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この間、新田神社に行ってきた。10年以上前に「太平記」を読んだ時も訪れたのだが、このたび再度読み直し、再び新田神社とは…。まあ、なによりも場所が多摩川矢口渡しというすぐ行けるところにあるのが大きいのだが、このあたりを舞台にして若き武将新田義興の謀殺劇が行われたというのが興味深い。当時の多摩川はもっと東京都側を流れており、矢口渡しと新田義興の墓所のある新田神社は近かったという説もあるという。太平記によると、このあたりの多摩川は特に深く、川の中ほどで謀殺に加担していた船頭が、義興と家来の乗った船の底を抜き、江戸遠江守や竹沢右京亮らの軍勢が川の両側から矢を射かけたという。そもそもなぜ舟に乗ったのかといえば、所領を取り上げられ将軍家に謀反を起こすのだが、その際の大将になってほしいという嘘の話で騙したのである。戦で死んだのならまだしも、汚い手口での謀殺はさぞや無念であったろう。江戸遠江守が死に、そのあたりに光るものが飛び交うなどの怪異が続いたので、義興を祀るためにできたのが新田神社である。新田神社は武蔵新田駅から歩いて数分の町中にある。境内には、樹齢数百年の欅の神木があり、なでると若返るという。また、珍しいことに、石の卓球台があり、ラケットや玉も貸し出すというのだが、この暑さでさすがに卓球をやっている人はいない。本殿の近くには、破魔矢のモニュメントがあり、説明では、破魔矢はこの神社から始まったという。たしかに、太平記には義興の怨霊が矢で身をさしつらぬいたという夢をみた江戸遠江守がその後狂い死にしたという記述がある。こうした話をモチーフに才人平賀源内が歌舞伎脚本を書き、有名になったのが、「神霊矢口渡し」で、これは今でも上演されている。恨みが深いほど、神となれば、大きな利益があるのだろうか。今でも多くの人が参詣する神社であり、多摩七福神の一つにもなっている。ただ、他の神社と違うのは、神社の奥には新田義興の御塚(墓所)があり、そこは立ち入ると祟りがあるとして柵で囲ってある。こうした禁忌の場所というのは、ときおりあるのだが、東京の住宅地にあるのは珍しい。もちろん禁忌は固く守られている様子だ。新田神社のほど近くには、義興とともに亡くなった家臣を祀った十寄(とよせ)神社があり、そちらにもお参りをした。さらに、義興の愛妾で、美しく心優しい女性であったという少将局を祀った女塚神社もあるのだが、こちらは少し離れたところにある。なお、女塚という地名は小地名として今でも残っている。
2024年08月07日
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もう一度品川神社に行ってきた。この前は登らなかった富士塚にぜひ登りたかったからである。この富士塚、京浜急行の窓からも良く見える。コンクリート造りで歴史はそれほど感じないのだが、その分、普通に階段となっていて歩きやすい。登山気分という意味では鳩森神社の富士塚の方が上なのだが、こちらの富士塚は山頂からの展望が素晴らしい。高台にあるにもかかわらず、神社境内の展望は特にないのだが、その分、富士塚山頂は高く突き出ているのでなかなかの絶景である。電車の窓からよく見えるということは、逆にこちらからもよく見えるということだ。そして下山した後には富士塚横にちゃんと浅間神社があるので、そちらにもお参りし、次に本殿に参拝する。ところで、本殿の横にはいくつも赤い鳥居が連なったお稲荷様もあってこちらもなかなか…。そしてこちらの方も参拝をすませると、別方向にも赤い鳥居が連なっている。降りる道かと思いきや、また別のお稲荷様の神社があり、こちらは屋根まである上に、泉に小さなザルが置いてある。鎌倉の銭洗い弁天のようにお金を洗うと増えるという。そして品川神社の奥には板垣退助夫妻の墓所がある。
2024年05月18日
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京浜急行の新馬場の駅をおりると、大幹線沿いに長い石段が見える。品川神社の石段である。このあたりは武蔵野台地の突端にあたり、こうした傾斜地が多い。高級住宅地として有名な城南五山もそうであるし、品川神社もこうした高台にある。それにしても長い石段…それを上りきると、街の喧騒が嘘のように別世界が広がる。夕方近い時刻なので人も少なく、なおのことそう感じるのだろうか。あたりは神社特有の静謐な雰囲気につつまれているので、こういうのをパワースポットというのだろうか。石段の途中では、半袖半ズボンの観光客らしき欧米人が写真をとっていたが、ありきたりの観光地よりも、こうした普通の神社で日本文化を感じるのもよいと思う。石段途中には富士塚の入り口もあり、そちらは足場がわるそうなので行かなかったのだが、後で調べてみると最大級の富士塚だという。以前行った千駄ヶ谷鳩森神社の富士塚も相当なものであったが、こちらの方もぜひ今度は登ってみたい。品川神社の境内からの眺めはあまりたいしたことはなかったのだが、富士塚からの眺めはなかなかよいらしい。再び駅の方に戻り、新馬場の商店街を歩くと、そこは狭い三階建ての建物が並び、そこはかとなく宿場の雰囲気を残している。解説によれば、公用の場合にはここで馬を替えたので馬場と言う地名がのこったという。なお、商店街がつきたあたりに銭湯があり、ここは関東特有の黒湯温泉である。街歩きの後に温泉というのも贅沢である。
2024年04月29日
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最近、将棋がなにかと話題になっている。そして不思議なのは「観る将」と言って棋士を観るだけのファンもいるらしい。自分はやらないけど観るというのはスポーツなどは大抵がそうで、野球や相撲を観る人のほとんどは自分ではやらないだろう。ただスポーツの場合は自分がやらなくても、観れば凄さは伝わるし、勝敗も細かなルールは別にしてもだいたいはわかる。これに対して将棋は自分がやっていないと指した手のどこが凄いかといったことは分からないのではないか。ただ将棋の棋士を観るだけというのがよくわからない。そのうち下火になるのかもしれないけど。その将棋の聖地といえば将棋会館であるが、その千駄ヶ谷の将棋会館近くには鳩森神社と言う神社がある。ここは、スマホ騒動の前までは、よく休憩中に散策をしている棋士もいたというので、今のような観る将なんてものがあれば、それ目当てのファンも集まっていたかもしれない。そうでなくとも、なにかと将棋に縁のある神社のようでお御籤も将棋の形で将棋の格言が書いてある。手水は色とりどりの花を浮かべた花手水で最近ではこうしたものが人気なのだろうか。衛生的な配慮から手水の水を柄杓で飲むというのは最近では消えていったようだ。鳩森神社は広く見どころもいろいろとありそうなのだが、なんといっても第一の特徴は富士塚ではないかと思う。富士参拝の代わりとなる富士塚はあちこちにあるが、鳩森神社の富士塚は別格のように思う。富士塚の石もどうやら本物の溶岩を使っているようで、結構リアルに富士山の気分を味わえる。その分、足元も悪く、歩きやすい靴が必須なのだが、三合目、五合目といった表示もあり、山頂まで登ると、それらしい祠もある。ただ富士塚に登っただけなのにこの達成感は何なのだろう。東京の真ん中にこうした場所があるのは実に興味深い。外国人観光客にもぜひ教えてあげたいくらいの場所である。
2023年11月14日
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浜松町駅の近くに讃岐小白稲荷神社という小さな神社がある。まず目を引くのが一つの神社なのに鳥居が二つ。鳥居が二つあるのは、もともとは讃岐稲荷と小白稲荷という二つの神社を合祀したものだからだという。もともと二つあった神社を合祀するのは珍しくないのかもしれないが、小さな神社なのに鳥居まで別々と言うのは珍しい。讃岐稲荷というのは高松藩松平家の下屋敷に祀られていたという由来によるのだが、小白稲荷というのはどういう由来なのだろうか。もともとは古川際辺りに御鎮座していたのが、昭和13年の区画整理の際に合祀されたという。コハクと川というと、なんか千と千尋を連想する…。そしてもう一つ目を引くのは讃岐稲荷の狛犬がライオンになっていることだ。狛犬だけではなく出世お獅子台というのもあって、出世の御利益があるらしい。いまさら…なのでそこはスルー。それにしても、獅子といってもどうみてもライオンで昔の人はライオンなんて知っていたのだろうかと思ったが、どうやらこれは新しいものらしい。このライオンは平成24年に寄進されたもので、ライオンは夫婦仲睦まじく先祖代々からの精神を受け継いで子孫を生成育成することから家庭の安泰と所願成就を願うという意味が込められているという。たしかライオンは一夫多妻で、獲物を捕るのは雌だというので、雄の側からすれば結構なのだろう。でも先祖代々からの精神を受け継いでいるかどうかなんてライオンにきかなければわからない。まあ、こまかいことは考えずに、とにかく家庭円満と諸々の願いをこめてお参りをした。そこから国道15号に出て、横浜方面に向かって少し歩くと金杉橋に出る。忠臣蔵をはじめ、時代小説にはよく出てくる橋なのだが、今は真上に首都高速が通っており、小説のイメージはもちろんない。ただ川だけは暗渠になっておらずに、今も流れている。古川であるが、かつては金杉川とよばれていた時期もあったらしい。
2021年03月19日
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茨城県筑波山から遠からぬところに常陸国出雲大社という神社がある。本家の出雲大社そっくりの太いしめ縄がまず目を引く。参拝の方式ももちろん出雲大社と同じ4拍手だ。けれどもこの神社は創建は新しく平成に入ってからであり、おまけに本家の出雲大社は認めていないのだという。山腹にある神社の空気は清浄で、特に祭りの日でもないのに、けっこう参拝の人々でにぎわっていた。普通神社には霊園はおかないものなのだが、神社の先にはペット霊園や樹木葬の墓地もあり、そのお参りがてら神社によるという人も多いのだろうか。樹木葬やペット霊園が神社に関係あるかどうかはわからないが、いずれも今後需要が増えそうな分野である。子供や孫のいない人が増えれば無縁になるのが目に見える墓地よりも樹木葬の方がよいと思うだろうし、一人暮らしでペットが唯一の家族と言う人も増えているだろうから。そして神社の入口にはしゃれたガラス細工の店やレストランもあり、こちらもはやっている様子である。参道途中には見晴らし台もあり、筑波山はみえないが、なかなかの眺望である。空はかすんでいてすでに冬の空とは違う。思えば神社というのは、なにかの機会に創建して、お参りの人が集まるようになって神社になるのだろう。稲荷や八幡の神社は全国無数にあるが、全部が全部、稲荷や八幡の大きな神社から分霊の許可をうけているというわけではないだろう。そういう意味で常陸国出雲大社は平成時代に入ってからできたとはいえ、すでに立派な神社になっているように思う。靖国神社は明治2年であるし、明治神宮はもっと新しい。神社も古いものばかりではない。
2019年02月18日
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愛宕神社に行ってきた。東京タワー周辺は都心とは思えないほど緑豊かで公園が多く、愛宕神社もそんな地域の一角にある。愛宕神社のある愛宕山は山手線内の自然の「山」としては最高峰だというが、周辺に高い建物が多く、眺望はたいしたことはない。ただ境内には池と茶屋があり、ベンチに座っていると、郊外にでもきた気分になる。日差しはまだまだ暑いが、日陰と風の涼しさに秋を実感する。愛宕神社と言えば出世階段が有名である。実は入り口がよくわからなかったので、裏の階段をのぼった。ものごとには表もあれば裏もある。どうせ行くのは裏街道なんちゃって…。さて、下りであるが、出世階段を上からみると相当急でしかも幅が狭い。端の手すりにつかまりながら、後ろ向きに降りるしかなさそうだが、それもかっこわるい。出世の階梯を転げ落ちて…という表現があるが、これが文字通りだと大けがをしそうだ。実は、出世階段を降りている人はほとんどいない。わきにはもっと幅の広い階段があり、場所は確認できなかったが、エレベーターもあるらしい。都会のオアシスとして一度はぜひ行ってみたらと思う。
2018年09月06日
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どこに行っても混んでいるので、こういうときでないとなかなか行けない近場の見どころに行くことにした。まず越谷の大型商業施設のレイクタウンに行ってみる。こういう施設では、よくイベントをやっていて、特段の買い物の予定がなくとも楽しい。ちょうど半崎美子のステージが始まるところで、この歌手の名は知らなかったが、桜の歌はきいたことがある。30歳代後半で全国に知られるようになった遅咲きの歌手だということで、特に、お弁当を作る母の気持ちを歌にした「お弁当ばこのうた~あなたへの手紙」がみんなのうたで放映され、話題になったそうだ。この歌は、失礼だが、歌手本人がお弁当を卒業する子供の母親くらいの年齢になって初めて歌える歌のように思う。聴衆は中年以上の人も多く、イベント終了後のCD販売には長蛇の列ができていた。このレイクタウンそばには、スカイダイビング体験施設という建物があった。そしてその施設には「ロシア料理」という大きな看板もある。スカイダイビングとロシア…関係あるようなないような不思議な取り合わせだ。見学自由とあるので話のタネに入ってみる。密封空間で下から強風を吹き付け、空中に遊泳するというもので、たしかに、スカイダイビングはこんな感じなのかもしれない。インストラクターに体を支えてもらい、空中遊泳するのだが、体重の軽い人や子供などは本当に軽々と浮いている。快適な観覧席から見るだけだったが、もう少し体力とお金があればぜひやってみたいものある。さて、気になるロシア料理であるが、本格的なレストランのようなものはみあたらない。ただ、コーヒーなどをだすスナックコーナーにロシア風のなんとかというのがあるので、ロシア料理というのはこれのことなのだろう。…なんでロシアなんだと思うが、もしかしたらここの施設の関係者の中にロシア出身の方がいてとか、そういう縁なのかもしれない。越谷の後は流山に行く。ここも江戸情緒の残る町並みや新撰組の史跡があることで知られている。一次は流行りのアニメ聖地観光にのろうとして、それらしい作品もあった(流「川」市のローカルアイドルが主人公)が、残念ながらそれほど流行らなかったようだ。ただ町の良さを見直し、発信しようという試みはよい。ここの町の浅間神社には本物の富士山の溶岩岩を使った6メートルの富士塚があり、パワースポットにもなっている。浅間神社に詣でた後、浅間神社があるということはここからも富士山が見えるに違いないと思い立ち、江戸川土手に行ってみる。たしかに富士山がよく見え、ちょうど中腹に夕日が沈んでいく。もうすこし時期をずらせばダイヤモンド富士も見えることだろう。ただ、こんなに天気が良いのに、富士山のところにだけ雲がかかり、上3分の1くらいはすっぽりと雲に覆われている。土手を降りる途中で、立派なカメラを持った男性が子供を連れて。あわてて階段を上ってきたが、もしかして夕焼けと富士を撮ろうとしているのかもしれない。残念ながら富士山頂は雲の中ですよ…。
2018年01月03日
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この間、あの事件のあった富岡八幡宮に行ってみた。清澄白河駅から歩いてすぐなのだが、このあたりは下町風でどことなく懐かしい感じの店が多く、歩いていて楽しい。さほど広い境内ではないのだが、朱塗りの本殿が目につき、華やかで明るい感じの神社である。そしてここもやはり他の神社と同じように清浄な気のようなものもあり、惨劇の跡はいささかも感じさせない。ただ、神社入り口の掲示板にかの事件をわびる貼り紙があったことが唯一事件の痕跡といえば痕跡だろう。みごとな神輿がガラス越しにおいてあるのが見え、その向かいに横綱碑もみえる。宮司一家の殺人事件と神様は別…ということで、地域の人々のよりどころとしての神社はつづいてほしい。富岡八幡のすぐそばには深川不動尊があり、こころなしかこちらの方が人出が多い。そしてまた、この界隈、清澄白河は知る人ぞ知るカフェの町である。最近増殖したチェーン店ではない昔ながらの喫茶店が多い。せっかくここにやってきたので、よさげなカフェに入ってみる。いいねえ…こういう雰囲気。日の短い頃で、外はいつのまにやら夕暮れの景色。青くライトアップされた永代橋を渡って帰途についた。
2017年12月21日
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東京大神宮に行ってきた。いかにも新しそうな名称(なにしろ「東京」)なのだが、やはり創建は明治以降でしかも震災後に場所を移しているという。敷地もさして広くなく、すぐ近くの靖国神社の何分の1かである。ただ伊勢神宮の祭神を祀ったということで、いわゆる神社の格はかなり高い。この神社が他の神社と違うのは参拝者の多いことだろう。それも若い女性が目立つ。それもそのはずこの神宮は縁結びに御利益のある神社として話題だという。パワースポットといわれてみれば、たしかにそんな気が漲っているように思う。女性の人生は夫次第というのは平成の今の時代にもいくらかはあてはまる。一説によると専業主婦の妻に安定した豊かな生活をさせることのできる男性は20代、30代ではいくらもいないという。そんな男の妻の座を射止めるのは宝くじにあたるよりも難関大学、一流企業に入るよりも難しい。参拝する女性達もおのずと真剣になろうというものだろう。
2014年09月20日
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神社は同じような雰囲気だと思っている人がいるかもしれないがそれは違う。神社ほど様々な個性、それぞれの雰囲気のある空間はないのではないか。ただ共通しているのは聖なる空間に漂う気のようなものだけである。もっとも、神社によってはあまりそうしたものを感じないようなところもあるが、それは個人差やそのときどきの気分によるのかもしれない。あまりそうした「気」を感じなかったと思った神社が検索すると「パワースポット」として紹介されていたりもするから。*たまたま茂原市方面に行く用事があったので、本納駅近くの日枝神社に行ってきた。何日か行方不明になっていた高校生がこの神社の社殿で発見されたというので、報道でも取り上げられていたところだ。駅近くといっても町自体が閑静な、というか寂れた感じのところなので、神社周辺にはほとんど人通りがない。周辺に民家があるが、他の地域と同様、高齢化がすすんでいるのか、生活音はほとんど聞こえない。そんな住宅の中の宅地造成地のような一角に祠のような小さな神社があり、日枝神社という石柱はたっているのだが、鳥居は見当たらない。今まで鳥居のない神社というのは一社しかみたことがない。それは北里医科大にあるコッホ神社だけである。コッホ神社はかの北里博士が恩師コッホを敬慕するあまり、その遺髪を「御神体」にして建てた祠であり、鳥居のないのもなんとなくわかる。コッホ神社というのもおそらく北里博士ではなく、世人の命名であろう。こちらの方の日枝神社はれっきとした神社でありながら鳥居のないのはどのようなわけがあるのだろう。石柱をみると建立は昭和63年とある。これは石柱の建立の年なのだろうか、神社の建立の年なのだろうか。後者だとしたら、昭和63年というのはあまりにも新しい。新しくても、古くても、神社のいわれが気になる。鳥居がない…という以外にも、なんとなく不思議な感じのする点は他にもある。それは神社の前に児童遊園があり、なかなか立派な遊具が何点が設置してある。土曜日の午後なのに子供の姿は見えない。少子化のせいなのだろうか。それにしても、団地の周辺ならともかく、こうした一戸建て住宅が数件並ぶ中にこんな児童遊園があるなんて。そう思ってみるせいか、遊具には使いこまれた形跡というのがあまりない。祠の中も除いてみたが、これも珍しい。サッシの窓から陽光が入り、床は普通の住宅の床のようなフローリングになっている。なんか普通の生活空間のような感じで、薄暗い木の床に蜘蛛の巣がはっているというイメージとはほどとおい。そして御神体の鏡ではなく、神像が祀られ、その前にはお供えの餅がおいてある。神社に神像というのも珍しいし、その神像も服など色鮮やかで、そんなに古いもののようにも見えなかった。ちょっと今まで見たこともないような神社であったが、「気」のようなものはたしかに感じることができた。行方不明の後に発見されたという高校生も、神様に守られていたのかもしれない。http://www.chibpo.com/spot218.html
2014年07月06日
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東京の街を歩いていると思いがけないところに小さな神社があることがある。江戸に多いものは稲荷…なんて言葉もあったくらい、昔からあちこちに神社を建て、それが地域の人びとのよりどころになってきたのであろう。韓流でにぎわう新大久保にもこんな小さな神社がある。一つは鉄砲討ちの足軽の信仰を集めた皆中稲荷。そしてもう一つが夫婦木神社である。*新大久保から神楽坂方面に大久保通りを歩くと駐車場がある。その駐車場の手前の小道を曲がると、昭和時代の香りのする住宅街に入る。そんな住宅街に忽然とあらわれる神社が夫婦木神社である。社殿も階段の上であるので敷地もほとんどないのだが、社務所があり、掲示板には神主の言葉が書いてある。さらにユニークなのは普段着の結婚式を行なうと言う案内があることだ。別に結婚式は金をかけて盛大に行う必要はない。普通に神前結婚を行ないたいと言う人もいるのだろうけど、実際にここで普段着の結婚式をやる人ってどのくらいいるのだろう。お参りしたときには、茶色の毛づやのよい猫がまつわりついてきた。ただ人に慣れているだけではなく、体を足にすりつけたりする。もしかしたらこの猫は神様のお遣いかしら…梅雨の合い間の夕焼け時の参拝では、そんなこともふと考えたりもする。小さいけれどもこの夫婦木神社、夫婦和合や縁結びに大変に御利益のある神社だという。http://ameblo.jp/mocchiy7232/entry-11026524246.html
2013年06月18日
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伊豆の南端石廊崎にいってきた。岬にも様々な岬を回って写真などを集めるマニアがいるようだが、確かに岬といっても一様ではない。地形、岩、海…そうしたものの組み合わせでいろいろな景観ができる。石廊崎は灯台からさらに海につきだした突端があり、そこまでいくと、四方を海に囲まれた岩の上にたっているかと思うほどに、海の風景を堪能できる。潮流の速い海域だということで、波による岩の浸食がはげしい。そのため、いくつもの奇岩が海に林立し、洞窟のような窪みがあちこちにある。波の浸食はこれからも続き、何千年、何万年もすれば、この岬もすっかり姿を変えるであろう。*その小さな岬の突端には小さな神社がある。石室神社である。自然の中に人間の力を超えたあるものの存在を感じ、その前に自分の小ささとともに、内省を行なう。もし、宗教の原点がそうしたものであるのなら、ここに神社はよくにあう。いつか人間が宗教を捨てるときがあるとしても、日本にだけは、自然崇拝、自然への畏敬という形で宗教は残っていくのではないか。人間は小さな存在だ。その小さな存在だからこそ、自然の中に活かされているという恵みに感謝しつつ、謙虚に誠実に生きていく必要がある。それを宗教というのならば、たぶん宗教はあった方がよい。*伊豆は廃墟半島ともいうらしい。それくらいにあちこちに廃業したレストランやホテルが目につく。あの東日本震災の後には、津波や地震の不安と自粛ムードがおいうちをかけ、伊豆の市役所の生活保護窓口には行列ができたという。石廊崎にもジャングルパークという大きな廃業したレジャー施設があり、周辺にもいくつか廃業した店舗やレストランがあった。遊覧船は運行していたのだが、客は少なく、ちょっと心配なくらいだ。船の岩巡りも、めったに見られない風景をみるよい機会であるし、おすすめである。輝石安山岩の波浸食による景観…せっかくの観光地がさびれていくのは残念である。**観光振興はそれだけがあるのではない。多くの人が必要な収入、そして余暇があれば、政府が旗を振らなくたって観光旅行をする。非正規労働を増やし、労働基準法違反の過重労働を野放しにし、結婚することも子供をもつこともできない若者を量産してきた結果がこの観光不況なのではないか。連休ともなれば多くの人が訪れ、ジャングルパークには親子の歓声がこだましていた時代も今は昔となった。
2012年11月29日
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高原の上の神社と青い空。ずっと昔に夢でみたような心ひかれる光景である。そんな箱根駒ケ岳の山頂に行ってきた。山といってもロープーウェイが通じているので歩く距離はほんの少しだ。それでも眼下にみえる檜林は低木にかわり、頂上が近くなると草ばかりになっていく。海抜1000メートルを超えるところに2時間もかからずいけるのだから、東京に住んでいるのは本当にありがたい。ロープウェイを降りると、草山の高い所に赤い神社本殿がたっているのがみえる。駒ケ岳山頂付近にある箱根神社である。http://hakonejinja.or.jp/02-contents/02-main/08-keigai-jinja/03-contents/02-motomiya/02-motomiya.html祭神は箱根大神とあり、山そのものを神格化しているのであるが、これもかえってこの神社の古さを想像させる。昔の人は、このあたりの雰囲気に霊妙なものを感じ、それを自然に神としたのだろう。人間をこえた大きなものを感じ、自分の卑小さを実感しするとともに、そこで祈りとともに新たな誓いをたてる。パワースポットといわれるものもそうしたものだろうし、信仰というのもそれでよいじゃない。聖戦だの殉教だの、あげくはテロだのデモだのと…そんな信仰に比べると神社のお参りはなんてhappyなんだろう。よかったよ、本当に、神社のある国に生まれてさ。*山で天気にめぐまれることはあまりない。以前もここにはきたはずなのであるが、印象に残っていないのは霧か小雨の時だったからだろう。今回は天気にも恵まれ、富士山を望むこともできたし、箱根のみならず、小田原の街までも見通すことができた。とはいえ、やはり山の天気はかわりやすい。雲は足元から湧き立つようにあらわれ、あっというまに空を覆い始める。下る頃にはすっかり見通しも悪くなっていたので、時間的にもちょうどよいタイミングだったのだろう。箱根の神様。どうもありがとう。
2012年10月04日
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最近スマホを購入した。インターネットも面白いのだが、それと同じくらい優れモノだと思うのはマップ機能だ。懇親会の会場にたどりつく時やドライブでのナビ代わりなど、ずいぶんと利用している。かえって遠回りになってしまうこともあるのだが、自分の動きがマップ上に表示されるところなど面白い。そして一度やってみたかったタウンサイクリングでの利用もためしてみた。運動をかねての寺社めぐりはときどきやるのだが、話に聞くがまだ行ったことのない牛天神にいってきた。アップダウンの大きい六本木通りからうわさの官邸近くをとおり、お堀にそって九段下、そして神田。そこで白山通りにはいり富坂の上で曲がってようやくについた。思ったよりも小さく、普通の街角にある神社というたたずまいなのであるが、起原は源頼朝の夢に由来するという。夢に現れたという牛石は今でもあり、それをなでると願いがかなうという。今までにどれほど多くの人の願いをきいてきたのだろうか。都心のオアシスのような空間で、昔の人や歴史の流れに思いをはせるのも、また楽しい。世界には様々な宗教施設があるのだが、神社は豪華絢爛さや人の目を引く装飾などで権威を誇示することはない。神社の雰囲気はそれぞれ微妙に違うのだが、簡素な清浄さだけは共通している。そして神社は来る人を拒まない。入口に柵のあるところはまれだし、そうしたところでも外から参拝できるようになっている。以前、職場近くの小さな神社にお参りしていた母子が、参拝後、韓国語で会話していたのを見たことがあるが、世界中、どこから来た人に対しても開かれている。それが神社のよいところだと思う。
2012年08月31日
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日本にはいったいいくつの神社があるのだろう。そうした神社の中でもたぶん一番多いのは稲荷神社だろう。穀物・食物の神を主祭神としているのでたいていは五穀豊穣を祈願するのだが、都市にはそれ以外の御利益の神社もある。出世稲荷神社はあちらこちらにあるし、鉄砲百人組が住んでいたとされる新宿百人町には鉄砲の命中祈願を行ったという皆中稲荷というのもある。また、日本では人が神になることもしばしばあるが、稲荷神社の中には、五穀豊穣の神とともに、人も祭神になっているものもある。有名なのはお岩稲荷であるが、そのほかにも八兵衛稲荷というのもあり、この八兵衛という人は江戸時代失火で迷惑をかけたことを悔いて終生防火に尽くした人だという。そういえばお岩も田宮家の賢夫人(四谷怪談の話は創作)だったというし、稲荷神社に祭られているのは神格化された英雄というよりも、どこか庶民のお手本的人物といった趣のあるのが面白い。*そうした稲荷神社の中にちょっと気になる神社があるので行ってみた。人の名のようにもみえるのだが、どうもよくわからない。日本橋茅場町にある純子稲荷である。http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=575由来は、元和2年(1616年)、町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請したことに始まるという。純子はじゅんこと読み、祭神も豊受媛神(とようけびめ)とならんで純子大神とあるので、純子という人物を祀ったようにもみえる。だが、江戸時代に純子(じゅんこ)などという名前があったのだろうか。人の名は時代とともに変わり、高子とか武彦のようにとても古い時代からあったような名がある反面、真理子とか譲二とかいった近代以前にはありそうもない名もある。純子という名も英語名のJUNEから影響を受けた名で、でてきたのは明治以降のことのように思う。*神社の説明板には、純子の由来も純子大神の詳細も何も書いていない。御利益も、心身健全、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満、芸能成就、往来安全と他の稲荷神社と同様である。大都会の真ん中の小さなお社であるが、入口には赤い鉄柵があり、外からしかお参りできないようになっていること、そして小さなお社に似つかわしくなく、すぐ横には社務所があることも珍しい。それでも境内には何か清々しい気のようなものを感じ、心をこめて参拝してきた。全国の純子さん、そしてその御家族、御友人の皆様にどうか幸いがありますように…。
2012年04月15日
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多摩川堤防のサイクリングコースに行ってきた。後で地図でみたところ東京側よりも神奈川県側の方がコースも長く整備されているようだ。次は橋を渡り神奈川県側をサイクリングしてみたい。ただ、東京側をサイクリングしたおかげで、素敵な場所をみつけることができた。多摩川浅間神社である。石階段をみたときは一瞬躊躇したが、これも縁とばかりに参拝することとした。階段途中に勝海舟の直筆という石碑があり、富士講にちなんだ言葉であるということだ。そして神社の境内からは多摩川の流れを一望でき、わざわざ展望台までしつらえてある。あの神社特有のすがすがしい空気の中でみる景色は絶景…来て良かった。*日本では昔から寺社仏閣めぐりというのは娯楽のうちで大きなウェイトを占めていたが、特に神社は参拝料もなく、開放的なところがよい。もちろん神社はお賽銭以外に金がかからないという点のほかに、以下のようなよい点があり、散歩や旅行の途中で神社をみかけたら、たいていお参りすることとしている。そのよい点とは…神社にはたいてい由緒書があり、それを読んでいると、その土地の歴史や地名の由来などにおもわぬ知識を得る場合がある。人と合う場合などは、そんな知識はかっこうの話のまくらとなり、とても役にたつ。階段をのぼったり、長い境内を歩く場合にはそれが適度な運動となる。浅間神社の勝海舟の直筆石碑もそうだが、神社の中にはいろいろと由緒やいわれのあるものがある場合があり、それも一つの見どころである。思い付く限りでも世田谷の松陰神社の松下村塾の復元模型や新田神社の触れれば健康長寿の御利益があるという御神木など。それに神社は皆同じではない。なんかやはりそれぞれ独特の「気」がある。最近ではパワースポットなんていう言葉が流行っているが、神社の境内に立ち、「気」を感じてみると、やはりなんか心が洗われる様な気がする。以上、神社参拝のよい点をあげたが、もちろんこの上で、御利益があればもっとよい。
2011年07月25日
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たまたま九段下方面に用事があったので、靖国神社に行ってみた。まず入って目につくのは大村益次郎の銅像。長州藩の村医であり、日本陸軍の創始者ともいえる人物である。そこからさきの社殿までが長い。もともとは火除地としての空き地であったものを明治初期に神社の敷地にしたらしい。ようやく社殿につくと、その奥がまた広い。小雨越しに奥の社殿が見え、その先がさらに続いていることで、なんともいえない一種神聖かつ清浄な雰囲気を醸し出している。ずっと昔、やはりなにかのついでに靖国神社に来たことがある。あの頃はもっと境内に人がいて、泣きながら歩いていた老女もいた。今も、老人の参拝者はもちろんいるが、西洋人や中国人などの外国人の姿もけっこう多い。時代は変っている。靖国神社には遊就館という展示施設がある。戦闘機の実物などもあり、そういう方面に関心のある人にもお薦めだが、幕末から太平洋戦争までの歴史関係の展示も充実している。今、「翔ぶが如く」を読んでおり、明治初期の歴史に関心があるが、この時期の太政官政府の最大の懸案はいかにして国民を統合し、政府の支配を受け入れさせる理念や価値観を普及させるかということだったようである。菊は咲く咲く葵は枯れる鳥羽で鉄砲の音がする…なんていう歌があったように、明治維新は、当初は徳川に代わって朝廷が権力を握るものと見られていた。しかし、実態はそうではなく、権力を握り、政府を動かしたのは元の下級武士やさらに家柄の低い出自の秀才達であった。天皇や公家の権威は最大限使うが、それを裏付ける宗教的権威も強化する。そうしたできたのが靖国神社や国家神道であった。だから靖国神社の前身の招魂社ができたのは、明治のごく早い時期である。そして、士族の反乱の鎮圧で命を落とした兵士や巡査を招魂社に祀る件はいちいち政府の懸案事項として太政官により決裁された。恩給などの経済的給付と勲章などの栄誉、そして招魂社(靖国神社)に祀ること…この三点がセットとなって、国家のために時には命も捧げることも強要するほどの富国強兵国家ができていったわけである。明治初期の太政官時代の太政大臣は公家の中でもとびきりの名家出身の三条実美、そしてその下の内閣顧問や右大臣(実質的な権限なし)には島津の殿様を据える。幕府に代わり朝廷が政治を行い、それを統幕に功のあった大名が支えるという形をとる。そしてまた朝廷の支配を正当化するための国家神道の思想も普及させる。明治初期の近代国家はこうして始まった。
2010年04月29日
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桜が満開を迎え、どこの桜を見に行こうか迷う時期である。最近、幕末から維新にかけての歴史に興味があるので、松蔭神社の桜を見に行くことにした。この松蔭神社、もともとは毛利家の下屋敷があったところで、吉田松陰の遺骨を高杉晋作らが密かに葬り、霊を祭ったことに由来するという。したがって境内の一角には松下村塾を復元した建物があり、境内の隣には吉田松陰の墓所もある。※松下村塾は激動の時代に人材を輩出したことで知られるが、復元した建物自体は極めて質素で、これより立派な家に住んでいた豪農はいくらでもいただろう。武士は支配階級といっても、庶民と隔絶した贅沢をしていたわけではない。そしてまた江戸時代は厳しい身分制度の時代などと教科書にはあるが、松下村塾の中には武士階級以外の出自のものもいた。塾の客分の桂小五郎の親は武士ではなかったというし、伊藤博文の親にいたっては貧農だったという。こういうことは、藩なんかによっても違っただろうし、「身分制度は親の敵」なんていう福沢諭吉の言葉にもあるように身分差別の厳しいところもあったかもしれない。でも、藩の武家社会は狭い。そうした中で子供のうちから学問や武芸などを稽古していれば、誰が優秀で誰が駄目かなんてことは、皆が了解していたのではないか。べつに剣術の腕で出世がきまるというわけではないにしても、叩かれて(当時は今の剣道と違い防具もない)わあわあ泣いている子供と歯をくいしばって立ち上がっていく子供では、その資質の差は誰が見たって明らかであろう。一藩の経営にはそれなりの能力も必要で、家老の子は家老、足軽の子は足軽では藩がつぶれる。とまあ、脱線したが松下村塾では身分の差なく塾生がたがいに研鑽に励んだだろうし、それがまた塾のよさだったのだろう。※復元した松下村塾の説明には維新の偉人だけでなく、萩の乱で刑死した前原一誠も含まれていた。歴史の中での勝者だけでなく、いわば敗者も松下村塾の塾生としてきちんと紹介してあるのがなんかうれしい。吉田松陰は前原一誠の人格を激賞していたというが、司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」(現在読書中)では非常に愚かしい人物のように描いている。さて実像はどうなのだろうか。※とまあ、そんなふうに境内の満開の桜をみながら、なんとかく幕末、維新の歴史に思いをはせるのもよい。
2010年04月03日
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以前、靖国参拝問題に関連して日本の総理が、日本では死んだら皆神様になるなんてことを言ったことがあったがそれは違う。日本古来の死者儀礼は基本的には怨霊宣撫であり、神として祀られるのは不幸な死をとげた人物であった。それとは別に、優れた業績を残した先祖を神として祀ったり、傑出した人物を神として祀ることも行われていたが、国家の偉人を大々的に神として祀るようになったのは明治以降ではないのだろうか。東郷神社しかり、乃木神社しかり…。※こうした中で自分の尊敬してやまぬ人を神として祀る日本人がいてもおかしくない。北里柴三郎が恩師であるコッホを祀ったというコッホ神社。以前から話は聞いていたが、新聞に紹介記事が載っていたのをみて、行ってみることとした。北里研究所構内になるというので、一般人はなかなか立ち入れないのかと思っていたがそんなことはない。白金の研究所の門をくぐると守衛室があるのだが、ほとんどフリーパスだ。そしてその守衛室を右にいってすぐのところに小さな日本風の庭園を模した一角(道路からも見える)があり、そこにコッホ神社とコッホ先生お手植の木がある。コッホ神社といっても鳥居のようなものは別にない。もしかして、コッホ神社というのは通称で、北里柴三郎は神社というよりも祀という感覚だったのではないのだろうか。それに今ではコッホ神社ではなく、コッホ・北里神社といい、北里柴三郎も共に祀ってあるのだという。生前の北里なら、コッホ先生と並べるなどなんと畏れ多いと思ったに違いない。※北里柴三郎が師であるコッホを尊敬するのは非常なものがあり、1908年にはコッホを日本に招待して日本三景の案内などもしたそうである。外国人が日本に来ること自体が珍しい時代に、世界史に名を残すほどの学者が何十日間も日本に逗留したというのも特筆すべきことで、コッホの和服を着ている写真なども現存しているという。そしてその日本逗留の際に床屋に頼んで集めておいたコッホの髪を御神体にしたのがコッホ神社だという。今ではその髪は金庫に保存してあって、鏡が御神体になっている。カミがカミだったが、今ではカガミがカミというわけだ。コッホ逝去の報せを聞いて、北里の恩師の死を悼む気持ちは痛切だっただろうが、なにしろ場所は遠く離れたドイツ。葬式や墓参りなど行けるところではない。そこで祀を建てて、お参りするというのはごく自然な気持ちだったように思う。※せっかくきたのでお参りをしておこう。すこし迷ったがやはり2拝2拍手1拝をする。コッホと神道はどうみても関係なさそうだが、こういう細かいところにこだわらないのが日本式だろう。北里研究所は白金の街にある。白金といえば、地名のイメージもあるのか何かとんでもない高級住宅地のようにいわれるが、おじいちゃんやおばあちゃんが経営しているような小さな商店が軒を連ねているいたって庶民的な街という印象である。※※消費税がまた政治課題に浮上している。いつも思うのだが、福祉目的税としての消費税というのは意味があるのだろうか。福祉目的といったってお金に色がついているわけではない。ガソリン課税を道路財源に使うというのならまだわかるのが、大衆課税である消費税を「福祉目的」といってみたところで全く意味がないのではないか。そしてまた現政権がマニュフェストを反故にしながら、「子ども手当」にだけこだわる理由って何なのだろう。それは「子ども手当」が参議院直前に撒く現金だからではないか。いってみれば選挙前のバラマキである。有権者もずいぶんとなめられたものだ。
2010年02月15日
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