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今回は連続写真だけです。客車の先端部から近づいてくるEF81を連写しました。連結作業を行う係員さんが、全面のステップに乗っていました。客車の直ぐ近くで係員さんは下車して、いよいよ連結作業に入ります。この機関車に引かれて、ムーンライト九州は関門海峡を越えて参りました。僅かに一駅だけでこの機関車はさよならです。次回は小倉駅での作業をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/30
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今日は今までかけて死にかけた(というかほぼ死んでいた)PC用のCRTを液晶ディスプレイに交換する作業を行っていました。やはり新しいものは良いですね。もう全然視野が違います。解像度も上がりましたのでブログの更新作業の効率も大幅にアップしそうです。さて、ムーンライト九州の続きです。このムーンライト九州は、新大阪から岡山・広島・下関・小倉を通って博多に至ります。この区間では電源が途中で変わります。鉄にとっては常識なんですが、本州の主要部の古くから電化されていて区間は直流電化です。直流1500Vの電気で列車を動かします。ムーンライト九州を牽引していたEF65電気機関車は直流用の機関車なのです。これに対して、比較的新しく電化された区間(九州や北海道や北陸や東北などですね)は交流電化です。そこで、機関車の付け替え作業が必要になるのです。ムーンライト九州の場合は2回付け替えを行います。というのは関門海峡を潜り抜けるために、海峡専用の電気機関車を繋がねばならないからです。具体的には、 新大阪→下関 EF65 下関→門司 EF81 門司→博多 ED76という具合になりました。下関駅でのEF65の切り離し作業です。JR西日本の作業員さんがわらわら出てきて、手際よくジャンパ線を外して開放作業を行いました。EF65機関車に色々と表示があります。「関」というのは下関所属を表します。「S」というのはATS-B装備を表しています。機関車と繋がれている面です。色あせが哀しいですね。やはりこの14系は古いのです。下関駅の停車時間は10分弱でした。EF65を切り離すと、次のEF81との連結準備作業が始まりました。点検OKでした。直ぐに連結作業が始まりました。この連結作業は連続写真で撮影しました。次回は文章なしで、連結作業をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/30
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皆さん、交通科学博物館に展示されていた超高級寝台客車のマ(イ)ロネフ59へのコメントありがとうございました。つねまる8さんから、こんな車輌が復活したら人気になるのに、というご趣旨のコメントを頂きました。皇太子殿下専用客車ですので、非常に豪華でして、人気にはなるでしょうけど、定員が少ないので、料金も高くなりそうです。リネンフラワーさんから「notosyunさん背が高い方ですか?」というご質問を頂きました。マイロネフ59の写真を見ると天井が近い画像が多いので、このようなご質問を頂いたのでしょうけれども、これは天井が低いのです。戦前の車輌はそんなに天井を高く取らないのです。happy-gaiさんからは「マロネフってロシア人の名前みたいですね」と言うコメントを頂きました。このマロネフはロシア人の名前から採った訳ではなく、 マ 客車の重量記号 ロ 二等 ネ 寝台車 フ 緩急車(車掌ブレーキが付いている車輌)という意味なんです。ロシア人の名前っぽいのは偶然でした。darling.さんからは「乗り心地はきっと今の電車のほうがいいのでしょうね」と言うコメントを頂きました。これは微妙です。昔は運転速度が遅かったので割と乗り心地はいいかも知れませんが、実際に運行している場面で乗車したことが無いので分かりません。私の電車人生で最高に「揺れない」車輌は、デビューしたての200系新幹線でした。あれは凄かったです。現在の東北新幹線は300キロ近い高速で飛ばしていますが、あのころは240キロくらいでしたから…。360キロ運転になったらどうなってしまうのでしょうか…。今回から再び鉄の世界に戻ります。大阪交通博物館の後に、余り私のブログ作風に沿っていない大阪人権博物館を挟んだので、ちょっと路線が変わっておりました。マイノリティ論と関西論が微妙に混じった日記でしたが、たくさんのコメントを頂きました。ktdktdさん(ポエムのような日記が魅力的なブログを作っていらっしゃる方です)からは「灯台下暗しぜんぜん知りませんでした」という感想を頂きました。結構本質的なご感想です。大阪には非常に魅力的なマイノリティコミュニティが存在しますが、棲み分けが極めてはっきりしているので、「そこに行かないと見えない」のです。別の角度からのご感想をお馴染み様のmaman.mさんから頂きました。「門戸は広くて拒みはしないけれど、キッチリと切り分ける、という意味では真の受容とは言い難く。」と言うものでした。相変わらず本質を突いていらっしゃいますよね。私が「頭の思い浮かんだけれども書くのを止めたこと」を鋭く抉っています。これを書こうかどうか迷って書かなかったのですが、関西勤務時代に「働き手は欲しいけど、となりに住むのは嫌」という感情が、この地方には存在すると感じていました。良くも悪しくも複雑な感情が存在するようです。同じくお馴染み様の修理屋マイスターさんからは「九州も異民族の宝庫?ですが、こういった大規模な博物館はありませんね。(中略)太古の昔は、異民族に対して差別はなかったはず。」というご感想を頂きました。これも本質を突いた感想だと思いました。私のブログは軽快な旅行記が身上ですので、どのように差別が生じてきたかには触れませんでしたが、その時々の為政者の方針が差別の発生の背景にあります。社会学チックには、豊かな階層ほど差別は少なく、貧しい階層ほど差別が大きくなる傾向があります。もちろん、偶然ではありません。貧しい階層の不満が為政者に向くのを防ぐために、為政者によって差別が助長されてきた歴史がある訳です。このテーマは非常に重く深いので、私のブログではこれ以上触れませんが、参考になるウェブはたくさん在りますので、ご関心がある方はググって頂きたいと思います。さて、ぼちぼち鉄道の話題に入って参ります。前回は夜の京都駅を撮影したものを数枚ご紹介しました。京都駅は数年前に全面改築されています。案山子の屁さんから「京都駅随分変わりましたね、15年位行っていないので雰囲気が違いすぎる感じです」というご感想を頂きましたけど、全くご指摘の通りです。21世紀の近代的なガラス張りビルになってしまいました。全然雰囲気が違います。設計者は「原廣司&アトリエファイ建築研究所」です。新梅田シティ、梅田スカイビルを設計したところです。コンペで選ばれたそうです。豆2705さんからは「この間自分で見た京都駅と違う世界みたいです」というコメントを頂きました。ちょっと変わった視点で撮影したので、普通の方の京都駅舎のイメージとは違っていると思います。とまれかくまれ、京都駅舎はなかなかの建物なのです。この京都駅を夜に出発し、快速ムーンライト九州の始発駅の新大阪に向いました。快速ムーンライト九州は、青春18きっぷの時期に運行される臨時快速であり、その運行区間は新大阪→博多です。東日本のムーンライトシリーズは電車で運行されますが、西日本のムーンライトシリーズは客車で運行されるケースが多いのです。車輌のご紹介に進む前に先ずは出発案内板をご覧下さい。ご覧頂けば分かりますが、発車時刻は21時59分と早いです。新大阪から岡山までは主要駅に停車します(豆2705さんから「広島通過しますよね」とコメントいただきましたが、その通りで、午前2時頃に広島駅を通過します)。岡山駅には深夜0時頃に到着しますが、これより西では客扱いはしばらくしなくなります。広島県内は全駅通過でした。新大阪で列車の入線を撮影したものです。始発駅ですのでゆっくりと入線して来ます。ゴーという電気機関車の冷却ファンの音が近づいて参りました。ktdktdさんから「高感度でこんなにきれいに撮れるんですね」というコメントを頂きましたが、実は高感度ではありません。ISO100で撮影しています。明るい絵にするために、長くシャッターを開放して撮影しています(こういう技法をスローシャッターと云います)。ちなみにこの画像は1秒の露光時間にして見ました。新大阪停車中のムーンライト九州の編成です。肉眼に近い露出にして見ました。大雑把に編成を解説しますと、先頭の電気機関車はEF65です。この機関車で途中の下関駅まで進みます。その後は機関車を付け替えるのです。後に妙に塗装の客車が繋がっていますが、これは14系客車の改造版です。昔は臨時列車のシュプール号に使われていたそうですが、今はどのように使われているかよく分かりません。ムーンライト九州だけかも知れないですねえ。今度は編成最後尾です。こんな形になっているのです。名鉄のパノラマカーに何となく似ていますけど、この車輌もやはり14系客車なのです。何故かこのような展望席みたいな談話室が設けられていました。所属表示です。「京キト」でした。客室の様子です。この編成はモノクラスのようで、グリーン車は見当たりませんでした。座席は普通のもののように見えますが…。夜行臨時特急専用の車輌として使われていたためにこのように背もたれがバターンと倒れます。たしか鉄子のなかでは「ニョローン」と表現されていたような気がしますけど…。快適でした。元スキー専用列車だけあって、このようなスペースも設けられていました。最後は便所です。更新されていないような気がします…。次回もこの列車のレポートを続けます。 良ければ一票お願いします。
2006/09/29
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続きです。この日の夜の「ムーンライト九州」に乗って九州北部を目指すことは決めていたのですが、なかなか時間が潰れません。湖西線の和邇駅まで行って、京都に帰ってきたのですが、京都駅でもフラフラとシャッターを切りつづけました。駅ビルから京都駅のホームを見下ろしたところです。駅ビルの中から撮影した京都タワーです。夜の駅ビルコンコースです。人気が無くて不気味でした。こんなことをしているうちに漸く時間調整が終わりました。快速電車で新大阪に向いました。新大阪からは、山陽本線を下る「ムーンライト九州」に乗車です。次回は、この長距離臨時快速列車をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/28
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直ぐに続けます。時間が余ったので何もすることが無く、当ても無く移動しました。JR大阪環状線の芦原橋駅です。環状線の201系です。201系は東京でもまだ中央線で走っていますが、中央線からの撤退が近づいています。東京では主要路線からはほぼ撤退が終了した103系ですが、大阪環状線では頻繁に目にします。この形式はかつては、東京の主要国電を完全に制圧していて、思い出は深い形式ですが、やはり、余り空きになれません。大好きな旧国を追放した形式ですので。淀屋橋の日本銀行大阪支店です。重厚な建築です。大阪市役所です。大阪には二つの官庁街があります。西側の淀屋橋を中心とする官庁街というか金融街です。大正バブル期に富を蓄えた大阪財界は、御堂筋であるとか、大阪城であるとか、地下鉄であるとか、猛烈なインフラ整備を行い新しい都心を形成しました。この辺がその中心部です。古くからの官庁街は、大阪府庁とか、大阪府警察本部などがある、東の官庁街ですね。中ノ島の南の川です。これは土佐堀川だったかなあ…。川の名前を失念しました。突然京都の賀茂川になりました。淀屋橋から京阪電車で京都に出たのです。京都に来てもやることはありません。三条商店街をひたすら西に進みました。結構レンガ造りの建物があるものです。京都はやはり奥が深い…。数十分歩くと二条駅に出ました。青春18きっぷで山陰本線に乗って…。太秦まで行きました。しかし、映画村の営業時間は終わりかけていて、ちょっと行く気がしませんでしたので、ここでターンしました。再び京都駅に戻りました。金沢行きの雷鳥が止まっておりました。JR西日本の在来線の看板路線ですが、主力は雷鳥からサンダーバードに移ってきています。このオリジナル雷鳥のヘッドマークもいつまで拝めますやら…。それでも時間が余ったので、湖西線に乗ってきました。和邇駅です。ここが湖西線の最大到達点になりました。ここでターンして京都駅に向いました。今回はこの辺で…。 良ければ一票お願いします。
2006/09/28
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続きです。この博物館のメインテーマは「私が向きあう日本社会の差別と人権」です。館内はこのテーマで統一されています。何と言うこともない日常の生活用品です。この用品の裏側に気付きがある。そんな展示です。どんな気付きかは、実際の博物館でご覧下さい。清潔がいい、文明がいい、と言った、ごく常識的な命題に潜む課題についての展示です。どんな課題かも、実際の博物館でご覧下さい。アイヌの民家です。アイヌ文化は正に失われようとしている状態です。独自の文化が展示されていました。アイヌの民芸品や衣装などです。在日韓国朝鮮人関連の展示です。琉球弧に祖先をもつ人々に関する展示です。大阪には多くの沖縄出身者の子孫が暮らしています。女性です。日本に限らずアジア諸国に共通しますが…。この博物館はかつては全国水平社関係の展示が沢山あったのですが、現在ではこのように模様替えし、日本社会で差別に苦しんだ(苦しむ)グループを広く紹介する展示になっています。この博物館を見ても、まだ3時過ぎです。関西出発は夜です。時間は有り余っておりました。この日の夜に乗車する夜行列車の発車まで関西地方を彷徨うことになるのですが…。次回は当てもない関西地方の「うろつき」をご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/09/28
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今日はテンション上がりません。住居で天井漏水が発生し、今も水が落ちてきています。酷い…。何でこんな目に遭うのか…。酷い建物です。築40年なんで色々あるのは仕方がありませんが…。まあ、いいや。続けます。大阪には色々な博物館があります。結構変わった博物館もあります。そんな大阪の「他の街にはない博物館」を訪れました。大阪人権博物館です。この博物館にはJRの芦原橋から徒歩で行けます。博物館に到着する前に「人権ロード」を進みます。この道には、国内で種々の差別の対象になっていた(いる)グループの群像が飾られています。この群像は、和太鼓を作る人々を表しています。これも和太鼓を作る人々を表しています。この群像は、朝鮮半島に祖先を持つ人々を表しています。この群像は琉球弧に祖先を持つ人々を表しています。この群像を見ても察せられるように、大阪には沢山のマイノリティコミュニティがあり、そこに差別があった(ある)のです。日本のあらゆる都市にマイノリティコミュニティが存在します。しかし、大阪のマイノリティコミュニティに匹敵するほどの規模と有機的な結合を持つマイノリティコミュニティはありません。大阪はある意味では「異文化を受容する」素地がある街なのでしょう。歴史的には、大阪は大正バブル期に猛烈な都市開発を行います。この工事のための作業員を遠隔地で募集し、工事に参加した人々が徐々に大阪に経済的な基盤を築いて行ったという背景もあります。運河の掘削で街が出来た生野区や、埋め立て工事で地面が出来た大正区などには特に大きなコミュニティが形成されました。このような人々が持ち込んだ文化が大阪に根付き、大阪を更に魅力的にしているという側面もあります。これが博物館の本館です。数年前に全面的なリニューアル工事を行っており、かつての展示とは大きくイメージが変わっています。次回は展示内容をご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/09/28
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続きです。今回ご紹介するのは昔の寝台車のマロネフ59です。見て直ぐ分かりますが、旧型客車です。称号規定改訂前はマイロネフ59と名乗っておりました。一等車の廃止で、マロネフ59と名前が変わりましたが、一二等合造客車でした。入口の表示は2等寝台です。帯も二等の青でした。 マロネフ59寝台車の説明(音声)ガイドさんの説明を載せておきます。こちらは二等室です。ブルマン式なんですね。上段寝台です。この二等寝台は随行員用だったそうです。こちらは下段寝台ですね。まあまあの寝心地は確保できそうです。奥に一等寝台が2室用意されていました。一等寝台は皇太子用だったそうです。英国皇太子と二人で使ったこともあったそうな。一等寝台専用の便所です。洗面所は別室です。豪華です。一等寝台の廊下です。木製感が溢れておりました。こんな感じで、大阪の交通科学博物館の参観を終えました。次に大阪のややディープな博物館の大阪人権博物館に参りました。次回はこの博物館の様子をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/28
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続いて、古い食堂車のスシ28に乗車いたしました。この車輌は先にご説明したキハ81や80系電車よりも更に古い旧型客車です。最初に音声ファイルをご紹介します。大雑把な説明はこの音声ファイルで分かります。 スシ28食堂車の車内説明(音声)先ずは客室の全景をご覧下さいませ。非常に暗いのです。当然スローシャッターでの撮影です。その昔の客車には電源車とか機関車からの給電がないものが多かったのです。客車の車輪の回転でオルタネーターを回して発電していました。自動車と一緒ですね。当然電力量が少ないので照明も暗くなります。冷房など夢でした。以上はガイドさんの説明の受け売りです。あはは。製造プレートです。国鉄旭川工場の昭和28年製でした。あれ、間違えてました。80系電車よりも新しいですね。いやいや間違ってません。昭和28年改造でした。この雰囲気は戦前の車輌ですよね。厨房入口です。流石に暗いのでストロボを使用しました。この戸棚みたいなものの下のほうが冷蔵庫になっておりました。これが冷蔵庫です。電気冷蔵庫ではなく、氷を入れておくタイプの冷蔵庫でした。三丁目の夕日の世界です。はい。厨房の脇の通路です。ここから厨房内部に入りました。食堂車の厨房に入ったのはこれが初めてでした。流しは普通でした。加熱設備が凄い…。石炭レンジのようです。ここまで来ると、私の歳ではちょっと現実感がありません。最後に厨房から撮影した客室内部を載せます。もちろん、露出を思い切り上げたスローシャッターです。ここで使われている椅子は戦前製の椅子だと説明されました(音声ファイル参照)。車輌の揺れで動かないように特別に重く作ってあるそうです。このガイド付きツアーも次の車輌でお終いになりました。次はマロネフ59です(旧呼称マイロネフ59)。今上陛下が皇太子時代に使用された「皇太子専用客車」だそうです。 良ければ一票お願いします。
2006/09/27
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さくさく続けて参ります。ツアーは次に80系電車に進みました。車内に入る前に外観写真をご紹介いたします。80系の初期車輌です。あの特徴的な二枚窓ではありません。旧型国電のデザインを残した3枚窓でした。全国的に大流行した前面2枚窓とは随分デザインに差がありました。車号はモハ80001でした。制御車なのにクモハではなくモハでした。本当かなあ。さて、ガイドさんと共に車内に入りました。ガイドさんの説明をお聞きください。雰囲気が分かると思います。 80系電車の車内説明(音声)車内です。木製部品が随所に使われています。この車輌が製作されたのは桜木町事故の後なのですが、割と何も考えずに可燃部品が使用されています。現在では考えられないですね。プレートです。日立製作所の昭和25年製のようです。照明もこのような白熱電灯でした。時代がかっています。ブラインド(鎧戸)も木製でした。渋いです。最後はトイレです。今では姿を消した「落とし放し」式です。「駅では便所を使うな」という表示がある便所です。これまた懐かしいです。以上で80系電車のご紹介を終りにします。次回はスシ28食堂車をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/26
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PCのモニタの様子が極端に悪くなってきました。今晩当たりで昇天するかも知れません。昇天してしまったら、しばらくブログ更新が停まります。お許しください。このモニタは1997年の4月購入のものですので、流石に寿命です。だめでも仕方が無いです。モニタの前面は今は亡き「GW2K」のロゴが入っています。さて、続きです。今回は大阪の交通科学博物館の探検ツアーをレポートします。これが案内板です。土日などに、一日2回実施されます。普段は入ることの出来ない保存車輌の内部にガイドつきで入れるという企画です。最初の獲物はこのキハ81です。 キハ81の外観説明(音声)この形式の愛称が「ブルドッグ」であった旨の説明がありました。続いて車内に入ります。車内の様子です。猛烈に暑いのでした。密閉式の窓で冷房が効いていませんので、耐えがたい暑さでした。ふー。 キハ81の車内説明(音声)椅子が古いのでリクライニングしないことなどが説明されました。キハ81は余り撮影していないので、この位にさせて頂きます。次回は80系電車をネチッとレポートします。80系気動車と違って、80系電車はバチバチ撮影しております。画像たっぷりでご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/09/26
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深夜なんですが、何となく創作意欲が湧いてしまいました。常設展示のご紹介を続けてしまいます。非常に古いと思われる蒸気機関車です。流石に明治の機関車は私のカバー範囲外です。後に見えるのはナシ20食堂車ですね。逆サイドからです。手前がD51-2です。ナメクジタイプです。何故か保存されているD51はナメクジが多いです。私は普通のやつの方が好きなのですが。ナシ20食堂車の車内です。ここは土日などは普通の食堂として営業しています。20年前までは寝台特急には大抵食堂車が付いていたものですが…。今ではカシオペアとか北斗星とかトワイライトエクスプレスだけになってしまいました。今度は前面からの撮影です。C62とD51です。著名形式ですね。解説不要のC62です。本線用蒸気機関車の最後の形式だけあって人気を誇ります。そこら中に静態保存されています。JR北海道のC62-3が休車になってしまったのは残念至極です。また復活しないかなあ。京都駅から持って来たプラットホームです。はっきり言って暗いのです。これが保存に良いのでしょうけど…。写真は撮りにくいのでした。引いて撮影してみました。左側はキハ81気動車ですね。特急「くろしお」のヘッドマークを付けています。東日本の感覚だと「はつかり」になるのですが…。DF50です。私の印象は特急「出雲」を牽引していた機関車です。世界的にはディーゼル機関車は電気式が割と優勢なんですけど、日本はDD51を初めとする液体式の天下でした。DF50は電気式の機関車でした。DD13です。入換用の機関車でそれなりの両数が製作されました。軸重がありますので、軸を増やして軸重を減らしたDE10にとって変わられた形式です。DD54液体式ディーゼル機関車です。失敗作として扱われることの多い形式です。短期間で消滅しました。DD54は運転台にも入れます。ここから再び屋内に入ります。明治期の駅の再現です。明治期の客車の再現です。常設展示の最後はこれです。国鉄高速バス「ドリーム号」です。何回も乗りましたが、とにかく疲れる乗り物でした。次回から、ガイドつきで普段は中に入れない貴重な古い車輌の内部を見て周る「探検ツアー」の模様をレポートします。これまた楽しい体験でした。是非またお立ち寄りください。 良ければ一票お願いします。
2006/09/26
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大阪に着いたところから再開します。奈良からは大和路快速で天王寺に進み、更に大阪環状線で弁天町駅に進み、交通科学博物館に参りました。ここは中々の規模でして、見る車輌が一杯あります。先ずは常設展示を何回かに分けてレポートし、更に、「ミュージアム探検ツアー」参加レポートをお送りします。ちょっと回数を使います。この前の「碓氷峠鉄道文化むら」並みの回数になりそうです。それだけ大した博物館なのです。ここは。最初にこんな駅のホームみたいなものが目に入ります。これは改修前の京都駅のホームを持ち込んだものです。昔の鉄道駅はこんな建築だったと言う訳です。屋根の下に車輌を置くので痛みを防げます。素晴らしい。ちょっとズームしてみました。80系電車です。流石の私も首都圏でこれを見たことはありません。私が目にしたのは中国地方でだけです。後で車内に入れてもらいますので詳細レポートは後日アップします。交通科学博物館の実車の目玉はこれです。0系新幹線車輌が4両くらい置いてあります。そのうち一両は運転台も含め、中に入ることが出来ます。素晴らしい…。客席部はこんな感じです。シアターに改造されておりました。0系新幹線は、前に「青梅鉄道公園」で中に入ったので、それほど感動は無かったものの、でもでも、やっぱり良いもんです。私の世代だと、この辺が鉄道事始なのです。私よりも少し上の世代だと、看板特急はこの形式、この列車だったのでしょう。東京大阪を結んだ当時の看板特急の「こだま」です。形式は151系です。私の世代では、151系は既に山陽本線に都落ちするか、161系に改造されて上越線を走っている姿しか目にしていないと思います。東京大阪を疾走していた頃は、半分くらいの車輌がグリーン車で、パーラーカーもついていて、当然食堂車も付いているという豪華編成だったと聞いておりますが、私が目にした頃は、ロザ1両+ハザで食堂車もないような編成ばかりでした。もちろん、伝説のクロ151など目にしたこともありません。 →画像の貼り間違いで0系新幹線の運転台を載せてました →修理屋マイスターさん、ご指摘ありがとうございました運転台にも入れます。国鉄の労使関係が悪化し始める前の車輌らしく、何にも無い疲れそうな運転台です。マル生粉砕からスト権ストに向けて、昭和40年代から国鉄の労使関係は急速に先鋭化していきます。結局これは日本国有鉄道を枯死させる要因の一つになるのですが、良いこともありました。運転手の労働環境は劇的に改善します。これも懐かしいマグレブです。まだ宮崎実験線を走っていた頃の無人車輌です。開発途上の技術って感じがします。現在の山梨実験線を走る車輌は、もう実用の域に達してしまっていますので、この雰囲気はもうありませんね。腕木式信号機と蒸気機関車用の給水設備です。この辺になると子供は付いていけないのではないかしら。各種の車輪が置いてあります。車輪というよりは動輪というべきでしょうか。蒸気機関車の動輪が非常に大きいことが分かります。蒸気機関車の頃には、大きな動輪を用いないとトップスピードを稼げなかったのです。一方で大きな動輪はトルクと粘性を失います。そんな訳で、蒸気機関車の頃には旅客用の機関車と貨物用の機関車を別に設計しておりました。もう少し常設展示のご紹介を進めます。続きは次回にさせて頂きます。 良ければ一票お願いします。
2006/09/26
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前回はムーンライトながら91号をレポートしました。流石にハザでの夜明かしは堪えました。更には、大垣駅での激しい座席争奪戦などもあり、京都に着くまで全然シャッターを切りませんでした。はー。極めて有名な話という訳ではありませんが、大垣まで利用したムーンライトながら91号は10両編成でたっぷり乗客を積んでいます。大垣から西に進むには、各駅停車米原行きに乗り換えるのですが、この各駅停車が僅かに4両編成なのです。従って、半分以上の乗客は座席を確保できません。この列車で座って寝ておくのと、立って眠れないのでは、後の行程の疲労度が大きく変わってきます。そこで激しい座席争奪戦が生じるのです。争奪戦はもう一回米原でも発生します。米原からは新快速西明石行きに乗換えになりますが、ここも凄いことになります(と言っても大垣駅よりは遥かに競争率は低いのですが)。とてもカメラを構えている暇はなかったのです。この第2旅程では、骨格となる列車は決めていましたが(ムーライトながら91号とムーンライト九州)、これ以外の予定は全然決めていませんでした。新快速に飽きてきてしまい、京都でぷいと降車し、ほんの思いつきで奈良線に乗ることにしました。103系です。関東地区ではすっかり仲間を減らしてしまった103系ですけど、関西地区では全然OKです。4両編成でした。所属は「大ナラ」でした。2M2T編成です。割と平坦な奈良線だとこの程度の電動車比率でよい、ということなのでしょうか…。車内です。土曜日の早朝の京都発奈良行きですので、この位の混雑具合でございました。仕業ダイヤです。京都=奈良間は結構時間がかかるんですよね。単線ですし…。近鉄の方が人気がありそうです。でも青春18きっぷなので当然JRを利用します。単線区間らしい画像を撮影しておきました。一線スルーになっているのがJR西日本らしいです。JR北海道なら昔ながらの線形になりそうな場所です。その昔の103系というと山手線を10両編成がバンバン走っていて、単線とはおよそ似つかわしくない形式でしたが…。時代は変わりました。旧奈良駅舎です。現在奈良駅では連続立体交差工事を行っています。この駅舎は既に使用されておりません。でも保存されています。残念ながら、この中には入れないのです。こちらが現在の奈良駅の仮駅舎です。味も素っ気もありません。この奈良駅近くのミスタードーナッツで朝食を頂いて(青春18きっぷで旅行している時の私は物凄く倹約家になります)、今度は大阪を目指しました。要は早朝に着き過ぎたので京阪間の移動で遠回りをして時間調整をしたのでした。次回から何回か使って、大阪が誇る鉄道博物館である「交通科学館」をレポートします。この前ご紹介した「碓氷峠鉄道文化むら」も、更に前にご紹介した東京の「交通博物館」も凄いですが、この大阪の鉄道博物館も相当のものです。血圧を上げてレポートします。是非またお越しください。 良ければ一票お願いします。
2006/09/26
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前回までは第1旅程のレポートを行いました。今回から次の週末実行の第2旅程のレポートに入ります。第2旅程から第4旅程まで全部「ムーンライトながら91号」を使っています。このムーンライトながらの前身は375Mとか371Mとか言われた「大垣夜行」とか「人民列車」と言われた長距離夜行各駅停車でした。青春18きっぷユーザーに限らず、鉄に限らず、非常にポピュラーな列車な訳です。「ムーンライトながら」は定期列車で、特急東海と車輌の共用しています。373系という新しいJR東海の車輌が用いられて非常に快適です(特にシートが素晴らしい)。一方で、私が使ったムーンライトながら91号は東チタ所属の189系が使われています。古い車輌なんで、余り快適ではありません。では、なんでまた古くて、比較の問題ではありますが、居住性の劣る車輌が用いられるムーンライトながら91号に乗るのか…。理由が当然あります。第一には、ムーンライトながら91号の方が、遅くに出発して、終着大垣には速く到着するのです。京都や大阪に速く到着できるのです。素晴らしい。もう一つ理由があるのです。臨時快速の「ムーンライトながら91号」は全車指定席なのですが、定期快速の「ムーンライトながら」は小田原から先は一部自由席になるのです。この自由席の設定ゆえに小田原以西が猛烈に混雑します。場合によっては便所に行くのが困難なくらいに混雑してしまいます。これが非常に不快なのです。このような理由で、ムーンライトながら91号を選択しました。この二つの列車は、東海道本線を走る夜行の特急貨物の合間を縫うように運行されます。抜きつ抜かれつ西に進みます。色々な駅で顔をあわせます。浜松駅とか豊橋駅では、一緒に発車待ちになります。「ムーンライトながら」と「ムーンライトながら91号」の乗換えなどと言うことも可能です。もちろん、そんなことはしませんけど…。このムーンライトながら91号は始発駅が東京駅ではなく、品川駅です。品川を23時54分くらいに出発して、横浜駅で日付を越えます。品川では結構空いて発車しますが、横浜でがばっと混みました。とりあえず、旅情を誘う出発アナウンスをお聞きください。 ムーンライトながら91号(音声)早速、車輌をご紹介しましょう。大垣方から順に クハ189-513 モハ188-34 モハ189-34 モハ188-30 モハ189-30 モハ188-26 モハ189-26 モハ188-25 モハ189-25 クハ183-1023の10両編成でした。電動車比率の高い編成です。元々は信越本線の横軽用の編成だったのでしょうか、8M2Tでした。また、品川方の制御車が183系なんですね。これは初めて見ました。変わった編成です。10両全てが普通車です。モノクラスなんですねえ。 便所はこんな感じでした。この前のムーンライト信州81号と同じような更新状況でした。この列車で西に進みました。小田原です。この日の運転では何故か小田原で救済が入りました。後続の普通電車の到着を待って出発が20分くらい遅れました。それでも、静岡までに遅れを取り返してしまいましたので、緩いダイヤということなんでしょうね。次回は大垣以西をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/25
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蛇足です。第1旅程は新宿駅で午後4時頃に終わりました。しかし、まだ4時です。日が高いのです。当時私は「携帯国盗り合戦」という携帯ゲームにはまっていました。いろいろな場所に行って携帯を使うとポイントが貯まるというゲームです。そこで、18きっぷを使って千葉県を進みました。新小岩駅かなあ。千葉から先はこんな懐かしいスカ色の車輌になりました。車内はこんな感じでした。一応アコモデーションは改善されている電車でした。この電車で外房線を南下しました。ここは最大到達点の外房線長者町駅です。ここでターンして京葉線回りで帰宅しました。これで第1旅程のレポートはお終いです。この次の週末(金曜日の深夜)から第2旅程が始まります。第2旅程はムーンライトながら91号+関西鉄道観光+ムーンライト九州+関門観光という内容です。次回は第2旅程の出発よりレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/24
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夏の青春18きっぷシリーズは4つの旅程から構成されますが、第1旅程もそろそろお終いになります。前回まで延々と上越線の湯檜曽駅と土合駅をレポートして来ましたが、今回は、土合を出発してから、新宿で同行者と別れるまでをレポートします。この電車で水上まで来ました。水上から南はぐっと路線密度が濃くなっていきます。水上駅の駅舎です。割と大きな温泉のある駅ですので、この駅で駅弁を購入しようと同行者と相談していたのですが、買えませんでした。駅前に食堂が無数に在ったのですが(言い過ぎ)、駅弁は売っていなかったのです。時間が悪かったのかも知れません。水上から高崎まではこの電車です。湘南色です。完全に首都圏の雰囲気になりました。水上駅に留置されていた185系です。新特急でしたっけ?、横見先生が大好きな在来特急です。新幹線と完全に平行して走る首都圏では割と珍しいケースです。高崎駅です。ここから先は天下の大幹線です。猛烈な運行密度になります。高崎で駅弁を購入しました。高崎駅ではだるま弁当という割と有名な弁当があります。これのバリエーションです。上がハローキティだるま弁当、下が期間限定の特別だるま弁当です。一般だるま弁当は紅いプラスチック製の容器に入っています。高崎駅の駅ビルには峠の釜飯も入っているのですが、乗換え時間の関係で買いに行くのは諦めました。私が購入したのは、D51弁当です。JR東日本が保有する動態SLのうちの一両でD51-498という機関車があるのですが、この機関車の所属が高崎なのです。但し、東日本管内の色々なところに出動してますので、必ずしも高崎に居るという訳ではありません。この11月には磐西に出てくるようです。高崎駅で見かけた両毛線の電車です。次に私たちが乗ったのは…。湘南新宿ラインの小田原行きです。凄い時代になったものです。高崎から小田原まで行ってしまいます。所属は「横コツ」でした。方向表示も複雑です。夜行列車の疲れが癒えていなかったので、G車にしました。ホリデー料金で事前購入料金ですと僅か750円です。大宮からは東北線に入りました。新宿に到着です。ここで同行者と別れました。これで第1旅程の主要部はお終いになるのですが…。第1旅程には蛇足があります。次回は蛇足部をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/24
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土合駅の上りホームをレポートします。駅本屋から撮影したものです。上越線が単線であった時代には、列車交換が行われたようです。二線あった線路を一部撤去して一線にした形跡があります。ホーム長は非常に長いのでした。現在は4両編成程度しか使われていないようですが…。駅名板です。JR仕様にすらなっていません。ホームをちょん切った跡がありました。奥のほうに見えるトンネルは清水トンネルです。上越線はこのトンネルで分水嶺を越えます。ついでに県境を越えます。ここには古い順に 清水トンネル 上越線上り本線 新清水トンネル 上越線下り本線 大清水トンネル 上越新幹線と3本のトンネルが走っています。新しくなるほど、深い場所に長いトンネルが走るようになっていきます。と、こんな感じに調子良く撮影していたら、上り電車が入線して来ました。この電車で水上まで進みます。次回は水上以南をレポートします。【本日の成果】ホリデーパス(JCB) 23×1.5倍=約34マイル(NH)普通車G券(JCB) 15×1.5倍=約22マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/09/24
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土合の階段レポートに沢山のコメントありがとうございました。今日は体調が少し戻ってきたので東京湾の出口近辺をうろうろして参りました。カモメの写真を撮ろうとしたのですが、動きが速くてなかなか出来のよいカットを撮ることが出来ませんでした。グスン。まあ、気を取り直してレポートを進めます。今回は上越線の土合駅の地上設備をさくさくさくとご紹介して参ります。先ずは駅舎内部からです。「486段の階段を下りますので、10分要します。」という記述があります。凄い…。湯檜曽駅と殆ど同じですが、ダイヤです。物凄く薄いです。一日5往復だけだそうです。ここで、駅舎の外に出ます。妙な形の駅舎です。多分谷川岳をイメージしたのでしょう…。巨大な駅ですが、無人駅です。空間的な広がりは新宿駅クラスと思われますが…。通路を通った時のレポートに対して、「通路のむき出しブロックと格子窓、日本の建造物ではないみたいです。」と言うコメントを頂戴しましたが、外から見るとこんな感じになっていました。外観はそんなに違和感ないです。更に新清水トンネル側に進むとこんな状態になっています。この先があの長大な階段になっているという訳ですね。今度は駅舎の入口です。暫定レポートでご紹介した画像とほぼ同じ構図です。「ようこそ日本一のモグラえき土合へ」という看板がこの駅の特徴を明確に表しております。確かに「日本一」を名乗るだけのことはあります。待合室です。これは用途不明の施設です。なんでしょうねえ。一段高くなった監視哨みたいなものがありました。降雪時にホームの様子を監視するためのものでしょうか…。外側から見るとこんな感じになっておりました。以上で、上越線土合駅の駅本屋(駅舎)関連のレポートを終りにします。次回は地上ホームの画像をご紹介します。地上ホームは割と普通です。 良ければ一票お願いします。
2006/09/24
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上越線土合駅レポートを続けます。前回は地下ホーム(下り本線ホーム)をご紹介しました。あの暗いホームから地上までは大変な距離があるのです。駅の構内に掲げられていた駅の案内図です。地上に存在する上り本線ホームと地下深い下り本線ホームの間には高低差もありますし、水平距離も相当離れているのです。地図を載せられれば、この駅の配線図をもっとはっきりお分かりいただけるのですが、残念ながら掲載可能な地図を見つけられませんでした。きんじろう36さんがブログで土合駅の配線図をご紹介しています。こちらもご参照ください。地下ホームに掲げられている階段に関する説明板です。凄い…。<引用始め>ようこそ『日本一のモグラ駅』へこの階段は、338メートル 462段あります。階段を上り、143メートル(階段24段)の連絡通路を経て、改札口になります。また、この下りホームの標高は、海抜583メートル、駅舎の標高は、653.7メートルあり、駅舎と下りホームの標高差70.7メートルあります。改札口までの所要時間は、約10分要します。足元にご注意してお上がり下さい。土合駅<引用終り>どーん。これが長大階段です。462段の病的な階段です。左側の空きスペースはエスカレーター設置スペースなんですが、この駅の利用者数は非常に少なく、エスカレーターが設けられることはなさそうです。中間地点の床です。「ここが階段のまん中です」と書かれておりました。親切な階段です。はーはー。湯檜曽駅で同行者と「湯檜曽と土合の見物が終わったら、碓氷峠を歩いて登ろうか」と相談していたのですが、この階段中間地点で同行者がボソリと「碓氷峠は止めよう。上り坂はもうこりごりだ…」と発言しました。私も全く同感でした。階段を登りきりました。もう疲労困憊でした。はーはー。鉄子の旅で菊地直江さんが切れたのもむべなるかなです。はい。kazu-m1229さんのブログでもこの階段をご紹介していらっしゃいます。私の写真よりもより恐い感じに仕上がっています。宜しければどうぞ。 鉄板屋さんも同じ構図の写真をブログに掲載しています。私は床面に近いところから撮ったので、他の方のブログに比べると、イマイチ迫力に欠けますねえ…。下り線と上り線の間は水平距離もあります。連絡通路を結構長々と進みます。これが連絡通路です。丸屋根の通路の突き当たりの掲示です。<引用始め>お疲れさまでした(階段数462段) 改札出口まで後143メートル階段2ヶ所で24段です。がんばって下さい。JR土合駅<引用終り>丁寧な駅ですこと…。まだまだ通路が続きます。この通路は橋状になっています。通路の下には道路が走っているのです。ようやくのこと改札が近づいてきました。こんな看板がありました。上りと下りを間違えると悲惨なことになりますものねえ。あの階段を往復させられたら…。想像もしたくありません。やっと駅舎に入りました…。長くなったのでこの辺で一回切ります。次回は土合駅の駅舎と上りホーム(地上ホーム)をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/24
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楽天さまの動く絵文字が上手く表現できない問題で、とりあえずの対応として「絵文字一覧ページ」が供給されています。全然便利じゃないですが、とりあえずは動く絵文字を使うことができるようになったのが嬉しいです。早速…。。動いているでしょうか?。さて、レポートを続けます。前回は上越線の湯檜曽駅を出発するまでをレポートしました。今回は土合駅への到着からの再開です。この電車で上越線を一駅だけ戻って土合駅に降り立ちました。私たちを降ろして、越後湯沢に向けて出発する電車です。物凄くホームが暗いのです。湯檜曽駅とは比べ物にならない暗さです。土合駅の方が「地下駅感」が断然強いのです。列車を見送ったので、早速地下ホームの撮影を始めました。無人駅ですので、遠慮なく撮影できます。F8で8秒シャッターを開けてみました。それでもこのくらいの絵なのです。非常に暗い駅であると言えましょう。F2.8で5秒開けています。作為的に明るい絵にしてあります。肉眼で見る光景よりも遥かに明るくなっています。線路は2本あります。ホーム沿いの一本と待避線です。上り本線は地上を走っていますので、ここはあくまで単線区間の駅なのです。しかし、現在の上越線の運転密度では、この待避線が使用されることはないでしょう。地下ホームに設けられたインターホンです。かつて有人駅であった時代に使用されたものと思われます。地上にある駅舎までは10分はかかります。後でご紹介しますが物凄い距離なんです。当然このような通信施設が必要になったと思われます。地下ホームに設けられた便所です。このホームは改札口から10分かかります。改札口の近くに便所があるのですが、地下ホームで催してしまった場合に、地上の駅舎までは到底もたないと思われます。そこでこのような便所が設置されたのではないでしょうか。地下ホームに設けられた「名所案内」です。汚れていてちょっと見づらいのですが…。「新清水トンネル徒歩10分」と書いてあります。この土合駅のホームは新清水トンネルの中にあって徒歩ゼロ分のはずなのです。この「徒歩10分」は恐らく駅舎か改札口を起点にした時間なのでしょう…。今回はここで切ります。次回は土合駅の地下ホームから地上へ通じる長い長い階段をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/23
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どうも体調が戻らず、今週末は旅行に出かけませんでした。家に引きこもって静養しております。久しぶりの感覚です。さて、湯檜曽レポートを続けます。今回で湯檜曽を終りにします。前回は湯檜曽下りホーム(トンネルホーム)をご紹介しました。今回は湯檜曽駅の上りホーム(地上ホーム)からの撮影分をご紹介しましょう。上越線のダイヤです。水上から北の上越線は非常にダイヤが「薄い」のです。定期列車は一日5往復しかありません。臨時列車です。一往復だけ出てました。上越新幹線開業前までは、この湯檜曽駅には停車しないものの、特急「とき」がガンガン走っていたのですが、新幹線開業後は優等列車は殆ど走りません。夜中に「あけぼの」とか「北陸」とか「能登」とか「ムーンライト越後」が走る位になってしまいました。建物財産票と言われる表示です。大体の駅にはこれがあります。漫画「鉄子の旅」でも紹介されていましたね。この表示には、感性年月が記されているので、駅見物の場合には必見の表示です。ちなみにこの上越線湯檜曽駅本屋は昭和47年の完成のようです。田中角栄氏の全盛期の作品ですね。湯檜曽駅本屋の中に置いてあった除雪用具です。雪国の駅にはこれが必須です。でも無人駅なのに誰がこれを使うのでしょうね…?。地上駅に置いてあった除雪用具です。ホンダ製のエンジン付き除雪機があります。これは強力な装備なのです。湯檜曽駅構内にある新清水トンネルの出口です。長大なトンネルで長さは13キロにも及びます。上越線は元々は単線で開業しました。昭和初期だったと思います。そして戦後に田中角栄氏の尽力で輸送力強化が進み、複線化されました。戦前は深いところにトンネルを掘る技術がなかったのでループを作ったりしたのですが、戦後工事分は、ループなど作らずに深いところを一直線にトンネルで線路敷設を行ったようです。この新清水トンネルが戦後敷設線です。下り本線です。こんな理由で、戦前敷設線と戦後敷設線が離れてしまい、湯檜曽駅とか土合駅のような変わった駅が誕生したようです。湯檜曽駅本屋です。奥のほうにループ線が見えますよね。何回見てもいい感じです。肥薩線の大畑ループも素晴らしいのですが、駅からループ線が殆ど見えないのが残念です。湯檜曽駅はしっかりループ線が見えます。線路脇ではニホンザルが遊んでいました。運行密度の薄い駅らしいですね。さて、そろそろ下り電車の発車時間になりました。再び地下の下りホームに進みます。電車が入線してきました。この電車で一駅だけ新潟方面に戻ります。数分で土合駅に到着いたします。上越線の土合駅は尊敬する横見先生のランクも非常に高い「面白駅」です。次回からはこの土合駅をじっりとご紹介いたします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/23
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前回の続きで上越線の湯檜曽駅です。早速上りホームに進みましょう。先ずは通路からです。上り線と下り線の高低差が小さい、というか、殆どないので水平の通路です。これが隣の土合駅になると物凄い高低差なので、大変なことになります。もう少し後の回で、土合駅での下り線から上り線への移動をレポートします。同行者が「屋内鍾乳石」マニアでして、「撮れ撮れ」と要請して参りましたのに応じて撮影したものです。全然発育が進んでいないので魅力が乏しいなあ。某国立大学の校舎では凄い鍾乳石を見たことがありますが、ここはまだまだです。下り線は完全に普通のトンネルです。標識類もトンネルならではです。青函トンネルでご紹介した、コンクリートの厚さを示す数字も見られました(上の画像)。白いのは勾配表示です。運転席からは非常に読みにくいですね…。駅名板です。下の駅名板は非常に小さいのです。何の意味があるのか良くわかりませんでした。蛍光灯の下の小さな紙が駅名板でした。ホームからはトンネルの出口が見えます。こんな場所なので高低差が無いのです。JR無人駅の定番装備の鉄道電話です。非常時に使うのかしら…。ここまで説明的に色々載せてきました。この後に下りホームの画像を掲載します。もう説明不要と思われますので、文字少なめで掲載します。下り(新津)方向です。上り(高崎)方向です。トンネル断面が大きいので迫力ありますでしょ。次回で上越線の湯檜曽駅は終りにして、土合駅へ進みます。今回はここまでにします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/22
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うー、やっぱ調子悪いです。薬を職場に忘れてしまい、解毒剤、じゃなかった解熱剤の効果が薄れてきました。はー。ちょっと辛いです。でも、ブログ書きは楽しいので進めてしまいます。前回は直江津から上越線を南下するところまでレポートしました。今回の最初の画像は越後湯沢で撮影した鉄道車両からです。ほくほく線の各駅停車です。本当の名前は北越急行株式会社です。ほくほく線は相性です。7月の三連休パスでわざわざ乗りに来たのですが、在来線特急(はくたか)で日本最速の時速160キロをたたき出す鉄道です。各駅停車も、この猛速特急の合間を走るので、トップスピードは時速110キロです。各駅停車としては異例の速度です。まあ、新快速はもっと速いですが。上越線の車窓から見えた古い客車です。多分スキー場の休憩場になっていると思いました。各駅停車は湯檜曽の手前の土合駅に停車いたします。尊敬する横見先生のランクはこの土合駅の方が湯檜曽駅よりも高いのですが、ダイヤの関係で降車しません。この日は越後湯沢→湯檜曽→土合→水上と進みました。土合駅から湯檜曽駅への上越線普通電車の車窓です。下に線路が見えて、奥のほうに駅舎が見えます。これが湯檜曽駅舎です。湯檜曽近辺で上越線はループしているのです。JRにスイッチバックは結構残っていますが、ループはかなり珍しくなりました。私も何を隠そう、肥薩線の大畑駅周辺のループ以来です。湯檜曽駅に到着です。電車の後方(新津方向)を撮影したものです。山の中腹に線路が見えます。あの線路を通って湯檜曽に入線した訳です。ちょっと望遠にしてみました。FZ30の威力発揮です。電車は私たちを残して水上方面に進んで行きます。この駅での滞在時間は40分くらいですね。この貴重な時間でガンガン撮影を行いました。駅名板です。ちょっとクラシック。線路の下です。巨大で立派な駅舎内部です。でも無人駅です。駅の近辺も閑散としています。駅舎の外に出てみました。あんまり変哲在りません。この駅の特色はループだけではありません。上り本線はループを走るのですが、上り本線よりも数十年後に追加で建設された下り本線はループせずに深いトンネルを走っています。このような経緯で、この湯檜曽駅と土合駅は、上りホームは地上にありますが、下りホームは地下にあるのです。上越線複線化の影響で、湯檜曽駅自体の場所も変わっているようですが、情報が少なく、今まではwikiを鵜呑みにしていたのですが、詳しい状況を紹介したブログがありました(関 行宏さんのウェブサイト)。非常に珍しい写真が多数収録されています。湯檜曽駅の歴史にご関心のある方はご訪問することをお勧めします。また、次回は湯檜曽の下りホームをご紹介します。トンネルの配線図についてはMOGUさんのブログ記事が参考になります。ここも訪れていただくと良いかと思います。次回は湯檜曽駅の下りホームの不気味な映像をご紹介いたします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/22
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今回は場面転換の回です。前回まで全部で13回を費やして「黒部アルペンルート」の行程をご紹介しました。素晴らしい自然と非常に巧妙に建設された移動手段をご紹介したごく普通の旅行日記であった訳です。しかし、今回から先は、超有名漫画「鉄子の旅」の追体験を行うという、ディープ「鉄」な行程に入ります。同行者は一般民間人でしたので、どこかで音を上げるかなあと思っておりました。結局土合の階段で音を上げられてしまいます。前回は黒部アルペンルートの北端の電鉄富山駅までレポートしました。富山からは再び青春18きっぷを用い北陸本線を東上致しました。のった車輌はこれです。資料的な価値は薄いのですが、一応車号を記録しておりましたので、ご紹介いたします。 クモハ471-1 モハ470-1 サハ455-4 クモハ471-2 モハ470-2 クハ451-30 懐かしの急行型交流電車のなれの果てでございました。車内はこんな雰囲気でした。一部ロングシート化とかモケット張替えなどは行われていましたが、かつての急行の雰囲気は相当残っておりました。ちなみに所属はもちろん「金サワ」でした。この列車で北陸本線の終点である直江津駅まで進み、直江津のビジネスホテルで寝ました。夜行列車明けでしたので当然強烈な睡眠不足でした。電池をはずしたおもちゃのようのコトリと寝てしまいました。翌朝です。直江津駅舎です。妙なフォルムです。某豪華客船のメインマストを真似て作ったとのことでございます。直江津駅は信越本線と北陸本線の分岐駅です。行ってみれば北陸の鉄道の要所と言う訳です。分岐駅なので駅名板は二股になっていました。大きな駅ですので、JR貨物のディーゼル機関車なんかも留置されていました。はい。この直江津駅から快速「くびき野1号」で今度は信越本線を東に進みます。新潟県内の路線名は分かりにくいのですが、ここで大雑把にご紹介すると…。実質的には、『日本海縦貫線』が大阪から青森まで突き抜け、これに肋骨線がぶら下がる構成です。路線名的には日本海縦貫線が 東海道本線の一部 大阪→山科 湖西線 山科→近江塩津 北陸本線 米原→直江津 信越本線の一部 直江津→新潟 白新線 新潟→新発田 羽越本線の一部 新発田→秋田 奥羽本線の一部 秋田→青森と7本の路線に分かれているのです。更にややこしいのが、信越本線や奥羽本線は新幹線の開業によりローカル線化した部分がありますが、これが日本海縦貫線の支線のようにぶら下がっているのです。信越本線の長野=直江津にはもう特急は走りません。奥羽本線の新庄=秋田もド・ローカル線になっています。これが快速「くびき野1号」です。485系交直両用特急電車が使用されています。もともとは特急「みのり」だったのですが、快速に格下げされた列車です。格下げされても車輌は特急のままなのです。ダイヤ的にも停車駅が少なく、信越本線を安く快適に移動できます。青春18きっぷ向きの列車です。方向幕はこんな感じです。普通車車内です。号車によって数センチ床がかさ上げされた車輌とフラット床の車輌が混じっていました。便器は和式です。洗面所は更新済でした。車窓はこんな感じです。左手に日本海を望みながら延々進みます。この路線では絶対に海側に座るべきです。くびき野で、長岡に進み上越線に乗換え、越後湯沢で乗り継ぎ、いよいよ、この日の最初の目的「駅」である上越線の湯檜曽駅に到着いたします。次回は鉄子駅1号の湯檜曽駅をご紹介いたします。画像は上越線の各駅停車です。所属は当然「新ニイ」でした。 良ければ一票お願いします。
2006/09/21
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皆さんたくさんのコメントをありがとうございました。猛烈に体調が悪くてフラフラしています。早めに退勤して、午後10時に寝付いてしまったら、早朝に目が醒めてしまいました。はー。NHKのサラリーマンNEOが凄く好きになりました。中でも中田有紀(なかだあき)さんの冷たい演技が最高です。青森の地方局のアナウンサー出身みたいですけど、凄いです。ファンになってしまいそうです。当初は20回で完結する予定でしたが、好評につき後一回だけ放映するみたいです。楽しみです。さて続きです。室堂から平野部を目指しました。残念ながら天候に恵まれず、雨中の移動になりました。室堂から美女平まではバスでの移動です。5月の連休のころは物凄い雪の切り通しの中をバスが進むのですが、7月には雪はすっかり溶けています。ちょっとしか残っていませんでした。弥陀ヶ原というバス停で途中下車しました。晴れていれば…。立山カルデラを見下ろす展望台から凄い景色が見られるのでしょうけど…。だめでした。結局ホテルでお茶も飲まずに(高いので)、ロビーでぶらぶらしているだけで終わってしまいました。そのまま、美女平に抜けて、ケーブルカーに乗車いたしました。これがケーブルカーです。こいつには非常に珍しい設備があります。これです。ケーブルカーの貨車です。初めて観ました。立山駅で撮影したものです。下から見上げました。これが貨車を下から見上げたところです。黒四建設初期はこのケーブルカーでも資材を運んだそうです。もちろん大した輸送力ではありません。主たる資材は大町側からトラックで運ばれたそうですが…。立山駅からは富山地方鉄道に乗り換えました。この富山地方鉄道がアルペンルート最後の交通手段になりました。大糸線の信濃大町駅からスタートして、 JR大糸線 信濃大町駅へ 路線バス 扇沢駅へ トロリーバス 黒部ダム駅へ ケーブルカー 黒部平駅へ 索道 大観峰駅へ トロリーバス 室堂駅へ 高原バス 美女平駅へ ケーブルカー 立山駅へ 富山地方鉄道 電鉄富山駅へと楽しみながらの移動でしたが、間もなく終了です。ガルベ号こみで10100円でしたが、この価値ありますねえ。青春18きっぷ2300円に比べて高いですけど、払って後悔なしでした。編成案内板です。富山行きと宇奈月温泉行きが併結されていました。このまま宇奈月温泉に出て黒部峡谷鉄道に乗ると黒部第三ダムに行けます。大町→アルペンルート→宇奈月温泉で宿泊→トロッコ列車、という行程も人気がありそうでした(パンフがたくさんありました)。富山地方鉄道の立山駅で売られていた「黒部すいか」です。巨大なスイカでした。物凄く重そうなので購入は見送りました。食べたかったなあ…。富山地方鉄道の車輌です。ローレル賞受賞車輌なんです。指定席の車内。乗車率ゼロでした。途中で宇奈月温泉行きを切り離しました。一時間ちょっとで電鉄富山駅に到着しました。電鉄富山駅構内のヘッドマーク置き場です。富山地方鉄道はローカル私鉄ではありますが、鉄としては楽しめる会社です。特別列車も多いし、車輌の魅力もあります。きっぷは最後にはこんな感じになりました。改札印が何回かおされます。これが富山地方鉄道の自由席特急券です。安い…。 以上で「黒部アルペンルート」の部をお終いにします。この後に青春18きっぷらしく、各駅停車で北陸本線を直江津駅へ進み、宿泊し、翌日の早朝から信越本線・上越線を進みます。次回から色合いががらりと変わって、「写真ブログ」から「鉄道ブログ」に変わります。是非、引続きお付き合いください。【本日判明の成果】2006/09/16 JL3002 伊丹-成田 Y 8342006/09/16 JL1501 羽田-伊丹 J 850 2006/09/16 JL0723 TOKYO-KUALA LUMPUR Y 60252006/09/17 JL0722 KUALA LUMPUR-SINGAPORE Y 4852006/09/18 JL0712 SINGAPORE-TOKYO Y 60112006/09/18 JL3007 成田-伊丹 Y 8342006/09/18 JL1322 関西-羽田 J 850 →結構マイルが蓄積しました。 良ければ一票お願いします。
2006/09/21
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前回の高山植物の回ではたくさんの情報提供を頂きありがとうございました。特にmaman.mさん、ありがとうございました。おかげで資料的な価値が出てきたような気がします。地獄というと、往年の名レスラーのアブドラー・ザ・ブッチャーの地獄突きを思い出してしまいます。はい。私も中年なのです。あの頃のプロレスは面白かった…。プロレス漫画で「アグネス仮面」というのがあります。掲載誌が割とメジャーなビッグコミックスピリッツなのでご存知の方も多いでしょうが、あの頃の雰囲気が伝わって来ます。懐かしいなあ。ところで、今までNHK総合テレビの「サラリーマンNEO」を観ていました。今日の最高のコントは「体操」でした。ブログを書くのが遅くなった理由はこれです。さて、続きです。今回は表題の通り地獄谷をご紹介します。色々なところに「地獄」という地名の場所がありますが、ここも大した景色です。私の訪れた中で、ベストオブ地獄は箱根のロープウェイからの眺めですねえ。ここは上から見下ろせないのが残念。緑の山の中に灰色の場所が見えます。これが地獄谷です。ズーミングしてみました。高山植物の絨毯の中に忽然と荒涼とした谷間が広がっておりました。早速降りてみました。この石畳みたいな道路を延々と降りていきます。歩いている時に脳裏を過ぎったのは「これを登るのは大変だなあ」という想いでした。ムーンライト疲れで少し弱気になっておりました。先ずは表札です。この表札もでかいのです。この手の標識が頻出しました。有毒ガスが出てるよーん。道から外れたら死んじゃうよーん。という不気味な標識です。上の遊歩道案内には「いたるところで有毒ガスが噴出しています」などという表示もありました。「絶対に穴を覗き込むな」とも書かれていました。おとろしい。こんな遊歩道を進んで行きます。煙がたなびいています。大丈夫かという感じです。注意書きは「絶対に立ち止まるな」…。噴出口近くの石です。この色は硫黄と見ました。硫化水素が噴出しているのでしょうね…。これでは植物の発育は難しいでしょうね。荒涼たる景色です。そこここで温泉がぽこぽこ沸いていました。出泉温度は楽勝で100度を超えて居そうでした。もうもうたる水蒸気。結構危険な雰囲気でした。でも楽しい…。みくりが池にはみんな行くのに、ここには余り人が居ませんでした。もったいない。ここから今度は雪渓(一部ですよ)を登って、室堂駅に戻りました。こんな感じなんです。遊歩道に雪渓が残っているのです。これを乗り越えないと前に進めないのでした。でも、終わってみると楽しいのでした。室堂に着くと、再び雨になりました。なんてついているのでしょう…。 良ければ一票お願いします。
2006/09/20
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15秒版です。日付が変わった時点で静止画レポートを掲載します。 良ければ一票お願いします。
2006/09/19
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室堂の続きです。地獄谷の動画です。風切音が凄いでしょ。強風下で有毒ガスがどんどん流れていきます。なかなかの景色でした。もう一本動画をご紹介した後に静止画レポートを載せます。 良ければ一票お願いします。
2006/09/19
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【追記】皆さんから多数の高山植物情報を頂きました。相当の事実誤認がありました。皆さんからの暖かい情報提供を本文に追記という形で反映させていただきました。この色の部分は本文を一旦アップしたあとの追加情報です。同行者のTさん、情報を持っていたらこっそりメールで提供してくださいね。反映しますから。 皆さん情報提供ありがとうございました!! 引続き情報を募集しております。全然「鉄」じゃない回が続いてますけど、お許しください。今回は室堂で撮影した高山植物をご紹介します。イワウメだと思います。高山植物の名前はイマイチ自信を持てないのです。間違っていたら、是非ご指摘をお願いいたします。 maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。 イワウメ → ハクサンイチゲ でした。ゴゼンタチバナです、多分。ミヤマタンポポかミヤマキンバイと思われます。自信なし。だって枯れかけているんですもの。 maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。 正しくはウサギギクでした。イワカガミですね。多分。みくりが池の周辺にはバンバン咲いていました。アオツガザクラです。これは名前を特定できませんでした。蜂を撮ったとご理解ください。 maman.mさん、情報提供ありがとうございました。 「蜂を撮ったもの(笑)は、どうやらミツガシワ科のイワイチョウ? 花びらが微妙に違って見えますが、大きな葉っぱが、多分間違 いないと。」これは山菜ですね。ゼンマイだと思います。 maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。 「色から思うに、こごみ だと。」コケモモですね。 maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。 正しくはアカバナイチゴでした。ハイマツだと思います。 maman.mさん、情報提供ありがとうございました。 ハイマツではなさそうです。引続き情報を求めております。 maman.mさん、情報提供ありがとうございました。 「黄の花、これがミヤマキンバイ」 maman.mさん、情報提供ありがとうございました。 「スミレ系で、多分オオバキスミレ」 maman.mさん、情報提供ありがとうございました。 「葉の形で特定すると、『モミジカラマツ』」 tougei1013さん、情報提供ありがとうございました。 「一番下は猩猩袴(ショウジョウ バカマ)だと思います。」以上は名前を特定できなかったものです。室堂にはこんな植物がありました。非常に短い時間で春→夏→秋と季節が巡る場所ですので、咲く花もころころと変わりそうな感じでした。私たちは時間の関係で見送ったのですが、ビジターセンターに行くと、レンジャーさんによるガイドツアーも行われているようです。ここはガイドさんに教えてもらった方が楽しめるかも知れません。今回はここまでにさせて頂きます。次回は地獄谷の模様をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/19
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帰国しました。今回は収穫少ないです。たまにはこういう旅行もありますね。まあ、気を取り直して確定レポートを続けます。トロリーバスで室堂についたときには酷い雨で「あーあ」と思っていたのですが、ビジターセンターで黒部紹介のビデオを見ているうちに晴れ間に…。素晴らしい。こんな感じです。でも、雲高は低いです。晴れているうちにみくりが池を一周しました。この辺りが黒部アルペンルートの最高地点です。標高は2450メートルです。雲がこんなところにあるのもむべなるかななんです。駅側から見た「みくりが池」です。ちらりと左下に見えます。ここから先は文章なしで進めます。とても7月末の景色とは思えないですよね。雪がたくさん残っています。この時期は、運が良いと雷鳥の親子に出会えるそうなのですが、残念ながら会えませんでした。この池の周囲の緑は全部高山植物です。標高2450メートルなので当然と言えば当然なのですが…。高山植物に関しては次回集中的にご紹介します。「みくりが池」の向こうに荒涼たる景色が広がります。ここは地獄平という火山ガスが漂う平地です。この場所は次々回ご紹介します。とこんな感じのところでした。ここは時間をかける価値がある場所でした。カメラも喜んでおりました。次回は高山植物をご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/09/18
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続きです。BBSにまみぃ1969さんから書込みを頂きました。 >オオッ、この食堂車の写真は何でしょう? >私って旅行は好きだけれど、電車の型までは普段 >気にしていないんです(ごめんなさい)。この車輌はスシ28という食堂車です。現役の車輌ではありません。大阪にある交通科学博物館に保存されている車輌です。普段は車内に入れないのですが、特別ツアーに参加すると、ガイド付きで中に入れてもらえます。この車輌を撮影した時の模様はこの「夏の青春18キップ」シリーズで後日ご紹介します。さて、続きです。立山ロープウェイで、黒部平駅から大観峰駅へ向けて登って行きました。ラッキーなことに、最後尾のポジションを取れました。しかし、ガスが出ておりました。あっという間に何も見えなくなってしまいました。大観峰駅に到着しました。標高は2316メートルまで上がりました。残念ながら大観峰駅は大雨で何も出来そうにありませんでした。仕方が無く、立山トロリーバスに乗り換えて、黒部アルペンルートを更に進むことに致しました。この立山トロリーバスも、前に乗った関西電力トロリーバス同様全線トンネル運行なのです。このバスが通るトンネルは3000メートル級の山々をぶち抜いているのです。正に峠なのです。運転台はバスっぽいのでした。これも関電トロリーバスと一緒でした。やたらとスイッチが多いのは鉄道風でした。車内はこんな感じでした。このトロリーバスに10分ほど揺られると、この黒部アルペンルートの最高標高地点の室堂に出ます。ドーン。室堂駅前です。雪です。7月末なのに雪があります。黒部アルペンルートの宣伝写真で大雪渓がよく出てきますが、あれは、この辺りの写真のようです。この室堂では遊歩道を歩き、高山植物の写真を撮り倒しました。次回は室堂の遊歩道をレポートします。漸く山っぽくなってきました。しかし、室堂で天候が回復します。結構ついていたのかも知れません。 良ければ一票お願いします。
2006/09/17
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これより、ASEAN某国に向けて出動します。帰国まで更新が停止しますけど、お許しください。さて…、楽しかった行程の確定レポートはさくさくと筆が進んでしまいます。今回は黒部平駅をレポートします。標高は1828メートルです。ドンドン標高を稼いで行きました。これが黒部ケーブルカーの終点であり、立山ロープウェイの乗換駅でもある、黒部平駅です。この駅舎の屋上が展望台になっておりました。早速展望台に進みました。展望台本体です。これが展望台からの眺めです。黒部第四ダムの堰堤を見下ろすことが出来ました。左上の展望台に先ず行って、階段を降りて右下のレストハウスに向ったのですが、こうして見ると高低差が結構在りました。行き交うロープウェイが見えました。今度は駅舎前面に出ました。ここも中々のものでした。こんな感じに高山植物を見ることができるのです。ちなみに一番下のクロユリは富山県の県花でもあります。さて、この通路を通って、今度は立山ロープウェイに乗ります。大手旅行代理店の大団体が次々に入っていきます。結構な混雑です。人気なんですね。でも、分かります。ここは来る価値があると、私も思います。索道の終端部です。この索道の機関は上の駅(大観峰駅)にあるので、こっちの終端はこんなものです。私たちが乗るロープウェイが入ってきました。今回はここまでにします。次回は、ロープウェイからの車窓と大観峰駅以降の移動をレポートします。ここから先はしばらく荒天になり写真は一休みになってしまいました。しかし、室堂で天候が回復します。結構ついていたのかも知れません。 良ければ一票お願いします。
2006/09/16
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前回までで黒部第四ダムをレポートしました。黒部ダムを後にし、続いて黒部平へ進みました。利用した交通機関は黒部ケーブルカーです。これがケーブルカーの黒部湖駅です。強烈な勾配です。列車を待つ間に、駅長さんの観光案内を聞かせてもらえます。これが爆笑トークなんですな。こんなに面白い観光案内は、石垣島の定期観光バス(午前便)以来でした。はーはー。電車が入ってきました。結構混むんですね、この電車が。車内はこんな感じでした。窓際を取れなくても全然気になりません。何故なら、このケーブルカーも、トロリーバス同様に全線トンネルなのでした。ほんの数分で黒部平駅に到着いたします。この時点で標高は1828メートルにまで登りました。でも、まだまだ登ります。次回は黒部平の様子をご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/09/16
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ガルベ号を降りて、再び黒部湖レストハウスに戻って朝食を頂きました。カレーにしました。なんか、山っぽいでしょ。今更ですが、黒部ダムの表札です。でかい。レストハウスから撮影した堰堤です。高さが分からないので、あまり良くありません。前々回の画像が吉です。静かな湖面です。でもちょっと雨が降り始めました。山の天気です。ダム湖の深さ表示です。標高も表示されています。堰堤の最上部で標高は1454メートル、堰堤の高さは186メートルだそうです。水深は178メートルだったようです。この石造は殉職者を慰霊するものでした。黒四建設に際しては100名以上の方が殉職なさったそうです。合掌。青函トンネルの案内係の方から「殉職者は34名」と説明されました。やはり黒部は難工事だったのですね。殉職者の方々のお名前が記録されていました。合掌。 良ければ一票お願いします。
2006/09/16
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さくさく続けてまいります。猛烈な写真在庫量でして、写真中心にご紹介を続けてまいります。これがガルベです。大阪市の水上バスより少し小さい位の舟でした。こんなダイヤでした。同行者と私が乗船したのは始発便です。お客は私たちだけでした。貸切~。乗船待合室で見かけた変な表示です。乗船待合室の先にはこんな釣り橋がありました、この釣り橋の向こうにロッジがあるようです。乗船時間が迫ってきました。この階段の先が船着場です。こんな表示がありました。ダム湖ですから当然夏と春で水位が大きく変わります。こういう表示はダム湖ならではですね。船着場に続く階段です。水位によって階段の長さが変わるため、手摺が取り外されて、こんな感じになっていました。私たちが訪れた時は雪解け水で殆ど満水でしたので、階段は短くなっているようでした。また流木が飾ってあります。自然に磨かれてピカピカになっていました。いよいよ乗船です。船内の様子はこのような感じでした。後部がオープンデッキになっていました。ここに立ってシャッターを切り続けました。先ほどの釣り橋です。湖面からみた堰堤です。殆ど満水なので、非常に低く見えました。驚くほど湖面が静かでした。何か神々しい感じでした。黒部湖の渡し舟です。こんなところに渡し舟があるんですね。船内に掲げられた「救命具の使用法」です。ちょっと変わったイラストでしたので、撮影しておきました。ガルベ号はこんな感じでした。 ガルベ号の船内案内(音声)船内アナウンスもご紹介させて頂きます。大雑把な雰囲気がつかめることと思います。 良ければ一票お願いします。
2006/09/16
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ポンポン進めます。オウム事件の死刑確定も感慨深いですが、黒部第四ダムの絶景もまた感慨深かったのです。動画をご覧頂きましたでしょうか?。これは凄い絶景でした。もっと早くこの場所を訪れるべきでした。ドーン。このダムでの記念撮影用に色々な立ち位置が用意されておりました。この辺は最も高い位置からの撮影です。黒部湖もきっちり見えます。縦のアングルでもう一枚です。数メートル低い位置からです。奥側の建物が、ダムの管理棟です。手前は黒部ダムレストハウスです。このレストハウスの中に展示室があります。厳しい工事になった「関電トンネルの掘削」の模様が上映されていました。下に向って移動する最中に撮影した高山植物?、です。こんなものも展示されておりました。ダム建設の際にコンクリートを汲み上げた枡みたいなものらしいです。今度は水面くらいの高さからです。こっちの方が放水が迫力を持って見えました。黒四の両岸に聳え立つ砂防ダムです。この砂防ダムの高度も大したものでした。迫力ありました。レストハウスを通り、堰堤の上に出ました。これは堰堤の直ぐ脇にある関電トロリーの駅の入口です。今まで私が通ったルートは、長い階段を上がって、ダム沿いに下りる経路なのですが、階段を避けて通ると、いきなりここに出てしまいます。堰堤の上はこんな感じの道路になっています。この道路を通って、黒部湖の対岸に出ます。対岸には、やはりトンネル駅がありました。ケーブルカーの黒部湖駅です。アルペンルートをひたすら進むのであれば、ここから更に高地を目指すのですが、同行者と私は黒部湖観光船のガルベ号に乗るために、ここを通り過ぎ、更に上流方向に進みました。岸辺沿いの道路です。スノーシェードがある道路でした。この辺りの冬は物凄い雪が降るようです。上流側から見た堰堤です。次回は観光船ガルベ乗船の様子をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/15
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最初の動画に近いカットです。もう一度味わいながら撮影してしまいました。 良ければ一票お願いします。
2006/09/15
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放水の水煙から下流方向を写しております。水音が凄かったのでした。 良ければ一票お願いします。
2006/09/15
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黒部第四ダムは観光放水と言って、堰堤から水を流して見せてくれます。水煙が凄いのです。 良ければ一票お願いします。
2006/09/15
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関電トロリーバスの黒部ダム駅から地上に登るとこんな光景が視界に広がります。黒部湖から堰堤を写してみました。はい。凄い景色でした。晴れていれば…。 良ければ一票お願いします。
2006/09/15
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さくさく続けて参ります。今回は関西電力が運行するトロリーバスです。扇沢駅から黒部ダム駅にはこのトロリーバスで移動しました。これ以外の移動手段は徒歩以外ありません。と言っても徒歩は全然現実感は無いですけど…。先ずは車内です。こんな感じです。車内はバス風なのです。車号です。トロリーバスのこういうところは鉄道風です。トロリーバスは昔は国内の大都市で走っていたそうですが、現在は二箇所のみになってしまったそうです。ここと、黒部アルペンルートの富山側のみです。駅構内の各種表示です。こういう所は鉄道っぽいです。で、出発して移動する訳なんですが、車窓は全然ありません。ずうっと関電トンネルというトンネルを通るのです。外は真っ暗でした。黒部第四ダム建設の最難関は、ダムの建設ではなく、ダム資材を運ぶための「関電トンネルの掘削」だったそうです。途中で大破砕帯に当たって全然掘り進めなくなったそうです。ちなみに、長野県と富山県の県境はこのトンネルの中にありました。到着したところです。このバスは6両が一列縦隊で運行していました。あたかも6両編成の鉄道車両のような運行です。道路も完全な専用道路ですし、こういうところは鉄道色が濃いのでした。黒部ダム駅はこんな風な地下駅なのです。デザインが鉄道っぽいですよね。ちなみにここはもう富山県です。駅事務室です。地下鉄駅みたいでした。改札…。妙に広いコンコースでした。そして、地上への階段です。この階段を登ると、いきなり絶景です。でも、絶景は次回に回します。次回はいきなり動画で始めます。 良ければ一票お願いします。
2006/09/14
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さくさく続けてまいります。この旅程の目的第一号は黒部アルペンルートでした。天候が妖しかったのです。黒部アルペンルートを諦め大糸線完乗にしようか迷ったのですが、初志貫徹しました。同行者も初志貫徹に賛成してくれました。早朝の信濃大町駅です。まだ5時10分です。山男の駅のせいか、こんな時間でもキオスクが開いていて、食料を売っていました。流石でした。駅に掲示されていた「本日の臨時列車」表示です。夏山シーズンだけあって、大量の臨時列車が運行されていました。これも信濃大町駅に掲示されていた「黒部アルペンルート案内図」です。全体の感覚が掴める絵なので撮影しておきました。強烈に険しい山をバンバン登って、あっという間に標高2000メートルを越えて行きます。アルペンルート最初の切符はこの切符です。ただの路線バスです。このバスで、関電トロリーバスの扇沢駅まで進みます。1330円もしました。バスの中では当然のように爆睡でした。扇沢駅の駐車場です。非常に微妙な天候でした。強行出撃は吉とでるか凶と出るか…。これが関電トロリーバスの扇沢駅です。鉄道駅のようなバスターミナルのような微妙な存在です。そもそもトロリーバスは無軌条電車とも言われ、免許状も軌道に近い存在です。ここで購入した切符です。扇沢からアルペンルートの終点の電鉄と山までの通し切符です。ガルベセットにしたので一人10100円です。ちょっと値が張ります。こっちはセットのガルベ券です。ガルベというのは黒部湖(黒部第四ダムで出来た湖)を周る遊覧船の名前です。ガルベというのはアイヌ語の黒部近辺を指す地名だそうです。黒部の語源だそうです。流石は登山客御用達の駅です。早朝6時台でも食堂が営業しておりました。構内の展示物です。鉄道友の会のプレートなんかもあります。こういうところは鉄道色が濃いです。これが鉄道か道路交通かは微妙です。これはトロリーバスの模型です。電牛という感じのフォルムです。黒部第四ダムの案内図が掲示されていました。わくわくしてきます。今回はここで切ります。次回はトロリーバス乗車記をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/14
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沖縄の戦跡巡りでは字を増やしてしまいちょっと疲れてしまいました。題材も重かったし…。20万以上の死者に合掌です。犠牲の多さがブログを重くしてしまうのでした。戦跡巡りに比べると、鉄道紀行は軽いタッチで行けるんで、なんか楽しいです。さて、今回から本格的なレポートを始めるんですけど、その前に、ktdktdさんからコメントを頂きました。 -懐かしいです。 -下車印を集めるの趣味でした。この下車印というのは、途中下車印とも言われるハンコで、正規乗車券で途中下車を行う場合に、後戻りを防ぐために「○○駅まで来ました」ということを記録するために切符に押印するハンコです。私が昔使った切符で下車印だらけになったものを昔の日記でご紹介しております。宜しければご覧下さい。さて、本題で、第一旅程の始まりです。この旅程の最大到達点は富山駅です。主たる目的は、黒部アルペンルートの走破並びに徹子駅の湯桧曽駅と土合駅訪問でした。横見先生絶賛の面白駅ですね。期間は二泊三日と短いのですが、鉄道移動距離は結構ありました。長めにレポートになりますが…。この夏の青春18きっぷの最初の乗車は新宿駅から始まりました。青春18きっぷを使いこなすには、夜行快速を使わないと中々上手く行きません。毎回夜行列車に乗るのですが、最初の旅程では、中央線を走る「ムーンライト信州81号」を利用しました。昔の夜行アルプスと同じようなダイヤで白馬まで走ります。こんな列車です。夜行快速とは言え、一昔の特急車輌を使ってくれますので快適です。形式は189系でした。車号を載せておきます。上が新宿方、下が白馬方です。 クハ189-1 モハ188-50 モハ189-50 サロ189-112 モハ188-23 モハ189-23 モハ188-51 モハ189-51 クハ189-1516でした。備忘的に車号を撮影しておきました。方向幕です。白馬行きときっちり表示されていました。洗面所と便所です。便器は和式でした。こんな列車に5時間ちょっと揺られていく訳です。 ムーンライト信州81号(音声)車掌音声でも言ってましたけど、新宿を発車したのは5分遅れですが、立川到着で既に取り返しました。なんちゅう緩いダイヤ…。ラッシュ時の中央線の強烈なダイヤ(JRではもっとも運行感覚が短い)と比べると夢みたいです。この列車は全車禁煙ですが、ところどころで長時間停車が入るので何とかなります。この画像は甲府駅に停車中に撮影しました。眠れていませんねえ。座席夜行は久しぶりでしたので…。次回は信濃大町駅到着からをレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/09/14
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今回から新シリーズを始めます。シリーズ名は「夏の青春18きっぷ」と致しました。この夏に発売された分の青春18きっぷを使ってふらふらと移動した記録です。青春18きっぷとはこんなきっぷです。JR全社の旅客列車乗り放題5日間で11500円という格安切符です。素晴らしい。鉄の必須アイテムと言えましょう。もちろん、尊敬する横見先生も愛用なさっています。但し、この切符が使えるのは普通列車と快速列車だけです。特急・急行・新幹線には使えません。これは中々きつい制約です。各駅停車と快速のみで移動した場合は東京=大阪移動で7時間くらいはかかります。はー。距離が稼げません。そこで、長距離を夜行で走る長距離快速「ムーンライトシリーズ」を多用する必要があります。今回のシリーズはムーンライト各列車の詳細レポートという側面もあります。また、今回のシリーズは、昨年夏の「notoshunの夏休み」以来ですが、複数の週末を跨いだ旅程にしています。週末ごとに4つの旅程に分かれます。各旅程毎にテーマが異なります。大雑把にご紹介すると以下の通りです。 第1旅程 ムーンライト信州81号 黒部アルペンルート 鉄子で紹介されたトンネル駅×2 第2旅程 ムーンライトながら91号 大阪交通科学館ツアリング 大阪人権博物館 ムーンライト九州 関門海峡 九州鉄道記念館 第3旅程 ムーンライトながら91号 きのくにシーサイド号 ムーンライト高知・松山号 瀬戸大橋トロッコ号 第4旅程 ムーンライトながら91号 梅小路蒸気機関車館 ムーンライト九州 あそ1962号次回より詳細レポートを開始します。写真量が多いのでペースはやや速めにするつもりです。 良ければ一票お願いします。
2006/09/13
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雨ですねえ。気が滅入ります。今週末はまたASEANに出動します。さて、沖縄レポートを継続します。今回はその他の戦跡をご紹介します。ひめゆりの塔です。記念館です。慰霊碑です。ガマです。この敷地と塀を寄贈した日系米人への顕彰碑です。ひめゆりストーリーは、沖縄戦の末期に良く見られた悲劇です。ひめゆりが戦後最初に本土で紹介され、物凄く有名になりました。ひめゆりがクローズアップされましたが、沖縄の学校では殆ど同じようなことが発生しました。一高女と師範だけのストーリーではないのです。特定学校の悲劇というよりは、本島で普遍的に見られた悲劇の一つと取るべきでしょう。詳しいストーリーは哀しくて書けないので、「ひめゆり平和祈念資料館」のウェブをご覧下さい。ひめゆりの塔の近くのタバコの自動販売機です。この3銘柄は沖縄県内限定銘柄です。この次は、摩文仁の丘へ向いました。最初は平和祈念館?、に入りました。沖縄サミットの際に建設された「平和の礎」です。アーリントンっぽいデザインです。青い空を航空機が上昇していきます。非常に静かでありました。摩文仁の丘に上ります。最初の画像は国営の慰霊碑です。各県の慰霊碑が続きます。軍関係の慰霊碑が続きます。牛島軍司令官と長参謀長自決の場所です。第32軍はここで終焉を迎えたと言う訳です。海が見えました。1945年6月23日、ここは米海軍の艦船で埋め尽くされていたと思います。最も奥に行くと、黎明の塔がありました。軍司令官自決は午前4時であったと言われています。そこで黎明の塔なのでしょう。残念なことに、私以外の人は全然居ませんでした。慰霊の日を過ぎているので人出も少ないのでしょう。静かな雰囲気な中、航空機が上昇していきます。ハブに注意の看板がありました。以上で摩文仁の丘を後にしました。次に日本最大級の鍾乳洞の玉泉洞に行きましたが、鍾乳洞の中が暗いので写真はありません。洞窟から出ると大雨になっていました。玉泉洞に併設されている琉球村で展示されていたハブ酒のタンクです。ちょっと気持ち悪いです。こんな感じで沖縄小旅行を終えました。次回からは、この夏最大の旅行企画「夏の青春18きっぷ」のレポートを始めます。鉄鉄鉄なレポートですが、宜しければお付き合いください。
2006/09/13
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今日から二日目の分をレポートします。二日目に訪れたのは海軍司令部壕(豊見城市)とひめゆりの塔と第32軍の終焉の地である摩文仁の丘です。その他玉泉洞にも行きましたが、ここは戦跡ではありません。最初は海軍司令部壕からレポートして参ります。ここで再び戦争の経緯を辿ることをお許しください。昭和20年5月末に第32軍は南部撤退を機関決定しました。この決定に従い秩序を保ちつつ、深夜の豪雨に紛れて首里防衛陣地を放棄し逐次南部への移動を開始します。当時、海軍は小禄に航空基地を持ち(ちなみにこの基地の後に合衆国空軍の基地になり、更には日本国運輸省に移管され、現在は沖縄空港として使用されています)、根拠地隊を保有しておりました。合衆国海陸両用軍が沖縄に上陸した時点での兵力は約1万でしたが、陸戦の訓練を受けていた兵力は僅かに数百でした。第32軍司令部は海軍根拠地隊に南部撤退を指示しますが、指令に齟齬が生じ海軍は重火器を破壊の上、南へ移動しました。しかしながら、移動後の陣地の防衛力は小さく、重火器なしでは防衛が困難という状態になったそうです(この辺は海軍側の言い分が一方的に伝わっているので何とも言えませんけど)。海軍部隊のうち2000名は、元の陣地へ戻ることを決意し(明確な命令違反です、島嶼防衛で海軍部隊が陸軍の指揮を嫌い明確な命令違反を行うケースは珍しくありませんでした)、小禄陣地へ戻りました。この小禄陣地が、現在の「海軍司令部壕」なのです。非常に微妙な評価をせざるを得ません。日本側の兵力配置図です。軍司令部の命令を無視し、放棄命令の出た陣地に勝手に戻った部隊です。普通なら断罪されて然るべきなんですが、この部隊が頑張るのです。物凄く頑張る。ろくろく訓練も受けていない海軍の水兵が、合衆国第6海兵師団第4連隊の猛攻にも全然屈せず、頑張ります。米軍側の戦死者はどんどん増えて1608名になります。これは物凄い戦果です。陸戦のプロの陸軍以上の抵抗を行います。素人が普通にやって玄人に勝てる訳がありません。この戦果の原因は海軍部隊の陣地構築にありました。飛行場周辺の丘陵という丘陵に、撃破された航空機から取り外した自動火器(機関砲と機関銃)を据えて、無茶苦茶濃密な火線を敷いたのです。第4海兵連隊も第22海兵連隊も先陣部隊はミンチになりました。この成果は高く評価されて然るべきです。更に海軍部隊の評価を高めたのは太田少将の電文「沖縄県民かく戦えり」です。暫定レポートに全文を引用しておりますのでここでは原文は引きませんが、日本軍部隊が現地住民に言及した稀有な電文です。この電文を読んで涙しないのは無理、という電文です。沖縄県民はもとより、全国民に読んで欲しい電文です(全文はこちら)。海軍部隊の評価が上がらない訳がありません。米軍側作成の諜報地図です。太田少将の司令部壕の見取り図です。この海軍部隊も他の陸軍部隊と同様に玉砕に近い状態で無力化されるのですが、またまた評価が難しい事態が生じます。192名もの投降者を出すのです(太田少将は自決直前生存者約200名に脱出命令を発しましたが投降を命じた訳ではありませんでした)。この集団投降は沖縄での戦いにおける最初の大規模投降なのです。ますます、この海軍部隊の一部の2000名に対する評価は難しくなります。 1 明確な軍紀違反 2 赫々たる大戦果(米軍も高評価) 3 後世に残る報告電文 4 沖縄最初の大規模投降の発生難しい部隊です。後世のアマチュアである私は、太田部隊を高く評価したいと思いますが、現役軍人は(現役自衛官は)どう感じるのでしょうか?。ご意見を伺いたいなあ。戦闘経緯はこの辺りにして、現在の海軍司令部壕の様子をレポートいたしましょう。最初にビジターセンターの展示スペースに案内されます。司令部壕を建設した資材が紹介されています。沖縄本島南部の土壌は、表層部が石灰岩(隆起珊瑚礁ですな)であり、内部は赤土です。表層が固いので大口径砲によく耐えました。内部はこんな資材でもあっさり掘り抜けます。八原大佐が本島南部を主抵抗地域に選定した理由の一つは、この地質でした。なお、海軍司令部壕を掘ったのは陸軍築城隊ではなく、海軍設営隊であったそうです。海軍の制服と武器です。ここで抵抗した部隊の特徴である自動火器が展示されていました。地下に入って参ります。この壕に通じる通路は戦後に作ったものです。壁の仕上げが戦後風のすべすべした作風になっています。幕僚室です。ここで太田海軍少将は割腹自殺(自決)を図りました。何と言うか、よく準備された自決のようです。手元には米軍側の公式戦史しかないのですが、「その喉は切られ、部屋の様子から見て、副官が介添えし、太田少将の死を見届けた後、死体を整理したことが明らかであった」と記されていました。「自決時の手榴弾の跡」と案内されていますが、米軍戦史と矛盾します。どちらが正しいのか…。太田少将は多くの子供を世に残しました。ある子は海上自衛隊の将官に上り詰め、ある子は教員となり戦闘的な組合活動家(つまり強烈な反戦主義者)になり、ある子は米国人と結婚して米国に渡ったそうです。NHKの番組で見ました。非常に微妙な家族ですよね。ちなみに、反戦教師と海軍将官の兄弟は数十年も会っていないと番組で紹介されていました。戦後日本を象徴するストーリーです。前にも書きましたが、昭和20年に敗戦を迎え、殆ど全ての日本人は決意します。二度と広島長崎の悲劇を繰り返すまいと。二度と街を焼かれることはごめんだと。なお、沖縄の悲劇は昭和20年段階では本土の日本人はまだ知りません。同じ出発点に立って、ある人々は「反戦を貫き」、ある人々は「強大な軍事力を持つ超大国との同盟関係の構築を模索し」、ある人々は「防空とシーレーン確保に特化した専守防衛的な軍事力の再建」を目指しました。戦後のパラダイムは全て大東亜戦争(敢えてこの呼称を用います)への痛烈な反省からスタートしているんだなあ、と戦跡地を歩く度に思います。壕の中に展示されている沖縄での抵抗の地図です。正直言ってこの地図はいただけない。4月の前線、5月の前線をもう少し細かく書くべきです。第32軍は2ヶ月の間、首里前面の防衛線で、米第10軍の攻撃を支えました。大本営の介入による無謀な逆襲を行わなければ、もっと頑張れた。この2ヶ月の敢闘奮戦が全然表示されていません。小禄半島の戦闘推移図です。この半島の攻略に合衆国第6海兵師団は10日の期間と1606名の戦死者を要しました。日本側の死亡者と概ね同数です。飛行場の大きさと比較すると如何に狭い地域か分かると思います。経緯はともあれ、英雄的と言ってよい抵抗であったと思います。連絡壕です。壁の仕上げが戦前風です。この壕の中に2000名が立て篭もった訳ではありません。小さな丘陵の上に設けられた自動火器の小陣地にこの壕から適時適切な指令を発し、米軍に猛烈な損害を与えたという場所です。この司令部が指揮した部隊は、勇戦敢闘した沖縄の日本軍の中でも、最高レベルの戦果を挙げたのです。司令官室です。太田少将の職場です。慰霊の花が安置されていました。太田少将は沖縄で最も人気のある日本軍の将官です。暗号室です。太田電文「沖縄県民かく戦えり」はこの部屋で暗号に組まれ本土に向けて送信されたのでしょう。この出口は戦闘中に使用されたものの一つです。6月6日、海軍部隊はこの壕から多数の兵を切り込みに出しました。ほぼ全員が戦死しました。壕を出た風景です。余りにも平和な風景と、この地で展開された激しくも悲しい戦闘のギャップに慄然とします。太田少将は電文の最後でこう記しました。「沖縄県民かく戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。」故小渕首相は沖縄でサミットを開催するにあたり「このサミットは太田少将の電文に対する俺の返事なんだよ」と語ったと伝えられています。太田少将も八原大佐も神中佐も、沖縄県民には本当に申し訳ないことをしたと考えていたと思われます。自民党旧橋本派には「沖縄に対する贖罪」という気持ちがあったと思われます。海軍司令部壕レポートはこの辺りでお終いにします。次はひめゆりの塔を軽くご紹介して、第32軍終焉の地、摩文仁の丘をレポートします。米軍側の公式戦史は『 沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって我が進攻に立ち向かった 』と記しています。米軍側の不手際を隠すという側面もありましょうが、結構正直な記述だと思います。米軍側から非常に高く評価された第32軍も6月下旬いよいよ最期の時を迎えます。その前に、色々なことが起きます。 良ければ一票お願いします。
2006/09/12
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昨日は後輩の結婚式の写真係をつとめておりました。撮影した写真千数百枚の整理をしていて、連日ブログ更新が遅くなってしまいました。前回は牧志公設市場の食肉展示をご紹介しましたが、今回は海産物の展示品からご紹介します。見たことも無い魚介類の連続です。色が熱帯魚ですねえ。巨大な海老の数々…。ハリセンボンです。これも食べるんですね。皮をむかれる前はこんな姿だったのです。もうただただ圧倒されるばかりでした。一階はこんな感じの商店ばかりなのですが、二階に上がると食堂がありました。一階で購入した魚介類を二階の食堂に持ち込んで調理してもらえるシステムなんです。結構面白いでしょ。那覇ではお勧めのスポットの一つです。どの街に行っても、市場は楽しいのでした。もう一つの市場の農連市場です。この市場も食品卸売市場の例にもれず、取引は午前3時ごろの早朝に行われます。私が行ったときには当然のように誰も居ませんでした。その分自由に撮影できました。なんとも昔懐かしい雰囲気の市場なのです。でも何にも無いので、シャッターを切って早々に退散しました。これも本土では余り見かけない商店です。結納品専門店でした。これは奇跡の1マイルと呼ばれた国際通りの県庁側の入口です。新しくて美しい沖縄県庁舎と沖縄県議会です。ちょっぴり古くて懐かしい感じのする那覇市役所です。本日最後の画像はこれです。那覇市民憲章です。「私たちは時間を守りましょう」というのが実に沖縄らしいです。今回は画像ばかりになってしまいました。このまま寝ました。次回から再びディープな戦跡を辿ります。最初は海軍司令部壕から始めます。「沖縄県民斯く戦へり。後世県民に特別の配慮を賜らんことを」の電文が打電された場所です。 良ければ一票お願いします。
2006/09/11
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前回までは沖縄第32軍に関する暗くて重いレポートでしたが、今回は打って変わって、沖縄県那覇市の今をレポートします。お題は「市場」にしました。マチグワーですな。でも市場レポートに行く前に積み残しをレポートします。最初は首里城に行く途中で寄った醸造所です。瑞泉酒造です。那覇を代表するブランドです。泡盛は沖縄全域で醸造されており、結構離島ブランドも健闘しています。久米仙なんかは那覇でも結構飲まれていました。私が好きなのは直火請福です。石垣で買うと安いのですが、那覇で買うと高い(当たり前です、石垣の酒なんですから)のがちょっと残念。古酒(クースーと発音します)を熟成させている酒甕ですね。物凄い時間をかけて熟成させていきます。これが高いのですね…。20年もの30年ものなんかは、驚くほど美味い(熟成させたウィスキーに似ています)のですけど、その分高いのです。日本にこんな酒があるんだ、という驚きがあります。「積み残しその2」です。首里城のビジターセンターの中に掲示されたドル円レートです。結構暴利かも知れない…。100ドル紙幣お断りというのも良いですね。北朝鮮のせいでしょう。「積み残しその3」です。首里城公演で上演されていた琉球舞踊です。非常にゆっくりした踊りでした。その昔(2年前まで)は那覇空港の中央ロビーで琉球舞踊を「迎恩の舞」と称して無料で上演していたのですが、今はもうやっていません。「積み残しその4」です。「Aサイン」です。その昔(今度は1972年以前)に、米軍当局が「米国軍人が利用するのに相応しいお店」と認定した店に交付していた証票です。昔は米軍相手の商店がたくさんあったそうですが、今はコザまで行かないと中々ないでしょうね。Aサイン自体も廃止になっているようです。那覇市内の商店の店頭で撮影しました。他にもステーキハウスで目にしたこともありました。「積み残しその5」です。大東そばです。この日の昼食はこのそばにしました。何回食べても沖縄県の麺類は美味しいのでした。さて本題の市場です。沖縄那覇市中心部の牧志にあります。国際通りに面してこんな入口があります。平行して二本の商店街が走っています。ここから東に進みます。この市場本通り商店街だけでも結構楽しいのです。これが市場の入口です。「那覇市第一牧志公設市場」というのが本当の名前のようです。この中に売られている沖縄独自の食材は必見です。豚の蹄が売られています。沖縄方言では「てびち」と云います。これを煮込んで煮込んで頂きます。コラーゲンたっぷりの料理になります。沖縄には「豚は鳴き声以外全部食べる」という表現があります。蹄を食べるには非常に手間をかけて加熱しなければならないのですが、あっさり食べております。上の写真の手前に見えているのは内臓です。これも美味しく食べられます。「中味汁」という料理になります。調理には非常に手間がかかります。伝統的な沖縄料理では時間をかけて豚を加熱するので脂肪分を殆ど落としてしまいます。このため長寿食などと言われています。しかしながら、戦後はアメリカの食生活が沖縄を席巻し、脂をそのまま口にする調理法も定着してしまいました。その結果、かつての日本で最も長寿な都道府県の地位を男性では既に失っています。現在の沖縄料理の特徴は、伝統的な沖縄料理とは大きく異なり、 1)ポークが大好き 2)凄いボリュームでしょうか。ポークというのは分厚く切ったハムかソーセージの水煮の缶詰です。開けたら直ぐに食べられます。塩味がついていて、ちょっと暖めるだけでも美味しいです。でも物凄い脂で凄いカロリーです。このポークは現在の沖縄ではごくティピカルな朝食になっています。豚の頭です。沖縄ではこれも食べるのです。今回はここで切ります。那覇の市場は、この牧志公設市場のほかにも「農連市場」という市場がこの奥にあります。言わば卸売り市場なんですが、仲買人も居れば、農民との直接取引きもあるというディープな市場です。次回以降で、牧志公設市場の海産物と農連市場をレポートしたいと思っています。沖縄シリーズはちょっと長めのレポートを少しずつだそうかなと思っています。下心がありまして、「夏の三連休パス」の時のようなペースで日記を進めるとグーグルが拾ってくれないのです。パラパラ進めずにじっくり文字の多いレポートを作って行こうと思ってます。 良ければ一票お願いします。
2006/09/10
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今日も暑かったですねえ。こんなに暑い中洗濯をしていました。欧州の埃を落としてまいりました。さて、今回はこの沖縄行きの目的の一つの帝国陸軍第32軍司令部の様子をご紹介いたします。この帝国陸軍第32軍は昭和19年3月に創設されました。当初は航空要塞構想に沿って、南洋諸島に堅牢な航空基地を多数建設し米軍の本土侵攻を迎え撃つという構想でした。そんな第32軍も段々その意味合いを変えていきます。サイパンが陥落し、フィリピンが陥落し、硫黄島が陥落して行くなか、次の米軍の目標は、中国南岸か台湾か沖縄であろうという判断は生じます。このような環境下で、第32軍は「沖縄防衛のための軍」という色彩を強めていきました。司令官も航空色の濃い渡辺正夫中将から牛島満中将に代わりました。戦争とは関係が無い平和な島々であった沖縄は、昭和19年ごろから本土防衛の要塞と化して行きました。沖縄戦に先立ち昭和19年8月には「学童疎開船対馬丸撃沈事件」が発生し、10月には米機動部隊による艦載機空襲が行われました。もう戦争は直ぐそこまで近づいていました。このような緊迫する戦況下で大本営は沖縄第32軍から基幹兵力であった第9師団を台湾防衛のために移動させる命令を発しました。第9師団の抽出で、沖縄の全島防衛は事実上絶望となりました。第32軍首脳部(主席参謀の八原大佐)はこの状況下、「全島防衛・決戦構想」を諦め、新たに「戦略持久構想」を打ち立てます。暫定レポートでも書きましたが、防衛範囲を本島南部の首里前面に限定し、濃密な火線と坑道陣地を以って徹底的に抵抗し、本土防衛体制確立の時間を稼ぐと共に、敵に可能な限り多くの出血を強いるという構想です。島の中部以北に配置された部隊を、本島の南部に再配置し陣地を構築し、砲兵兵力を殆ど全て軍司令部の直轄とし、戦略的な砲撃の準備を終えて敵上陸兵力を待ち構えていたのです。このような状況下、昭和20年4月1日、第10軍を主力とする米海陸兵力は北谷・読谷・嘉手納に上陸を開始しました。米軍はいつもの通り徹底的な海岸陣地に対し艦砲射撃を加えました。この対応は日本側は予期しており、上陸地点をほぼ正確に予測しつつも海岸には兵力を置いておりませんでしたので、無駄ダマに終わっています。画像は艦砲射撃を行う戦艦コロラドです。著作権切れの画像につき使わせて頂いております。 →著作権に関する法律の条文はこちら海岸に向けて進む上陸用舟艇です。米軍は物凄い量の支援兵力を投入しました。この海軍艦艇の殆どは硫黄島から抜かれてきた兵力でした。エアカバーも艦砲射撃部隊もほぼ取り上げられた硫黄島の海兵隊は地獄の苦しみを味わうことになります。硫黄島で海兵隊は2万の兵力を消耗しました。日本側の損害を若干上回るレベルになりました。沖縄の米軍は硫黄島以上の恐怖と苦しみに耐えねばなりませんでした。硫黄島に対しては、日本軍は残念ながら殆ど航空支援を行うことが出来ませんでした。しかし、沖縄は九州の航空基地から航空支援を与えることが出来ました。日本軍はありったけの航空支援を行いました。神風攻撃です。多くの特別攻撃機は米軍の航空機や対空砲火により撃墜されたと思われます。しかし、敵兵力に損害を与えるのに十分な量の攻撃が行われました。5月に撮影された日本軍の特別攻撃機です。神風攻撃を受けて炎上する敵正規空母イントレピッドです。ニューヨークで乗った空母ですが、沖縄ではこんなザマになっていました。被害甚大な姿を晒すアーロンワードです。我が方の神風攻撃を受けて大破炎上する敵正規空母バンカーヒルです。これで沈まないのが米空母の設計・運用の凄いところです。正規空母はボロボロにされた艦が何隻もでましたが沈まず、本土に回航され修理され、再び就役しました。神風攻撃が命中した瞬間です。敵戦艦ニューメキシコです。余談ですが、戦後合衆国海軍は対艦ミサイル防御兵器を多数開発しました。ハワイ編でご紹介したCIWSなんかもそうです。米海軍は対艦ミサイルが開発される以前から日本陸海軍の神風攻撃に晒されたので近接防御火器の必要があったのです。また、沖縄に対しては海上特攻も行われました。菊水一号作戦です。航空特別攻撃に呼応して、戦艦大和以下第2艦隊第1遊撃部隊が沖縄に突進しました。しかし、残念ながら第2艦隊は沖縄に到達する前に、敵艦載機の波状攻撃により壊滅してしまいます。陸上でも、日本軍の防衛陣地及び火砲が敵上陸兵力を待ち構えていました。米側の損害は、海上支援兵力を含め、戦死が1万2千人、戦傷約3万1千人なんですが、この他に戦闘神経症が2万6千人も出ました。米軍側の戦史は、この大量の戦闘神経症患者発生の原因を日本軍の大火力に求めています。日本側は坑道陣地を用いた防衛を行っていたため、敵の大口径砲撃でも大きな損害を受けませんが、攻める側の米第10軍は地表を進む中で砲撃に晒されました。4月の上陸から5月の下旬まで、首里前面の小さな丘の攻防で双方が物凄い死者を出していきますが、この時点ではクリーンな戦闘でした。首里前面での死闘は日本軍にとっては予定の行動でしたし、想定戦闘地域の住民避難はかなりのレベルで進んでいたからです。日本軍の軍紀も極めて厳正でした。4月は晴天が多かったのですが、5月以降は荒天が続き地表はどんどんぬかるんで行きました。米軍側は戦車等の重装備を上手く移動させることが出来ずに苦しみぬきました。日本側では、沖縄戦はひめゆりであるとか、摩文仁での司令官自決などがクローズアップされる傾向がありますが、米軍戦史では、首里前面の攻防に全ページの3分の2を割いています。米軍にとっての沖縄戦は、首里陣地攻略であったのです。首里前面陣地攻防の日本側の指揮をとった第32軍司令部は首里城の地下の坑道に置かれました。牛島司令官・長参謀長・八原参謀はこの坑道で作戦を練りました。上の図は米軍が作成した諜報地図です。首里城の城壁(中心部の太い黒線)の直ぐ外側に坑道が掘られている様子が分かると思います。このような配置でしたので、米軍は首里に猛烈な砲爆撃を加えました。米軍側の戦史は言います。「砲兵隊や艦砲射撃が首里に打ち込んだ砲弾は推定20万発、無数の爆撃で450トンの爆弾が投下された。更には何千発という迫撃砲弾がアーチ型をなして首里に落下した。残っているのはただ二つの建物だけ…」 →当時は那覇と首里は別の市でした。米軍が作成した指令部の見取り図です。こちらは日本側の見取り図です。漸く私が撮影した写真が登場します。現在の第32軍司令部跡です。鬱蒼とした森の中にあります。何の表示もありません。非常に荘厳な雰囲気でした。入口はこのように封鎖されていました。言葉にならない迫力を感じました。唯一見つけた32軍司令部の表示です。こんな遺跡が首里城ビジターセンターから歩いて2分くらいのところに人知れずに残っています。私が衝撃を受けたのは献花が無いことです。ひめゆりの塔にも摩文仁の丘にも大量の献花があるのに…。この司令部入口への生き方は首里城ビジターセンターの案内係に聞くと地図付きで教えてもらえます。さて、昭和20年5月22~23日にかけて、この司令部で軍司令官は師団長や参謀を集め、以降の防衛に関して会議を開催しました。首里複廓陣地で最後まで抵抗するという全線指揮官案と南部に撤退し米軍に抵抗するという参謀案が激しくぶつかったと言われています。二日間にわたる議論の末に、八原参謀の南部撤退案(喜屋武半島撤退・断固持久継続)が採用されました。以降、米軍に意図を探られぬよう細心の注意を払いながら日本軍主力は南部へと移動して行きました。沖縄戦の本当の地獄はこの南部移動から始まるのです。続きは次回に。それにしても…、今週の初めまでは、青函海峡のドラえもんレポートを書いていたとは思えないです。物凄い題材のギャップです…。 良ければ一票お願いします。
2006/09/09
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