beyond(香港)



 そんなBEYONDに転機が訪れたのが1988年。大手レコード会社「新芸術(シネポリー)」と契約し、中国と台湾の関係を「それとなく」歌った(実際はかなり意識して歌ってはいるが)「大地」をリリース、そして大ヒット。ちょうど当時は天安門事件前で、中国の「民主化運動」が高まっていた時期だけに、爆発的なヒットだった。その勢いに乗り、その年の秋には北京でもライブを行う。
 しかし世の中はそんなに思い通りに行くものではなかった。「音楽」をやりたいBEYONDとは裏腹に、世間はBEYONDに「アイドル」としての要素を求める。会社の方針、彼らの「売れなくては」という意識もあり、発表する曲もバラード中心となり、マスコミに出るときも扱いは「アイドル」に近いものだった。そんなBEYONDを古いファンは、「アイドルに成り下がった」と批判する。一方で「頭の固い」連中は、BEYONDを「不良」と決めつける。板挟みの状態が続いた。
 90年になり、BEYONDは台湾を意識し始める。それ以前にも、何度か台湾でライブを行ったりもしてきた。が、ここに来て初めて、北京語で曲を作り、台湾で発表するということを始めた。香港の歌手にとって「台湾での活動」は、すなわち「中国大陸進出」を目論んでいる、と言っても過言ではないかもしれない。(台湾での『國語』、共通語とは、すなわち中華人民共和国の共通語である北京語であるため)。もしかしたらBEYONDも、「大陸」を強く意識していたのかもしれない。

 91年5月、BEYONDは初めて日本の土を踏む。東京・中野サンプラザで行われた、アジアの恵まれない子どもたちのためのチャリティーライブ「こどもえいど for ASIA」に参加するためである。わずか30分の短いステージではあったが、これが日本での「初舞台」であった。
 同年9月、BEYONDは香港でライブを行う。このライブ会場に、一人の日本人の姿があった。サザンオールスターズなど著名なアーティストが数多く所属することで知られるアミューズの会長、大里氏であった。大里氏は、21世紀の「アジア市場」を意識し、日本とアジアを分けてみる見方を打破したい、早いうちからそう考えていた。そのためには「日本」と「アジア」の相互交流・相互融和が必要だと主張していた。そんな大里氏が目を付けたのが、他ならぬBEYONDであった。
 そういうわけで91年12月、BEYONDは正式にAMUSEとマネージメント契約を結ぶ。こうして、BEYONDと日本との関係が始まった。

 92年7月、いよいよ日本でのデビューシングル、「THE WALL~長城~」を発売。9月にはセカンドシングル「リゾ・ラバ~international~」を、そしてデビューアルバム「超越」を発売した。しかし当然といえば当然だが、売れない。そこで会社は93年を「日本本格デビューの年」とし、本格的に売り出すことを決めた。こうして93年1月、メンバーは日本に部屋を借り、本格的な日本語レッスン含め日本での本格的な活動がスタートした。  
 5月にはかの名曲「遙かなる夢に」のレコーディングも終わり、待つはその発売ばかりという状態になった。
 そんなとき、彼らはウッチャンナンチャンと出会う。以前、会社主催のパーティーで会って互いに面識はあったという。そんな彼らがまた別のパーティーで出会い、意気投合、早速「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」にゲストとして出演してもらうことが決まる。
 翌日に「遙かなる夢に」の発売を控えた6月24日を、彼らはフジテレビのスタジオで迎えた。「ウッチャンナンチャンの…」の収録が行われていた。午前一時すぎ、世界が一瞬止まった。約2.7mのセットから、内村と家駒が転落した。幸い内村は軽い怪我で済んだ。が、家駒は堅い床に頭を強く打ちつけて、意識不明の重体に陥る。すぐさま、東京女子医科大付属病院に搬送される。
 翌25日には、「満を期して」『遙かなる夢に』が発売される。しかしその日、家駒は意識がなかった。
 しかし家駒は全てを知っていた。自分の身体がどうなっているか、ファンや家族、そしてメンバー含め友人が、どれだけ哀しんでいるか。そして彼は迷っていた。「どちらの道」を選ぼうかと。しかし彼は知っていた。--現実の世界に帰っても、もう自分の「身体」は音楽を出来る状態ではない、と。自分がやるべき事は全てやりつくしたんだ、と。だから彼は、もう一つの道を選んだ。天界の気持ちいいところで音楽をやろう、と。そして6月30日午後4時すぎ、彼はその世界へ旅立っていった。

 帰国後の彼らは、アルバム「聲音(サウンド)」を発売する。日本で身につけたものを十分に生かした、まさに新たなスタートを切るにふさわしいアルバムだった。また台湾でもアルバム「愛與生活(Love & Life)」をリリースする。このアルバムには初めて、「台湾用に」作られた曲が収録された。これまでは基本的に香港用に書いた曲に北京語の歌詞をつけていた。が、「愛與生活」の曲はそういった手順を踏まず、北京語の歌詞がつけられた。そういう意味で記念すべきアルバムである。またその後も、「北京語版が優先して作られた」曲はただの1曲(管我)しかない。
 そして96年3月、帰国後初の本格ライブを行う。ここで彼らは、家駒なしでもやっていけるということを改めて証明した。ライブは3日間行われた。最終日、ステージは何事もなく進んでゆく。──最後、「海闊天空」(「遙かなる夢に」の広東語版)を歌うときになり、家駒の弟である家強が「本当はこれは歌うつもりではなかったんだけど…」といいながら、アカペラで何かを歌い出した。「天空海闊是無……」。兄である家駒に捧げるレクイエム、「祝イ尓愉快(たのしくすごして)」であった。復帰後初のアルバムに収録されたこの曲、当然会場にいるファンは全員知っている。家強と会場の全員との、大合唱になった。涙をこらえ、歌う家強。しかし、涙は止まらない。何度も何度も、声が詰まる。何とか最後まで歌いきり、必死で涙を抑えようとする家強。しかし涙は止まらない。貫中が「そんなお前の姿、あいつは見たくないはずだぞ」と声をかける。そこで家強は名言を残す。「BEYONDは、永遠に『四位一体』です!」と。そして、家駒の遺作「海闊天空」の演奏が始まった──。
 2004年11月。また、衝撃がファンの間を駆け抜けた。いや、ファンのみではなく、香港芸能界を知る全世界の人たちにといっても過言ではないだろう。そのショックは、ある意味では家駒の死に匹敵するかもしれない。BEYOND、解散。正確には「活動休止、だがBEYONDとして行うライブは今度が最後。ただしチャリティーなどでは一緒にやるかもしれない」という表現。事実上の解散宣言だった。

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