史上最強のアメフト漫画 アイシールド21


 そう言われてから、かなりの歳月が経っている。
 今を遡ること10年ほど前、漫画『スラムダンク』とマイケル・ジョーダン人気があいまってNBA(バスケットボール)ブームが到来し、さらに野茂をはじめとする日本人選手の参入によりMLB(ベースボール)人気が高騰。そうこうして、アメリカ4大スポーツのうち2つまでもが日本を席巻。だったら「次にくるのはアメフトだろう!」と言われたのだ。
 その潮流をうけてだろうか、アメフトを流行らそうという動きは、90年代後半にいくつかみられた(日テレがずいぶんとプッシュしていた。Jリーグ人気にもかげりが見え、ジャイアンツ神話も崩壊しつつある趨勢を憂慮し、もうひとつくらいスポーツのビックカードがほしいと思ったのだろうか)。だが、民衆主体ではないムーブメントは長続きするはずもなく、21世紀を迎えても、極東の島国にアメフトブーム到来の機運は観られなかった。

 ところが、だ。2004年を間近に控えてた今現在、いよいよアメフトブームが到来する兆しが、多少なりとも見え始めている。
 要因のひとつは、ボブ・サップという存在。現在、プロレスに、そして格闘技にと手広く活躍し、角界の常識をことごとく覆し続けている“筋肉の大砲”は実はアメフトで培われたものである……という惹句は、少なからず日本におけるアメフト地位の向上に貢献している。
 そして、もうひとつの要因――それは『アイシールド21』という漫画の存在だ。
 ・・・・大変前置きが長くなったが、ようやく本題にたどり着いた。とにかくこの『アイシールド21(以下アイシー)が、今とてつもなくアツいのである(わたしの中で)!!

 『アイシー』は、集英社発行の週刊少年ジャンプに掲載されている少年漫画。主人公は、気が弱く、そのため“パシリ”として不良少年たちに焼きそばパンなどを買いに走らされていた少年“せな”。そんな彼が、パシリで鍛え上げた超快足(中学生くらいの社会において「運動神経が良い」というのは七難隠すの効果があるので、あまり真実味のない設定といえばそれまでなんだが)を生かし、高校のアメフト部で一躍スターになる!という、かなり王道ど真ん中なストーリーではある。
 少年の成長物語、仲間たちとの友情、努力、そして勝利……と、スポ根漫画(ジャンプ漫画、と換言してもよい)における必須要素をすべて抜群のバランスで配し、それら各要素による相乗効果で作品そのものを上のステージへと昇華させた筆者の腕前は鮮やかだ。だが、わたしがこの作品に触れて真に感動するのは、作品内で“競技者の特権性”として強調され描かれている、2つの力点ゆえ……である。これから述べる2つの力点こそが、この作品を他の王道スポ根漫画と一線を画させているゆえんだと、わたしは思うのだ。
 その力点のひとつは“選択”。スポーツ――特にアメフトやサッカーのようなゴール競技は選択および決断の連続であり、その“選択”という点の連続こそが、勝利へと向かうベクトルを描き出す。ひとつの選択ミスが、一瞬の逡巡が、勝者と敗者を隔てる分水嶺となってしまう、そんな“瞬間”が、わずか1~2時間の試合の中に多々詰まっている。わたし自身は、本格的に競技者として試合に出た経験など無い訳であるが、だからこそなおさら、選手たちの“選択”の瞬間を感じたとき、彼らの特権性を感じずにはいられないのだ。
 よく「勝負事に“たら”“れば”は禁物である」と言われる。しかしこの格言は、「勝負事には“あの時こうしていたら/れば”と、後に悔やまずにはいられない決定的なターニングポイントが存在する」という絶対的真理の上に立脚している。そして、薄い皮膜一枚で隔たれた勝利と敗北の間を、コンマ何秒の選択・決断によって競技者たちは行き来しているという圧倒的な残酷性、非日常感こそが、スポーツの有する魅力だということに『アイシー』を読むことで気づかされるのだ。
 さらに『アイシー』では、主人公の決断・選択という行為を、試合という限られた空間・時間から敷衍し、彼の人生そのものまでに波及させている。「人生を90分に凝縮するとフットボールになる」とはサッカーを愛するものたちの間ではおなじみの格言ではあるが、その格言が意味するところを、『アイシー』は絵とテキストで描き出すことに成功している(もちろん全てが全て成功している訳ではないが)。
 例えば、こんなシーンが存在する。
 主人公、せなが属する“デビルバッツ”は、日本屈指の強豪校と対戦。せなはボールを持って、相手チームのゴール(正しくはタッチライン)に向かい疾走するが、屈強なディフェンダーが行く手に立ちはだかった。快足ではあるが華奢なせなでは、マッチョマンと衝突したらひとたまりもないはず。仲間たちは叫ぶ。「サイドラインに逃げろ!」と。せなも思う。「このまま捕まるよりは、サイドラインに逃げた方がリスクが少ない」――そうしてサイドラインに向けたせなの目に映ったものは、心配そうな表情で佇む“まもり姉ちゃん”(せなの幼馴染で、1つ年上の優等生。せなの保護者的存在であり、これまで幾度と無く、いじめられていたせなを助けてくれた)の姿だった。その瞬間、せなの脳に天啓のごとき声が響く。
「逃げるな!」……と。
 これまでまもり姉ちゃんの庇護のもとで「痛いこと」からことごとく逃げてきたせな。だがアメフトを通じ、自分の可能性、そして“挑戦することの意義”を少しずつ信じられるようになった彼は、そこで初めて「マッチョマンに勝負を挑む」という選択肢もあることに気が付く。左には、リスクと可能性が渾然一体化している険しき道が、そして右には“逃げ”の象徴であるまもり姉ちゃんの姿とタッチラインとが描かれている。たった1コマの構図だけで、筆者は、競技中という永続的に流動していく時間の中のほんの一瞬を切り出し、鮮やかに読者の前に開示してみせることに成功しているのだ。
 結果的に、せなの挑戦は間一髪のところでマッチョマンに阻まれてしまうのだが、安易なチャレンジ礼賛に走らないその抑制力と、それでも仲間に「逃げるより1ヤード稼げたな」という賛辞を語らせる演出力にも好感が持てる。


 さて、先に“2つの力点がある”と書いたが、この作品内におけるもうひとつの力点……それは“選ばれし者しか身を置くことのできない世界”とでもいうべき、本来は不可視な存在である。
 スポーツに限ったことではなく、特定の分野において特化された技術や感性を有する者は、常人には見えない何かを見たり感じたりするようだ。なんともアナクロな例ではあるが、よく陶芸家が、一見よくできたと思われる陶磁器を「ちがーう!」と叫びながら床に叩きつける、あれである。スポーツにおいては、たとえば「打撃の神様」と称される往年の野球人・川上哲治氏(生きながらすでに伝説の域に達しちゃっている)が語った「ボールが止まって見える」や、無頼の大投手・江夏豊の「投げるべきボールの軌道がリリース直前に見える」などの証言(?)も残されている。
 わたしたち“凡人”には、その世界が見えない。見えないがゆえに、見たいと、感じたいと切望する。だからこそわたしたち観衆は、彼ら選ばれし者たちの肉体や視線を媒介とすることにより、特権者のみが立ち入ることを許された世界を垣間見ることを望むのだ。 『アイシー』内で描かれる特権者の世界は、往々にして“光速の世界”と形容される。先にも述べたとおり、主人公のせなは足が異常に速い。そんな彼には、物理的に彼しか立ち入れない、他の何人の介入もゆるさない世界が存在する。そしてその世界が成立しえるのは、光速の世界内で的確な判断を下していける情報処理能力と、判断を下すがいなや行動に移せる肉体的アドバンテージ――思考と肉体との一体感があってこそだ。
 大ゴマ、集中戦、白黒反転などなどの意匠を凝らし、作者は“光速の世界”を描きだす。さらにここで重要な役目を果たすのが、主人公のライバルである。
 光速の世界は、誰からも認識されてしまっては、たちまちその特権性を失ってしまう。光速の世界が特別たりえるのは、凡百の衆人にはその存在に気が付くことすら許されないからである。だから筆者は、やはり一部の“選ばれし者”のみにその存在を語らせる。「あれが、ヤツの世界だ!」と。わたしたちは思う。「そうなんだ!? これがヤツの世界なんだ!」と。

 本来なら共有できるはずもない特別な感覚の、バーチャル体験。“一瞬”という時間的感覚と“光速の世界”という空間認識感覚の高次元の融合! そう、この『アイシールド21』は、肉体的、そして精神的に研鑽に研鑽を重ねた末に一部の人間のみが到達できる世界を、われわれ読者が仮想体験できる作品なのだ。
 作品を描く際に使われているテクニックは、意外なまでにクラシカルだ。主題事態も特別ではない。だが、アメフトという競技の持つスピード感・疾走感の中から、重要な一瞬を切り出し、拡大して読者に展示するその手腕は、恐るべき冴えを見せる。
 それはもしかしたら、この作品の筆者自信が、妥協と判断ミスをゆるされぬ“選択”の中に日々身を置き、そして彼自身が、他者には共感することの許されぬ“世界”を感得できる、希少な存在だからなのかもしれない。(2003年12月27日)

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: