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Supica's room
泡
ある晴れた春の日の昼下がり、表参道のオー・バカナルのテラスでコーヒーを注文した。人懐っこい笑みを浮かべたオールバックの店員は使い古されたカセットテープのような返事をして店の奥へ消えていった。店員と入れ替わりにその奥からは焼きたてのパンの香りが漂ってきた。僕はその香りを丁寧に吸い取ってから視線を明治通りに移した。
昨日まで長く降り続いた雨は上がり、さっぱりとした春の日差しがガラスで彩られたKDDIビルに反射していた。明治通り側の竹下通りの交差点は、毎度のことながら若者たちが犇めき合っていた。彼らは色とりどりの下らないファッションアピールを繰り返しては前からやってくる新たな流行に恐れおののき、それはその青年期に誰しもが持ちうる部分的な未来への投棄を表しているようにも思えた。明治通りに林立するビルを不安げに眺め、同時に仲間と連れ添いながら笑う彼らを見るたびに、僕はこのテラスから非情なるペシミスティックな信号を発信していた。それは誰かに向けたものでもないし、何を意味するのかははっきり言って僕自身にもわかりかねる部分があった。信号は僕の身体を目まぐるしく駆け巡ったあと、矢のようにどこかへ飛び去っていった。
信号が青に変わると、若者達は街に馴染みきれない憂いの表情を漂わせてどこかへ去って行った。少なくとも僕の目にはそのように映った。彼らはどこか果てしなくぎこちなかった。オールバックの店員が先ほどと同じような笑みを浮かべてコーヒーを持って来た。虚ろな色を浮かべたコーヒーに、僕はゆっくりとミルクを注いだ。
僕は再び店員を呼んでオムライスを頼んだ。十分後に皺ひとつ無いオムライスが運ばれてきた。人を殺したことのないオムライスに果たして罪があるのだろうか。皺ひとつ残せないオムライスを僕は許せるだろうか。でも、おいしいことには罪はない。
僕は勘定を払い、時間を忘れた情報が飛び交う竹下通りを抜けてホテルに戻った。ホテルはJR原宿駅から程よい場所に位置し、僕は一人になりたいときによくここを訪れた。今回訪れたのも、部屋の隅に転がっていそうなそんなありふれた理由を携えての事であった。
フロントで鍵を受け取り、僕が十三階のボタンを押すとエレベーターが静寂に包まれたまま動きだし、まるで少しも身体を動かしていなかったように止まった。愛嬌など一切必要ない、と言っているように見えた。エレベーターから降りると、汚れの無いカーペットが敷かれ、煌々と照らされた廊下が果てしなく続いていた。僕はカードをポケットから取り出して機械に通し、鍵の開いた音を確認してドアを開けた。すると、そこにはスーツを着た男が一人立っていた。
男はもったいぶるようにゆっくりとこちらに振り返った。削ぎ落とされたように痩せた頬には不慣れな笑みが引っかかっていた。
「やあ、久し振りだね。君が珍しく散歩に出かけたって言うから、部屋の中で待たせてもらったよ。君が散歩なんて。なあ、どうしたっておかしいじゃないか。とても、とても。」と男は言って、笑みをさらに広げた。僕には口が裂けているようにしか見えないので、とても痛々しかった。
僕が部屋から出ようとすると男は慌てる様子も無く、穏やかな声で僕に語りかけた。
「やあ、やあ。そんなに急いで部屋から出る事はないだろう?いいかい。君の前にはただの男が一人立っているだけだ。別に君の腹を裂くために鉈を持っているわけじゃないし、ましてや脳味噌をちゅーちゅー吸うためのストローさえ持っていない。君は一体何に脅えているんだ。私はそこまでおかしな人間に見えるのか。まあ、若干の誤解は受け入れるがね。」男はそう言って電話を取り、二人分のサンドウィッチとコーヒーを注文した。そして僕の後ろへまわって鍵を閉めた。これでこの鍵はもう開かない、と男は言った。
男は僕を置き去りにして窓辺の肘掛椅子に座った。そのあとで僕にベッドに座るよう手で示した。僕は黙って返答した。
「あなたは一体誰ですか。僕の記憶が正しいとすれば、あなたとは一度も会った事も話した事もないはずです。」と僕は言った。男はそれを聞くと体勢を整えてから、肘をつき、床をじっと見つめた。床の上で複雑で難解な数式を解いているような表情だった。しばらくすると男は口を開いた。
「正しい。君は正しい。確かに私は君と会った事も無いし、話した事もない。さらに言えば、私は君を想像したこともないし、君を淫夢に導いた事もない。だが、それが本当に君にとって私との関連性を否定する証明にはならない。真実ではない。」と男は言って再び背筋を伸ばした。肩にまで自由に伸びた髪が少し揺れた。
「では、僕とあなたの関連性とはなんですか。僕はあなたのための時間は持ってません。」と僕は言った。
「君は根本的に大きく間違っている。」男はすぐに返答した。
「君が私のための時間を持っていないからといって、事が進まないとは限らない。いや、関連性に時間を含む事自体が間違っている。だから君は大きく間違っている。」
男は再び視線を落とし、先ほどの数式の表情を浮かべた。僕はその姿を前にするだけで、男の頭の中からパズルが組み合わされる音が聞こえてきた。男の指は肘掛の上でカタカタと素早く動いていた。僕はそんな男を窓辺に佇むインテリアのように認識してから、後ろへ振り返って鍵を開けた。鍵はすんなりと回った。しかし、ドアノブはすんなりと回ってはくれなかった。それはドアノブが僕に対して示す明確な拒絶だった。僕はドアノブから拒絶されたのだ。再び僕が振り返ると、そこに男はいなかった。そこにはえぐられた空間がぽっかりと穴を開けて何事も無かったかのように漂っていた。カーテンが僅かに揺れる。確認すると窓が少し開いていたが、それは人が通れるような大きさの隙間ではなかった。しかし、それだけが彼が存在したことを示してくれる明確な痕跡のうちの一つだった。男は確かにここにいて、僕より先に部屋に入り、会話を交わして、何も告げずに去っていった。
五分後、ノックの音が部屋に響いた。ソースがたっぷりとかかったサンドウィッチと、大人しくカップに入れられたコーヒーを僕は食べた。
僕はすぐにフロントに電話をかけて、僕が部屋に入る前に男が訪ねてはこなかったかを訊いた。フロントは、――様宛のメッセージはお預かりしていません、と返答した。僕は受話器を戻し、携帯の履歴を確認した。メールがニ件(明らかな迷惑メール一件、友人からのメール一件)があり、着信履歴が一件(同じ友人から一件)あっただけで、アドレス張に入れていないアドレスや電話番号からの履歴は無かった。僕がここにいることを知っているのは、僕の乏しい交友関係の中の限られた数人だけ。ましてや、ここに訪れるのは僕の気分次第であるから、僕がここにいることを知っている者は誰一人としていない。仕方が無いので、僕はもう一度記憶を探ることにした、散歩から帰って来たホテルの部屋に見知らぬ男が立っていることなんて、社会的に見てもそうあることではない。僕は再びフロントに電話をかけ、別の部屋に代えてくれるよう交渉した。そして主人に置き去りにされた二人分のサンドウィッチを残さず食べ、二人分のコーヒーを飲み干した。僕はこれでたった一時間のうちにオムライスとサンドウィッチ二人前とコーヒーを三杯飲んだことになる。おいしさに罪はない。
近くに住んでいる中学高校を共にした旧友を訪ね、卒業アルバムを借りた。旧友は写真から切り取られた一部分的な面影を持っていた。
「君にあげるよ。」と旧友は言った。
「そんなものもう見たくないんだ。中学や高校の頃の思い出なんて、なんでみんな残したがるんだろう。たまに引っ張り出してアルバムを開くと、楽しげなみんなの顔が飛び込んでくる。なんだか俺にとってはそれが偽善の塊のような気がしてならないんだ。学校生活なんてあんなに苦痛で溢れていたのに俺にはそんな嘘で塗り固められた記録なんていらないんだ。借りるなんて言わずに持って言ってくれてかまわない。第一、アルバムは進んでくれないしね。本当に、どうしようもない物だよ。」と、彼は断片的にバラバラと言葉を零した。―今ここに記されているのは僕がその後でそれをまとめたものであって、これを発した旧友はもうどこにもいないのかもしれない。真実は小石のように転がっている―。
僕は再びホテルに戻り、新しい部屋を念入りに確認してからアルバムを開いた。確かに彼が言うとおりに、そこからは何か受け入れ難いにおいが溢れ出ていた。僕は記憶を頼りにあの男の、削げ落ちた頬と、窪んだ瞳と、狂犬的な髪型を持った人間を探した。しかし、そこには僕の記憶の正確さを裏付けるような情報しか載っていなかった。僕は警察を呼ぼうかと思ったが、思い直してやめた。僕の目の前から何もとることなく空間ごと消えてしまった侵入者を警察は真面目に探してくれるだろうか。僕はシャワーを浴び、新しいシャツとジーンズに着替え、ホテルの最上階にあるレストランで軽めの夕食を食べた。窓の向こうでは山手線がオレンジ色に染まり、明治神宮の御神木が長い影を若者達に落とし、彼方では渋谷の灯がゆらめいていた。
僕は部屋に戻るとベッドに寝転がり、また何気なくアルバムを開いた。僕の通っていた学校は男女共学の中高一貫校で、世間的には名門と評される学校だった。その中で僕は串刺しにされた人形のような生活を送っていた。胎盤の中にいた頃から始まった狂信的な両親の教育理念は想像以上に完璧に構成され、僕を柵から解放しようなどという概念はどこにも見当たらなかった。しかし、僕自身もそこから逃れようなどと思ったことは一度としてなかった。むしろ僕は両親からの「純粋な愛情」を求め、受け入れ、昇華していった。世間一般に言われるようなアイデンティティーの喪失や矛盾なども一切感じることなく、僕は不思議なまでに恒久的平和な日々を淡々と送り、概念の世界へ含まれることなく、現実の中で結果を見出してきた。青春期に訪れる、儚い知識が針金のように絡まった外的意識的幇助は僕が思うほどのことでは無かったのだ。僕はピーナッツの殻を剥く。僕はピーナッツの殻をテーブルに打ちつけ、おそろしく丁寧に剥ぎ取り、中から生み出される純粋無垢な結果を必要なまでに貪るだけなのだ。結果、彼らの理念は僕を見事某国立大学入れさせた。僕もその環境にとても満足していた。死に絶える友人の傍で、柔らかな球体の中、僕は身体を丸めていた。しかし、過去に残してきたピーナッツの殻が消え去ることはない。
高校一年の夏、僕は殻の捨て場所を求め、図書館で本を読みあさっていた。そして、そこにはキリコがいた。キリコは僕の隣で同じように本を読みあさった。僕らは午前九時の開館と同時に図書館へ入り、ホームレス禁制の区民席を陣取り―渋谷区中央図書館には余るほどのホームレスが彷徨っている―、鍵を見つけ出すために手当たり次第に本を読み続けた。昼になれば食堂に向かい、それぞれの混じりけの無い新鮮な情報を交換し合った。彼女はいつもテーブルに身を乗り出すようにして話していた。彼女が一度口を開くと、暫くの間僕は食べ続けることになった。彼女は要点をまとめる才能があった。簡潔に、不鮮明な留保をすることもなく、ただ僕のために存在するような文章を組み立てて僕の耳へ流し込んでくれた。僕は彼女の話を聴くのがとても好きだった。きちんと手入れされた彼女の長い髪が揺れる度に、僕の心臓は静かに震えた。彼女の頬をつたう汗もとても魅力的だった。
僕らは異なる目標に向かって、同じ経路を辿りながら恋人以上に知り合った。それは紛れも無く意識の共有だった。キリコが何を考え、行動するかなんて僕には全くわからなかったが、言語を切り捨てた限定的な空間を僕らは共有した。それはまるで泡のようだった。虚無的な空間を含み、ひたすら漂い、儚く消える。しかし、それは僕らにとって生きた証だったような気がする。僕が今送っている人生の残りは、その時のために存在する一部分でしかないのかもしれない。
八月も終わりに近づいたある日、キリコは完全に言葉を捨てた。その年一番の大きな入道雲の下、図書館から借りた本を読もうと僕らはシートに寝転がっていた。明治通りで買ったケバブサンドとスターバックスのモカ・フラペチーノをたいらげ、僕は横なって、本を読まなければならない焦燥感と抑えきれない眠気の中間でぼんやりとまどろんでいた。その横ではいつもと同じように、キリコは本から意識のナイフで真実を剥ぎ取っていた。昼を過ぎると、太陽はより高く上り殺人的な光を僕に突き刺してきた。代々木公園の木々は競うように緑色の鮮やかな葉を広げ、束の間の安息を楽しむ人々はフリスビーやバドミントンをしていた。僕らはそこに含まれていなかった。シートの上に本を防壁のように積み上げて読み耽っていても、誰も気にしたりしないのだ。僕らはいつか僕らの無感覚さに嘆くことも忘れてしまうかもしれない。
「ねえ、私たちって孤独よね。」とキリコは口を開いた。僕はキリコが僕の考えまで剥ぎ取ってしまった気がして、すぐに起き上がった。彼女の目はどこか遠くを見ていたが、それは何かを確実にとらえていた。
「僕らは孤独かもしれないけど、僕は孤独じゃないよ。」と僕は言った。
「それは、私がいるからかしら。それとも、私があるからかしら。」とキリコは言った。キリコは読んでいた本を閉じて脇へおき、こちらに向かって寝転んだ。彼女の長い髪がシートに広がった。
「そんな細かい言葉の違いじゃないよ。君がそのままいてくれるからだ。だから僕らはこの夏の間、乾いた友達と乾いた会話をする事も無く過ごして来られたんじゃないか。今さらそんなつまらないことを言うのはやめてくれよ。」
「じゃあもし今ここで私の頭がそっくり無くなっちゃっても、あなたは何も思わない?腕とか足とかが消えちゃっても、あなたは私の事を私だと思って見てくれるの?ねえ、別にわざと変な事を言ってあなたを困らせたいわけじゃないのよ。でも、こんなことを真面目に聞けるのってあなたしかいないの。乾いた友達とは乾いた笑い声を交換することしかできないの。乾いた笑い声ってね、すっごくすっごく耳に残るのよ。耳にぴったりと貼り付いて取れなくなるの。耳かきでどんなに掻き毟っても取れないの。でも、私はそんな声はもう欲しくないのよ。親とかにこんなことを言うとね、よく分からない理屈をさも当然な理論のように頭の中に刷り込ませてくるのよ。そんなわけの分からない信号から読み取れるのは、お前は間違っている、お前は間違っている、ってことだけ。うんざり。」とキリコは言った。そして、キリコは視線をゆっくりと僕に移し、僕をとらえた。僕の身体はその場ですっかり動けなくなった。
夏の風は僕の身体を通り過ぎ、汗が腕をつたって地面に落ちた。風は恐ろしく冷たく、湿り気の帯びた僕の肌を一瞬にして過去のものに変えた。キリコは僕を見つめている。それは観察に近かった。彼女の目は僕の内側へ入り込み、何かを掬い取っていた。しかしキリコが僕に対して何を欲求しているのかが、僕には全くわからなかった。
僕のはるか上空で濁った雲が群青色の空を次第に浸蝕し、太陽の光は断末魔をあげるように消え去っていった。感覚が鋭いナイフのように研ぎ澄まされていく。僕の感覚はキリコに吸い込まれていった。そして、流れていく感覚の中で、自分の体内が僕をキリコに捧げようと懸命に動き回っていることがわかった。血流がめまぐるしく僕の身体を駆け巡り、眠っている臓器が目覚め、細胞が活発的に分裂を繰り返し、何かに脅えるように肌は収縮していた。
「ねえ、どうなの。私の頭や腕や足がそっくり無くなっちゃったら、私はどうなっちゃうの。もっと言えば、今日の私と明日の私は同じなの。体中の細胞が入れ替わった私は同じなの。坂口安吾の知識をとり入れた私は何も知らなかった頃の私と同じなの。豚の臓器を」
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