心に残る、あの瞬間


とき、私はそれらの出来事を「におい」として記憶する事が多い。もちろん、
においと言っても嗅覚で認識するのではなく、実際には肌で感じる空気の温度
だったり、何となしに聞いていた喧噪だったりするのだが、どういうわけか、
私はそれらの思い出を「におい」として記憶するのだ。
私がもっともお気に入りなのは、朝の「におい」である。太陽によって徐々
に暖められていく空気のにおいが、闇を黄金色に染め上げていく朝日のにおい
が、眠気のせいで靄のかかりだした私の脳にここちよく染みてくる。そんな感
覚が好きなのだ。そしてそれらの感覚は常に、私のいくつかの記憶をよみがえ
らせる。特に3年前のあの朝のことは、必ずといってよいほどに。

 ちょうど今から3年間程前の日本時間朝6時に、ある日本人テニス選手が限
りなく世界のトップに肉薄した。聖地とまで呼ばれる、イギリスはウィンブル
ドンの準決勝という大舞台で、時の世界ランク1位、シュティフィー・グラフ
と互角以上の戦いを見せたのだ。あのまま行けば、勝てるはずだった。しかし、
勝負はロンドンの日没によって唐突に中断される。
 いかなる状況下でも冷静沈着を保つことに関しては他の追随を許さないNH
Kのアナウンサーが、うわずった声で語る。
「日本のテニスファンの夢は、伊達公子の夢は明日に持ち越されます」。
続けて放送される6時のニュースで、女性アナウンサーが話す、「ウィンブ
ルドン準決勝で、日本の伊達公子選手はドイツのグラフ選手と戦い1セットオ
ールとなりましたが、そこで日没のため試合は中断されました」。
「知ってるよ!」
と、声に出して突っ込みを入れる。
 結局、持ち越された夢が叶うことはなかった。しかし、私が釘付けになって
テレビを見たあの時の部屋の景色は、その空間も時間もそっくりそのまま切り
取られ、今も私の中に大切に大切に保管されている。

 先日、シュティフィー・グラフが今シーズン限りのツアーからの引退を表明
した。今年6月のフレンチ・オープンでは世界1位(当時)のヒンギス破って
優勝し、7月のウィンブルドンでは準優勝したばかり。まだまだ余力を残して
の引退表明ではあるが、女子テニス史上最強とまでうたわれた選手の最期とし
ては妥当であろうか。そして、今になってしみじみ思う。父親の脱税や度重な
る怪我に会いながらも、周囲の同情をはねのけ、悲壮感を拒絶し続けた誇り高
き女王が相手だったからこそ、あの日の朝の思い出は、これほどまでに輝かし
いものなのだ……と。(1999年9月)



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