【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

【カラーガード大好き】マイレージジャンキー 時々 「鉄」

2006/09/12
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今日から二日目の分をレポートします。二日目に訪れたのは海軍司令部壕(豊見城市)とひめゆりの塔と第32軍の終焉の地である摩文仁の丘です。その他玉泉洞にも行きましたが、ここは戦跡ではありません。最初は海軍司令部壕からレポートして参ります。ここで再び戦争の経緯を辿ることをお許しください。昭和20年5月末に第32軍は南部撤退を機関決定しました。この決定に従い秩序を保ちつつ、深夜の豪雨に紛れて首里防衛陣地を放棄し逐次南部への移動を開始します。

当時、海軍は小禄に航空基地を持ち(ちなみにこの基地の後に合衆国空軍の基地になり、更には日本国運輸省に移管され、現在は沖縄空港として使用されています)、根拠地隊を保有しておりました。合衆国海陸両用軍が沖縄に上陸した時点での兵力は約1万でしたが、陸戦の訓練を受けていた兵力は僅かに数百でした。第32軍司令部は海軍根拠地隊に南部撤退を指示しますが、指令に齟齬が生じ海軍は重火器を破壊の上、南へ移動しました。しかしながら、移動後の陣地の防衛力は小さく、重火器なしでは防衛が困難という状態になったそうです(この辺は海軍側の言い分が一方的に伝わっているので何とも言えませんけど)。海軍部隊のうち2000名は、元の陣地へ戻ることを決意し(明確な命令違反です、島嶼防衛で海軍部隊が陸軍の指揮を嫌い明確な命令違反を行うケースは珍しくありませんでした)、小禄陣地へ戻りました。この小禄陣地が、現在の「海軍司令部壕」なのです。非常に微妙な評価をせざるを得ません。

日記

日本側の兵力配置図です。軍司令部の命令を無視し、放棄命令の出た陣地に勝手に戻った部隊です。普通なら断罪されて然るべきなんですが、この部隊が頑張るのです。物凄く頑張る。ろくろく訓練も受けていない海軍の水兵が、合衆国第6海兵師団第4連隊の猛攻にも全然屈せず、頑張ります。米軍側の戦死者はどんどん増えて1608名になります。これは物凄い戦果です。陸戦のプロの陸軍以上の抵抗を行います。素人が普通にやって玄人に勝てる訳がありません。この戦果の原因は海軍部隊の陣地構築にありました。飛行場周辺の丘陵という丘陵に、撃破された航空機から取り外した自動火器(機関砲と機関銃)を据えて、無茶苦茶濃密な火線を敷いたのです。第4海兵連隊も第22海兵連隊も先陣部隊はミンチになりました。この成果は高く評価されて然るべきです。

更に海軍部隊の評価を高めたのは太田少将の電文「沖縄県民かく戦えり」です。暫定レポートに全文を引用しておりますのでここでは原文は引きませんが、日本軍部隊が現地住民に言及した稀有な電文です。この電文を読んで涙しないのは無理、という電文です。沖縄県民はもとより、全国民に読んで欲しい電文です( 全文はこちら )。海軍部隊の評価が上がらない訳がありません。

日記

米軍側作成の諜報地図です。太田少将の司令部壕の見取り図です。この海軍部隊も他の陸軍部隊と同様に玉砕に近い状態で無力化されるのですが、またまた評価が難しい事態が生じます。192名もの投降者を出すのです(太田少将は自決直前生存者約200名に脱出命令を発しましたが投降を命じた訳ではありませんでした)。この集団投降は沖縄での戦いにおける最初の大規模投降なのです。ますます、この海軍部隊の一部の2000名に対する評価は難しくなります。

  1 明確な軍紀違反
  2 赫々たる大戦果(米軍も高評価)
  3  後世に残る報告電文


難しい部隊です。後世のアマチュアである私は、太田部隊を高く評価したいと思いますが、現役軍人は(現役自衛官は)どう感じるのでしょうか?。ご意見を伺いたいなあ。

戦闘経緯はこの辺りにして、現在の海軍司令部壕の様子をレポートいたしましょう。

日記

最初にビジターセンターの展示スペースに案内されます。司令部壕を建設した資材が紹介されています。沖縄本島南部の土壌は、表層部が石灰岩(隆起珊瑚礁ですな)であり、内部は赤土です。表層が固いので大口径砲によく耐えました。内部はこんな資材でもあっさり掘り抜けます。八原大佐が本島南部を主抵抗地域に選定した理由の一つは、この地質でした。なお、海軍司令部壕を掘ったのは陸軍築城隊ではなく、海軍設営隊であったそうです。

日記

海軍の制服と武器です。ここで抵抗した部隊の特徴である自動火器が展示されていました。

日記

日記

地下に入って参ります。この壕に通じる通路は戦後に作ったものです。壁の仕上げが戦後風のすべすべした作風になっています。

日記

幕僚室です。ここで太田海軍少将は割腹自殺(自決)を図りました。何と言うか、よく準備された自決のようです。手元には米軍側の公式戦史しかないのですが、「その喉は切られ、部屋の様子から見て、副官が介添えし、太田少将の死を見届けた後、死体を整理したことが明らかであった」と記されていました。

日記

日記

「自決時の手榴弾の跡」と案内されていますが、米軍戦史と矛盾します。どちらが正しいのか…。太田少将は多くの子供を世に残しました。ある子は海上自衛隊の将官に上り詰め、ある子は教員となり戦闘的な組合活動家(つまり強烈な反戦主義者)になり、ある子は米国人と結婚して米国に渡ったそうです。NHKの番組で見ました。非常に微妙な家族ですよね。ちなみに、反戦教師と海軍将官の兄弟は数十年も会っていないと番組で紹介されていました。

戦後日本を象徴するストーリーです。前にも書きましたが、昭和20年に敗戦を迎え、殆ど全ての日本人は決意します。二度と広島長崎の悲劇を繰り返すまいと。二度と街を焼かれることはごめんだと。なお、沖縄の悲劇は昭和20年段階では本土の日本人はまだ知りません。同じ出発点に立って、ある人々は「反戦を貫き」、ある人々は「強大な軍事力を持つ超大国との同盟関係の構築を模索し」、ある人々は「防空とシーレーン確保に特化した専守防衛的な軍事力の再建」を目指しました。戦後のパラダイムは全て大東亜戦争(敢えてこの呼称を用います)への痛烈な反省からスタートしているんだなあ、と戦跡地を歩く度に思います。

日記

壕の中に展示されている沖縄での抵抗の地図です。正直言ってこの地図はいただけない。4月の前線、5月の前線をもう少し細かく書くべきです。第32軍は2ヶ月の間、首里前面の防衛線で、米第10軍の攻撃を支えました。大本営の介入による無謀な逆襲を行わなければ、もっと頑張れた。この2ヶ月の敢闘奮戦が全然表示されていません。

日記

小禄半島の戦闘推移図です。この半島の攻略に合衆国第6海兵師団は10日の期間と1606名の戦死者を要しました。日本側の死亡者と概ね同数です。飛行場の大きさと比較すると如何に狭い地域か分かると思います。経緯はともあれ、英雄的と言ってよい抵抗であったと思います。

日記

連絡壕です。壁の仕上げが戦前風です。この壕の中に2000名が立て篭もった訳ではありません。小さな丘陵の上に設けられた自動火器の小陣地にこの壕から適時適切な指令を発し、米軍に猛烈な損害を与えたという場所です。この司令部が指揮した部隊は、勇戦敢闘した沖縄の日本軍の中でも、最高レベルの戦果を挙げたのです。

日記

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日記

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暗号室です。太田電文「沖縄県民かく戦えり」はこの部屋で暗号に組まれ本土に向けて送信されたのでしょう。

日記

この出口は戦闘中に使用されたものの一つです。6月6日、海軍部隊はこの壕から多数の兵を切り込みに出しました。ほぼ全員が戦死しました。

日記

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壕を出た風景です。余りにも平和な風景と、この地で展開された激しくも悲しい戦闘のギャップに慄然とします。太田少将は電文の最後でこう記しました。「沖縄県民かく戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。」

故小渕首相は沖縄でサミットを開催するにあたり「このサミットは太田少将の電文に対する俺の返事なんだよ」と語ったと伝えられています。太田少将も八原大佐も神中佐も、沖縄県民には本当に申し訳ないことをしたと考えていたと思われます。自民党旧橋本派には「沖縄に対する贖罪」という気持ちがあったと思われます。

海軍司令部壕レポートはこの辺りでお終いにします。次はひめゆりの塔を軽くご紹介して、第32軍終焉の地、摩文仁の丘をレポートします。



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Last updated  2006/09/12 10:46:20 PM
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