに交代させられた。
3年目の1955(昭和30)年は一軍で投げることはなく、ウェスタンで最優秀防御率0 . 79を記録している。
それでも球団は3年で見切りをつけ、オフに近鉄パールズへトレードされてしまったので、タイガースでの登板は3年間で1試合のみで終わる。
近鉄には1956(昭和31)年から2年間所属したが、計16試合で3勝0敗の成績を残して引退した。
プロ通算成績は17試合(先発3)3勝1敗、31回を投げ13四球、3奪三振、自責点9、防御率2 . 61である。
土井 豊 投手(再掲)
じつは土井さんは背番号12-3で紹介済みなのよ もうすっかり記憶が飛んじゃってます ということで再掲ね
和歌山県那賀郡池田村(現紀の川市)の出身。175センチ76キロと均整の取れた左投手だが、県立那賀高等学校時代は無名の投手だった。
和歌山の新宮高校で3度の甲子園に出場しノーヒットノーラン3回の剛腕だった井崎勤也(1956年タイガース入団)をマークしていたタイガースの青木スカウトが和歌山県大会で偶然見つけたというのが入団の逸話となっている。
土井も速球派投手で1956(昭和31)年にタイガース入団。背番号は「35」を着けた。
2年間は二軍で過ごし、1958(昭和33)年が一軍デビューとなる。この年は20試合に登板して2勝1敗で防御率は3 . 23だったが、2勝はいずれも4月に挙げたものだ。
1959(昭和34)年シーズンを前にした寸評が残っているので掲載する。
「阪神には貴重なサウスポーの一員だ。シュート、速球、カーブと球質は豊富で制球力が加われば鬼に金棒。昨年 2 勝 1 敗と星こそ少ないが安定したフォームと自信で昨年の実績は軽くあげられそうだ。」
かなりの好評価だが、その後はこれといった活躍ができず、1959年は 1試合、1960(昭和35)年は登板すらできなかった。
1961(昭和36)年に背番号を「12」に替えて9試合投げたが勝敗に関係できずに終わり、オフには交換トレードで大毎オリオンズに移籍する。
オリオンズには2年間在籍したものの、実質的にはバッティング投手のような存在で、1963(昭和38)年を最後に現役を退いた。
通算成績は33試合(先発5)、2勝1敗、69回1 /
3を投げ26四球40奪三振、自責点23、防御率2 .
96だった。
じつは福浦さんも背番号30―4で紹介済みでした 掲載当時より資料が増えたのでちょっと加筆して再掲するね
東京都北区の出身で高校は中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)。181センチ78キロの大型サウスポーで、1961(昭和36)に高卒新人としてタイガースに入団し、背番号「35」を着けた。
新人の頃は大きな期待が欠けられたようで、初めてのキャンプの様子を伝える記述が残っている。
1月23日からの自主トレーニングに参加した福浦をみて、藤本コーチは「これはいける。上半身の骨格がしっかりしている」とほれ込んだ。
その後報道陣が「新人で名前の売れた人がいませんね」といおうものなら、藤本コーチは「冗談じゃない。野球は名前でやるものじゃないよ。ウチの新人投手をみてくれ」と福浦を指さした。
その福浦は1回朝井、吉田に連安打されて無死2・3塁になったが、併殺で切り抜け、三併殺でかわして、打者13人で4安打、無四球、速球はまだのびを欠いているが、外角低目へのコントロールがあり、カーブも低目をねらってコースがいい。
若い選手にきびしい藤本コーチも福浦には「まあこんなものだろう。投げれば投げるほどよくなる。球が重いしフォームが安定している。なによりもスピードがあるのが魅力だ」と合格点を与えている。
これを読む限りではかなり評価が高い。1年目は5試合にリリーフ登板して9回1 / 3を投げ被安打10、5四球、6奪三振、自責点4、防御率3 . 60の記録を残す。
ところが2年目の1962(昭和37)年は一軍公式戦の登板なし。3年目の1963(昭和38)年は1試合に先発して5イニングを投げて3失点、敗戦投手になっているのが唯一の登板だった。
1964(昭和39)年は1年間ファーム、1965(昭和40)年に背番号を「30」に変えてみたが、結局一軍に上がることはなく、オフに戦力外を通告される。
タイガースには5年間在籍したわけだが、実働2年で計6試合の登板、0勝1敗、防御率3 . 60の実績しか残せなかった。
自由契約となって、1966(昭和41)年は西鉄ライオンズと契約したが登板はなし。
1967(昭和42)年と68(昭和43)年にそれぞれ12試合のリリーフ登板をしたが勝ち負けには関係なく、この2年間の防御率も4 . 01に終わっている。
さらに2年間、1970年まで在籍しているが一軍復帰はできず引退している。プロ通算成績は30試合(先発1)0勝1敗、57回を投げて18四球17奪三振、自責点25、防御率3 .
95。
まとめ
今回の3名は2リーグに分裂して各チームが選手不足になり 何でもかんでもかき集めてた時代に入った選手だね この背番号30番台の選手は補欠とか育成枠とかいう色合いが強いとおもう なので写真もほぼ残ってないのよ 報道とかされるようなレベルじゃないから
今回の3人もプロ通算の登板数がそれぞれ17試合 33試合 30試合しかないのよ しかもみんな20代で引退してる 言わば使い捨てに近い選手たちなのね まだドラフト制度も無いから 好い選手はお金を出す球団に持っていかれちゃう やむを得ず地方で評判のいい選手を 積極的にどんどん確保してたんだろうね
今回の3名は入団時には素材としての面白さを持っていたようだけど なかなか球団の期待通りにはいかないわ
高校から直接入ってくる選手が多かった時代なので 力の差を感じて挫折していく子も多かったのかもしれない・・・
背番号35-3につづく
タイガース背番号史 35-4 2025年11月14日 コメント(4)
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