敗れざる者たち


本の作者は、沢木耕太郎氏。昭和47年から51年にかけて、様々な雑誌に掲載したノンフィクションを一冊にまとめたものであり、本人曰く「敗者をして、真に敗れせしめんとして綴った書」とのこと。

 『敗れざる者たち』とのタイトルとは裏腹に、描かれているのは、自分の置かれている環境の中でもがき、あがき、苦しんで苦しみ抜いた末に敗れていったアスリートたちの生身の姿だ。
 “敗者の美学”を主題とした書き物は、これまでにも実に多く世に出回っているし、また恐らくかなりの確立で読むものの心を打ってきたであろうと思われる。ただし、時としてそれらの作品は「敗者には何も与えるな」という勝負事の本質との矛盾を、読者にある種の拒絶感を伴って感じさせてしまう危険性をはらんでいる。あまりに形式張った「敗れし者の哀切物語」は、読者を辟易とさせかねない。
 沢木氏の作品が、単なるパセティックな“敗者の美学礼賛主義”に成り下がらなかったのは、沢木氏の視点が、題材として取り上げた敗者たちと「同じ時代に生き、あがいている者」という点において同じ高さにあり、また彼らを「自分同様に、燃え尽きることのできる瞬間を求めさまよう同朋」として捕らえている点にあるように思う。敗者に必ずといってよいほどにつきまとう人間としての弱さを、自身のそれと重ね合わせ、嫌悪しながらも根底ではいとおしく思っている。そう感じるのだ。

 自分がこの作品を読み、大いに感銘を受けた一番の原因は、おそらく氏のスポーツ選手たちに対する憧憬や畏敬の念、そして時として彼らから哀れみを感じてしまう点などが、私のスポーツ感と似ているからだ。この感情は、燃え尽きることができる瞬間を持っている者、それだけのメンタリティを備えている者への羨望と言い換えても良い。そしてこの想いが恐らく、いにしえから現在にいたるまで普遍的にスポーツを支えてきのだろうと思う。

 またこの本を、書かれてから20年以上たった今現在読んだことにより得られる感慨がある。作品を書きながら氏が思っていたこと、予想していたことと現状とのギャップに、御しきれないほどの悲哀を感じてしまうのだ。
 例えば、この書に納められている作品のひとつに“長嶋茂雄という稀代のスーパースターと同じ時代を生き、同じ職を選択し、さらには同じ球団で同じポジションについたばかりに、日の目を見ることのなかった2人の野球人”の物語がある。この作品は、要約すると以下のような文章で締められている。
「皆が長嶋というヒーローになりたがった。しかし長嶋以外の何人も、その願いを成就することはなかった。そして長嶋自身すら長嶋たり得なくなり、これからはより実人生に近い監督としての道を歩まねばならない。野球人としては長嶋に敗れた2人ではあるが、3人の人生の勝負はまだまだついていない」。
 しかし、我々は知っている。現役を退いてから20年以上たち、監督としてはさしたる業績を残していないにも関わらず、長嶋は今持ってなお“長嶋”であることを。
 また別の作品では“あまりに実直にバッティング道を極めんとほっするあまりに、ついには精神に異常をきたしてしまったバットマン”の半生を描いている。その中で沢木氏は「恐らく日本で4割を打てるとしたら、E(本文中では本人の実名は伏せ、このように表記している)しかいないだろう」という関係者のコメントを載せ、その考えに同調してる。しかし、やはり私たちは知っている。Eが精神に異常をきたしたおよそ20年後、汗くささや泥臭さを一切感じさせない、それでいてどこか求道者然とした鈴木イチローという若者が、限りなく4割に近づいたという事実を。
 沢木氏が敗者に託した夢や、敗者に見いだそうとした可能性は、ことごとく打ち破られている。
 敗者はやはり、敗者だった。
 しかしおそらく沢木氏は、20年前にこの未来を予測できていた気がする。解っていながらも、書かずにはいられなかった。希望を見いださずにはいられなかったのではないか。
 筆者が込めたそのような願いも含めて、2重3重に楽しめた本である。




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