すずめ、月へ飛ぶ

すずめ、月へ飛ぶ

殴る女・まりこ


今日は寒くてまるで夏ではないみたいだが、その寒さが私に三年前の怖ろしくも理不尽なある出来事を思い出させるのである。

三年前、私は大好きな人がいた。二日前の日記の彼である。
彼は当時私がアルバイトをしていたレストランの社員だった。そのレストランで知り合ったのが同じバイトで来ていたまりこ(仮名、当時30歳)である。私はまりこに「歳が近いから仲良くしよう」と、六歳も年下なのに同じ枠組みに無理やり入れられていた。
そのまりこ、とても凶暴な性格。お客様に「この籠のお砂糖、あと一つだよ」と言われれば、「一個じゃ足りませんかあ~」とヤンキーのように凄み、また別のお客様に「急いでるんだけど何が早いかなあ」と聞かれれば「そうやって悩んでるうちにさっさと決めれば何でも早いんじゃないですかあ~」と喧嘩を売る。とにかく存在から怖いのである。だから誰も何も言えない。

そんなまりこにある日相談されたのだ、「彼が好き」だと。私と同じ彼である。誰が言えるか、こんな女に。勿論「応援する」などと偽善的なセリフは吐かなかったが、でも絶対応援させられると内心びびっていた。

そして三年前の夏。八月。私は全く気付いていなかったが、男性と仲良く話す私に嫉妬していたおばさんパートによって、恐怖のどん底に突き落とされた。まりこがそのおばさんに「彼が好き」だと相談した時、おばさんは「じゃあ、あの子に気を付けなさい、あの子は男をお取りになるのがとてもお上手ですから」と私の事を彼女に言ったそうなのだ。その瞬間、彼女は「も~う我慢できな~い!てめえ表に出ろよ」と叫び、私にハサミを投げてきたのである。

その場にいた当の彼が、私をかばい、彼女に「ふざけるな!こいつは仕事中なんだ」と叫ぶと逆上したまりこは「へえ~てめえはそうやって男の前ではいい子ぶるんだ」とまるでチンピラ映画さながらの言い回し。仕事中だった為、私の周りには既に二十人位の人だかり。また彼が止めに入ったその瞬間、私はまりこに胸座を掴まれ、嫌というほど壁に叩きつけられたのである。そのまま表に出された私は呆然としながらとにかく、自分は彼を好きではないと嘘の主張を始めた。もうそうする以外ないと思った。

すると彼女は突然バカでかい声で泣き出し、床に泣き崩れながら「あたし、彼の前で…失恋しちゃった~!」と泣き叫び始めた。泣きたいのはこっちである。皆の前、彼の前での屈辱、バイト料は引かれ、お詫びにタダ働きまでした。彼女は泣くだけ泣くと爽やかに帰宅したが、私は皆の好奇と恐怖の目にさらされながら、ひたすら泣くものかと黙々と仕事をしたのである。

誰も口を利いてくれない中、彼が隣に来て、じっと私を見ている。何も言わない。ただ側にいる。しばらくしてから彼が一言、「ああいう事があると皆の雰囲気が悪くなって、皆が迷惑する」と言った。「ごめんなさい」と私は言う。すると彼は小さい声で「お前は悪くないけどな」と言ってまた私の顔をじっと見ていた。ホントに泣きそうだった。

その後、まりこは怒りの矛先をおばさんパートに向け、おばさんが恐怖のどん底に叩き落とされる事になったのだが、私はますます彼が大好きになってしまっていた。

だからこそ今も、どんなお別れのされ方をされても信じているし、幸せでいて欲しいと思ってしまうのである。

爽やかな夏の思い出。
ちなみにまりこに殴られた夜、悔しくて近所の中学校のプールに忍び込み、勝手に泳ぎ、コンタクトを無くした。
夏が来ると思い出す。
夏じゃなくても思い出す。


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