タイガース非公式サイト2代目

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2025年11月14日
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​背番号35(その4)

2代目タイガース非公式サイトです

みなさんこんにちは 背番号35の第4回目です 

今回は3名を紹介しますが やはりなじみのない名前が続く感じ 情報が少なすぎて内容的に盛り上がりもないから 読んでる皆さんも退屈とかめんどくさいとかおもうかもしれないなあ

でも 2代目も34番あたりから退屈を感じながらも気力を振り絞って書いているので 応援すると思って最後まで読破してよね 

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但田 裕介(たじた ゆうすけ) 投手

東京都小平市小金井の出身。1969(昭和44)年、堀越高校3年の春に選抜大会に出場し、決勝戦まで勝ち上がる。最後は三重高校に敗れて準優勝にとどまったが、好投手の印象を残す。同年夏の選手権でも甲子園の土を踏み、準決勝まで進んだが日大一高に敗れた。

秋のドラフト会議ではタイガースが3位で指名しており、かなり期待感を持っていたのではないかと感じられる。

プロ入りの当時や入団後については情報がほとんどないが、 Yahoo 知恵袋に当時の記事が投稿されていて村山実新監督の談話もあるので全文掲載させてもらう(決して手抜きではなくホントに情報がほとんどないのよ 💧

1969年

阪神は11月22日午後4時、大阪・北区梅田町の阪神電鉄本社6階会議室でドラフト3位指名の堀越高・但田(たじた)裕介投手(18)=1㍍74、68㌔、左投左打=の入団を発表した。

発表には母親麗子さん(41)と田辺・堀越高野球部監督が同席した。阪神のドラフトによる選択選手の入団三人目である。なお背番号は未定。

但田はことしの選抜大会の準優勝投手。高校球界では三沢高・太田(近鉄入団)と並ぶ本格派投手として注目を集めていた。柔らかいからだを使って真っ向から投げおろす速球が武器で、オープン戦ながら2年生の秋には1試合18三振を奪ったこともある。

この日午前、大阪入りした但田はすぐ西宮市甲子園の合宿虎風荘を見学。ピッチングのままの強気な性格らしく、発表の席でも元気いっぱいだった。

但田投手

「いつかはプロでやりたかったので、大学へいって肩でもこわしたりしては指名してもらえないと思い、プロ入りに踏み切りました。それに甲子園で投げたかったし、阪神が好きだった。阪神のゲームはしばしばテレビで見ただけですが、江夏さんのように力で押していく投手になりたいと思います。三沢高の太田君についても、あっちはあっち、ぼくはぼくなりにやって、一日でも早く第一線で投げられるようにするだけです」

村山監督

「はっきりした性格の子なので楽しみにしている。言葉どおり一日も早く第一線に出られるよう一生懸命やってほしい」

 どこから引っ張ている記事なのかわからないが、かなり詳しく伝えられているし、当時の空気感もわかるのでありがたい。

176センチ67キロの体格は当時としても普通より少し細い。左投げという希少さと甲子園大会での度胸の良さを買われての3位指名だったと思われる。

背番号「35」はルーキーイヤーの1970(昭和45)年だけ着け、1971~72年は「50」に変えられた。

在籍は上記の3年間だけで、まったく一軍での登板はない。誰にも気づかれることなくフェードアウトしていった投手だ。こうして入団時の意気込みを語る談話が残っているだけに「もののあわれ」を感じてしまう。

上甲 秀男(じょうこう ひでお) 外野手

愛媛県出身で地元の県立北宇和島高校。この選手も情報は少ない。というより、よほどのタイガースファンにとっても「耳慣れない選手」なのだろう。

右投げ右打ちの外野手で180センチ76キロと体格にも恵まれていた。高校を出ると電電四国に入社して社会人野球でプレー。1970(昭和45)年の都市対抗野球四国予選の5試合で3本塁打を記録したことで一躍プロの注目選手となり、同年秋のドラフト会議ではタイガースから7位指名を受けて入団し、背番号を変えた但田が着けていた「35」を受け継いでいる。

情報が少ない中、またYahoo知恵袋に頼ることになるが、以下のような記事が投稿されているので引用させていただいた。

1970年

上甲(じょうこう)秀男外野手(23)=1㍍80、76㌔、右投右打、電電四国、北宇和高出身。

上甲は、ことしの都市対抗四国予選で、5試合に3ホーマーをマーク、そのうち一本は、松山球場のバック・スクリーンへライナーでとばした長打力の持ち主。

上甲外野手

「長打力に自信を持っている。反面、三振も多いが、それもぼくの魅力だと思っている。とにかく思い切りのいいバッティングをやっていきたい。高校時代は、捕手もやったりして、もうひとつだったが、ノンプロにはいってから伸びたと思う。得意のカーブ打ちを生かして常時出場が目標です」

残念ながら上甲はまったく一軍を経験することなく1972(昭和47)年に引退している。わずか2年間の在籍だった。

山本 重政 投手 (再掲)

実は山本さんは背番号「26―3」で紹介済みなんだけど 少しアレンジして改訂版という感じで掲載するよ

兵庫県加東郡社(やしろ)町の出身。1960(昭和35)年、県立社高校2年時の夏の県予選の小野工業戦において毎回奪三振で完全試合を達成したことで一躍プロから注目される投手となる。

翌1961(昭和36)年夏の県予選、姫路工大付属高校選で今度はノーヒットノーランの快投を見せて評価は高まった。

1962(昭和37)年、高校卒業後は立命館大学へ進学、1年春に3勝を挙げてエース格になるが、近鉄バファローズの別当薫監督が惚れ込み、1年生の山本を熱心に口説いたため、春のリーグ戦が終わると中退して入団している。

山本は同年6月から一軍で25試合に投げており、2勝5敗、61回1 / 3で60三振を奪うなど即戦力として活躍、防御率3 . 77の数字を残した。

以降1969(昭和44)年まで近鉄に所属し、268試合に登板、35勝63敗の成績を残している。おもに中継ぎが専門だったが、若いころの1963(昭和38)年にはリーグ最多の35試合に先発、翌1964(昭和39)年には21試合に先発し自己最多の12勝をマークしている。

近鉄最後の年となった1969(昭和44)年はわずか4試合の登板に終わり、オフに戦力外を通告されて自由契約選手として公示された。

ここに手を差し伸べたのがタイガースの村山監督だった。現役監督と言っても村山自身が衰え、江夏一人に負担がかかるチーム状況だったためベテランの山本も貴重な戦力と見たのだろう。入団時の背番号は「26」だった。

タイガースには1970(昭和45)年から77(昭和52)年まで8年間在籍、村山・金田・吉田と3代にわたる監督の下で投げている。

タイガースでは、2種類のカーブを主体にする技巧派に転じ、中継ぎとしていい働きをしており、在籍8シーズンのうち4シーズンで防御率2点台前半の好成績を残して貢献した。

1973(昭和48)年には背番号を「35」に変更している。

1976(昭和51)年はわずか2試合しか登板は無く、現役最後のシーズンになった1977(昭和52)年は背番号も「63」となって、現役登録ながら実態はバッティング投手として持ち前のコントロールを生かし、打撃陣の調整に一役買っている。

プロでの通算成績は424試合(先発88)、40勝67敗4セーブ、1117回2 / 3を投げて422四球、782奪三振、自責点420,防御率3 . 38だった。

現役引退後も1978(昭和53)年に二軍投手コーチ、翌年からスコアラーに転じて2002(平成14)年まで24年間も務めた。

その後、2003(平成15)年から2007(平成19)年までフロントの企画調査担当を務めたのち退団している。

まとめ

但田さんと上甲さんについては 上記以外に書くことが見つかりません 2人とも一軍に登録されたことがないので何の数字も残ってないしなあ 投手不足の時代にかき集められ 結果「使い捨て」みたいになっちゃったね(使ってすらいない?)

3人目の山本重政さんはオールドファンには記憶にあるかもしれないね 万年最下位時代の近鉄では大きく負け越し 1963(昭和38)年には野村克也さんに当時の日本新記録になる52号を浴びてるよ これが破られなかったら打たれた山本さんの名前も長く残ったとおもうけど 翌年に王貞治さんが55本を達成したので消えちゃった・・・

1970(昭和45)にタイガースに来て中継ぎで数字だけでは表せない貢献をしてるわ スコアラーとしても分析能力は一流で 長くタイガースの作戦面で貢献してくれたんだね

背番号35-5につづく


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Last updated  2025年11月14日 08時29分05秒
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