柑橘系パパ


 二月三日。私立の受験まで、あとちょうど一週間。あせる。
いらつく。机に向かってると膝が勝手に貧乏揺すりをはじめ、
背中がもぞもぞして、暗記しなくちゃいけない教科書の数字や
言葉をどんなににらんでも、文字が頭の中まで届かない。
 いま何時? 夜の十一時過ぎ。あと少しで日付が変わる。受
験までに残された日数が、また減ってしまう。
 手に持ってた蛍光ペンを机に放り投げた。椅子の背に体を預
けて、胸の中の空気をまるごと入れ替えるつもりで深呼吸をし
た。
 自分でも気をつけたし、エリカにも細かくチェックしても
らったかいあって、息を吸うときに鼻を鳴らす癖はだいぶ直っ
た。でも、それと引き替えに、一度に吸い込む空気の量が減っ
たような気がする。胸を半分ほどしか使ってない感じで、息苦
しいというほどじゃないけど、なにかいつも緊張してるってい
うか、せっぱつまってるっていうか、息のストックがぜんぜん
なくて、呼吸するのをちょっとミスったら酸欠で倒れてしまい
そうだ。
 耳をすますと、リビングからテレビの音と両親の笑い声が聞
こえる。
 クサイ。
 ドアは閉まってるのに、パパはもうオーデコロンをつけてな
いはずなのに、クサイ。柑橘系のにおいがする。すごく。
 こんな空気なんて吸いたくない。でも、吸わないと死んじゃ
う。左のてのひらをマスクみたいにして顔の下半分を覆い、口
だけ、口だけ、と気をつけて息をする。
 右手で机の引き出しを開けて、消臭スプレーの缶を取り出し
た。これで三本め。毎日毎日、暇さえあれば家じゅうスプレー
してるのに、すっぱいにおいは消えてくれない。
 椅子に座ったまま右手をぐるぐる回して、あたり一面にスプ
レーした。
 無色透明の薬が白い霧になって部屋に広がっていく。
 パパもお母さんも、なんで平気なんだろう。二人とも鼻がマ
ヒしちゃったんだろうか。 このキツいにおい、わからないん
だろうか。
 それとも・・・・・・おかしくなっちゃったのは、あたしの鼻のほう
なんだろうか・・・・・
次の日、午前中の授業を休んだエリカは、顔じゅう赤いブツ
ブツだらけにして昼休みに登校してきた。


「どうしたの?」とみんなで取り囲んで訊くと、口を開くのも
つらそうに「ヤバイよお、あたし、もう温泉のモトがないとお
風呂に入れない体になっちゃった・・・・・・」と言う。
 うっかりして温泉のモトを買い忘れて、ひさしぶりにお湯の
ままのお風呂に入った。
「お湯がめっちゃ痛いの、ピリピリとかチクチクとか、そんな
感じで、お風呂からあがったら真っ赤になっちゃってたんだよ
ね」
 バスタオルで体を拭いてると、見る見るうちに発疹が全身に
広がっていった。かゆみはないけど、体がひとまわりふくらん
だんじゃないかと思うほど肌の奥のほうがほてって、ゆうべは
一睡もできなかったらしい。
「ほら、温泉のモトを入れるとお湯がなめらかっつーかソフト
になるじゃん、それにお肌が慣れちゃったみたい」
 エリカは早口に言って、それから、話を聞くあたしたちの誰
とも目を合わさずに、ぽつりと付け加えた。
「お医者さん、精神的なものだろう、って」
「ストレス?」とあたし。
「たぶん」エリカは小さくうなずく。「受験、直前だしね」
「あんた、そんなにシリアスだったっけ?」
「知らねーよ、そんなの」
 真っ赤な頬に水で濡らしたタオルをあてるしぐさは、ほんと
にキツそうだった。
 それを見てると、なんか、こっちまで泣きたくなる。
 弱い子ちゃん、だ。エリカもあたしも。最近ずっと口のまわ
りにニキビができてるヨウコも、えらそーな数字のオカノ先生
にキレて教科書を床に叩きつけたタカギくんも、相田みつをに
ハマって「ニンゲン、生きてりゃいいの」が口癖になったテラ
ヤマくんも、みーんな、弱い子ちゃん。
 あたし一人じゃない。ちょっとホッとする。でも、同じだけ
悲しくもなってくる。
 チャイムが鳴って、あたしたちはのろのろと自分の席につく。
「あーあ、たれてーよおー」
 隣の席のカオリが、だるそうな声で言って椅子を後ろにひい
た。机に顎をつける。両腕も広げて机に載せて、全身の力を抜
く。たれぱんだのポーズ、できあがり。
 部活のテニスに燃えて、コンジョー入りまくってたあの子が、
二学期になって引退したら、たれぱんだにハマった。「ジンセ
イの師匠ってやつ?」と、ときどき下敷きにプリントされた、
たれぱんださんを拝んでる。
「あたしも、たれよーっと」
 カオリの後ろの席のミドリも机に顎からつっぷして、ひしゃ
げた声で、「気持ちいいよ、ヒトミもやってみな」と笑う。
「うん・・・・・・」
 バカみたいだけど、やってみた。机の冷たさが気持ちよ
かった、マジ。
 ふと見ると、まわりの子もたくさん、たれている。たれてない
粉は、みんなピキピキとこわばって、ひきつってるみたいに見
える。
 英語のナカモト先生が教室に入ってきた。
「おい、どうした、おまえらシャンとしろよ、シャンと」
 午前中、国語のカトウ先生は「表情堅いぞ、みんな。もっと
リラックスしなきゃ」なんて言ってたんだけど。
 二月八日―――日曜日、私立の受験は、あさって。
 朝八時過ぎに目を覚まして廊下に出たら、肌寒さにぶるっと
身震いした。廊下が妙に明るい。そして、やけに寒い。
 振り向くと、玄関のドアが開けっぱなしになってた。冷たい
風が廊下に吹き込んできて、ぶるっと震えて、それで気づいた。
 家じゅうの窓と、玄関のドアが開いてる。
「どうしたの?大掃除?」
 キッチンで床拭き掃除をしていたお母さんは、「におい」と
雑巾掛けの手を休めずにそっけなく答えた。「ヒトミがあんま
りうるさく言うから、パパが、床や壁にもにおいがしみこんで
るんじゃないか、って」
「パパは?」
「ゴルフ」
「そう・・・・・・」
「朝ごはん、テーブルにあるから。パン焼いて早く食べちゃい
なさい。壁は午前中に拭いとかないと乾かないから」
「手伝おうか?」
「なに言ってんの」初めて笑った。「いいからあんたは勉強し
なさい」
 わがままで、親に面倒かけて、サイテーの娘だ。わかってる、
そんなこと。
 ひさしぶりに集中して勉強できた。拭き掃除の音はドアや壁
越しにずっと聞こえてたけど、ちっともうるさいとは思わない。
お母さんがすぐそばにいるんだというのを実感できる、うれし
い物音だった。
 お昼ごはんのリクエストを訊かれて、迷うことなくカップ焼
きそばにした。
「ちょっと、だいじょうぶ?試験の前にそんなの食べて」
 お母さんは眉をひそめたけど、「楽勝、楽勝」なんてゴキゲ
ンVサインをつくって、キッチンのストッカーの扉を開けた。
ラッキー。「UFO」が二つあった。
「ヒトミ、サラダでもつくろうか?」
「いいってば」
「コーンスープならすぐできるけど」
「いいのいいの、これで」
 栄養のバランスとか、関係ない。カップ焼きそばだけって
のがううんだ。去年の夏までは、これが休日のお昼ごはんの定
番だった。「パパが知ったら絶対怒るよね」とか「「C.C
レモン」も飲んでるんだから、いーんじゃない?」とか「パ
パ、いまごろなに食べてるんだろーね」なんてことおしゃべり
しながら食べた。違う種類のを一つずつコンビニで買ってきて、
途中で交換して食べ比べたりして。
 お湯でふやけたメンのにおいに、ソースのにおいがからむ。
ちょっとだけ、キャベツの青っぽいにおいも。鼻の音を気にせ
ずに思いっきり息を吸い込むと、胸の隅々にまで空気が行きわ
たる。ひさしぶりにフル充電みたいな感じ。
 焼きそばを口いっぱいにほおばって、お母さんに聞こえても
聞こえなくてもいい、もごもごした声で「パパ、もう単身赴任
しないのかなあ」と言ってみた。
 返事はなかった。
 拍子抜けして、でもやっぱりホッとして、顔を上げると、お
母さんは焼きそばに箸をつけずに、あたしをじっと見つめてた。


怒ってるのと悲しんでいるのと半分ずつの顔だった。
 焼きそばを呑み込むと、お母さんはあたしを見つめたまま
言った。
「今度はお母さん、一緒に行くから」
「・・・・・・あ、そう」
 軽く――言えたかな。よくわからない。ふーんすごいね仲
いいんだね、あたし的にはついてけないけどね、あたしも一人
暮らしマジでしてみたかったからちょうどいいんじゃない?声
は、喉を抜けていってくれなかった。
 気がつくと、お母さんは悲しさ八十パーセントの顔になって
た。
「オーデコロンだけじゃないんでしょ?」
「なにが?」
「パパのこと」
 焼きそばをもう一口、さっきよりたくさんほおばった。
「あんた、パパと最近ぜんぜん口きいてないでしょ」
「だってべつに用事とかないし」
「パパが話しかけても無視してるし・・・・・・」
「聞こえなかっただけだと思うよ」
「目も合わさないじゃない」
「そんなことないよ」


「なに言ってんの、ちゃんとわかってるんだから」
 お母さんの言うことは正しい。さりげなくシカトしてたつも
りだけど、バレバレだったってわけだ。
 あたしは箸を置いた。冷たいウーロン茶を飲んで息をつくと、
焼きそばのにおいが急にうっとうしくなってきた。
「パパって、そーゆーこと、お母さんに言いつけるひとなんだ
あ。サイテ―。なんかさ、男のクズって感じじゃん。」
「パパはなにも言ってないわよ」
「じゃ、いまの、おかーさんのおせっかい」
「ヒトミ」声がとがった。「受験でイライラするのは勝手だけ
ど、やつあたりなんてやめなさい」
「勝手とかって言わないでくれる?」
 こーゆーのがやつあたりなんだって、わかってるけど。
 お母さんの顔は、悲しさ百パーセントになってた。
 それを見たくないから、あたしはまた箸を持って、わざと音
をたてて焼きそばをかきこんだ。
「パパね、ゴルフ場の帰りにお守りもらってくるって」
「なに、それ」
「ゴルフ場の近くに、なんとかっていう有名な天満宮があるの
よ。ほら、天満宮って学問の神さまでしょ。帰りに寄って受験
のお守りもらってくる、って」


バッカみたい。それで高校に入れるんなら、誰も苦労しないっ
ての。焼きそば、もうおいしくなくなった。サラダとかスープ
とか、やっぱりつけてもらえばよかった。
「パパはお母さんから渡してくれって言ってるんだけど、ね、
ヒトミ、素直にもらってあげてよね? できるよね? せっか
くパパ、ヒトミのことを心配してくれてるんだから」
 やーだよ――なんて言うと、お母さんマジギレしちゃいそう
だから、黙って箸と口を動かした。
 お母さんも話しを変えた。
「掃除がすんだら晩ごはんの買い物に行くけど、なにか食べた
いものある?」
「べつに、なんでもいい」
 つぶやくように答えると、不意に胸が熱くなった。毎晩リビ
ングで笑ってたじゃん、おかーさんとパパ。すげー楽しそうだっ
たじゃん。あたしがパパに口きかないと目を合わさないとか、
お守り買ってくるとか、そんなこと話してるなんて思わない
じゃん、こっちは・・・・・・。
 泣きたくなるのをこらえてたら、お母さんはやっと焼きそば
に箸をつけて、「伸びちゃった、おいしくない」と笑った。
 笑ってくれたんだと思う。

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