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メジューエワ・ショパン・リサイタル

メジューエワ
 最近イリーナ・メジューエワのコンサートを聴いた。彼女のことはすでに何度も聴き、個人的にも知っているのだが、先月の終わりに近い11月28日だったか、聴く機会があったので聴いた。
その日はオール・ショパンプロ。小品から始まり、休憩の後に24のプレリュードの全曲。
結論から書いてしまえば、とにかく素晴らしかった。それは何故なのか。
ショパンの音楽はすでに世界中の人の多くが耳を傾け、愛聴する珠玉の音楽である。ましてや数多くの音楽家、演奏家がショパンを弾く。聴いただけでも、これはショパンと分かるものから、ショパンぽいというものまで多くがある。どんな作品であれ、演奏家が変われば自ずと出てくる音楽は同一ではない。こう思う、感じる、のが普通にとられるが、実はその反対のことも有るのである。それは必ずといっていいほど、異なる演奏家であっても同一の共通点、共有する音楽の世界があるのが、本来なのである。ここではショパン像。平たく分かりやすく言えば、楽譜は一つ(版の違いはあるが)なのだから、そこから生み出される音楽は同一の見解があって当然。それとは逆に演奏家の数だけ、ショパンの音楽があるということ。どちらもある面では正しくあり、そうとも言えない。
この日のメジューエワのショパンはこのどちらでもなかった、むしろどちらでもあったといったほうが正確かもしれない。
小品は兎も角、24のプレリュードは宇宙である。これは大きいというより、深い。彼女の持つ特質の現れでもあり、本来もって生まれた資質である。
成長の著しい成果といえば一言だが、そんな単純なものではなかった。
ショパンはピアノの詩人と呼んだのはハイネである。叙情的という範疇を越え、ここに流れる詩情はどこまで行っても急がない音から成り立っている。
それはテンポによるものも有るだろうが、彼女のような音楽に創り上げている演奏は未だ聴いたことがない。
プレリュードの後に夜想曲の遺作を弾いた。この曲に於ける解釈とその音楽はたぶん過去にも聴けなかった音楽である。これは一聴歴然のものである。
ものは試しに最近発売になったスケルツォ全曲のCDの中にもこの曲は入っている。2002年の富山県に於けるライブ録音。鳥肌が立つほど素晴らしい音楽、そして美音。それから2年を経過した今回の演奏はより深みを増し、これからが楽しみというレベルを超えて、何かを創りだしていくという魅力を禁じえない演奏であった。


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