続、向田邦子と台湾旅行




 ささいなことではあるけれど、でも運命的なものを感じる偶然が重なると、嬉しかったりする。
 わたしが先日電車に乗って本を読んでいると、となりに座っている青年もなにやら熱心に、手にした単行本に視線を走らせていた。
 ふと突然、彼が何を読んでいるのか気になった。いちど気になってしまうと、そのことばかりが頭を占領してしまい、自分が読んでいる本の内容など頭に入ってこない。何としても青年の読んでいる本が知りたい。そこでわたしは、顔は自分が手にしている本の方に向け、視線だけをお隣さんの本に向けてみた。
 彼は、その単行本の全体の3分の1あたりを読んでいた。何かその本の正体がわかるような手がかりがないかと紙面上をさがしてみると、ありがたいことに、左ページに肩タイトルが入っている。
「学生アイス」と書いてあった。
ん? 学生アイス? どっかで見たか聞いたかしたぞ。なんだっけかな。かなり最近、この言葉に出会った気がするんだが……。
などと思っていたのたが、突然はたとして、自分が手にしていた本のページを大急ぎでめくってみた。全体の3分の1辺りのページの左肩に「学生アイス」と入っている。そう、びっくりしたことに、わたしと、わたしの隣に座った青年君とは、同じ単行本を読んでいたのだ。
その単行本とは、向田邦子の『父の詫び状』というエッセイ集だ。別記の雑文『台湾飛行機阿鼻叫喚と向田邦子』において「最近わたしが読んでいる」と書いたエッセイ集がこれなのだが、その中に収められている一作が「学生アイス」だったのだ。
それにしても、不思議な気がした。そのエッセー集は20年以上前に出たのもので、その後これといって話題になったわけではない。そもそも向田邦子の作品は、彼女と同じ時代を――昭和という時代を生きた同世代の人たち、もしくは女性に支持されていると言われている。わたしの隣に座っている青年は、平均的向田邦子読者層から大きくかけ離れているようだ。
その青年は、年のころは20歳前後だろうか。なかなか端正な顔立ちで、短く刈り込んだ髪を整髪料で立て、黒いロングコートにグレーのマフラーをしたお洒落な若者だった。まだ全体の3分の1ほどしか読み進めていないこと、書店のブックカバーがかかっていたことなどから推測するに、『父の詫び状』はおそらくここ一週間くらいの間に購入したのだろう。はたしてこの一週間の間に、向田邦子を喚起させる何かがあっただろうか……。考えられるとすれば、『向田邦子追悼シリーズ』と銘うたれた2時間ほどのドラマだ。
この青年は、あのドラマを見て向田邦子の作品を読む気になったのだろうか? だとしたら、なぜ彼は件のドラマを見たのだろう? もしかしたら彼は宮沢りえの大ファンで、彼女が出演するから見たのだろうか? いやいや、ひょっとしたらこの青年はパンク兄ちゃんで、ロッカー・町田町蔵の大ファンだったのかもしれない。だから、町田町蔵改め町田康が出演するあのドラマを見たのかもしれない。
その青年に、よほど真相のほどをたずねてみようかと思ったのだが、もじもじしている間に彼は電車を降りてしまった。
そういえば、この『父の詫び状』にまつわる、ちょっとした偶然といって思い出すことが、もうひとつある。
わたしは先月社員旅行で台湾に言ったのだが、その際に例の単行本を携帯していた。
その旅行初日の夜、ホテルの同室の女の子とバカ話をしながら夜更かしをしていたのだが、そのときこんな話をしたのだった。
会社の同僚の女の子に、ちょっぴり変わた子がいる。その子が、仕事上でちょっとしたトラブルに会ってしまい、急きょ取引相手に伝えなければならない用件ができてしまった。あわて先方の携帯電話にかけてみたが、どうやら留守電に切り替わってしまうらしい。そこで彼女は用件を録音しようと尽力した。「もしもし、○○です。実は、緊急にお伝えしなきゃならないことができたんです。それでお電話したんですけど、留守電になっちゃったんで、とりあえず録音します! えっと、今度、△△に掲載予定だった□□の件なんですが、急遽……」っと、ここでピーッと警告音が鳴り、録音時間が終わってしまった。
彼女はチッと舌打ちをし、再度電話をかけると、心持ち早口にしゃべりだした。「もしもし、○○です。えっと、さっきは緊急の用があったので電話をしたんですが、途中で切れちゃったんで、もう一度お電話しました。用件はさっきのと一緒のことなんですが……」っと、ここでまたタイムリミット。再々度チャレンジしたが結果はかんばしくなかったようだ。
彼女は泣きそうになりながら、上司に訴えた。
「えっと、××さんに急いで伝えなきゃいけないことがあるのに、携帯にかけても留守電になっちゃって、で、留守電に録音しようとしても、最後まで用件が言えない間に切れちゃうんです! こういうときって、やっぱりもっと早口で話すべきなんですか? それとも、何回かに分けて録音したほうがいいんでしょうか?」。
彼女は真剣だ。その剣幕に押されてしどろもどろになりながら、上司は答えた。
「いや、留守電を聞いたら折り返し電話ください、って入れればいいんじゃない」。
とまあ、わたしと同室の女の子は、こんな怪事件を報告しあってひとしきり笑った。
「さて、いい加減に寝ましょうか」ということになって布団にもぐりこみ、わたしは睡眠薬がわりのつもりで例の単行本を読み出したのだが、読み始めてすぐに、以下の様な挿話が登場したのだ。
それは、向田邦子が留守番電話を購入してすぐのことだった。そのころ、留守電は物珍しいアイテムで、それだけに彼女の留守電にはヘンテコな録音がいくつも残されたらしい。わけても白眉だったのが黒柳徹子嬢のそれだった、という。以下、著書に掲載されていた内容を、そのまま記載する。


一分間では用が足りず、再びかけ直してパートⅡまで吹き込む人もあったが、面白かったのは黒柳徹子嬢であった。
「向田さん? 黒柳です」
 はじめにこういわないと、あとが出てこないらしく、早口でこういうと、あとはもっと早口で、こういう機械に向かって電話するのははじめてなので物凄くしゃべりにくいの。感情的にしゃべるのもヘンだし、ニュースみたいにしゃべるのもおかしいし、どうしたらいいか迷ってしまいます、などといっているうちに一分たって切れてしまう。
 つづいて、また、一通話。
「向田さん? 黒柳です」
と同じ調子ではじまって、さっきの続きなんだけれど、一分て早いわねえ。他の人はみんな一分でちゃんと用が足りるのかしら。みなさんすごく頭がいいんですねえ。あたしはダメだわなどといっているうちに一分終了。
 またまた「向田さん? 黒柳です」にはじまって、いまNHKのスタジオの副調整室から掛けてるんだけど、あたしが一方的にしゃべっているもんだから、みんなチャックは気が狂ったんじゃないかみたいな顔であたしの方見てるの。と状況説明でこれも切れてしまった。
 こんな調子で、立て板に水の早口で九通話もしゃべりまくりながら、結局は、用件はあとでジカに話すわねということになったのだが(以下略)


 これを運命的な偶然と言わずしてなんと言おう! わたしはケラケラ笑い出してしまい、ウトウトしていた同室を揺り起こしてムリヤリ読んで聞かせると、また2人してバカ笑いした。
この台湾旅行の帰りの飛行機が揺れに揺れて落ちるんじゃないかとの恐怖を味わい、その際に向田邦子が飛行機事故で命を落としたことを思い出したりしたりもしたし、この『父の詫び状』というエッセイ集は、なにかといろんな偶然を呼び寄せる本だなぁ、などと思いながら、巻末に書いてあった向田邦子のプロフィールを読んで、ギクリとした。彼女の棺となった飛行機は、台湾上空でその最後の瞬間を迎えたと書いてあったからだ。



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