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今日は中年性無気力症になってしまいました。何か出だしの文句が出てこないのです。感動の無い一日だったのかなあ…。今日もトレドの続きです。ここのところ、一回当たりの文字数や写真数を多くして、回数を抑えて来ました。目的は、グーグルに沖縄リンクのページや夏の青春18切符の目次ページを拾ってもらいたいからです。このブログにグーグルのロボットは大体10日に一回やって来てくれます。そろそろ来る頃なんですけど…。来てくれたら一気にペースを上げられるんですけどねえ。あ、ご説明し忘れましたけど、今までの三枚の写真はトレド城壁の新門の尖塔です。逆光での太陽を撮ってみました。こんな撮影をするとカメラを痛めることもあります。「良い子の皆さんは真似しないでね」という感じの行為です。今日もトレドの続きをご紹介します。今回で昼間の撮影分をご紹介し、次回で夜間撮影分をご紹介します。今回は画像中心で行きます。文章では上手く表現できない感銘がありました。多くは語りません。トレド新門を障壁の外側から撮影したものです。もろに逆光…。ほぼ同じ構図で夜間にも撮影しました。夜の方はきれいです。次回ご紹介します。城壁の外側に立っている病院です。元はなんだったのでしょうか?。何となく修道院っぽい建物でした。城門のところに観光案内所がありました。どの街に関してもほぼ共通していますが、観光案内所には最初に行くべきです。とにかく正確な地図を入手するためには観光案内所に行くのが一番です。日本語ガイドブックの地図は大抵古いのですね。また、某社の地図は大抵不正確だったりします。地元の最新の地図を手に入れるのが一番です。観光案内所の表札の裏側です。酷い落書きです。ANTIではありますが、NAZISと言う文字を見ると嫌悪感が…。再び城門を通って城壁の中に入ります。この写真は結構気に入っています。そのうち表紙にしようかしらん。この頃漸くホステルのチェックインタイムになりました。気温は30度前後でした。ホステルに入って涼むことにしました。これがホステルの入口です。安かったのでした。60ユーロ弱くらいでした。というか60ユーロ弱が安いと感じてしまう自分が情けない。その位物価が高かったのでした。言い忘れてましたが、ホステルというのはビル全体ではなく、ビルの一部を宿泊施設として供用しているものを言います。ビル全体が宿泊施設だとホテルと呼ぶようです。私が泊まったこのホステルはレストランの上にありました。築100年と言う感じでしたけど、冷房も強力で快適でした。バスルームです。当然ビデがあります。この旅行には外部ストロボを持って行ったのですが、中々使う機会がありませんでした。この写真は数少ない外部ストロボを用いた撮影です。ストロボを上に向けて撮影してみました。割と自然な光になりました。再びソコドベル広場です。更に、トレド旧市街の西側を撮影しに出かけました。先ずは教会です。大聖堂(カサドラル)です。ゴシックばりばりでした。何かゲルマンチックな建物でした。大聖堂の向かい側にあった修道院です。城砦(アルカサル)です。余りに大きくて、射点を確保できず、フレーミングに苦しんでいました。市庁舎です。トレド城壁の裏門です。商店ですな。豚の貯金箱がチャーミングでした。最後の一群はユダヤ教関係の商店です。トレドの複雑な歴史を感じさせてくれました。今回はこのくらいにさせてください。次回、夜間撮影分をご紹介します。【本日の成果】朝食(SUICA) 5マイル(JL) 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/30
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みなさん、コメントありがとうございました。現役lecturerさんからまた「目からうろこ」的なコメントを頂きました。パリ行きのTalgoということは、軌間可変(イベリアン1,668ミリ⇔標準軌1,435ミリ)の車両ですね。コメントいただくまで気付きませんでした。私も間抜けです。この車輌こそが、かの有名な世界最初の軌間可変車だったのでした。ううっ、そうと気付いていれば、もっとしげしげと足回りを観察し撮影したのですが…。日本でも軌間可変電車の試験走行が1998年から始まっていますね。見たかったです…。さて、前回の続きです。前回・前々回とスペイン鉄道(RENFE)の車輌群をつまみ食いしましたが、今回からは普通の街めぐりとなります。最初の画像はマドリードで泊まったやや安いホテルです。グランビアの至近にあって70ユーロでした。ユーロが上がって、もうどうにもならんくらいの物価に感じて、この旅行中はけちけち行動ばかりになってしまいました。一昔前のレートなら、パリ行きの寝台特急に乗っていたんですけどねえ。ちなみにユーロホテルという大層な名前でした。大阪帝国ホテル(知ってます?、帝国ホテル大阪とは全く関係ないホテルです)みたいですね。スペイン広場です。この広場も街の繁華街の中にあります。スペイン国内での移動と宿泊を手配するためにこの辺りをうろうろした時に撮影しました。後で出てきますが、マドリードはやたら噴水があるのです。昔の栄光なんでしょうか…。水が豊富とも思えない土地なんですけどねえ。何の変哲もないオフィスビルなんですが、私にとっては非常に重要なオフィスが入っておりました。VJデスクです(VJ=VISA JAPAN)。ガイドブック以上の現地情報を得たい場合には、ホテルのコンシェルジェが居れば言いのですけど、安宿に泊まっている場合には、VJデスクかJCBプラザを当たるのが楽です。日本語OKですしね。クレジットカード専業のお店ですとショッピング情報に偏って辛いのですが…。マドリードの場合はJCBプラザが専業で、VJデスクは某大手旅行代理店の現地事務所が兼営していました。ここで重要な情報と、移動と宿泊の手配を行えました。日本人女性のスタッフが有能で…。物凄くありがたかったのでした。こっちはJCBプラザです。妙に高級感がありますよね。このオフィスは旅行手配と言うよりは日本人向けショッピング支援を主たる業務にしているようです。「○○を買いたい」という要望を出すと「××で買えます、もちろんJCBカードも使えます」という回答が返ってきます。でも、旅行手配は得意そうではありませんでした。JCBプラザの便所です。便所まで高級感がありました。ビデはありませんでしたけど。マドリッドのJCBプラザでは旅行情報は余り取れませんでしたが、立ち寄る価値はありました。地図をもらえるのです。これが結構役に立つのです。知らない街に行く時には、クレジットカード会社の支援施設を押さえておくといざという時に大変心強いのです。成田空港や関西空港にもJCBやVISA JAPANのブースがあります。このようなブースで地図を貰って置くと役に立つ時もあります。ただねえ…。大抵のJCBプラザやVJデスクは土日が休みなんですよねえ。週末旅行者にはちょっと辛いです。改善できませんかねえ……。これはJCBプラザが入居していたビルのエレベーターです。なんと木製の昇降機なんですな。もちろん、日本の建築規制では認められません。こういうところもヨーロッパ臭いですよね。こんな感じで日系カードオフィスを回って手配を行い、この日にはトレドに向うことにしたのです。トレドは有名な土地です。その起源はローマ時代の植民市であり、イスラムに征服され、レコンキスタでキリスト教の街に戻りました。こんな背景から、複雑怪奇な構造と城壁なんかがばっちり残っています。トレドにはバスで移動しました。余りの諸物価の高さに「けちけちモード」に入ってしまい、バスでの移動を選択しました。マドリード=トレド間にはスペイン版TGV(AVEと云います)が走っていて、乗ってみたかったのですが、高いのです。日帰り往復なら、往復で10ユーロ位のキャンペーン運賃が設定されていたのですが、「トレドには是非一泊すべきである」というVJデスクのお姉さんのアドバイスに従い、日帰りしなかったので、キャンペーン運賃を利用できなかったのです…。止む無くバスになりました。なお、最終日にAVEには試乗しましたので、後の回でネチッとレポートします。このアドバイスは大正解でした。日没後の午後9時くらいのトレドの夜景をガンガン撮影したのですが、これが実に素晴らしいのです。宿泊しなければ夜景も日没も目に出来ませんでした。VJデスクのお姉さんに感謝です。バスの車内です。妙に車体が長いのでした。一時間ほどでトレドバスターミナルに到着しました。ここからローカル路線バスに乗り換えて、トレドの城壁の内側へ入っていきました。この場所で路線バスから下ろされました。左側がアルカサル(城砦)です。トレドの市街地図です。南米の都市(例えばサンチャゴ)の場合は、模式的に説明すると、先ずカテドラル(聖堂)が建設され、カテドラルに隣接してプラザ何とか(広場ですね、大抵の街では独立の英雄のサンマルティン将軍の名前を使います)が設けられます。で市庁舎とかが配置されていく訳ですが、スペイン本国の場合は違います。カテドラルとセットでアルカサル(城砦)が配置されるのです。中世末期にイスラム教徒との戦争を行いながら街を確保していった歴史のせいか、南米の町に比べて軍事色が濃いのです。こんな感じの街路がたくさんあります。非常に狭いのです。イスラム時代の配置なんでしょうか…。もちろん自動車は通れません。街路の両側の建物がそれなりに高いので日が差しません。涼しいです。これもバス停付近の絵です。超人気観光都市の世界遺産ですので、まあ団体観光客が多いこと…。トレドの中心に位置するソコドベル広場です。レストランもこの周辺に集中してますし、バスもここに到着します。この近くのホステルをVJデスクで手配してもらったのです。ホテルのチェックイン時刻まではかなりあったので、早速フラフラと街歩きをしました。取り壊した建物の断面です。隣接する建物を接着してしまう工法を採っていたことが分かります。当然煉瓦造りです。何となく日干し煉瓦っぽい色ですよね。トレドは丘の上にある街で、丘を取り囲むように城壁が築かれていました。街の中心部は丘の頂上にあるので、眼下には城壁や周囲の市街が拡がっていました。建物の色調はみんな茶色でした。奥のほうに見える大きな建物は病院だそうです。得意のズーム撮影で病院を写してみました。この建物も古そうです。トレドの城門と城壁です。中世チックな雰囲気がムンムン漂っておりました。マンホールの蓋です。没個性…。今度は丘の上から城壁付近まで下って撮影を続けました。下から見上げたトレド市街です。丘陵地形が何となく分かりますよね。城門近くのみやげ物店です。お土産は盾に剣に鎧に…。こんな感じの巡回観光トレーラーも走っていました。お金が惜しいので乗りませんでしたけど。ゴチックっぽい建物も多かったのでした。城門です。この城門は二重の門になっていました。最初の門を突破されても第二の門で防ぎつつ、建物の上から攻撃できる構造になっておりました。こういう構造は、韓国の水原城門(蒼龍門・長安門)とも似ておりました。内門の装飾です。この双頭鷲の紋章はハプスブルグ家の紋章なのかしらん。外門は割と簡素な造りでした。城壁の外側から見るとこんな感じに見えました。なかなかの雰囲気の街でございましょ。流石は世界遺産トレドなんです。今回だけではとてもご紹介し切れませんので、次回もトレドレポートを続けます。是非またお付き合いください。【本日判明の成果】 2006/11/23 JL0723 TOKYO-KUALA LUMPUR 生マイル 2,337マイル eチケットフライトボーナス 150マイル Webチェックイン 利用キャンペーン 150マイル 国際線航空券電話購入キャンペーン 50マイル マイルUPボーナス 3,338 合計 6,025マイル 2006/11/26 JL0724 KUALA LUMPUR-TOKYO 生マイル 2,337マイル eチケットフライトボーナス 150マイル Webチェックイン 利用キャンペーン 150マイル 国際線航空券電話購入キャンペーン 50マイル マイルUPボーナス 3,338 合計 6,025マイル 総計 12,050マイル(JL)
2006/11/29
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今回もスペインに行った時のレポートを続けます。本題に入る前に、楽天モブログがまた機能アップするみたいです。コメントやトラックバックの削除なんかも携帯からコントロールできるようになるみたいです。先ずは歓迎かなあ。でも、他の方のトラックバックを見ていると「トラブルを解消してから機能アップしろよ」みたいな声も聞こえてきます。私は……強欲ですので、機能アップもトラブル解消も両方期待しております。>ねっ、楽天さん本題に入る前にもう一題。あきら1963さんにご紹介いただいたものなのですが、PRIEAという無料写真プリントサービスがあります。無料でデジカメを紙にプリントしてくれるというサービスで(その代わり写真に広告が入ります)、早速申込んでいたのですが、デジカメの写真プリントが昨日到着しました。無料なんで品質はどうかなあ、と思っていたのですが印画紙の品質には特に問題はありませんでした。まあ、しかし、ちょっと広告が大き過ぎるかなあ、という感じもしました。2枚に1枚は半分が広告になってしまいます(2枚に1枚はロゴがひっそり入るだけ)。でも、いいサービスかな。広告主は花王とかユニクロとかオリコンなど、まあ、有名なところが多いですし、しばらく使ってみようかなと思わせるサービスでした。漸く本題に入ります。あ、書き忘れておりました。昨晩から表紙の写真を変更しました。この週末に行ってきたブルネイ王国の首都バンダル・スリ・ブガワンで撮影したモスクのライトアップです。水面への反射を狙ってみました。いかがでしょうか?。今度こそ本題です。前回はマドリードの南側の中央駅のアトーチャ駅での撮影分をご紹介しました。今回は北側の中央駅のチャマルティン駅での撮影分をご紹介いたします。最初はコンコースからプラットフォームに降りる階段です。壁面に抽象画が描かれています。この辺りがスペインだと思いませんか?。我が国であらば、ここは広告スペースでしょう。もう一枚です。この階段を降りてホームに行き、出発直前の国際列車を見に行きました。国際列車の写真をご紹介する前に…。発車案内板です。上から二番目に19時発の特急パリ行きの案内が見えますね。ヨーロッパは地続きですので、こんな感じになるんですねえ。鉄道での国境越えは何とも風情のあるもんです。でも、今回は見送るのみです。残念。こっちは駅の構内に掲出されていた壁新聞状の発車時刻表です。リスボン行きの表示がありました。この駅の発着本数は大したことはありません。多分1日100本くらい(発ベース)じゃないかしら。ヨーロッパ風の鉄道は本数をこなすという文化ではないのです。どの駅も大体非常に本数が少ないのです。日本の場合は、文化的社会的な背景からヨーロッパの10倍(オーバーかなあ)くらいの本数をこなします。長距離では東京駅が病的な本数ですよね。東海道と東北・上越・長野だけでも一時間に10数本が発車していきますもの…。国内線とおぼしき編成です。妙に古臭いディーゼル機関車でした。スピードでなさそうなフォルムです。電源車と客車です。客車の重心がやたら低くなっているようです。窓の位置が日本の感覚からは理解できないほどに低くなっています。また客車の車長が異常に短いのも分かると思います。もろに手ぶれしてますが、代わりの画像がないのでこれを載せます。客車と客車の間です。連接車なのでした。日本では余り流行らなくなった連接車の固定編成なのでした。しかも車軸が一つしかありません。軸重が大きくなりすぎないのかなあ…。ちょっと心配です。こちらは特急パリ行きです。車腹にTALGOという表記が見えますので、この車輌はRENFE所属の編成のようです。一等寝台ありの食堂車ありのバラエティに富んだ編成でした。これがパリ行きの電気機関車です。連結器にご注目ください。実にヨーロッパ臭いのですが、ネジ式連結器なのです。日本では(というか日本国有鉄道=鉄道省では)、昭和初期に廃止された形式の連結装置なのです。安全上色々と課題を抱える形式です。こんな方式なんですが、ヨーロッパでは未だに(そして多分これからも)主流です。ちなみに日本では、客車や気動車は自動連結器を、電車は密着連結器を使うことが多いようです。鉄道駅での撮影を終えホテルに戻る途中に撮影した街路です。グランビアからソル広場に向う、マドリードでも有数の治安の悪い街路だそうです。ここでカメラを振り回している私は…。同じく帰路のグランビアです。グランビアとは「大通り」とでも言う意味なので、「グランビア通り」と表現したくないのです…。夜8時前でもこんな感じなのです。全然日が暮れません。スペインのタイムゾーンは独仏などのEU中核諸国に合わせてGMT+1にしています。ロンドンよりも1時間進めています。でもマドリッドの経度は大体西経4度です。つまり、東経西経ゼロ度のロンドンよりも太陽時は遅れていますけど、標準時はロンドンよりも進めている訳です。つまり、スペイン・マドリッドでは太陽時と標準時が1時間以上ずれています(ちなみにGMT+1が太陽時になる東経15度はウィーンやベルリンの辺りです)。その上、独仏などの欧州中緯度諸国に合わせるためかサマータイムまで導入していますので(高緯度の地域はサマータイムの意義は大きいのですけど、南欧では余り意味はないような気がします。独仏との時差を生じさせない目的での夏時設定なのでしょうね)、太陽時とのずれは更に拡がり、2時間を超えてしまいます。このような事情から、夜になっても日は暮れず、朝になっても夜は明けないのです。こんなところも「ヨーロッパ臭」がしました。アジアではシンガポール・マレーシアで標準時と太陽時の格差が大きいですよね。推測ですけど、香港との時差を生じさせないために無理無理GMT+8にしているような気がします。殆ど同じ経度のバンコクは無理をせずにGMT+7なんですけどねえ…。ちょっと文字数が大きくなってしまいました。次回はマドリッド市内の彷徨(スペイン領内での移動と宿泊の手配を行うために市内を歩き回ったのです)とトレドへの移動をレポートします。次回も是非お付き合いください。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/28
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留守中に楽天ブログでまた不具合があったみたいですね。今度はアクセスカウンタだそうで…。この前の仕様変更からしばらくは普通に動いていたのに…。色々とありますねえ、ブログ生活は。楽天スタッフの皆さん、頑張ってくださいね。さて、色々とご心配をお掛けしましたが、無事にブルネイから帰ってまいりました。結構いい感じの旅行でした。ちょっと長めの暫定レポートを25日分の日記としてアップしておきました。宜しければお目通しください。楽しそうな雰囲気が伝われば幸甚です、はい。背景を旅行モードから自宅モードに戻しました。旅行モードへのお褒めのお言葉も頂いたのですが、まあ、いつもの黒の方が安心感がありますので…。さて、スペインレポートを地味に続けて参ります。ブルネイ暫定レポートが挟まったのでちょっと昔の話になってしまっておりますが、前回の日記では、ロンドンからマドリッドのバラハス空港に到着するところまでレポートしています。今回は空港から市内への移動から始めます。バラハス空港にはターミナルがいくつかあって、昔からある国内線ターミナルには地下鉄の駅があるのですが、新しい国際線のターミナルには地下鉄が来ていません。そこで、このような路線バスで最寄の地下鉄駅(空港と同じ名前でバラハス駅と云います)へ移動しました。空が青いでしょ。地下鉄駅の地上部分です。新しい地下鉄駅だけあって、モダンなデザインです。ガラスを多用した今風の駅でした。東京の地下鉄ではこんなデザインは余りないですよね(ビルの中に出入り口が設置されるケースが多いので仕方ないです)。ソウルの地下鉄の新しい駅はこんな感じですけど。同じスペイン語圏でも、アルゼンチンの古臭い地下鉄(昔の日記で物凄く古臭いA線と丸の内線の車輌を使用しているB線をご紹介しています、宜しければご覧下さい)とは大違いでした。これが地下鉄の車輌です。意外なのは集電装置関係です。何故かパンタグラフ集電でした。直通運転を行わない地下鉄では第三軌条集電の方が有利なんですけどねえ。更にビックリしたのがキ電線です。架線ではなく、なんと空中軌条でした。東京メトロくらいでしか見ない形式です。これだけ重くて太い軌条を空中に張るので先ず架線切れはありません。車内です。シンガポールや香港のMTR(MRT)とよく似ていました。可燃材を完全に排除した車内です。ベンチも金属製でモケットは貼っていません。火災に非常に強そうです。連結部も物凄く強靭に作ってある感じです。幌ではなく、金属の部品で繋がれています。ひょっとしたら英国製かも知れません。こういう車輌は普段の乗り心地は?ですけど、事故には強いです。別の路線の車輌です。こっちの路線では普通の空中線が使われていました。やっと市内中心部(グランビア周辺)に入りました。歴史のありそうな高層ビルがたくさん立っていました。空が相変わらず青いです。素晴らしい。南欧に来たあ、という感じがしました。ホテルは間もなくです。マドリード市警察のパトロール車輌です。スクーターなんですね。半そでの制服が可愛らしいです。マドリードは欧州でも指折りの治安の悪い町でした。今は相当改善しているそうですけど。こういう人々の努力のおかげなのでしょうね。ヨーロッパに来てもマンホール撮影です。没個性?、かなあ…。ホテルのトイレです。欧州に来たあ、という感じがします。便器に並んだビデがヨーロッパですよね。旅行中に一度もビデは使いませんでしたけど。初日にはマドリードの中央駅の一つのアトーチャ駅に来ました。長距離列車に乗るわけでは無いのですが、鉄道を見たかったのです。ちなみにマドリードには二つの中央駅があります。南がアトーチャ駅で来たがチャマルティン駅です。このアトーチャ駅の旧駅舎の雰囲気は中々のものでした。まるで、温室みたいでしょ。アトーチャに停車していた長距離列車です。逆光で厳しい絵なのですが、客車の車長が非常に短いことが分かるでしょうか…。こっちがスペイン版のTGVであるAVEです。最終日に試乗しますが、この日は見ただけです。折角なのでレンフェ(スペイン国鉄?)に乗ってもう一つの中央駅のチャマルティンに行きました。アトーチャにはスペイン新幹線(というかTGVスペイン版)がガンガン発着します。南への玄関です。北のチャマルティンには国際列車が発着します。レンフェの近郊電車の車内です。ちょっと雰囲気は悪かったです。何となく治安が悪そうな感じがしました。近郊電車の車内の灰皿です。南欧は喫煙に寛容な土地柄でした。かつては、ですが。今は車内は当然禁煙ですけど、最近まで喫煙可能だったのでしょうね。この電車で北中央駅まで来た訳です。北中央駅では、パリ行きの寝台急行の出発直前を撮影しています。次回は長距離列車をご紹介します。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/27
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ブルネイからマレーシアに戻って来ました。これから成田行きの飛行機で帰国します。中々実りの多い旅行に出来ました。ブルネイのモスクの夜間撮影も出来たし…。大満足です。あとは飛行機がダイヤ通り飛んでくれれば何の問題もありません。上級会員ラウンジでシャワーを浴びて、飛行機で寝ます。ちなみに、画像はバンダル・スリ・ブガワン市の中心部に立っているモスク〔オマール・アリ・サイフディン・モスク〕です。いい感じでございましょ。噂通りの金持ち国家でした。北朝鮮と何もかも対称的でした。はい。
2006/11/26
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皆さん、ご心配をおかけしましたが、ラブアン島での待機は1時間程度で終り、2時間ディレイでブルネイに入国出来ました。はい。前の晩に比べると遥かにまともなホテルでバスタブで汗を流せました。マレーシアて違って、ブルネイ国内では3G携帯が使えないので(DoCoMoがブルネイではGSMでしか提携していないようなのです)、このレポートのアップだけ遅くなっております。読んで頂くというより、後日確定レポートを書く際の備忘メモみたいな目的です。書いているのは25日の夕刻です。今日は、思いきって、自動車付きのガイドを一日ハイアしてしまいました。バンダル・スリ・ブガワン周辺をガイド付きで見て回った訳です。楽チンでした。最初に行ったのが、オマール・アリ・サイフディン・モスクでした。市内中心部に建っているモスクで、前の国王が作ったものです。屋根は金張りで尖塔の頂点の鏃みたいなものは純金製だそうです(据え付けの際には、はしご車を出して国王自ら取りつけたそうです)。流石は金満国家らしいと言いたいところですが、やや貧しい国のミャンマーに行った時にみた寺院(あちらは上座部仏教寺院ですけど)も全部金張りでした。東南アジアの雨季の厳しい気候が金貼りを要求するのかも知れませんね。デザイナーはトルコ人のオットマンと言う人だそうです。このデザイナーはブルネイ国内のあちこちに作品を残しているそうです。残念ながら今日は内部には入れませんでした。中も凄いようです。外から見えたシャンデリアくらいしか装飾は見ることが出来なかったのですが、イスタンブールから持って来たものだそうです。1959年の建築だそうで、当時のお金で500万ドルかかったとガイドは言っていました。なお、当時のブルネイ人には建築技術がまだなかったそうで、実際の建築作業に当たったのは香港の人々だそうです。次にブガワン宮殿に行きました。現在は使用されていない宮殿だそうで、現在の国王が幼い頃にこの場所で過ごした所だそうです。金満国家ブルネイにしては質素な建物で高床式の建物で民俗テイストのある建物でした(マレー・ポリネシアのテイストでした)。もう使っていない割には警備が厳重でした。この旧宮殿の近辺は「ロイヤルビレッジ」と言われているそうで、王家の人が住んでいるそうです。まあ、そんなに大きな家はありませんでしたが…(あとで見た国王の妹の家は凄い大きさでした)。次にガソリンスタンドに行きました。ガイドはガソリンの値段を見せたかったようです。1リットル約25円(30ブルネイセント)でした。流石は産油国です。特産品は天然ガスと石油です。お土産にはしにくいです…。この国は膨大な化石燃料資源に恵まれ、猛烈な財源を持っています。お金に恵まれた国なのです。所得税はないそうです。自動車税は年間30ブルネイドル(大型車は60ブルネイドル)だけしかかからないそうです。自動車保有コストが非常に低廉なので自動車普及が極端に進み、国民二人に一台と言う状態だそうです。お国自慢的に住宅街に連れて行かれました。凄い景色でした。ひとつの家屋に5台くらいずつ自動車が停まっていました。流石は金満国家でした。北朝鮮のお国自慢は実態を伴わない空威張りなのでかわいらしいのですが(税金がないとか言いますよね。「この世に羨むものは無し」などと言っていましたね)、ブルネイは本当にお金持ちなので可愛くないです。他にも教育費はただ。医療費も登録費1ブルネイドルだけで、あとはどのような大手術をしても費用はかからないそうです。北朝鮮も医療費はただということになっていますが、医薬品が全く不足しているので、闇で医薬品を調達して持ち込まねばならないと聞いたことがあります。金日成が夢見た社会がここブルネイに実現していると言ってもよいのかも知れませんね。こんな感じでバンダル・スリ・ブガワン市内を軽く流して、アセアン公園と言う川沿いの公園に行って一服しました。この公園自体はなんということのない静かな場所なのですが、この公園からブルネイ王宮が見えるのです。見えると言っても、尖塔の一部だけですが。宮殿は地上四階地下一階建てだそうですが、マングローブの森林に囲まれていて残念ながら外からは見えません。ゲストルームの数が1800室弱もあるそうです。流石は保有資産3兆円の王室だけのことはあります。都市伝説かも知れませんが昔は日本のAV女優がブルネイに送られて、物凄い報酬を手にしたと言う話を聞いたことがあります。なお、このアセアン公園の向かいに国王の妹の御殿がありました。猛烈なな大きさでした。田舎の高校くらいの大きさでした。アセアン公園の次に王宮入り口で軽く記念撮影をして、次に進みました。宮殿の中には入れないので、衛兵を撮影するくらいしかできないのでした。次の目的地はジャミヤシル・ハサニル・ボルキア・モスクでした。国王即位25周年を記念して1994年に建設されたモスクで、強烈な規模と豪華さでした。最初に行ったオマール・アリ・サイフディン・モスクの数倍の規模でした。現在のブルネイ王家は29代目だそうでして、これを記念し、尖塔が29本設けられていました。当然屋根は金です。こっちのモスクは中に入れましたが、残念なことに内部は撮影禁止でした。礼拝堂は男女別に2つ設置されてました。当然男性用の方が大きいのですが、女性用の礼拝堂があること自体が素晴らしいことだとガイドは言ってました。東南アジアのイスラム教徒はほとんどスンニ派です。ガイドによるとシーア派では女性はモスクに来ることを許されていないそうですが、イランではどうだったかなあ。内部には純金製のシャンデリアが吊られていて、高い天井の礼拝堂は冷房されてました。このモスクには専用の発電所まであるそうです。建設費用は公開されていないので分からないと言っていました。「全部スルタンが払ったので判らない」…。とてつもない金額でしょうね。このモスクは地域の交流施設も兼ねているそうで、礼拝施設の他にも、会議室や図書室やセミナールームがありました。小泉前首相がこのモスクを訪れた際の写真も飾られていました。凄い建物でした。言い忘れていましたが、このモスクもオットマンのデザインだそうです。このモスクを見たあとに、日本大使館の前を通ってロイヤル・レガリアへ向かいました。簡単に言うと王室博物館です。残念なことに、入り口ホール以外は撮影禁止なのです。確定レポートの時には入り口ホールの現国王の御輿しかご紹介できませんが、ブルネイ王室29代の歴史が延々と紹介されていました。豪華絢爛…。これぞ金満国家と言う感じでした。ブルネイには議会も選挙もありません。ある種の国王専制と言う体制です。現国王はある種の開明君主のようで、毎週金曜日(イスラム教の休日)には少数の随員だけを引き連れモスクに行って礼拝し、ついでに民衆と話すと言う習慣を持っているそうです。直訴が制度化されているような感じですね。中国の信報所みたいな感じなのでしょう。政府の役人にとっては恐怖の金曜日だそうです。ガイドによると「大臣は夜に眠れない仕事」だそうです。まあ、国王が尊敬されていると言うことなのでしょうけど…。外国人の私の目から見ると、莫大なばら蒔き政策で30万の国民全員を買収しているかに見えました〔国民の半数を公務員として雇用し高給をまいたりもしています〕。この生活レベルなら文句はないでしょう。隣国のマレーシアより何倍も良い生活を送れる国です。そう言えば、移動中に住宅建設現場が見えた時にガイドが「ブルネイでは住宅建設に政府が支援を行っていて、住宅ローンを無利子で借りることができる」と言っていました。恐るべし…、これなら文句はでないでしょうね。この国こそ「この世に羨むものは無し」でしょうな。あと20年は石油や天然ガスが採れるそうですから、当分は現体制は安泰なのでしょう。幸運な国ですね。レガリアのあとは昼食にしました。地元料理のビュッフェでした。マレーシアの料理と変わりありませんでした。ガイドさん曰く「ブルネイでは海老(プロウン)がとても安い。1キロで7ブルネイドルしかしない。だから海老が人気なのだ」とのことでした。確かに安いですね。そう言えば、昨晩の夕食は海老の揚げ物にしておりました。午後には博物館を2箇所回りました。最初に行ったのは、マレー技術博物館でした。ガイドさんはこの博物館の近くの出身だそうでして、説明に随分熱が入っておりました。ブルネイの人々は元来水上生活者だそうでして、陸上に上がるのは耕作ぐらいだったそうです。この水上生活の博物館でした。この博物館では展示物の撮影OKでしたのでストロボを焚きまくってしまいました。感動したのは、鋳造技術でした。金や銅の鋳造や鍛造を水上の木造家屋の中で行っていたそうです。漁法もおもしろかったです。潮の干満を利用した漁法で、昔下地島で見た魚垣みたいな漁法を行っていたようなのです。こっちでは竹製の漁具を用いていたようですが…。ブルネイ王室も元は水上生活を行っていたようで、現国王も水上で産まれたそうです。次に訪れたのはブルネイ博物館です。1972年開館の古い博物館でした。残念なことに展示物は撮影禁止でした。王室の歴史やブルネイの民俗の展示が主なものですが、私が一番興味を持ったのは、石油と天然ガスの展示でした。地質から採掘から積み出しまで割りと分かりやすく展示されておりました。海上油田のプラットフォームの画像は割りとよく目にしますが、地下構造まで示した模型はここで初めて見ました。歴史系の展示もなかなか楽しめます。マラッカ海峡からフィリピン海辺りは植民地帝国がしのぎを削った場所で、スペインはフィリピンを支配し、オランダはインドネシアを植民地にし、最後にやって来たイギリスはマレー半島を支配下に置きました。ブルネイはボルネオ全島を支配していたのですが、北部を英国北ボルネオ会社領にされ(現在のマレーシアのサバ州)、南はブルック王朝領にされ(白人領主なんですな、現在のマレーシア・サラワク州)、現在のブルネイ領の狭い狭い地域だけが残ることになったのです。この狭い領土に集中して膨大な石油が見つかるのですから、運命とは全く奇遇なものです。先の大戦中はブルネイは日本軍が占領しました。レイテ沖海戦の際には第一遊撃部隊はブルネイに集結してからフィリピンへ出撃しました。陳腐な表現ですが、激動の歴史を持つ国なのです。なお、ここで強烈なスコールに遇いました。博物館の屋内にいたので被害には遭いませんでしたが、20分ほど猛烈な雨が降りました。南洋らしい景色でした。すぐに日がさすようになるのですが、暫くは雨が降り続けました。最後に舟を借りて水上集落に行きました。水上集落はカンポンアイルとも呼ばれています。カンポンと言うのは木の名前で非常にめの詰った木で、水に沈みます。この木を使って水上に柱を立て、床を張って、この上に家屋を建設して生活しているのです。現在も約3万人が水上集落で生活しているそうです。ガイドさん曰く「何でもある」とのことでしたが、水上に電線や水道管が張り巡らされ、現代的な生活を送っているようでした。水上に学校や変電所まであって、交通手段が舟である以外は普通の街でした。その上、住民の殆んどは自動車を保有していて、大量の自動車が岸の駐車場に置いてあるのです。何のために水上で生活しているのか…。ガイドの案内で水上タクシーのドライバーのお宅を訪問してお茶を頂きました。確かに涼しいですが…。やはり水上に住むほどのことはなさそうです。習慣を大事にしているのでしょうけど…、夜に川に落ちたりしないのかしら。水上に張り巡らされた橋状の通路は結構怖かったですけどねえ。こんな感じでバンダル・スリ・ブガワンを堪能しました。明日は再びマレーシアに戻ります。来て良かった…。追伸:1ブルネイドルは約75円です。シンガポールと通貨同盟を結んでいて、シンガポールドルと等価交換だとどこかで聞きましたが、今でもそうなのかしら…。レートはそんな感じですけど。
2006/11/25
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皆さん、コメントありがとうございました。前回のレポートでブルネイ行きの飛行機を待ってます、とご報告しましたが、何故かラブアン島にいます。普段の行いの悪さが炸裂し、ブルネイには、やはり普通にはたどり着けませんでした。ブルネイのバンダル・スリ・ブガワン空港が爆弾騒ぎのために閉鎖されたとのことで、ラブアン島にダイバージョンさせられてしまいました。ブルネイの空港再開の目処は立たず、いつブルネイに入れるか全く読めなくなってしまいました。はー。遅くなるとバスがなくなってしまうのです。空港まで行っても市内に入るのに一苦労ありそうです。はー。最近の旅行はトラブルが多いです。涙。以上、マレーシア・ラブアン島から暫定レポートでした。【追記】26日ブルネイにて皆さん、大変ご心配をお掛けしましたが、ラブアン国際空港での待機は1時間ちょっとで終わり、無事にブルネイのバンダル・スリ・ブガワン空港に到着できました。飛行機が遅れたせいで、空港を通る路線バスの運行が終了しており、タクシーでホテルに向かう羽目になりました。1ブルネイドルで済むところが、25ブルネイドルも使わなきゃ行けなくなりました。はー。という事でございました、現在は元気にブルネイ国内を彷徨っております。物凄く暑いですが、物凄くきれいなところです。この前に北朝鮮レポートをお送りしましたが、ある意味では、北朝鮮の対極にあるような感じでした。詳細は確定レポートでご報告いたします。
2006/11/24
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とりあえず、日本航空の定期便でクアラまで来ました。ここもだんだんろくでもないところになって来ました。ホテルのレートが来るたびに悪化しています。成田では初めてファーストトラックでセキュリティを通過しました。国内線では羽田でファーストトラックをいつも使っていますが、成田の方がセキュリティは遥かに混雑しますので、有り難みは成田の方が大です。さすがに飛び石連休だけあって、往路の日航機は混雑していました。763でほぼ満席でした。JLにしてはよくやった方かなあ…。ほんの数年前は成田→クアラはMD11とか772とかで運航するくらいの集客力があったようですが、今では763です。座席数は100席近く減少している訳です。やや余談じみますが、関西→シンガポール→クアラも763で、東京便も関西便も機材が共通になったので、今日乗った機材は、成田→クアラ→シンガポール→関西と回るようです。成田と関西の機材を交換するルートとして活用されているという訳ですね。機材と言えば、今日も機内エンターテイメント設備の故障で成田出発が1時間弱遅延しました。日本航空の国際線でこういう遅れが多くなっている気がします。なんだかなあ…。この会社も色々ありそうです。今回は映画を2本と落語を聞いて過ごしました。「プラダを着た悪魔」はなかなか楽しめました。原作本も面白いですけど、映画の方も退屈しません。お金を払ってまで見る価値があるかは別問題ではありますが。「有頂天ホテル」は期待を裏切りません。三谷作品らしい仕上がりでした。笑いの大学と違って登場人物が物凄く多く、筋書きも複雑ですが、テイストは正に三谷でした。役者もみんな上手い。おすすめです。クアラに着いてからホテルを探したのですが、日本航空が大幅にディレイしてくれたおかげでろくなホテルが無くて、セパン近郊の酷いホテルに入りました。失敗したなあ…。東京で予約を確保しておくべきでした。ブルネイでの宿泊先は既に確保しているので、次の晩からはまあ安心なのですが…。初日はこんな感じでした。明日は良い日でありますように。【ここからはKLIAで書き足した分】いやあ便利な世の中になったものです(海外から携帯でブログを更新できます)。今はクアラの空港でブルネイ行きの飛行機を待っています。今朝は割と早めに起き出して、クアラルンプール中心部を散策していました。クアラルンプールの中心部には英国植民地時代の建物が割とたくさん残っていて楽しいのです。さて、これからブルネイです。晴れると良いのですが…。
2006/11/24
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これから少しの間旅に出るので更新を停止します。次の更新予定は月曜日の夜です。ブログを止める訳ではないので、来週以降また見に来てくださいね。さて、本題です。沖縄関係のシリーズ9本のリンク付き目次を作っておきました。旅行中にはこれをさらしておきます。検索エンジンの巡回ロボットが拾ってくれることを期待しております。はい。なお、最近は携帯からご覧頂くケースも多くなっていますが、下のリンクは携帯電話からはつかえません。楽天はPC用と携帯用でURLを分けていて、変換が上手く行われないみたいなのです。当面の間、リンクはPCからのみ使用可能です。沖縄デジカメテストはホエールウォッチングと合衆国空軍嘉手納飛行場が見所です。沖縄戦跡は、回数は少ないですが、各回とも一回当たりの文字数が多く、お気に入りのシリーズです。その他2005年の離島ツアーも載せておきました。玉石混交ですけど…。沖縄デジカメテスト (06年3月掲載)(1)発端(2)那覇空港(3)続・那覇空港(4)昼食は御菓子御殿(5)残波岬灯台(6)米軍施設群(7)米軍機(8)ホテル (9・終)ホエール・ウォッチング 沖縄戦跡 (06年9月掲載)(1)発端と移動 (2)首里城(3)第32軍司令部(4)牧志市場(5)海産物(6)海軍司令部壕(7/終)その他戦跡日帰り久米島旅行 (05年8月掲載)(1)発端と出発(2)那覇空港でのFZ20のテスト (3)那覇空港→久米島空港(4)具志川村中心部とガラサー山(5)上江洲家(6)五枝の松(7)久米島空港(8/終)帰路 石垣島暴風ツアー (05年7月掲載)(1)発端と経路(2)那覇から宮古島へ(3)石垣島への最初の着陸(4)那覇でターンし再び石垣へ(5)騒然とする石垣空港(6)石垣市内へ(7)石垣市内散策 その1(8)石垣市内散策 その2(9)二日目は全便欠航(10)定期観光バス その1(11)定期観光バス その2(12)定期観光バス その3(13)二日目の終わり (14)三日目。飛ぶかと思わせておいて…結局全便欠航。(15/終)四日目。漸く東京へ…。 てくてく歩きの久米島 (05年7月掲載)(1)まずは那覇空港(2)奥武島(3)イーフビーチ (4)てくてく (5)徒歩行軍(6)徒歩行軍 その2(7)徒歩行軍 その3(8)阿嘉のひげ水 と ゆいまーる館(9)仲里間切蔵元跡 (10)真泊集落から再び奥武島(11)帰路 (12/終)JA8164 下地島・伊良部島での飛行機見物 (05年5月掲載) (1)出発(2)初日の訓練風景(3)さしばの里(4)島内の風景(5)二日目の訓練風景(6/終)帰路日帰り慶良間諸島 (05年5月掲載)(1)出発前日(2)出発準備(3)泊埠頭(4)阿嘉島(5)座間味島へ(6/終)座間味島波照間日帰り旅行 (05年4月掲載)(1)船は凄い揺れでした(2)東京から飛行機で(3)白保海岸(4)石垣市中心部(5)上陸編(6)最南端その1(7)最南端その2(8/終)日本最南端ののどかな旅客空港日帰り与那国紀行 (05年2月掲載)(1)空港編(2)食べ物編(3)上陸編(4)東崎(あがりさき)編(5)西崎(いりさき)編(6/終)付録です 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/23
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目次の後編です。全121回です。(91) ムーンライト高知・松山!(92) ムーンライト高知・松山のスペシャルな内装!(93) 土讃線阿波池田駅にて(94) 土讃線始発上り列車(95) 土讃線坪尻駅など(96) 土讃線琴平駅(97) 高松琴平電気鉄道琴電琴平駅(98) 臨時快速瀬戸大橋トロッコ号の入線(99) 臨時快速「瀬戸大橋トロッコ2号」出発進行!(100) 予讃線多度津駅での車輌撮影(101) 瀬戸大橋を渡る「快速・瀬戸大橋トロッコ2号」(102) 第3旅程の終り(103) 第4旅程の始まり(104) 岐阜駅の近くの金津園と呼ばれる地域(早朝営業開始前) (105) 京都駅に到着!、梅小路蒸気機関車館本館へ(106) 京都梅小路蒸気機関車館の重要文化財の機関庫の様子(107) 京都梅小路蒸気機関車館の保存機関車群(108) 京都梅小路蒸気機関車館のスチーム号(109) 瞑想する、じゃなかった、迷走する私(110) 二週間ぶりの九州上陸~博多駅での発券作業~(111) リレーつばめの個室グリーン(112) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」@熊本駅(113) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」の内装(114) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」@豊肥線立野駅(115) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」@豊肥線阿蘇駅(116) 内牧温泉街の外湯「入船」(117) 内牧温泉街の「はな阿蘇美」(118) 阿蘇神社(119) 豊肥本線宮地駅(120) 福岡空港までの移動(121/終) 福岡空港での券面撮影(動画1) 黒部第四ダムの絶景(動画2) 黒部第四ダムの観光放水(動画3) こんどは黒部川下流方向を写して見ました(動画4) もう一度黒部湖です。(動画5) 地獄谷です。(動画6) 地獄谷動画の短い版です。(動画7) 下関駅でのEF81の連結の動画です。(動画8) 快速みえ51号・キハ72気動車・多気駅(番外) 頂きもののEF81のGIFアニメ 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/23
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リンク付き目次です。長大シリーズなので文字数制限の関係で目次も分割せざるを得ませんでした。(1) 発端(2) ムーンライト信州81号(3) アルペンルートの始まり(4) 関西電力トロリーバス(5) 黒部第四ダム(6) 黒部湖遊覧船ガルベ(7) 殉職者慰霊碑(8) 黒部ケーブルカー(9) 黒部平(10) 立山トロリーバス(11) 室堂のみくりが池(12) 室堂の高山植物(13) 室堂の地獄谷(14) アルペンルートの終りに(15) 鉄子旅の始まり(16) 上越線湯檜曽駅への到着(17) 上越線湯檜曽駅下りホーム(18) 上越線湯檜曽駅から土合駅へ出発!(19) 上越線土合駅下り本線(地下ホーム)(20) 上越線土合駅の長い長い階段(21) 上越線土合駅の駅本屋関連の画像(22) 上越線土合駅の地上ホーム(上り本線)(23) 第1旅程の終盤移動 ~新宿へ~(24) 第1旅程の蛇足~外房線~(25) 第2旅程の始まり ~ムーンライトながら91号~(26) JR西日本の奈良線(27) 交通科学博物館の常設展示から(28) 交通科学博物館の常設展示の続き(29) 交通科学博物館の探検ツアーその1~キハ81特急気動車(30) 交通科学博物館の探検ツアーその2~80系湘南電車(31) 交通科学博物館の探検ツアーその3~スシ28食堂車(32) 交通科学博物館の探検ツアーその4~マロネフ59寝台車(33) 大阪人権博物館(34) 大阪人権博物館の続き(35) 関西彷徨(36) 夜の京都駅(37) 夜の新大阪駅のムーンライト九州(38) ムーンライト九州@下関駅~EF65の切り離し~(39) ムーンライト九州@下関駅~EF81の連結~(40) ムーンライト九州@門司駅~EF81の開放とED76の連結~(41) 鹿児島本線小倉駅(42) 鹿児島本線門司港駅(43) 鹿児島本線門司港駅の続き(44) 門司港レトロ~その1~旧門司三井倶楽部(45) 門司港レトロ~その2~水辺の風景(46) 門司港レトロ~その3~その他の洋館(47) 門司港レトロ~その4~国際友好記念図書館(48) 門司港~ノーフォーク公園~(49) 門司港~布刈公園~(50) 門司~関門人道トンネル入口~(51) 下関~関門人道トンネル出口~(52) 下関~火の山ロープウェイ乗り場へ~(53) 下関火の山ロープウェイのGIFアニメ (54) 下関火の山ロープウェイの案内放送の音声データ (55) 下関の火の山展望台の絶景(56) 下関~火の山から唐戸へ(57) 下関→門司のフェリーの入港(58) 関門フェリー「海大号」(59) 関門フェリー「海大号」の関門海峡航海(60) 門司~九州鉄道記念館~(61) 門司~九州鉄道記念館~(62) 門司~九州鉄道記念館の続き~ (63) 門司~九州鉄道記念館の続き~481系(64) 門司~九州鉄道記念館の続き~581系(65) 門司~九州鉄道記念館の続き~キハ07 (66) 門司~九州鉄道記念館の続き~セラ1型貨車と九州鉄道本社(67) 門司~九州鉄道記念館の続き~館内展示物(68) 黒崎から直方までの筑豊電気鉄道乗車レポート(69) 第2旅程の終り (70) 第3旅程の始まり(71) 名古屋から関西本線で亀山へ(72) 津駅で列車を待つ間に撮影した画像(73) 紀勢本線津駅から多気駅まで(74) 紀勢本線特急ワイドビュー南紀で多気から新宮まで(75) 紀勢本線の車窓(76) 紀勢本線関係の切符の券面のご紹介(77) 紀勢本線関係の続き~JR西日本の各駅停車~(78) 紀勢本線関係~太地駅その1~(79) 紀勢本線関係~太地駅その2~(80) 紀勢本線関係~105系電車の車内~(81) 紀勢本線関係~太地駅から串本駅までの車窓その1~(82) 紀勢本線関係~太地駅から串本駅までの車窓その2~(83) 紀勢本線関係~太地駅から串本駅までの車窓その3~(84) 紀勢本線関係~串本駅と白浜駅~(85) 紀勢本線関係~白浜駅での昼食~(86) 紀勢本線関係~きのくにシーサイドの外観~(87) 紀勢本線関係~きのくにシーサイドの豪華な内装~(88) 紀勢本線関係~きのくにシーサイドの豪華な客席など~(89) 紀勢本線関係~きのくにシーサイドとのお別れと和歌山駅~(90) 奈良県内の移動~和歌山線・関西本線・奈良線~ 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/23
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突然ですが、明日から旅に出ます。今回の標的はASEANで一番の小国のブルネイです。経済的には余り小国でもないのですけど…。暫定レポートを上げるかも知れませんけど、基本的に日記更新をしばらくお休みします。気が早いのですが、久しぶりに不在モードに切り替えます。さて、前回の続きでございます。最初の画像は、ヒースロー近くのホテルです。ここで一泊したのでした。ロンドンヒースロー空港のチェックインカウンターです。この空港は強烈な発着回数をこなす割にはターミナルは3つしかありません。乗換えも比較的楽な空港に入りそうです。BAはターミナル1でした。NRTの全日空みたいな感じで、YのチェックインカウンターとFCのチェックインカウンターが相当はなれていました。ちょっと分かりにくいかなあ。 →記述ミスです。 →LHRにはターミナルは4つありました。 →ご指摘ありがとうございました。LHRのBAのCクラスラウンジです。発着便数から、当然広いラウンジです。余り期待していなかったのですが、割と居心地は良かったのです。食いものはしょうもないものが少々。インターネット端末が10台くらいありました。これも良いです。BAラウンジの喫煙室です。米系だと喫煙室がないケースが多いのですが、BAはタバコを吸えました。偉い!。LHR→MADの機材は757でした。余り売れなかった機種で、その上、短距離機材なので、日本国内では殆ど目にする機会はありません。細く見えますけど、中は3-3シートでした。737と市場が重なってしまった、ということなのでしょうか。現在は製造中止みたいです。私が乗った機材の隣に駐機していた飛行機です。キプロスの飛行機でした。初めて見たキャリアなので撮影しておきました。最近は南米北米ばかりでしたので、ヨーロッパは実に久しぶりです。見るもの全部珍しいのです。ある種BAらしいのかも知れませんが、離陸は延々遅れました。機内への搭乗客の搬入はオンタイムで進んだのですが…。離陸が遅れた理由は「トラフィック」と言ってました。この辺りは詳しくありませんので事情がイマイチ分からんのです。LHRでも日本のフローコントロールみたいなものがあるのかしら。福岡の航空交通流管理システムが稼動して以降、那覇発の離陸待機指令に度々遭います。機内食です。イングリッシュブレックファストでした。現役lecturerさんから前回の日記につけていただいたコメントの一部に「朝食(English Breakfast)以外は期待しないほうが良いようです。」という下りがありましたが、確かに朝食は美味しかった。うんうん。機内です。構造は737と余り変わりません。通路が一本しかないナローボディです。Cクラスの椅子です。妙な構造なんですけど、三人席を二人席に組替える構造になっていました。日本国内でもNHの738でこのような構造が採用されています。NHの場合は、国内線で運行する場合は3名席、国際線(名古屋=台北だったかなあ)で運行する場合は2名席にしていました。こんな感じで肘掛が真中の席に移動していました。一応革張りでした。日本国内で、革張りシートというと、JR九州の「白いかもめ」やJ-AirのCRJくらいしか経験がありません。こっちでは革張りシートは普通なのかしら…。旧英国植民地の激安キャリアのAIR ASIAも革張りでした。別に格安会社でも革張りだったりしました。イベリア半島上空を進んで行きます。流石に乾燥した感じの地面が続いています。南欧の空って感じですよね。やっとバラハス空港に到着しました。この空港ターミナルは随分新しい感じがしました。中々大きな空港です。ターミナル間の移動に電車を使う形式でした。この方式は余り好きじゃありません。成田の第2ターミナルの移動も好きじゃないです。これが電車乗り場ですね。この電車でターミナルの間を移動します。バッゲージクレームです。中々荷物が出てこなくて…。その間に観光パンフレットを集め倒しました。空港の出口です。漸くスペイン領土に立った訳です。この後、公共交通機関を乗り継いでマドリード市内中心部に移動してまいります。続きは次回にさせてください。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/22
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前回はスペインに出かけようと思った心象風景を延々とご説明してしまいましたが、今回は、いつもの私のブログらしく、事実を画像を使って淡々と説明していこうと思います。英国航空のファーストクラスをレポートします。前回は寝台を作る前の状態での画像をご紹介しましたけれども、今回は寝台を組み立てた状態の画像です。14系のB寝台と底面積は余り変わりはありません。この時の機材はボーイング747-400だったのですが、JLの新しいFクラス(ニューソロ)ではAコンパートメントで12席のFクラスを設定しますが、BAでは14席用意していました。微妙に占有面積は狭いのです。でも快適でした。少なくともJLの古いFクラス(スカイスリーパー)よりは断然良かったのでした。機内での配り物です。昔の日記でJLのFクラスの配り物をご紹介しましたが、JLの場合は凄く豪華なのですが、女性用のものに偏っています。まあ、おみやげにどうぞ、という気分なのかも知れませんけど。BAの場合はポーチの形状は似ていますが内容は相当違いました。後ほどご紹介します。ポーチのファスナーのタグです。皮製でした。FIRSTの文字が嬉しいです。ミーハーな私でした。内容はこんなものでした。歯ブラシと耳栓とアイマスク…。だちゃいです。これだけかよ~、と言う感じですよね。靴下が入っているのは中々なのですが…。次は便所です。744のAコンパートメントの便所には何故か窓があります。この辺は日本航空のFクラスに乗った時と同様でした。化粧品セットです。この辺は余り新味がありません。窓から強烈な太陽光線がさしているので露出はめちゃめちゃですけど、お花です。便所にお花が飾られているのはどの会社も同じですが、薔薇と言うのが英国航空らしいです。TGだったらオーキッドだし…。手を拭くのは当然使い捨てのガーゼです。TGではビジネスクラスでも使い捨ての布タオルでした。昨年TGに乗った時には、お土産に持って帰ろうかと思っていました。これは飛行機では初めてでした。便所に飾られている絵です。まあ、気が付かなかっただけの可能性はありますけど…。電車に乗った時には同じようなシーンを見たことがあります。JR九州の看板特急の一つの「ゆふいんの森」号の便所には絵が飾られていました。続いて飯のご紹介に入ります。最初に出てくるのはこのカナッペセットです。アイスクリームに見えますけど、フォアグラムースです。何故か味噌味を付けていました。大変申し訳ないのですが、美味しくありませんでした。サラダ…。可も不可もありませんでした。近所のパスタ屋で出てくるサラダと変わりありません。いかにも日本野菜という味わいでした。これが一食目のメインです。貝のグリルをチョイスしました。最後にデザートです。その名もチョコレート弁当です。弁当箱にチョコレートソースを引いて、その上にアイスクリームが載せられていました。全然美味しくありませんでした。もともと英国料理は不味いというのがヨーロッパの相場です。不味いと言うよりも、テーブルソルトとペパーで個人で味付けを整える文化なんだよ、なんと言う方もいらっしゃいましたが、ざっくり言ってローストビーフ以外は美味しくないと言う印象を持っていましたが、図らずも裏付けられてしまいました。ファーストでこれでは…。乗る機会は中々ありませんが、Yクラスはどんな飯を食っているのでしょうか…。アシアナの方が10倍は美味しそうです。暫定レポートに頂いたコメントの中で「個人的には、過去の経験(機内食、機内サービス、はぐれた荷物のトレース)から 'BA = Bloody Awful' と考えています。」と言うのを頂いております。英国料理と言うよりは英国航空の問題かも知れませんね。NRT→LHRはちょっと長めの飛行なので二食目が出ます。サラダです。海老のグリルが付いているので、一食目よりはましでした。二食目はステーキにしてみました。まあまあかなあ。ソースにもう少し工夫が欲しい感じもしましたけど、まあ、こんなものでしょう。Fクラスに限らず、大抵の機内食は一食目には気合が入るのですけど、二食目は気合が抜けます。ま、こんなものでしょう。昨年の終わりごろ、JLのFクラスにJFK→NRTで出てきた機内食は、一食目は素晴らしい仕上がりでしたが(はっきり言って成田以上と感じました)、二食目は大したことはありませんでした。で最後はデザート&コーヒーです。こんなものを食いながら成田からロンドンヒースローに向った訳です。画像はありませんが、機内エンターテイメントに日本語メニューは一種類しかなく(涙)、この面では寂しかったです。Fクラスの椅子には8ミリビデオの再生装置が内蔵されていて、日本語のソフトを貸してくれます。Fクラスだけのようでしたが…。この「貸出しビデオ」で「サマータイムマシンブルース」を見ました。余り気にかけていなかった映画でしたが、非常に良く出来た映画でした。機会があれば見てください。このBAに乗って、唯一借りられたのがこの映画でした。この機会がなければ見ずに終わったでしょうね。ロンドンに到着した後に、手ごわいヒースローのイミグレを「最初から乗り継ぎ航空券を見せる攻撃」であっさりかわし、100ポンド以上もするホテルに泊まって夜を明かしてからマドリードに向うのですが、ロンドン以降は次回にレポートします。ここでがらりと話題が変わるのですが、前回の日記に、MoToDAMMさんから、気になるコメントを頂きました。北朝鮮ネタを引きづってすみません。2.に関しては、私も同意します。そして1.ですが…これも日本から北朝鮮に渡った在日朝鮮人(数万人くらいでしたっけ?)の行く末が不明な点を考えると納得がいきます(実は北朝鮮に渡った在日朝鮮人の方々の行く末が、今の私の関心事なんですよ)このストーリーは知らない方もいらっしゃるのでご紹介しておきたいのです。戦前に我が国の一部であった朝鮮半島はサンフランシスコ講和条約の発効をもって正式に我が国の一部ではなくなりました。「朝鮮半島出身の日本市民」は非常に微妙な地位に立たされることになりました。昭和20年代30年代には朝鮮半島出身者に対する待遇も非常に厳しいものがあり、多くの方々は恵まれた境遇にはありませんでした。このような社会情勢を背景に、朝鮮戦争直後の労働力不足に悩む北朝鮮政府は在日朝鮮人を受入れると発表し、日朝赤十字社の事業として1959年以降10万弱の人々が朝鮮半島に渡ったのです。そのうち数千名は日本人配偶者でした。当時は朝鮮戦争直後であり南北とも極貧の状態でした。特に南の荒廃は酷く(朴正煕政権による高度成長はまだまだ先の話です)、北は元々工業地帯でしかもソビエト連邦の援助を受けそれなりに発展し始めていたのです。また、日韓国交回復もまだだったのです。こういう事情で北にたくさんの人々が渡りました。そして…。北朝鮮に渡った人々には厳しい厳しい待遇が待ち構えていたのでした。このような帰国運動が生じた背景には、北の宣伝活動もありましたが、当時の日本のマスコミの北朝鮮礼賛も凄まじいものがありました。こんなことが大昔に起きていたのです。北に渡った日本人妻の問題も、拉致問題が大きく取り扱われる中で忘れられていきました。北に渡った人々の多くは、資本主義の走狗の敵対階層に分類され…、前回ご紹介した餓死戦略の対象になったのかも知れません。北朝鮮ネタを引きずってしまいました。すみません。それでは、続きは次回に。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/21
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今回から新シリーズのスペインレポートをアップします。今年の夏から秋にかけてスペイン領内をふらふらしたレポートです。「夏の青春18切符」シリーズで時間を取りすぎて、暫定レポートから確定レポートまで随分時間が空いてしまいました。すみません。少し前からの読者の方はご承知の通り、昨年の私は南米フェチでした。notoshunの夏休みシリーズでは、アルゼンチンとウルグアイを訪れ、南米点描シリーズでは、ブラジルとアルゼンチンとチリを訪れました。アンデスを越えたりしながら、旧スペイン植民地を回ったわけです。これだけスペイン植民地を回っておきながら、旧本国を訪れないのはどうかなあ、という気分から、スペインに行こうと考えた訳です。はい。割と安易な発想です。南米で少しだけ覚えたスペイン語も使ってみようかなあ、なんという考えもありました。はい。他にも昨年にチリのサンチャゴを訪れた際の美しい街並みを見て、植民地ですらこれほど美しい街なのですから、本国の街並みはどれほどのものか、という気持ちもありました。まあ、実際に訪れてみると、全然印象が違うのですが…(スペイン本国はローマ時代から都市が建設され、イスラムの支配を受け、その後に植民地帝国になるので、文化が三層四層なんですね)。もう一つの目的は、ファーストクラスジャンキーの欲望充足です。日本航空のファーストクラスには昨年に10回搭乗して、和食メニューも洋食メニューも堪能して、搭乗レポートを書いたりしたのですが、日本航空以外のFクラスには登場経験がありません。そこで、JLのマイルで乗れるBAのFクラスに乗ることにしたのです。スペインを旅行先に選択したのは、このような事情からです。そんなことを考えながら、期待に胸を膨らませて成田空港の第1ターミナルのチェックインカウンターに並んだのでした。それにしても混雑していました。ホームグラウンドじゃないことを差し引いてもちょっとこれは酷いレベルですねえ。このところは日系か台湾系の航空会社ばかりを使っていたので第1ターミナルに来たのは本当に久しぶりです。ここからの出国は5~6年ぶりでした。リニューアルして見違えていました。これが日中のFクラスシートです。JLのFクラスは変身ロボット的な椅子で、電動でB寝台になったりグリーン車になったりする訳ですが、BAの場合は最初からベットの輪郭が分かってしまう仕様になっていて、ちょっと意外感不足ですね。まあ、こんな感じの椅子でした。搭乗した瞬間からFクラスはワクワクするのですが…。ちょっと痺れたのが、日本語をしゃべる客室乗務員が居なかったことです。残念ながらCクラスにしか日本人クルーは配置されていませんでした。Fクラスは英国人クルーのみで、しかも全員男性でした。これにも痺れました。太い腕の男性乗組員が食事をサーブしてくれるのです。丸で軍艦に乗って水兵にサーブされているような気がしました。暫定レポートにも書きましたが、お子様Fクラスパッセンジャーが2~3名も居たのにも驚きました。流石は階級社会の英国だけありました。と、今回は最初ですので、この位にして、前回の積み残しをご紹介させてください。次回はお食事とかノベルティをご紹介しますので。がらりと話は変わりますが、前々回の日記(デジカメを買い換えました)で、文春文庫の新刊の「金正日 隠された戦争―金日成の死と大量餓死の謎を解く」を読み始めたとご報告しましたが、読み終わりました。流石は萩原遼大先生です。読ませてくれました。目からうろこでした。著者があとがきで自著を以下のように総括しています。<引用始め>この本の意義は次の2点を明らかにしたことである。1.95年から始まる北朝鮮の大飢饉は人為的に作られたものであり、意図的に大量餓死を引き起こすためのものであった。その目的は、民衆反乱の温床となる数百万の敵対階層を殲滅するためのものであった。餓死を儀装した金正日の殺人であった。2.金正日の餓死殺人遂行の最大の障害であったのが金日成であった。金日成の除去なしには金正日の戦争は遂行できなかった。民衆反乱に怯える金正日は生き残りをかけてもう一つの戦争、すなわち金日成の除去に着手した。<引用終り>萩原大先生が自分で端的に要約している通りの内容でした。これを元政党機関紙の記者らしい、実証的な論証で描いているのです。前から抱いていた疑問の「なぜ北朝鮮の食糧危機は3年で収束してしまったんだろうか、食料増産も実現せずに…」の答えを貰ってしまいました。アフィリにはしませんが、割と安いし(税抜き571円)、文庫化されたばかりで簡単に手に入ります。北朝鮮にご関心のある方は必読です。今まで読まなかったことを後悔しております。これならハードカバーで買っても良かった…。但し、泣けません。「北朝鮮に消えた友と私の物語」とは全然違うテイストです。直前のシリーズ「【過去旅行】劇場国家への旅路」の最後の方に沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。色々なご意見や賛辞を頂いて照れているのですけど、大体の皆さんは(私も含めてですが)北朝鮮の住民は哀れ、というご感想をお持ちのようでした。それは、飢えてかわいそうとか、思想統制が無茶苦茶でかわいそうとかなんですけど、萩原先生の意見が正しくて、「金正日はチャウシェスクが処刑されたのを見て、自分も処刑されなくするために、潜在的に反政府に立ちそうな人々を特定の地域に集めた後に食糧配給を打ち切り、数百万人を選別して餓死殺人した」と言うのが事実なら、かわいそうなんてものじゃありませんね…。続きは次回にさせて頂きます。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/20
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撮影テストから帰ってきました。予想通り午後からは雨で全然だめになりました。日没で諦めて帰宅した訳です。はー。撮影テストへのご声援ありがとうございました。ケイワン0422さんのコメント新しい道具を買っての旅行とは、ウキウキでいいですね。電車には疎いので土日キップって言うのも初めて知りました。また楽しい写真を待っていますので気をつけて行ってきてください。土日きっぷは割とお買い得なんですけど、三連休パスに比べるとお買い得度がかなり落ちるので、使用したのは今回が初めてでした。結構楽しめるのでビックリです。お勧めの切符です。ekachanさんのコメント新シリーズの開始、心ひそかに楽しみにしています次回から新シリーズをご紹介します。やはりスペインシリーズにします。引続き、是非お付き合いください。ふぁいとぉ! 九州は雨でした… 西日本には来ないのですか?西日本は夏にのべ8日間かけて舐めるように撮影してきたのでしばらくは北方を目指しています。九州では関門と阿蘇を味わいました。非常に満足感のある旅行になりました。宜しければ過去日記(目次1と目次2)をご覧下さいませ。ヒデオ1999さんのコメント新しいデジカメでの楽しい旅も楽しみです。2日間ゆっくり楽しんできてください。スペインも楽しみですが。旅行は楽しかったのですが、誠に残念ながら天候に恵まれませんでした。残念です。でも、乗りたかった急行「きたぐに」にも乗れたし、収穫大でした。ピクルスコさんのコメントこんばんは私も今度デジカメを買い換えたいな~って思っているところです。同じメーカーの同じシリーズなら操作感が変わらないから良いですね。ご指摘の通り、同じメーカーだと操作感が不変なので、マニュアルを読まなくても使えてしまいました。FZ30とFZ50は外観も殆ど変わりませんので、手の馴染みも一緒でした。はい。金の像さんのコメント天気が・・・心配ですが、良いたびのレポートをお待ちしています。新しいカメラを相棒に楽しんできてください。どうぞ・・・お気をつけて!!ご心配ありがとうございました。ご懸念の通り、日曜日の午後はだめになりましたが、土曜日と日曜日の午前まではOKでした。はい。あきら1963さんのコメントいいですね~。俺は6月にSONYのDSC-T30Bって言うデジカメ買って、10枚位撮ってほっぽってありますよ。買うまではドキドキしてたけど、旅行に行っても「北海道の湖4枚」「高知の写真4枚」「三浦海岸2枚」で飽きちゃった。何でも詳しくって、うらやましいです。デジカメには飽きが来ませんです。はい。デジカメ中毒に陥っていないあきら1963さんが羨ましいです。ちなみに先日売却したFZ30の総撮影枚数は約3万8千枚でした。案山子の屁さんのコメント羨ましいです、FZ30と比べ一段と性能も操作性も良くなった事と思います。FZ5からそろそろステップアップしたい所ですが・・・・懐が言う事を聞いてくれません。FZ30と操作感は殆ど変わりませんけど、性能は結構向上しています。しかし…。カタログスペックほどの性能向上感は無いですねえ…。maman.mさんのコメント東北・山形・長野・上越、いずれの新幹線で、どちらかの地で、楽しそうにためし撮りをなさっていることを想像しながら、じれながら(笑)、楽しみにお待ちしますね。なお、全国ネカフェ情報・・携帯で見られないかもですがhttp://www.tikyu.jp/cafelist/index.htmlっと、煽る・あおる!(爆)コメントありがとうございました。新潟で若干時間が余ったのですが、ネカフェに行かずに夜間撮影をしてしまいました。今回撮影レポートをお送りします。下のほうの画像をご覧下さいませ。仙台以南というと、今日、少しでもマシな天気は仙台-新潟くらいのようですね。日ごろの行い・・・決して悪いようには思えませんが(-"-)でもまぁ、雨なら雨で、屋内ミュージアムなども、お考えなのでしょうね。。屋内ミュージアムではなく、人間を撮りたかったので、山形駅構内のイベントに参加してきました。これも下に載せて置きますので宜しければ!。しゅう_shuさんのコメント新しいカメラの試運転、楽しみですね。結果も楽しみですよ。試運転はとっても楽しかったのでした。あっという間に1000回シャッターを切ってしまいました。とりあえず、性能が感じられるサンプルを下に載せておきますので、ご覧下さい。Nokie♪さんのコメントそれにしても、行動範囲の広さに関心させられました。私は、38歳になりますが、まだ、ハワイが2回、アメリカ本土が3回程度ですので・・・。また寄らせて頂きます。趣味でフラフラと色々なところを回っております。是非またお越しくださいませ。くれぶたくんさんのコメント気ままな チョイ旅 いいですね・・・・・・お気をつけて・・・・旅の 話を・・・・またご声援ありがとうございました。1万8千円はちょっと痛いのですけど、楽しめました。土日きっぷもいい切符でした。では、早速昨日と本日に試験撮影を行ったサンプルをご紹介します。新潟の万代橋を撮影したものです。縮小画像では画質が良く分かりませんので、今回に限り生画像へのリンクを付しています。最初の画像はISO100で撮影したものです。特に気になるノイズはありません。ISO200で撮影したものです。この画像はF7.1まで絞ったものです。同じくISO200で撮影したものですが、今度はF2.8で撮影したものです。街灯の滲み方がちょっと違いますね。ISO400まで感度を上げてみました。白い色の部分にノイズが乗り始めています。ISO800です。縮小画像でも分かるくらいの激しいノイズになっています。ISO1600です。通常モードでの最高感度です。被写体の輪郭がところどころ途切れるくらいのノイズです。実用に耐えないレベルです。結論はISO200までしか使わない方が良さそうです。以上が高感度モードのテストです。続いてズーム性能をご覧下さい。撮影地は仙山線の面白山高原駅の近くです。最初は89ミリ相当です。ワイド端ではなく、中望遠ですけど…。だんだん引き寄せていきます。光学最大望遠です。このズームは「EXズーム」という機能で、CCDの真中だけを切り出しているものです。748ミリ相当です。次は人物です。撮影地は奥羽線山形駅構内です。今日は山形市内の山寺観光協会主催で、山形舞子さんのイベントがあったのです。
2006/11/19
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皆さん、デジカメ購入報告にたくさんのコメントありがとうございました。反応が大きく、驚き、かつ、喜んでおります。はい。(^-^)/前回の日記では、「今朝東京駅で、東北・上越・長野・山形のどの新幹線に乗るか迷います」と書きましたが、朝になって気が変わって、中央線に乗ってしまいました。「はぁちじちょぉぉどのぉぉ、あぁぁずさにごおぉでぇぇ」をやりたいと思って新宿駅に来たものの、満席でした。つかんです。ちなみに今は8時新宿発の列車はスーパーあずさ3号です。仕方がないので、8時2分の臨時列車のあずさ53号に乗って終点の松本駅まで進み、篠ノ井線に乗ることにしました。春の三連休パスの時は、強風で東北本線が不通になり、夏の三連休パスの時は土砂崩れで羽越本線が不通になりました。私がフリー系企画切符で旅行にでると、毎回運行トラブルに遭うのですが、今回も予定通りダイヤが乱れました。前に比べれば、軽微と言えば軽微ですが、人身事故で中央線が30分位遅れました。当然乗り継ぎは無茶苦茶になりました。はー。普段の行いでしょうか…。松本駅でJR東海の車輌に乗りたくて、383系電車の特急「しなの」で 長野に行って、長野からは長野新幹線で東京に戻り、今度は上越新幹線で新潟市に来ています。新潟市内の万代橋で夜間撮影のテストを行って来ました。明日撮影サンプルをアップしますが、やはり高感度でははなり激しいノイズが出ました。大きい画面で見ないと判断出来ませんが、今日の感じでは、ISO400までなら何とか我慢できる絵になりますが、ISO800以上では、ちょっと難しい感じです。画像は今日記を書いている場所です。新潟駅構内の喫茶店です。これから、新潟駅で急行きたぐにの583系を撮影して、ムーンライト越後で新宿に戻る予定です。撮影旅行のつもりでしたが、電車での移動距離を稼ぐのに夢中になってしまい、シャッター数が伸びていません〔元を取る行動です〕。明日は雨なのかなあ…。明日もシャッター数が伸びないと、何のために来たのか判らなくなりそうです。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/18
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ご報告です。今年の2月以来使用してきたデジカメ(パナソニックFZ30)を売却し、新たにFZ50を昨日購入しました。ううっ、心が躍ります。電池の充電も終えてすっかり始動準備OKとなりました。うんうん。今年の2月に購入したFZ30は実に素晴らしいカメラでした。FZ30のデビュー戦をついこの前のことのように思い出せます。FZ30の時もそうでしたけど、新しいデジカメを購入したら、早速撮影テスト旅行に出かけねばなりません。そこで…。明日の早朝から、JR東日本の土日きっぷ(JR東日本の仙台以南新幹線乗り放題特急乗り放題で2日間18000円)を使って、当ての無い鉄道旅行に出かけることに致しました。突然ですので休暇も取れませんし…。明日は、朝早く起きて、東京駅で東北新幹線に乗るか、山形新幹線に乗るか、長野新幹線か、はたまた、上越新幹線かで迷うことにします。FZ30とFZ50は外観に差は殆どありません。しかしながら、画像データ処理のファームウェア(画像エンジンと呼ばれることもあります)が全面更新され、感度が大幅に向上しています。FZ30の弱点であった部分が克服されているのです。厳しい環境下でどのような画像が出来上がりますか…。非常に楽しみです。このような事情で、新シリーズの開始は、ちょっと延期します。追伸:「劇場国家」へのたくさんのコメントをありがとうございました。文春文庫の新刊の「金正日 隠された戦争―金日成の死と大量餓死の謎を解く」を読んでいます。もろ私の好みの作風です。読み終わったら感想を書きます。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/17
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憂鬱な北朝鮮レポートのリンク付き目次を作っておきました。回数は短いですけど、文字数は多いです。「沖縄戦跡シリーズ」にノリはやや似ております。読んで欲しいシリーズです。(1) 在北京北朝鮮大使館(2) 平壌市の第一歩(3) 万景台の金日成生家(4) 豪華絢爛な平壌の地下鉄駅(5) 北朝鮮平壌市の主体思想塔 →平壌市のパノラマを収録(6) 北朝鮮平壌市の他のもの(7) 北朝鮮観光の続き~妙香山~(8) 北朝鮮観光の続き~板門店の軍事停戦委員会~(9) 北朝鮮観光の続き~板門店の軍事停戦委員会会議場とか~(10) 番外編:南からの板門店停戦委員会会議場(11) 朝鮮戦争の休戦協定調印会場とキッチュな「王建陵」(12) 「祖国解放戦争勝利記念館」(13/終) 国際列車で中国へ! 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/17
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津波です。津波です。津波です。凄い。避難が上手く行くことを祈ってます。でも、このブログは前回の続きです。憂鬱な国の観光も今回でお終いです。はい。コメントへのお返事が滞ってすみません。はい。北朝鮮をレポートしていると何となくブルーになってしまうのです。文字数も妙に多くなってしまいました。それも今回でお終いです。北朝鮮最後の朝を迎えたホテルです。ご多分に漏れず、悪趣味な金親子の絵画が飾られています。金日成花か金正日花か忘れましたけど、どっちかです。花に罪はないのですけど…。このホテルを後にして駅に向いました。もう列車が待っていました。特急北京行きです。電気機関車の牽引です。形式名は「三大革命小組」です。酷い形式名をつけるものです。中国式なら「プロレタリアート文化大革命」号となります。江青が運転しそうです。何両も客車を繋いでいるのですけど、国際列車は北側2両のみでした。食堂車を挟んで、後ろには新義州行きの国内列車が繋いでありました。しかし、恐くて国内列車には近づきませんでした。食堂車です。酷い食事が出ました。はあ。国際列車はこの2両です。一両は硬臥、一両は軟臥でした。中国の車輌でした。ご存知の方も多いと思いますが、中国では車輌区分は概ね4つでした。 軟臥 高級寝台 硬臥 安物寝台 軟座 高級座席 硬座 安物座席です。私が乗ったのはもちろん「軟臥」です。国際列車のサボです。中国語と朝鮮語の併記が国際列車らしいでしょ。こっちは食堂車のサボです。平壌=新義州とかかれていました。この先はしばらく撮影しにくい雰囲気でしたので写真はありません。新義州駅で延々と数時間停まって、イミグレ手続きや編成の分割を行い、2両だけで国境を越えました。やっと北朝鮮から離れました。中国の機関車で走り始めたので撮影再開です。新義州の市街ですね。国境の鉄橋の南端の兵士詰所です。やっと北を離れられます。はい。中国の街、丹東が見えてきました。これが切符です。丹東駅で今度は中国の国内列車を併結して、夜の大陸をひたすら北京に向けて走りました。北朝鮮領内では非常にゆっくり進んだのですが、中国領内では時速120キロくらいでガンガンとばしていました。はあ、やっと北京です。北朝鮮旅行もこれでお終いです。北朝鮮に行かないとなかなか分かってもらえないかもしれませんが、あの国の中に居る時には「空気の重さ」が違うのです。中国も決して自由と民主主義の国ではありませんが、北朝鮮から中国に入った時に、何とも言えない開放感を覚えました。恐ろしいところなんですねえ。朝鮮半島の歴史には凄く興味があって、色々と本を読んでました。北朝鮮旅行で板門店や戦争博物館を見て、かなり感動しました。シュリやJSAの世界をリアルで見てしまいました。北朝鮮観光は相当のプレッシャーを受けますが、しかし、後悔は全然ありません。色々な国を訪れてきましたが、これほど「外国に来た感」がある国はありませんでした。何となく思いついて過去旅行をご紹介しました。いかがでしたでしょうか。今見直しても、北朝鮮は凄いところでした。哀れな北朝鮮の住民に幸あらんことを。北朝鮮レポートで疲れ果てたので、次回から何を書くか、まだ決められません。明日、画像ファイルを見ながら考えます。順当に行けば、スペイン旅行か、呉の軍港見学なんですけど…。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/16
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今回も2000年実施の北朝鮮旅行のレポートを続けますが、本編に入る前に、報告関係です。先ず、常連さんのmaman.mさんの宿題には何とか正解できたみたいです。先ずは嬉しいです。毒のある植物なのですね。はい。もう一つは、萩原遼さんを「現役の日本共産党員らしい」と書いてしまっていましたが、これは誤りでした。日本共産党中央委員会の規律委員会は2005年6月17日に萩原遼さんを除籍していました。結構彼の本は好きなので、何となくググってましたら、「しんぶん赤旗」の「萩原遼氏を除籍」という記事を見つけてしまいました。昔の共産党とは随分違う文体ですので、宜しければご覧下さい。さて、フラフラと本題に入ってまいります。前回は開城周辺のレポートの最終回でした。板門店という南北分断の歴史を象徴する場所だった訳ですが、今回は再び平壌へ向います。開城(ケソン)と平壌(ピョンヤン)を結ぶ高速道路の終点付近です。2000年時点では料金所もなく、検問も受けませんでした。今はどうなんでしょうね。平壌市内の大同江を渡る橋の上からの撮影です。左側に、手摺越えで極めて分かりにくいのですが船が見えると思います。この船こそ、かの有名なプエブロ号です。1968年に米海軍所属の情報収集船のプエブロ号が領海侵犯を行ったと称し、北朝鮮が銃撃の上拿捕した事件です。北朝鮮のコマンド部隊による青瓦台襲撃未遂事件の直後に起きた事件で世界の耳目を集めました。ちなみにこの船はNSAの電波情報収集船でした。それまで全然知られていなかったNSAの名前が世間に出た最初の事件だったようです。はい。さて、この日の最後の観覧先はこのおばさんが案内してくれました。その名も「祖国解放戦争勝利記念館」です。簡単に言うと朝鮮戦争に関する戦争博物館です。北朝鮮では朝鮮戦争のことを祖国解放戦争と呼ぶようです。まあ、南の国家を蹂躙して殲滅し、38度線の南の地域を共産化することを目的に金日成がスターリンの許可の下で主体的に始めた戦争ですので、妥当なネーミングです。ちなみに、この時代の共産主義者の用語法では、共産化することを「解放する」と読んでいました。共産主義の軍隊が軍事的に占領すつことも「解放」でした。まあ、現代の我々の目から見れば、共産主義者が占領すると言うことは、地主・企業主・インテリの追放と、NKVD仕込みの秘密警察の進駐を意味しますので、まあろくなものじゃないことを知っていますけど…。博物館の入口に掲げられていた絵画です。戦争博物館らしい構図です。金日成が軍服を着用し、朝鮮人民軍将兵と共に進むという絵柄ですね。これは嘘っぱちに近いのです。朝鮮戦争は最初の数ヶ月は朝鮮人民軍の戦争ですが、僅か数ヶ月で人民軍は崩壊し、以降は中華人民解放軍の戦争になるのです。中国共産党の軍隊です。朝鮮戦争のちょっと前までは八路軍と名乗っていた軍隊です。「三大規律八項注意」でも有名ですね。館内は非常に暗く、2000年に購入した初期のデジカメの手におえる環境ではありませんでした。はー。暗くて輪郭すらはっきり分からないと思いますが、ソビエト連邦が誇るT34/85戦車です。第二次世界大戦後期のソビエト労農赤軍の主力戦車(恐らく世界最初の主力戦車でしょう、もはや中戦車というイメージではありません)でした。85ミリ砲を積んだタイプです(初期のT34は72ミリ砲を搭載)。装甲・機動力・砲力のバランスが取れた良質の戦車で、国連軍の主力のM4E8(イージーエイト)では対抗するのがやっとだったことでしょう。赤軍ドクトリンの縦深突破戦術にマッチした機材です。こいつで朝鮮人民軍は韓国陸軍を蹂躙し釜山に迫った訳です。これも渋い展示物です。米陸軍のディーン少将の使った車輌と、将官車を示す、☆のプレートです。☆で准将、☆☆で少将、☆☆☆で中将と言う訳です。ディーン少将は米軍の将官で初めて(だと思います)共産主義者の捕虜になった人物です。少将が共産軍に囚われた経緯を朝鮮日報が紹介しているので気が向いたら読んでみてください。朝鮮日報の記事によると、ディーン少将は徒歩で味方前線を目指し彷徨している最中に共産主義者のスパイの密告で捉えられたそうです。とすると、ジープに乗っている時に捕らえられた訳ではなさそうです。そうすると…。この展示はなんなんでしょう…。オイ。よくわかんない機材です。多分共産側です。でかいエンジンカウルで古臭いです。多分ヤコブレフYak9型戦闘機です。朝鮮戦争の初期に共産軍はレシプロ戦闘機を制空戦闘に投入しました。北朝鮮ではこの機材で何十機もの国連軍機を撃墜したと言ってましたが、嘘っぽいです。日本海軍のノリではないかしら(日本海軍航空部隊も戦果の過大報告で悪名高いのでした)。朝鮮戦争の航空戦の花形であったミコヤン・グレビッチ設計局Mig15です。この機材と国連軍のF86との戦いが朝鮮半島上空での航空戦の主なところであったと言われてます。余談ですが、都市伝説臭いのですが、Mig15とF86はフォルムが良く似ています。第三帝国が図面を引きながらも実戦配備に至らなかったTa-183フッケバインに似ているという指摘もあります。事実なのでしょうか。赤軍が第三帝国の真似をするのはありそうですが、天下のアメリカ航空機メーカーが盗作をするかなあ。ちなみにMig15もF86も事実上最初の後退翼を背負った戦闘機でした。F86の前の米軍のジェット戦闘機のF80は後退翼ではなかったのです。陸上兵器が並んでいましたが、暗いし、説明も無いし、よく分かりません。墜落したとおぼしき米軍機も飾ってありました。上のほうは何となくF86のような感じでした。下はなんでしょうねえ。もう一機ありました、残骸が。米軍の回転翼機もありました。朝鮮戦争では初めて回転翼機が投入されました。陸戦に非常に使いやすい輸送手段であり、現在では陸上戦闘にヘリは欠かせない存在ですが、これも朝鮮戦争からでした。プエブロ号の模型と乗員の衣服です。こんなものも展示していました。衣服くらい返却してあげればよいのに…。最後の画像は朝鮮戦争初期の大田攻略戦の様子を描いた実物大のジオラマです。朝鮮戦争開戦後1~2ヶ月の朝鮮人民軍が絶好調であった時期の戦いです。ここを過ぎると朝鮮人民軍は余り出てこなくなってしまうので、この時期しか描けなかったのでしょう。以上で、「祖国解放戦争勝利記念館」のご紹介は終りです。面白かったのは、朝鮮戦争の推移に関する説明で、1951年の夏の洛東江渡河作戦の説明の後は、いきなり1951年の冬の共産軍の反攻作戦に飛ぶのです。51年秋の国連軍の大反攻や平壌陥落などについては一切触れていないのがお洒落でした。遊就館もああでしたので、余り人のことはいえませんけどね。更に、朝鮮戦争の大部分の期間で共産軍の主力であった中国人民解放義勇軍(別に義勇軍と言っても名ばかりでばっちり党の命令で参戦していたのですが)の活躍が全然紹介されていないのも、なんだかなあ、という感じでした。中国北京には人民解放軍の博物館がありまして、中々のものなのですが(凄いスターリンゴシックです、一見の価値はあります)、私が行った時には「抗美援朝」展示をやっていました。中国は米軍と直接戦闘を行った経験があるのです。米軍のしたたかさと強さを体で知っている筈なのですが、長いことアメリカのことを「張子の虎」呼ばわりしてましたですね。このフレーズも懐かしいです。また、共産軍のMig15戦闘機をご紹介しましたが、この戦闘機の運用は難しく、当時の朝鮮人民軍に飛ばせと言っても難しく、ロシア人や中国人パイロットが参加していたと言われていますが、当然この博物館では全く触れていませんでした。恐くて質問もしませんでしたけど。ミグ15を前にして「これを飛ばしていたのはロシアの同志ですか」と聞いたらなんと答えたでしょうね…。この博物館を見終わっても夕食までに時間があったので、何故か射撃を行うことにしました。人民軍の訓練場でAK47突撃銃を乱射させてくれるのかなと思って楽しみにしていたのですが、連れて行かれたのは国営スポーツ公園でした。スポーツライフルの射撃になってしまいました。22口径ですので反動も小さくて面白くありませんでした。その上、疲れていたせいか、全然点数も伸びないし…。私、実弾射撃には結構自信があったのですが、全然でした。国家観光委員会のガイドが撮影した、実弾射撃中の私です。フォームがだめだめですね。やっぱダメですわ。大体こんな感じで北朝鮮国内での日程を終えました。このシリーズも後一回でお終いにします。次回の最終回は、国際列車での平壌→北京の移動をレポートします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/15
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今回から本編に戻ります。2002年の韓国から2000年の北朝鮮に戻ります。前回は現在の南北交渉の舞台の板門店をご紹介しましたが、今回ご紹介するのは、1953年に朝鮮戦争の停戦協定が調印された場所です。朝鮮戦争には色々な呼び方があります。それぞれの当事者の立場を表していて面白いのですが、 米軍 Korea War 韓国 韓国動乱 あるいは 韓国戦争 あるいは 625(ユギオー) 北朝鮮 祖国解放戦争 中国 抗美援朝 日本 朝鮮戦争とまあこんな感じです。アメリカにとっては普通の戦争、韓国にとっては共産主義の大国中国が朝鮮半島に介入した動乱、北朝鮮にとっては防衛戦争(ただし後半だけです、前半は南の軍事的占領を狙った統一戦争でした)、中国にとっては隣国を支援してアメリカ帝国主義に抵抗した戦争、そして日本にとっては特需をもたらした外国の戦争でした。朝鮮戦争は1951年6月25日午前4時、労農赤軍自動車化狙撃師団(ロシア語の語彙の問題から機械化歩兵師団を何故かこう呼びます)を基幹に据えた朝鮮人民軍が一斉に38度線を越え南下を開始し、共産主義の軍隊の得意技の突破作戦で脆弱な韓国陸軍の防衛線を一挙に破り、3日でソウルを陥落させ、怒涛の南進を始めました。北の主力はT-34/85でした。この時点で世界最強のソビエト製の戦車です。南側の防衛線は次々に蹂躙されていきました。開戦時に朝鮮半島に米軍は殆ど居ませんでした。この戦争に開始の経緯に関しては萩原遼さんの著作が良いです。元赤旗の平壌特派員という経歴の評論家で現役の日本共産党員みたいです。アフィリにはしませんけど『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文春文庫)なんか泣けます。ほんと。開戦の経緯に関しては事実上のデビュー作の『朝鮮戦争~金日成とマッカーサーの陰謀~』(文春文庫)がお勧めです。大韓民国陸軍は釜山へ後退し、釜山の西側の大河の洛東江で抵抗します。こんなことをやっているうちに、国連の安全保障理事会で北朝鮮弾劾決議が通過し、国連軍が編成されました。当時拒否権を持っていたソ連は安全保障理事会をボイコットしていて反対できませんでした。中国の代表は国民政府でしたので、当然賛成に回りました。国連軍は洛東江でしぶとく抵抗を続けました。朝鮮人民軍は洛東江渡河作戦をなんども敢行しますが悉く失敗に終わりました。金日成は芸の無い突撃命令を下すのみであったようです。朝鮮人民軍は装備を失い、兵力を減らしていきます。このような状況下、9月にはマッカーサーは仁川上陸作戦を実行し、一気に戦局を逆転させます。補給線が延びきっていた朝鮮人民軍は壊滅的な打撃を被り、バラバラに北に向って逃亡を始めます。国連軍は人民軍を追って怒涛の北上を開始し、平壌を占領し、更には鴨緑江(朝鮮戦争に絡めて使うときには、朝鮮語読みのアムノッカンではなく、中国語読みのヤールージャンと読んでいただきたい)にまで達します。オセロのように戦局がくるくる変わりました。今度は南側による統一が目前に見えました。もう一回戦局が大逆転します。中華人民解放義勇軍(志願軍)が参戦し、百万の兵力が一斉に南下を始めます。文字通りの人海戦術であったと言われています。犠牲を省みずに国連軍の戦線に圧力をかけ、戦線を一気に南に引き下げていきます。圧倒的な兵力差により国連軍は再び大後退を強いられました。共産主義者は12月に平壌を奪還し、翌51年1月にはソウルを再び占領します。国連軍は体制を立て直し3月にはソウルを取戻しますが、この辺から戦線は膠着しました。韓国の首都ソウルの支配者は、韓国政府→人民軍→国連軍→人民解放軍→国連軍と僅か半年9ヶ月で4回も変わりました。離散家族が当然のように生じました。この後に53年夏の休戦まで延々と膠着した戦線で犠牲が増えていきました。有利な停戦条件を勝ち取るために双方とも降りられなくなって延々と戦闘が続くと言う展開です。前半戦のように戦局の逆転は起きずに犠牲だけが増えていきました。長い政治的な戦争に入ったのです。捕虜問題などで停戦交渉が暗礁に乗り上げると、再び前線が活気付くというような感じでなかなか決着がつきませんでした。1953年7月27日にようやく停戦協定が結ばれました。その調印に用いられたテーブルです。国連軍側の調印者はクラーク国連軍司令官だけでした。当時の李承晩大統領(後に学生革命で国を追われハワイで客死します)は調印を拒否したのです。北側の調印者は中華人民解放義勇軍(志願軍)司令官の彭徳懐と金日成でした。朝鮮戦争後半の実質的な北側指揮官は彭徳懐だったのです。金日成は彭徳懐に頭が上がらなかったと言われています。多分本当です。中国人は傲慢ですから。そんな歴史的な現場を見せてもらって、結構感慨深いなあ、とか思ったものです。やはり、南北朝鮮は東西ドイツと違ってそう簡単にことは済まないでしょうねえ、と思うのです。東西ドイツは内戦を戦いませんでしたが、南北朝鮮は2年以上に亘る熱い内戦を戦い、数百万の死者を出したのです。また、中朝が時々使う「血を分けた同盟」というのもそれなりの説得力をもちます。朝鮮戦争で朝鮮人民軍の死者は50万程度ですが、中華人民解放義勇軍(志願軍)の死者は100万近い水準と言われています。この停戦協定調印会場でガイドの軍人さんとお別れしました。シャッターは国家敢行委員会のガイドが切ったのですが、またしても足切れです。なんとかならんのか…。この次に、開城近郊の王建陵というお墓に連れて行ってもらいました。別にお願いした訳ではないのですけど。酷い絵です。2000年当時のデジカメの性能では何故か露出が上手く調整されない時がありました。露出不足ですね。これは入口なんですけど、この王建陵というのは、高麗の建国者のお墓です。朝鮮半島の統一国家と言うと、李氏朝鮮が新しくて存続期間も長いので一番すっきりします。李氏朝鮮の首都は言うまでもなく現在のソウルです。北朝鮮的にはソウルが首都の国が正当というのは余り好ましくないのです。そこで開城が首都であった、その前の統一王朝であった高麗を正当に持ってきたがるのです。こんな理由で北朝鮮には高麗航空とか高麗ホテルというような高麗を冠したものが散乱している訳です。そんな理由で、北では高麗の遺跡を大事にします。大事にするどころか新しく作ったりもします。そんな事情でちょっとキッチュな感じがするところではありますが…。それなりに風情はありますよね。高麗時代は918年~1392年まででした。流石にそんなに昔の建物とは思えないのですが…。一部、どう見てもせいぜい築10年というものもありますなあ…。再建物とおぼしき立派な建物がたくさんありました。偽ものと思うと全然ありがたみを感じません。申し訳ないのですが。ガイドの後姿ですね。とこんな感じでちょっと退屈な王建陵見物を終えました。この日の昼食は開城で頂きました。朝鮮人参はこの開城周辺が本場でして、この日のメニューは人参を使った宮廷料理の韓定食(ハンジョンシク)でした。北では何と言うのか聞いて置けばよかったです。絶対韓定食とは言わないと思います。以上で開城周辺のレポートはお終いです。この後には再び平壌に戻り、北朝鮮の戦争博物館、その名も祖国解放戦争勝利記念館を訪れます。勝利とは恐れ入ります。あれが勝利ねえ…。宜しければ次回もお付き合いください。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/14
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前回の日記に常連さんのmaman.mさんからコメントを頂きました。「原爆を許すまじ」、ところであの「白い花」は何の花か、ご存知ですか?(あはっ、意外とみなさんご存じないみたいなので、宿題です。)即答できませんでした。悔しいので調べてみたら、候補が二つ…。一つの候補は「もう植物が生えることは無い」と言われた爆心地で再び咲いたキョウチクトウ(夾竹桃)です。もう一つの候補は、土中で被爆した白い彼岸花でした。どっちが正解なのでしょうか…。どっちも外れだったりして…。さて、今回は番外編です。2002年に参加した、韓国からの板門店観光ツアーの際に撮影した画像をご紹介します。この時に使用した機材はFZ1というデジカメです。今使っているFZ30の先祖みたいな機種です。2000年に使っていたものよりもはるかに性能は向上していますが、やはり画質的には物足りません。ここをご了解ください。出発地はソウル市内三角地の戦争記念館駐車場です。ここから一路北に進み、民統線(民間人統制線)を越えて、軍事境界線へ進んで参ります。南から板門店に行く場合も個人では行けません。必ずパックツアーに事前に申込む必要があります。またドレスコードなどもありまして、結構手続きは煩雑なのです。最初に板門店の手前の国連軍基地のキャンプボニファスに連れて行かれ、国連軍の将校からブリーフィングを受けます。その後、板門店では死んでも文句は言いません、という書類にサインしてから軍事停戦委員会会議場へ輸送されます。ちなみに無事にツアーが終わるとこの書類は記念にくれます。軍事停戦委員会会議場に入るまで、ずっと撮影禁止でした。沢山の憲兵が見張っているので隠し撮りも不可能でした。はい。そんな訳で、いきなり停戦会議場です。北から行った時と変わっていませんでした。当たり前ですか…。韓国の憲兵がガードしています。独特のポーズを決めていました。全員サングラスというのも、北から行った時と変化ありませんでした。ガイドさんによると、JSAで勤務している韓国陸軍の兵士は家柄も良く志操堅固で容姿端麗な者が選抜されるらしく、結婚相手として人気なのだそうです。2000年に行った時には国旗群だったものが、プレートに代わっていました。こっちの方が見やすいですね。こんな感じで会議場を見て、再び自由の家に戻りました。屋内から撮影したものです。奥の白い建物が北朝鮮の施設の板門閣です。2000年にはあの建物から撮影していたのでした。この人がガイドさんです。展望台へ移動する途中に撮影した人民軍の哨所です。再び板門閣です。大韓民国陸軍の憲兵と記念撮影もOKでした。ここからは展望台からの撮影分です。遠くに佇む北側の国旗掲揚塔です。掲揚塔の足元にある建物は宣伝村です。人は住んでいないそうです。実際の家屋よりもかなり大きめに建設してあるようです。この辺は北側の欺瞞体質がばちばちに発露されております。その大きな建物と比較しても異常な高さです。国旗掲揚塔の病的な高さ…。韓国陸軍の憲兵…。朝鮮人民軍の兵士…。南から見ると、人民軍の建物は憎憎しく見えるから不思議です。南北首相級会談の会議場です。北側からは良く見えませんでしたが、こんな建物です。展望台から降りた時に見上げて撮影しておきました。この後JSA内を移動し、帰らざる橋を見下ろせる展望台に移動しました。この展望台からはシャッターを切り放題でした。これが全景です。全然わからないでしょ。そこで12倍ズームが活躍します。この時に使用したFZ1は光学12倍ズームの第1世代のマシンなのです。ノイズや画素数は全然ダメダメなんですけど、大望遠は得意中の得意なのです。1953年に建てられた、南北軍事境界線を示す有刺鉄線です。北朝鮮の政治スローガンです。こいつらホンマにスローガンが好きなんですわ。休戦協定の会議場です。朝鮮戦争の休戦協定は板門店ではなく、開城で調印されたのです。次回から本編に戻り、この会議場の様子をレポートします。この橋が韓国映画「JSA」の舞台となった、帰らざる橋です。朝鮮戦争の休戦後にこの橋を通って捕虜交換が行われました。この橋を一旦渡ったらもう帰れない、という意味で帰らざる橋と名づけられたのです。韓国陸軍の歩哨所です。防衛不可能と言うことで現在は無人だそうです。朝鮮人民軍の歩哨所です。映画ではソガンホが勤務していたところですね。今回のレポートの内容の殆どはこの人の受け売りです。JSA専門ガイドのキムさんです。静かに佇む北側の宣伝村です。JSA最後の画像です。この石碑の場所にポプラが生えていたそうです。このポプラを切り倒そうとした米軍将校を人民軍は撲殺したのです。再びキャンプボニファスに帰ってきました。昼食は兵舎の中の食堂(本来は下士官クラブ)で、兵士と同じ物を食べることになっていました。なかなかお洒落でしょ。食べ物は取り放題でした。食卓にもJSAのマークが…。手ぶれしてますがお許しを。暗かったのです。南からの板門店レポートは以上です。食事を終えたらソウル市内に戻って解散しました。これで番外編を終わります。次回から本編に戻り、開城の停戦会議場周辺をレポート致します。それにしても、古いデジカメとの性能差が余りにもはっきりしますね。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/14
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今回も2000年に実行した北朝鮮(自称:朝鮮民主主義人民共和国)旅行のレポートを続けます。「原爆を許すまじ」をかけながら書いております。やはり、核実験は許せん。三度許すまじ。さて、前回は韓国の施設「自由の家」までレポートしました。南北ともでかい建物で、正面からは相手側の建物しか撮影できないのです。今回のレポートでは南側の「自由の家」しかご紹介できません。北側の「板門閣」は南からしか撮影できないのです。おずおずと軍事停戦委員会会議場へ進んで参ります。この会議場は、ポプラ事件(余談ながら南側のキャンプボニファスと言う名前はポプラ事件の際に人民軍により殺害された米軍将校の名前から来ています)とかソ連学生亡命事件とか数々の死傷者の出る事件の舞台となった場所です。また、この10年の韓国映画の名作も南北分断に題材を取ったものがたくさんあります。シュリしかり、ブラザーフッドしかり、二重スパイしかり…。特にJSAはこの板門店の共同警備区域の兵を主人公にしたものです。この場所に建つのであれば、予習代わりに是非ご覧頂くことをお勧めします。と、緊迫した気分だったのもつかの間、台湾おばちゃんの赤いチャンチャンコが視界に入ると急に日常感が…。これじゃ台北のデパートのバーゲンです…。大声で話しながら移動するので、緊張感が雲散霧消してしまいました。ズモーン…。これが南北の軍事境界線です。このテーブルは南北軍事境界線の上に配置されております。マイクのコードが丁度軍事境界線です。この建物の中でだけは、自由に軍事境界線を越えることが出来ます。ここ以外で軍事境界線を越えると、少なくとも北側は発砲するでしょう。この板門店周辺は共同警備区域となっていて、兵士の武装は拳銃に限られ小銃は携帯できないことになっているそうです。なので当たっても死なないかも知れませんけど…。しかーし、台湾おばちゃんズにかかるとこの通り。南北分断という民族の悲劇も、あっという間に町内会の温泉旅行みたいな雰囲気になってしまいました。恐るべし。おばちゃんパワー。悔しいので、私も記念撮影しておきました。自分の顔を塗りつぶすという行為も何となく映画っぽいでしょ。韓国映画「二重スパイ」でこんなシーンがありましたよね。南側に飾られている、国連軍を構成した各国の国旗群です。朝鮮戦争では、南側は米軍と韓国軍を中心とした国連軍が、北側では中華人民解放義勇軍が主力となりました。金日成は開戦後ソウルを陥落させ、大田付近でディーン少将を捕虜にし、洛東江まで進撃し、国連側を釜山橋頭堡に押し込めるまでは上手くやったのですが、洛東江渡河作戦に何度も挑戦しつつも結局成功できずに、機甲6個師団をほぼ擂り潰してしまいました。そんな時にマッカーサーの大博打、仁川上陸作戦が成功し、金日成の軍隊は殆ど消滅してしまいました。その後の朝鮮戦争の北側の実質的な指揮官は彭徳懐中国人民志願軍司令官でした。この事実も北朝鮮のコンプレックスに微妙な蔭を落としている気がします。私ら、北側の観光客を監視する、韓国陸軍の憲兵です。この憲兵が妙に格好いいんです。特別な軍服を着用し、全員サングラスを着用していました。この位で軍事停戦委員会会議場を後にし、北側の「板門閣」に入り、ここから見下ろしで撮影を続けました。板門閣への階段から撮影しました。正面から見た自由の家です。ここ板門店における南北のライバル意識は病的で、とにかく相手よりでっかい建物を建てねばならないという強迫観念にかられたのか、意味もなく大きな建物です。中は殆ど空家でした(2002年に南から訪れた際に見た感想です。南からの板門店は別途特別レポートをアップします)。軍事境界線ギリギリに佇む人民軍兵士です。兵士の足元のコンクリートの線が軍事境界線です。ここから板門閣からの撮影分です。JSAにも出てきた哨所ですね。南北首相級会談の会議場です。今は使っていないんでしょうね。私たちが板門閣で休憩していると、南側の観光客が出てきました。南北の観光客がかち合わないように、バッチリ打ち合わせが出来ているような印象でした。南側の展望台です。ここには、このレポートの旅行の約2年後に立つことになりました。いや、絶景でした。南側の観光客の皆さんです。胸にワッペンをつけているので直ぐに分かります。風にはためく南北の国旗掲揚塔です。これも南北の競争意識から、掲揚塔の高さ競争になってしまい、病的な高さになっています。今使っている機材ならもっとまともな画像になったと思われるのですが、2000年に使っていた初期のデジカメではこの辺が限界でした。国連軍の兵士でしょうか。板門閣で私と共に南側を見下ろす台湾のおばちゃんたち…。手前の山は北朝鮮、奥の山は韓国の領土です。その中間は綺麗に木を伐採してありました。キルエリアですね。この身を隠すものがない部分を進む敵に対してありったけの砲弾を浴びせる訳です。次回は一旦番外編を入れます。南からの板門店観光を一回だけ入れてみます。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/13
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最近のアクセス記録を見ていると、携帯電話からご覧頂いている方が結構多いのですけど、私のブログは写真が売りです。携帯からは見ることが出来ないみたいですので、もし、携帯で見てご関心を持っていただいた方は、PCからも見てみてください。グーグルで「マイレージジャンキー」で検索をかけて頂ければ、一番上に出てくると思います。さて、今回も2000年の北朝鮮(自称:朝鮮民主主義人民共和国)旅行のレポートを続けます。核武装のカルト国家観光でございます。本題に入る前に書類をちょっとご覧下さい。これが北朝鮮のビザです。北朝鮮はなかなか気が利いていて入国時にパスポートに証印を押しません。まあ、北朝鮮入国歴ありとなると、普通の国は警戒しますよね。普通の国から見た北朝鮮のイメージとしては、在外公館主体の麻薬密造並びに密売・偽札の製造・武器の密輸・大量破壊兵器の材料や技術の収集・日本人をはじめとする外国人の拉致・外国での韓国政府要人の殺害・民間航空機の爆破並びに乗客乗員の殺害と、ざっとこんなものでしょうか。これを公務員が国家の命令でやっている訳ですから、普通は引きます。そこで、北朝鮮入国歴が他の国の政府にばれないように、北朝鮮は入国してもパスポートに判を押さないのです。その代わり、このようなビザをくれます。パスポートとこれを組み合わせてイミグレを通過するのです。さて、この日は朝から高速道路をひたすら南下いたしました。品質はともかく、北朝鮮にも高速道路はあります。ただし、交通量は殆どなく、すれ違う車もありませんでした。料金所もありませんでした。それでもこのようなサービスエリアみたいなものはありました。しかし…。殆ど開店休業の状態でございました。サービスエリアから見た北朝鮮の山肌です。気がはげはげなのにお気づきでしょうか。北朝鮮では今は食糧危機で、97年以降300万以上の餓死者を出したといわれていますが(カウントした訳ではないのでいい加減な数字でしょう)、その前には燃料危機が生じました。その際に北朝鮮の人々は山の木をガンガン切って燃料にしてしまいました。そんな訳で、開城近郊、軍事境界線に程近い、温暖な地域でも山はこんな状態なのです。この辺は韓国と大違いなのです。サービスエリアで目にした観光バスです。台湾からの団体観光客のバスでした。おじいさんとおばあさんが乗ってました。日本語を話す世代のおばあさんが言ってました。「この国では女を買えないからねえ、これからウラジオストクに行って女を買うんだよ、男どもは…」はー、変わりませんなあ。こんなところに日本文化がしっかり根付いていたので驚きました。アジアで日本男性の大雑把な評判はこんなかんじです。『日本の男はとても女性に優しい。しかし必ず裏切る』更に南下を続けます。途中で化学工場が目に入りましたが、これ以外はひたすら水田でした。単調な農村の風景が続きました。これだけ見ていると食糧危機が発生しているとは思えないのですけどねえ…。北朝鮮の食糧危機の原因は、無計画な山林伐採に伴う保水力の低下と水害の頻発、無計画なトウモロコシの連作及び肥料の絶望的な不足に伴う地力の消耗(トウモロコシの連作の原因は金日成の無茶な指令でした)などでした。スターリン時代のソビエト連邦におけるルイセンコ学説みたいでしょ。ポリティカリーコレクト≠エコノミカリーコレクトという図式の下で政治優先で物事が決められて行ったので、生産現場はむちゃくちゃになるという北朝鮮では頻繁に見られる図式でした。他の例としてはビニロン(北朝鮮が自力で開発したと称する画期的合成繊維)なんかもそうですね。誤った学説を指導者が支持し、その学説に反対したものは指導者を批判したと見なされ、強制収容所へ送られてしまう…。こういうところを見ると、北朝鮮はスターリンの子供なんだなあ、と感じます。さて、目的地のゲートが見えてきました。今回の遠出の目的は板門店のJSA見物です。言うまでもなく板門店は、南北朝鮮の分断の象徴です。南北朝鮮の交渉などは殆ど全て板門店の軍事停戦委員会の会議場で行われています(たまに南の使節が平壌に行ったり、北の使節団がソウルに来たりしますけど)。先ず、休憩所に入ってブリーフィングを受けます。非常に長閑な雰囲気でした。南から板門店に行く際には、国連軍の基地「キャンプボニファス」で、北の兵士がいかに簡単に発砲するかなど、こまごまとした説明を受け、「板門店滞在中に死んだり負傷しても文句は言わない」という書類にサインさせられ、脅され倒してから、1個小隊の憲兵隊とともに、徐に板門店JSAに入るのですが、北から行く時は、将校1名だけでした。多分ですが、北の兵士は安易に発砲するけど、南の兵士や国連軍の兵士は観光客には発砲しないのでしょう(当然か)。休憩所から見た南方JSAのゲートです。早く行きたいのですが、ブリーフィングを受けなければならないのです。早く行かないと台湾人団体とかち合ってしまい、好き放題見て回れなくなってしまうのです。このジオラマと兵力地図を用いて、南北の軍事バランスの説明を受けました。いやいや、軍事バランスじゃありません、南側の兵力のみの説明でした。米軍の戦術核についてねちーっと説明しておりました。で、ようやく出発です。金日成親筆の表札です。ここが記念撮影スポットのようです。ここで台湾人団体観光客に追い着かれました。はー。この方々が台湾からお越しになった団体様です。非常に元気なおばちゃん連合におじちゃんが数名混じるという構成でした。派手な色の服装です。ピンクが大好きな人々でした。悔しいので、私も記念撮影してもらいました。シャッターを切ったのは国家観光委員会のガイドでした。ズーン。これが軍事停戦委員会の会議場です。手前の青色白色の建物が軍事停戦委員会の建屋です。どっちが南の建物で、どっちが北の建物かは忘れてしまいました。奥の建物が南の「自由の家」です。韓国側からは絶対に撮影できないアングルでございます。今回はここまでにします。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/13
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今回も2000年の北朝鮮旅行の続きをお送りします。この北朝鮮旅行は東京にあるKACツーリストという北朝鮮に強い旅行代理店の手配で実行しました。やはり、専門代理店は強いですね。いろいろな注文を出せます。もし、北朝鮮に旅行してみたいと言う方がいらしたら、是非見てください。忙しい代理店ではありますが、こんなことができるか、あんなことができるか、と相談してみてください。結構リクエストを通してくれます。北京で手配するよりも東京で手配する方がお勧めです。さて、前回は妙香山ホテルに投宿するところまでレポートしました。この妙香山は松茸の名所でもあります。余談ながら北朝鮮は外貨獲得の手段として農産品水産品を日本に輸出していたものです。もちろん、核実験強行後の日本の自主経済制裁によって現在は完全に輸入が停止しているはずですが。かつて北朝鮮産が沢山入っていたのが、アサリ等の貝類と松茸でした。妙香山では10ドルでバケツ一杯の松茸を購入して、ガヅガヅ喰ったのですが、この松茸の中に妖しいきのこが混じっていたらしく、激しい嘔吐と幻覚症状が出てしまいました。翌日もフラフラで観光を続けたのでした。妙香山周辺の観光名所は二箇所あります。一つは普賢寺という寺院です。もう一つは国際親善展覧館という施設で、世界各国から金親子に献上された貢物が展示されています。これが迫力のある博物館で、スターリンから貰った鉄道車両とか、毛沢東から貰った高級乗用車など、ううー、流石は国際共産主義、というものもあります。しかし、在日朝鮮人の方からの献上品のガラスの灰皿などどいった、しょうもないものも展示されていてインバランスな感じが素敵でした。誠に残念ながら完全撮影禁止でして、展示品の写真はご紹介できないのです。これが国際親善展覧館の扉です。一枚10トンか5トンか忘れましたが非常に重い扉ですが、人の手で開けることができるのが自慢のようです。金親子にとって聖地であるが故に、扉に素手で触ることは許されず、手袋の着用を求められました。それにしても私も若いです。屋上で撮影したものです。写真に写っている人物は北朝鮮のガイドです。今一つ美人度が足りないような感じですけど…。韓国で大ブームになった北朝鮮美女軍団には若干劣ります。ガイドさんとツーショットで撮影したものです。朝鮮国際観光委員会のガイドさんにシャッターを切ってもらいました。鼻の下を伸ばしている自分の姿が懐かしいです。背景の山が美しいのでした。この国際親善展覧館は山奥にあるのです。風光明媚な山奥にこんな「金王朝」の聖地があるわけなんですねえ。展示内容については、トンデモ系で笑えますし、山々は美しいのです。北朝鮮を訪れた際には是非チェックしてみるべきスポットでしょう。ここの参観を終えた後に、妙香山登山にチャレンジしました。ここが登山口です。公衆便所が設置されていました。写真に写っているのは国家観光委員会のガイドさんです。ご説明するのを忘れていましたが、この北朝鮮旅行では、私+国家観光委員会のガイド2名+運転手+現地ガイド1名(ころころ代わる)、という4~5人編成で行動しました。一人旅でありながら、「notoshunご一行様」でもあったのです。山肌に掘られた政治スローガンです。北朝鮮はこの種の政治スローガンを書くのが大好きでした。環境保護の観点に立てばいかがなものかなのですが、北らしさが満喫できて、「秘境観光客」としては満足感がありました。はい。金日成の「御親筆」の前で記念撮影をしておりました。これも国家観光委員会のガイドがシャッターを切った銀塩写真です。足切れになっています。ホンマにあいつら…、もう少し写真を勉強しろっ。山の中ではこのような焚き火&焼き栗をやりました。スーツ&ネクタイ姿の3名が山の中でこんなことをしていたのです。今から思うと異様な光景であったことでしょう。ちなみに、焼け方が一様ではなく、上手に焼けた栗は美味しかったのですが、3分の1くらいは生焼けでした。ここを後にして次の観光スポットは普賢寺です。こんな感じの山寺です。11世紀の建立みたいですけど…、詳細は忘れました。キッチュな感じが強く、いつごろの作品かが定かじゃありません。仏像もたくさんありましたが、どうも北朝鮮政府が戦後に作ったもののような気がしました。言い忘れましたが、現在の北朝鮮には、公式には「宗教の自由がある」ことになっていますが、もちろん、そんな自由はありません。主体思想は宗教と並存できる筈もありません。従って、この寺も外国人観光客用のものと思われます。だって、参拝客が一人もいなかったのですから。次回は、当時はまだまだ緊張していた南北軍事境界線関連をレポート致します。宜しければお付き合いください。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/12
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今回は北朝鮮平壌市中心部のその他のものをあっさりとご紹介してまいります。ピョンヤン駅です。多分戦後の建築です。ちらりと見えている平壌高麗ホテルです。人民大学習堂ですね。万寿台の金日成銅像です。奥は議会のようでした。金日成銅像の左右に聳える群像です。これぞ、スターリニズムという芸術作品でした。全体はこんな感じの配置になっていました。千里馬銅像です。朝鮮の伝説上の生物で、一日に千里を走るという馬です。この馬の名前をとった「千里馬運動」というのがかつて朝鮮で展開されました。北朝鮮はソビエト連邦によって作られた国家でしたが、国境をべったり接する中華人民共和国の影響を受けやすい環境にありました。毛沢東が始め、むちゃくちゃになった政策は大体真似しています。中国で「大躍進運動」が始まると、北朝鮮では「千里馬運動」が始まります。土方高炉の世界でした。これを象徴する銅像なのです。別に民族の伝統を思い出して作っている訳ではなく、ばっちり政治的な銅像なのです。もちろん、大躍進運動や千里馬運動が成功する筈もなく、破壊的な失敗に終わりました(中国では千万単位の餓死者が出たと言われています)。その後も、中華人民共和国で「プロレタリアート文化大革命」が始まると、北朝鮮でも「三大革命小組」が始まります。「大地の子」の世界です。もちろん、これも破滅的な失敗に終わります。工業の生産性は際限なく低下し、悲惨な状態になって行きます。中華人民共和国は1976年にこの手の経済政策から卒業し、現在は「世界の工場」の地位を築きましたが、北朝鮮は個人崇拝&非現実的な経済政策から脱却できず、「飢餓共和国」の地位を得たと言う訳です。また、余談ですが、北朝鮮と韓国の経済力は1960年代は北のほうが上でした。これはソビエト連邦や中国の援助が背景にあるわけではありますが、北の人民の方が南の国民よりもいい生活をしていたのです。どっちも貧しいレベルではありましたが。南側で朴正煕が政権を掌握し、典型的な開発独裁政権として振る舞い、輸出重工業産業の育成に成功し、最貧国だった韓国を中進国のレベルまで、国民生活を引き上げていきました。今ご紹介したような種々のモニュメントは1960年代70年代の作品であり、まだ北が相対的な豊かさを誇っていた時代の「豊かさの象徴」でもありました。本題に戻ります。ピョンヤン市内の象徴的な建築物群を見た後に、今度は北に向かい妙香山へ行きました。その途中で撮影したものをご紹介します。錦繍山記念宮殿です。ここに金日成の死体が保存されています。共産主義国はレーニン以来指導者の死体の塩漬けを公開するという習慣があります。中華人民共和国では毛沢東の死体を見ることが出来ますし、ロシアではレーニンの死体を見ることが出来ます。北朝鮮でも公開しているのですが、正装しろとか木曜日だけとか色々とルールが煩わしくて、見ることは出来ませんでした。妙高山に行く途中で鍾乳洞に立ち寄りました。とこんな感じでした。鍾乳洞探検は大好きで、楽しめたのですが、わざわざ北朝鮮にまで行ってまで見る価値はありませんでした。妙香山では、とりあえず宿泊するだけになってしまいました。北朝鮮には外国人の宿泊が許されているホテルはそんなに多くありません。妙香山には妙香山ホテルという国際ホテルがありまして、ここでの宿泊になりました。暗くなっても全然電気がついていないのは、停電していたからです。北朝鮮らしいでしょ。写真はありませんが、妙香山の夜空は素晴らしかったのでした。感動しました。2000年でも北朝鮮の食糧危機もエネルギー危機も凄まじい状態で、ほぼ全土で生産活動は半ば停止していました。工場は操業停止、自動車は動かない訳です。つまり大気汚染は物凄く緩和されていました。しかも地上は停電です。天体観測にはもってこいの状態なのでした。天の川がはっきり見える訳です。これには感動しました。続きは次回にさせて頂きます。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!【おまけ】遊就館の映画の出だしのナレーション昭和16年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を攻撃しました。大東亜戦争の始まりです。この開戦の意味を詩人の高村光太郎はこのように書き綴っています。黒船以来の総決算の時がきた。民族の育ちがそれを可能にした。長い間小突き回されながら、舐められながら、搾られながら、仮装舞踏会まで敢えてしながら、彼らに学びうる限りを学び、彼らの力を隅から隅まで測量し、彼らのえげつなさを満喫したのだ。今こそ古に還り、源に遡り、一瀉千里の奔流となり得る時が来た。黒船来航以来、自重を重ねながら、多くの犠牲に耐え、自主独立を貫いてきた日本。大東亜戦争はその総決算であると、高村光太郎は詩に託しました。何が総決算だったのでしょうか。
2006/11/11
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今回は主体思想塔周辺をレポートします。「主体思想(チュチェサーサン)」とは何か…。あまり北朝鮮以外では聞いたことがない思想です。渋い思想です。渋すぎて声も出ません。これが主体思想塔です。大同江のほとりに燦然と聳え立っています。金日成主席の革命業績と誕生70周年をたたえて1982年に建設されたもので、高さ170メートルあります。 党 → 塔 にかかれているハングルはチュチェです。主体という訳ですね。 →12日に更に変換ミスが発覚…。 →ご指摘ありがとうございました。では、早速「主体思想」を早速ご紹介しましょう。特徴的なドグマを引用します。<革命的首領観>革命と建設の主人公は人民であり促進する力も人民大衆側にある。したがって革命と建設の主人公である人民は必ず 狩猟 → 首領 の指導を受けねばならない。首領は頭であり 等 → 党 は胴体であり人民大衆は手足と同じだ。頭が考えたとおりに動かねばならない。頭が無いと生命は失われる。したがって首領の権威は絶対的でありすべての人民大衆は無条件に従わなければならない。 →また変換ミスをやってしまいました。 →ご指摘ありがとうございました。<社会政治的生命体論>肉体的生命は産みの親が与えるが政治的生命は首領が与えるもので首領は生命の恩人であり父と同じだ。したがって父の間違いで家が傾いたといって父を代えることができないように首領を代えることは出来ないのだ。全人民は団結して無条件に忠誠を捧げなければならない。どうです??。非常にディープでしょ?。なんでもかんでも理由なく無条件に徹底的に断固としてチャングンニムマンセー(将軍様バンザイ)なのです。こんなノリですので、正当な「科学的社会主義」とは全く相容れない思想になってしまいました。本で読んだ話なので本当かどうかは定かではないのですが、北朝鮮ではマルクスやレーニンも焚書坑儒の対象になっているようです。まあ、金正日体制から見たら、共産主義は危険思想でしょうね。朝鮮民主主義人民共和国と名乗っていますが、民主主義とは最も対極にある政治体制なのです。主体思想塔の前に佇む銅像です。世界最初の共産主義国家を作り上げたボリシェビキ(後のソビエト共産党)のマークは鎌トンカチでした。東ドイツの社会主義統一党(ドイツ共産党がソビエト占領地域の社会民主党を吸収合併した政党)のマークは分度器とコンパスと麦の穂でした。北朝鮮の朝鮮労働党のマークは鎌とトンカチと筆なのです。この銅像は朝鮮労働党のマークのいわれを示しているのです。主体思想塔と非常によくマッチしています。さて、先ほどは主体思想の特徴的なドグマをご紹介しましたが、今度は朝鮮労働党の極めて重大な原則で、北朝鮮では「教育勅語」のように暗誦されている「党の唯一思想体系確立の十大原則」もきています。面白いので全文引用しましょう。われわれは偉大な首領金日成同志が指導される栄光の時代、金日成時代に生き、たたかっている。人類が生んだ革命の英才であられる偉大な金日成同志を首領に戴いていることは、わが党と人民の最高の栄誉であり、最大の幸福である敬愛する首領金日成同志は、人類解放の救いの星であり、世界革命と国際共産主義運動の偉大な指導者である。首領は偉大なチュチェの旗印のもとに、わが人民を歴史上はじめて自主の道へと導くことによって、抑圧されていた世界のすべての国、すべての民族を隷属と不平等に反対し、独立と自主、平等のために勇敢に奮いたたせ、帝国主義に反対し社会主義、共産主義をめざす人民の闘争の行く手を明るく照らし、世界革命と国際共産主義運動を勝利へと導いているすべての党員と勤労者は、敬愛する首領を永遠に高くおし戴き、首領にあくまで忠誠を尽くし、全党と全社会を偉大な金日成同志の革命思想で一色化する歴史的偉業を輝かしく遂行するため、次のような党の唯一思想体系確立の十大原則を徹底して守らなければならない一 偉大な首領金日成同志の革命思想で、全社会を一色化するために命を捧げて闘争しなければならない二 偉大な首領金日成同志を忠誠をもって高く仰ぎ奉らなければならない三 偉大な首領金日成同志の権威を絶対化しなければならない四 偉大な首領金日成同志の革命思想を信念とし、首領の教示を信条化しなければならない五 偉大な首領金日成同志の教示の執行において、無条件性の原則を徹底して守らなければならない六 偉大な首領金日成同志を中心とする全党の思想意思的統一と革命的団結を強化しなければならない七 偉大な首領金日成同志に学び、共産主義的風貌と革命的活動方法、人民的活動作風を所有しなければならない八 偉大な首領金日成同志から授かった政治的生命を大切に守り、首領の大きな政治的信任と配慮に高い政治的自覚と技術により、忠誠をもって報いなければならない九 偉大な首領金日成同志の唯一的指導のもとに、全党、全国、全軍が一体となって動く強い組織規律を確立しなければならない十 偉大な首領金日成同志が開拓された革命偉業を、代を継いで最後まで継承し完成していかねばならない凄い。凄すぎる。凄すぎます。うううう…、美味しすぎます。この北朝鮮に比べれば、この前ご紹介した遊就館などお子様ランチです。これが思想なのか…、と思ったあなた………、私も同感です。このような思想を信奉する人々が世界には沢山居るようで…、こんな石のプレートが主体思想塔の基部にはめ込まれています。日本金日成主義研究会なんというのもありました。どこに存在するのかしら…。基部の脇にはこのようにもくらん(木蘭、北朝鮮のかつての国花、現在の国の花は「金日成花」と「金正日花」、南の国花は無窮花〔ムグンファ〕)の花らしきものが彫刻されておりました。目を転じると大同江に噴水があがっております。これもスイス辺りのパクリ臭いですけどね。別アングルです。人々が集まっていますが、これは朝鮮労働党創建55周年記念行事のマスゲームの練習をしている人々です。流石はマスゲーム社会の北朝鮮です。主体思想で統制が行き届いているのでマスゲームは得意中の得意です。マスゲームは社会政治生命体論を体現したものですな。もう一枚です。日本が建設した朝鮮鉄道(正確には朝鮮総督府鉄道局)の鉄橋が美しく佇んでおりました。下手な写真です。恥ずかしいです。主体思想塔から正面方向を撮影したものです。外国人観光客が女性ガイドの説明を受けています。真正面の建物は人民大学習堂です。ここからは説明抜きで主体思想塔からの大パノラマを銀塩写真でお送りします。この写真群は勿体無いので縮小をかけずに生のサイズで掲載します。メーデースタジアムですね。左奥に見えるのが革命烈士の墓です。万寿台です。中心の建物が国会議事堂に当たるものです。その前に有名な金日成銅像があります。かつての有名冷麺店の玉流館です。2000年には味が落ちたと言って連れて行ってもらえませんでした。2000年現在は高麗ホテルの食堂の冷麺がベストと言われました。超有名廃墟の柳京ホテルですね。噴水と虹です。実に計算されたデザインの町なんですね。4・15文化会館ですね。人民大学習堂です。中央のツインタワーが高麗ホテルです。平壌駅もこの近くにあります。羊角島ですね。中央のホテルが羊角島(ヨンガクド)ホテルです。このホテルの地下にはカジノと売春コーナーがありました。続きは次回にさせて頂きます。しかし…、どうですか、この景色。この景色から劇場国家というシリーズ名を考えました。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/10
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北朝鮮シリーズの4回目です。くどいようですが、誤解を防ぐために毎回お断りしますが、この旅行は2000年に実行したものです。そういう訳で過去旅行とテーマに記載しています。それにしても第1回と第2回にたくさんのコメントを頂き皆さんありがとうございました。こんなに反響があるとは思いませんでした。しょうもないブログなんですけど…。3315hahaさんからのコメント近くて遠い国に2000年に行かれていたなんて、とても貴重なレポートです。NHKの深夜のドキュメンタリーで、でっち上げの英雄像を取り上げていました。国内外で信じた多くの気の毒な人々がいたと思うと、作られた歴史の危険性は、前回レポートでの靖国の狭い史観と重なります。儒教思想の影響か何か知りませんけど、南北共に為政者は歴史を書き直す権利があると考えているようです。北の歴史の改竄及び捏造は大したものがあるのですが、私が行った時には流石に外国人には恥ずかしいことは言わなくなっていました。金剛山密営(金正日が生まれたことになっている場所、本当はソビエト労農赤軍の営舎で生まれたのは有名な話)とかには連れて行ってくれませんでした。修理屋マイスターさんからのコメント貴重な画像ですね。数年後、この国はどうなっているのか?。興味があります。私の旅行のモチーフは正にこれでした。この当時も北朝鮮の経済は破綻状態で、国家体制が崩壊してもおかしくないと感じられたのです。南北統一がなった後の韓国の片田舎に成り下がった平壌ではなく、金正日時代の平壌を見たかったのです。世界最強の欺瞞都市をとくと拝見したかったのです。darling.さんからのコメントいやーすごいです。よく空港で写真が取れましたね。フィルムを没収されなくて良かったですね。私はインドのカルカッタの空港で写真を撮ってしまい、フィルムをカメラから抜かれました(涙)空港ではガイドがいない中での突撃撮影でヒヤヒヤでした。入国後は撮影時は例外なくガイドに可否を質してからシャッターを切りました。maman.mさんからのコメントわずか6年前ですが、まだまだたいへん怖い時、思い切ったものです。考えようによっては戦時下の国へジャーナリストとして行くよりも怖い・・。金賢姫(あの、ちょっと恥ずい題名の自伝)、私も出版時すぐに読み、たいへん衝撃を受けました。教育の怖さを真に感じたのは、日本の戦時のものよりも、むしろ彼女の本。そして「萌え萌え」、たいへんよく分かります。私でさえでしたし、私の本を持っていった弟は、とうとう返してくれませんでしたww「今、女として」でしたっけ、面白かったです。上巻が北朝鮮特権階級の一員としての少女時代、下巻が公務員テロリストとしての訓練と作戦の回想でした。彼女が出演しているビデオも買いました。北朝鮮のテレビ放送を金賢姫(キムヒョンヒ)が解説するのもで、面白かったです。まだ実家にあるかなあ。案山子の屁さんからのコメント北朝鮮のレポートとは凄いですね、期待します。平壌飛行場の飛行機はロシア製ですよね、ボーイングに比べ何か懐かしい感じがしますね。ロシア製ではなく、ソビエト社会主義共和国連邦製のIL86のようです。労働者階級の航空会社は物持ちが良いようです。ジェット第1世代と第2世代の中間くらいの機材です。707やVC10の味わいがありました。のごめさんからのコメント貴重なものを見せていただきありがとうございます。するどいですね。私が旧東独や旧東欧で見た銅像にそっくりです。スターリン時代のソビエトの影響なのですね。ほほう、とがってんしました。スターリン時代のように特定の指導者を絶対化する場合は、指導者以外は皆平等に無名な平民と言う扱いをしないといけなくなるんですね。スターリン時代の第二次世界大戦を描いたソ連映画はみんなこういう感じの作風でした。キャラクターをわざと立てないんですね。ヒデオ1999さんからのコメント さすがです!。オリンピック前の韓国でも、「こっち向きは撮ってもいいけど、あっちにカメラ向けないように!」などと言われていましたが、ソウル駅でさえ写させてもらえなかったのです。北朝鮮の貴重な映像楽しみにしています。懐かしいですねえ。あの頃の韓国は戒厳令下で、夜間外出禁止令があったり民間防衛訓練があったりして面白かったです。ソウル市内に陸軍部隊がいて迫力もありました。MoToDAMMさんからのコメントどうでもいいことですが、世界青年学生祝典には当時、日本共産党に所属していた友人が参加しておりました。へえ、知りませんでした。我が国の共産党は、社会民主主義の第2インターの系譜を持たない、第3インター肝いりで創設された「由緒正しき共産党」でした。日本共産党なんて言い方になったのは水分後のことで、創建時の名前は「コミンテルン日本支部日本共産党」で、ソビエト共産党の一部であったのです。朝鮮労働党もソビエト肝いりで作られた組織で、言わば朝鮮労働党と日本共産党は兄弟の関係にあったのです。しかしながら、本家ソビエト共産党がフルシチョフ政権になって雪解け路線を歩むようになると、各国共産党はバラバラになってしまい、兄弟関係は消滅し、日本共産党と朝鮮労働党の良好な関係は消滅し、代わって日本社会党が朝鮮労働党と極めて近しい位置を占めるようになりました。そんな訳で、共産党員の方が参加したというのは、へー、なのです。党の指令で参加したのか、勝手に参加したのかは分かりませんけど。その他、福 禄寿さん、大西俊郎さん、あめふりんさん、シンディcynthiaさん、tinyあきこさん、杏姫☆さん、金の像さん、セレブスタイルな旅・豪華客船クルーズさん、ibukino-johさん、高島平さん、杏姫☆さん、くれぶたくんさん 、カニの床屋さん、あきら1963さん、マスタークライトさん、マービンガーデンさん、コメントありがとうございました。さて、本題に入ります。地下鉄です。韓国では地下鉄のことをチハチョルと云います。北朝鮮ではチハチョルド(地下鉄道)と呼びます。南北で表現が違うものは沢山あります。1960年代の建設でエスカレーターで深く深く潜っていきます。この時代には南北の力は概ね拮抗しており、競争意識が非常に高まっていました。ソウルで日本の建設により地下鉄が開通すると、平壌ではチェコの技術で地下鉄が建設されました。地下鉄路線図です。2路線走っているようです。現在のソウルの地下鉄はもう物凄い発展で私も路線図を把握できないくらいですが、平壌の地下鉄は純朴でした。それにしても韓国の地下鉄好きは病的です。あれほど複雑怪奇でサービスエリアが大きな地下鉄(というか地下鉄+電鉄線といわれる直通乗り入れ区間)網は中々見たことがありません。地下鉄構内です。宮殿のような駅を建設すべしという金日成命令があったらしく、凄い装飾でした。装飾を剥ぎ取ると、高い天井と広い島式ホームになります。御堂筋線の開業時の駅に近い感じがします。余談ですが、大阪市営地下鉄は昭和8年にあんな駅を作ったのが凄いですよね。東京では銀座線しか走っていなかった時代です。銀座線の駅の狭さに比べて御堂筋線の駅の大きさたるや…。あの時代の大阪の経済力の強さなんでしょうか…。4両編成で運行されているようでした。こんな車輌です。デザインはちょっとレトロ調です。製造国はチェコのようです。バックミラーがついているのがお洒落です。この車輌で一駅移動しましたけど、車内放送はありませんでした。暗くて撮影できませんでしたが(この当時のデジカメではどうにもなりませんでした)、クロスシートでした。この辺りはヨーロッパの雰囲気でした。各車輌に金日成の写真と金正日の写真が掲げられていました。女性駅員です。日本の鉄道文化であれば駅員は赤と緑の旗を持つのですが、この国ではこのような赤丸付きの棒を持っていました。こうして一駅だけの地下鉄乗車はお終いになりました。鉄たる私は楽しかったのですが、そうじゃない普通の外国人観光客はどう感じるのでしょうか…。1960年代にはアジアで地下鉄が走っている国は珍しかったのですが、2000年には地下鉄が走っていない国のほうが珍しくなっていました。これを見て感激すると思っているのかなあ…。次回は主体思想塔をご紹介します。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/09
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続きです。ピョンヤン市内観光での撮影分をご紹介いたします。万景台の金日成生家です。北の聖地中の聖地で外国人観光客は必ず訪れることになります。嫌がってもだめです。ガイドに連れて行かれます。金日成は平壌の貧しい家庭に生まれ、家族と共に満州に移住したと言われています。金日成の家族の写真が掲げられています。満州で金日成は中国共産党に入党し、抗日活動に従事したと言われています。この抗日活動に従事した金日成と北朝鮮の支配者であった金日成が同一人物か否かについては諸説があります。北朝鮮の支配者であった金日成には弟がいましたが、ここに写真は無いようでした。弟の名前は金英柱(キムヨンジュ)と云います。当時の朝鮮の命名法では、兄弟は一文字を共通にしました。例えば金日成の子供は、金正一(現在の金正日)、金平一、金英一というようにです。北朝鮮の支配者であった人物の名前は金聖柱が本名で、金日成は一種の芸名であったという説もあります。この辺のストーリーはソビエト崩壊後に結構出てきましたが、色々な人が色々なことを言うので今一つはっきりしません。北朝鮮に置いては「金日成」一家が聖家族化されていまして、金日成の生まれたこの場所は、北朝鮮最高の聖地となっているようです。ガイドの態度は微妙でした。かれらは外国人がトゥルー金日成ストーリーを知っていることが分かっているので、説明は歯切れが悪く微妙な雰囲気でした。ガイドが心から金日成ストーリーを信じているか否かは分かりませんでしたが…。横から見た聖地です。はっきり言って面白くも何ともないところなので、手早く切り上げてもらいました。ちなみにこの場所は紙幣にも刷られているし、切手にもなっていました。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/09
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皆さんコメントありがとうございました。今日は消耗してまして、お返事は明日にさせて頂きます。今回も2000年の北朝鮮旅行の続きをレポートします。前回は平壌の順安空港に到着したところまでレポートしました。本題に入る前に北朝鮮への渡航手続きに関して若干説明させていただきましょう。当時も今も北朝鮮に旅行するためには北朝鮮の国家観光委員会の代理業務を行っている旅行代理店に、渡航の一ヶ月前までに申込みを行うことが必要です。北朝鮮のビザ取得に一ヶ月かかるからです。渡航には条件があってマスコミ関係者はだめと言われました。ブログ作者もダメなんですかね。国内の北朝鮮マニアは在日の方が経営する代理店に申込むケースが多かったようです。パッカー系の方は中国で申込むケースもあるようです。最初の画像は凱旋門です。パリの凱旋門にそっくりであまり評判は良くないのです。誰の凱旋を記念するものか?、もちろん金日成です。北朝鮮の公式な歴史では(公式ということは必ずしも真実ではありません、以下このシリーズ共通の注釈)、金日成は少年時代に生家のある平壌を離れ、満州国内で抗日パルチザン活動を展開し、1945年に平壌に凱旋したことになっています。ガイドが高さは20何メートルでこれは金日成のパルチザン活動の年数を示すものだとか、石は40000何個か使っていて、これはパルチザン活動の日数を示すものだとか何とか言ってましたが忘れました。今行ったら得意のボイスレコーダーでばっちり録音してるでしょうけど。この凱旋門は空港から市内に進む途上にあるようで、定食コースに組入れられているようでした。この建物は北朝鮮の地下鉄の駅です。地下鉄構内は後の回でご紹介します。とにかく深い深い地下鉄でした。一応エスカレーターが付いているのですが、これが非常に速かったという印象が残っています。北朝鮮にハイパーインフレが発生する前でしたので運賃は非常に安く、1人民ウォンでした。次に連れて行かれたのが、人民軍の烈士広場と言う感じの場所でした。北朝鮮お得意のモニュメントなんですけど…。こんな感じのだだっ広いコンクリート広場にモニュメントが並んでいました。韓国の戦争記念館にあった戦士像に似てます。こういうところの作風はスターリン時代のソビエトの影響を強く感じます。ヒーロー不在で無名の戦士がたくさーん出てくる戦争映画のノリに近いものを感じました。広場の入口です。背景のビルディングと見事に調和しています。恐らく偶然ではなく計算の上で建築したものだと思います。よくも悪しくもこの街は計算されつくしたデザインが随所に見られます。無秩序な開発の対極でデザインされ尽くした都市なのです。劇場国家と言われる所以はここにあります。アドルフヒトラーが夢見た帝国首都のゲルマニアもこんな感じになる筈だったのでしょうか?。第三帝国ではシュペーアの名前は非常に有名ですが、北朝鮮では都市設計者の名前は明らかにされていません。大した力量を感じるのですが。柳京ホテルです。柳京とは平壌の別名です。1989年の平壌市での世界青年学生祝典開催に向け建設が進められた世界で一番高いホテルになるはずであった建造物です。このホテルの建設は失敗に終り、建築作業も途中で放棄されました。世界青年学生祝典は1988年のソウルオリンピックに対抗して国力に見合わない規模で開催が強行され、この国の大きな負担になったと言われています。世界最大の廃墟ですね。取り壊すのも難しいようで無残な姿を20年近く晒しています。廃墟マニア垂涎でしょうね。翌朝のホテルの窓から撮影したものです。トロリーバスがガンガン走っていました。ピョンヤン市内では市外電車も自動車も殆ど目にしませんでした。市民の足はトロリーバスのようです。もう一枚です。柳京ホテルの姿が無気味に浮かんでおりました。この日は平壌市の市内観光に出かけます。北朝鮮マニアには余りにも有名なスポットの金日成生家から観光が始まります。続きは次回にさせて頂きます。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/08
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前回までの遊就館レポートはいかがでしたでしょうか。青春18きっぷの鉄モードをすぱっと断ち切って新章に入りたかったので、敢えてきついところをレポートしました。もう一つの候補の日帰り東京湾横断鋸山は別の機会にご紹介いたします。さて、このブログを始めたのは2004年の年末のことでした。ブログ開始の前も後も好きな旅行を腹いっぱい楽しんでいます。ブログ開始以降の旅行は少数の例外を除いて全部ご紹介しました(過去の旅行先はこちらに)。現時点で未報告の旅行は3本(東北縦断・スペイン・呉)もあってネタが過剰なのですが、今回からは2000年の9月に実行した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)旅行をレポートします。1980年代から北朝鮮には目を付けていました。物凄い国だと思っていました。古い名著の「凍土の共和国」から読み始め、金賢姫(キムヒョンヒ)の自伝でもう萌え萌え~になってしまったのです。ポルポトの民主カンボジアにも匹敵するワンダーランドがこんな身近にあると。そこで一念決心し、北朝鮮への一人旅を試みたのです。なお、2000年のデジカメで撮影した写真ですので、今までの日記から見ると歴然と品質は劣ります。お許しください。当時も今も北朝鮮への直行便は運行されていませんでした。マンギョンボン号には在日の方しか乗れませんでし、第三国を経由してしか渡航できないのでした。私は中国経由にしました。この画像は中国国際航空のビジネスクラスです。この飛行機で北京に向いました。朝の北京です。北朝鮮行きの飛行機は北京を午前中に出発します。このダイヤの関係もあって、北京に一泊せざるを得ないのです。北京に一泊して、ビザを在北京北朝鮮大使館で受取り空港に向うことになります。この怪しげな建物が北朝鮮大使館です。中は当然写真撮影禁止です。ここで手帳式のビザを受領し平壌に向うのです。出入国のスタンプはビザに押印されますのでパスポートに出入国の証跡は残りません。ベイジンでのランドをやってもらったガイドの催さんです。朝鮮系の中国人です。余談ですが、中国と北朝鮮には領土問題がありました。現在の北朝鮮と中国の国境は、かつての清国の時代から見ると随分と北朝鮮に寄っています。言い換えれば、かつて朝鮮が支配していた地域が中国に組み込まれているのです。朝鮮民族が住んでいる自治区が中国に出来てしまったのです。この地域は日本時代には間島省と呼ばれていました。ただし、中華人民共和国建国50年余りを経て中国人の転入が激しく、朝鮮民族の自治区という色合いは相当薄まっていると言われています。北京首都空港の高麗航空のチェックインカウンターのお姉さんです。胸にはあのバッジが…。もう気分は北朝鮮です。このチェックインが遅いのです。全然進まないのです。実に酷いオペレーションでした。いよいよ飛行機に乗り込みます。もう後戻りできない…。世界に冠たる権威主義国家へ出発です。この段階で既に鬱…。大丈夫かなあ…。2時間くらいの飛行で、平壌に到着しました。余りにも有名な平壌順安空港でございます。小泉首相が降り立ったこの地に私は立ったのでした。銀塩カメラで撮った空港風景も載せておきます。6年前の私は写真が本当に下手糞です。もう見ていられないですね。恥ずかしいです。ほんと。ちなみに横長なのは、当時まだ息を永らえていたAPSを使っているからです。次回から平壌市内をレポートします。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/08
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前回の続きです。この博物館の戦前全面肯定は物凄いのですよ。いつも映画をやっています。大体の場合は「私たちは忘れない」というのがかかっています。これは凄い。凄すぎます。盧溝橋事件以来の中国での我が軍の行動を完全に正当であったと主張し「腰の軍刀は竹光かという日本人居留民の涙の訴えにも、私たちは本国の命令がなければ動けませんと答えざるを得ませんでした。しかし堪忍袋の緒が切れる時が来たのです。」というナレーションが入ります。すげえ…。更に更に「真珠湾攻撃はABCD包囲網に締め上げられた日本の自存自衛のための止むを得ないもの」と説明します。まあ、こういう認識は相当な部分的を射ている訳ではありますが、人前で堂々と語るのは中々努力が要りますよね。でも、なんか共感できないのです。あれほどの徹底的な敗北への反省が全然ないのです。現実主義者を自認する私としては、「日本人は悪いことをしたから戦争に負けた」的な戦犯史観には断固同調いたしませんが、敗北への無反省にも共感できません。なぜあの戦争に負けたのか?、勝ち目は最初からなかったのか?。勝ち目が無かったのなら、なぜ分からなかったのか?。負けると分かれば開戦を避けられなかったのか?。戦争を始めざるを得なくなったのはどこの時点か?。どうすれば勝ち馬に乗れたのか?。このような疑問を徹底的に解明し、二度とあのような惨めな敗戦を味わわなくて済む国を作らねばならないなあ、と思うのです。この遊就館の展示にはこのような問いかけが全然ないのです。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと申しますけど、誤った事実認識をもってしまいそうです。戦争博物館を名乗るのであれば、旧日本陸海軍のどの戦術が有効で、どの戦術が効果なしだったのか、どの兵器は有効で、その有効性はどのようにして喪われたのか、などを説明して欲しい。更に言えば、その反省が現在の自衛隊にどのように活かされているのかを国民に平易に説明して欲しいのです。想像するに現在の自衛隊の組織は旧軍の敗北を徹底的に反省した成果だと思うのです。自衛隊の建軍思想そのものが大東亜戦争の苦い敗北への反省だと感じているからです。その結果、我々納税者は割と健全な軍隊(割とですよ)を保有することができていると感じています。そんなことを思いつつ、本題に入ってまいります。最初にご紹介する兵器はこの桜花です。この物体は兵器と読んでよいのか自信がありません。航空機の形状をしていますが、航空機にMUSTの要素がありません。降着装置を持たないのです。日本海軍の中型爆撃機に吊られて出動し、空中でロケットエンジンに点火し、操縦士を乗せたまま敵艦船に突入するというものです。兵器と言うと、銃砲を思い浮かべますが、これは弾丸に近いものです。人間爆弾と言われました。その上、戦果は非常に小さく確認できたものは殆どありません。かの有名な野中五郎が率いる神雷隊として中型爆撃機(旧軍の用語では陸上攻撃機)に吊られて出撃しましたが、桜花は当然として爆撃機も全機未帰還となったと言われています。以前、沖縄での神風攻撃をご紹介しました。米軍にそれなりの被害を与え(神風で何隻もの艦船を行動不能にしました。確実に沖縄県民の犠牲を減らしたのです。軍人が市民を守るという基本原則が貫徹されたのです)、戦術上の意味を持った攻撃になりました。しかし桜花は戦果がないも同然でした。犬死と言わざるを得ないのです。桜花で戦死した方はなんと思っておられるか…。このような兵器企画がなぜ採用されたのか…。言わずと知れた、零式艦上戦闘機、またの名をゼロ戦です。戦争末期に使われた52型です。この形式も戦争初期には、熟練搭乗員に操られ赫々たる戦果を挙げたものの、昭和18年頃には敵戦闘機の性能向上と搭乗員の練度向上により、戦果を挙げられなくなっていきます。後継戦闘機の開発には失敗し、本形式に改良の余裕もなく、徒に犠牲を増やして行きました。英国も第三帝国も主力昼間戦闘機は2形式で頑張りました。スピットファイア&ハリケーン、Bf109&Fw190系列です。これらの系列は1930年代後半に登場し、戦争中絶え間なく性能向上を図っていきました。「発達余裕」があったのです。コンピューター言葉で言うとヘッドルームがあったのです。機体とエンジンに余裕があって、兵装の増設や発動機の換装によく耐えました。残念ながら私たちの祖先が作った戦闘機には、この余裕がありませんでした。細くて、美しい機体です。哀しい機体です。昭和17年には無敵に近い戦闘機であったものが僅か1年で有効性を喪ってしまうのでした。戦場における兵器の優位性などというものは陽炎のように儚いものでした。当時の日本軍は中々これを理解することが出来なかったようです。残念です。敵が新しい武器と戦術を戦場に持ち込んでくる以上、同じ兵器と同じ戦術ではよほどの兵力差が無い限り優位を保つことはできません。艦上爆撃機(急降下爆撃機と思ってください)の彗星です。ほっそりしたエンジンカウルです。水冷発動機を搭載した機体でした。残念ながら開発に手間取り過ぎました。戦局に間に合わず、日本海軍は古くて遅い九九式艦上爆撃機で戦わざるを得ませんでした。技術的に冒険し過ぎたということなのでしょうか…。自らの技術的な限界を自覚し、手の届く技術で着実な製品を作る、というスタンスが欠けていたのでしょうか…。日本製とは思えないデザインです。イタリア製みたいな感じですね。九七式中戦車です。「憂鬱な乗り物」だったと聞きました。当時の米軍の戦車はM4が主力でした。装甲・主砲・機動力とも全く敵主力戦車に敵いませんでした。我が国の技術的な孤立がこのような兵器の存在を許してしまった、と戦車設計技師のかたが書いているのを読んだことがあります。ちなみに、この車輌はサイパンで海中から引き揚げられて持ち帰られたものだそうです。満州で使ったとしても、労農赤軍の主力戦車のT34には全く歯が立たなかったでしょうね。漫画「特攻の島」で有名な人間魚雷回天です。こんなものまで作らねばならなかったのです。声も出ません。私が戦争博物館を設計するならば、同時代の米英の兵器も並べて展示するでしょう。韓国の戦争博物館やベトナムの戦争博物館やハワイの陸軍博物館に行ったことがありますが、敵軍の兵器をきちんと展示していました。祖国の先人を批判するのは辛いことですが、米英の兵器と我が軍の兵器を並べて展示し、比較できるようにし、何故我々が勝利をつかめなかったのかを理解できるようにします。一方的に我が国の兵器だけを並べて、よく戦ったと主張しても、教育にならないと思うのです。更に、戦場での敗北からどのような教訓を引き出したかを説明します。私たちは60数年前に戦場で手酷い敗北を喫しました。この敗北からの反省と教訓が戦後の軍備のみならず産業にも活かされています。戦後の経済成長の重要な要素がここにはあると思っています。兵器とは工業力だからです。そんな博物館を作って欲しいですねえ。インターミッションはこれでお終いにします。次回からは、旬なので、昔の北朝鮮旅行の画像をご紹介してみようかなと思っております。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/07
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長い長い「青春18切符」シリーズを終えて直ぐに次のシリーズに入る気にもなれないので、インターミッションを入れます。交通博物館・寄生虫館・東海村の原子力関係の博物館に引続いての都内の博物館レポートです。名前は「遊就館」と云います。非常にディープなスポットです。この博物館は東京千代田区九段北の靖国神社の境内に設置されています。首相が参拝するしないで散々揉めているあの靖国神社の境内にあるわけなんです。そもそも靖国神社とは、単なる村の鎮守様ではありません。明治維新の際の戦死者を祭るために創建された特別な神社でした。この神社に祀られている神様は戦死者(戦病死や法務死を含む)の方々なのです。靖国神社自身の自己紹介を引用します。<引用始め>靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建された。初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。 <引用終り>こういう神社なのです。このような歴史的な背景もあり、この神社は1945年までの我が国の歴史を肯定的に取る傾向があります。また、東京裁判をはじめとする戦犯裁判で処刑された人々も、日本軍人としての公務執行に起因する法務死として、戦死者と同様に祀っています。特に話題になるのはA級戦犯と言われる人々も合祀していることです。A級戦犯と言われる人々は、法律的には犯罪者とは言えない存在であり(日本法に基づいて公務についただけと言う訳です)、更には国会での「犯罪者ではない」という決議もあり、靖国神社では、東条英機元首相をはじめとするA級戦犯も合祀しているのです。これが色々な面で争点になってしまいます。私個人の意見としては、彼らは犯罪者ではなかった。しかしながら、今日的な視点では十分に有能ではなかった、と思っています。余りに純粋で無知で国際関係を理解していませんでした。彼らの拙い指示の結果として、余りにも無意味な戦闘を繰り返し、無意味に人命を消耗したと考えています。ガダルカナルで戦うことになんの意味があったのか?、何ゆえ台湾沖航空戦を始めとするあれほどの虚偽戦果に疑いを差し挟まずに兵士を死地に送ったのか?。負けるにしてももう少し戦い方というものがあって然るべきではないか、と思ってしまうのです。これが日露戦争を戦ったのと同じ国家だったのでしょうか…。司馬史観に相当影響を受けてますけど。本題に戻りましょう。これが遊就館の本館です。一目で古い建物であるとわかると思います。もちろん戦前の建物です。遊就館は、事実上、日本唯一の戦争博物館です。日本には平和記念館は数多存在しますが、先の大戦への反省ではなく、先の大戦に至る歴史を正面から肯定して展示している博物館は恐らくここしかないと思います。早速ですが彼らの自己紹介を引用します。<引用始め>明治15年我が国最初で最古の軍事博物館として開館した遊就館は、時にその姿を変えながらも一貫したものがあります。一つは殉国の英霊を慰霊顕彰することであり、一つは近代史の真実を明らかにすることです。近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館のもつ使命であります。<引用終り>「近代史の真実を明らかにする」とあります。これが現代日本では必ずしも一般的ではない歴史観の主張を意味すると思われます。ある意味で、非常に少数派の博物館なのです。鉄筋コンクリートに和風の屋根を載せています。このような様式を帝冠様式と云います。昭和の初期に良く見られた建築様式で、国内では余り残っていませんが、3月に台湾に出かけた際にはやたらと目にしました。九段近辺には旧帝国陸軍関連の施設が残っています。例えば九段会館はかつての軍人会館でした。この建物も帝冠様式です。226事件の際に戒厳司令部が設置されたところですね。そのうち撮影に出かけたいと思っておりますが…。言い忘れておりましたが、この建物は昭和7年の竣工だそうです。戦後は、靖国神社が財政的にどうにもならなくなったこともあり、富国生命の九段本社として長く使用されたそうです。富国生命移転後に遊就館として復活したと言う訳です。こちらが入口です。非常に美しいガラス張りの建物です。こういう風景を見ると、余り戦争博物館という感じがしないですね。某政党の機関紙はこの風景を評して『「遊就館」の玄関ホールは、ガラスから差しこむ陽光で明るさいっぱい。「戦争」の悲惨なイメージはいっさいぬぐい取られた現代的な装いです。』と表現していました。なかなか上手い表現ですね。この奥が玄関ホールです。この遊就館は所蔵品も凄いのですが、問題は、戦前全面肯定なんです。これは流石の私も「ううっ」と思ってしまう程です。でも、まあ、こんなお話は置いておいて、中に入ってまいりましょう。ドーン、C56蒸気機関車です。私のブログなんで、やっぱ鉄道が出てこないと…。良いですねえ、蒸気機関車は。保存状態はまあまあです。全然油を挿していないようで、レストアして走行するのは難しそうです。このC56は微妙な形式です。テンダ式の割にはボイラー径が小さいです。航続距離はあるけど軸重は小さいというのが狙いなんでしょうね。C56-31号機のプレート類です。日本車両の名古屋工場製です。製造年は昭和11年です。所属には「七」と入っています。七尾機関区所属ということを表しています。上側のプレートは鉄道連隊のマークのようです。この蒸気機関車は帝国陸軍に徴用され南方に転出し、泰緬鉄道で使用されたものだそうです。戦後もタイ国有鉄道で活躍し、1970年代に廃車されたものを日本に持ち帰ったそうです。「戦場に架ける橋」の世界です。クワイ川マーチの世界です。案内プレートの説明文を引きます。捕虜虐待や現地住民の犠牲にに関する記述がない辺りが遊就館らしいです。<引用始め>昭和17年6月、日本軍はビルマ・インド進行作戦の陸上補給を目的に、タイ(泰)のノンブラドックからビルマ(緬)のタンビザヤの最短距離、415キロの区間で鉄道建設を開始した。工事は日本の国鉄規格を基本にして、鉄道第五、第九連隊を中心に連合軍捕虜や現地住民など約17万人が従事し、1年3ヶ月という驚異的な速さで、昭和18年10月に開通した。この区間はかつてイギリス軍が建設を構想したが断念したもので、険しい地形と過酷な熱帯気候などの悪条件のもと、敷設は困難を極めた。<引用終り>残念ながら運転台には入れません。どんな改造がなされているか見たかったのですが…。炭水車の連結器です。自動連結器じゃありません。海外搬出時にこのような怪しげな連結器に取り替えられてしまったようです。機関車の連結器も同様でした。このタイプの連結器は自動連結器に比べると分割併合時の事故が多くて好ましくないのですが、外国で使用するのであれば止むを得ません。それにしても、この機関車はメーターゲージなのか1067ミリの狭軌なのか…。こんな配置になっていました。左にC56、右前方に零式艦上戦闘機、右手前に加濃砲が展示されていました。今回はこの位にします。他の所蔵物は次回にご紹介します。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/06
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長い長い「夏の青春18切符」シリーズも今回でお終いにします。121回にもなってしまいました。8日間の日程でしたが、非常に長いレポートになってしまったのは、夜行列車を使い倒して効率的に移動したからなんでしょうねえ。でも、当分は普通列車や快速列車には乗りたくないなあ。次は三連休パスか何かで思う存分新幹線や特急列車に乗りたいです。今回ご紹介する画像の大半は資料画像です。この第4旅程で使用したチケットを中心に、福岡空港に居た時にカバンに入っていたチケットを全部撮影してみました。最初にご紹介する券面は、この「青春18きっぷ」です。我ながらしつこく使いました。この1枚でどれだけ乗ったことかしらん。お世話になりました。ちなみに改札印は、土讃線の阿波池田駅、ムーライトながらの車内改札印、鹿児島本線の小倉駅、東海道本線の横浜駅、山陽本線の岡山駅でした。下り本行程で使ったムーンライトながら91号喫煙席です。プラチナチケットでした。姫路→岡山間(関西を迷走していた時に新幹線にも乗ってました、報告してませんでした)で使った山陽新幹線のVM券です。この旅程唯一のMV券でした。高松→岡山間のマリンライナーの指定席券でした。マリンライナーも凄い号数になりますよね。在来線で号数が凄いのは、特急なら雷鳥&サンダーバード、快速なら札幌・小樽⇔新千歳空港のエアポートが凄いですけど、このエアポートに次ぐ本数でした。直前の夜を明かしたムーンライト九州号の指定券です。当初は始発の新大阪から乗車する予定だったのです。実際の乗車は岡山駅からになりました。「2枚きっぷ」の表紙券ですね。博多⇔岡山の往復でこのお値段です。特急券込みでです。安い切符でした。往路で使用した二枚切符です。押印は、博多駅改札印、博多駅の指定券発行印、そして、熊本駅で押印を受けた無効印でした。JR九州の無効印はこのような桜の形状なのです。これはいい感じでした。しかしねえ…、ここまで重ね押印しますかね。博多→熊本で使用した個室グリーン券ですね。前にも説明したかも知れませんけど3060円です。安いです。「あそ1962」の往路の指定券です。山科駅で日付間違いに気付き慌てて変更したものです。何故か乗変になってませんでした。マルス記号はWでした。「あそ1962」の帰路の指定券です。姫路駅での発行です。マルス記号なしでした。二枚きっぷの帰路に使用した方です。博多駅の無効印が無骨です。帰路の個室グリーン券です。有明なんですな。あそ1962号の会員券です。これで乗り放題なんですけど、一応指定券も出して貰えます。バス定員が少ないので満員で乗れない際のリスクを考えたものでしょう。バス指定券ですね。400円でこれだけ券面が出てくると物凄く安く感じました。梅小路蒸気機関車館の入場券です。裏面です。最初にこれをご紹介すれば良かった。配置図が載っていました。同じく梅小路蒸気機関車館の構内で運行されていたスチーム号の乗車整理券です。200円でした。「あそ1962」のパンフレットです。博多駅で貰いました。こんなものまで出てきました。懐かしいです。前にご紹介した「沖縄戦跡」シリーズの時につかった首里城公園の入場券でした。これも懐かしいです。第2旅程で使った門司周遊バスの一日券です。結局元を取れなかったですねえ。ひめゆり平和祈念資料館の半券です。これも沖縄戦跡の時に使ったものですね。懐かしい。第2旅程の大阪交通科学館のツアリングのビラも出てきました。このようなものを撮影しているうちに帰路の搭乗案内が始まりました。帰りはJLのクラスJで羽田に向いました。最後の写真は日本航空の前方の便所でした。おむつ交換台があるのが前方トイレらしいです。以上で、「夏の青春18きっぷ」シリーズを終えます。皆さん長い間お付き合いいただきありがとうございました。この第4旅程の各日記へのリンクを付けておきます。宜しければ過去日記もご覧下さい。【第4旅程の確定レポートへのリンク】(103) 第4旅程の始まり(104) 岐阜駅の近くの金津園と呼ばれる地域(早朝営業開始前) (105) 京都駅に到着!、梅小路蒸気機関車館本館へ(106) 京都梅小路蒸気機関車館の重要文化財の機関庫の様子(107) 京都梅小路蒸気機関車館の保存機関車群(108) 京都梅小路蒸気機関車館のスチーム号(109) 瞑想する、じゃなかった、迷走する私(110) 二週間ぶりの九州上陸~博多駅での発券作業~(111) リレーつばめの個室グリーン(112) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」@熊本駅(113) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」の内装(114) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」@豊肥線立野駅(115) 観光列車・臨時快速「あそ1962号」@豊肥線阿蘇駅(116) 内牧温泉街の外湯「入船」(117) 内牧温泉街の「はな阿蘇美」(118) 阿蘇神社(119) 豊肥本線宮地駅(120) 福岡空港までの移動(121/終) 福岡空港での券面撮影【第4旅程の暫定レポートへのリンク】【出撃】青春18きっぷ第4弾に出かけます。【暫定】根岸線山手駅【暫定】東海道線平塚・小田原間 【暫定】東海道線岐阜・西岐阜間 【暫定】梅小路蒸気機関車館【暫定】東海道線山科駅 【暫定】山陽本線岡山駅 【暫定】予讃線高松駅 【暫定】山陽本線下関駅 【暫定】鹿児島本線大牟田駅付近 【暫定】観光列車・あそ1962 【暫定】豊肥本線内牧駅 【暫定】豊肥本線宮地駅【暫定】鹿児島本線熊本駅【帰投】熊本から自宅に帰り着きました。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/05
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さて、いよいよ帰路の移動レポートに入ります。あそ1962号は定刻に宮地駅を出発し西に向いました。早速ですが、車内放送をご紹介しましょう。背景に聞こえるレールの継ぎ目の音から判断してもそれなりの速度で運転していることが分かると思います。 あそ1962発着案内(音声) あそ1962車内設備案内(音声)列車はさくさく移動します。外を眺めると…、なんと晴れて来ました…。チキショー、私が阿蘇に居る時は曇っていたくせに、今更…。阿蘇駅で長時間停車が入りました。下り運行の時と一緒でした。何で阿蘇駅にクマの人形があるのかなあ。熊襲からの連想でしょうか、それとも本当にクマがいるのでしょうか。阿蘇駅から望む内輪山です。今更ながら美しい…。車内に掲げられた製造銘板です。昭和37年製…、確かに古いです。車内の便所のトイレットペーパーです。なんとも可愛い保管方法でした。窓ガラスに描かれたサイクルスペース表示です。帰路も自転車は一台のみでした。あそ1962号はゆっくりと熊本駅の豊肥線ホームに入線いたします。この列車ともここでお別れです。「しんぺい&いさぶろう」やSLあそBOYと比較して、コンセプトがどうも不明確な列車ではありましたが、沿線の素晴らしさとバスとのタイアップで楽しめる仕上げになっていました。この辺りはJR九州の上手さが感じられました。熊本駅でつばめレディさんを撮影させていただきました。JR九州のレディさんは大抵撮影OKなのが嬉しいです。熊本駅の正面に掲げられていた「あそ1962」のポスターです。やはり力が入っていました。熊本で食したラーメンです。熊本ラーメンは久留米&博多ラーメンから分離して独特の進化を遂げたラーメンで非常に魅力があります。熊本に行ってラーメンを食べない訳には行かないのです。熊本から博多までの移動も個室グリーンにしてしまいました。でも、今度はリレーつばめではなく、有明の個室グリーンです。つばめレディが乗っていないので、車内販売はおろかドリンクサービスすらありません。涙。ちなみに室内の配色も、リレーつばめと有明では異なっていました。博多から板付空港までは福岡市営地下鉄で移動したしました。福岡市営地下鉄は開業25周年なんですねえ。新幹線は開業40年以上になるし、私も年をとるはずですねえ。今回最後の画像はこのポスターです。オリンピックを福岡へ、という訳ですね。さて、100回以上に渡ったこのシリーズも、次回でお終いにします。長い間のお付き合い誠にありがとうございました。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/05
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あれ~、楽天サーバの反応が今一つ悪いような気がします。恒例のメンテナンス明けの不具合でしょうか…。頑張れ、楽天ブログ…。気のせいかも知れませんけど。ここからは帰路のレポートになります。それでもしつこく画像を紹介します。だって、撮影してしまったんですもの。確定レポートのご紹介に一ヶ月以上かかってしまった「夏の青春18切符」シリーズも漸く最終局面です。最初は駅名板からです。他の豊肥本線の阿蘇高原内の駅と同様のデザインです。「仙酔峡と神々のふるさとの駅」だそうです。阿蘇外輪山の内側と外側では全然景色が違います。気候もきっと違うんでしょう。ここを聖域と思ったんでしょうな、古代の人々は。阿蘇神社最寄駅ということからこのようなデザインにしたのでしょうね。宮地駅の駅舎は神社風の造りになっておりました。早速ホームの方に進んでみました。熊本方面から到着したと思われる「普通・宮地行き」が停車していましたが、直ぐに出て行ってしまいました。200系気動車です。JR九州の「本格的な普通・快速用気動車」です。多分熊本支社の所属でしょう。留置線に目を転じると、あそ1962号が停車していました。写真では分かり難いですが、エンジンは掛け放しだったみたいです。冷房を効かすためでしょうね。結構な強風下での撮影でして、かつ188ミリの中望遠で撮影しております。何枚か撮ったのですが半分くらいは手ブレになっていました。ちなみに露出時間は100分の1秒でした。厳しい撮影環境だったのです。暇だったので(発車時間まで結構間がありました)、駅関連設備も撮影しておきました。駅舎の裏側です。瓦でした。結構古い駅舎と見ました。カーキャッチャーと言う道具です。時々目にします。留置中の車輌が空走し始めた時に、車輌を停止させる道具です。レールにこれを置いて列車を止めるわけです。使うのは物凄く恐そうです。転車台です。STEAM LOCOMOTIVEの文字が空しい…。SLあそBOYが運行されていたころには、門デフを付けた86をこれで転がしていたんでしょうねえ。哀しいです。こんなものを撮影しているうちに、留置線からあそ1962が出てきました。エンブレムの接写です。ちょっと文字が多すぎますねえ。キハ28の床下機器です。床下に寄れるのはこれが最初で最後のチャンスだと思って撮影しておきました。発動機が一台しかないキハ28は床下がすっきりしていました。あそ1962用のキハ58の保安装置表示です。SはATS、KはATS-Bの九州版と分かりますけど、EBってなんでしょうね。大分からの列車が入ってきました。「普通・宮地行き」です。形式はキハ125です。JR九州の「レールバスっぽい普通・快速用気動車」ですね。所属は「分ホウ」でした。豊肥久大鉄道事業部豊肥久大運輸センター所属を表しています。ただ、この所属は大分鉄道事業部大分車両センターに統合されたようです。表示の更新が追い着いていないだけかも知れません。熊本県と大分県の県境越えの普通列車は非常に少なく、青春18きっぷでは越えにくい県境の一つです。今は亡き九遊きっぷなら「横断特急」を使えるので楽勝なんですけど。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/05
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前回は「はな阿蘇美」をレポートしました。今回は、阿蘇神社をレポートしますけど…。阿蘇神社には案内板も少なく適当にシャッターを切ったのみで解説ができません。画像を並べるだけです。「はな阿蘇美」構内にあった阿蘇周辺観光地図です。南北が逆さまになっているので分かり難いです。「はな阿蘇美」から阿蘇神社へ向うバスの車窓です。やはり山が見えますね。当たり前ですけど。阿蘇神社バス停の近くにあった三連水車です。なんかのシンボル臭いのですが、案内表示がなく詳細不明です。正面から見た阿蘇神社の山門(寺じゃないからこうは言わないのかも知れません)です。妙に幅が狭くて背が高いです。山門を通って境内に入ったところです。社務所が見えますね。山門から正殿(で良いのかな、本殿と言うべきか)の距離が妙に近いのです。こちらが本殿です。でもここまでしか入れないのです。この奥は声域になっているようでした。オフリミットでした。せめて寝殿(神殿ですな)の配置図くらい見たかったのでした。本殿の内部です。貢物が(捧げ物かしら)が展示されていました。箱入りの清酒が多くてちょっと俗っぽいかなあ。本殿を少し引いて撮影してみました。塀の隙間から撮影した二の社です。この辺から奥はもう秘密の世界でした。内側から見た正門です。やはり形状が変わっているような気がします。どこが違うのか指摘できないのがもどかしいです。境内のご神木ですね。これも途中で折れてしまったようで根元だけしか残っていませんでした。何故か教育勅語が…。願かけ石…。ご利益はあるのでしょうか。名所なのでシャッターを切りましたが、今一つ理解できませんでした。これで阿蘇でみるべきものを見てしまいましたので、上りのあそ1962号に乗車すべく、豊肥本線の宮地駅へ移動しました。徒歩移動で僅かに15分くらいで到着しました。次回から再び鉄レポートに戻ります。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/05
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さくさく続けてしまいます。内牧温泉街の外湯「入船」を出たところからレポート再開です。このような川沿いの道を歩きました。温泉街には川が似合いますねえ。夜にもう一度来て見たい場所でした。これが「はな阿蘇美」の入口です。温泉を活かした温室栽培の花卉園、阿蘇野菜の即売場、阿蘇豆腐の資料館、そしてレストランが一体になった複合施設でした。何となく、由布院温泉の温室を思い出しました。ここは薔薇園の入口です。入場料金がかかるので、時間の関係もあり、今回は見送りました。こんな花が生えているようです。阿蘇野菜の即売場です。ここも、買って帰っても使い道が無いのでパスしました。ここからは阿蘇豆腐の展示場です。阿蘇豆腐も阿蘇の名物みたいです。硬くて重い豆腐のようでした。豆腐作りにつかう用具類のようですね。大豆にも色々な種類があるという展示です。こちらは豆腐から作られる食品の展示です。豆腐製作の実演コーナーもあったのですが、私が訪れた時には残念ながらやっておりませんでした。この豆腐コーナーに阿蘇の地図があったので撮っておきました。内牧温泉街と豊肥本線の位置関係が分かりますね。結構離れています。最後にレストランで遅い昼食を頂きました。阿蘇は肉牛の名産地でもあります。阿蘇牛を 投入 →豆乳 で煮たなべがメインディッシュでした。 →またやっちゃいました。ポリポリ。 →ご指摘ありがとうございました。膳は阿蘇の産物で埋め尽くされていました。中々のものでございました。はい。ちなみにこのメニューの名前は「月の膳」と言いました。以上で、「はな阿蘇美」レポートを終りにします。ここから再び「あそ1962」バスに乗って、次は阿蘇神社に向いました。次回は阿蘇神社をレポートします。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/05
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青春18きっぷシリーズでこんなに回数を使うとは思ってませんでした。ううん、ネタを消化出来ません。今日は青春18きっぷシリーズの写真の選択まで終えてあります。多分、残り5回でこのシリーズは終了します。その後に控えているネタは、夏のスペインシリーズと瀬戸内海縦断松山と呉のセットの2本、更にインターミッション用に暖めている近郊もの2本(遊就館と東京湾横断鋸山)が目白押しです。ネタ過剰で確定レポート化を諦めたゴールデンウィークの東北紀行もあるし、更には古いけどここぞと言うときに出そうと思っている北朝鮮鉄道紀行もあります。やっぱペースを上げないと行けないですね。はい。それでは続きです。前回は阿蘇駅で、観光列車あそ1962号を降車しバスに乗り換えて内牧温泉に入るところまでレポートしました。今回は内牧温泉のそぞろ歩きです。内牧温泉にはこんな感じの銭湯形式の外湯がたくさんありました。その中の一つを選びました。観光案内所のおじいさんのお勧めに従い、この「入船」にしました。観光案内所のおじいさんのお言葉では「ちょっと高い(500円)けど、一番設備が充実してる」とのことでした。ここが入口です。温泉旅館風です。それもその筈で、温泉旅館併設の外湯だったのです。すばらしい。この施設の素晴らしさもさることながら…。入湯客が私一人だけだったのです。素晴らしい。今まで数々の温泉に行きながら不満がありました。それは、温泉の浴室を撮影できないことでありました。流石の私も見ず知らずの方の裸体を撮影し、ブログにアップすることはできません。しかし、貸しきり状態なら撮影したい放題です。さすがの私もカメラを浴室の持ち込んだのは初めてです。滑って転んだら数万円のデジカメが昇天するのみならず、いままでこの第4旅程で撮影してきた画像データもパーになってしまいます。もうドキドキでした。初めての浴場写真で思い知ったのは、浴場は大変暗いということでした。非常に厳しい環境です。長時間カメラを浴室に置いているだけで、湿気で故障を惹き起こしかねないなあ。この入船には、このような露天風呂もありました。素晴らしいです。この入船は露天風呂と屋内風呂は違う泉源を使っているようでした。段々大胆になって、最後のこの写真は浴槽の中に浸かって撮影しました。手を滑らしただけでサヨナラ、の状態でした。結構満足行きました。お湯自体も素晴らしいものでした。以上で内牧温泉レポートをお終いにします。次回は「はな阿蘇美」という内牧温泉街の中にある複合施設の模様をレポートします。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/04
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続きです。前回は豊肥本線の立野駅を出発したところまでレポートしました。私が乗車した観光列車「臨時快速あそ1962号」は熊本発宮地行きだったのですが、阿蘇高原での観光の便を考え、阿蘇駅で下車し、内牧を通って宮地まではバスで移動することにしました。下車した阿蘇駅の駅名板です。立野駅の駅名板と同じようなデザインでした。ちょっと派手です。「世界一のカルデラのまんなかの駅」だそうです。この人が、あそ1962号に同乗したJR九州熊本支社の営業部員さんです。制服は駅員さんのものでした。この阿蘇駅でも結構長く停車するのです。立野駅では南阿蘇鉄道の立野橋梁を撮影するために時間がかかり、あそ1962の撮影に十分時間を充てられませんでした。この阿蘇駅では時間がとれましたので、ちょっとしつこく、あそ1962の姿を撮影しました。対向ホームから撮影しました。手前がキハ58で奥がキハ28です。キハ58とキハ28は搭載している発動機の数以外は殆ど差はありません。同じキハ58でも前の週に阿波池田駅で見たJR四国の車輌とは随分雰囲気が違いました。跨線橋から撮り降ろしたものです。ユニットクーラーがたくさん付いていますね。あそ1962号の乗客の半分くらいは、この阿蘇駅で下車していました。観光するならこの駅が便利ですから、仕方がないですね。乗降口付近です。所属はもちろん「熊クマ」でした。車体中央部です。なぜか水切りが描かれていました。この阿蘇駅で乗客が大分降りてしまったので、空いていますね。一瞬の晴れ間でした。ついていないことに、阿蘇高原を移動中は殆ど曇っていました。阿蘇駅の駅舎です。クラシックな雰囲気が漂っていました。駅舎の内部です。ローカルな雰囲気が漂いますが、飲食店が入居し、充実したお土産ショップがあるなど、観光拠点なんだなあ、という雰囲気もありました。さて、この阿蘇駅で列車を降りて今度はバスに乗り換えます。この小さなバスに乗りました。このバスの名前は「あそ1962バス」と云います。観光列車「あそ1962」とタイアップしてこんなバスも走らせている訳です。JR九州やるなあ。ちなみにバスのチケットは一日乗り放題で400円でした。JR九州管内のみどりの窓口で買えます。こういうのがあると乗りやすいのですよね。路線はこんな感じでした。阿蘇駅を通って内牧温泉を抜けて宮地駅に抜ける訳です。宮地駅はあそ1962号の終点(始点)となる駅でした。バスの車窓です。流石は巨大カルデラ阿蘇高原です。どっちを向いても外輪山が目に入ります。外輪山は立野近辺だけ低くなっていまして、鉄道も道路もみんな立ての近辺を通って阿蘇に入って来るそうです。だんだん温泉街風の車窓になってきました。明行寺バス停です。ここで下車して内牧温泉街を散策して、ついでに外湯に入ってきました。次回は内牧温泉をレポートします。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/04
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今回は観光列車「快速あそ1962」の最初の長時間停車駅の豊肥線立野駅の様子をレポートします。豊肥線の阿蘇カルデラ内の主要駅の駅名板は派手なのです。JR九州標準駅名板とはデザインが全然違いました。立野駅には二つの名所があります。一つは南阿蘇鉄道(旧日本国有鉄道高森線)でした。もう一つはスイッチバックなんです。その他にも南阿蘇鉄道の立野橋梁なんかもあります。立野駅に到着した「あそ1962」です。編成写真を熊本で撮影できなかったので、ここで撮影しようと動き回りました。初の編成写真の撮影です。ちょっと嬉しいです。でもこの後に運転士さんに「鉄道敷地から出て」と怒られてしまいました。ショボーン。駅を出ると最初に目に入るのがこの発電所です。発電所3連発です。もう一つの立野駅です。南阿蘇鉄道の立野駅です。このようなトロッコ列車が停止していました。凄い編成です。本物の貨車を軽いモーターカーがプッシュプルで動かすのです。渋い。でも遅そうです。もう少し歩くと南阿蘇鉄道の立野橋梁が見えてきます。トラス橋になっていないので見晴らしが良さそうです。何となく雰囲気が餘部鉄橋に似ていました。鉄橋の取り付け部の線路です。流石にローカルな雰囲気です。豊肥線も十分ローカルな雰囲気ですが、南阿蘇鉄道になると、更にのんびりしてきます。ちょっと下がって、鉄橋を見上げて撮影してみました。ズモ~ン。渋いです。迫力もあります。餘部鉄橋にいよいよ似ています。餘部も今年限りになってしまいました。立ち位置を変えて更に撮影してみました。うんうん。ここが良いです。ここでトロッコ列車を待つことにしました。うんうん。いい感じです。大望遠の威力を遺憾なく発揮できました。トロッコ列車が通過すると、「あそ1962」も間もなく発車です。急いで駅に戻りました。最後の画像はスイッチバックです。上のほうから下の線路を見下ろして見ました。この立野駅は、阿蘇カルデラの入口に当たります。ここでがくんと標高が高くなります。続いて阿蘇カルデラの外輪山の内側を走る「あそ1962」の車窓をレポートします。なんとも平和な光景が続きます。後の山々は阿蘇の内輪山です。阿蘇高原というと牛の放牧ばかりやっているのかと思ったら水田が延々と続いていました。平和な車窓なんですけど、段々曇ってきました。ちょっと残念です。そろそろ車窓に飽きて来たので駅弁を頂きました。「あそ1962」専用弁当のようでした。素晴らしい。こういうのがJR九州ならではの演出なんですよね。ちなみに、九州で私が最も愛している駅弁は、車内販売のみなんですが「ゆふいんの森」弁当です。次が嘉例川の100年弁当です。九州は駅弁も素晴らしいのです。次回は、豊肥線阿蘇駅での撮影分をご紹介します。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/04
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うぃ~。酔ってます。たくさん、たくさんのコメントを頂いて凄く嬉しいです。でもお返事は明日の朝にさせてください。では、早速続きのレポートです。それにしてもやっぱりジョイフルトレインのレポートは楽しいです。見て楽しい、乗って楽しい、書いて楽しいのです。この「あそ1962」はJR九州の作品にしては(JR他社なら傑作)駄作の部類に入りますけど、それでもこれだけ楽しめるのです。JR九州は「鉄道旅行」というものを知っています。もう絶賛です。どことは言いませんが、旅行と輸送の区別が付かない、JR某社の某支社の方、反省してください。ジョイフルトレインを土崎で作りました。ダイヤを組みました。マルスに載せました。ここで進捗はまだ半分です。終点まで乗って帰ってくるだけで「鉄ではない一般人も楽しめる」JR九州の特別列車をご覧下さい。 →横見先生化してます。割引いて読んでください。華々しく謳い上げた割には最初の画像は洗面台です。キハ58の雰囲気を上手く残しながらリニューアルしています。いい出来です。これで水漏れさえなければ…。便器もピカピカです。敢えて和式にしたという感じですね。この列車のコンセプトは昭和30年代の急行列車のイメージの再現らしいのです。三丁目の夕日が流行った頃に企画された列車ですし、まあ、あるかな、という気が致します。この便器も昭和30年代のデザインを残したかったのでしょうね。もちろんバリアフリー改造は一切施されておりません。一般客室です。言い忘れましたが全席普通席で禁煙車でした。モケットは張り替えていますが、キハ28&58の雰囲気をばっちり残しつつ現代化しています。ひっそり液晶ディスプレイも取り付けられています。しかしねえ…、表示画面が「DVD」はないでしょ…。広角レンズで撮り直して見ました。焦点距離28ミリの威力が分かりますでしょうか。幼き日の私の視点です。「箱席」を真横から撮ってみました。窓と座席が合っているのでシートピッチは弄っていないようですけど、中ほどにまあまあ大き目のテーブルが備え付けられる等の改造が施されていました。割と快適でした。今年の5月に花輪線でキハ58に一日で6時間乗りましたけど、比べ物にならない位「あそ1962(豊肥線)」の方が快適でした。風呂屋みたいな暖簾がありました。この向こうが自転車置き場とサロンの兼用スペースです。この辺りが自転車置き場です。左の方に前輪を挟む金具が見えます。自転車がなければ、こんな感じの展望スペースになります。「しんぺい&いさぶろう」と「はやとの風」で確立した、JR九州の展望席デザインを踏襲したつくりになっていました。逆サイドです。テーブルの配置が洒落ていました。この通り、自転車は一台も積まれませんでした。企画倒れ?。当然車販もありました。売っているものも変わっていました。これです。昭和30年代風の駄菓子セットでした。製造銘板は手書きでした。今は亡き新潟鉄工所による昭和40年製でした。JR九州の観光列車ではお約束の記念撮影セットです。この列車は帽子だけですが、特急「ゆふいんの森」ではあろうことか、子供用の乗務員制服まで用意されていました。車内備え付けの車輌案内です。こういうのが嬉しいのです。車内備付のリーフレットです。JR九州は鉄道車両そのものが観光の対象と考えているようです。造りは博物館のリーフレットのようでした。こういうものがあるだけで、同行者と会話が生まれますよね。鉄は自慢話も出来ます。非常に良い試みだと思います。今回最後の画像は、天井です。ここにも演出があります。昭和30年代風の雰囲気を醸すために、沢山の扇風機が取り付けられたままでした。冷房があるのにこの扇風機…。次回は豊肥線立野駅での長時間停車の模様をレポートします。ここも演出ばりばりの停車でした。JR九州のオペレーションの凄さが垣間見られます。JR九州の真骨頂は肥薩線の「しんぺい&いさぶろう」だと思いますけど、ここはこれに準じる出来でした。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/03
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皆さん、リレーつばめ号の個室グリーンに沢山のコメントありがとうございました。JR九州の実力の一端をご理解いただけたことと存知ます。JR九州からは一円も貰っていないので、誤解しないで頂きたいのですが、在来線特急のクオリティはJR九州がJR各社の中で最高だと思っています。他にもいい列車がたくさんあります。古くからの読者の方はご存知でしょうが、「土日で九州一周」というシリーズで、JR九州の主要列車の乗り潰しレポートを作っております。ご関心のある方は是非ご覧下さい。さて、今回のレポートに入ってまいりましょう。今回のお題は「あそ1962」号です。これですね。黒い車体が何となく特急「はやとの風」に似ていますけど、違う車輌です。「はやとの風」は改造40系気動車(キハ147)ですけど、こっちは伝統の急行気動車キハ58です。側面エンブレムですね。JR九州はこの手の車輌だけではなく、定期列車にも殆どエンブレムを入れています(国鉄時代の調達を除く)。エンブレムだけならJR西日本だってやってますけど、JR九州はエンブレムにSINCEと入れます。このエンブレムにはSINCE2006と書かれています。新しい車輌なんです。上に「新しい車輌なんです」と書いてしまいましたが、製造は古く1962年です。これを現代化改装し再投入したのが 1962 2006年と言う訳です。形式は古くて懐かしいキハ28&キハ58です。 →記載ミスがありました。再投入は2006年が正当でした。 →maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。もう一度車体画像です。撮影場所がさっきの画像と違います。この車輌の入換が変わっていて、最初は1番ホームに留置されていたのですが、ここでは客扱を行わずに、さらに0番Aホームに回送され、ここでお客を積み込んでおりました。もう一度側面表示をご覧下さい。サボは黒地に金です。渋い。号車表示は「DCキハ58」です。特筆すべきは自転車を5台積み込めます。自転車輸送を前提にした車輌なんですね。形式表示と検査表示です。17-1の小倉工場になっていました。文字色は金色です。渋い。銘板です。日本車輌の昭和37年製でした。「あそ1862」 「あそ1962」の看板に偽りなしでした。 →記載ミスがありました。1862…。ボケてました。 →maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。これは車輌と関係ないですが、撮影場所の熊本駅のみどりの窓口に飾られていた垂れ幕です。この車輌の登場の経緯はちょっと哀しいのです。この車輌は熊本=宮地を土日に各一往復運行されています。もともと、この区間は「SL・あそBOY」という臨時快速で運行されていたのですが、これに使われていた蒸気機関車が経年劣化で(製造後90年経てばくたびれますよね)、まともに走れなくなってしまったのです。そして、引退しました。JR九州の代表的な観光地の阿蘇山麓にジョイフルトレインが無くなってしまったのです。この「あそBOY」の後継として急遽投入されたのがこの「あそ1962」なのです。こんな経緯ですので、ちょっと企画の練り込みが足りない感じで、試行錯誤感というか手探り感がありました。私が乗ったのは運行開始後数日目のまだ真新しい状態の時でした。JR九州の熊本支社の営業社員が乗り込んで乗客の動きをじっと観察してました。この辺りがJR九州の上手さなんですねえ。背広を着た営業社員にアンケートを取らす、なんというアプローチではなく、営業社員に駅員の制服を着せて、とにかく観察してサービスを考えろ、という訳です。若くて賢そうな男性が車内を歩き回って、「鉄以外の乗客」に話し掛けていました。次回は車内をご紹介します。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/02
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今回は特急リレーつばめのグリーン車を詳細にレポートします。グリーン車には一両が充てられています。一番新八代側の1号車がグリーン車です。所属は当然のように「北ミフ」です。昔は「本ミフ」でしたけど、九州北部に支社が設定されて、今は「北ミフ」に代わりました。一般グリーン車も快適です。こんな感じの広いシートピッチの座席で、JLのビジネスクラスみたいな感じでした。シート配置は当然のように1-2配置でした。秋田新幹線「こまち」のグリーン車の5倍は快適です。グリーン車の廊下です。木目パネル仕上げで高級感が溢れています。これぞ、JR九州です。これがJR九州のもう一つの最高級列車「ゆふいんの森」になると本物の木材を使うのですが(もちろん不燃加工済みの資材を使用します)、787系電車では流石にパネルだけで鋼製車でした。電話室もありました。ちょっと昔風です。トイレと洗面台です。便座はたいしたことはありませんけど、洗面台は御影石風の仕上げになっていました。高級感です~。何回でも顔を洗いたくなる洗面台でした。今回私が利用したのはここです。SALOON COMPARTMENTでございます。個室グリーンなのです。座席番号は8でした。お部屋の全景です。対角線に交互に撮影してみました。ストロボを焚いているので、高級感が蒸発してしまいました。ソファーとは別にこんな一人掛けのシートも用意されておりました。ドーン、という感じです。室内の案内板です。個室の中にこれがあるので、便所の空き状況や電話室の空き状況が分かります。室内照明もコントロールできます。テーブルも広げることが出来ます。テーブルを広げると、ソファーに座った人もテーブル上の飲食物に手が届きます。いいでしょ、いいでしょ。九州新幹線開業前はこれで博多=西鹿児島を移動できた訳です。すばらしい。室内で貸与される毛布です。当然のように、リレーつばめのシンボルマークが刺繍されていました。絵まで飾ってありました。素晴らしい。絵柄は桜島と噴煙です。この辺が哀しいです。かつて787系は西鹿児島まで活動範囲を持っていたのですが、九州新幹線の開業で、現在は新八代までしか行きません。九州新幹線が博多=鹿児島中央で全通した日には…。想像したくありませんね。配り物です。JR九州のコーポレートカラーは赤色ですけど、九州には黒が似合いますね。ちと見にくいですけど、テーブルの上にコーヒーが載っております。無料サービスのドリンクなのです。この辺は、JR東日本の東北新幹線のグリーン車に通じるものがあります。JR東日本ではお代わりもできますが、九州はどうだったのでしょうか。JR九州の特急の多くにはこのような女性客室乗務員が乗車しています。切符を売ったり弁当を売ったりしています。つばめレディという名前です。折角撮影のご了解を頂いたのでストロボも焚いてみました。物品販売時以外はこんな格好をしています。つばめレディは色々な場面で、ご了解を得て撮影していますが、夏服は今回が初めてでした(冬服は、はやとの風@嘉例川駅や九州新幹線つばめなど)。同じ方に、熊本到着時にも撮影をお願いして見ました。つばめエンブレムもフレームに入れています。終点新八代に向けて走り去るリレーつばめ1号です。非常に快適に熊本まで移動することが出来ました。この熊本からは、いよいよ目的の観光列車「あそ1962」で阿蘇山麓を目指しました。次回から「あそ1962」レポートに致します。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/01
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前回は四国を後にして、岡山からムーンライト九州に乗り込むところまでレポートしました。ムーンライト九州は既に別の日の乗車分でレポートしているので今回は省略して、博多からレポートを再開します。福岡駅構内に掲示されていた「あそ1962号」のポスターです。かつてのJR九州の看板列車であった「SLあそBOY」の後継列車であり、別の言い方をすれば、九州新幹線開業時に登場した、特急「はやとの風」や快速「いさぶろう・しんぺい」や「なのはなDX」以来のジョイフルトレインでの準定期列車です。血圧が上がっています。こちらは博多駅のみどりの窓口に貼られていたポスターです。観光列車あそ1962号、いいじゃないですか。往年の気動車急行をイメージして昭和30年代風にアレンジしたというコンセプトです。まあ、実際に乗ってみるとSLあそBOYには遠く及ばないのですが、それでも、まあ、楽しめたことは楽しめました。半分は沿線の魅力だったりもするのですけど。博多駅のみどりの窓口のカウンターです。なんか高級感があるのです。JR九州を一言で表すと「高級感」です。これがたまらないのです。九州新幹線の素人臭いオペレーションも、鹿児島中央駅の手際の悪い発券も全部許せて仕舞うのです。JR東日本東京駅の八重洲中央口のみどりの窓口は発券の手際は日本有数(私の知る限り日本一)、窓口駅員の態度は良いし、厄介な発券もすいすいこなす優秀なみどりの窓口ですが、この高級感はかけらもありません。この九州旅客鉄道の高級感に惑わされて、私が購入した切符は下の切符です。JR九州ご自慢のお得な切符の2枚切符です。九州は全国でも有数の高速道路網を持つ地域です。そのため高速バスがやたらと発達しています。これが安くて速いのです。鉄道事業者は苦しい競争に晒されています。その上、福岡=宮崎間、かつての福岡=鹿児島間には航空機と言うライバルもありました。そんな土壌が、JR九州の強力な割引切符ラインナップを育みました。二枚切符と四枚切符という安いチケットがそこら中で設定されています。今回は往復しか乗らないので、博多=熊本の二枚切符を購入しました。やっと、これで各駅停車や快速から解放されました。青春18きっぷでの旅行も8日目で、もう普通列車と快速電車には飽き飽きしていたのです。そして…、勢いとは恐ろしいものです。特急に乗れる、となると、普通車じゃつまらん、となりました。やはり、私にはグリーン車とかファーストクラスが似合う(?)のです。ただのグリーン車では満足行きません。ついつい買ってしまったのが、この個室グリーン車です。一人で個室を占拠します。博多→福岡で個室を占拠して3060円しかしません。非常に廉いのです。こちらはグリーン券を買うとついてくるドリンクチケットです。やっぱ、JR九州はグリーンですよね。嬉しいサービスです。リレーつばめの場合は、この券とは別にコーヒーなどを出してくれます。次回にじっくりとレポートしますけど。発券作業はこれでお終いです。早速ホームに出ました。私を博多まで運搬してくれたムーンライト九州が留置線に向って出場していきました。多分南福岡へ行くのでしょう。鹿児島本線関係は南福岡に各種施設が集中しています。特急ホームの対面に停車中の813系です。多分門司港発南福岡行きの各駅停車です。長い編成です。この編成だけでも、門司港=博多(実質は小倉=博多)がいかに輸送密度の濃い路線であるかが偲ばれます。私が乗るリレーつばめの前に出発していった、有明です。同じ787系を使っていますけど、色が違います。有明は薄いグレーで、リレーつばめは濃いグレーなのです。同じ形式の車輌を使ってますけど、サービスレベルは全然違います。断然リレーつばめの方が上です。特にG車のサービスは全く異なります。私が乗る、リレーつばめ1号新八代行きが入線してきました。この重々しい雰囲気…。看板特急だよん、という感じがむんむんします。いいですねえ。次回はリレーつばめ号の個室グリーンをネッチーとご紹介します。在来線昼間特急では日本最高クラスのサービスです。 良ければ一票お願いします。過去の旅行先の一覧はこちらに!
2006/11/01
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