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「人間関係の教え(3) 赦しについて」
マタイの福音書、18章21~35節
ペテロは「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで
赦すべきでしょうか」と言いました(21節)。イエスは、「七度を
七十倍するまで」と言われました(22節)。また、譴責と赦しの関
係について、次のように教えられました。
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めな
さい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して
一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたの
ところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章3、4節)。
譴責して悔い改めれば、赦すのは当然です。しかし、イエスが言
われた「七度を七十倍するまで」、すなわち、どこまでも赦しなさ
いという言葉は、たとえ相手の人が悔い改めなくても、赦さなけれ
ばならないことを私たちに教えています。
一、神に対する罪(23~26節)
このたとえ話の中の「王」は神を、「しもべ」は罪人を、「借金」
は罪を、「借金の免除」は罪の赦しを表しています。
イエスは、このたとえ話を通して、罪は単に人に対するものでは
なく、神に対するものであることを教えられました。あの姦淫と殺
人という大罪を犯したダビデが、「私はあなたに、ただあなたに、
罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」と告白して
いる通りです(詩篇51篇4節)。しかもすべての人は、神の前に
返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者なのです。
二、神から与えられる赦し(27節)
このように罪は、人に対して犯したものであっても、それは人を
通して神に対して犯したものです。そして聖書は「神のほかに、だ
れが罪を赦すことができよう」と教えています(ルカ5章21節)。
ですから私たちは、神が私たちの罪を赦してくださらなければ、人
に謝罪して罪を赦していただいても、それでは本当に罪が赦された
ことにはなりません。
三、人に対する罪(28~34節)
このたとえ話は、神に対する罪を一万タラントの借金に、人に対
する罪を百デナリの借金にたとえており、その比率は、実に六十万
対一です。
このように聖書は、人に対する罪が、どんなに大きくても、神に
対する罪は、それとは比較にならないほど大きなものであることを
私たちにはっきりと教えています。
四、人に対する赦し(35節)
なぜ私たちは、人の罪をどこまでも赦さなければならないのでし
ょうか。私たちが、人の罪を赦すとか赦さないとか言っている間は、
自分が罪を赦す権利を持っているかのように錯覚しているにすぎま
せん。神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者
である私たちは、「赦しについて何の権利もないのです」(R・C
・トレンチ)。言い換えれば、人の罪を赦すとは、人を罪に定める
権利を放棄すること、いや人を罪に定める権利を持つのは神のみで
あり、私たちは、初めから人を罪に定める権利など持っていないこ
とを認めることです。
ですから、私たちが人の罪を譴責するのは、罪を赦さないからで
はなく、その人を悔い改めに導くことによって、その人の罪が赦さ
れることを願うからなのです。
人間関係の教えをまとめてみましょう。
◇謙遜は、まず自分がつまずかず、また人をつまずかせない
ようにするものです。
◇譴責は、まず自分が悔い改め、また人が悔い改めに導かれ
るようにするものです。
◇赦しは、まず自分の罪が赦され、また人の罪を心から赦す
ものです。
この3つは、二人とも神と正しい関係を持つために最善を尽くす
信仰の営みです。そして二人とも神と正しい関係を持つ時、互いの
人間関係も正しくなるのです。
拙著「キリストの生涯の学び」94「人間関係の教え(3)」より転載
