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このごろポピュリズムという言葉をよくきく。ポピュリズムの定義はいろいろあるのだろうが、「大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動」をいうとしたら、民主主義制度下での政治とはそうしたものではないか。多くの有権者の票を集めなければ政治家になれないし、政治に関与することはできないのだから。そして大衆政治家というとよい意味になるのに、ポピュリズム政治家というととたんにうさんくさいイメージになるのも変な話だ。実のところ両者は、おそらく同じ意味なのだから。そしてまた、このポピュリズムという言葉を使う人は、自分の意見に反する候補者が大量の得票をした場合に、その候補者をポピュリズム政治家と呼び、投票した人々をネット情報に踊った〇〇と表現する。こういう言説は昨今の内外の選挙についてよくみられるのだが、本当にそうなのだろうか。ポピュリズムの定義の曖昧さはひとまずおくにしても、有権者がネット情報に踊ったというような見方にはすでにバイアスがかかっているようにみえる。つまり正当な言論であるマスコミに対してうさんくさいネットという色分けである。実際にはマスコミも、過去に一方的な人格バッシングを行った例もあるし、逆に報道しない自由を行使した例もある。現総理ではどうかしらないが、過去の総理の中にはマスコミ幹部とさかんに高級レストランなどで会食を行っていた方もいた。今の人々はマスコミなるものを一方的に信頼しているわけではない。ネット情報が玉石混同であり、真偽不明なものも多いことはネットを見る人なら小学生でも知っているだろう。有権者がネット情報に踊ったというよりも、マスコミ情報に踊らなくなったというのが真相であるように思える。それにしても、ポピュリズムという語を使い、有権者を〇〇よばわりする言説のいやらしさはなんとかならないだろうか。なにやら自分を大衆よりも一段と高いところに置き、見下している匂いがぷんぷんとする。まあ、安定した職のある方がこうした言説をいうのは自由なのだが、人気商売の評論家などだとちょっと他人事ながら心配になる。それにいくら自分が賢いと思っても、政治の世界には賢い人が正解を出すとは限らない。抜群の知能と優れた人格を持ちながら、結果的に人々を地獄に導いたような政治家だっている。むしろなぜ、こうした政治家が票を集めたかというその背景を謙虚に見つめるべきではないか。欧州では最近移民排斥をとなえる「ポピュリズム政党」が支持を拡大しているという。こういう主張に対してナチズムに似ているとか多様性だとか外国人との共生だとか言ってみてもなんの解決にもならない。貧困が拡大し、外国人と職を奪い合う中で失業したり待遇が低下したり、はては住居周辺の治安が悪化して不安な日々を過ごさなければならない人々が自国民の中にいるという現実にこそ向き合うべきであろう。
2024年11月23日
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米大統領選挙で一番印象的だったのは、その日の夕方までに結果、それもかなり一方的な結果が出てきているのに、朝刊の見出しは「史上まれにみる大接戦」となっていたことだ。どこが大接戦やねん…別にこれは日本のマスコミのせいではないだろう。日本のマスコミが取材源にしている米国の高級紙の予想がはずれたというだけのことだ。じゃあ、なぜ米国のマスコミの予想が外れたのだろうか。米国のマスコミだってしかるべき世論調査を行ってこの結論になったわけだし、彼らとて願望をそのまま予想にしているわけではない。世論調査の対象にしても、その昔のリーダーズダイジェストの徹をふまないために、属性には留意しているはずだ。それでも、世論調査と実際の結果がくいちがうというのはそれなりの理由があるはずだ。よくあるのは、ワールドカップで日本が出場するとき開催国の住民にマイクを向け勝敗予想をきくのがある。そうすると、実際の可能性以上に日本の勝利を予想する人が多いようにみえる。考えてみればあたりまえで、聞いているのは日本の記者だとわかるし、そうだとしたら喜ぶような回答をするのがあたりまえだろう。世論調査については、回答が匿名であり、電話調査などの顔の見えない調査であっても、回答する側は自分の答えがどううけとめられるかを気にする。日本での報道を見る限り、米国のマスコミはかなり一方的に民主党候補を推していた。それも冷静に政策を比較した理論的なものではなく、トランプを支持する人々が〇〇であるかのような印象調査をしているのではないかと思うほどだった。こういう状況の中では、世論調査であっても、トランプ支持というのは言いにくかったのではないかと思う。同じことがもしかしたら日本でもあるのかもしれない。兵庫県知事選である。マスコミ報道では現知事をとんでもない人物であるかのように報じているし実際そうかもしれない。しかし、その中身をみてみるとパワハラの被害者は県幹部職員で、本当に弱い立場の者を踏みつけたというのとはちょっと違うように思う。まあ、もともとは現知事は総務省官僚で、彼らの中には自治体職員に対する強烈な優越感を持ち、なめられないために威圧的態度をとるというのもいるのかもしれないけど。いずれにせよ、個々の行為は態度悪いねえ…といったもので、あの「こ~のハゲ~」のようなものとは違う。内部告発者が自殺に追い込まれたのは大きな問題ではあるが、これと対立候補とを比較して県民はどちらを選ぶのだろうか。世論調査と実際の投票との乖離はないのだろうか。気になるところである。
2024年11月15日
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米国の大統領選の結果のでた日、机の上にあった朝刊の見出しをみると、史上まれにみる接戦、結果判明に数日も…という見出しが躍っていた。たしか、米国大統領選の情勢はマスコミ報道によると大接戦ということであったし、それはおそらくその取材源となった米国の高級紙もこうした論調だったのだろう。そして結果が判明した後、日本在住の米国人論客の多くが選挙結果に落胆する意見をネットに掲載していた。彼らが米国の世論すべてを代表しているわけではないが、米国のいわゆるインテリ層の意見というのはこうしたものではないのだろうか。マスコミ人士に代表されるインテリ層や都市型富裕層、そしてハリウッドセレブのような社会的に影響力のある成功者達はほぼ民主党の候補を推していた。一昔、いやふた昔前の選挙だったらここで勝負がついたのだろう。マスコミは社会の木鐸であり、セレブはオピニオンリーダーだったのだから。でも、時代は変わった。人々はネットというものを手にしたので、自分で情報を探し、自分で意見を形成するようになった。経済が好調だといっても、その富は自分のところには来ない。物価だけはあがり生活は苦しくなるばかりだ。そんなところにエリートの黒人女性が大統領候補をしてでてきて、黒人だから黒人の支持があって当然だ、女性だから女性の支持があって当然だ、ダイバーシティだから女性でマイノリティの大統領はおおいにけっこうではないか…といわれてもねえ、というのが多くの人の感想だったのではないか。マスコミやハリウッドセレブたちがやたらと彼女を支持しているけれども、マスコミ人士もセレブも自分とは別の世界の人間だからなあと思った人も多かっただろう。さらにいえばここ何年かで目立ってきたポリコレだのダイヴァーシティだのに辟易としている人もきっといる。ポリコレといって金髪碧眼のイメージだった中世ヨーロッパの物語のお姫様を黒人にして誰が喜ぶのだろうか。ダイヴァーシティといって下駄をはかせて要職に女性をつけたところで、一般の女性にとってはどうでもよい話だ。今回の選挙結果についてはサンダース氏の言った「労働者を見捨てた政党は労働者に見捨てられる」というものが一番正鵠を射ているようにみえる。リベラルと左翼は違う。トランプが庶民の味方とも思えないが、不法移民排斥は実際に職を奪われ、待遇が低下し、治安悪化に不安を持つ庶民層の琴線にふれただろうし、利口ぶったエリート女よりも面白いおっちゃんの方が投票先としてもよいに決まっている。今回の大統領選は庶民を見捨てたリベラルの退潮の契機になるのかもしれない。
2024年11月10日
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流行語大賞の候補30が発表されたのだが、まったく知らない単語がけっこうある。アサイーボールとかアザラシ幼稚園とか8番出口とかいうのは、へえ、そんなのあったの、初めて聞いたというレベルだ。本当に流行っていたのだろうか。また、界隈といって場所ではなく特定の人々をさす使い方って昔からあったような気がする。侍タイムスリッパ―とか被団協となると、たしかに今年の話題なのだけれども、あくまでも話題であって、流行語というのとは違う。初老ジャパンは40歳くらいを初老というのは明らかに死語だし、マスコミがいっていただけではないか。この流行語のノミネートは朝のニュースワイドショーでもとりあげていて、ただおやっと思ったのは、女性のコメンテーターの方が朝ドラの「虎に翼」のファンで友人たちともこの話題でもりあがっているので「はて」を押したいと発言していたことである。この女性のコメンテーターは政治経済の硬派なテーマでもコメントしているのでもちろん有識者である。これが別の朝ドラだったら自分がファンだとか友人との話題だとかいうだろうか。たぶんそうはならないだろう。番組そのものを見ていないのにかってなことをいうのはなんなのだが、もしかしたら「虎に翼」で朝ドラ視聴者層の中身に異変が起きたのかもしれない。昔の女性の法曹の物語ということで、いわゆる意識高い系のシニア層に大うけしていて、その分、懐かしい話を時計がわりにみるような視聴者は離れていったのではないか。後番組の「おむすび」の不振は虎に翼の視聴者層が離れ、かつての視聴者層が戻ってこないという不運な時期にあたったということで説明がつく。違っているのかもしれないけど。個人的にはこの中では50-50が選ばれるように思う。連続強盗がらみのトクリュウなども印象的なのだが、マイナスの印象の強い言葉はたぶん選ばれない。
2024年11月06日
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かつてはよく改革を叫んで支持を訴える候補者がいた。今回もいたのかもしれないけど、昔ほどではなかったように思う。そう…以前は「改革」といえばよいもののように聞こえ、候補者や政党でも「何かやってくれそうだ」というだけで支持されていたという例もあった。改革が昔ほどはやらなくなったのは、どうも、ここのところの改革というのはよいことばかりではないということに気づいたということもあるのかもしれない。余計な改革をやるよりは現状のままの方がよい。世の中のムードもそのようになっているのかもしれない。だからだろうか。「穏健な保守」ということを言っていた政治家が支持を集めたりする。今回の選挙では、大声で改革、改革…と連呼していた政党はなかった。これも一つの変化なのだろう。選挙結果は与党の過半数割れという結果になり、今頃は水面下でいろいろな駆け引きが行われているだろう。あの低投票率を見ても、世の中には政権交代自体の期待というのはないように思うが、政権交代自体を目的にするような政治屋もいる。細川総理や村山総理が担ぎ上げられたようなサプライズもまったく可能性がないわけではない。なお、今回の選挙で、あまり他では言われていないのだが、一つの感想がある。変なことを言っているというのなら無視していただきたいのだが、小泉議員が総裁選の中で、解雇規制の緩和などの発言をした。結局小泉総裁というのは実現しなかったものの、自民党の総裁選の中でこうした発言が出てきたということは、その後の総選挙に影響したのではないか。解雇規制の緩和に不安を感じる人々が自民党への投票を躊躇するというのはありそうなことである。争点はマスコミが作るのではなく、国民一人一人が自分が重視する点を考えて投票するものなのだから。
2024年10月29日
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ぐりとぐらの作者の方がなくなったという。この絵本はロングセラーになっていて、それだけ子供たちの願望や夢がつまっているということなのだろう。話は単純で森の中に友人同士で住むネズミのぐりとぐらがおいしいものを作って仲間たちと食べるという話である。このぐりとぐらは友達ということなのだが、興味深いことに、物語にお父さんとかお母さんは全くでてこない。そういえばやはり子供が大好きな絵本の「のんたんシリーズ」ものんたんの友達はでてくるのだが、のんたんのお父さんやお母さんは出てこない。もしかしたら出てくる話もあるのかもしれないが、知るかぎりではないように思う。いずれも対象は幼稚園や保育園児であり、実際には自立ははるか先という年齢なのだが、そろそろ友達という横の関係が視界に入ってくる頃でもあり、友達を求めるようになる頃でもある。だからうるさい大人などはぬきにして友達だけで楽しくわいわいやりたいという夢は、意外に小さい頃からあるのかもしれない。そういえば長じて子供が読むような物語にも、親のない子の物語が非常に多い。家なき子、母をたずねて三千里、小公女、秘密の花園、十五少年漂流記、アルプスの少女などなど。親はいないが元気に生きる主人公に自分を重ねながらわくわくどきどきするわけである。そして親なしでここまでやれる主人公をうらやましく思う。そして現実に自立できる年齢になると、当然のように子供は親の元を離れていくし、親の元にいても今度は庇護者としてふるまうようになる。それが長い間の生物としての人類の歴史だったのではないか。ところが最近では、成人しても親元を離れないという人も多くなっている。人は成長して親から離れ伴侶を求め、その間に生まれた子供も、また成長して親から離れていく。こういうサイクルも変わってきているのかもしれない。
2024年10月28日
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今日は選挙日。とにかく投票には行こう。それにしても、最近めだつ匿流による犯罪の頻発。これが一時的現象なのか、社会の大きな地殻変動の表れなのか気になるところである。地位、財産、名誉、家族、職場、友人などの失うものを持たない人を無敵の人(アイロニーではあるが)といい、こうした無敵の人の犯罪が今後増えていくという話はよくきく。しかし、匿流による強盗の実行犯は若者であり、これは若さという最大の財産をもっている人々である。けっして失うもののない無敵の人ではない。どうかその最大の財産、これからの人生というものを無駄にしないでほしいものである。話が変わるが三年続けて日本人の自然科学系ノーベル賞受賞者はでなかった。これも、たまたま三年間の空白なのか、これからもずっとそうなのかはなんともいえない。ただ国家のステイタスというものは、いろいろな考えがあるのだろうけど、その国がどれだけ科学技術の発展に貢献したかということがあるのではないか。そして現実的な話をすれば、その国発の技術は金を生み、その金は国内にまわっていく。ジャパンアズナンバーワンといわれた頃は全世界を日本製品が席巻していた。そして国内で豊かな大衆が生まれたことで大衆文化が発展し、日本発のエンタメもまた流行した。日本の大学は法文系は私学も多いが、理系は国立大が中心になっている。国立大の授業料値上げなど、どう考えても愚作としか思えない。今回の選挙はもしかして将来において歴史の転換点になった選挙といわれるかもしれない。よく考えて投票をしよう。
2024年10月27日
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こんな実験があるという。やわらかいとかたい、暗いと明るい、甘いと酸っぱいといったような反対の意味を持つ形容詞を表す各国の言葉を並べる。そしてその言語に全く知識のない被験者に、どちらがどちらの意味をあらわすかを当てさせるというものだ。そうすると、世界のどこでどの言語を対象に実験をしても、半数以上の正答率を示すという。いつ人類が言葉を獲得したのかは知らないが、言葉とは結局は人が作り、人が使うことによって成立したものだろう。そうだとしたら、その背景には言葉以前の語感というものがあっても不思議ではない。また、語感と関係あるかどうかわからないが、世界の言語の多くに否定の意味でN音が使われているという。これも世界の多くの言語といってもインドヨーロッパ語族のような大語族もあり、それに日本語などいくつかの言語も入れば「世界の多くの言語」になるのかもしれない。リンクさせていただいている方の日記に、「ヌ音の破壊力」などについて記述されているものがあったが、それについて以下のようなレスを書いた。詩歌では語感も大切である。なお、余談だが、大昔「かきすらのはっぱふみふみすぎちょびれ」という変な流行語があったが、これを流行らせたタレントは学生時代、俳句で名を成していたという。俳句で鍛えた言葉のリズム感あっての流行語で、決して、お笑いタレントがバカ言っていたというわけではない…と妙に納得。そうですね。ぬらりひょん、ぬりかべ、ぬし、ぬさ…なにかぬ音には人間を超えたものに対する畏れのようなものを感じます。音にはそれぞれ語感があって、素朴で技巧とは無縁といわれる万葉集でも、額田王の「茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」では31文字の中にサ行音が5文字使われていて清新なイメージを出していますし、人麻呂の「あしびきの 山どりの尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」ではナ行音が7文字使われていてねっとりとした独り寝の辛さを感覚的に伝えているように思います。優れた歌は、音の語感を大切にしているものですね。
2024年10月17日
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昔、加賀乙彦の長編「湿原」を読んだことがある。冤罪を軸とした物語であるが、国家と個人、組織と個人などいろいろなことを考えさせられる。印象的だったのは、冤罪にかかわる警察官、検察官に悪人は誰一人いない。皆よき社会人、よき家庭人、そしてよき友人、隣人である。冤罪の被害者は窃盗前科のある男と精神病入院歴のある女で、この二人が小説の主人公である。最初に自白を引き出す刑事は捜査のコツとして、自分でとにかく容疑者が犯人であることを信じ、その固い信念で自白を迫ると言う。別件逮捕、そして長期間の取調べで自白に至る心理はこの小説のよみどころとなっている。この小説では第一審有罪、第二審無罪となるのであるが、冤罪が濃厚になると、警察キャリアはノンキャリア刑事の強引な捜査にひっぱられたと責任転嫁を始める。そんなものなのかもしれない。冤罪は国家がものすごい暴力装置として一私人に襲い掛かるものであって、被害者からみればこれ以上に不条理な不幸はなかなかない。なぜ冤罪が起きるのかというメカニズムはもっと検証すべきだろう。あってはならないことだから考えないというのではなく、ありうることだから、なぜ起きるのかを徹底的に調査することが必要ではないのだろうか。捜査や訴訟に携わった方の多くは鬼籍に入っているのかもしれないが、当時若かった人の中には存命の方もいらっしゃることだろう。そうした人々の中には役立つ話の出来る方もいるかもしれない。当時、冤罪を信じていたという裁判官の美談だけで終わってよいとは思えない。なお、裁判員という制度にどうしても疑問と違和感を持つのは、刑事裁判における冤罪の可能性がある。冤罪の多くは偏見や思い込みが背景にあり、市井の人である裁判員は裁判官以上にそうした偏見や思い込みにとらわれている場合が多い。裁判員制度は冤罪防止には役に立つとは思えない。そして抽選に選ばれただけの市井人には、後に冤罪が発覚したとしても、いかなる意味でも責任を問うのは不適当であろう。刑事裁判における判断は非常に重い。こうしたものを市井人に関与させる裁判員制度はやはりおかしい。
2024年10月15日
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その昔、遺跡捏造事件というものがあった。民間出身の研究者がたてつづけに旧石器時代の遺物を見つけたのだが、のちにそれが捏造と発覚した事件だ。おそらく最初の発見は本物だったのだろう。それが「神の手」と持ち上げられることとなり、ひっこみがつかなくなって捏造ということになったのだと思う。この民間研究者は一時は講演などで高収入を得たのかもしれないが、捏造は、それが目的というよりも、周囲の期待に応えないと申し訳ないという心理の方が強かったのかもしれない。偶然が左右する発掘の世界で、神の手などというものがあるわけもなく、捏造を見抜けなかった学会にもかなり問題があったのではないか。犯罪捜査の証拠捏造も似たようなものなのかもしれない。かつては名刑事という人があちこちにいたのだが、そうした名刑事も評判が立つとどうしても期待に応えねばと思い、強引な捜査をしがちになる。静岡県警にもそうした名刑事(後にはトカゲの尻尾?)がいて、自白をとるためにかなり強引なこともやっていたという。名刑事退職後もそうした捜査手法は受け継がれ、それが袴田事件の冤罪の一因になったのだろう。そして袴田事件の公判が始まり、当初の証拠物の証明能力が疑われ始め、無罪判決の出る可能性がでてきた。捜査員達はあせったことだろう。冤罪事件の責任を問われ、降格されたうえ、55歳で亡くなった名刑事の末路は知られている。無罪判決がでたら自分らも同じことになるだろう。追い詰められての捏造。証拠捏造があったとしたら、それを行ったのは少数であったとしても、見て見ぬふりをした人間は多かったのではないか。当時の捜査員で噂くらいは聞いた人はいるだろうし、中には存命の人もいるかもしれない。警察官も証拠捏造だけなら罪悪感があるが、その罪悪感をふきとばすのは、組織のためという論理と、そして彼が真犯人に間違いないという確信であろう。後者は罪悪感を消すために、証拠捏造後ますます強くなったのではないか。袴田事件からは本当に長い年月がたっている。国家権力の側で、今発言をしているのは、無実と思いながらも有罪判決にかかわった裁判官や再審決定にかかわった裁判官であり、彼らはまるで美談の主のような扱いである。そして当時の捜査員や死刑判決にかかわった裁判官や検察官の発言は聞こえない。歳月とはそういうものであろう。
2024年10月10日
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いつも思うのだがノーベル賞の中で平和賞と文学賞は別カテゴリーにした方がよいように思う。平和賞は西側諸国の政治的思惑がみえかくれするし、環境問題など「平和」とは直接かかわりのないテーマでの受賞の例もある。環境問題への貢献でノーベル平和賞を受賞した方が大量のごみを出していたという真偽不明のジョークもあるのだが、そんな話を聞いても誰も驚かない。文学賞も同様で、自然科学への貢献がわりあい客観的に判断できるのに対して文学のレベルなど客観的に評価できるのだろうか。日本でも川端康成と大江健三郎が受賞し、今年もきっと村上春樹が話題になると思うのだが、この御三方以外にも好きな作家がいるとか、この御三方のどこがそんなにいいのかわからないという人も多いのではないか。所詮は文学の味方など主観的である。そして過去のノーベル文学賞をみても、チャーチルの自伝が受賞しているが、今この自伝はどのくらい文学的に読まれているのだろうか。なにか政治的な背景があるように思えてならない。また、「クオバディス」も受賞しており、これは非常に面白い小説でるが、登場人物はやや類型的で善玉悪玉もはっきりとしていて、やや深みにかけるようにおもう。大衆小説と純文学の区分というのは難しいのだが、これは間違いなく大衆小説に分類できよう。もちろん大衆小説が価値が低いということはないのだが、ノーベル賞の趣旨は純文学の表彰なのではないか。なぜ、こんなことを書いているのかといえば、ノーベル文学賞受賞作「百年の孤独」を読んでいるのだが、これが全く面白くない。登場人物が似たような名前でわかりにくいというのはよいのだが、登場人物がぶっとびすぎていて、何を考えているのかわからない。このあたり「村上春樹」の小説もそういうところがあり、最近の文学の流行なのかもしれないが、ちょっとついていけないなと思う。この「百年の孤独」は三分の一ほど読んだところであり、リタイアせずに、読了したら再度感想を書いてみる。
2024年10月04日
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世の中の事象は複雑にからみあっているので、二つの事項について関係を調べると、相関がみられるものがかなりある。一方が増えれば一方も増える、また逆に一方が増えれば一方が減るという関係である。こうした相関がみられる関係があると、すぐに因果関係を想像するのだが、現実には因果関係のない場合も多い。ただ、自然現象と違い、人間に関する事象は複雑で個々の場合にはそれでも因果関係のある場合もないこともない。たとえば、将棋の好きな子は学校の成績がよいというデータがあったとする。こういうデータを見て、将棋が好きになれば学校の成績がよくなると考える人はあまりいない。将棋が好きなような子は学校の成績がよいことも多いのだろうと解するだけである。ただし、個別の事例の中には、将棋がきっかけとなって、落ち着きや自信が出て学業成績も上がったという例がないわけではないが、それはあくまでもそういうこともあるというだけのことである。次に因果関係があったとしても、どちらが因でどちらが果かは、また、別の問題である。ランニングをやっている高齢者は元気であるというデータがあった場合、だからランニングは健康によいという結論をだすのは早計というものだろう。現実は、元気だからランニングをやっているという場合が普通だからである。以上を踏まえ、未婚男性は既婚男性に比べて短命だというデータがあるが、それをどう解すべきだろうか。まず、収入がなかったり極端に低収入の男性というのは、結婚の機会もないだろうし、健康管理や生活態度に問題のあるケースも多いので、一般に短命だろう。未婚男性の中には一定数そうした層もいるので、統計データで短命というのもうなずける。次に、そうした層を除外して、似たような条件の独身男性と既婚男性を比較した場合、それでも既婚男性の方が長生きなのだとしたら、家族を持ったことによる責任感やそれにともなう健康管理への関心、また、外食が減ることによる食生活の改善などが寿命を延ばす要因になっていることが考えられる。これもおそらく無視できないものなので、男性諸君よ長生きしたければ結婚しろというのも一理ある。ただそうした責任感があり、自己管理能力の高い男性は、女性に選好される機会が多く、それゆえにとっくのとうに結婚しているという見方もできる。もちろん心を込めて健康によい食事を準備するような良妻を得て…。今後、生涯未婚率の高い世代も次第に高齢期に入っていく。そうなると、日本の平均寿命も急速に短くなっていくのかもしれない。※※立憲民主党の代表は野田氏になった。野田氏が政権とりにいく…なんちゃってね。政治と金などスキャンダルを前面に出しての政権批判、LGBTや選択的夫婦別姓のような一般国民にはあまり関係ないことよりも、普通の人の普通の生活に密着した問題をとりあげて論戦してほしいものである。もう政治テーマはやめたので、これ以上は書かないけど…。
2024年09月24日
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君が代の元の歌が古今和歌集の賀歌にある。賀歌というのは長寿を祝う席での歌で、内容もさらなる長寿を願うものになっている。君が代の元歌も「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」で無窮の寿命に小石が次第に岩に成長し立派になってゆく様子を重ねている。単なる長寿だけではなく家門の末永い繁栄も重ねているわけである。この長寿の賀であるが、昔は40歳から祝ったようで、源氏物語にも源氏40の賀というのがでてくる。40まで生きるというのは大変なことだったのだろう。今では平均寿命もずっと長くなっている。これも、例えば男性の平均寿命が昭和30年でも63.6歳なんてことを思えば、そんなに古いことではない。ちなみに男性の平均寿命が70歳を超えたのは昭和46年である。そういえば、職場に入ったばかりの頃、定年で挨拶回りをする人がいると、よくこんなことをいう人がいた。定年を迎えるとポックリ逝くことがよくあるので気をつけるように今では、不運にも早世する場合もあるにしても、多くの人にとって、老人になるまで生きるのは普通のことになっている。このように長生きが普通のことになっている一方で、昔は普通だったものが普通でなくなっているものもある。結婚することと子供をもつこととである。少子化の原因はある時期までは兄弟数の減少であったが、昨今はむしろ未婚化が背景になっている。結婚できる人は二人以上の子供を持ち、一方で未婚という生き方も普通になっている。ある意味、結婚して子供のいる人生と未婚の人生とが併存しているというのは今の状況だろう。そしてまた、結婚についても同類婚が増えているというが、これは男性も女性も同じような収入職業の相手と結婚するということで、いいかえれば大企業正社員同士のようなパワーカップルの比率が高くなっているということではないか。大昔のように一人前と認められた男性が年若い女性を嫁に迎えるという結婚は絶滅危惧種になっているということだろう。普通の人の人生というものも時代とともにずいぶんと変わる。平均寿命の伸長だけではない。そして今後増えていくのは独身の高齢者だろう。そしてまた、増えているという熟年離婚も考えると、独身の高齢者は級数的に増えていく。そのときにはどんな社会になっているのだろうか。
2024年09月16日
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障碍者に対する強制不妊手術を違憲とした最高裁判決を受け、こうした強制不妊手術の被害者を救済する法律が準備されているという。強制不妊手術の被害者に1500万円、配偶者に500万円、中絶手術の被害者に200万円を保障する方向であるとするが、実際には被害者のかなりの方は知的障害者であり、その場合には補償請求手続き等は別人が行うことになる。多額の補償金が本人のために使われるのかどうか、詐欺的な第三者などが介在するおそれはないかなど、いろいろと考えてしまう。昔は今のように障碍者が入る施設はなかった。娘の場合には親が知らない間に妊娠してしまう不安、息子の場合にはまた別の不安があったであろう。それにまた、強制といっても、まさか巡査が家にやってきてむりやりに拉致して手術をうけさせたというわけではないだろう。少なくとも親の同意の下に、本人のためにもよかれと思って手術が行われたのではないのだろうか。
2024年09月13日
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明治維新というのは、当時は大瓦解ともいわれ、従来身分によって家禄や俸禄が保証されていた武士たちが大量に失業した時代であった。なんとか生活できるようになった元武士が人力車に乗り、車夫の顔をよくよくみたら殿様だったという都市伝説もまことしやかに語られていたという。それでも、能力と運、そして閥にも恵まれた元武士達は官界や軍隊に入り、それなりの地位についていった。明治初期の官僚をみると前島密や渋沢栄一(一時大蔵省にいた)など朝敵藩や幕臣からも登用され、重職についた人も多い。そうした中で大藩であったにもかかわらず、さっぱり登用されていないところもある。水戸藩である。たしかに薩長土肥ではないのだが、水戸藩出身者はことさらに差別されていたのだろうか。そんなことはない。結局、桜田門外の変、天狗党の乱、その後の藩内部での粛清などで、これといった人材がいなくなってしまったのだろう。残ったのは元将軍だけというわけである。そういえば、初期の警察には薩摩警部に水戸巡査という言葉がある。警察官には元武士がほとんどであったが、水戸藩出身は警察でも巡査しか務まらなかったということなのだろう。幸い日本史には大規模な粛清というものはないのだが、世界史にはときどき恐怖政治や粛清の悲劇がある。これはそれ自体、恐怖であり悲劇であるのだが、もう一つ恐ろしいのは人材の蕩尽ではないのだろうか。みるべき文化や学術芸術を生み出していた国家なり民族が、粛清の時代を経ると、精彩を欠いてしまうという例も、あるのかもしれない。このあたり、あまり言いすぎると差別とか問題発言とかになるのかもしれないが…。パリ五輪を契機にネットなどでフランス革命の記述をいろいろと見て、昔の世界史の授業なども思い出しているのだが、フランス革命は王政を打倒して終わりではなく、その後、恐怖政治が行われ、パリだけで約1400名、フランス全土で20000名が処刑されたという。当時の人口規模からいえばけっこうな数だろう。こうした恐怖政治を経た後も、フランスといえば学術、文化、芸術の中心でありえたわけなのだから、これはこれでたいしたものだと思う。
2024年09月11日
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よく使われる言葉なのだが、よく考えるとわからない言葉がある。大衆文学と純文学というのもそのうちの一つかもしれない。ネットで見ると、最初に目についた説明では、純文学は国語の教科書に載っている作家で芸術性が高いとされるもの、大衆文学は今でいうエンタメで面白い読み物をさすとある。国語の教科書に載っているかどうかが基準というのなら、純文学を決めるのは教科書会社なのかしらと思うし、大衆文学が面白い読み物なら純文学は面白くない読み物なのかとも思うし、どうもよくわからない。また、別の説明では、大衆文学というのは「大衆に喜んでもらえることを目的とした小説」とある。しかし、本というものは喜んで読むようなものでなければ売れないし、職業小説家であるならば売れるものを書こうとするのが普通ではないか。読者に大衆と非大衆の区別などないので、この定義だとすべて職業的に書かれる小説は大衆小説になるのではないか。それ以外に、よくいわれる大衆小説の特徴として、ご都合主義的なストーリーとか典型的な人物像ということもいわれる。しかし、ご都合主義的な展開がないと、そもそも物語というものは生まれない。「アンナカレーニナ」で兄夫婦の家庭内のごたごたを仲裁するために汽車に乗った人妻がそこで不倫相手となる青年に出会うというのもご都合主義だが、これをもって大衆小説だという人もいないだろう。それでも、しいて定義するとすれば、ストーリーの面白さに重点が置かれ、人間を描くことにはあまり重点を置いていないのが大衆小説ということになるのかもしれない。たしかに純文学にはストーリーのないものもあり、それでも読まれている純文学はストーリーに代わる面白さがある。じゃあ、逆も真かといえば、そんなことはなく、ストーリーの面白さは純文学性を否定しない。結局のところ、トリックだけで読ませる推理小説やアイディアだけで読ませるSFは別にして、ほとんどの小説は人間を描き、社会を描き、時代を描くという意味での文学性があり、そうしたものがないと、とうてい読まれないのではないか。誰も読みたくないものは純文学でも大衆文学でもない。長い年月にわたり人々に愛されてきたものをみれば、「源氏物語」には今日の恋愛ドラマにもみられる要素があるし、シェークスピアの一連の戯曲には、後世の大衆小説のプロットの萌芽とみられるものがかなりある。
2024年09月10日
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ずっと昔読んだ言葉に「ものを書く人間を信用してはならない」という言葉があった。徒然草は夭逝庶幾といって人間は老醜をさらす前に若いうちに死ぬのがよいということを言っている。けれども兼好法師自身は68歳で没したとされるので、夭逝どころではない。若きウェルテルの悩みが発表されたとき、ウェルテルと同じスタイルで自殺した青年が何人かいたというが、作者本人はもちろん自殺していない。書いていることと、作者本人は別物なのである。松尾芭蕉には名句がいくつもあるが、けれども実際には佐渡島の上に天の川がかかる光景は佐渡島を越えて日本海上からでないと見えない。光堂は閉まっていてみることができなかったので、俳句に歌われた光堂は想像だ。もっと最近では寺山修司は高校生の時に母の死を悼んだ名歌を読んでいるが実際の母は死んでいない、その後も、様々な文章で、母親が自殺したとか駆け落ちしたとか、いろいろと書いていたが寺山の死後、母親は元気に姿を現している。第129回 「母」を死なせるのはなぜ? | 図書出版 弦書房 (genshobo.com)文学にフィクションはどこまで許されるかという問題になってくるのだが、フィクションだからと言って文学的価値がないというのも言い過ぎだろう。荒海や…の句は、それ自体が荒涼とした海と天の川の対比が想像される名句であることには違いない。内容の虚偽の他に、じゃあ、作者本人についての虚偽はどうなのだろうか。評論には偽外国人というジャンルがあって、日本人だと問題発言になるようなものでも、外国人(欧米人)の仮面をかぶるとゆるされるものがある。読者の方もなんとなくそれを了解しているのならよいのだけれども、その了解なしに純然たる外国人と思わせるのは反則のように思う。これはフィクションでも同様で、外国人の名で日本を舞台にした小説を書く場合、読者は外国人の目を通じた日本に興味を持つわけなので、やはりこれも反則ではないか。
2024年09月06日
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その昔、明治維新は世界史の奇跡だと言われていた。そもそも近代文明というものは欧米でだけ可能なもので日本だけが近代化できたのは奇跡としかいいようがないというわけである。教科書にこんな言葉があったかどうかは記憶にないが、教師からはこういう言葉を聞いたように思う。あの頃はアジアの国々は非常に貧しく、アジア大会も二線級の選手を派遣したにもかかわらず日本が金メダルを独占していた。富める孤児…当時の日本にはこんな名称もあったように思う。アジアで唯一ありえない近代化をやってのけたのだから日本人はよほど特殊な民族に違いない。そう思った人が多かったせいか、「日本人論」というのが評論の一つのジャンルとなり、時代時代でベストセラーを出していたように思う。これはだいたい日本人による日本人論、欧米人による日本人論、欧米人を騙った日本人による日本人論の三つがあり、いずれも面白いものがでていた。また、この日本人論から派生したのかもしれないが、欧米と日本の行動様式の差異を説明するのに、狩猟民族、農耕民族という区分をつかって説明することもよく行われた。日本人の同調圧力は隣百姓理論、つまり周囲の状況をみながら農作業の時期を決めていた伝統で説明できるし、指導者が外国に比べてみおとりすることも、農村では指導者にさほどの能力が要求されなかったということで説明した。それをいうのなら、他の米作文化の地域で、同様の傾向があるかどうかを検証しなければならないのだが、そうした検証は頭にない。こうした評論は面白い読み物として消費されていたわけである。今は日本だけがアジア唯一の近代国家で豊かな国だというわけではない。この間、北海道旅行に行ってきた友人は一杯一万円のウニ丼があったとびっくりしていたが、食べに来るのは外国人観光客だという。今の時代に新たな日本人論がかかれるとなればどんな内容になるのだろうか。
2024年09月05日
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美容院の倒産が急増しているという。背景としてはショートカットの流行やコストアップが言われているが、やはり人口高齢化を背景として美容院に金をかけてもよいという人が減ったのではないのだろうか。お洒落な美容院に行って相当の金と時間を使って、そして最後は鏡をみて満足する…というのは、ある意味、それ自体が一種の娯楽のようなものなのかもしれないのだが、節約志向になればそうした出費はまっさきに削られる。さらに、高齢化すれば、そうしたものに金と時間をかけるインセンティブは低下する。さらに言ってしまえば、こうした倒産は、お洒落系美容院だけではなく、1000円カットにも及んでいるのではないのだろうか。というのは、近所に1000円カットの店があったが最近閉店したのを知っているからである。おしゃれとは対極にあるような店がまえや客層(失礼)だったのだが、一人1000円といってもひっきりなしに客が来るわけでもなければ、その売り上げだけで人件費、場所代、器具代をまかなうのはかなり厳しいだろう。1000円カットの普及がカットだけで何千円もとるような美容院の客を奪っていたのかもしれないが、1000円カットは1000円カットで経営の厳しさがあるということだろう。そしてまたカラーリングも美容院だと何千円もとるのだが、これも最近では市販の製品の品質が上がり、家で染髪する人が増えているのではないか。染髪については、高齢化とともにマーケットは増えているのだが、美容院染髪から家庭染髪という流れがあるのかもしれない。こうした美容院倒産急増だけでなく、しばらく前には花屋が苦境という記事もあった。また、クリーニング店も閉店が相次いでいるともいう。町の本屋や個人経営の喫茶店は消えつつあるといわれて久しい。街の看板や店を見れば、社会の動向がわかるというのだが、それではいったいどんな店が増えているというのだろうか。
2024年09月03日
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家父長制的思考というのとは違うと思うが、自民党の憲法改正案をみて気になることがある。それは憲法第24条について家族は互いに助け合わなければならないという記述が追加されていることだ。家族の助け合いは望ましいことだし、道徳的に推奨すべきことで、これを批判するつもりはない。しかし、これを憲法に記載すれば、それを受けて様々の制度に影響することが考えられる。いや、それどころか、現行の制度でも家族の扶養を前提とした扱いがなされており、それはもしかして日本特有のものなのかもしれない。ここで、家族の扶養という場合、成人した子と親の間の扶養や兄弟間の扶養などである。まず、生活保護行政で扶養照会が行われることがあり、これが申請の際のネックとなっているという。生活に窮していることを親、兄弟、ときには叔父叔母まで扶養照会という形で知られるとなれば躊躇する気持ちもわかる。だいたい、親族扶養といっても美談のようなものだけではない。例えば、先の戦争で結婚の機会を失った女性の中には、兄夫婦や弟夫婦のやっかいになった例もあるが、無給のお手伝いさんとして針の筵のような生活をした人も少なくなかったのではないか。本人が生活保護を望んでいるにも関わらず、扶養するという親族がいる場合、その扶養が健康で文化的どころか、全くの生命維持のための食事だけで生き地獄のような生活という場合だってありうるのである。こうした扶養照会のような制度は外国にもあるのだろうか。次に、某私大の学長が、国立大の学費値上げを提言して「負担できる方には負担してもらうのがよい」と言ったことがある。保育園は働く親のための制度であるので所得に応じて保育料が違うのはわかるが、大学は大人が自分のために自分の選択でいくところである。「負担できる方」というのは親をさしているのかもしれないが、大人の行く大学の授業料になぜその親の所得を云々するのか疑問である。奨学金など資源に限りのあるものについては、親の所得が一定以下の学生に限るということはやむを得ないのかもしれないが、それにしても、大学生の授業料についての議論に親の所得がどうこうというのは日本特有の現象なのかもしれない。
2024年08月31日
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昔、「破壊工作」という本を読んだことがある。大韓航空機自作自演説についての本で、実行犯とされる二人の男女の足跡を追い、疑問点を指摘したもので、読んでいて非常に面白かったという記憶がある。ただ、読み終わってみると結局のところ決定的なものはなにもない。たしかにいわれてみれば変なところはあるのだが、人間が常に合理的に行動するわけではないし、周囲の状況が予定どおりに行くわけでもないので、後からみて疑問なところがあるのはあたりまえなのかもしれない。あの事件が起きた時、なぜ韓国大統領選に影響を及ぼす絶妙の時期を選んだのか、なぜ数多くの航空路線があるのに中東への出稼ぎ労働者が乗客のほとんどを占める路線がねらわれたのかといった点について、すごく不思議に思ったものなのだが、さすがに自作自演はないだろうと今なら思う。これにかぎらず、大きな事故や事件については陰謀論が必ず出てくる。9.11自作自演説や日航ジャンボ機事故撃墜説などである。また、事件や事故ではないのだが、月面着陸映像捏造説もある。単なるトンデモ説かもしれないし、そうでないのかもしれないが、それ以上、判断する材料を持ち合わせていない以上、こういう話もあるんだくらいで話題にするのがせいぜいだろう。元総理銃撃事件を扱った「暗殺」(柴田哲孝)を昨日から読み始めている。こうした要人の暗殺というのも陰謀論がでやすい。ケネディ暗殺などは有名だが、伊藤博文暗殺についても犯人は他にいるという説があるという。元総理銃撃を扱った「暗殺」も陰謀論のようだが、小説の体裁をとっている以上、どこまでが本当なのだろうか。それにしても、この実行犯とされている人の初公判が事件から2年以上たっているのに、いまだに行われていないのは不思議でならない。
2024年08月29日
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令和のコメ不足がかってのような冷夏によるものではなく、温暖化や耕作面積の減少によるものだとしたら、今後ますます深刻化する可能性もあるのではないか。温暖化はおそらく冷夏のような一年限りの現象ではなく、これからも続くだろう。そしてそれ以上に急激に進んでいるのは耕作面積の減少だ。現在の農業従事者の平均年齢は70歳に近いともいわれるが、そうだとしたら、ある時期を境に農業従事者が急減することが予想される。実際に、ここ何年かの間に農村風景も激変している。耕作放棄地の増加と太陽光パネルの拡大である。誰も農業をやりたがらない、やる人がいない…となると、これからはコメに限らず様々な農産物が国内では賄えなくなっていくのではないのだろうか?それとも、社会全体の高齢化もあって、今後は家庭菜園も普通になり、かつてのソ連のように週に何日かは別荘で農作業なんていうのが普通になるのかしら。戦後間もない頃の歌「みどりのそよ風」にこんな歌詞がある。七色畑に妹のつまみな摘む手がかわいいな七色畑というのは謎なのだが、家庭で食べるためにいろいろな作物を庭に植えたのだろう。つまみ菜の栽培はまだ簡単なのだが、コメというのは家庭菜園では厳しい。
2024年08月28日
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令和のコメ不足だそうである。理由は昨年の猛暑や地震の影響を受けての買いだめといわれるのだが、どうなのだろうか。コメの収穫量はたしかに減っているが農業従事者の高齢化や農地の減少によるところも大きいだろう。地震の影響というのもどうなのだろうか。震災の不安が高まったのはたしかなのだが今に始まったことではない。むしろ「買いだめ」のニュースが買いだめをよんでいるのではないか。コロナが始まった頃、マスク騒動に続き、コメや保存食品の買いだめという動きもあった。ステイホームで戦々恐々としていた頃は買い物も最小限にし、そのうち、本当に物の供給がなくなるのではないかと不安におもっていた人もいたわけである。実は、あの頃に、コメをあわてて買い、しまっておいて忘れていたのだが、それが3年後くらいに出てきたため、古々々々米といいながら、やっと消化した。その時の教訓から、たしかにスーパーなどではコメはなくなっているが、あわてて買わなくてもいいように思う。また、地震の影響であるが、日向灘を震源とする地震があったことで南海トラフ地震に警戒する必要が高まったとのことなのだが、はたして地震予知というのは可能なのだろうか。南海トラフ地震にしても、1361年から1946年までの間に100年から150年周期で大規模な地震が発生しているという歴史学的知見が根拠となっている。しかし、地質学の世界では地質の活動は10万年単位に考えるともいわれており、これに対する人間の記録などはせいぜい1000年くらいのものである。そして地域も機内周辺の記録が多いのは当然で、東北や北海道の記録はないのではないか。人間だって咳がでやすいかどうかは医師は診断できるが、その人が10秒後に咳をするか20秒後に咳をするかはどんな名医でもわかるわけがない。人間にとって重大事の1年や10年という時間も地球にとっては1秒や10秒のようなものである。
2024年08月27日
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政治について語るとき、よく右とか左とかいう語が使われる。この右とか左についての古典的な見方では、経済的、あるいは社会階層を上下に分け、富裕層の立場にたつ意見を右、貧困層の立場にたち意見を左としている。昔は、マルクス主義あるいは社会主義という理論が流布しており、貧困層つまり労働者階級こそが人類の歴史の歯車を回し来るべき社会の主人公になるといわれていたので、左=マルクス主義、右=反マルクス主義という区別はわかりやすかった。けれども今は時代が変わり、日本で言えば江戸時代に生まれたマルクス主義を正しいと思う人はどれくらいいるのだろうか。今の格差は親がブルジョアかプロレタリアかによるものではないし、工場や農地などの生産手段を国有化したところで平等な理想社会が生まれるわけでもない。今でも右や左という言葉が使われるが、これは左=リベラル、右=移民排斥という意味で使われることが多いように思う。これがますます混乱する。リベラルという語は保守に対する語で、保守とは伝統的思考方式をさす。欧米では伝統的思考方式は宗教と結びついているので、宗教で罪悪としている中絶やLGBTが政治的テーマとなる。日本では、その伝統的思考に当たるのがなぜか家父長的思考とされ、LGBTだけではなく、選択的夫婦別姓やジェンダーの問題も政治的テーマとされている。はっきり言おう。ほとんどの国民にとっては、LGBTも選択的夫婦別姓もどーでもよい問題で、やりたければどうぞではないだろうか。ジェンダー差別も能力を活かせないという意味での差別は、とうの昔になくなっている。某県で問題になっている公立高校の男女別学であるが、これは優秀な女子が男子のトップ進学校に入れないのは差別だといわれても、男子が女子のトップ進学校に入れないということは問題視されない。なにか男子の進学校を女子の進学校の上に置くような、それこそ一種の「男尊女卑思考」ではないかと思ってしまうのは自分だけなのだろうか。移民排斥となると、日本ではそうした問題が起きていないだけにもっとわかりにくい。極右というと、なにか特殊な偏った思考のようだが、欧州ではその極右政党がかなりの支持を得ているので偏った少数派とはいえない。英国ではパリ五輪期間中に反移民の暴動が起きている。そしてその極右の支持層は、右というから富裕層かと思いきやさにあらずで極右の支持基盤は貧しい層である。それもそのはずで、移民労働者に職を奪われたり、移民の流入によって待遇が低下するのは低賃金労働者だから当然だ。さらに移民が集団で住めば、周辺住民には脅威になるのだが、そうしたことは高級住宅地ではまず起こらない。移民の犯罪発生率が高いというのは偏見でもなんでもなく、経済的に不安定だったり希望のない状態におかれた人ほど逸脱しやすいというのは人間に共通することである。だから、貧しい層は反移民を支持し、移民に職を奪われる不安もなく、高級住宅地に住み、移民系といってもその中の知的エリート層とだけお友達になっている裕福な層は反移民をポピュリズムとよんで軽蔑する。結局のところ、左=リベラルは富裕層、右=貧困層といった、昔ながらの右とか左といった概念とは様相が異なってきているわけである。米国でも大企業幹部などの本当の富裕層は別にすれば、裕福な知的エリートは民主党支持、ラストベルトの労働者は共和党支持という図式になっているという。
2024年08月25日
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お盆ということもあり、墓参に出かけた。八王子の静かな山の中にある墓地であり、墓地ができた当初にお墓を建てた。その後は、お盆やお彼岸、命日のたびにお参りをしており、ずいぶん年月がたっているのに、お墓はそれほど増えていない。そういえばひところは墓地不足という言葉が聞かれたが、最近はあまりいわれなくなっている。それどころか、古いお寺などでは、放置されている墓所を整理しているところも多いようだ。葬式離れとか僧侶離れということが言われるが、墓地離れということもあるのかもしれない。古い感覚では盛大な葬儀と立派なお墓が幸福な人生の終着駅のような見方もあったのだが、今ではそんなふうに思っている人はいないだろう。どうも、背景には少子化ということがあるのかもしれない。自分には子供がいない、子供がいても孫がいないとなれば、お墓を建てても、その墓をずっと守る人がいるとは限らない。昔なら、たとえ自分に子供がいなくても血縁集団という感覚があり、その血縁は未来永劫ずっとつながっていくという感覚があったものなのだが。少子化の影響については様々なことがいわれている。ただ、それはどうも経済関係の分析が多いように思う。そうではなく、血縁が連綿と未来永劫に続くという感覚、家も墓も何万何千年はないにしても、今後何百年くらいは続くという感覚がなくなっているのではないか。「太平記」などを読むと、昔の武将は後世に残る名をなによりも大切にしていた。自分の子や孫はたとえいなくても、自分の属する血縁集団は永遠に続く。その中で、恥ずかしくない形で自分の名が伝えられなければならない。こうした感覚は今では理解しにくい。自分の死後も子々孫々がお参りするお墓、自分の死後も家の名誉として大切にされるであろう勲章や褒章…自分の子孫がいないのだとしたら、そんなものはどうでもよい。もしかしたら、そうした感覚が広がりつつある時代なのかもしれない。
2024年08月20日
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番組としては見ていないのだが「逃げ上手の若君」という南北朝期を舞台にしたアニメが人気なのだという。「太平記」を読みながら南北朝の武将について検索するとしばしばこのアニメがヒットする。この時代は今まで漫画やドラマの舞台になったことが少なく、その分、登場人物もイメージが固定していなくて、面白い話が作りやすい。それに登場人物も多様で、武将の中には、源氏や平家のような武家もいれば、寺社勢力もいる。また、公家の中にも武力を有するものもいるので、このあたり、武力の有無が武家と公家をわけているわけではない。「太平記」で描かれている時代というのは公家が没落していった時代であり、貧窮死する公家一家の挿話や身寄りのない公家女房の話が出てくる。財力といっても、それを支えるのは土地の支配権であり、武家の勃興と公家の没落の背景には、土地の支配権の変遷があったのだろう。だから公家の中でも経済的基盤のしっかりした公家は生き残り、江戸時代も天皇家をとりまく公家官僚として残っていった。一方でまた、武家にしてみても、領地を失い経済的基盤をなくした場合には貧窮死することもあり、実際、「太平記」にはそうした最期を迎えた武将もでてくる。律令制度には国司郡司という制度があり、平安時代の貴族は地方官を務めると財産を得ることができた。土地のあがりは貴族が得ていたわけである。その後、守護地頭の制度ができるとともに国司郡司といった律令制の地方官は形骸化していった。吉良上野介といっても吉良氏は上野に知行地があるわけではなく、単なる名称である。こうした変化は徐々に起きて行ったのだろうけど、南北朝時代というのが転換期だったのかもしれない。
2024年08月17日
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パリ五輪が終わったので、日本人のフランスへの憧れについて考えてみる。明治維新後日本が近代国家として出発した頃、欧州では普仏戦争が起こっており、新興プロシャが急成長していた。英国は産業革命を終え、世界の覇者として君臨している。そうした時期だったので、近代化の模範はまずドイツであり、英国だったのは当然のことだったであろう。幕末にはオランダ語を勉強した人材もいて、近代化の重要な力になったのだが、オランダ語を習得すれば似た言語である英語やドイツ語の方が学習しやすい。そうした意味で、フランスというのは、本流とちょっとはなれた、斜に構えた界隈での憧れの国だったのかもしれない。旧制高校でも外国語は英語とドイツ語が中心で、フランス語は文学部志願者の間で人気だったという。ふらんすへ行きたしと思えど…という萩原朔太郎の詩があるが、憂愁の文学者の憧れはフランスであって、英国やドイツではない。戦後になると、フランスへの憧れは、すごい勢いで普及してきているアメリカ文化よりも一段高級なヨーロッパの文化というイメージが背景にあったのだろう。おフランスでは~を口癖にする漫画のキャラは有名だったが、流行歌でも「フランス人のように」というお洒落な歌がヒットしていた。横顔さえもフランス人のように…といっても、あんた鼻低いじゃん…というつっこみはなしにする。まあ、こんな歌ができるほどフランスへの憧れは一般的だったわけだ。「韓国人のように」という歌はいくら韓流ブームがあってもできそうにない。フランス人のように (佐川満男 さん) (youtube.com)
2024年08月16日
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オリンピックが終わった。閉会式はトム・クルーズが出てくるなど、楽しいつくりになっていた。それにしても、還暦を超えているはずなのにあの動きはすごい。最後はハリウッドで到着して次の開会都市のロスにつなげるつくりとなっていた。開会式のときのようなごったに感はなかったが、和気あいあいとした選手たちの雰囲気が伝わってきて、これはこれでよい。パフォーマンスは圧巻で、やはりこれだけの人員をそろえる人材の厚さは大変なものだと思う。それにしても、パリオリンピックなのに、レディガガとかトム・クルーズとか、フランスには世界的スターがいないのだろうか。それとも、国籍にこだわらず世界的スターを参加させるということなのかもしれないが…。国別のメダルなんてことをいうのは全くの時代遅れもよいとこなのだが、日本が三位というのも驚く。中国も金メダルでは米国と同数なので、アジアがスポーツ弱小地帯というのは、全く昔の話になったのだろう。競技の多様化や女子競技の増加など、種目自体の変化もあるし、トレーニング方法などスポーツ科学の発展もあるだろう。ただ、最近ではオリンピック以外にも、各分野で世界的な才能をみせる若者が目立つように思う。こうしたことは、もしかしたら女性の社会進出と関係あるのかもしれない。女性もそれぞれの能力を生かして活動するようになれば、同じような才能を持つ相手と結婚することが多いのではないか。学問に優れた人は優れた者同士、音楽家は音楽家同士、アスリートはアスリート同士と結婚する機会が増える。そうすると、そうした分野で傑出した能力を持った子供が生まれる可能性が高くなってくる。本当にこうしたことがあるのかどうかはなんともいえないのだが、ちょっとそんなことを考えてしまう。
2024年08月12日
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たぶん世の中には別の感覚の人も多いと思うのだが、個人的な感想ということでご容赦いただきたい。はっきりいって五輪報道にはうんざりしている。日本選手のメダルラッシュと盛り上がり、選手の親兄弟や生い立ちを紹介し、感動物語にしたてる。そして選手の地元ではどうやって集めたのか地域の人々が集まって大画面の前で一喜一憂する。そして知り合いですらないような近所のおばちゃんまでがこれからも応援しているよとマイクの前で言い、スタジオでは感動をもらったとかいって盛り上がる。感動をありがとう…と。それにしても、どっかの誰かが東大理三に合格したような場合、知り合いでもない人が感動するのだろうか。そんなことはまずない。ノーベル賞受賞とか、国際的コンクール優勝とか、かなりすごい快挙であっても、称賛はするが、感動をありがとうというのとは違う。それなのにオリンピックではなぜ感動をありがとうになるのだろうか。思うに、他のコンクールや競技大会などとは違い、そこでは国家というものが介在するからではないか。選手は日本代表として試合に臨む。これを心理学ではどう説明するのか知らないが、国家が介在することによって、日本選手は自己の延長となり、自分の家族のように自国の選手を応援する。だから日本選手が活躍すると、報道は歓喜でもりあがり、感動をありがとうの大合唱になる。その背景には選手=日本国家=日本国民である自分という一種のフィクションがある。そしてそれはあくまでもフィクションである。戦前の時代、そして戦後の復興途上の時代ならともかく、今のオリンピックではそうしたフィクションはかなり後退しているのではないか。今は昔だが、ある水泳女子選手が「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいいんですよ」と言ったことがあったが、これは失言ではなく本音なのだろう。この発言は、選手=日本国家=日本国民というフィクションをぶちこわしており、だからこそ当時は失言とされた。こうした発言をする選手はその後はいないのだが、若い選手をみていると、「日の丸を背負って」とか「国民の期待に応える」といった感覚は薄れているようにみえるし、それでよいのだと思う。選手も稀有な才能と努力を別にすれば普通の若者であり、日の丸戦士でもなければ武士でもないのだから。そしてオリンピックを見る側である我々も、日本選手の活躍と感動物語だけでなく、地球規模での多様な選手たちの人間ドラマにも目を向けたいものである。「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいい」 超ド級の「問題発言」を発した女性アスリートの本心(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
2024年08月09日
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IOC幹部のリップサービスかもしれないが、記者との懇談会の中で、もう一度日本で五輪をという話がでたという。さすがに、ネットのコメントではとんでもないという意見が殺到している。たしかにもう一度五輪をやるのはごめんこうむりたいものだ。IOC幹部は日本で五輪番組の視聴率が高いことを理由にあげたようだが、これはテレビでさかんにそれを放映しているというだけのことだろう。多くの有力選手にはスポンサー企業がついていて、こうした企業はテレビ局にとってもスポンサーである。いずれも、もちつもたれつの関係があるのだろう。古来、為政者にとって民衆をよろこばせるのはパンとサーカスときまっているが、オリンピックなんてそのサーカスの最たるものだろう。選手を追いかけ、メダルメダルと連呼し、家族をまきこんだ感動物語を放映する。思えば、子供の頃はオリンピックをみるのが好きだった。それは勝敗というよりも、いろいろな国の選手がでてきて世界の広さを実感するのが好きだったからだ。当時は今よりもずっと競技の数も少なかったし、放送も静かだったように思う。今回のオリンピックは、様々なところで議論をよんだり、問題が指摘されている。不安視されていたセーヌ川のトライアスロンはやはり健康被害を訴える選手が続出している。人が泳げる川ならとうに市民が水遊びくらいしているだろう。パフォーマンスでちょっと泳ぐならともかく、一定時間泳がなければならないトライアスロンに使うなど無理があったのではないか。選手の中には遊泳中、「見てはいけないもの」を見てしまったという人もいるという。こうなると競技開催自体が人権問題にみえてくる。トライアスロンもそうなのだが、サーフィンやカヌー、ヨットも競技を開催できる国となるとかぎられる。競技を増やせば増やすほど開催国の負担は増す。今後は開催地に名乗りを上げる国も少なくなるのではないか。IOC幹部の発言ももしかしたらそのあたりをみすえているのかもしれない。今後は特に希望する国がある場合以外は、二か国か三か国くらいに固定して回り持ちにしてもよいのかもしれない。そうすれば新たに設備を作るなどの無駄も省ける。実際、過去にオリンピックを開催したところではせっかくの施設が廃墟化しているところもあるという。そしてまた、開会式もどんどん肥大化している。今回も、大いに論争になっている最後の晩餐のパロディー?以外にも、斬られた首が歌うパフォーマンスにも批判があるという。これについては、開催国の人々が、流血によって近代的人権を勝ち取ったこと誇りにしているのなら、血に染まる宮殿や斬首された王妃がでてきても不思議ではないと思うのだが。批判者の中には、フランス革命自体に疑問を呈する人もいるようなのだが、評価はともあれ、フランス革命が、人類史上の大きな教訓であることには否定できないのではないか。
2024年08月08日
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太平記の時代というのは公家と武家の間で権力が移り変わっていった時代で、その権力というのはつきつめれば領地の実入りをどこがとるかといった問題だろう。そして、その過程では当然に零落していく人もでてくる。太平記には、そこそこに優雅に暮らしていた公家が、戦乱の中で、財産は散逸し、屋敷も消失して、都を去って物乞いをしたあげくに家族ともども身を投げるという哀話がでてくる。その一方で新興の武家は茶の湯だの田楽だのと贅沢三昧な生活をする。昔、習った歴史では、応仁の乱で都が焼け野原となって戦国時代が始まったとされていたのだが、室町幕府成立後の南北朝時代も何度も戦は起きているし、京の都が灰塵に帰すこともあった。どうも最初から室町時代というのは安定した中央政権のない時代だったように思う。零落した公家の中には、よるべない身の上となる者もいる。太平記には、身寄りのない上臈女房が、新田義貞の遺児である新田義興を謀殺するための道具にされる話がある。竹沢右京亮という武士が義興に近づくために美しく気立ての良い上臈女房を養女にし、妻として義興に献上する。これにより、すっかり竹沢右京亮を信頼した義興は、多摩川を渡る船の中で謀殺される。義興を祀る新田神社は武蔵新田の駅のすぐ近くの住宅街の中にあるのだが、同時期に殺害された上臈女房を祀る女塚神社、そして義興と一緒に死んだ家臣を祀る十寄神社も近くにある。太平記には義興の怨霊が様々の怪異をもたらしたという話があり、新田神社の奥には禁忌の森がある。江戸時代には才人平賀源内がこの話をモチーフに神霊矢口渡という歌舞伎を書いており、江戸庶民の間でも新田義興と新田神社にまつわる話は知られていたのだろう。
2024年08月06日
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オリンピックの最後の晩餐のパロディとされる場面であるが、全く印象に残っていなかった。そしてその後、いろいろと議論になってその場面をネットで探そうとしても動画がでてこない。聞くところによると著作権を盾にかたはしから削除されているともいう。長い開会式の録画映像の中で見つけるのもなんだかなあ…と思っていたのだが、実際に探してみると運よく簡単に見つかった。映画「ソドムの市」のような場面で全身を青く塗った男が歌うというもので、彼はフランスで大人気のシンガーソングライターということだが、歌も本人もさほどよいとも思わなかった。最期の晩餐というのも言われてみればそうなのかなと思う程度で、だから最初に見た時には「あっ、最後の晩餐だ」とは思わなかったのだろう。これについての記事をみると、宗教を冒涜…というか嘲弄する意図はおそらくあったのではないか。なにしろLGBTとかポリコレとかいった概念自体が、LGBTを罪悪視する伝統宗教への批判という意味合いがあるのだから…。そしてまた、フランスの近代史というのは、伝統宗教の桎梏からの脱却という意味があり、今ではライシテという厳格な政教分離があるという。宗教から俺たちはこんなに自由になったんだということをアピールしても不思議ではない。だからいまさら、あれは関係ない、ギリシャ神話がモチーフだといっても、ひよっているようにしかみえない。まあ、もちろんこんなのは内心の問題で本当にギリシャ神話のつもりだったのかもしれないのだけれども。ここでどうしても思い出すのは、イスラム教を冒涜した漫画を公立学校の教師が生徒に見せ、それが憤激をよんで、教師が殺害されるという事件が起きたことだ。件の漫画もネットでみたが、単に宗教を嘲弄するためだけのもので、別に面白くもなんともない。ただちょっと驚いたのは殺害された教師は国葬に付され、それに大統領も参列したということだ。もちろん公立高校の授業とオリンピックの開会式は同列ではないが、冒涜といえば、いわれてみれば最後の晩餐かなと思う程度のパフォーマンスに比べても、あの漫画は何百倍も冒涜している。殺人はもちろん悪であるにしても、冒涜漫画をみせた被害者教師を国葬にして大統領まで参列したということは、世界に向けて、宗教を冒涜する自由を尊重するということを宣言したということではないのだろうか。そうだとしたら、今回の最後の晩餐のパロディとされるパフォーマンスについても、堂々と、「見ようによっては冒涜ととらえ、気分を害する人もいるかもしれないけど、そうしたものも含めて表現の自由は大切にしたい」と宣言する方が首尾一貫しているように思う。「フランスには冒涜する自由がある」マクロン大統領、ムハンマド風刺画再掲載で - 産経ニュース (sankei.com)
2024年08月05日
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「太平記」を引き続き読んでいる。鎌倉幕府滅亡から室町時代初期という時代の裏切り、寝返りとあまりにもカオスなことに驚くばかりだ。それは作者も承知の上で、漢楚の興亡や源平合戦で二度も裏切ったなんて例があるだろうかと嘆く。この時代は、多くの人々は形勢をみて、時流に乗ろうとしているので何度でも裏切る。どんな大群でも形勢不利となれば、我先にと戦線を離脱する。忠臣のような顔をして主君の最期を見届けた家臣がさっさと屋敷から金目の物を探して逃走したり、主君から美麗な武具や馬を送られて出陣した武士が敵の目の前で土下座をして降伏する。源平合戦なら奢る平家を諸国の源氏が立ち上がって倒していくという流れがあり、その中で滅ぶ平家の哀れさが印象的なのだが、太平記の世界はもっとわかりにくい。鎌倉幕府に代わった建武の新政も公家方の奢侈や乱脈など多くの問題がある。その後は、国に天皇が二人いるという南北朝の時代になり、錦の御旗とか尊王とかいった理念も不確かになっていく。登場人物にしても、智謀の忠臣楠木正成や武人新田義貞はまだ英雄的に描かれているが、足利尊氏はわかりにくい。戦況が不利になると、すぐに腹を切るだの出家するだのと言い出し、全く英雄的人物ではない。将軍でありながら高師直の軍に屋敷を包囲され、そのため、弟の足利直義が出家に追いやられるのだが、ここまでくると、本当に、足利尊氏は最初から権力があったのだろうかとも思う。実際、それまで政務は直義が行っていたので、初めから直義にかなり権限があったのではないかと思う。後世からみれば面白い時代のように思う。
2024年08月03日
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最近、ポリコレという言葉をよく聞く。これは、ポリティカル・コレクトネスの略で、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指すという。この「など」には、もちろんLGBTなどの性的志向も含まれる。だからだろう。今回の開会式でも、登場人物は必ず男女同数か女性が多く、人種も多様となっていた。美形ばかりでなく、太った男女がでてきたり、随所でLGBT的表現があったのもポリコレを意識していたのだろう。こうしたポリコレは映画にも影響を与えていて、ハリウッドなどでは、キャストやスタッフの多様性を確保するようにしているという。以前、ディケンズの「デビッド・コパフィールド」を読んだとき、映画化されたものを探したのだが、産業革命期の英国が舞台であるにもかかわらず、主人公はインド系、妻になる女性は黒人、その父親は東洋人となっていた。映画の見方はいろいろあるが、原作の雰囲気を映画に求めるのなら、いくら背景の建物などをそれらしくしても、俳優がイメージと違っていれば難しい。東洋人の親から黒人の娘が生まれるというのもありえないし、こうした有色人種の演じる役が、才色兼備の女性や主人公の恩人となる紳士など肯定的人物に限られているのも、かえって偏見の裏返しのようなものを感じる。このポリコレという言葉、国内ではあまりきかない。考えてみれば、日本ではあまり「人種差別」は意識しない。ワーホリに行ってホームレスの炊出しに並ぶ日本人というのは例外で、今のところは、企業や大学など、しっかりしたバックグラウンドのある人が海外に行くことが多いし、そういう人は人種差別することもなければ、されることもないだろう。また、やってくる外国人も、異人種の単純労働者が大勢で固まって住むというところはほとんどない。もしも、日本でも状況が変わり、国内問題として人種差別が語られるようになれば、国内でもポリコレという議論が起きてくるのかもしれない。
2024年07月30日
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飲酒と喫煙を理由として女子体操の五輪選手が出場を辞退したという。今までの努力をふいにするような結果で残念であるが、これとは別にこうした問題が他の競技にも波及することはないのだろうか。この選手の場合には5月から7月にかけて飲酒、喫煙をしたというのだが、じゃあ、それが一年前だったらどうなのだろうか。また、飲酒や喫煙ではなく、不倫とかだったらどうなのだろうか。体操界だけではなく、他の競技でも、こうした告発がなされ、選手が辞退に追い込まれることがでてくるのかもしれない。良くも悪くも、飲酒喫煙イコール出場辞退という前例を作ったのだから…。※姫路城の入場料について外国人観光客にはより高い料金を設定するという動きがあるという。たしかに外国の観光地には外国人により高い料金を設定しているところがあるのだが、その多くはエジプトのピラミッドのように途上国の観光地の場合だろう。観光でやってくるような金持ちの外国人からは余計に料金をとってもよいではないかという発想である。実際に海外旅行で、そうした二重価格を払ったこともあるが、なんとなく差別されているような感じであまりよい気はしなかった。姫路城で二重価格を導入すれば、他の観光地でも追随することが考えられるが、こうした二重価格はおもてなし精神にも合致しないし、やめた方がよいのではないか。姫路城は市民の憩いの場になっており多くの観光客がくると維持管理に金がかかるというのであれば、外国人に高い料金を設定するのではなく、市民割引のようなものを導入すればよい。あからさまに外国人だからといって高い料金を設定することは、日本のイメージにも悪影響を与えるし、プラスマイナスしれば、結局はマイナスにしかならないのではないか。※トランプ氏の銃撃事件以降、トランプ支持が増えているという。銃撃直後の片手をあげている写真など、まさに狙ったような構図で、あの写真だけでも支持増加に十分な効果がある。ほとんど忘れられているが、かのヒラリー対トランプの選挙戦のときには日本の報道はヒラリーの圧倒的な優勢であった。当時の安倍総理が選挙運動期間中にヒラリー候補を訪れたくらいである。日本の新聞社が取材するような人士、そして日本の外務省が接触するような人士は圧倒的にヒラリー支持だったからだろう。ハリウッドのセレブ達も多くはヒラリー支持を表明していたように思う。そうしたヒラリー優勢の予想と実際の選挙結果の乖離はそのまま米国の分断を印象づけた。リベラルな民主党と保守的な共和党といっても、貧困層はリベラルを支持しているわけではない。リベラルイコール穏健な左翼という見方は実態にそぐわない。トランプが副大統領候補として白人男性を指名したことを受けて、「アメリカの分断を加速する」と言っている評論家がいたが、それでは分断はどこで起きているというのだろうか。副大統領候補に有色人種や女性のエリートを指名すれば「分断」が修復されるとでも思うような発想の方が、正直、理解できない。
2024年07月21日
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ちょっと古い話だがさるロックバンドの新曲コロンブスのミュージックビデオが植民地主義の肯定にあたるとして発売停止になったという。メンバーがコロンブス、ナポレオン、ベートーベンに扮し猿達に音楽や乗馬を教えるという内容らしいが実物はみていない。まあ、明治期の日本人だってお雇い外国人に西洋音楽も含め、様々なことを習ったわけなので、説明だけを読むと、そんなに違和感はない。猿というのは抽象的な表現で、具体的にどっかの民族を想起させるものならもっと問題だろう。こういうものって、誰かが問題だとか人種差別だとかいいだすと、とたんに反論が許されなくなるあたり、あの「ちびくろサンボ」の絵本に似ている。人種差別は戦前くらいまでは公然と行われていたもので、今でもモームなどの作品を読むと、人種差別じゃないかという表現が出てくる。あのSFの古典「猿の惑星」にも猿に支配された人間をわざわざ白人(原文では未確認)と表記してある箇所があって、じゃあこの猿って非白人の暗喩ではないかと思ったものだが実際はどうなのだろうか。「怪人フーマンチュー」シリーズでもあの時代悪行をやっていたのは白人なのに白人が英雄、中国人が悪役になっている。人種差別がけしからんというのなら、こうした人種差別的な記述のある文学作品を絶版にすべきなのだろうか。それはさておき、かつては子供向けの偉人伝にもとりあげられていたコロンブスが今では植民地主義の尖兵として批判的にとりあげられているという。たしかにそこにだって人はいたのに「発見」というのは変な話だし、その後に新大陸で起きた虐殺を思えば手放しで称賛はできないだろう。それにコロンブスも奴隷商人であったともいう。偉人とされてきた人々の行為も今日の価値観では問題となるものがある。その意味で、偉人の評価も時代とともに変わるのだろう。評価が変わったといえばモンゴルでのチンギスハンの評価も180度変わった。社会主義時代、モンゴルの旅行案内を読むと、モンゴル人にチンギスハンの話をするのは、ドイツ人にヒットラーの話をするようなものだということが書いてあった。あの時代にはモンゴル内でのチンギスハンの英雄視はなかったのだが、それが、社会主義体制が崩壊すると、民族の英雄として脚光をあびているという。変われば変わるものである。
2024年07月19日
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婚姻率や出生率の他に無子率という数字がある。これをみると50歳で子供のいない女性の比率は世界でもダントツに日本が高いのだという。おそらくこの数字は男性で見ても日本が高いものと思われる。一方で、夫婦の完結出生児数はさほど変わっていないし、子供が三人以上いるという世帯は増えて居るという統計もあるらしい。少子化は大問題、子育て支援は重用…今でこそこうしたことには誰も異議をとなえないのだが、今後は少子化対策や子育て支援に金を使うくらいなら他のところに使うべきだという声が大きくなっていくように思う。高齢化の中での高齢化、すなわち後期高齢者の割合の増加という事態は進行中だし。そうなれば介護はますます深刻な問題になっていく。一方、今後老年世代に参入してくるロスジェネ世代の貧困も問題だろう。国民年金はそれだけで生活できるようには設計されていないので、生活保護受給者が膨れ上がる。そうなると、少子化だの子育て支援だのはふっとんでいく。子供の騒音だって同様だろう。今の大勢は子供に寛容にすべきだ、子供の騒音を理由に公園が閉鎖されるなどけしからんという論調である。それもそのうち変わるのだろうか。子供はなにしろうるさい、邪魔だ、レストランには来るな、乗り物では静かにしろ、ボールで遊ぶな…そうした論調が普通になっていく。今の日本は少子化という静かな変革が進んでいるが、これは同時に子を持つ人と持たぬ人との分断も進行中なのかもしれない。
2024年07月17日
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トランプ氏暗殺未遂については驚いたし、大統領選への影響も少なからずあるだろう。未遂とはいえすんでのところで殺害の可能性もあったわけなので、自作自演はもちろんありえない。それにしても、過去の米大統領選を思い返してみてもトランプ氏ほどマスコミにいっせいに背をむけられた候補は珍しい。そしてその一方で支持者もいるので、相当の票を得るわけなのだが、それ自体、米国の分断を象徴しているように思う。トランプを支持している人々にとっては、マスコミも、そしてそのマスコミにのっている著名人もしょせんは「あっち側」の人間ということなのだろう。トランプ氏は別に「こっち側」ではなくとも、利口ぶったあっち側よりもマシなのかもしれない。米国の選挙と言うのは徹底した小選挙区制だ。実質二人の候補の争いとなる小選挙区制では、中間票の奪い合いになる。対立候補の票をとるためには、主張の違いを際立たせるよりも、対立候補の主張により近いものを出して中間層を支持を得た方がよいからである。米国の二大政党である民主党と共和党には政策の違いはあまりない。選挙はお祭りになるのだが、この制度では、10%、15%の人々の利益を代表する候補者はでてきにくい。候補者がいても投票したい候補者はいないということになりがちである。もっとも、それをいうのなら、こちらのこの間の都知事選も似たようなものであったが。
2024年07月15日
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今年は富士山での遭難が多いという。富士山には登山口が四つあり、河口湖口、富士宮口、須走口、御殿場口なのだが、富士宮口には自動車で行ったことがある。その五合目から六合目までは足慣らしのようなところで、軽装でも上ることができる。六合目と言っても、けっして十分の六というわけではないのだが、そこから頂上まではほんのすぐのように見える。軽装で登る人があとをたたないというが、それもわかる。けれども、この五合目あたりが森林限界でそれ以上登ると空気が薄くなり、全くの別世界である。安全かどうかは装備をみるしかないのだが、本人の体力は装備では分からない。今は富士山は自動車やバスで五合目まではいくことができるが、昔は延々とあの裾野を上っていった。その登り口が浅間大社になるわけだが、その浅間大社の傍に富士山世界遺産センターがある。世界遺産登録を契機に作られたものなのだが、ものすごく巨大な建物で、富士山の情景を映した映像やミニシアターもある。週末に訪れたのだが、あまり人は入っておらず、ミニシアターもほぼ貸し切り状態だった。ちょっと税金の無駄遣いではないか…という気もしたのだが、普段はもっと人が入っているのだろうか。世界遺産に登録されようがされまいが、富士山は富士山でよいではないか。
2024年07月14日
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東京都知事選は昔から泡沫候補が多かったのだが、それにしても最近は少し選挙で遊び過ぎているように思う。「暑いわねえ、脱いじゃおう、いやよ、そんなにみないで」みたいな候補がいるかと思うと、都知事のコスプレで登場し、町田市は何県問題?を解決するために町田市は神奈川県に移譲しますと主張する候補もいた。町田市の何県問題の解決なら神奈川中央交通バスのかわりに都バスを走らせればいいだけなのに…。これも自由で平和な国の選挙というもので、あまり深刻に批判するようなものでもないのかもしれない。ユーチューブで検索すると面白い政見放送はすぐにみつかる。それにしても同じ泡沫候補でもかつては筋金入りの右翼とか、ゲイ公言とか、政治はアートを主張する芸術家とか、何か信念のようなものがあった。でなければちょっと精神がどうかしているようなのもいたのだが…。今の泡沫候補は全部が全部というわけではないのだが、とにかく有名になるとか目立つことだけを目的としているようにみえる。ひょっとすれば芸能界に入れるかもしれないとか、ユーチューブのアクセスが増えれば収入になるかもしれないとか、そうした思惑があるのだろうか。東京だけではない。これからは都市部の選挙はどこもにぎやかになりそうである。
2024年07月12日
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昔は待ち合わせなどで時間をつぶす場合、本屋とならんでレコードショップで好きなレコードをさがすことがよくあった。いろいろとジャケットの写真や歌手の紹介をみながら、これは流行りそうとかこれはどうかなと考えてみるのは楽しい。ある歌手のレコードを見ていたら。プロフィールにちゃきちゃきの下町っ娘とあり、写真も気さくそうな雰囲気の普段着姿、曲もそれっぽい曲であった。しばらくして同じレコードショップで再びレコードを見ていると、同じ歌手の第二弾のレコードが販売されていて、今度は成城出身、趣味乗馬とあり、曲も前作とは違う雰囲気の曲となっていた。第一弾があまり売れなかったら今度は別の路線で勝負する。内情は知らないが、たぶんよくあることなのだろう。ちゃきちゃきの下町娘と成城出身で乗馬が趣味…別に両方とも嘘じゃなくったって不思議ではない。下町から成城に引っ越す人だっているし、乗馬も一回でも体験してまたやりたいと思っていれば、趣味乗馬といったっていいだろう。もちろん両方とも嘘ということも、イメージ勝負の芸能界ではそれもありなのかもしれない。俳優にしろ歌手にしろ人気を博するのはほんのわずかで、やりたい人は大勢いる。そうした中で、どんなイメージで売れば勝ち抜けるかを綿密に計算して売り出すのだろう。そういえば昔、剣の達人というイメージで世に出た青春スターがいた。美形のアイドルは沢山いたが、古武士的風格の質実剛健な好青年という位置は空白だったこともあり、わりと短期間のうちに人気者になったように記憶する。狭義の芸能人ではないがフリーのアナウンサーやニュースキャスターも似たようなものだろう。カイロ大学で首席と言うのはもりすぎなのだが、そのくらい目をひかなければ、他に肩書がなく有名人二世でもない女性が、英語の出来る美人というだけで世に出ることは難しい。政治家もまた、大衆から選ばれる職業と言う意味では芸能人と似ている。芸能人から政治家に転身するという例は多いが、芸能人として世に出るためについた嘘は政治家になってからどの程度問題視されるのだろうか。選挙公報に嘘の経歴を書けば公職選挙法違反になるのだが、それ以外の嘘は結局のところ有権者である大衆がどう判断するかによる。首席卒業と言うのはさすがに本当とは思えないが、政治家になってからはそれを別に言っていないし、大衆である有権者も問題視しなかった。それだけのことである。そしてまた卒業の方も当の大学が卒業と認めているのであれば嘘ではないだろう。
2024年07月09日
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都知事が終わったので思うことをいくつか書いてみる。毎回都知事選と言えば泡沫候補が出るものなのだが、今回は特にそうした候補が多く、ほぼお祭り状態だったが、こうした候補が出馬できるのも民主主義のコストではないのだろうか。これくらい自由な国なのだと考えれば、供託金の引上げと言った議論はお門違いのように思う。個人的にはある候補者の現職知事のコスプレパフォーマンスなどはお笑い芸人の域に達していたと思うし…まあ、よいではないか。次に現職知事については執拗に学歴疑惑が取りざたされていた。実際に選挙違反となるような学歴詐称があれば警察は当然に動くし、動かなければならない。ところがエジプトカイロ大学側が卒業を認めているので動きようがないというのが実態だろう。ならば学歴詐称疑惑はいくら騒いでも大きくなりようがない。これについてはエジプト政府に借りができるのが大問題だと言っている人もいるが、現職知事は都市外交だといって都民の税金で二重外交に励んでいたわけではない。知事は外交を行うわけではないので、エジプトに「借り」などできようもない。この学歴詐称疑惑に関連して、現職知事がアラビア語ができないのではないかという「疑惑」もとりざたされた。しかし、駅伝選手で外国から日本の大学に留学していた人が、練習漬けの日々の中で、大学教科書を読むレベルの日本語能力を有するようになったと思う人はあまりいないだろう。政治家のレベルなら英語ができれば上等、アラビア語はできようができないが、どうでもよいのではないか。現職都知事はもともとはニュースキャスター出身だが、彼女が世に出た頃は知的タレントが人気になりかけていた時代で女子アナのスター化も始まっていた。おじいさんばかりの経済シンポジウムやインタビューでは気の利いた受け答えのできる知的美女が華を添える必要が認識されてきたわけである。ところが美人で英語のできるくらいの女性はいくらでもいる。何か目を引くような肩書がなければ、タレントとして世に出ていくのは難しい。カイロ大首席というのはもりすぎだったかもしれないが、それがあったからマスコミでも注目されたのは間違いない。青春ドラマ俳優で剣の達人という肩書でデビューした人もいるがそれと似たようなものだ。なお、現職知事の対抗馬とされた候補であるが、いまさら若者の貧困対策などの弱者救済をいったところで、嘘にしかきこえなかった。いったいなぜ国政の場でそれを今まで主張しなかったのだろうか。ロスジェネ世代はとうに若者と言われる年齢を過ぎたというのに。
2024年07月07日
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太平記の中で北条家を平家、足利や新田を源氏を表記している箇所がある。中でも足利尊氏が北条家はもともとは桓武平氏で天皇からわかれたのははるか昔の田舎武士にすぎない、それなのに、主筋だった源氏をさておいて天下の権をとっているのはけしからんと思っている箇所がある。天下の権力は伊勢平氏から源氏に、さらに桓武平氏の北条に移ったとなれば次は源氏の番だというわけである。そう考えると、南北朝の騒乱は、源平合戦の続編のようなものなのかもしれない。ただ、源平合戦と違うのは源氏の方に足利と新田という二つの勢力があったことだろう。足利家は室町幕府を開き、吉良や今川もこの足利家につらなる名家とされていた。そして戦国時代を経て、天下の権は徳川家に移るわけだが、徳川家康は徳川家康で自身を新田義貞の子孫を称していた。これが家康の時に言い出したものなのか、まことしやかに松平家に伝わっていた伝承なのかはわからないが、世良田東照宮には実際に新田義貞以降松平家に養子に入った徳阿弥に続く代々の石塔がある。ここは朝廷から東照宮に向かう例幣使街道の通り道でもあるので、例幣使は世良田東照宮にもより、徳川家康が新田義貞の子孫であることを再確認したのかもしれない。南北朝時代ははるか昔のようなのだが、案外と後の時代にもつながっている。「太平記」は、建武の新制の始まりの辺りを読んでいるが、後醍醐天皇の一片の命令で世の中が動くわけもない。現実の兵馬の権がなければ、領地をあたえるのなんのといっても空文だろう。しかもそこに情実がからんで、一つの領地の権利が功労とは関係なく何人もの人に乱発される事態が生じたとある。権力も乱脈をきわめていたわけである。合戦では夜襲に怯えて錦の御旗を放り出して逃げた公家大将も、我が世の春とばかりに贅沢三昧の生活をして世人の眉をひそめさせる話も出てくる。まだまだ世の中は落ち着かない。二条河原の落書きもこの時期である。
2024年07月04日
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混同されがちなのだが、「リベラル」と「左翼」は違う。これは急進的か穏健かといった差異ではなく、リベラルは文字どおり自由が語源で伝統的権威的思考からの自由を意味し、左翼はもともとは社会主義的共産主義的思想により平等な理想社会を目指す考え方を意味した。社会主義や共産主義は宗教を「人民の阿片」とよんで攻撃し無神論をとなえたので、ある時期のある社会では、この二つは重なり合っていたのだが、本来は価値観も目指すところも違う。それに左翼については、21世紀も4分の1過ぎた現在、いまさら地主や工場主を倒してその財産を国有化すれば究極の平等な理想社会が出現するなんて考えている人はほとんどいないのではないか。今日的な意味では、格差の少ないより平等な社会を目指すのが左翼ということになるのだろうが、福祉政策や労働政策、税制の応能負担などを全く否定する考え方もないので、そのあたりにどのくらい重点をおくかという違いになる。理想としては政体は民主主義で格差の少ない福祉社会が目指す方向なのだろうけど、現実的にそれはどこまで可能なのだろうか。次にリベラルであるが、伝統的権威的思考が宗教的なものだったらわかりやすい。中絶や同性愛を罪悪視する宗教があれば、中絶の自由やLGBT差別反対はリベラルの大きな旗になる。しかし、日本の場合には認められる中絶の範囲は広いし、LGBTも多くの人の感覚では好きにすればといったところではないか。同性愛を罪悪と考える伝統は日本にはない。だとしたら日本のリベラルはいったい何と戦うのか。そこで敵と想定したのが日本の伝統的家父長制的思考なのだろう。そうした流れで日本のリベラルは声高にジェンダー平等や選択的夫婦別姓を主張する。あとは憲法九条…。しかし、現実には、伝統的家父長制的思考は現代では影が薄くなっているし、財界から選択的夫婦別姓の制度化の要望がでてきているのもむべなるかなである。こんなわけでリベラルと左翼は別の概念である。だから、経済的弱者の利益を代表するのがリベラルとは必ずしもいえない。いくつかの先進国では移民排斥や移民の制限を唱える政治勢力が支持を得ている。こうした勢力の支持層は貧困層が多いので、富裕なマスコミ人士は批判的に報道する。しかし、移民に職を奪われたり、労働条件が低下したりして窮地に陥るのは貧困層であるし、治安の悪化も貧困層や恵まれない人々を直撃する。移民への寛容を唱えるマスコミ人士の隣人には食い詰めてやってきた移民はいないだろう。それにリベラルは伝統的宗教的権威からの自由を主張するが、満ち足りて教養のある人ほど宗教とは縁がなく、逆もまたしかりである。移民排斥や移民の制限を唱える政治勢力を極右とよんでいるが、貧困層の利益を反映した主張という意味ではこうしたものこそが実は「左翼」なのではないのだろうか。
2024年06月30日
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世の中、何が変わったかと言えば「有名であること」の価値が昔よりも大きくなったことではないのだろうか。背景はいろいろある。昔のような地縁血縁共同体のようなものがあれば、英名と悪名の差異は明確で、人々は名を上げること以上に恥をさらすことをなによりも怖れた。それがそうした共同体が崩壊し、一人一人が群衆の海に浮かんでいるような世の中になれば、栄誉と恥の区分もあいまいになってくる。人間には多かれ少なかれ自己顕示欲があるが、こうなると、とにかくどんな形でも有名になりたいという人もでてくるだろう。さらに言えば、現代では「稼ぐが勝ち」といった価値観も有力だ。ネット社会では、とにかく目立てば稼げるという場が増えてきている。ユーチューバーなどはその典型であろう。今度の都知事選では最多の候補者数だという。全員が全員、売名目的ではないのだろうが、供託金を払えばポスター掲示やテレビ出演の場を与えられる選挙と言うのは売名に最適なのかもしれない。都知事選にかぎらず、これからは様々な選挙で候補者の乱立と言う現象がおきてくるのではないか。
2024年06月27日
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最近の世の中の変転は激しい。様々な施設の予約などもネットを通じてQRコードを認証するような形式が多くなっており、そのため、そうした操作に慣れていない高齢者がしめだされているという面があるのではないのだろうか。よくいろいろなところで若者が多いとか高齢者をみかけなくなったとかいうことを聞くが、原因はコロナ不安よりもそちらではないのだろうか。予約だけではなく、最近では店の注文などもタッチパネル式が多くなっている。そんな方式で注文するファーストフード店では、怒って機会を叩いていた老人がいたというがありそうな話である。かくいう私も紙の券がないと安心できないし、詐欺サイトではないとわかっていても、パソコン上でクレジットカードの番号を打ち込むのは気持ち悪い。それにしても、スマホにしても、パソコンにしても詐欺メールの多いこと多いこと。よくこれだけの手口を考え付くと感心する。最近では、ある宅配業者の名を使ったメールで、お届け物があるが住所が違っているので届けられない、このままでは荷物が渋滞して困っているという趣旨のものが毎日何通も届く。しつこく何回もメールをすれば、そのうち誘導するサイトにアクセスすると思うのだろうか。固定電話の詐欺については、さかんに啓発が行われているが、ネットを使った詐欺についても注意喚起の公報が必要なのではないのだろうか。考えてみれば、こんな効率のよい詐欺はない。電話は電話代がかかるし、郵便は郵便代がかかる。ところがメールは何通だそうが経済的負担はない。下手な鉄砲も数うちゃ当たるで、沢山のメールを送れば、たまに騙される人がいる。それで十分に元は取れる。オレオレ詐欺のように、出し子や受け子がいるわけではなく、ネット上で金が動くので逮捕のリスクは少なそうだし、実際にこうした詐欺犯が逮捕されたという話もあまりきかない。おそらく警察に届けない被害というのもかなりあるだろう。たしかにパソコンやスマホによって昔では考えられないくらい便利な世の中になった。けれども、同時に詐欺などがこんなに身近になる時代になるなんてことも想像もしなかった。
2024年06月24日
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平安時代は女流文学が隆盛だった時代として知られるが、それ以前にも女性の「文学者」はいた。古今集や万葉集などは女性抜きには語れないし、最古の文学ともいえる「古箏記」も語り部の稗田阿礼は女性だったという説がある。いや、そもそも稗田阿礼が女性というよりも語り部そのものが女性の役割だったのかもしれない。それが時代が下り、中世さらに近世になってくると、女性の作家というのがいなくなってくる。それが不思議でならない。特に、江戸時代は庶民文化が栄えた時代なのだが、そんな時代でも女性の作家というのは聞かない。滝沢馬琴など、自分の書いた小説の中で、この物語は婦幼のために道徳を涵養する目的で書いたなどということを言っている。じゃあ、なぜその婦の中から小説を書くという人が出なかったのだろうか。別に男尊女卑がそんなところまで及んでいたとも思えない。大河ドラマでも「光る君へ」の次は「べらぼう」で、今度は江戸文化を扱うという。平安時代に比べ、江戸時代ではなぜ文化の中で女性の存在感が薄かったのかも話題になるだろう。平安時代には女性の方が仮名文字に親しんでいたことや宮廷サロン文化の存在など特有の事情があり、それ以降では、文化の担い手が僧侶とか豪商とか文化サロンの性格が変わっていったということもあるのかもしれない。現代では女性の作家と言うのは何も珍しくないが、それでも少し前までは女流作家とか女流文学という言葉が使われていたし、本屋にもそうしたコーナーがあった。作家が女性にしろ男性にしろ、自身の体験を基に書いた小説というものが大きな分野としてあって、私小説が隆盛だったころには特にその傾向が強かった。女性作家の中にも自身の不倫体験などを小説にする人もいて、そうした時代には女流文学と言うジャンルがあってもおかしくなかったのだろう。今では女流作家とか女流文学とかといった言葉自体聞かなくなっている。
2024年06月24日
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今度の都知事選の立候補者は大変な人数にのぼるという。中にはどうみても選挙制度を売名に利用しているような候補もいるので、選挙のたびに供託金の引上げの議論が出てくる。しかし、今でも供託金は十分に高いので、これ以上引き上げたら被選挙権の制限につながるという逆の議論も出てくるだろう。今の決して安くはない供託金を出せる人がこれだけいるというだけでも驚きなのだが、いわゆる有象無象の候補が出てくることは民主主義のコストと諦めるしかないのではないか。それに泡沫候補の出現は今に始まったことではなく、昔だって選挙公報に理解不能な記述をする候補はいくらでもいた。今にはじまったことではない。だいたい制度があればそれを悪用する人は必ず出てくる。昔、選挙に立候補して候補者に割り当てられた放送時間を自社の商品の宣伝に利用した人がいたという。こういうのはその後の法改正で規制されるようになったという。今のようにQRコードのある時代には、候補者としてのポスターの空間を宣伝などに提供するということは可能かもしれないと言われる。ただ、泡沫候補のポスターを使うことにさほどの宣伝効果があるとも思えず、かえってイメージダウンにもなりかねない。実際にはそうしたことは起きそうにないのではないか。このほか、選挙妨害のための立候補というのもあるという。例えば二人の候補が対立しているような場合に、一方の候補によく似た名前の候補が立候補し、だんまりを決め込む方法である。本多さんと本田さんのように紛らわしい名前もあるので、本多さんが有力候補のところに本田さんが立候補すれば本多のつもりで本田と書いた票はそちらにいく。まあ、今度の都知事選ではさすがにそれはないと思う。今の時代は良い悪いは別にして、目立ってナンボといったところがある。とくにすごい才能があるとも思えない人が突然人気者になることだってある。そしてまたユーチューバーでは、それこそアクセスがどのくらいあるかといった世界なので、悪名は無名に勝るのだろう。今までも都知事選に泡沫候補はつきものだったのだが、立候補者乱立というのはいかにも今日的現象なのかもしれない。
2024年06月19日
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この間、「光る君へ」について書いたら、ありがたいことに予想を超えるコメントをいただいた。今回の大河ドラマはコアなファンもいる一方で、従来とはあまりにも違う路線にとまどいもあるのかもしれない。さらに視聴率もいまいちという話もあり、こうしたものをわざわざNHKでやるのかという見方もあるようである。正直真面目に見たのは第一回だけだったが、紫式部と道長が街でお互いに知らずに出あって恋心を抱いたり、紫式部が男の声色で和歌の代筆をしたりするなどは、歴史的にはありえないが、韓国大河ドラマではよくこうしたぶっとんだ話がでてくる。ある意味、これは大河ドラマの韓国大河化…ではないか。こうしたものに対する否定的な意見も肯定的な意見も理解できる。そして自分自身は、このドラマをそれほど集中して見ているわけでもないので何とも言えないのだが、このドラマを契機に平安時代の貴族生活やそこで生きた人々の本音に関心をもったのは事実である。そして今、枕草子を読んでいる。かつて読んだときには、どうでもよいことばかり書いてあるなという感じで、正直面白いとも思わなかったのだが、執筆が関白家没落の後という経緯をふまえると、また、読み方が変わってくる。今なら楽しく美しい記憶は写真や映像にとっておくことができるが、当時はもちろんそうしたものはない。あの素晴らしい栄華の頃や素敵な人々をぜひ筆によってのこしておきたい。こんな風に思うのも自然の心理だろう。そして貴族社会には関白家に対する哀惜や同情もあり、栄花物語にも道隆の人柄を誉めたところで、なんであんな素晴らしい家の人々が早死にしたり不幸になったりするのだろうかと記述した箇所もあったくらいだ。枕草子には、執筆途中で、こういうことも書いておけばよいと意見する人もいたことがうかがえる記述もある。関白家の栄華を懐かしむ人々を中心に、読まれて広まっていったのではないか。それにこの時代の権力闘争と言っても、血で血を洗うようなものではなく、大鏡には道長は「情けある者」で、権力闘争に勝った後も、伊周を家に招いて碁などを一緒にうっていたとある。平和な時代だ。あらためて枕草子を読むと、冗談ばかり言って磊落な性格の藤原道隆や、人は善いが頭がよくなくたぶん物足りなさを感じて別れることになった元夫の橘則光、光源氏のモデルのような伊周らが生き生きとえがかれ、かの時代がすごく身近に感じられる。
2024年06月16日
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この前読んだ「もっと言ってはいけない」にヨーロッパ系ユダヤ人の平均IQは115ということが書いてあった。真偽はともかくとして、ユダヤ人が学術芸術に多くの貢献をしてきたことは誰も否定しないだろう。そしてなぜそうなのかという理由として、長い期間差別を受けてきたユダヤ人はIQが高くなければ生きていけなかったからだという理由をあげている。そうかもしれないと思う。好きな映画に「屋根の上のバイオリン弾き」というのがある。19世紀ロシアで差別を受けながらも幸せを探すユダヤ人家族の物語で、主人公達は狭い地域に閉じ込められ、時々ポグロムという襲撃を受けていた。まあ、今日でいったらガザ地区住民のような悲惨な状況にあったわけだ。その映画の冒頭に家族の各人の役割を歌った場面があるが、息子たちの役割として3歳になって聖書を学び、10歳になって商売を学ぶとある。ユダヤ人には土地所有が許されなかったし、土地などいつ追い出されるか分からないので生きていくためには商売は必須であった。そしてその商売というのは、読み書き計算はもちろん、様々な知恵や知識を駆使しなければならないので、商売の出来る人しか子孫を残すことができなかっただろう。そんな状況が何代も続けば、集団としては、次第に高知能となっていく。このあたり、寒冷地では寒さに強い体質の人が多く、遊牧民では視力のよい人が多いのと同じようなものだろう。生物としての人類の進化には万単位の時間がかかるが、集団内の形質の変化は栽培植物や家畜と同様に代を重ねるごとに起きていく。ちょっと怖いのだが、先進国を中心に世界規模で起きている少子化現象もそうした淘汰の一過程なのかもしれないと思うことがある。高度の知識社会の中で、それに適応するもののみが子孫を残し、そうでないものの遺伝子は消えるという過程が進行しているのかもしれないというわけである。個々の例外はあっても、大きな傾向としては、おそらく現代社会に適応した者同士のパワーカップルや成功者ほど結婚をし、多くの子供を残しているという現実があるように思う。
2024年06月09日
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